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セマウル号の車窓のその3です。漢江鉄橋を渡るところです。進行方向右側を写しております。
2006/06/30
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セマウル号の車窓のその2です。多分龍山駅付近です。
2006/06/30
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セマウル号の車窓の記録、その1です。
2006/06/30
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城壁の続きです。何にも無い城壁はこんな感じになっていました。上面は通路になっていました。こういうところですので兵力の移動は迅速に行えたでしょう…。建設した時期は割と日本の戦国時代に近い筈です。役に立ったのかなあ。戦国時代末期の日本は世界最大の陸軍国でした。よく訓練された陸上兵力の動員力で当時の日本は世界一であったのです。この日本軍が秀吉の命令によりこの国に侵攻しました。確かに立派な城壁ですけど、秀吉軍を防ぐ役に立ったのかなあ…。それとも、秀吉軍が去った後に、秀吉軍との戦闘の経験を活かして建設したのかしら…。 →すみません、1794年製だそうです。 →江戸中期でした。城壁には小さな窓がたくさん開けられています。恐らくは小銃射撃のための銃眼でしょう。何かの記念碑みたいでした。都羅山駅近くのラングーンテロ事件の慰霊塔にデザインが似ておりました(現在の都市の呼称はヤンゴン)。私が城壁内部に入った所です。今度は内側から撮影しておきました。この城壁は大変長いので、徒歩観光はなかなか辛いものがあります。そこで、こんな列車上のトレーラーバスが運行されているようでした。これがバス停です。でも、時間が合わないので、諦めて歩くことにいたしました。バス停近くの銅像です。誰の銅像なんでしょう…。この水原華城の内側に、韓国の宮殿を再建したテーマパークがあります。次回から、このテーマパークの模様をレポートします。未だにテーマパークの名前がわからないのです…。情けない。チャングムのロケを何回もやったらしいのですけど。 良ければ一票お願いします。
2006/06/30
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前回までで、どのようにして水原駅から水原華城に辿り付いたかをレポートしました。今回から華城の実際をレポートします。しかしねえ…。ちゃんとガイドブックを読んでから行けばよかった。無理な登山ルートを選んでしまったようでした。西三雉という施設です。城壁にこのような出っ張りを作って兵力を配置したようです。中国風の戦闘を行ったのでしょうな。鳥の雉が身を隠す様子に準えて「雉」と呼ぶようです。西南暗門という門です。暗門とは秘密の出入り口という意味だそうです。山の合間の分かりにくい場所ですので、密かに出入りするのに使えるというわけなんでしょうね。でも立派な建物です。これで秘密になるのかなあ。西南角楼、またの名を、華陽楼という建物です。この城壁の最上部にあります。見晴らしは絶景でした。西南角楼から見下ろした水原市街です。ちょっともやっているのが残念でした。 良ければ一票お願いします。
2006/06/30
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楽天ブログの反応がだんだん悪くなってきました。何となく、昨年の年末から今年のお正月にかけての症状に似ています。日記を書き込んだのに反映が遅いですし、そもそもブログを見ようとしても中々反応しなくなってまいりました。再びサーバの能力の上限に達しているのでありましょうか…。早く全快しますように。
2006/06/29
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今回も動画から始めてみました。今回の動画は、セマウル号で途中駅を通過した際の車窓です。さて、続きです。水原駅から水原華城へ向うのですけど、先ずその前にここに寄って情報収集を行いました。水原市観光案内所です。駅を出て左に進むとこの建物があります。ここで、地図などの基礎資料を入手できます。日本人観光客が500万人も押し寄せた年もある(ここが苦しいですな)大韓民国の世界遺産です。日本語の資料もたくさん揃っています。もちろん定期観光バスもありますけど、歩かなきゃ。なお、ここに無料のインターネット端末がありました。ここでコメントへのお返事などを書いたりしました。もちろん、案内人の方は日本語を話します。何でも聞いて見ましょう。これが水原(スウォン)市の全景です。ソウルのベッドタウンとして発展していて、大都市なんです(ソウル駅まで地下鉄直通の電車で60分弱です。こちらも通勤地獄です。)中心部にごちゃごちゃとあるのが水原華城(スウォンファソン)と言う訳です。これが水原華城(スウォンファソン)本体です。城を囲む城壁が9割くらい残っています(再建部分を含めます)。中央部で紅く丸を付けてあるのが、宮殿です。この宮殿は完全な再建物のようでした。なお、チャングムのロケを何回か撮った場所みたいです。最初は駅前の繁華街を抜けていきます。ソウルと違っていかがわしい店が無いのですね。いいことです。一キロちょっと歩くと坂道になります。この坂道をひたすら登って行きます。最初のランドマークがこれです。京畿道庁です。京畿道(キョンギド)は韓国有数の自治体です。名前で分かる通り、首都ソウルを含む地域だったのですが、ソウルが特別市(政府直轄市)に昇格して、京畿道から独立してしまいましたので、現在道庁は水原市に置かれています。道庁脇のこの坂道を更に登って行きます。結構タフな旅程になってきました。はあはあ言ってしまいました。漸く城壁が見えてきました。これが水原華城の境界線です。再び観光案内所がありました。華城観光案内所です。ここのおばさんに色々聞きました。 -定期バスはあるけど、一日数本しかない -城壁の上を歩いて一周できるけど何時間もかかる -歩くのなら止めないけど水くらい買って行けこんなアドバイスをしてくれて、お茶まで頂いてしまいました。韓国人のおばあさんのホスピタリティを感じます。80年代はナヌンイルボンサラミヤと言うだけで顔を顰める人が多かったのですが、今は違います。いよいよ城壁の上に登ります。今回はここまでにさせて頂きます。 良ければ一票お願いします。
2006/06/29
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今回も動画をご紹介いたします。韓国国鉄のセマウル号の車窓です。汝矣島(ヨイド)の直ぐ北の漢江の鉄橋を走行中に撮影したものです。今回はソウル駅から水原(スウォン)駅まで乗車したセマウル号をレポートします。車体側面のロゴです。今は韓国の鉄道は公社化され、KORAILと名乗っています。KTXには女性車掌まで乗務しています…。全然日本の鉄道の血を感じさせてくれません。サボです。見れば分かりますが晋州駅(チンジュニョク)行きのセマウルでした。南にある街です。晋州市は北見市と姉妹都市であったりします。客室内です。韓国の幹線は広軌(標準軌)です。車輌限界は概ね新幹線と同じサイズです。このような幅の車輌に2-2シートの配列になっています。日本の新幹線のグリーン車くらいの座り心地でした。リクライニングもバターンと倒れます。長距離仕様の客車でした。隣の線にはKTXが停まっていました。連接車であることが分かりますね。車内から撮ったソウル駅ホームの屋根です。ドーム型なのがかっこ良いですよね。KTX開業以降はこんな味気ない切符になってしまいました。まるで今のJR券みたいです。こうなる前は旧マルス券みたいなきっぷか、硬券でした。車内で購入したコーヒーです。お菓子がついてくるのが韓国風でした。約30分で水原駅(スウォンニョク)に到着します。今回の目的地である水原華城(スウォンファソン)へは、この水原駅から徒歩で移動しました。続きは次回に。 良ければ一票お願いします。
2006/06/29
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今回も動画でスタートします。ソウル駅を出発するセマウル号の車窓です。写っている車輌はKTX(韓国の超高速鉄道)です。さて、韓国レポートを再開します。二日目は水原(スウォン)へ向いました。水原華城(スウォンファソン)を訪れるためです。この城もまた世界遺産なのです。この水原は京釜(キョンブ)線でソウルから30分くらいのところにあります。地下鉄と直通乗り入れしているE電みたいな近郊電車も行くんですけど、せっかくなんでセマウル号に乗ることにしました(KTXは停まりません)。ソウル駅に行くと、この旧駅舎を撮らずにはいられません。相変わらず閉鎖されたままでした。記念館として再利用する計画はどうなっているんでしょうねえ。こちらは現役のソウル駅です。ガラス張りで仁川(インチョン)空港みたいですね。初日の夜に切符を買いに来た時に撮影した発車案内板です。BUSANと書いてあるのはもちろん釜山のことです。KTXが30分ヘッドで出発しますけど、セマウルやムグンファもまだ走っています。この辺は日本の新幹線とは随分雰囲気が違います。平行在来線の扱いは酷いですからねえ…。プラットホームです。何となくヨーロッパ風の雰囲気に出来ています。左側が、私が利用したセマウル、真中の赤白車がムグンファ、右のほうが超特急KTXです。ホームにはこんなモニュメントがありました。KTXの開通記念のモニュメントのようでした。行き先とキロ程が表示されていました。昨年訪れた、旧鉄道分断点のモニュメントに似ておりました…。次回は車輌をご紹介します。何となく鉄っぽくなって来ました…。【昨日判明の成果】2006/06/24 JL1729 羽田-福岡 J 481 国内線2倍マイルプレゼント 481 クラスJボーナスマイルキャンペーン 170 国内線ダブルマイルキャンペーン 481 eチケットレス割引ボーナスマイル 100 マイルUPボーナス 566 2006/06/25 JL1718 福岡-羽田 J 481 国内線2倍マイルプレゼント 481 クラスJボーナスマイルキャンペーン 170 国内線ダブルマイルキャンペーン 481 eチケットレス割引ボーナスマイル 100 マイルUPボーナス 566 【昨日の成果】ぽぷら(EDY) 3マイル(NH)朝食(SUICA) 4マイル(JL)Infoseekモバイルラッキーくじ当選 1÷2=0.5マイル(NH) 良ければ一票お願いします。
2006/06/29
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今回は前回とは打って変わって平和な展示施設です。しかし、テロ対策上、撮影規制があって、一番良いところをご紹介できませんけど…。こんな障害物が設けられた道をバスは進みます。というのもテラパークは原電の東海発電所(正式名称は忘れました、東海第二発電所だったかな)の一角に設けられているのです。この道路を通って、一号炉と二号炉を一望に出来るところを通って施設に入るのですが、発電所全景は撮影禁止なのです。最初に原発の仕組みを説明する3D映画を見せてもらいます。何となく愛知万博風でした。この画像は圧力容器の模型です。細い燃料棒がたくさん写っております。これだけ見ると、蒸気機関車の熱交換器か複水器みたいですね。こちらは、同じ3D映画用の発電所本体です。右のちょっと背が高いのが原子炉で、左の背が低い建物が発電タービンです。館内の展示物の一つです。宇宙放射線が通るとガチガチと音を立てる実験設備です。自然界にも放射線が存在することをアピールしています。こんなことをアピールするよりも、原発から漏れ出す放射線量が非常に少ないという事実をアピールすればよいのに…。こちらは原子核燃料です。この原電東海発電所は日本で初めて商用原子力発電を行った記念すべき発電所です。日本原子力発電という聞き慣れない電力会社は、各種原子力発電の方式を試し、全国九電力(沖縄電力は原発を持ちません)のためにノウハウを蓄積するという役割も果たしています。このため、この会社では、沸騰水型(B型とかBWRと言います)・加圧水型(P型とかPWRと言います)を始めとする様々な方式を採用しています。中でもこの東海村には、日本で商用では一箇所しか作られなかったガス冷却炉がありました。現在では既に寿命が来て廃炉となり解体作業中ですけど…。この太い核燃料は、このガス冷却炉用なのです。こっちの細いのはP型かB型用です。これまた愛知万博風の展示がありました。ガスパビリオンを思い出しました。屋外にはこんなものもありました。屋外では原則撮影禁止なんですけど、これだけを撮るならOKといわれました。ジェットエンジンみたいですけど、違います。これは日本最初の商業用原子力発電所で27年間使用された低圧タービンローターです。これに蒸気を当てて回して発電していたのです。蒸気の温度は357.2度!、凄いです。日本最大の蒸気機関車C62何両分の力なんでしょう…。ちなみに製造所は英国のGEだそうです。入館記念撮影用のスペースです。デザインは非常に安直です。これは反省した方がよいかなあ。可愛くないです。ちなみに帽子にかかれているマークが、日本原子力発電の社章です。何故か、子供が水浴びするスペースがありました。原子力発電と何の関係があるのか…。もう一発変なものが…。フーコーの振子です。これまた原子力発電とは関係ありません。コリオリの力ですね。こんなものを見せてもらい、社会科見学を終えました。平日でも何曜日かにはこのツアーは行われているようです(火曜日と金曜日だったかなあ)。平日だと原研にも入れてもらえるようです。次回は平日に来ます。最後の画像です。日立駅前のモニュメントです。天下の日立製作所のお膝元だけあって、駅前のモニュメントも発電タービンなんですね…。茨城県民はタービンが好きなのかなあ…。これでインターミッションを終わります。次回より韓国レポートを再開します。 良ければ一票お願いします。
