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手塚治虫の「きりひと讃歌」を読んだ。昔、読んだ時はあまりの暗さや猟奇的な話に辟易としたのだが、今、読み返してもやはり暗い。手塚治虫といえば、よくヒューマニズムだとか命の大切さだとかといった枕詞で語られることが多いが、実はけっこう不条理な話、暗い話が多いように思う。だいたい鉄腕アトムの巻でファンの多い「地上最大のロボット」だってそうではないか。別に悪役でもないロボットが体が真っ二つになったり、手だけ残したりして粉々になる…なんていう描写は、子供の頃、リアルタイムの連載に読んだ時は鬱な気分になったものだった。そんな手塚作品の中でも「きりひと讃歌」は猟奇、残虐、不条理といった要素がこれでもかとばかりつめこまれていて、それを作者はあとがきで生涯の傑作と評しているのだから、作者の本質がいかにこうしたものを指向していたかということがよくわかる。それと同時に再読してみると、あらためてこの作品のすごさ、傑作たるゆえんもよくわかる。※若い頃にはすごくいやだった残虐場面や猟奇的場面も免疫のできた?今となってはさして拒否感はない。そしてそれを超えて伝わってくるのは、やはり生命とか人間とかといったものに対する讃歌である。主人公の名前小山内桐人はイエスキリストをふまえたもので、難病にかかった主人公を人類の苦難を一身に背負ったとされるキリストになぞられたことが、たぶんこの作品のモチーフであろう。この世には様々な不幸があるが、その中でも難病などは最も不条理な不幸の筆頭である。ただそうした難病も自然界に存在している以上、まさに誰かがかかるわけであり、そういう意味でたまたまそんな確率にあたってしまった場合は、まさに人類の苦難を一身に負ったということになぞらえることができるのかもしれない。もし読んでいない人がいればぜひおすすめの本である。もっとも自分もそうだったのだが、高校生くらいまででは、ちょっと刺激が強すぎるかもしれない。※それにしてもあらためて思うのは漫画家としての手塚のすごさである。ところどころに象徴的なカットが挿入されていてそれがすごくよい。例えば、自らも難病にかかりながらも、スラム街で病者を献身的に看護する女性がでてくる。その女性と別れた後、彼女の住む町をふりかえる場面がある。言葉を連ねるよりも一枚の絵が多くのことを語るという見本のような場面である。手塚治虫が亡くなってからも様々のことが起きている。エイズなど新しい病の出現。オウム真理教事件。9・11。そしてハンセン病に対する国家補償や元患者に対する差別の問題。手塚治虫がもし生きていれば、こうした問題をふまえて、いったいどんな作品を書いていたのだろうか。
2009年05月31日
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マスクというのはインフルエンザがうつるのを防ぐというよりも、うつすのを防ぐのに効果があるという話がある。おそらく多くの人は人にうつすことよりも自分がうつされることを防ぐためにマスクをするのだろうけど、もし、かかった場合に人にうつさないことを配慮できる人がどのくらいいるのだろうか。実際に感染爆発を防ぐためには、うつらないための用意と同じくらいに、うつさないための配慮が必要であろう。※民主党の代表が決まったとき、こんな言葉を思い出した。敵に回したらこれほど心強い人はいない。味方にしたらこれほど手ごわい人はいない…と。友愛なんていう言葉は、なんか20世紀少年の友民党を連想させる。その風貌は世俗にまみれた政治家というよりも、どうみても世間をさわがしたサリン教団の幹部達の風貌を彷彿とさせる。それでもご祝儀相場なのかもしれないけど、民主の支持率は上がっているようだ。これで解散は少し延びたのではないのだろうか。※おとといの日記で劇「蟹工船」について書いたが、船という閉ざされた空間での反乱の物語というのは他にもいくつかあるようだ。以前、戦艦バウンティ号の反乱というのを読んだことがある。船長初め幹部達が船員を奴隷のようにこきつかう。たまりかねた船員達は船長らを狭いボートに追放し、船の主導権を握る。その後、どうなったか。船員達にはまともに船を運航するだけの能力も知識も無く、船は漂流をつづけたはてに、小さな島に漂着し、その島には今でも反乱船員の子孫が住んでいるのだという。一方、ボートに追放された船長らは、巧みに難局を乗り越え、本国に戻った船長は、その後、さらに大きな船の船長になって職業生活を全うした。寓話として読んでもいろいろ考えさせられる話である。
2009年05月20日
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劇「蟹工船」を思い切って見に行った。昨年から社会現象をまきおこしている小説を原作にしているのだが、舞台という形にすると改めて原作のメッセージがばんばんと伝わってくる。高校生のときに一度読み、ブームになった昨年にも読み返したのだが、「蟹工船」というのは、思ったよりもずっと凄い小説なのではないか。群像劇なのだが、一人ひとりを舞台ではずっと膨らませてあり、作者とその恋人をモデルにしたとおぼしき登場人物を配したことも成功しているように思う。最初はばらばらだった人々がラストでは団結している。そして一度はつぶされたものの、きっともう一度立ち上がる。人間の尊厳を守るため、そして生きるために…。臨時工の登場人物がさりげなく正規工と臨時工との分断を語るあたりは今日の派遣問題を想起させるし、「アダムスミスが憎い」というつぶやきも市場原理主義に対する呪詛にも聞こえる。蟹工船は戦前の物語だが、それはそのまま平成日本の物語にもなるのではないか。自己責任、能力主義、そんな掛け声の下、人間の尊厳はずたずたにされ、就職失敗や失職、経済不安による自殺者も急増しているという。