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今日は七夕、そしてマーラーの誕生日^^


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雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず牽牛も彼女に会うことができない。そういう時には、二人を哀れんでどこからか無数のカササギがやってきて、天の川に自分の体で橋をかけてくれるという。星の逢いびきであることから、七夕には星あいと云われるようです。

Mahler

今ではコンサートの人気プログラムとして、その交響曲がすっかり定着した感のあるオーストリアの作曲家、最後のロマン派を代表する大作曲家グスタフ・マーラー(作曲家/指揮者。1860年7月7日~1911年5月18日)は1860年の7月7日に生まれました。

4歳でアコーディオンを巧みに演奏し、10歳でイーグラウ市での最初のピアノ独奏会を行い、 15歳でウィーン楽友協会音楽院に入学し、16,17歳で演奏解釈賞と作曲賞を受け、17歳でアントン・ブルックナーの対位法の講義を受け、2人の間に深い交際が始まったのもこの頃からです。この頃からマーラーの人生は一気に変わって行きます。作曲も然ることながら、指揮者として確立していくようになります。ブタペストからハンブルグ、そしてウィーン・フィル(37歳)の指揮者になり、49歳でニューヨーク・フィルの指揮者になりました。その間に作曲された数々の交響曲や声楽、室内器楽が生まれました。

生前のマーラーは、作曲家としてよりもオペラ指揮者として評価されていました。ウィーン音楽院を卒業してすぐに、ヨーロッパ各地の歌劇場の指揮者として活躍。1897年には37歳の若さで、ヨーロッパ音楽界で最高の地位とも言えるウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)の音楽監督に就任。このポストに10年間とどまり、ウィーンのオペラ上演史上の黄金期を築いたのです。
多忙な指揮者・マーラーにとって、作曲は「副業」でした。彼の作曲活動は、指揮者としての活動がオフ・シーズンとなる夏の休暇に、避暑地の別荘で行われました。夏休みはそこにこもって曲を書き、都会に戻ってから指揮活動の合間をぬって曲を練り上げ、清書する、というのが常だったのです。
ここでブルックナーとマーラーの作品が演奏されるスタイルについて少し述べてみます。ブルックナーの楽譜には指示命令的な符号は少ないのに、比較的演奏形体は同一形で似たようなスタイルで演奏されることが多いのです。ところがマーラーの譜面には事細かく、あれこれと指示命令がかなり多く記入されているにも拘らず、殆どの演奏形体は別なスタイルをとっていることが多いのも不思議な事実です。演奏史、七不思議の一つです。

また戻りましょう。彼は、友人への手紙の中で「自分は本来作曲家を志していたにも関わらず、作曲では認められなかったから指揮者になった」と書いています。「音楽院卒業時に(作曲賞の)ベートーヴェン賞”を受賞していたら、自分の人生は違う方向に進めたのに」とも述べています。このことからも、彼の「本望」は、あくまで作曲家になることだったと思われます。でもこの時期、時代の寵児をいち早く、これが次世代の兆候だと耳を傾けた人たちがいました。それが新ヴィーン楽派と呼ばれる、アルバン・ベルク、アーノルド・シェ-ンベルク、アントン・ウェーベルンでした。近現代音楽の幕開けはこうして創られていきました。その最大の先駆者はマーラーだったのです。臨終最後の言葉は「モーツァルト」だったようです。
たぶんにモーツァルトの音楽も、ウィーンの聴衆たちは自分が心底音楽に感動することを敬遠しました。根底を揺り動かされることを恐れたのです。この感動、心を揺さぶられることをハイドンもサルエリも同じように指摘しています。だから素晴らしいのだと.....
今日はここまでにします。紙面がいくら有ってもたりなさそうです^^


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