2006/06/28
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韓国シリーズを少しお休みして、首都圏近郊の日帰り観光レポートをお送りします。今回は大人の社会科見学風ですけど、東海村営無料定期観光に参加した際の様子をレポートします。今年のゴールデンウィーク前半戦に訪れました。これが移動手段のバスです。このような無料巡回バスが村の手で運行されています。この村ほど原子力に理解のある村はありません。反原発系の村とは大違いなのです。回る場所は三箇所でした。時間の関係でそのうち2箇所に参りました。素晴らしい…。こういうツアーにこそ参加せねば。JR東海駅からは完全無料です。バスも入館料もただです。このように原子力に理解を示す村を裏切る事故が起きました。JCO臨界事故です。英語でも表記があります。JCO Criticality Accident Exhibitionです。勉強になります。臨界のことをCriticalityというんですね。最初の訪問場所は原子力科学館です。茨城県の施設です。こちらが本館の外観です。こちらが別館です。JCO事故の展示は別館で行われていました。本館内部はこんな感じのパネル展示が続きます。余り面白くありません。子供心が分かっていないなあ…。子供が楽しめるのは「驚きのある実験」です。幼い頃に楽しい体験を積めば、自然に自然科学志向が強まり、原子力学科を目指すというものでしょうに。これは企画展です。東海村にある高出力加速器の展示です。ニュートリノ系の実験もしています~、と訴えていました(カミオカンデ=ノーベル物理学賞もこの組織に今は所属しているようです)。原子力はこんなところでも利用されています、という企画展です。どーでもいいですけど、どうして日本では放射能と放射線の違いを教えないのでしょう…。原子核分裂反応からエネルギーを取り出し利用するのと、放射能から発せられる放射線を利用するのでは全然違うじゃないですか…。核と共に生きる私たちはもっと核に関心を持たねばならない。無関心は恐ろしいのです。皆が関心を持っていれば、電力会社もしっかりと安全策を講じます。無関心が手抜きを生み、事故を生んでしまう、という構図は十分にありえるのです。さて、いよいよJCO臨界事故の展示に進みます。先ずは「臨界とは何か」という説明です。私の世代では常識なのですけど、ウラン235原子核が核分裂を起こすと中性子2~3個が飛び出します。普段からウラン235は一定の割合で崩壊(分裂)しています。だからいつも中性子が飛んでます。ウラン235原子核に中性子が当たるとウラン原子核は核分裂を起こします。核分裂を起こすと中性子が出ます。中性子がウラン原子核に…。こういう状態になるのが臨界です。このように、核分裂が連鎖反応により持続して進む状態を臨界といいます。ウラン235にせよプルトニウム239にせよ、一定以上の量を集めると、勝手に核分裂を始めてしまいます…。恐いですねえ…。広島・長崎でも同じことが起きました。もちろん、核兵器の場合は、一瞬の内に全部の核物質を「燃す」ために色々と工夫をしていますし(プルトニウムが燃え残ると物凄く厄介なことになります)、原発や原子力潜水艦ではじわじわ「燃す」ためにこれまた色々な工夫をしています。JCO事故では意図せずにこの臨界に達してしまったのです…。臨界に達すると、相当の熱が発生しそうなんですが、JCO事故では建物を破壊するほどの熱は出ていません。但し、臨界に達すると猛烈な放射線が発せられます。作業員2名はこの放射線で命を落としました(被爆量は諸説ありますが数シーベルトというものすごい量だったと言われています、ちなみに年間許容量は50ミリシーベルトです)。これが事故を起こした沈殿槽の模型です。前から見た様子です。臨界を起こさないようにするためには、非常に単純なことですが、ウランを小分けにすることです。この事故の際はウランを含む溶液を一度に大量の処理しないことで求められていました。このルールを長年にわたって無視していたのです。しかし、それでも事故は起きませんでした。最初にルール破りした人々は臨界の可能性を知っていました。だから、臨界を起こしにくい形状の容器で処理を行っていました。球体に近い形だと中性子が外に逃げませんので臨界に達しやすくなります。これを防ぐために非常に細長い容器を用いていました。無関心と年月の経過は恐ろしいものです。何時の間にか作業をする人々は代替わりしました。「何故細長い容器を使うんだろう…、使いにくいじゃんか、このバケツみたいな奴を使ったろ」と思ってしまったのです。これがバケツみたいな奴です。事故の説明とともに内部のようすが展示されていきます。バケツが開くのです…。もちろん、これらはレプリカです。この事故の際に、我々は原子力事故に対し何の備えもしていなかったことが判明しました。例えば…、この作業員を助けに行った救急隊員に、事故の模様は語られませんでした(その結果、救急隊員も十数ミリシーベルト被爆しました)。臨界は数時間から十数時間も継続しましたが(猛烈な放射線を出しつづけました)、その間、県にも村にも連絡は中々行われませんでした。警察も事故の模様を把握できず、非難避難の要否も判断できませんでした…。 →maman.mさん、ご指摘ありがとうございました。チュルノブイリの例もそうですが、原子力事故の際の消防隊や救急隊の役割は非常に大きいのです。ことに消防隊は「命を賭して」では無く「確実に訪れる死を容認しつつ」消火作業に当たらざるを得ない。消火を行わなければ100万単位の被爆者が出て、数年で数万単位の死者が出るが、消火活動を行えば人的被害を100分の1に押さえることが出来るというケースも十分ありえるのです。このような状況下消防隊員に出動を命じるためにはどんな措置が必要でしょうか…。原子炉から放射能が漏れ出すと言うのは非常に恐ろしいことです。近くにいたら助からない可能性が高い。しかし、原子炉の中の放射能の多くは非常に半減期が短いのです(プルトニウムは物凄い半減期ですけど)。つまり、的確な状況把握と避難誘導(更には沃素剤の配布)によって、少し離れたところにいる人の被害を抑制することは十分可能なのです(ゼロには出来ません)。東海村は日本で一番原子力に理解のある村でした。日本で初めて原子核分裂を実現したのも東海村でした。東海村並びに村民は原子力産業及び原子力研究施設を信頼していました。しかし、この事故では、その信頼は裏切られました。村や県に事故の報告がなされたのは遥か後のことでした。この事故は幸いにして少ない犠牲者で済みました(犠牲になられたお二方のご冥福をお祈りいたします、合掌)。この事故から多くの教訓を引き出すことが出来るはずです。私たちは原子力発電なしで現在の生活水準を維持することはできません。かの環境大国ドイツだって、今でも原発が稼動中です(建設は止めてますけど)。原発と共に暮らさざるを得ない以上、今すぐ原発の運転を止められない以上、原子力事故に対する備えをせざるを得ない。だから…、この事故を風化させてはならない。東海村の人々はこのように考えて、この展示を行っているのだと感じました。さて、気を取り直して、もう一度本館に戻って、実験展示を撮影しました。これは放射線の強さを測るモニタリングポストです。原子力発電所は通常運転中、殆ど放射能や放射線を外には出しません。自然放射線より極僅かなレベルの放射線しか観測されません。きちんとマニュアルを遵守して運転すれば十分安全は確保できるのです。しかし…、多くの事故はマニュアルを守らないことから発生します。私たちは、彼ら彼女らがマニュアルに沿って適正な運転を行っていることにいつも関心を持たねばなりません。こちらは、α線・β線・γ線の透過実験です。α線は紙一枚も透過できません(その代わり、重いヘリウム原子核が飛んでくるので、食らうと影響が大きいのです)、β線は数ミリの鉄板で防ぐことができます。大きな「霧箱実験装置」です。この箱の中は過飽和状態の水蒸気で満たされています。過飽和状態だと、ちょっとした刺激でも、直ぐに水に戻ってしまいます。自然放射線が通過した時も、その航跡が水滴(白い)の線となります。こんな感じの展示物の施設でした。出来れば、たくさんの人々に見て欲しい、と思いました。次回は「げんでん東海テラパーク」の模様をレポートします。今までご紹介した原子力科学館が高校生レベルの物理学の説明であったのに対し、げんでん東海テラパーク(もちろん運営は日本原子力発電)は原子力発電そのものにスポットを当てた施設です。【昨日の成果】ポプラ(EDY) 2マイル(NH)E電乗車(SUICA) 3マイル(JL)人間ドック(JALC) 399マイル(JL)楽天ブックス(SP) 3÷2≒約1マイル(NH)楽天ブックス(JCB) 3×1.5倍≒約4マイル(NH)Infoseekモバイルラッキーくじ当選 1÷2=0.5マイル(NH) 良ければ一票お願いします。
2006/06/28
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今回も動画でスタートします。ソウル駅に入線するKTXです。さて、今回で初日レポートを終わりにします。ちょっと飽きて来たので、次回からインターミッションを入れますけど…。今回ご紹介するのは宿泊施設などです。その前に、昌徳宮ガイドツアーを終えて最初に目にしたものです。こんなバスがあるんですね。やるなあ、阪急交通社。阪神を買うだけあるじゃないですか。宿の近くの街並みです。結婚式場とラブホテル街でした。なんとまあ…、凄い取り合わせです。婚礼衣装の店がたくさんありました。ここが私の愛用している安宿「イムズハウス」です。一泊30000ウォンです。ソウルは比較的宿泊費のかかる街です。こういう宿を一つ押さえておくと何かと便利なのです。お部屋です。ちょっと安っぽいけど快適です。特に冬場は暖かいのです。冷温水器が各部屋にあるのが嬉しい…。テレビは日本の衛星放送が入りました。このくらいの値段の宿で日本語放送を見られるのは嬉しいです。トイレです。流石にバスタブはありません。シャワーだけです。でも、30000ウォンなんですから…。この宿のもう一つの利点は、ご主人が日本語を話すことです。日本語で電話予約もできますぞ。この宿にする前は、明洞(ミョンドン)のメトロホテルをよく利用していましたけど、メトロも改装して値段が上がってしまったので、最近は、ここばかりです。すっかり安宿派になってしまいました。最後にソウルヒルトンに泊まったのはいつだったかなあ…。直ぐ近くにはインターネットカフェもありました。ここのPCは日本語入力が可能でした。ちなみにこのカフェのお姉さんは異常に日本語が上手かった。ひょっとして在日系かも知れません。こんな感じで韓国の初日を終えました。二日目は鉄道で水原(スウォン)を目指しました。二日目は「鉄」です。でも、二日目に入る前に、インターミッションを入れます。 良ければ一票お願いします。
2006/06/27
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今日は人間ドックでございました。バリウムがゴロゴロ言っております。この人間ドックの代金もJALカードで支払いました。これで399マイル獲得です。さて、続きです。昌徳宮レポートも今回で終りにします。先ずは秘苑の残りからです。池の向こう側に見えたお堂です。何の用途なのかしら…。池のほとりにある建物です。ここで科挙みたいな試験をやったようです。暎花堂と額に入っています。この建物の名前なんでしょうね。この建物の脇に日時計が設置されていました。金馬門と書いてあります。もちろん、日本の落語家のための門ではありません(三遊亭金馬)。金馬とは当時の言葉で皇太子を指したようです。つまりは皇太子の勉強部屋ということのようです。こんな感じの地味な建物が建てられていました。勉強のためということで地味に造ったのでしょう。補修がいい加減でした。木の色が明らかに違っています…。秘苑は元々自然を楽しむように造られています。こんな感じの美しい風景が続きます。この石段を登ると、秘苑もお終いになりました。この松の根の形が面白いので、名木だそうです。猿の形に見えませんか?。天然でこういう形になったので珍しくて価値があるということのようです。こんな感じで、昌徳宮(チャンドックン)のガイドツアーを終えました。李方子さんがお住まいであった、楽善斎(ナクソンジェ)を見られたのが収穫でした。最後にもう一枚だけ画像をご紹介します。夜の敦化門(トンファムン)です。こんな感じにライトアップされていました。美しいので将来の表紙候補です。 良ければ一票お願いします。