おしむらくは舞台では観客の数というのは限られる。夏には今度は映画版「蟹工船」が公開されるという。もしその映画が舞台と同じくらいの素晴らしいものならば、きっと社会を動かす力だって持つかもしれない。あの映画「遠い夜明け」がアパルトヘイト廃止の力になったように。※※昨日の日記でマルクスについて書いた。高校時代、マルクスを読みあさったが(ほとんどは理解できなかったのだけど)、違和感を感じてならなかった部分があった。それは「鉄鎖のほかに失うものが無い」労働者という語であった。鉄鎖のほかに失うものが無いなんてことがあるのだろうか。家族もいる、子供もいる、そしてその子供には将来があるのに…。家族と貧しくともささやかな幸せがあれば人は革命など簡単には望まないにちがいないはずではないか。しかしそのマルクスの言う「失うものが無い」労働者というのは、平成日本では急速に増えているようだ。収入が低く結婚もできない。家族との縁もない。友人もいない。そんな人々がさらに年をとり、将来のわずかな希望までも失っていったら、それこそ、正真正銘の「失うものが無い」労働者となることだろう。そうなったとき、世の中は、社会はどうなっていくのだろうか。
2009年05月18日
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雇用者の待遇をよくすると企業は人を雇わなくなるとか、外国に逃げるという議論がある。不安定雇用であっても、サービス残業漬けの過酷な職場であっても、失業よりはましではないか…という論法である。でもよく考えるとこうした論理はちょっと変なように思う。雇用者は雇う側である企業に比べると圧倒的に弱い立場にある。それこそ職を失えば路頭に迷うしかないのだから、どんな不利な条件であっても我慢するしかなかった。そんなわけで資本主義勃興期にはひどい労働環境の下で働く労働者が数多くいた。一日十数時間の労働で、食べるのがやっとの賃金…。こうした中で現れたのがマルクスの思想であった。その後、雇用法制も次第に整備されていき、最低賃金や労働時間の上限など様々な規制ができてきた。労働法というのは現行法の中での重要な法分野となっている。だから前述の雇用者は仕事があるだけでもありがたく思え、待遇をよくしたら失業者が増えるぞという議論は、こうした労働法制の発達を無視し、産業革命時のような悲惨な労働環境を肯定する理屈のようにみえてきてしまう。たしかに昨今の状況をみると、月100時間を超える残業やサービス残業もめずらしくないし、非正規雇用の増加で長い時間かけて形成されてきた解雇規制の法理も空文化しつつある。最低賃金についてはもとより生活保護水準以下である。しだいに実態は女工哀史や蟹工船の頃にもどっているみたいで、こんな中でマルクスが見直されているのも無理もないという気がする。※こんな労働法制と同様のことは借地借家法についてもいえる。こちらも借主の権利を手厚くすれば家を貸す人がいなくなるという議論があるようだ。家を貸してもらえるだけでありがたく思えというわけである。借主と貸主の立場の非対称性は、雇用者と企業のそれと同様である。そうした中で借家人の権利を守るために構築されてきたものが借地借家法ではないのだろうか。借主の権利を手厚くすれば借家の供給がなくなるという議論はこうした経緯を無視するものとしか思えない。※※民主の小沢代表が辞任した。党首討論を逃げたような格好になり、タイミングとしては最悪だろう。そしてこの期に及んでもなお、政権交代のことばかりをくりかえす。いったい政権交代してどんな国家にしたいのか、どんな社会にしたいのか…そこらあたりはさっぱりみえないわけである。
2009年05月12日
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故ケネディ大統領の長女キャロラインさんのニュースをみるたびに思い出すことがある。それは昔みた漫画雑誌に「キャロライン日記」という大統領令嬢の日記なるものが連載されていたことである。よく覚えていないのだが、毎日、新しい服を着て、パーティーにいくような夢みたいな生活をつづったものだったような…。当時日本はまだ貧しく、欧米ははるかに豊かだった。外国に行ったとか飛行機に乗ったというのは自慢話の種になり、路で東アジア人種以外の外国人が歩いていると皆振り返ってみていたっけ。なにしろ、英会話入門書の冒頭に「外人は皆カッコいいわけではない」なんてことが新知識の伝授のように書かれていたくらいだった。米国大統領令嬢の生活は、おとぎ話のお姫様よりもはるかにリアリティがあり、遠い世界の憧れを十分にかきたてた。毎日アイスクリームを食べられる生活…それだけで子供にとってはうらやましすぎる話だったから。※そしてそんな漫画雑誌だってしょっちゅう買えたわけではない。友人とまわし読みをしたり、床屋に行く兄弟や友人にくっついていって待っている間に読んだりと。だからあの頃読んだ漫画で、ストーリーが気になるものがいくつもある。古い漫画も最近ではずいぶん復刻されているが、それでも昭和30年代の漫画となるとなかなかでていないようだ。思い出すままに…。赤松セツ子氏の漫画だったかと思うが「しあわせの星」というのがあった。継母ものというか、本当の母を捜すことを物語の中心にすえた物語がはやっていて、これもその一つだったように記憶している。母親と会えそうでいてなかなか会えないという場面の連続なのだが、主人公はマリーちゃんとかいう金髪の少女で、なかよしのよし子ちゃんという普通の少女がいつもくっついていた。とびとびで読んでいたのだが、いったいどんなシチュエーションの物語だったのだろうか。少年漫画では石川球太と「ザンバ」(たしかそんな名前だったっけ?)という漫画があった。なんか少年ケニアのようなジャンルに属する漫画で、アフリカでターザンみたいな生活をしている少年が主人公だったと思うのだが、そこにでてくる魔術師が日本の般若面をかぶっていて、どうも日本人で主人公の父らしい…そんな物語だったように記憶している。30年代の日本の物語でアフリカで暮らす日本人を主人公にするなんていう発想がすごいと思うのだが、はてさてどんな話だったのか。他にも「チャコちゃんの日記」、「星のなぎさ」、「発明ソンタ」など、復刻されたらぜひ読んでみたい。手塚治虫のような巨匠の作品は全集などででているようだが、それ以外となるとなかなか読めないようである。
