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音楽雑記

トスカニーニ
ベートーヴェン

譜面
芳しきこの若き天才にして初めて成しえた業
ヨーヨ・マ、この若き天才は何処まで歩み進むのであろうか?
突飛ょうしもないこの書き出しは、あまりにも鮮烈なこの2度めのバッハの無伴奏チェロ組曲を聴いて、素直に感じる恐るべき才能の証を見る思いからである。古今この曲の解釈を、チェロという楽器の頂点としてその精神性に重きを置き、バッハの内なる音世界へと向かう表現を主にしている演奏が殆どであった。数々の名演を生んできている。カザルスに始まり、フルニエ、シュタルケル、ロストロ・ポーヴィッチ、トルトゥリエ、マイスキーと暇がない、それぞれが皆素晴しい演奏を繰り広げてきた。如何やその方向性は一つの共通する宇宙を成すべくして成している。少なくともバッハの哲学、その世界の象徴をどの演奏からも感じ取れるものである。ことのほか、その演奏家に於ける人間性の表れ、その人の考え方、この作品に接する姿が一様に神々しくそして厳しい足取りが眼に浮かぶのである。あらゆる演奏家は内なる音宇宙へ向かって、孤高の世界を唯一無二の精神性を持ってこの無伴奏に挑んだに違いない。一世一代の覚悟をもってこの作品に立ち向かった。
このバッハの無伴奏組曲は音楽そのもので神にも近い存在を持っている。彼等があらわした世界はバッハに対しての敬虔なまでに祈るような内なる音宇宙。演奏に於ける哲wや文学も、ましてや宗教や思想や生き方までも、つまりはバッハをより孤高に神格化してきた。
ヨーヨ・マも当然のごとく、この大作曲家の世界の具現化を表しているが、マはこの世界を持ち合わせながらも、外へ外へと向かっているように感じられる。それは個人を越え、この人類の大いなる遺産を21世紀に向けて、無伴奏演奏から初めてのビジョンとして、内なる音宇宙から外なる音宇宙へと解放し開花させたといえる。
この曲の楽譜の発見者でもあるカザルスの名演以来、一世紀が経とうとしている今日、この素晴しい演奏の出現によってこの曲の演奏史ヘ確実に変わることだろう。
・・バッハはすべて自分のために作曲した。なぜなら彼は聴衆を必要としなかったのである。・・このヨーヨ・マの演奏によって初めて聴衆を必要とする時代が到来する。


              天才とは  
 天性の才能に恵まれたこのピアニストは何処まで登り詰めるのだろうか。驚異的なテクニックは以前から解っていたこと。ミハイル・プレトニェフ、まだ若い40才、此処から先、何を求めていくのか。外を見ながらにして、内側の表現は信じられないほどに広く深く在闡アけている。これだけの表現、真摯な姿勢で臨んでいる演奏には頭が下がる思い。何回か演奏を聴いてきて、今ほど素晴しく感じられるのは、自分にとっても大変嬉しいことである。ライブでも、このCDでも完璧な演奏。およそミスというものが、探そうにも探すことのできない人Bもともとがそうだったのが、もっと凄い。


           ベートーヴェン
 真夜中にポリーニのベートーヴェンを聴く。ソナタの31と32。此処にきて始めてベートーヴェンのピアノを耳にした。この曲はエネルギーの集中するのが解る。神経が痙攣するかのように、身体をョかすことが出来なくなっている、硬直して。深くなってきた。何度も聴いているのに同じように感じてしまうのは何故だろう。潜在的に自分がその受け方を形作っているのだろううか。そうではなてだろう。この人以外ではこう感じないのだから。確信てなんだろうか。言葉が見当た轤ネい。ポリーニの演奏にして成せられるものなのだろうか。不変性、言えると思う。


              ヴィーン楽派
 さわやかな朝の目覚めに感謝。昨日かったパンを頂く。おいしい。食のなかにワーグナー、シェーンベルクとRシュトラウス、久々に聴いた。20世紀初頭にゥけてヴィーン楽派の混沌とした時代に次の時代の予調を見い出す。ロマンの息吹を熱い思いで描いたこの人達を強烈に想わせる作品だ。とてつもなく美しく、期待と不安とエロス、皆、混じっている。いつ聴いてもすばらしい。本当にいい曲を創ってくれたものだ。ティボーテのエバ塔Xに捧ぐをかける。フランス絵画を想わせる調べ。現実の絵を見るのではなく想い浮かばせる絵画の群れはドビュシーの光に通じる世界である。浮かぶ、とても心地よい。これはエバンスがすごいんだ。ティボーテからドビュッシーが見えるのはやはり、クラシックのピアニストの存ンを語っている。かなり良い作品。