2006/06/27
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ネタ過剰につき、さくさくと昌徳宮レポートを続けて参ります。早く終わらせないと、東北5日間をレポート出来なくなってしまいますので。今回から秘苑(ピウォン)をご紹介します。昌徳宮は大変広大な王宮ですが、その面積の半分以上は秘苑です。その殆どは自然の山なんです。王室専用の自然の山林を活かした庭園なんです。詳しい説明はガイドさんの音声(以前の日記で既にご紹介してます)を聞いて見てください。最初は楽善斎(ナクソンジェ)から秘苑(ピウォン)へ移動する途中に目にした建物をご紹介します。内医院(ネウイウォン)です。案内板の記述を引用します。<引用始め>内医院は、宮殿の医官が王と王族の治療のために控えていた宮中医療機関で、内局または薬院とも呼ばれた。内医院の中心建築物は誠正閣で、この建物には朝鮮第22代王、正祖の書いた「保護聖○・調和御薬(王をこの上なく敬うべし)」という扁額などがかかっている。医官は、各自専攻分野があり、女性の治療は女医が担当した。現在は、薬を砕く石臼だけが庭に残っている。<引用終り>つまり…、大今長(チャングム)の世界という訳です。イヨンエ萌え~、です。既にお気づきかもしれませんけど、チャングムはここでもロケ撮影をやっておりました。この松も名木らしいのです。ガイドさんが説明していたので、とりあえず撮影したものの、なんだったかなあ。こんな坂道を登っていきますと、秘苑に入ってまいります。山に登る~、という感じがしました。秘苑の入口にはこんな池があります。方形の池というのが中国チックな、朝鮮チックな雰囲気です。芙蓉池(プヨンジ)という名前だそうです。昌徳宮パンフレットから説明文を引用しておきます。<引用始め>天円地方の思想によって造られた他の朝鮮宮殿の池のように、芙蓉池も四角い池の中に丸い島がある。芙蓉亭は1792年(正祖16年)に再建された十字形の東屋だ。<引用終り>この池の奥に見えるのが宙合楼(チュハンヌ)です。でかい建物ですが、書庫として使われたそうです。この建物に関しても説明文を引用しておきます。同じく昌徳宮パンフレットからです。<引用始め>1776年(正祖16年)に建てられた2階建ての楼閣で、1階は宮中図書館である奎章閣という書庫となっており、2階はその閲覧室である。奎章閣は正祖時代の政治改革と文芸復興の産室であった。<引用終り>宙合楼の入口の門です。これがさっき出てきた芙蓉亭(プヨンジョン)ですね。池越しに見るとこんな感じです。ここで国王が釣りをしたそうな。釣れると楽隊が音楽を鳴らして祝ったそうです。ふうむ。気に入ったので、別の角度からも撮影して見ました。この建物はライトアップ向きですね。この池のほとりで、小休止が入りました。続きは次回にさせていただきます。 良ければ一票お願いします。
2006/06/27
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昌徳宮の続きです。楽善斎(ナクソンジェ)をご紹介します。先ずは全景から。こんな感じの平べったい建築です。これが門ですね。とりあえず、韓国の民間反日サイトの紹介文を引用します。<引用始め>ここ昌徳宮のなかで最も目立たない建物、楽善斎(ナッソンジェ)。 瓦や柱にも模様がない地味な建物である。ここは王の死後、王の妾(めかけ)や女官などが残りの人生を送っていたという。華麗だった昔の生活を偲ぶ、古びた入口がとても印象的である。 <引用終り>そーっすか。妾ねえ…。ふーん。よく言えますね。確かに地味な建物ではあります。しかし、趣深い。けばけばしい彩色が無いのが良いでしょ。何となく日本調…。別に日本人のために造られた建築物では無いのですが、日本と非常に深い関係があります。別の紹介文を引用してみましょう。<引用始め>1847年(憲宗13年)に、建てられたもので、最後の皇后である純貞孝皇后が1966年まで、徳恵皇女と英王の后である李方子女史が1989年まで住んだ所である。<引用終り>と言う訳なんです。ご存知の方も多いと思いますが、戦前の内鮮一体化政策の下、朝鮮の皇太子であった英王の后として、日本の皇族が選ばれました。李方子さんです。李方子さんは、結婚前は梨本宮方子という名前でした。名前で即分かると思いますが、我が国の皇族でした。昭和天皇のお后候補にもなっていたようです。当時の政府の意向で、梨本宮方子さんは、朝鮮の皇太子である垠殿下に嫁ぐことになりました。伝聞ですが、ご本人はご自分の結婚を新聞で知ったそうな…。可愛そう…。もう少女漫画の世界です。1945年に日本は戦争に負けました。日本植民地であった朝鮮は国連の信託統治みたいな感じ(実際は米ソの分割占領)になりました。殆ど無秩序状態になります。済州島(チェジュド)では大規模な共産主義者の反乱なんかも起きます。もう騒然とした状態になります。そんな中で李王家の財産も没収され、夫婦は日本に住み続けました。1951年には、共産主義者と元亡命政権の帰国者政権の間で熾烈な内戦が始まりました。南北両軍とも主力は外国軍でしたので、内戦というよりは「植民地戦争」です。この意味では、韓国側の呼称の「韓国動乱」は、日本の呼称の「朝鮮戦争」よりも、実態をより的確に表していると思います。とても帰国できる状態ではありませんでした。朝鮮戦争の終結後の1963年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰国しました。この時に垠殿下は脳梗塞を起こし、意識も無い状態であったと言います。反日感情が吹きすさぶ中、散々嫌がらせをされたらしいです…(ここはだけ噂です)。垠殿下は1970年に死亡します。未亡人方子后は障害児の教育に残りの障害を捧げたと言います。1989年に亡くなられたそうです。87歳であったそうです。まさに悲劇の王妃です。ベルバラの世界です。垠殿下(=英王)と方子后の間には子供が生まれたのですが、いずれも若くして亡くなったようです。これで李氏朝鮮の血統は途絶えた訳です。割と最近まで、このような方が、この場所で生活なさっていたというわけなんですねえ。まだ歴史になりきっていないストーリーです。この場所に立つと、李方子さまのご冥福をお祈りせずには居られません。合掌。なお、ガイドさんによると、アホーな日本人観光客の中には、現皇太子后である雅子さまがここに住んだことがあると誤解する輩もいるそうです。もしホンマやったら、情けないワ。大韓民国の初代大統領の李承晩(イ・スンマン)は、王家の血筋であることを誇っていたようです。皇太子が帰国すると困る訳です。彼が帰国を邪魔していたのかもしれませんね。この大統領は後世の評価は高くありません。不正選挙で自国民に嫌われ、自国民に追われ、ハワイで客死します。ちなみに現在評価が高いのは朴正煕(パク・チョンヒ)です。毀誉褒貶の激しい大統領です。韓国の経済成長の基礎を作ったのも朴正煕、韓国人に自信を回復させたのも朴正煕(座右の銘はなせばなる)、数々の人権蹂躙を行ったのも朴正煕、不正蓄財しなかったのも朴正煕…。開発独裁という表現がありますが、朴正煕はその典型でした。経済成長の緒に付く段階で権威主義的な政権運営を行い、国民所得を増やし、民主主義政権に政権を引き継いでいきました。今回の最後の画像です。今でも李氏朝鮮王家ゆかりの人々が月命日の儀式をこの場所で行うそうです。私が訪れた時がこの儀式の直後だったので、こんなものが置かれていました。最後に付け加えますと、この楽善斎(ナクソンジェ)は隔日公開になっております。二日に一回しか見られません。楽善斎(ナクソンジェ)が非公開の日には両班の住まいを擬した施設が公開されるようです。次は、王室専用庭園の、ピウォン(秘苑)をご紹介します。【昨日の成果】ポプラ(EDY) 3マイル(NH)DVD購入(JCB) 39×1.5倍≒約55マイル(NH) 良ければ一票お願いします。
2006/06/27
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梅雨だけあって毎日天気が悪いです。気分も沈みがちになってしまいます。そろそろ夏の手配を済ませねばならないのに、興が乗りません…。大丈夫かなあ…。さて、続きです。今回は昌徳宮の寝殿である大造殿(デジョジョン)をご紹介します。この建物で王とその家族が生活していた訳です。こんな感じの側面です。割と質素なのかなあ。家具は王宮っぽいです。朝鮮の王様は昭和20年までは、我が国の皇族みたいなものでした。存在していたと言うか、その地位を日本に認められていたわけです。こんな洋風の暮しをする時代にもここは現役の王宮だったわけですね。余り説明がなかったので適当にシャッターを切ってしまいました。女官室のようです。消火器があるのが何ともいえません。これが日本なら、自動消火装置を付けてしまいそうです。ここもこの位にして次に進みました。進路の途上にあった門の類です。割とあっさりしたつくりになっていました。防衛を余り考えていない…。最後に韓国の民間サイトの紹介文を引用します。<引用始め>知っていますか「熙政堂と大造殿は中古材料で作られた」王と王妃の生活空間、昌徳宮の熙政堂と大造殿は1917年火災で焼失した。当時この2つの建物を再建するときに使われた材料は、景福宮の王と王妃が住んでいた康寧殿と交泰殿を壊した廃材であった。植民地下の文化遺産をたいした物と考えなかった当時の日本の官僚たち。この計画は建築の調和はもちろん、人々の心を無視した愚かな発想であったに違いない。宣政殿から大造殿までが昌徳宮で最も破損部分の多いところである。 <引用終り>…。何も言えない。火災で焼けた宮殿を再建したのにこんな言われた方をして…。当時の日本の係官は地下でどう思うことやら…。宮殿間の移築は李氏朝鮮の時代から盛んに行われていた作業でした。係官も調和を重んじてこのような措置をとったのでしょうに。この場所に洋式の宿舎を建築したのでは調和はめちゃめちゃになりますね。但し、日本の当局者も趣味の悪いことをしています。今は取り壊されてしまっていますが、旧朝鮮総督府の場所は最低でした。宮殿のまん前に建ててしまったのです。日本人が植民地経営を知らなかったのですね。総督府を建てるべき場所は、南山だったと思います。KCIA(韓国政府機関、秘密警察機能と対外諜報機能を兼ねる組織。現在は改組されている。金大中事件で名高い。拷問でも名高い。)本部があったところです。次回は、楽善斎(ナクソンジェ)をご紹介します。 良ければ一票お願いします。
2006/06/26
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今回も動画を付けています。こんどは1号線です。さて、韓国レポートをさくさく続けて参ります。昌徳宮の続きです。今度は宣政殿(ジョンジョン)です。その前に、韓国の政府機関である国際教育振興院が昌徳宮について日本語で説明している文章を見つけたので引用してみます。<引用始め>昌徳宮は朝鮮王朝の第三代王の太宗(テジョン)5年(1405)、景福宮の離宮(王宮が火災などの災難に見舞われた時、王が移り住む宮殿)として建造されたもので、創建した当時には、正殿である仁政殿、便殿である宣政殿、寝殿である熈政堂、大造殿などが建てられた。その後、何人かの王たちによって少しずつ建造物が増えた。文禄慶長の役の時に焼失してしまい、再建は宣祖(ソンジョ)40年(1697)に始まって光海君(クァンヘグン)5年(1613)に完成した。しかし、1623年仁祖(インジョ)反正(1623年クーデタによって光海君に代わり仁祖が執権)の時、仁政殿を除いて再び全焼、仁祖25年(1647)に復旧した。その後、何回にも及ぶ火災に見舞われ、1917年には大造殿・熈政堂の一郭が焼失すると、1920年に景福宮から交泰殿・康寧殿など、多くの建物が昌徳宮に移転された。<引用終り>いやあ、難しい漢字が多いので、こういうのがあると便利ですね。日本語の資料を貰って持ち帰ってはおりますが、漢字入力できないような漢字が多いのです。では、次の建物に進みます。宣政殿(ジョンジョン)の入口です。門越しですけど、宣政殿の正面から撮影してみました。この建物は、昌徳宮唯一の青瓦の建物だそうです。王が臣下と国政を議論する場所として使っていた所だそうです。この建物の屋根にはこんな魔除けが飾ってありました。西遊記がモチーフのようです。ここから、今度は、国王の宿舎であった、熈政堂(ヒジョンダン)へ進みました。熈政堂の門のようです。この建物だけは車寄せが設けられていました。前回ご紹介した自動車を使うためでしょうね。これが熈政堂の側面です。居住区らしく、オンドル(暖房装置)が設けられています。煙突が見えると思いますけど、これが暖房装置です。熈政堂から渡り廊下で繋がっているのが、寝殿の大造殿(デジョジョン)です。大造殿の様子は次回にさせていただきます。 良ければ一票お願いします。