2009年05月04日
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公有地を神社として使用していることが政教分離原則に違反するという議論があるそうである。日本には津々浦々、街を歩いていてもあちらこちらに神社がある。今まで考えたこともないのだが、ああした神社の土地というものの所有権はどうなっているのだろう。宮司が常駐しているような大きな神社ならば、おそらく宗教法人の所有となっているのだろうけれども、小さな神社、もっと小さな祠のようなものは、もしかしたら公有地ということだってあるのかもしれない。神社がその場所にあるには、それぞれ古くからの由来がある。公有地だから神社があるのはいけないといわれても困るような気もする。※もっと不思議なのは教会である。韓流ファンなので、大久保コリアタウンに行くこともあるのだが、そこにほど近いところに戸山公園という大きな公園がある。その中に箱根山という小山があるのだが、その付近に戸山教会という教会がある。http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-uchi/koken/f34.htmlかつてはこの場所は陸軍学校であり、教会はその陸軍学校の会議室の跡地にたてられているのだという。教会自体は木造の質素なものなのだが、その下には石造りの立派な地下室が壁だけを外にだしている姿をみることができる。陸軍学校と教会というのもなにかそぐわない感もあるし、いったいこの場所に教会ができたのにはどんな由来があるのだろうか。ここには終戦直後、米軍キャンプがあったというので、もしかしたらそれと関連があるのかもしれないけど。※厳密にいえば公有地に宗教施設があるのは憲法違反という議論もあるだろう。しかし、神社などは古くからその場所にあってコミュニティーの中心になってきていた。日ごろは意識していないかもしれないが、宗教心のよりどころという役割だってはたしている。山の上の神社、海をみはるかす神社、街角の神社。そこにあるものはそのままにしておけばよいではないか。
2009年04月30日
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古典を題材に本を書く作家は多い。こうしたものの中には原作を忠実に写したものとかなり作者の創作が入っているものとの二種類があるようだ。どちらがよいというのではないが、原作が書かれた時代や場所の雰囲気を正確に知りたければ原作どおりのものがよいし、物語を楽しみたけれな現代人向けに創作されたものの方がよいということだろう。※例えば三国志といえば吉川英二のものが有名だが、あれにでてくる劉備玄徳の母というのは100%吉川氏の創作で原作にはでてこない。あの母は横山光輝の漫画にも出てくるので、原作の人物と思っている人もけっこう多いと思う。反対に原作にあって吉川版で削除されているエピソードもある。劉備玄徳が道に迷い、一夜の宿を借りたとき、何も客に出す食べ物がないのを悲しんだ主人が妻を殺してその肉を食べさせたところ、劉備はその忠義に感動して後日褒美をとらせたというエピソードである。劉備は有徳の士として描かれており、この話は日本人の感覚ではイメージをぶちこわすものでしかないのだが、人肉を食べることと有徳の士であることとはなんら矛盾しないという中国の感覚を知る上では、これは重要な話なのではないのだろうか。人肉の話はずっと後の時代を舞台にした水滸伝でもさかんにでてきており、及時雨(適時に降る雨)に例えられる徳高い人物である宋江ももちろん人肉を食べている。日本人の感覚では人肉食は嫌悪の対象でしかないが、中国ではそうしたものも文化伝統の中に生きており、よいとか悪いとかではなく、それが文化特性というものなのだろう。ちなみに孔子の高弟の子路は内乱に巻き込まれて戦死し、死後その身を切り刻まれて塩漬けにされる刑を受けたという。その知らせを聞いた孔子は家にあった塩漬け肉をすべて捨てさせ、その後、一切塩漬け肉を食べなかったというが…はて、孔子の家にあった塩漬け肉は何の肉だったのだろうか。※日本の古典の源氏物語も多くの作家が書いているが、創作の程度は様々であるようだ。実は小説では谷崎源氏を途中まで読んだだけだが、あれは原作に忠実であるかわりに、文章が古典の翻訳調で冗長にすぎたように思う。田辺源氏や瀬戸内源氏では、より創作的な部分もあるというが、読んだことはない。また、小説ではないが、漫画「あさきゆめみし」などは原作と創作の程度が適度でよくできていると思う。特に原作にはない登場人物の心理の動きなど、漫画作家の解釈ではあるが、そういうことなのかなあと納得できる部分が多い。ただ、こうしたものはやはりいずれも現代の読者向けに愛を美しく書きすぎているようにも思う。源氏に描かれている愛は厳しい身分制度の中で女の自由意志などは一顧だにされなかったような時代のもので、今の感覚とは随分違う。宇治十帖にでてくる浮舟にしても、匂宮と薫の両方に愛された浮舟は大層幸福な女性だったのかといえば決してそんなことはない。匂宮はいずれ浮舟を姉一宮の女房として差し出すつもりであったし、これまでもしっかりとした後ろ盾のない女を愛し、飽きたらそのようにしていた。薫は内親王を正妻に迎え、浮舟の方は宇治に住まわせたままほとんど訪問をしていない。そのほか当時の習俗として、男君は女君のところに通いながらも、女君に仕える女房と深い関係になることも普通に行われており、これも召人として公認されていた。女君は女君一人ではなく、後盾となる親の財力はもちろん、女房の魅力も借りたりして、男君をつなぎとめていたわけである。