           リンゴと音楽
 引っ越しした次の日に買ったりんごを初めて食べる。2週間あまり、りんごの君は僕の鑑賞として、この部屋に果実の園を与えてくれた。ありがとう。半分以上腐りかけていた。このまま風化して無くなるのは心もとない。少しでも僕の体内に送ってあげよう。皮の中から多少変化をともなった世界が現われる。.....あっという間に色を変えてきた。ずいぶんと疲れさせたみたい。
 柴田敬一のニューアルバム。最初の印象とだいぶ違う。正直数日で作りあげることが出来たと思っていた音楽。そう思っていた。良く聴いた。内に広がる世界をとこしえから表に出そうと、向かい合う表現。重いけれども美しいものを与える。思っていたよりずうっといいみたい。


                ショパン
 ピリス、彼女の弾くショパンの夜想曲を聴く。非常に理性的に見えるようでありながら、情熱をもってテンポ・ルバートの限界で謳ってくれている。何度聴いてもすばらしい。もう2度との、世界かもしれない。1曲1曲を独立した観点からの想像、内に秘めたる情熱、どこまで行っても爆発しない。それでいて深く強くもある。譜面の中からのものが、彼翌フ指先からは広がりと深さへと結び付く。こんなふうに感じとれる演奏、今までにはなかった。こころもち寂しい、思いが募る。ジョルジュ・サンドへの思い以上に。


           リトル・ブッタ
 比較的早く目が覚める。夕べが早かったからか。珍しく眠かった。そのェだろう。休みというのはのんびりするということを何か初めて知った感じ。今になって此のときに認識するのは不思議。何かで満たされた安心充実のような、後で感じるそののんびりだ。
 久しぶりにリトル・ブッタを聴いている。洋の東西を混入。計り知れない不思議な魅力。アクセプタンス・エンドクレジット、すごい曲である。大河を渡り歩くゆったりとした歩調のなかに悠久の念が大いなる時代を越えて遥か太古の昔が蘇る。自らの姿勢に顔を上げ、目をつむった中に恍惚と淡き光と、冬の日のガラス越しにあたる柔らかな陽の暖かさを。


             ピアソラ
 ピアソラの音に瞬時心を奪われる思い。哀愁と自分の気持ちに、淋しさに乾杯。目の前に常に居ることが有ると這いえない淋しさよ。
 心からの淋しさは、大いなる気持ちの高揚と、深き強き鎖のごとく、輪を重ねる。もっと強くにもっと太く、絶対にとることフ出来ぬものに。死しても外せない程に。
 ピアソラ、本来このタンゴの巨匠は現代音楽の作曲家に通じる作曲法を打ち出した最初で最後の人。タンゴというジャンルを遥かに越えている。それゆえに多くは親しまれなかった。一部のマニアの中で大きく育った。音楽レベルの高さがこの時代には受け入れられなかったものである。コンチネンタルの流れではなく、アルゼンチンとしても、どこか異端者的位置にあったのがピアソラ。絵画に於けるピカソ的存在だ。このクレーメル盤、初めてタンゴとしての醍醐味を味わあせてくれる感じである。こんなに美しいピアソラに出会ったのは少なくても初めての経験である。堪らないほどに胸に突き上げる思い。何処か悲しくなる。曲そのものの美しさをこのヴィオリニスト、サポートのピアノのルバート、心を揺らす。危険な旋律を覚える。


            ローラ&ルグラン
 ニュ#8722;アルバムを聴いた。ローラ・フィジーとルグランとの共演。曲もルグランの作品。理想的な組み合わせ。本当にヴェルヴット・ボイスだ。うまい!ハートフル、心地良くその世界に入り込める。大人の色気の多く漂うような香り、ハスキーボイスが少しも嫌らしくない。聴くということの本当の寛ぎを与えてくれる、そういう気持ちにさせるアルバムである。
 夕べからずうっとシークレット・ガーデンを聴いている。心の中に真直ぐにいつも入ってくる。淋しい曲。憂いの中の美しい瞳、聴くものすべてがそうみえる。左右に広がる心に映す音楽。重く、悲しみと、寂しさをオ出す。虚ろいでその淋しさを自らが欲しがっている。そのなかに浸っていたい、そんな音楽。煙草を吸いながら、我が心の血が体内を駆け巡る。頭に、顔に向かってポーっとする。これは煙のせいじゃない、想いからだと。良く分かている。