2006/06/26
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今回も動画から入ります。これも地下鉄ですね。どうでも良いですけど、ソウルの環状線は列車間隔が妙に詰まったり、空いたりします。地下鉄のダイヤが乱れがちなのかなあ。地下鉄にしては、複雑な運転形態となってますので(支線がいくつかあります)、ダイヤの維持が難しいのかも知れませんね。さて、続きです。仁政殿に登る直前からです。中国風ですけど、階段の中央に紋章が入ります。この仁政殿の場合は鳳凰でした。中正紀念堂の場合は青天白日旗でした。二羽書かれています。足が写っていますけど、これはガイドさんの足です。民族衣装風の靴を履いているのが分かります。「表札」です。この正殿の中には入れないのですが、中を覗き込むことができるようになっておりました。非常に暗くて撮影には厳しかったのですが…。これが玉座と言うわけです。ラストエンペラーに何となく似ています。当然、あれ(北京紫禁城)を真似ていると思われます。殿上から見た広場です。朝鮮国王から見るとこんな感じの視野になった筈です。こんな感じで軽~く仁政殿を終えました。次の建物は車庫です。ガラス越しなので上手く写りません。朝鮮国王専用の乗り物が収められています。日本では、さしずめ「お召し車」ということになりましょうか…。【本日の成果】モノレール企画きっぷ(SUICA) 5マイル(JL)本屋(EDY) 2マイル(NH)本屋(EDY) 5マイル(NH)土産物(JCB) 10×1.5倍=15マイル(NH) 良ければ一票お願いします。
2006/06/25
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今回からしばらく動画付きです。最初は地下鉄の入線シーンです。せっかく撮ったんですけど、上手く入らないので、止む無く宮廷見物の中に入れます。一昔なら恐くて撮れなかったのですが、今の南はこういうことにも非常に寛大になりました。さて続きです。敦化門を通って、昌徳宮に入ったところから再開です。先ず橋を渡ります。この橋は宮殿が出来た時以来のものだそうで、600年くらい前のものらしいです。石造なんで焼けなかったんでしょうな。直ぐに第二の門を潜ります。進善門と書かれています。奥にもう一つ門が見えます。これが奥の門です。粛章門と書かれています。歩道ですね。真中が盛り上がっている、というか、ちょっと小高く造られていますね。この部分が国王(1898年以降は皇帝)専用の道路だそうです。それ以外の人は左右の低い部分を歩かねばならなかったそうな。この道を左に曲がると、仁政殿(インジョンジョン)です。これが仁政殿です。正殿です。即位式や外国使節の謁見などの公式行事に使われたそうです。真正面からです。屋根の反り具合は微妙に違いますけど、奈良の建物にありそうなデザインです。宮殿前(仁政殿前)広場の石造の表示です。「品」と書かれていますが、日本で言えば「位」です。格式によって座る場所が異なり、それが表示されているという訳みたいです。【昨日の成果】Infoseekモバイルラッキーくじ当選 0.5マイル(NH)カブセルホテル(JCB) 31×1.5倍≒約46マイル(NH)アカスリ(JCB) 36×1.5倍=54マイル(NH)カブセルホテル(楽天) 31÷2≒約15マイル(NH)E電(SUICA) 1マイル(JL)モノレール(SUICA) 4マイル(JL) 良ければ一票お願いします。
2006/06/25
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前回までの韓国反日観光とはがらりと趣向を変えて、次の目的地はユネスコ文化遺産の昌徳宮(チャンドックン)です。今回も利用したソウルの安宿のイムズハウスはこの昌徳宮の直ぐ近くにあります。前を通ることは良くあるのですが、中に入るのは1989年以来です。この昌徳宮は廷内の建築物や自然の保護のために、自由観覧はできませんでした(今年からできるようになったという未確認情報有り)。観覧はガイドに従ってしか出来なかったのでした。今回もガイドツアーに申し込みました。門の脇の券売所です。ここでガイド券を購入します。特に予約する必要はなさそうです。売り切れはみたことがありません。ガイドツアーのダイヤです。日本語ツアーは一日5回です。英語もありますけど、両方あわせても、田舎のローカル線並みのダイヤになっています。函館本線の長万部=ニセコ間よりも薄いダイヤですので、ダイヤだけは押さえてから行く方が良さそうです。こちらが宮殿の正門です。その名を敦化門(トンファムン)と言います。こちらが表札です。李氏朝鮮の時代には、現在使用されているハングルは余り利用されていませんでした。インテリは専ら漢字を使用し、漢詩をたしなんだようです。日本の江戸時代に似ていると言えば似ていますね。こういう訳で、李氏朝鮮時代の王宮ではハングルを眼にすることは余りありません。門の内側、というか、下側というか…。我が国の神社仏閣の山門と余り変わりはありません。色が塗られているのが一番の違いですが…。つまり、奈良時代・平安時代の日本の建築技術は中国からこの国を通ってもたらされた、ということなんでしょうね。お時間になりました。門を潜ります。この画像は門の正面の風景です。入って直ぐ左側に案内板が設けられていました。この案内板の前に集合し、最初にガイドさんのレクチャーを受けます。 <音声>ガイドさんの説明とまあ、こんな感じで全行程に関する説明があって、いよいよ出発です。このガイドさんは私の写真撮影に大変好意的で、他の参加者が射程に入らぬよう、いつも先に行かせてくれました。偉いです。ガイドさんも説明していますが、豊臣秀吉の朝鮮征伐の際にこれらの王宮は全て焼かれました。このような事情から、王宮は大体17世紀の建築のようです。これはこれで理解できるのですが、朝鮮戦争(北の呼び方は大祖国防衛戦争、南の呼び方は韓国動乱)の際に被害を余り受けていないのが凄いなあ~、と思いました。続きは次回にさせていただきます。 良ければ一票お願いします。
2006/06/24
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続きでございます。前回までで、西大門刑務所歴史館の反日の雰囲気をたっぷり味わっていただきました。今回は西大門刑務所歴史館を包括する独立公園のその他の施設をご紹介します。そんなに反日色は多くはないのですが、ちょっとフェアではない、説明の省略があります。こういうところがねえ…。これが独立門本体です。デザインはパリの凱旋門のパクリ臭いです。早速説明文を引用します。<引用始め>独立門(トンニンムン):この門は独立協会が自主独立の決意を固め、中国からの使者を迎えるために使われていた迎恩門を取り壊した跡地に建てた記念石造物として、光武2年(1898年)に竣工した。御影石で造られたこの門は、高さが14.28メートル、幅が11.48メートルで、中央に虹○門がある。フランス、パリの凱旋門をモデルに、ドイツ公使館のスイス人技師が設計し、工事は韓国人技師、沈宜硯が担当した。この門は、現在の位置から南東の方向70メートルのところにあったが、1979年の金華トンネル工事のために、現在の位置に移築された。<引用終り>この独立門はどの国からの独立を祝って建てられたものでしょうか?。日本でしょうか??。実は中国からの独立を祝ったものなのです。非常に重要な事実なのですが、反日色を出すために「中国から独立した」という事実を明示していません。「日本からの独立」と誤解するように誘導していると考えてよさそうです。こういう表記はフェアではありませんね。韓国(朝鮮)は長年中国(清国)の属国でした。当時の清国は近代化を進めることも出来ず、アジアの停滞を体現する国家でした(長い目で見ると中国は大体世界最先進国でした。産業革命までは経済面ではずっと世界最強の勢力でした)。朝鮮半島が前近代的な状態が続くと、ヨーロッパのどこかの国の植民地になる可能性が大きくなってしまいます。朝鮮半島がヨーロッパのどこかの国(ロシアが重大な関心を持っていました)の植民地になると、日本の独立が脅かされることになります。そこで、日本は韓国(朝鮮)に対し中国(清)からの独立と、近代化を強く迫りました。これが日清戦争の背景でございました。日清戦争での日本の勝利、清国の敗北を背景に、朝鮮は中国から独立します。この独立を祝って建設されたのが、この独立門です。門にも漢字で「独立門」と刻まれています。門の裏側にはハングル文字で表題が書かれていました。中国の属国の朝鮮は、この独立をもって、大韓帝国と国号を変えます。このストーリーを韓国の学校教育では教えているのかなあ…。使途不明の建物です。お寺では無さそうだけど…。何に使うのでしょう。日本統治時代に活躍したジャーナリストの銅像のようです。植民地時代の朝鮮では、元々文官重視の国民性からか、民族主義ジャーナリストが大活躍したようです。逆に、韓国(朝鮮)は長いこと戦争を行っていませんでしたし、中国伝統の武力蔑視、暴力蔑視の傾向を持っていました(逆に欧米や日本には暴力崇拝の伝統がありました)。韓民族の軍事的な才能が開花するのは第二次大戦後の朝鮮戦争以降のことです。中華人民解放軍朝鮮人部隊とソビエト労農赤軍朝鮮人部隊を基幹兵力に据えた、朝鮮人民軍が6月25日に事前の計画に沿って南侵を開始した時点で、韓国国軍はひ弱な存在でした。共産主義者の軍隊に鎧袖一触されてしまいました。この反省を活かし、大韓民国は軍事力を涵養し、1960年代にはアジアで最も盛況と言われる陸上軍事力を建設します。ベトナム戦争などにも参加し、米国を始めとする参戦国から非常に高い評価を得ました。独立のために命を落とした英雄の慰霊塔のようです。三一独立運動の群像です。1918年3月1日に、当時の朝鮮の独立派の人々が京城市のパゴタ公園で独立宣言文を読み上げ、マンセーマンセーと気勢を挙げたことから全国的な運動になった、三一独立運動を顕彰しているようです。この運動は、あっさりと鎮圧されました。以降、朝鮮は自らの物理力で日本からの独立を目指す大きな運動は起きなくなります。首謀者は亡命し、その一部の人々が1945年に帰国し、政権を担うことになります。外国暮しが長い人々が帰国して政権を担ったため色々な齟齬が生じました。戦後から1960年代までの韓国の不幸の一因となりました。この運動は失敗に終わったものの、日本の統治路線の変更に大きな影響を与えたと言われています。また、中国北京で発生した五四運動にも大きな影響を与えたと言われています。今回で「反日」の部を終りにします。次回以降は「世界遺産」の部を始めます。今までとがらりと変わり、韓国(李氏朝鮮)が作り上げた壮麗な建築物をご紹介します。中国に近い分、中国チックに規模が大きいのです。中々のものでした。 良ければ一票お願いします。
2006/06/24
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今日は本屋で「逆風客室乗務員・CAとお呼び」という漫画を買ってしまいました。今日の契約客室乗務員の姿を描いた漫画で、ギャグ漫画です。なんか平和な作風で気に入りました。西大門刑務所博物館も流石に飽きて来たので、今回で終りにします。この日はフォトサービスを行っていました。戦前の日本兵の格好をした人と、囚人役なのか、男女学生服を来た人が写真に収まるサービスをしていました。本来はこういう絵を目指していたのでしょうが…。恐るべき韓国のガキンチョが近づいて参ります。「日本兵」の袖を引きます。戦前にそんなことしたら殺されるぞ…(実際は大多数の日本兵は異常に国を問わず子供に優しいので、そんなことはしませんけど、韓国や中国では日本兵は子供を殺すと教えられているらしいです)。あっという間に無秩序の嵐…。ホンマにこいつら遠慮と言うものを知りませんわ。遠くから撮るとこんな感じになってました。これは地下監房です。こんな感じの監房が地下に設けられていたようです。寒そう…。ここから先は、取り壊された獄舎です。半数の建物は取り壊されていますが、こんな風に遊歩道にされて、基礎部分だけ残されていました。次回は独立門公園をあっさりとご紹介して、世界遺産へ進みます。最後にこの西大門刑務所歴史館へのアクセスを記しておきます。 位置:西大門独立公園内 地下鉄:3号線独立門駅下車、5番出口 住所:ソウル特別市西大門区 休館日:毎週月曜日 良ければ一票お願いします。
2006/06/23