2009年04月19日
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「国を守るために国民が犠牲になる」という言葉がある。政治家や評論家の中にも、この言葉の好きな人がいて「国家のためには国民にも血を流す覚悟が求められている」などという。どうもよくわからない言葉だ。※この国というのを家族に置き換えてみたらどうだろうか。「家族を守るために家族が犠牲になる」?これではまるっきりの論理矛盾だろう。「家族を守るために父が犠牲になる」。これならありうる話だ。ただその場合、父は自分の身を犠牲にしてもかまわないほど、妻子を愛していたという状況が必要である。常に父が犠牲をいとわないというわけではない。となると「国を守るために国民が犠牲」になるような場合は、犠牲になる個人は他の自分以外の国民一般を、父が妻子を愛するのと同じ程度に愛していたのだろうか。それもありそうにもない話だ。※ぶっちゃけていってしまえば、この「国を守るために」というレトリックは、国家がある個人に死地に行くことを強制する場合に、その悲惨さを覆い隠すためのレトリックにすぎないような気がする。戦場に行く側もそれを送り出す側も、心をもった普通の人間である。国家によって死までも強制されるなんていうふうにはどちらも思いたくない。だから、そんな時には思いっきり美しい言葉が使われる。「国家を守る」、「悠久の大義のため」、「自由と正義のため」など。※国家の三要素として、国民、国土、主権ということが言われている。主権というのも、民主主義の下では、個々の国民の意思の集積なのだから、国家というのは、国土に暮らす国民の集合体といってもよいかと思う。そうだとしたら、「国を守るために国民が犠牲」というのは「国民を守るために国民が犠牲」ということになり、どうにもならない論理矛盾だろう。家族を守るために家族が犠牲というのと同じである。それとも、「国を守るために国民も犠牲を払う覚悟がいる」などということをいう政治家や評論家の頭の中では、国民というのは一枚岩ではなく、守られるべき国民と犠牲になってもよい国民との二種類がいるということなのだろうか。これなら納得がいく。
2009年04月16日
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マスコミの麻生総理批判にはかねてより疑問をもっていた。漢字のささいな読み間違いを大報道し、まるで総理が常人以下の知性しかないような印象をふりまくこと…それにいったいどんな意味があるのだろうか。そればかりではない。総理の実家が捕虜虐待をやったとかやらないとかいう事実、大臣の酩酊会見の騒ぎぶり。国益という概念すら離れて、ひたすら政権を叩くことばかりに熱中しているとしか思えない。今度のロンドンからの映像では総理が各国の首脳と談笑しているものがあったが、これについてはマスコミは何もいわない。まあ、普通の国では首脳が英語で意思疎通できるなんて当然のことで、これも普通のこととしてマスコミは何もいわないのかもしれないけど。※かつての「鮫の脳みそ」という名での森総理バッシング。それに田中真紀子つぶし。こうした政治家は別に好きでも支持しているわけでもないのだが、それでもマスコミのたたきぶりは公平さを欠くとは思っていた。そういえば一頃話題になった森総理の「神の国」発言。あれも一行だけ取り出して引用すると変なことをいっているようだが、全体をみれなごくごくまっとうな発言である。いったい何が問題だというのだろうか。http://www.butsudan.kogeisha.com/main/essay/2000.08.html※※この発言にあるように日本人は昔から人智を超えた自然に敬意を払って生きてきた。こうした感覚は人類共通なのかもしれないが、日本では特に強いのかもしれない。趣味で韓国語を勉強し、韓国の新聞を読んでいるのだが、日本ではさっぱりみかけないが、韓国では毎日のように大きなスペースをさいて新聞広告をだしている業種がある。一つは移民斡旋業者。そしてもう一つは整形手術病院である。二重まぶたの整形などは当たり前。もっとすごいのは、ほお骨をけずり、顔の形を変えるような整形手術まであるらしい。そして、韓国の整形業界は、今や韓国人だけではなく、中国からも多くの顧客を受け入れ、一大外貨獲得産業になっているという。なぜ日本では韓国ほどに整形手術が普及しなかったのだろうか。これはやはり、日本では山川や巨木、石などの自然物もあるが、人間の存在そのものもまた人智を超えたものという感覚があるからではないか。それが人間の身体そのものを改造することの抵抗感につながっているような気がする。よいとか悪いとかということではなく…。※この整形手術とは方向が真逆であるが、中国などに比べ、歴史上残虐な話が少ないというのも、こうした感覚と関連があるのではないか。中国では昔から、手を切ったり、足を切ったり、去勢したりという人体を改造する刑罰がよく行われてきたが、日本ではあまりそうした例はない。やはりどこかで人間の体を改造することに嫌悪感をもっていたからなのだろう。まあ、日本でも釜茹でとか髑髏杯の話はないこともないが、これはしょっちゅうあったというのではなく、稀有な例だからこそ歴史上の話として残っているようにも思う。
2009年04月03日