変奏
 ミとつの変奏が終わる度に、人生のある一時期を終えたたような気がする。そして、世界の色合いが変わる。
 求めなければ近づく。だから、僕は多くを求めない。そんなことを言ったって人生は短い。


ある貴婦人の肖像
 すごい曲である。これだけ自分のなかに入ってきた音楽は映画としてたぶん、「ある日どこかで」以来だろう。単純であるけど深い。内面の葛藤する様を洗いざらしに表現した、それも美しくせつなく。胸にてをあて、目をつむりながらねゆったりと、舞踏する。たそがれのチェロ、この曲のメロディが変奏的にモティ[フとして最大に流れる。転調していく。このモティーフは非常に日本的な美学と古くからある東洋の響が確実に実を結んだものである。それは、次ぎのある光にすべての結晶をみる。すばらしい転調、これだけ美しく、心を揺らされる曲、多くはない。愛の幻想、キス、愛の面影、とトも美しい。ヴォイチェフ・キラール、この作曲家、二度と忘れない。


ロマンティズム       
何かにうなされて起きるかのように目が覚める。夢を見たわけではない。体に汗をかいている。空は晴れ渡る五月の快晴。
 夕べに聴いたLラールの音楽、すぐに聴き始める。夜と朝のちがいによって感じるものは何か、聴いてみたい。
 自分には、日本人にはねその国のもつ潜在的な日本固有の響が備わっている。不思議だ。短調のメロディ、音階の繋がりはそのまま自分の血へと結び付く。血は自分の心情とは別に血そのものが湧き出でるかのような震えになって感動を呼ぶ。転調のあとに流れるとてつもない大きな響は絶望の淵から立ち上がっていく黎明として奏でられる。明るさを強く、そして切なく。とこしえの中から蘇るかのような恐れを抱いて。だが、この言い表せない美しさはどうしょうもない程、万感胸に迫るものである。そして、恍惚の世界へと心を解放する。限りなく前を向いているロマンティズムである。
 途中のシューベルトは非常にうまく、心の動機付けに平穏を平和的に安定を促している。最初は気付かなった。「愛の面影」にそのシューベルト的響を醸しoしながら、だが、この美しさはそれを遥か越えている。
 何処から来るのか。この胸に迫る熱い涙は。泉のように溢れ出でて、
絶えることがない。体中に震えがきて心を維持していられるかしらん。
こんなに深く懐の限りない音楽は、あまり接した記憶がない。海の深さよりも、山の懐の深さなのか。それとも、心情なのか。


シークレット・ガーデン2
 非常にトラディショナル、アイリッシュ的な響、リズムが増え、旋律の中に東洋のそれと似ている。音階の中に日本的なメロディと思えてしまう響が強く表われている感じがする。
 ヨーロッパの奥地、森と湖というイメージからよりその国の地名やその場所を想い浮かべることになる。
 随分と違った。多くの人が聴くだろうが大きく広がっていくという感じではなさそう。先の見えるマイナーな旋律が心に響くが目の前に在りえる音楽、遠く遥か向こうに眺める響きとヘ異なる。


イルミネーション
 ビジョン2ともいうべきか。リチャード・サウザーの輸入盤を買った。かなり良いアルバム。流れを実質的に、これは彼のオリジナルである。12世紀のヒルデガルド・フォン・ビンゲンの音楽を現代に蘇生した。こういう二人の天才の出会い、神のみの知る…


ジョン・ダンは宗教や哲学の世界を詩という…… 6月25日(火)


ジョン・ダンは宗教や哲学の世界を詩という言葉を用いて感覚の世界で、それら以上にそれらしく表現する。僕は音楽を聴いて音の繋がりから、音階の流れ、音そのものの響きの中に、宗教、哲学を感じいるようである。言葉は身体であり、音yは魂である。だから僕は魂のほうが、身体以上に身近に感じるのかも。それとて、そこに付随するのが、容姿であり、言葉であり、魂ではあるのだけれど。

 モーツァルトのカルテットに始まり、カスキにと、聴いている。カスキで随分時間が止まった。夜の海辺にて。なんてロマンチックなんだろうね。この曲たまらない。精神的に食べられてしまう状態。これだ。これが逆になれば大丈夫。

 カラヤンでシェーンベルクを聴く。僕が望んでいる世界だ。人間の生様を聴く思いだ。官能的な旋律と響きの中にもつ、人間のもつ性と業。曲にまつわる詩の一説がこの標濶ケ楽の要素を高めている。それを除いてもすごい曲だ。なんと美しいのだろうか。
耳から入るそれは、エクスタシーに近い官能を心へと運んでしまう。