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昨日は泥酔していたわけではなかったのですが、帰りが遅かったので更新もコメントへのお返事も見送ってしまいました。申し訳ありませんでした。また、昨日は初めて楽天ダイニングを使ってみました。ちょっとしたポイントが来るはずです。これは上手くやると猛烈なペースでマイルが溜まりそうです。さて、今回は処刑場をレポートします。本物です。先ずはポプラの木の画像です。この木に関する韓国側の説明文を引用します。以下、かの国の政府の文章を引用しますが、私はこれが事実であるとも、事実ではないとも断言しません。以下の表示があったというだけです。(いつもの表示)<引用開始>死刑場の入口の前に空高く聳え立つこのポプラの木は、死刑場に入る死刑囚達がこの木を前にして慟哭したと伝えられる。また死刑場の中にある、もう一本のポプラは死刑囚達の恨みがこもり、成長が止まったという逸話が伝わっている。<引用終了>死刑場の中が暗いのでポプラの木の成長が停まったということのようです。こちらが死刑場の入口です。流石に雰囲気悪いです。こちらが死刑場の建物です。外から見ると田舎の小学校の校舎みたいですけど…。かの国による、この建物の紹介文を引用しましょう。しつこいようですが、私はこれが事実であるとも、事実ではないとも断言しません。以下の表示があったというだけです。(いつもの表示)<引用開始>この建物は日帝が1923年に建てた木造建物で、西大門刑務所に投獄された多くの愛国先烈達の死刑が行われたところである。日帝の侵略と蛮行に対抗し、投獄されて刑場の露と消えてしまった殉国先烈達の霊魂が漂っている死刑場は1988年2月24日史蹟324号に指定された。周りは高さ5メートルの赤煉瓦の垣に囲まれている。建物の面積は50平方メートルで、内部には死刑執行の時使った死刑囚の椅子・なわ・陪席者用の椅子がある。地下に処刑された死体を確認する部屋がある。<引用終了>早速建物側面に回りこんでまいりました。側壁です。こんな剥き出しの板壁ですが良く持ちます。建築後80年以上経過していますが、しっかりしていました。こちらが死刑囚の席です。中央の椅子に座り、首に縄をかけて、椅子がストンと地下に落ちる仕組みのようです。いわゆる絞首刑ですね。死刑囚自身の体重で頚骨が折れ死に至るというメカニズムのようです。ほぼ即死になるはずですので死刑の中では人道的な方です。我が国で暗躍した最悪の共産主義者のスパイのリヒャルト・ゾルゲの処刑にはワイヤで吊ってじっくり殺すような方式が採らたそうです。こちらは立会人席です。法の規定に基づく刑の執行に立会人を置くのは妥当な措置ではあります。しかし…、立会人はPTSDになってしまいそうですね。こちらは死刑場の反対側です。奥の方に地下に降りる階段があります。この階段から死体を運び出していたようです。刑務官の労働環境は余り良くないですね。こんな狭い階段を通って数十キロの死体を運び出した訳です。死刑執行小屋の全景です。FX01の広角28ミリの威力で全景が撮れました。処刑場の周囲は壁に囲まれており、なかなか全景を写すことは難しいのです。流石はパナソニック。処刑後の死刑囚の死体はこのトンネルを通って刑務所の外に運び出されます。死刑囚というものは、政治犯の場合には「宗教的な聖人」に祭り上げられてしまうことも多いのです。政治犯の場合は特に死体の処理にも気遣いが必要になります。そこで、このような秘密風のトンネルを通って密かに死体を運び出したのでしょうか。なお、このトンネルだけはレプリカだそうです。新しいです。我が国で開かれた東京裁判により死刑に処せられた人々は火葬されました(念のため申し添えますと彼らは我が国の法律では犯罪人ではありません)。米軍当局は火葬した遺骨を海に投棄したそうです。軍国日本の聖人にさせないためだったようです。 良ければ一票お願いします。
2006/06/22
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皆さんコメントありがとうございました。お返事は明朝にさせて下さい。酔ってますので更新も明朝にします。お許しを。
2006/06/21
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DNSサーバが復旧したみたいで、再び画像が表示されるようになりました。何だったのだろう…。色々なトラブルがあるのものです。今回は第13獄舎をご紹介します。先ずは建物の紹介文を引用します。もちろん、この文章も韓国の政府関係機関によって作成されたものです。以下、かの国の政府の文章を引用しますが、私はこれが事実であるとも、事実ではないとも断言しません。以下の表示があったというだけです。(いつもの表示)<引用開始>この建物は1923年に建てた獄舎で、投獄者達を強制動員した作業場である。ここでは、刑務所・軍隊・官公署などで必要な官用物品を作って供給した。日帝が第2次世界大戦を起こした後は軍需用品を精算生産調達するため強制動員したところでもあった。<引用終り>つまり、通常の懲役刑の囚人が作業に携わる場所であったと言うことのようです。現代日本の刑務所の殆どに作業場があります。懲役刑の受刑者が何か仕事をする場所ですね。この建物の中にはさまざまな体験コーナーが設けられております。最初にご紹介するのは「箱拷問体験コーナー」です。素晴らしい…。この箱の中に入ると、箱が動いて、耳元で非拷問者の悲鳴が流れます。ふーん。続いて「電気拷問体験コーナー」です。目の前のスクリーンに稲妻のような電流のイメージが流れ、椅子がブーンと震えます。ふーん。続いて、「裁判体験コーナー」です。ボタンを押すと、「判決を言い渡す。被告人を死刑に処す」という声が流れます(もちろん韓国語)。これであなたも死刑囚です。ふーん。最後の体験コーナーは、「絞首刑体験コーナー」です。これも凄いです。絞首台に乗ってスイッチを押すと、がたんと絞首台が5センチくらい沈みます。ふーん。これが絞首台です。この展示が図らずも当時の朝鮮総督府が法治主義を貫いていたことを示しています。 -法に基づく犯罪者の逮捕 -法に基づく事情聴取 -自白等の証拠に基づく公正な裁判 -裁判の判決に基づく適切な刑の執行という司法手続きを適切に追っていたことを示しています。当時の朝鮮総督府の自制の聞いた効いた犯罪者の訴追を説明しています。何故私が「自制の聞いた効いた」と表現したかというと、この時期のアジアの多くの地域では、裁判等の手続きを省略して処刑がなされていたからです。戦闘地域ではある程度は仕方がないのですが、非戦闘地域でも裁判無しの処刑が横行していました。戦後になっても、文革期の中国や、戦後の民主化以前の韓国、そして北朝鮮では今でも、非戦闘地域で裁判なし処刑が行われたと思われる傍証があります。この時期の朝鮮を統治した日本人がいかに健気に「文明人」であろうとしたかがありありと感じられます。 →まともな統治が行われた地域は限定されると思います。 →日本人がまともな統治を行ったと思われる外国の土地は →朝鮮と台湾と満州くらいです。先の大戦の占領地では →行儀が必ずしも良くなかったと思われる傍証があります。拷問体験コーナーを楽しむ韓国の小学生・中学生です。元気です。設備を壊さないか心配になりました。絞首刑体験コーナーで椅子取りゲームに興じる韓国の女子小学生です。楽しそうです。ちょっとはしゃぎすぎかなあ。体験コーナーの中では、絞首刑体験コーナーが大人気でした。中々人が居なくならないので、写真を撮るタイミングが難しかった…。今回はこの辺りにさせていただきます。【昨日の成果】ローソン(JCB) 4×1.5倍=6マイル(NH)楽天ブックス(SP) 30÷2=15マイル(NH)楽天ブックス(JCB) 30×1.5倍=45マイル(NH)朝食(SUICA) 4マイル(JL) 良ければ一票お願いします。
2006/06/21
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画像サーバで利用しているDNSサーバが機能停止になっているようで、画像が表示されなくなっています。復旧の時期は未定です…。涙。
2006/06/20
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今度は獄舎をご紹介します。これ以降残虐なシーンはありません。しばらくは。残虐なシーンが登場する場合には、しつこく警告をつけますのでご安心下さい。レンガ造りの堅牢な建物です。流石は文化財に指定されるだけのものです。なかなかの風情です。ちなみに小さく写っているのは、日本兵のコスプレを行っている韓国人です。この監獄は軍隊のものではありませんので、このような制服の人間が見張っていたとも思いにくいのですが…。日本国内の刑務所でも多用されている、放射状のデザインになっておりました。監視の手間を省くためのデザインと思われます。刑務所建築らしく、窓が小さいのです。いい出来の建物です。網走市の「博物館・網走監獄」よりも良いかも知れません。新しい分迫力がありました。草や木の緑とレンガが妙にマッチしています。公園チックな印象に仕上がっていました。それでは中に入っていきます。廊下が暗いです…。ちょっと恐怖感。雑居房の扉です。意外に薄いのでした。どの位の脱獄囚が生じたのかしら…。街に近い刑務所なので、刑務所から脱出できれば逃亡の確率はそれなりに確保できそうです。廊下から見上げた天井です。二階部分から一階の廊下を監視できる構造になっておりました。雑居房の内部です。落書きが酷い…。また、監視窓の形状にご注目ください。内部を監視しやすいように漏斗上になっていました。扉はそれほど厚くないのですが、壁は非常に分厚いのでした。壁を破っての脱獄は難しそうです。最後はおまけです。公衆便所です。便所まで刑務所デザインにしてありました。はー。今回はこんな感じで切らせて頂きます。次回は工作舎をご紹介します。この工作舎では、各種拷問・死刑判決・獄中生活・死刑執行など、数々の体験コーナーがありました。これも来てます。次回、ご紹介します。 良ければ一票お願いします。
2006/06/20
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サーバの電源工事も無事に終了し、再起動いたしました。画像の表示を再開しております。画像サーバ停止中にお越しいただいた皆様ご迷惑をおかけしました。さて、今回は、西大門刑務所歴史館の保安課庁舎地階に展示されている、取調べ(拷問)のジオラマをご紹介します。残虐な描写があります。向こうの国の当局が製作したものですが、残虐です。政府関係機関が製作したものとは言え、残虐な描写です。お子様には向きません。深刻な影響を受ける可能性があります。見たくない方は、この場で、「前へ」か「後へ」をクリックして、別の回に移動してください。この後に、改行を50行挿入し、その後レポートを続けます。激しく感情を害する可能性があります。不安のある方は、今回は見ないで下さい。私は警告しましたからね。再開します。先ずは水責めです。これはいかにも朝鮮総督府の当局者が用いそうな手段ではありますが、実際にこのようなことを行っていたということを示す、いかなるエビデンスも私は目にしておりません。くどいようですが…、私はこれが事実であるとも、事実ではないとも断言しません。以下の展示があったというだけです。女性の被疑者に対する取り調べの韓国側の手による再現です。この辺りも無理が…。雑居房で取調べを行うとも思えない…。供述内容が共犯に漏れると、供述を翻したり、共謀して虚偽の供述を行う等の支障が生じます。取調べは被疑者一名一名を別々に調べるのが原則です。考証がいい加減…。ちなみに係官の制服は、当時の警察官のもののようです。これも日本的なシーンなのかなあ…。どっちかと言うとKCIAが共産主義者の取調べに使いそうな手法です。当時の日本の場合は、ただただ木刀で殴りつづけるという、原始的かつ野蛮な手法を多用したようです(筋肉組織の崩壊で被疑者が死亡し易い手法でもあります)。築地警察署の取調べで何名の共産主義者が命を落としたことか…。この辺りから真実味が出てきます。手と腕を徹底的に痛めつけるという手法は内地でも頻繁に採用されていたようです。鞭ではなく、木刀や竹刀なら、正に非常時共産党壊滅作戦の時の再現ですね。こういうシーンを見て、図らずも多喜二の小説を思い出してしまいました。奥の被疑者は椅子に縛り付けられております。これは内地でも頻繁に使用された手法のようです。以上、ご紹介したものは全て、韓国当局による再現であり、真実であると言ういかなる根拠の提示もありませんでした。従って、くどいですが、私はこれが事実であるとも、事実ではないとも断言しません。以上の展示があったというだけです。ちなみに、現在の我が国の刑法には以下の規定があり、拷問は禁止されておりますし、拷問を行った公務員は刑罰に処せられます(だからと言って、現代日本の公務員を侮らないようにお願いします。犯罪は割に合いません)。(特別公務員職権濫用)第百九十四条 裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者がその職権を濫用して、人を逮捕し、又は監禁したときは、六月以上十年以下の懲役又は禁錮に処する。(特別公務員暴行陵虐)第百九十五条 裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者が、その職務を行うに当たり、被告人、被疑者その他の者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときは、七年以下の懲役又は禁錮に処する。2 法令により拘禁された者を看守し又は護送する者がその拘禁された者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときも、前項と同様とする。(特別公務員職権濫用等致死傷)第百九十六条 前二条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。但し、戦前は拷問は合法的な取調べ手法でしたので、仕事熱心な係官によって熱心に行われていた可能性は高いと思われます。【本日判明の成果】2006/06/17 JL1141 羽田-釧路 J 472 国内線2倍マイルプレゼント 472 クラスJボーナスマイルキャンペーン 167 国内線ダブルマイルキャンペーン 472 eチケットレス割引ボーナスマイル 100 マイルUPボーナス 555 2006/06/18 JL1042 札幌-羽田 J 434 国内線2倍マイルプレゼント 434 クラスJボーナスマイルキャンペーン 153 国内線ダブルマイルキャンペーン 434 eチケットレス割引ボーナスマイル 100 マイルUPボーナス 511 良ければ一票お願いします。