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以前、本屋で「水からの伝言」という写真集をみたことがある。きれいな音楽や美しい言葉をきかせたときと汚い言葉を聞かせたときとでは水の結晶の形が変わるという不思議な写真集だった。写真の中には、タンゴを聞かせたときにできた結晶などというのもあって、それはたしかに二人の人物が踊っているようにも見える形をしていた。あたりまえだが、水には音を聞く神経などはない。したがって空気の振動という音そのものならともかく、音楽や言葉の意味が結晶の形に影響するわけもないのだが、これをもっともらしく写真集でみせると変に説得力がでてくる。似たようなものに優しい言葉をかけると植物の成長がはやまるとか、美しい音楽を聞かせると酒の味がよくなるということが、まことしやかに言われることもある。植物にも醗酵中の酒にも音を聞く神経もなければ、音楽の美醜や言葉の意味を聞き分ける知能もない…当然のことだけど。それなのにおよそ擬似科学とすらいえないようなこんな説がもっともらしく思われるのはなぜなのだろうか。おそらくそれはアニミズムとか言霊思想とかといった祖先から受け継がれてきているものとシンクロするせいだと思う。水といえば無機的だが、川とか海とかいえばどうだろう。川や海のような水辺は古来から神がやどるところとされていた。そうした水に呪力のある言葉をとなえることにより、水難を避けたり、豊穣を願うことが出来る。そんな昔からの信仰がどうもあの水からの伝言が話題になった背景にあるように思う。
2009年03月23日
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よく右とか左とかいうがよくわからない。旧社会主義国で右派とか左派といった場合、左派というのが共産主義勢力をさすのか、それとも旧社会主義国だと逆になるのか、どちらなのだろうか。また、最近イスラエルで右派が選挙でどうとかこうとかという記事があったけど、イスラエルの右派って何なんだ。まさかネオナチじゃないだろうし。※まあ、小生の場合には右とか左とかではなく、常に当事者だったらどうなんだという発想で物事を考えるようにしている。だから、当事者でないことに胡坐をかいてきれいごとを言うような議論には与しない。資本家と労働者では労働者、経済的強者と弱者では弱者の側に立つ議論は概ね左に分類されているようであるが、どうもよくわからないことがある。いわゆる左に立つという人々の中には、少年法などの厳罰化反対、死刑制度反対という人がかなりみられる。しかしながら、犯罪でまずターゲットになるのは社会的に弱い立場の人ではないか。足立区のコンクリート殺人事件の被害者は家計を助けて毎日8時過ぎまでのアルバイトをしていた女子高生であった。闇サイト殺人事件の被害者は10時過ぎに仕事を終え徒歩で帰宅途中の派遣社員であった。犯罪少年の中には少年だからたいしたことないと高をくくって犯罪をくりかえす輩もいる。一人殺しても死刑にはしないと国家が保証するのなら江東区の神かくし殺人や闇サイト殺人のようななんの落ち度もない女性などを狙う犯罪はますます増えるのではないか。経済的な面では弱者によりそうはずの左を自称する方が、なぜこと犯罪になると加害者を擁護するような議論をするのか不思議でならない。※そしてまた左と称する人々がなぜ憲法9条にあれほど宗教的ともいえる思い入れをしているのかも理解に苦しむ。9条はそれなりに理想をたたえた条文で変えるべきだとも思わないけど、9条は人類の宝だとか、9条を読むと気分がしゃんとするとかとまで言うのを聞くとなんだかなあ・・・とも思う。9条はそんなに素晴らしいものなら世界中にとうに広まっていてもよいはずだ。例えば、テロに怯えるイスラエル、空襲に怯えるパレスチナの憲法には、それぞれあの条文を入れたらよい。貧困や格差の広がる今日。多くの人にとって切実なのは9条ではなく、25条の方ではないのだろうか。9条は素晴らしい条文かもしれないけど、明日の糧に悩む人々からみればちょっと遠い議論のような気がする。9条礼賛に使うエネルギーのいくらかを25条の方にまわしてはどうなのだろうか。そうすれば、もっとずっと広範な支持が集まるように思うのだが。※※当事者感覚とか当事者によりそうという発想は、マスコミなどの言論界にも求められている。例えば殺人犯の手記などを出版すれば売れるだろうが、たぶんそれをやった出版社は非難の矢面に立つことだろう。被害者や遺族の感情を逆なでして金儲けをする所業だからである。しかし、それは著者が犯人ではなく、「ジャーナリスト」だとしても、状況は同じではないのだろうか。異常な犯罪などを素材にして、大衆の好奇の目におもねる本を出す。被害者にすればたまったものではない。そんなものは社会の良識が淘汰すべきではないか。最近、新潟で起きた女性の長期監禁事件を素材にした本が出たようだが、これを某大新聞は書評でとりあげ「事件の真相を丹念にほりおこした労作」と誉めていた。ああ、こういうのを人権侵害っていうのに、なぜわかんないのだろうか。マスコミの皆様、あんたたちこそ一番人権侵害をしているのに、ネットの人権侵害なんて本当によくいうよ。
2009年02月23日
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とうとう見てしまった。東京の中でも乗降客の多い某駅の通路に若い男(身なりは決して悪くない)がうつむいたまま正座していて、その前には缶が置いてある。これって日本にはなぜかいないこととなっている乞●ではないのか・・・。これからはこういうのは増えていくのだろうか。不況、失業、雇用不安。どんどん続く負のスパイラル。売り上げを伸ばしているのは安価を売りにしている企業ばかり。しかしその安い価格だって、背景には人件費の買い叩きがある。低賃金やライバル企業の経営悪化。いずれはそんな安い価格のものすら買えない人々が量産され、その効果はブーメランのように当の企業に返ってくることだろう。蟹工船や女工哀史の時代からいったい何年たった?せめて労働基準法くらい守ってくれ。※どうみても緊急の課題は景気や雇用だと思うのだが、国会では麻生の漢字誤読の次は大臣の酔っ払い会見でもちきりだなんて、いったい何を考えているのだろうか。それにしてもあの大臣の会見はひどかった。あの方もでてきたばかりの頃は颯爽としていたのに、いつからあんなになっちゃったのだろう。顔だって同姓のもう一人の政治家よりもはるかによいし、いちおうT大もでているのに。それにしても疑問なのだが、秘書官は何をしていたのだろうか。あんな異常な状況は素人目にも明らかではないか。急遽体調不良になり、会見はとりやめたといえば、これほどの騒ぎにはならなかっただろう。