 マイケル・ホップの2枚目のアルバムを聴いた。メモリーズ、一見、何気なく聴いてピンとこなかった。あまりにもファースト、ポエットがすごかったから。今はよく聴いている。とても良い。こんなにいいとは思わなかった。メロディ・ラインに独特の光がある。きらめくものでもなく、どこにも強制のない響き。それは過去が繋がっている、経験してきたものとは異なるからだ。まるで空気のように意識することを忘れる。それでいて、音楽のもつ美しさに自らの心の内側をとても美しく見ることのできる音楽。これは誰しもがきっと、そう感じると思うほどに。ゆったりと、朗々と響く。時間を忘れる響き。忘れる以上に意識をしないという、自然なる錯覚を心地良く受け入れる響きである。


 ベートーヴェン 夢へ
 夏の暑さの兆しをミセル光りの渦、澄みきってはいない。暑さはそこにある。夢を見たみたい。広々とした緑の野に小さな野ばらが茂っている。僕の腕を袂を掴む人がいる。草を足で蹴っていた。静かだ。時折風のなびきが足元を通り抜けながら優しく微笑んでいる。

 シューマンのピアノを聴きながら、朱玉の美しいメロディは多くは顔を出さないと思えた。そのなかに忽然と醸し出されたように出現したとき、その響きわたる調べは、目にする美しさを越えてしまうほどに、聴く烽フに至福を与える。


 艶かしさ
 夜の中近東、それも大昔のアラビアの夜。一代絵巻を覧るような響きに。こんな感覚を脳裏に思い浮かべる。シェエラザード。何十年振りに聴く。もう一生聴くことのないと思っていた音楽。
 チェリビダッケに接した。遅い。ほの暗く妖艶。艶かしいほどの危険な響き。出てくる姿は何故か女だけ。潜在的なイメージはこと、女というところに結び付く。こういうリアルな感じ方はこれまでにない。


ヴォイス・オブ・エロス
 ハード・ロマンティックのニューアルバムを聴いた。前作にも増していい出来になっている。聴けば聴くほどに味が出てきている。リズムの多様化、主要旋律のメロディと転調された和音の絡み合いは近未来の異国情緒を感じさせるほど、不思議で魅力ある空間を醸し出してい驕B旋律の中に、恋よりも甘い、溶けるように甘い音色が身も心も包みこんでくれる。その流れの美しさはこのグループのセンスの良さを思う存分に特徴づけているし、ジャージーでアダルト・コンテンポラリーな響きがこの上なく印象的である。熱いロマンスを垣間見るかのように、梛zえて淡い光景が浮かび上がる。まるでソフト・フォーカスの中に写ったひとを、微笑みをもって眺めるかのような柔らかいまなざしで漂う。クール・アンビエントの美しさがたまらない。

 モーツァルト
 モーツァルトの音楽はどの曲を聴いても美しく、それは晩秋から冬に見る真青な空のように高く透明である。モーツァルトもこの時期の空の色もまた、湖底が見えるように澄んでいて、とても哀しい。淋しいのではない。でも涙はでない。どうしてなのだろうか?それが不思議である。

 イサオ・ササキこの曲解逅
 この人の音楽を初めて聴いてからもう15年くらい経つだろうか。レコードで同じものを持っている。そのとき聴いた印象も覚えている。
今改めて聴いてみると、とても新鮮である。そのときはとても衝撃的であった。柴田敬一、熱田公紀と言った人たちが日本のニューエイジ・ミュージックの分野に顔を出し始めたころであった。このイサオ・ササキもジャズの世界から出てきた人で有りながら、ニューエイジをやっていた。
 昨今ヒーリングという言葉がよく使われる。今こうやって聴き直してみると、すでにこのての音楽は確立されているではな「か。そう思ってしまう。今あるヒーリングと呼ばれるもののほうが返って、俗っぽいものが目立つ。名ばかりである。透明な夜の光りに照らされた砂漠を見るような異国情緒を以前感じたのを、今聴いていて思い出す。また時折、白夜に雪の深く積もった森の中を歩いているような響きも耳に入ってくる。曲のタイトルと随分違って聴いたのも思い出した。いま聴いても、何故か同じような印象を受けるのはどうしてだろうか。
 僕はこのアルバムはかなり良いと思う。メロディの繋がりも響きも和音もその音階も好きである。つまりは15年も前に聴いている。
今の自分の好みはあまり変化をきたしていないことになるのか。むしろ今のほうがぴったりと感じる。そもそもがこういう曲調を好んでいるのだけれど。好みの音楽を考えてみると、僕の場合、ジャンルを問わず何かしら同一線上に共通する響きの世界があることを発見できるBそれも音階的に短調なメロディが一つの基調であることも一致している。もっと細かくみれば響きの余韻が、中間的な淡系色の色合いをほのかに織り混ぜているものを好んでいるような気がする。