2006/06/20
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現在画像サーバの電源工事中です。明朝復旧の予定です。復旧までは画像が表示されません。お許し下さい。=======================最初から済みませんが、今日はサーバの電源工事の日なのです。20日の早朝は画像が表示されなくなります。予めご了承くださいませ。さて、微妙なもののレポートを続けてまいります。今回は、刑務所歴史館の正門の正面にある建物の「保安課庁舎」をレポート致します。この建物は、他の建物と違ってタイル張りになっています。結構新しい建物に見えるかもしれませんけど。この建物にも歴史があります。表示板から引用してみます。以下、かの国の政府の文章を引用しますが、私はこれが事実であるとも、事実ではないとも断言しません。以下の表示があったというだけです。<引用始め>この建物は監獄の事務を担当した保安課庁舎で、1923年地下一階・地上二階に建てられた。日帝は地下に監房を設置し、多くの愛国志士達を投獄して残酷な取調べと拷問をした。今は日帝侵略に対抗して戦った愛国先烈達の抗日独立運動の資料を展示して、高誠意に殉国先烈達の自主独立精神を言い伝える歴史教育場として造成した。一回は映像室・案内室・資料室・企画展示室。二階は民俗抵抗室・刑務所歴史室・獄中生活室。地下は臨時拘禁室・拷問室が設置されている。<引用終り>大正の末期に建てられた建物というわけです。まあ、大体こんな感じの建物です。早速中に入って参ります。二階に設けられた独房展示です。日本の普通の独房という感じです。拷問器具の一種のようです。この箪笥みたいなところに人を閉じ込めて長時間放置するという使用法のようです。日本統治時代にこういうものが使用されていたのか、どうも確信が持てないですね。関東軍の捕虜を、赤軍が取調べを行う際に使用したという話は聞いたことがありますが、当時の朝鮮総督府がこんな洗練された器具を使っていたのかなあ、という気がします。どちらかと言うとソビエト労農赤軍を母体に発足した朝鮮人民軍が持ち込んだと考えるのが自然な気がします。 →当時の日本警察は余り拷問が得意ではないという印象です。 →情報を取る前に誤って殺害してしまい、情報を取れない…今度は地下に進んで参ります。こんな廊下があります。地下の独房群です。この向こうに、朝鮮総督府による取調べのジオラマがあります。そうとう凄い描写です。次回ご紹介します。 良ければ一票お願いします。
2006/06/19
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北海道から戻りましたので、韓国レポートを再開します。前回に予告の通り、西大門刑務所歴史館をご紹介します。今回のレポートはちょっと表現が難しいのです。かの国の資料あるいは表示板から引用していきますが、これが本当のことであるとは限りません。ある種のプロパガンダ臭を強く感じます。以下、かの国の政府の文章を引用しますが、私はこれが事実であるとも、事実ではないとも断言しません。以下の表示があったというだけです。(引用始め)ここ(ソウル特別市西大門区)は、大韓帝国末に、日本帝国(日帝)の強圧で悪名高い監獄が建てられ、約80年間、韓国の近・現代史の苦しみと痛みを保ってきた歴史の現場である。日帝は、韓国の国権を侵し奪い、これに抵抗する愛国志士達を投獄するために、1907年から監獄を建て始め、1908年10月21日京城監獄の名で完成させた。日帝に国権を奪われるとともに、全国各地からこれに抵抗する愛国志士達の独立運動が激しく起きた。慌てた日本は愛国志士たちを逮捕・投獄するために、麻浦区孔徳洞に新しい監獄を建てるようになった。これによって京城監獄は1912年9月に西大門監獄に改名し、1923年5月5日、また西大門刑務所に変わった。1945年8月15日光復になるまで多くの愛国先烈達がここに逮捕・拘禁され、残酷な拷問と迫害を受けて処刑あるいは獄死した抗日闘争の中心地であった。その後、何回か名称が変わり、1987年11月15日ソウル拘置所が京畿道儀旺市に移っていくと、1988年から公園造成工事を始め、1992年第47周年光復節を迎え西大門独立公園として開園した。現在は、歴史性と保存価値を考慮して、獄舎7棟だけを原型のまま保存し、その中で獄舎3棟(第10・11・12獄舎)と死刑場は1988年2月20日史蹟第324号に指定された。その他にも第9・13獄舎・中央舎・らい病舎・保安課庁舎・塀・望楼などを保存した。1995年から西大門独立公園の史蹟地に対する聖域化事業を始め、祖国独立のため日帝の侵略と残酷な蛮行に対抗して投獄され、激しい拷問を受けながらも毅然として殉国した愛国先列達を追慕し、後世に韓民俗の自主独立精神を覚ますための歴史教育場として新たに西大門刑務所歴史館として開館した。(引用終り)とまあ、こういう風に説明しているのです。確かに拷問はあったでしょう。当時は合法でしたから。先ずは門からです。近代の日本建築らしい、レンガつくりです。保存状態は中々のものです。ちなみにこれは内側からの撮影です。こっちは外側からの撮影分です。現在の建物の配置図です。左側にあった建物群は撤去されています。右側の建物が保存されています。門の正面にある白い建物が、保安課庁舎です。ここで拷問が実行されたと韓国側は主張していますが、本当かなあ。小林多喜二虐殺や大杉栄殺害の例を持ち出すまでもなく、拷問は取り調べ段階で行われるもので、普通は警察署で行うと思うのですが…。どうでしょう。こちらは往時の配置図です。運動場がありますよね。今でも通用しそうなデザインです。次回から内部をレポートして参ります。先ずは保安課庁舎をレポートします。 良ければ一票お願いします。
2006/06/19
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北海道から無事に帰って参りました。maman.mさんのブログ記事及びアドバイスが非常に役に立ちました。ありがとうございました。ちょうどママンさんのブログでも道東のことが書かれています。私の暫定レポートをご覧になって、釧路を知りたいと思われた方は是非お立ちより下さい。とりあえずは寝ます。ちょっと疲労気味でして…。たくさんのコメントを頂きましたが、お返事は朝以降にさせて下さいませ。お許しを。帰着しましたので、背景をいつもの色に戻しました。
2006/06/18
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JR北海道の「一日散歩きっぷ」を購入して、函館本線で余市まで参りました。この切符の有効範囲はやたら広く、南は長万部から東は新得・滝川まで使えます。但し、特急に乗れないので、中々距離を稼げません。北海道では、小樽から南千歳を除くと、普通列車のダイヤが極端に薄く、少しでも寄り道をすると、たちまち数時間の列車待ち地獄に落ちてしまいます。今日も、札幌を出発した時点では、函館本線を小樽・倶知安・ニセコ・長万部と進み、東室蘭・苫小牧を通って、新千歳空港へ進もうと思っていたのですが、小樽と余市で寄り道してしまったので、余市でターンして、千歳線経由で空港へ向かわざるを得ません。さて、画像はニッカウイスキーの北海道醸造所です。 この工場では30分間隔で見学ツアーを行っています。蒸留工程など、実際の作業を見せてくれる工程もあって、結構楽しめるのです。余市駅から直ぐのところに在って鉄道からのアクセスは至って良し、お勧めです。試飲も出来ます。60度の原酒を出されたのですが、見栄を張って飲んでしまい、少し酔っております。ただ、この余市駅は鉄道のダイヤが異常に薄い区間にある駅です。時間が合わない時は、小樽からのバスも使えます。何を隠そう、私も帰路はバスにしました。こういう訳で大倉山のリフトには行かなかったのです。maman.mさんからせっかくアドバイスを頂いたのですけど…。1月に札幌市電に乗りに来た時にも大倉山へ行こうか迷った末に、吹雪に負けて、新千歳空港へ向かっておりました。次の北海道の課題にします。今回の旅行での暫定レポートはこれで最後に致します。一日当たりの通数制限から、これ以上流すと、帰着レポートが入らなくなってしまいますので。今までお付き合い頂き、ありがとうございました!。【今回の成果】判明し次第ご報告致します。【備忘記載】エアポート160号
2006/06/18
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ベタですけど、時計台に来ました。ラーメン屋じゃないですよ。私の家族の話によると「世界三大『行くとがっかりする観光名所』の一つ」と言われているそうです。他の二つは忘れました。確かに高層ビル群に囲まれており、埋没感があることは否定できません。しかし、ビルに埋もれても重要文化財です。内部は素晴らしい。特に時計そのもののメカニズムは一見の価値は十分にありました。食わず嫌いは行けませんね。ちなみに、時計台の撮影は向かいのビルの二階テラスからがお勧めです。ライトアップする見たいなので、夜にもう一度来ようかしら。全然話は変わりますが、最近は『ライトダウン』という言い方が市民権を得ているんですね。時計台がライトダウンしていないか確認しなければ…。
2006/06/18
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maman.mさん、釧路のガイドをしていただき、ありがとうございました。短い滞在でしたが楽しめました。さて、昨晩遅くに釧路駅を出発し、夜行特急「まりも」で札幌駅まで参りました。1月に来た時はB寝台でしたけど、今回は普通車自由席です。5月まではオフシーズンで寝台料金が3千円だったのですが、6月からは普通の料金に戻ってしまい、6千円もかかるので、寝台を諦めました。一応510円の指定券を持っていたのですが、空いているので、自由席で4席占拠しました。指定席だと毛布が使えるのですが、2席しか占拠出来なかったので、自由席車に移りました。釧路駅発車が43分も遅れたのに、札幌駅到着は定刻の5時50分でした。43分の遅れを吸収するとは…。どんな緩いダイヤなんでしょ。今日は札幌周辺をうろうろします。【備忘的記述】17日早朝6時30分に出発。JRとモノレールで羽田に移動。モノレールでは運転台の直ぐ後ろの座席を確保。東京モノレールがATCと初めて認識。25・50・60・70・80キロ各信号の存在を確認。羽田空港第1ターミナル北ウィングのJGCカウンターで、前便変更とクラスJのキャンセル待ち処理を行う。Aの4番。この番号がクラス変更できた最後の番号となった。Bの1番の客がゲート付近でグラホに悪態をついていた。恰好の良いものではない。機内では、JTBの時刻表を借りて7月の三連休パスの活用戦略を練る。仙山線に臨時が走ることが分かったので、この切符を釧路駅で確保することにしたい。機材は600、客乗はJD臭い。同じユニフォームを着用していてもJLとJDは未だにサービス内容が異なる。JDのサービスの方がいい。茶菓子一品が出た。まあまあ旨い。と言っても、旧JDのスーパーシートには遠く及ばないが…。釧路空港到着は5分遅延。羽田空港混雑が理由と言っていたが…、本当のところはどうなんだろうか…。600の巡航速度が原因かも知れない。着陸時から大雨。不運を嘆く。空港の設備は1月から大きな変更はなし。阿寒バスで釧路駅へ向かう。バスの乗車率は70近い、大したもの。釧路駅に到着。バス停と駅舎を移動しただけでずぶ濡れに。酷い天気。構内放送で下り列車の到着遅延を案内していた。札幌からの特急は70分遅れます、と連呼。酷いことになりそう。とりあえず、7月の連休中の指定券の確保を試みたが、なに一つ取れない。ドラえもん海底列車は三日ともダメ。583系仙山号もダメ。