2009年02月17日
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昨日の朝日新聞の記事「資本主義はどこへ行く」はなかなか面白かった。すでに故人となられた経済学の巨人だったら今日の事態をどうみるかという企画記事であったが第1回はケインズとドラッカー。要約は下記のサイトに掲載されており、感想にも大いに共感する。http://blog.goo.ne.jp/longicorn/d/20090111ケインズ、ドラッカーもよいけどやはり一番興味があるのは、なんといってもマルクス。もしマルクスが今日よみがえったら(そんなことはないのだが)、いったいどんなことをいうのだろうか。※思えばマルクスの不幸なところは教祖のようなまつり上げられ方をされてしまったところではないか。マルクスが教祖ならその著作は聖典として不磨の大典。受け止め方も全肯定か全否定。いったいなぜそんなことになったのだろうか。思えば社会主義の名を冠した国家がいくつか誕生したが、まともな資本主義の歴史をもっている国は一つもなかった。そうした国では、既存の宗教、そして王や貴族などの既存の権威を否定する手段として社会主義を使ったのではないか。既存の宗教や権威に代わるものとしての社会主義であれば、それは擬似宗教化せざるをえない。だからこそ、個人崇拝や宗教弾圧、そして精神的自由の抑圧などは、そうした国々でよくみられたが、マルクスの思想からそうした人権抑圧が当然にでてくるわけではない。冷戦の崩壊で社会主義の名を冠する国々が消滅したが、それは本当の意味での社会主義が敗北したわけでもなければ、マルクスの思想が否定されたわけでもないだろう。※資本主義が究極まで発達すれば多くの人々が抑圧され、やがてそうした抑圧された人々が反旗を翻すようになる。マルクスの警告した資本主義の弊害は前世紀よりも今世紀においてますます顕著になってきているようにも思う。社会主義の歴史というのは終わったのではなく、むしろこれから始まるのかもしれない。※もちろんマルクスは19世紀の人間。当時と今とでは産業構造も社会のあり方もまるで違う。いくらマルクスが優れた知性の持ち主であったとしても、今日の情勢を予見することはできなかったはずだ。正直言って彼の階級史観などはいかにも古い。地主の子供は地主。工場主の子供は工場主。資本主義勃興期には親が生産手段を持つか否かが子供の社会的階層を決定したが今日ではそんなに単純ではない。生まれながらの「階級」ばかりを強調すれば、結局は機会の平等さえ保障すればよいような議論に堕していくことだろう。そしてまた生産手段の国有化と計画経済にしても、それほど複雑化した社会では需要も含めた経済のすべてを計画で行うなどは無理な話だ。マルクスを教祖のように仰ぎ、その著作を聖典視するのではなく、マルクスの提示した理想を受け継ぎながら、今日の産業構造に適合したような理論を提示していくこと。もしかしたらそんなことが今のぞまれるのかもしれない。※マルクスがもし今いたら、はたして何をいうのだろうか。某社会主義国の小噺にあったように「私は間違っていた。万国の労働者よ。許してくれたまえ。」というのだろうか。それとも、「ほら、私のいったとおりではないか。」というのだろうか。
2009年01月12日
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今年の初詣は過去最高の人出だったという。不況の影響とかいわれているが、高齢人口の増加とか別の要因もあるのではないか。それに不況だから神頼みというよりも、不況だから遠出や旅行ができないということもあるのかもしれない。http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090109k0000e040057000c.html※近所の神社に初詣に行ったが、普段は閑散としているのに、この日だけは階段の下から人が並んでいる。人が多勢いると必ずどこかから日本語以外の声が聞こえてくるものだが、初詣の混雑ではそうしたことはまずない。いまどき外国人の姿がほとんどみえない人ごみって初詣くらいではないのだろうか。初詣に行く方はたいてい日本人なのだが、神様の方は舶来の神様もけっこう多い。七福神ができたのは室町時代の頃らしいが、ヒンドゥー教や道教の神もいるのは周知のところである。
2009年01月11日
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年賀状が昨年よりも6%も減少しているという。そりゃそうだろう。非正規雇用の増加など職場環境の変化だけでなく、地域や親族とのつながりまで希薄化している今日、年賀状を出すようなつながりは年々少なくなっているのだから。年賀状だけではない。お歳暮やお中元などの贈答品の売り上げや忘年会の回数など・・・おしなべて減っているのではないか。人と人とのつながりが希薄化していく中で完全に社会から孤立している人々も増えていることだろう。独居老人などがその典型だが、最近では若者や中高年でもそうした人が増えているという。政府では、治安対策の一環として孤立する若者を支援する施策を考慮しているというが、いったい誰が「犯罪予備軍」として犯罪に走らないための支援を受けたいと思うのだろうか。