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バッハの無伴奏作品を聴いて



そんな中、フローリン・パウルの演奏するバッハの無伴奏Vnを聴いた。朗々と古今350年の歴史を垣間見、今に伝わる響きが明け方の静間に奏く。様々な演奏でこの曲は聴いてきたけれど、パウルの演奏のような音楽は他に比較するべく演奏が見当たらない。もの凄く聴きやすいのである。普遍性溢れた現代の名演だと思う。そもそもバッハの無伴奏という曲は、ヴァイオリンもチェロも不思議とこれ1枚という範疇に納まりきらない作品である。たぶん生演奏にも当てはまるのではないかと思えてくる。クレーメルやシェリングのような透徹した明晰な解釈と、知的深遠で楽譜に忠実、そしてあらゆる感動を齎す演奏もあれば、シゲティの生命の沸き出でる躍動の真実・永劫。普遍性とともに「在る絶対」というものが確立された演奏。今日小生の聴いてきた演奏史の中でシゲティ以上に揺さぶられた演奏には巡り会っていない。クイケンも前者にあたるが、古楽器によるピッチの低さが聴衆を流麗で静人に導く。

また無伴奏チェロ作品も、フルニエのように柔らかい響きで気品高く淑やかで、広大無辺の孤高の境地を謳歌している。地の底から沸き出でる響きというのではなく、天上からのチェロの響きが舞い降りてくるという包み込む優しさを持った演奏だ。ある種、神の音楽ととも聴ける。こういう演奏をしている、出来た人はフルニエだけだと思う。
ロストロポービィッチも、たぶん20世紀最後の巨匠による無伴奏チェロ全曲だが、ロストロはバッハのこの大曲を晩年になって初めて録音した。それだけこの曲が難しく孤高の境地に至って初めて触れることが出来る神のものと考えていたのだろうと予想する。もちろんフルニエも同じだが、古今の巨匠たちに共通する世界観は、バッハに対しての畏敬の念と敬虔なる神への祈りというものが感じられることだと思う。ロストロは自身の晩年にその想いをバッハに捧げたのだろうと思われる演奏に聴こえてくる。比較的最近のものでは、ヨーヨ・マの演奏したものが中々良いと思う。流れるような淀みのない響きには、300年以上の歴史を僅か扉一枚向こうに近づける。つまり此処にある、いるという演奏を彼は眼前に彷彿させる。バッハは自分のために音楽を作曲した。だから聴衆を必要としなかった。教会オルガニストとしてバッハが求めたものは、崇高なる神への献上。そして敬虔なる神への祈り。何故かヨーヨ・マの演奏には常にその事を意識する。そして忘れてはならないこの曲の発見者であるカザルスの名演。言わずと知れた名演だが、カザルスに関しては以前に掲載してあるので割愛する。

バッハの音楽は管弦楽や声楽を伴う作品を除き、聴いている者に「自分とバッハだけの世界」という唯一無二の境地を与えてくれる。仕切りが在るわけでもなく大勢で聴いていようが、対バッハという1対1の世界が常に存在する。宇宙の森羅万象ともいえ、人智を超えた大きな力が働いているように思える。



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