レトロ仙台号もダメ。ショック…。7月の三連休の行動を根本から見直さざるを得ない。いっそ、鉄道を全部キャンセルして、海外に行こうかな…。気を取り直し、今度は釧路湿原行きの定期観光バスを取りに行ったが、大雨のため運休。言葉も出ない。即座に札幌に移動しようかとも考えたが、炭鉱関係の施設だけでも見ておくことにし、市内バスに乗る。発作的に札幌行きの特急まりもの寝台で券を買ってしまった。1万5千円くらい。高い…。当然カード払い。約225マイル獲得。バスのダイヤが極端に薄いので、早めの昼食をとった。しけた蕎麦屋に入ったが、妙に旨い。北海道では時々あるパターンだが、何と言うこともない街中の店が高水準の食べ物を出す場合がある。そもそも釧路の海産物はレベルが高いし、蕎麦も評価が高い。意外でもないのかも知れない。11時40分のバスで炭鉱展示館へ向かった。途中で選炭工場や長大コンベアや臨海貨物専用鉄道を目にした。晴れていれば、絶対撮影に向かうのだが…。炭鉱展示館に入る。屋外展示物を撮影しようかとも思ったのだが、雨が酷く、とてもカメラを出せない。展示館の入口には大きな炭塊が飾られていた。他の方のブログで見た通りだった。中は無人だった。切符すら買えない。暫くして管理人が現れた。どうも模擬坑道に浸水が生じ、応急作業を行っていたらしい。この人にマンツーマンて説明して貰った。大変贅沢な気分になった。好きなだけ質問できた。それにしても、この鉱山は凄い。切羽が水面下750メートルの深さで坑口から8キロメートル〈水平距離〉にあるそうで入坑から切羽まで1時間かかるそう。九州だと一番片方から三番片方までの三交替だが、このヤマは各片方を更に二分割して、実質6シフトで操業していたそうな。切羽が遠いためらしい。また、ここに来るまで知らなかったのだが、この鉱山では鉱夫の賃金が固定給だったらしい。普通は差別出来高払い〈学術用語・確定レポートでは一般的な表現で言い換える〉なのだが。話しは鉱山保安に進み、事故の有無を聞いた。この鉱山でも昭和20年代には死亡事故があったらしい。メタンガス爆発が原因だったらしい。昭和30年代に保安技術が発展して、事故率は低下し、三池よりもずっと低かったと言っていた。技術面よりも人的な面が大きいような気もする。この鉱山は日本一の炭鉱である、という印象を強めた。昭和50年代に大事故を起こしたY鉱山とは正反対と感じた。展示物は三池や直方と同じ種類だが、釧路のものは新しくて大きい。現役炭鉱だけはある。現在でも年産出量70万トンだそうだ。社員数は概ね5百人だそう。中国やベトナムの鉱山技術者に海底掘りの技術を授けるという側面が大きくなっているらしい。現在の出荷先は電源開発が殆どとのこと。カロリーの関係で全量燃料炭として使われているらしい。鉱山からコンベアで石炭を運び出し、選炭して鉄道貨車に積み替え港に運び、京浜の火発に納めるよう。臨海鉄道は現役の石炭専用線と言うこと。管理人さんは炭鉱離職者だそうで、経験があるだけに質疑応答が的確。来て良かった。写真は取り放題。帰りのバスまで30分以上あったので、選炭工場まで歩いた。雨が酷い。靴下が濡れてしまい、気持ちが悪い。工場の外観や、臨海鉄道の写真を撮影。昭和30年代製造のディーゼル機関車が石炭ホッパ車を曳いていた。多分国内ではここだけの筈。満足感大。路線バスで再び釧路駅到着。14時過ぎ。札幌に行ってしまおうかとも思ったものの、待ち時間が長いので止めて、くしろ湿原ノロッコ号に乗ることに。出発まで30分くらい。先ほどの寝台券を乗変して830円のノロッコ指定券に変える。代理店がC制印を押し忘れたので差額が現金で帰ってきた。しめしめ、もう一度カードで券を購入して、更にマイルを稼げる。各線ダイヤは大幅に乱れていたものの、ノロッコは定刻発車。車輛設備は昨年3月とまるで変わっていない。客の入りは冴えない。この雨では仕方あるまい。ノロッコは団体が割と多い。JTBのワッペンを付けた乗客が多かった。雨はますます激しい。天井板がない車輛なので猛烈な音だった。トロッコ列車をイメージしているので気密性が悪い。寒い。その割には窓が曇る。車窓を楽しむ感じは全くない。ミスチョイスだった。塘路で折り返し、17時22分に釧路に到着。塘路でもやることは何も無かった。この気象条件では展望台に行っても、湖畔に出ても、何も見えまい。釧路駅でmさんのコメントを読んで和商市場へ急ぐ。雨は依然として猛烈。鉄道ダイヤの乱れが気にかかる。和商市場は既に「後片付けモード」の店も多い。時間がない。最初に目に入った「勝手丼」の鮮魚店に決める。この店のおばさんに勝手丼のご作法を教えて貰う。先ず弁当屋でドンブリ飯を買って、このドンブリを抱えて鮮魚店を周り刺身を購入し、飯の上に載せて行く。買い終わったら、市場中心部のテーブルでかきこむ。ワイルドなルールだ。ワイルドでかつ美味い。これは確かに名物だった。閉店間際の大幅割引もありがたかった。釧路駅に戻る。昼行最後の札幌特急に乗ることも考えたが、宿泊費を節約するために、夜行のまりもに乗ることにした。費用節約のために自由席にした。発車までひたすら待つ。待ち時間で携帯を充電した。まりもの発車は遅れに遅れた。釧網線と根室本線の列車到着を待っていたのが原因。発車は定刻から43分の遅れとなった。客車2両分の牽引力が足りないのか、今回も非営業車が1両組み込まれていた。寝台は1両は埋まっていたかも知れない。結構な入りだった。それにしても、気象条件に恵まれない。昨年に石垣島で台風5号に遭遇したのに比べればマシだが…。
2006/06/18
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ああっ。今回北海道に来た目的のひとつは、道内限定発売の臨時列車 ドラえもん海底列車の指定席券確保だったのですが、7月の三連休は全ての日にちで満席でした。ああーん、ダメだーん。吉岡海底駅はこの夏が最後の公開です。秋にはもう閉鎖されて新幹線工事所になってしまいます。最後に見たかったのに…。この列車だけではなく、 583系仙山1号 レトロ仙台号も全席完売でした。幸先悪いです。これは鉄道の神様が怒っている。鉄道旅行自体をキャンセルしなさいという、神様のお告げかもしれません。あーあ。あけぼののゴロンとシートを確保したと言うのに…。全然話は変わりますが、今JR北海道では道内特急自由席3日間乗り放題の「はなたび切符」という切符を期間限定で売っているんですね。これもチェック漏れでした。この切符の存在を知っていれば、今回の旅程も全然変わったものになったでしょう。最近準備不足の旅行が多いです。反省!。
2006/06/18
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maman.mさん、レコメンドありがとうございました!。釧路駅着17時22分のノロッコ3号で戻り、和商の閉店時刻に間に合いました。早速、音に聞こえた『勝手丼』を作って見ました。(^O^)v今回は閉店間際だったので、刺身の種類は限定されてしまいましたが、その代わり、各ネタ100円ずつ値引いて貰えました。今回の私のチョイスは、塩水うに×2、あおやぎ、帆立貝、イカと致しました。我ながら美味しく仕上がりました。ウフッ。(^ー^)さて、調子よく暫定レポートを作って来ましたが、気がつくと一日当たりの上限の5通目になってしまいました。今日はこのレポートが最後のレポートとなります。実は釧路臨海鉄道の編成写真等も撮影したのですが、通数制約からご紹介できません。確定レポートでご紹介することにさせて頂きます。追:画像はもちろん和商市場です。
2006/06/17
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maman.mさん、アドバイスありがとうございました。コメントを読む前に、既に釧網線に乗り込んでおりまして、市場には行っていないのです。釧網線は早まったかなあ。現在は、臨時列車『湿原ノロッコ4号』に乗っています。機関車+客車5両という編成で、うち4両は展望車です。本来は展望車から釧路湿原の眺めを楽しむと言う列車なのですが、「大雨洪水警報」下、窓も開けられず 、何か虚しいものを感じます。この1月に、同じ路線に乗っています。前回は蒸気機関車牽引であり、標茶駅までいったのですが、今回はディーゼル機関車牽引で、ターンする駅も塘路駅です。前回、踏切事故で2時間以上足止めされた、あの塘路駅です。何も起きないと良いのですが…。最後に画像のご紹介です。ノロッコの車内です。ジョイフルトレインらしく、ご当地系のデコレーションがふんだんにあるのです。
2006/06/17
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こちら釧路は大雨です。はー。釧路湿原行きの定期観光バスは運休だし、JR根室本線は2時間近く遅れています。はー。トラブルも旅の楽しみのうちなどと書いたことがありますが、やっば堪えます。そんな中で、来たかった場所の太平洋炭礦・炭鉱展示館に来ています。画像は、この施設の中に設けられた「模擬坑道」です。炭鉱関係の博物館は久しぶりです。大牟田市の三池以来です。規模といい、機械化の度合いと言い、流石は日本で唯一生き残った炭鉱です。感無量でした。堪能しました。でも…、これを見てしまうと、やることが無くなってしまいます。これからどうしよう…。晴れていれば、釧路臨海鉄道を見に行くのですが…。
2006/06/17
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六月のバーゲンフェアで釧路まで来ています。雨です。ぶー。(-_-#)梅雨を避けて北海道にしたのに…、このざまです。余程、私の普段の行いが悪かったのでしょう。こちらでの行動は全然決めていません。とりあえず、釧路駅まで行って、その先はいきあたりばったりです。
2006/06/17
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これより久しぶりに北海道方面に出撃します。実に久しぶりです。漸くマニ30に会えます。背景を不在モードに致します。
2006/06/17
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今日も酒を飲んでしまいました。続きを書く前にお詫びを致します。昨日掲載分の日記で、また誤った記述をしてしまいました。羽田弁当を初代空弁といい加減に書いてしまいましたが、事実誤認でした。最初の空弁は、2002年12月6日登場の「みち子がお届けする若狭の浜焼き鯖寿司」でございました。関係者の皆様にお詫びいたします。修理屋マイスターさん、ご指摘ありがとうございました。もう一つ舌足らずなところがありました。どらねこmさんから「kの旅行の飛行機代はいくらか」と言うコメントを頂きました。この旅行では、日本航空の特典航空券(14500マイル)を用いました。ちなみに諸費用(空港税や燃油料や保険料)が追加で5000円かかりました。さて本題に入って参ります。ソウル金浦空港に到着からです。地下鉄で金浦空港から市内のホテルに向いました。最近よく使うイムズハウスを利用しました。暫定レポートにも書きましたが、直接申し込むと一泊3000円弱で宿泊できます。安いです。ところで、この画像は、地下鉄の金浦国際空港駅です。市内への移動は地下鉄が圧倒的に安いのです。時間はちょっとかかりますけど。また、現在韓国の地下鉄では、写真のようなホームの扉を作っています。そのうち、地下鉄南北線のようになるのでしょう。鐘路三街(チョンノサムガ)付近の路上です。この近くのホテルがあるのです。ソウルの中心部に近く(地下鉄で2駅か3駅)の町なんですけど、風情があるんです。宿がある臥龍洞(ワリョンドン)の風景です。これはテーマパークでも博物館でもありません。人が住んでいるソウル中心部の建物なんです。いいでしょ。こんなところにこんな昔風の街路が残っています。これだけでも、嬉しくなりました。もう一枚掲げます。私が初めて韓国を訪れたのは1988年のことでした。あの頃は、街中至る所にこういう街路があったのですが、オリンピックからワールドカップに至る過程で殆ど姿を消してしまいました。今は中華人民共和国が物凄いスピードで変貌していますが(上海・北京など、数年で数ブロック完全に建物が入れ替わることもザラです)、90年代に最も変わったのは韓国かも知れません。これまた韓国では珍しいのですが、街中の寺院です。韓国ではカソリックが良く普及しており、キリスト教が大流行する以前は、儒教の国でした。仏教寺院は割と珍しいのです(慶州にはたくさんありますけど)。特にソウルではあまり目にしません。何故か私が宿泊するホテルはこういう町の中にあることが多いのです。最も安いホテルを選ぶので当然かも知れませんけど…。昨年、シンガポールのゲイランに宿泊した時のことを思い出しました。昌徳宮(チャンドックン)の正門の敦化門(トンファムン)です。宿はこの直ぐ近くにあります。後でこの宮殿はガイド付きで周ることになります。後日レポートします。ちなみに、1997年に世界文化遺産に登録されています。非常に保存状態が良いのです。とりあえずここはパスして、西に向いました。地下鉄の駅に向う途中で見かけた日本大使館公報文化院の掲示板です。業界用語では「ポンタイ」と言います。ソウルは比較的評判は悪くないです。評判が特に悪いのは○○○○○の○○○市です。先の大戦中に○○○○○の○○○市に置かれていた憲兵司令部は「帝国陸軍の恥部」と言われていたそうです。悪い伝統を引き継いでいるのかも知れません。こんな感じで、最初の目的地の西大門刑務所博物館を目指しました。この門の向こうが刑務所博物館です。昨年の3月に網走監獄(博物館)に行きましたが、デザインは非常に良く似ておりました。博物館の内部は次回レポートします。残虐なシーンがあるので要注意の回になりそうです。【本日の成果】朝食(SUICA) 4マイル(JL)Infoseekモバイルラッキーくじ当選 0.5マイル(NH) 良ければ一票お願いします。