フルトヴェングラー
 ブラームスを聴いた。第4シンフォニー、ウイス・バーデンのコンサートである。どこを聴いても演奏に不思議な生々しさがある。ライブだからということとは、何の関係もないだろう。ごく単純に統一的に、この曲が一つの生きた劇として生きた抒情として、生きた運命として生きた観念として、全面的に生きられて迫チてくる。つまりはこちらに歩いてくる。
 フルトヴェングラーの指揮したものには、その作曲家の中に封じ込められていた情念や観念が生き返ってきこえてくるように感じるのである。少なくとも僕はそう感じた。それを言葉に直すのは、聴き手である聴衆にかせられた大事な作業ネのかもしれない。

 音楽の響き
 「音楽は存在ではなく生起するもの、響きは音楽ではなく音楽が響きを作り出す」こう言ったのは他ならぬチェリビダッケである。その通りであろうと僕も思う。とても解りやすい表現である。非常に東洋的であり禅の思zに近い考え方であると思える。

 ブーレーズのマーラーの9番
 現実との告別をこれだけ明るいコントラストをもって接した演奏には未だ巡り会っていない。テンポの速さも少しは関係しているのかもしれないが、こと彼岸から至岸への橋渡のようなものをどこか希望をもって繋いでいる響きを持っている。特に4楽章に於けるその見解は生死の涯にある一つの浄化を確実に現世の中に見ているようで、何か不思議な感じを抱かせる。オケの機能性をフルに生かした明晰な演奏であると思われる。


ラトルのマーラー9番
 伝説的なまでの名演と言われた、1993年のウィーン・フィルとのデビュー演奏会がこのマーラーの第9番である。
 このライブはこの指揮者の才能の傍らを世界最高峰のオーケストラと対になってこの作品に取り組んでいる。
 何処をとっても素晴しい感動を与えてくれるその響きに、暫しマーラーの世界観に聴く人の心情が反映され、独特の心地良さを感じることだろう。彼岸から至岸へ1楽章から4楽章までのことの運びは厭世を越えて次世代への繋がりを感じさせる安心感を持っている。
 このディスクに収まった録音状態は入力が低く、弦と管、オーケストラのバランスに配慮が欠けたように感じられるのがとても残念である。実際にこのコンサートを聴いた人はきっと比べられない程の感動を受けたはずであろう。そういう悪環境の中でも、ほんのエッセンスを聴いただけでも、物凄い演奏で有ることが解ってしまうのが今のラトルのレベルの高さなのである。


マーラーに言えるアダージョの意味合い
 マーラーほどアダージョに多くの意味合いを持たせた作曲家はいないだろう。あらゆるアダージョが特別のウエイトを示している。
 現実と非現実との分け隔てをこれほど如実に語っている音楽も他に見当たらない。キべてに昇華とそれを乗り越えてきた帰依がある。
 もともと帰依は終始の隔たりがない。そもそも初めから在るのだから昇華と帰依が一緒に存在しているのは、当然なのかも知れない。
 1番に於けるアダージョ、つまりは葬送行進曲は次にあるフィナーレの為に存在する。あまりここでは大きな意味合いを持たせていない。
 2番に於ては黎明を見るかのように、光りある存在として「復活」が予期されるべきして音楽が流れている。そこが1番とは趣が異なっている。ここからが本来のアダージョとして呼ぶにふさわしく、帰依と云う由縁である。そのことは3番に於てはもっと大きな存在である。これが命であると思えてしまうほどに其処に君臣している。そしてあまりにも美しい。この美しさによって彼岸と至岸の受け渡しを可能にしたのである。アの曲になって初めてこの言葉が使えるのだ。4番もまた実に深い意味合いを成している。3番同様に続いているのだがこの4番が有って3番に結び付いているように感じられる。逆になっているのが本来と感じてしまうのは何故なのだろうか。
 5番に至っては現実の世界の全てを越えて、天国のような美しさを醸し出している。この世のものとは思えないほどに響きわたる荘厳なまでの厚い重なりは怒涛のように音楽の雲海を造り出している。その上に横たわりビロードのようにすべすべとした、それでいて少しばかりの冷たさエじさせる響きが一種独特の緊張感を持っている。そこがどうしょうもないほどに美しいのである。それは6番にも繋がっている。そのことは聴けば一兆歴然であることが解る筈である。3番と4番、5番と6番と一つに括ることが可能である。


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