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M・ヴォスクレセンスキィ、その人と芸術



一般にミハイル・ヴォスクレセンスキィというピアニストの名はあまり知られていないと思われるのが正直なところである。それは彼が演奏家としてよりも、どちらかというと優れた教育者として、またオボーリン門下の正統ロシア・ピアニズムの継承者として認知されてきたと思われるからである。それはここ数年来桐朋学園の客員教授を務める傍ら、東京芸大をはじめ日本の音楽大学に於ての公開、非公開レッスンをしてきたことにあり、その実践的音楽教育の立場から多くの実績を残している。また本国ロシアではモスクワ音学院の教授を務め、95年の第一回スクリャービン国際ピアノ・コンクールの審査委員長もつとめている。  

ピアニストとして実際に彼の名を耳にするようになったのはここ最近のことで、今までCDとして発売されたスクリャービンのソナタ全集やチャイコフスキーの「四季」をはじめ、シューベルト、ブラームス、そしてショパンの作品などが世に出てからの事である。  

今回収録されたこのスクリャービンのエチュード全集は98年の録音のもので、今までとはこころもち演奏スタイルが違ってきている。この人特有のどっしりと腰の坐った音楽構築はそのままではあるが、その基盤の源に歌心を通わせた「詩」の多い、良い意味での円熟味の増した演奏になっている。それでいて余分な感情の露呈をできるだけ切り放し、芯となる音楽のみを音楽芸術として具現化しているようで、この相反する感慨は一度聴いたらというものではなく、何度も聴くことによってよりその旨みを深みとして感じ取ることができるものに変わってきている。それはパッションやインスピレーションを誇示し求めて表現する音楽とは、全くといっていいほど意を別にしているからであり、蓄積による確固たる様式感覚が驚くほどに身についているからかも知れない。そこが他の演奏家と一線を画すピアニストといえる由縁のように思われる。また収録も作曲年代順になっており、初期から後期に到るスクリャービンの作曲技法を知る上でも、その変化していく様を解り易く説明をつけるかのようにヴォスクレセンスキィはその息吹を確実に表現している。精緻なまでに知的な探求心がスクリャービンの音楽をより造詣深く裏付けているし、初期を代表する作品2や作品8に見られるロマン派の香りを漂わせた旋律の比重から、後期の作品65に到る神秘主義的世界の反映を変革する音として高度なテクニックをもって表現しているのも聴き逃せない。そういう意味からもこのアルバムの存在はこの曲のスタンダードとして重要な位置付けを示したのである。

ヴォスクレセンスキィは1935年ウクライナのクリミア半島南端セヴァストポリに生まれた。ベルジャンスクの児童音楽学校、モスクワのイッポリトフ=イワノフ音楽記念音楽学校を経て、1953年18歳からモスクワ音学院でY・ミルシュティンとレフ・オボーリンに師事している。この偉大なピアニストであり、教育者であったオボーリンとの出会いが彼の音楽形成に多大な影響を与えている。その間シューマン、エネスコなどの国際コンクールに入賞し、62年のヴァン・クライバーン・コンクールで3位とたて続けに受賞している。このコンクールの直後に起きたKGBとの軋轢による15年の国外演奏権の剥奪。このことが彼の人生にとっての分岐点になったようであり、それゆえに自己の音楽向上の研鑽に専念し多くのレパートリーを増やしながら国内に於て演奏活動をし続けた。ベートーヴェンのソナタ全曲演奏やショパンの全作品の演奏会なども行ない、63年から恩師オボーリンの招きで母校モスクワ音学院の教授となり、現在に至っている。教育者としての才覚を発揮し素晴しいピアニスト達を世に送り出している。かのA・ギンジンもその一人である。  

「スクリャービン/練習曲全集」作品2、8、42、49、56、65                 スクリャービン音楽の最も美しい世界  

スクリャービン(1872ー1915)は20世紀初頭のロシアに在って、神秘思想に染まった特異な音楽理念と前衛的な和声語法とによってきわめて個性的な作曲家として知られているが、初期の作品にはショパンに多くの影響を受け「ロシアのショパン」と言われるほどその作風が特徴である。作品番号が付けられていない「二短調のカノン」(1883年11歳)から晩年の作品74の「5つの前奏曲」(1914年42歳)と数多くのピアノ作品を書いている。  

その響きから伝わる音楽は一種冷たい印象を抱かせ、常に青白い炎が燃えたぎっているように思える。その神秘的な響きと独特な旋律の中に光る香り高い美しさは、他のどの作曲家からも聴くことの出来ない魅力的な世界を醸し出している。また自作のプログラムによる演奏会を生涯開き続けるほどの優れたピアニストでもあった。スクリャービンはいわゆるヴィルトーゾ型のピアニストではなく、絶妙な音色と研ぎ澄まされた響きを重視したショパンのような傾向にあった。その後リストやドビュッシーの影響も受けているが、その彼が独自の神秘思想を表現するようになったのは、1908年から10年にかけて過ごしたブリュッセルの時期に「神智学」に強く影響されたといわれている。

思うにスクリャービンの神秘主義とは自分自身の哲学的、音楽的思想の頂点へと結び付く、その未完の芸術全体に及ぶ在り方を示した思想的な反映で有ったものだろうと推測される。このことはプロメテウスの作品やピアノ・ソナタ第6番あたりから強く打ち出されている。生涯の作品の大半がピアノ音楽に集約されているなかで、この時期(1910年頃)を境にスクリャービンの音楽は大きな変化を遂げている。それは最晩年にまで至り、それ以降の現代音楽の無調性への発展性を考える上で、究めて重要な位置付けを形創った作曲家といえるのである。    