2006/06/16
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週末韓国旅行のご紹介です。最初の画像は某JR駅です。こんな感じの空模様でした。曇ってます。いや、雨が降りそうでした。なんか嫌な感じでした。羽田の国内線2ターミナルから国際線ターミナルへの移動に使った無料バスです。第2ターミナルから歩いても良い距離ではありますけど、やっぱ面倒なんで、バスに乗りました。朝から弁当にしました。著名な「空弁」の初代です。 →初代ではありませんでした。 →失礼しました。羽田空港が最初だったらしいのです。羽田周辺はかつても今も有名な漁場です。漁獲量は少ないのですが、収穫物の評価は高い(美味しいと言われています=単価が高い)のです。そうこうしているうちに雨が降り始めてしまいました。羽田の駐機場はこんな感じになってしまいました。羽田の搭乗ゲートです。この建物に見覚えがある方は多くないかも知れませんけど、その昔は、バスでここまで来て、ここからボーディングブリッジを通って搭乗するという使われ方をしていた建物です。旧日本エアシステム便で良く使いました。羽田第2の供用開始以降は使われていない風でしたけど、この「建物」まで、国際ターミナルから連絡橋を設置して、今度は国際線のゲートとして使われていました。昔はビートたけしさんの絵が飾られていましたけど、今は当然撤去されています。こういうところに来ると、ついつい、今は亡き日本エアシステムを思い出してしまいます。機内食です。韓国便でも、東京路線はまだ機内食が出ます。と言ってもこの程度ですけど。離陸後にシートベルト着用サインが消灯した際に撮影したものです。曇っております。現地の天候が気になりました。3月に購入した広角28ミリのFX01で飛行機の便所を撮影してみました。広角性能が狭い便所で遺憾なく発揮され、便器と手洗いを両方とも視野に入れることができました。 良ければ一票お願いします。
2006/06/15
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今回から新しいシリーズを始めます。先月に行った韓国のレポートです。本来時系列で並べると、韓国レポートの前に、ゴールデンウィークの東北鉄旅行が入るのですが、鉄で東北が二連発になると風情もくそもなくなりますので、先の韓国をご報告します。この韓国行きは一泊二日で、お馴染みの「羽田=金浦」の定期チャーター便を利用しました。訪れたのは、 西大門刑務所博物館 昌徳宮(李氏朝鮮の王宮) 水原華城の三箇所です。土日の二日しかなかったので、このくらいしか行きませんでした。なお、ソウル=水原の往復には韓国鉄道庁(本当は韓国鉄道公社ですけど、時々韓国鉄道庁とか韓国国鉄と表記します。本人はKORAILと呼ばれるのを好みます)のセマウル号を利用しましたので、一部「鉄」が入ります。韓国はこなれたデスティネーションですので、何れも行ったことがある方も多いかと思いますが、notoshun流のレポートをお楽しみいただければ幸いです。ちなみに上の動画は、羽田空港に向う途中で撮影したモノレールの車窓です。次回からレポートを始めます。 良ければ一票お願いします。
2006/06/15
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横須賀でテスト撮影を行った際の続きです。気持ちよくカメラを振り回していた私の関心は再び潜水艦に向きました。潜水艦にはまだ乗ったことがないなあ。艦尾には軍艦旗がありました。今は自衛隊旗(海上自衛隊旗?)と言うのかしら。甲板上に佇む関係者の皆さんです。こうして見ると艦橋が結構大きいことが分かります。第二次大戦の頃の潜水艦とは大違いです。補修のために係留されているのでしょうか…。色々とごちゃごちゃ付けられています。角度を変えて、潜水艦を撮影してみました。黒い船体が陽光を反射していました。なかなか潜水艦から離れられません。今度はベルニー館から港の広角写真を撮りました。潜水艦や護衛艦の位置関係がわかりますよね。港の反対側です。新しいデジカメのハンドストラップが写り込んでいます。あはは。下手糞ですね。今度は軍事遺跡です。ヴェルニー公園の中に保存されている、逸見波止場衛門跡です。昔の軍港の門の一つで、水兵が上陸する時は、ここを通ったようです。その他の、停泊中の水上打撃艦艇です。艦番48とか56とは読み取れるのですが、艦名が判明しません…。こんな撮影を行い、新しいデジカメの能力を確認して満足して帰路に付きました。帰りもグリーン車にしてしまいました…。これで場面転換のためのインターミッションを終りにします。次回からは韓国旅行のレポートをお送りいたします。【本日の成果】朝食(SUICA) 4マイル(JL)ローソン(JCB) 7×1.5倍≒約10マイル(NH)Infoseekモバイルラッキーくじ当選 0.5マイル(NH) 良ければ一票お願いします。
2006/06/14
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長いシリーズを終えたところなので、直ぐに次のレポートに移る気になれなくて…。今使っているデジカメを買った際に、横須賀にテスト撮影に出かけた時の画像をレポートします。4月に撮影しました。当時買ったばかりだったFX01の広角28ミリの威力をテストしたかったのです。移動は当然のように横須賀線グリーン車にしてしまいました。スカ線グリーン車の内装は、大体特急の普通車並みです。あっさり横須賀駅に到着しました。この当時は一泊二日の週末旅行に出かけるのを差し控えなければならない時期でした。毎週のようにホリデーパス(首都圏乗り放題2300円のきっぷ)を使ってました。そのうち、ときわ路パスになるんですけど。横須賀駅前にはヴェルニー記念館という建物があります。横須賀港を設計した幕末か明治の外国人エンジニアの名前から取ったみたいです。画像はこの記念館にある、オランダ製の蒸気ハンマーです。幕末のものらしいです。なんと国の重文です。この画像もヴェルニー館の中です。広角の威力を測っています。こっちはFZ30で撮影した分です。横須賀駅前からは、海自の軍艦がたくさん見えます。米軍の軍艦は駅から見て奥の方にあるので良く見えません。この画像は我が国海上自衛隊の潜水艦と思われます。海自の護衛艦と思われるのですが、艦名がはっきりしません。ううっ。これも海上自衛隊の船です。艦番174から見てイージス護衛艦の『きりしま』と思われます。海上自衛隊でも最も高価な船のはずです。合衆国海軍の小さな船が近づいてきました。内火艇というのかなあ。この回の撮影枚数は少ないのですが、今回はここで切ります。後一回で終りにして、全部で二回のレポートにします。【本日の成果】朝食(SUICA) 4マイル(JL) 良ければ一票お願いします。
2006/06/14
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今回の北陸旅行で撮影した動画です。趣味の世界ですけど。宜しければご覧下さい。実は、急行「能登」には金沢駅から富山駅までしか乗っていなかったのでした。富山で「能登」を降りて、後続の寝台特急「北陸」に乗り換えていたのでした。
2006/06/13
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一本シリーズを終えたので、リンク付の目次を作っておきました。お付き合いいただきありがとうございました。【確定レポート】(1)発端 (2)こまち号のグリーン車 (3)大曲駅 (4)特急かもしか(5)快速リゾートしらかみ(6)ボックスシート (7)トランスフォーメーション (8)五能線(9)列車交換(10)特急つがる(11)青森駅と白鳥の便所(12)白鳥の設備(13)函館駅(14)北斗星4号(15)北斗星の客室(16)二人用B個室寝台「デュエット」など(17)北斗星の夜明け(18)石越駅付近をトロトロ通過した頃(19)強風による停車でものすごく暇な状態(20)まだまだ暇です、小牛田駅にて (21)陸羽東線の救済列車(22)古川駅(23)長野新幹線で釜飯(24)軽井沢は寒すぎました。(25)再出発は特急「あけぼの」号(26)特急「あけぼの」ゴロンとシート (27)秋田・盛岡・八戸(28)三沢駅への移動(29)十和田観光鉄道三沢駅(30)特急「白鳥」号で野辺地へ(31)野辺地駅構内(32)野辺地駅ホームでの撮影分(33)きらきらみちのく下北の先頭車両(34)きらきらみちのく下北号「畳車輌」(35)きらきらみちのく下北号車窓など (36)大湊駅入線時の連続写真(37)大湊駅の周辺(38)リターン・トゥ・MORIOKA (39)二戸駅と多目的施設「なにゃーと」(40)最後の新幹線でもトラブル…。辛いです。 (41)新幹線はやて号グリーン車車掌室(音声のみ・画像なし)(42・終)最後に乗車した特急は「かいじ」【暫定レポート】【出動】三連休パスで能代方面へ出動いたします。 【暫定】盛岡駅【暫定】快速リゾートしらかみ【暫定】函館本線函館駅【暫定】寝台特急北斗星4号 【暫定】小牛田駅に停車中【暫定】長野新幹線軽井沢駅【帰投&出動】ただ今一時帰宅しました。【暫定】特急あけぼの 【暫定】はやて・こまち分割【暫定】きらきらみちのく下北【暫定】はやてのグリーン車 【帰投】ただ今、二戸より帰着しました。 良ければ一票お願いします。
2006/06/13
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北陸に出かけていたので最終回だけ飛んでしまいましたが、今回でお終いにします。それにしても…、サッカーは残念でした。猛スピードでレポートしてきた、三連休パス0泊3日も今回でお終いにします。三連休パスを有効活用(酷使)するために、ただただ特急に乗りつづけて参りましたが、今回が最後です。東北新幹線「はやて」は東京駅に約30分遅れて到着しました。後は自宅に帰るだけです。最後の乗車は、この列車になりました。E257系特急「かいじ」です。この列車で東京→四谷を移動しました。この区間で特急に乗車したのは今回が初めてです。日立製作所平成13年製です。JR発足後、東日本会社は日立とちょっと縁が遠くなっていた時期がありましたが、今ではこのように日立製の特急電車が走っております。全11両編成で、グリーンは半室のみです。短距離・高輸送量車輌なんですね。そこら中が鏡仕上げになっていました。この辺のデザインに気合が感じられます。成功不成功は別にして…。客室もオーソドックスなラインながら、モケットの色にユニークさを醸しておりました。扉の内側は赤色に塗られております。洋式便器です。この色は…。便所では結構冒険しておりました。男性用小便器は没個性でした。その代わり…。洗面台は意欲的なデザインになっておりました。三角コーナーに手洗いを設けているのは初めて目にしたのでした。こうして、鉄分の濃い(鉄分しかない)0泊3日の旅程を終えました。総乗車距離は4200キロになりました。十二分に元は取りました、はい。最後までお付き合いいただきありがとうございました。次回から一旦インターミッションレポートを入れて、韓国旅行かゴールデンウィークのツアーをレポート致します。 良ければ一票お願いします。
2006/06/13
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北陸・金沢市から戻って参りました。百万石まつりは中々のものでございました。素晴らしかった…。留守中にコメントを多数ありがとうございました。今晩お返事を書きますので、お許しください。
2006/06/12
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今は金沢発の夜行急行『能登』で上野を目指しています。鉄子にも登場したこの列車には、ラウンジが設けられています。画像は、このラウンジです。ちなみに、形式は古い489系で、所属は「金サワ」でした。国鉄時代の車輛らしく、ボンネットタイプでした。渋い…。
2006/06/11
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