余計なお世話である。※思うにこうした孤立の背景には、貧困や定職がなく継続的な人間関係が築けないなどのもっと別な問題がある。治安対策という上から目線でなく、真にこうした貧困の問題を解決する一環として人々の連帯をよびかけるような運動ができないのだろうか。いささか古い話だが、昔々「うたごえ運動」というものがあった。いまこそああした運動があればよいのに。公民館や公園で皆が声をあわせて歌う。ワンオブゼムでの歌声なので下手は気にしなくてもよい。お年寄りには健康法になるとともに再び人とのつながりを再認識させるかもしれない。若者には「貧困の自己責任論」の中で鬱屈しているのではなく、連帯によって社会を変えることができるという希望を与えられるかもしれない。※うたごえ運動からでた曲ではないが、かつて「友よ」という曲があった。集会などでさかんに歌われ、食傷するほどであったが、今あらためて聞くと、本当に今の時代こそもっともっと歌われてよい曲ではないか。作者の岡林信康は教会の家に生まれ賛美歌で育った方だそうだが、この曲もどことなく賛美歌のような雰囲気がある。光とか闇とかいう言葉だけでなく、歌詞や曲全体の底に祈りがあるからであろう。友よこの闇の向こうには友よ明るい明日がある夜明けは近い夜明けは近い…http://jp.youtube.com/watch?v=4Ds_5aCIuow&feature=relatedうたごえ喫茶のびHP版http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/年収200万円以下の若者、ホームレス生活を余儀なくされた中年ぎりぎりの生活をしている老人日本列島のあちこちから、そんな人々の間から祈りのような歌声がわきおこる。そんな情景を想像する。※※某自動車企業が減収だ減収だと騒いでいる。新車一台分にも満たない年収の不安定労働者をさんざん量産してきた元凶が、今頃になって車が売れないと騒いでいるのはなんかこっけいである。そしてそんな企業が政府に支援を求めるなどと言っているのをきくとますます首をかしげてしまう。業績好調のときは天文学的な額の報酬を貰っていた役員がいるのに、なんで税金にたかろうとするのだろうか。政府も政府で、車を買える人に対する減税なんて視点がずれているのではないか。政府の施策の目標は車を買えない人が車を買えるようにすることであって、すでに車を買える人を支援することではないはずだ。すでに住宅を持てる人に対する支援、すでに結婚し子供を持っている人に対する支援も同様で、こんなのは高いところに土を盛る施策だとしか思えない。
2008年12月29日
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今も言われてるかどうかはわからないけど、かつてこんな言葉があった。人類を変えた二つの書物をあげれば、それは聖書と資本論である。なるほど。しかし、その読まれ方ではこれほど対照的な書物はない。聖書の方はこの世の始まり「創世記」からこの世の終わり「黙示録」までを通読した人は少ないかもしれないけど、ともかくよく読まれている。地域的広がりという面でも、どんなマイナー言語にでも翻訳されているのが聖書なので、そんなマイナー言語を学ぶ人には聖書がなによりという話まである。一方、資本論はといえば、こんなに有名なのにこれほど読まれていない書物というのも珍しいのではないか。その資本論が漫画化されたという。http://ratio.sakura.ne.jp/どんなものかは現物をみてみないとわからないが、こんなことも「共産主義」という妖怪を平成日本に復活させるきっかけになるのかもしれない。※資本主義勃興期にあらわれ、その資本主義の限界を説いたという意味でマルクスは非常に興味深い人物だと思う。資本家が自己の利益を極大化しようとすれば労働者から搾取せざるを得ない。そのため労働者は次第にその生存まで脅かされるようになる。派遣切り、就職難、長時間労働、ワーキングプア。昨今の状況をみるとまさにマルクスのいったとおりのことが起こっている。ただしマルクス主義は宗教ではないし、マルクスも教祖ではない。資本論の背景となった資本主義はあくまでも19世紀イギリスの勃興期の資本主義である。当時だったら親が地主や工場主かそうでないかは大問題で、だからこそ生まれながらの階級や機会の平等が主な問題となった。産業の複雑化した今日ではそうした階級や平等の意味も違ってきているのではないか。資本論が漫画という最もなじみやすい媒体で紹介されることで、多くの人が資本主義と平等や人間らしい生活の意味について考えるきっかけになればよい。
2008年12月14日
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韓国に行ったときに違和感を感じた光景の一つにマンションの窓にカーテンがかかっていないことがある。今はどうか知らないけど、夜でもカーテンをひいていない家が多く、目をこらせば部屋の様子が見えてしまいそうな気がした。でも、「外から見られる」という発想を捨てて、「中から見る」という発想に切り替えれば、カーテンをひかない生活もなかなかよいかもしれない。ある程度の高層階なら毎晩夜景を鑑賞しながら夕食なんていうのもよい。最近は我が家近くにも高層マンションが増えた。ああいうマンションの高層階の住民って、カーテンをひかずに毎晩夜景を楽しむ生活をおくっているのだろうか。それにしてもあんなに林立するマンション。いったい誰が買うのだろうか。いまや東京に住民が集まってくるという時代ではない。いやそれどころか、人口全体が減少していくというのに。退職者なら無理して地価の高いところにマンションを買う必要もない。親と同居していた人が死別したというケースなら今までの家をリフォームする方が普通だろう。正直あこがれる展望や夜景を取り入れた生活。それだけにいったいどんな人達がああいったマンションに住んでいるのか、とても気になる。