3つの小品 作品2より練習曲(1886)  
わずか14歳で作曲家としての未来を拓いた画期的な作品で、幅広い音域に渡ってロシア的な深い情感を醸し出した美しい曲。  

12の練習曲 作品8  (1894-95)  
この作品8の練習曲は、1892年モスクワ音学院の卒業を期に、本格的に作曲家としての道を歩み始めた最初の作品であり、高度な技巧を用いながらも豊かな即興性と詩的なニュアンスを注ぎこんだ作品で、スクリャービン特有の美しい音の世界が繰り広げられている。  
第1番 嬰ハ長調 途切れることなく続く和音の音型がさざ波のように響き、旋律の匂が伝わってくるような曲。  
第2番 嬰へ短調 叙情的でありながら辛辣なそのリズムと旋律の美しさの光る白眉的な作品。  
第3番 ロ短調 右手と左手とが互い違いになるオクターブの旋律が荒れ狂うように不安定な波動を表していく。  
第4番 ロ長調 絶妙な音たちが柔らかく触れ合うその響きは、まるでドビュッシーのアラベスクのような繊細さを持ち、淡い世界を創りだしている。  第5番 ホ長調 自由なオクターブのエチュードで軽やかにしなやかなメロディが音の粒立ちとして戯れているような曲。  
第6番 イ長調 右手の旋律が何度も円弧を描くように奏でられ、ショパンの練習曲に何処か似ている作品。  
第7番 変ロ短調 明らかにショパンの練習曲op25の4を思い浮かべるような旋律で、暗く混沌としているさまがリズムの交錯する影に見え隠れしているのがわかる。  
第8番 変イ長調 実らぬ初恋の人ナタリアを想って書いた叙情的な作品で、豊かな旋律と陰影の深い独特の響きはスクリャービンが書いた全作品の中でも最も美しい曲である。  
第9番 嬰ハ短調 初期の作品の中にあって唯一後期のスクリャビンの顔を覗かせるドラマティックな作品で、躍動する命の凱歌を聴くような大曲の重さを感じさせる。  
第10番 変ニ長調 鍵盤の上を休みなく動き回る小悪魔のような印象を受ける作品で、難度性を要求される曲である。  
第11番 変ロ短調 実に叙情的な曲でより深遠で情熱的な世界を表出している。青白い炎とその冷たいまでの響きは聴くものを虜にする魅力を備えている。  
第12番 嬰ニ短調 壮絶なまでの感情表現とダイナミックな演奏効果の光る作品で、その劇的な音楽の中にも美しく燃えたぎる響きが香りを放つ。スクリャービンだけに在る独特の世界であり、彼が最も好んで演奏したものである。    
8つの練習曲 作品42 (1903)   
この練習曲の書かれた1902年から3年はスクリャービンの生涯で 最も多くの作曲をした時期であり、変革の最初の一歩を踏み出した時期でもある。この8曲の練習曲は様々なテクニックを目指すものではなく、むしろ様々なリズムとそれが生みだす音響効果を目指すものに変わってきている。  
第1番 変ニ長調 この曲は音としての情景描写を現わした作品で、梢が微風にそよぎ、嵐に波狂うような響きが感じられる。  
第2番 嬰へ短調 複雑なリズムをもち、瞑想的な旋律の中にショパンのソナタやエチュードが顔を覗かせる。  
第3番 嬰へ長調 急速なトリルが両手の間を行き来する曲。  
第4番 嬰へ長調 実に美しい曲で穏やかに夢見るような世界がたまらない。スクリャービンの独断場である。  
第5番 嬰ハ短調 暗い情熱をもった豊かな旋律と陰影深い響きは壮麗な演奏効果のあるドラマをつくりあげている。  
第6番 変ニ長調 左手の重く厚い音と、熱い情感を湛えた旋律が実に旨く組み込まれた美しい作品。  
第7番 へ短調 鍵盤上を両手が駆けめぐりながら叙情的な旋律を歌い上げる実に難しい曲である。  
第8番 変ホ長調 巧妙なリズムと柔和な旋律が、まるで大気のなかに舞い上がっていくような響きをもち、終曲にふさわしい音響の綾を生んでいる。   
3つの小品 作品49より練習曲(1905)   
茶目っ気たっぷりの妖精が小躍りをするかのような曲。   
4つの小品 作品56より練習曲(1906)   
アメリカ旅行中に作曲され、「法悦の詩」作品54の楽想が顔を覗かせる。左手の軽い和声と右手の急速なリズムが踊るようだ。   

3つの練習曲 作品65 (1912)   
この作品を書いたころはすでに第一級の現代音楽作曲家としてその名をヨーロッパに至るまで知れ渡っていた時期である。この頃からロシア象徴主義の詩人たちと友好をもち、次第に神秘主義的な音楽を確立し始める。「世間は一体何と言うだろう?」とスクリャー ビン自身が自負したほどに、これは革新的な作品である。  

第1番 アレグロ・ファンタスティコ。もはや記号などをもたないこの作品を、彼は「何と自堕落な!」と呼んでいる。「こよなく甘く、けだるさを持って」と記された中間部に救いを見る。  
第2番 アレグレット。この叙情的なエチュードについて彼は「神の御加護を完全に失う」と言っている。それは余りにも官能的な美しさで有ったからかも知れない。  
第3番 モルト・ヴィヴァーチェ。「恐怖のおののき!」とスクリャービンが呼んだこの曲は、オクターブの練習曲であり鋭利で強い曲に仕上がっている。                  99 F・K                                   



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