2008年12月13日
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ちょっとSF的な空想をしてみる。もし100メートルを何秒で走れるかで収入が決まるという社会があったらどうだろうか。100メートル9秒台で走れる人は巨額の収入。20秒以上かかるひとはぎりぎりの生活。30秒以上だと自分では生計をたてられない。そんな社会で、もしこんなことをいう人がいたらどうだろうか。100メートル9秒台で走る機会は誰にでも開かれている、人生のいつの時期でも100メートル9秒台で走ることに挑戦できる機会がある、だから20秒以上かかる人が貧困生活を送っていたってぜんぜん問題ではない。努力と研鑽で早く走れるようになればよい。遅いのは自己責任だ。※もちろん人間の能力の多くは100メートルのタイムのような単純なものではない。個々人のミクロ単位でみれば、「自分は能力がない」なんて思ったところでよいことは一つもないし、研鑽や努力も重要なことにはかわりない。しかしそれでも、人間の能力の多くは100メートルのタイム同様天賦のものによることが大きいし、研鑽や努力といっても限界があるのも、残念ながら事実である。だから、機会の平等さえあればよい、再チャレンジの機会さえあればよいという議論は、ちょうど100メートルのタイムで収入が決まる仮想ワールドの前述の議論のようにナンセンスなのではないか。機会の平等や再チャレンジの機会も重要だが、結果の(ある程度の)平等やセーフティネットも社会の安定には不可欠である。最近でも、雇用のさらなる流動化で格差や貧困の問題は解決するといった言説がまだあるようだが、これも仮想ワールドでの前述の議論に似ている。雇用の流動化で再チャレンジの機会は増えるかもしれないが、それは格差や貧困問題の解決にはならない。雇用の流動化は正社員のフリーター化であり、貧困の一層の拡大になると考えた方がより現実的ではないか。参照 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20081210-00000001-voice-pol※それにまた今だって本当に能力と資質のある人間には案外機会は開かれている。生まれや育ち、学歴や性別にも関係なく・・・。30歳すぎてからとびこんだ販売の世界で成功した林文子氏は有名だが、最近でも、40歳過ぎて駅弁の販売売り場でアルバイトを始め営業所長になった人が新聞に紹介されていた。個々人といったレベルでは自分の可能性を信じ、研鑽や努力を積んでいけばよい。ただ社会全体としての貧困や格差の問題を考える場合には、機会の平等や再チャレンジの機会を強調するだけでは解決にはならない。
2008年12月11日
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「神道の逆襲」という本を読んでいたら、日本の神というものは「お客様」のようなものというくだりがあった。幼い頃、遊んで家に帰ると家の様子がいつもと違う。不思議に思いながら玄関に入ると、よそ行きの服を着た母が唇に指をあてて囁く。「騒いではだめよ。今、お客様が来ているのだから」。ちょうどこんな感じだというのである。※そういえば神社の雰囲気というのは、たしかにお客様が来ている家の雰囲気と似ている。そこでは日常とはちょっと違う。何か常ならぬものがいる。なにものがおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼれる・・・こんな歌もそうした雰囲気を詠んだものだろう。初めての道を散策して神社にぶつかるのもうれしいけど、思わぬところに小さな神社があるのもうれしい。東銀座の近くの店で友人と待ち合わせをしたのだが、そこに宝珠稲荷という神社があった。なんと歌舞伎座の横の1等地である。その一部屋ほどの一角だけはなんか銀座の賑わいとは異空間といった趣で、社殿の奥に明かりがついているのも不思議な感じだ。悩み多き今の時代。足をとめてお祈りをする人もけっこういるようである。※京都にもこうした街なかの神社が多い。いやそれどころか小さな祠なら町のあちこちにある。京都の街を歩いたときもそんな街中の神社にぶつかったことがある。金山神社。祭神は金山彦金山姫という神でイザナミが死ぬ直前に吐いたものから生まれたという。もともとは鉱山の神で吐しゃ物と溶けた金属の類似からの連想がもとにあるのだろう。それが今では金属製品の神、金つながりで資産運用の神にもなっている。神というものも、人の悩みや欲望の変化にともなって、変っていくものなのだろうか。
2008年12月04日
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今年の流行語大賞はアラフォーとグ~ということらしい。アラフォーはドラマをみていないし、周囲でもそんな言葉を使っているのは聞いたことがない。グ~の方はお笑い芸人の一発芸らしい。まあ、消えなければよいけど。今年の流行語、自分なりに選べばやはり「蟹工船」だろう。※世界史の教科書でおなじみの資本主義揺籃期の英国…。そこでは都市労働者が低賃金で一日十何時間もの労働を行い、結核などの病気も蔓延していたという。そんな土壌の中ででてきたのが空想社会主義であり、マルクス主義なわけだが、昔そんな話を学校で聞いたときは、「悲惨な労働者」なんて過去の話だと思っていた。それが急速に変わってきたのはここ数年だろう。富裕層、格差、名ばかり管理職、ワーキングプア、ニート、フリーター、ネットカフェ難民。ためしに数年前買った辞書でこんな言葉を調べてみればよい。たぶん出ていないだろう。ホームレス、リストラ。こうした言葉だっておそらく20年前の辞書には載っていない。変わったのは言葉ではなく、実態である。※社会主意が崩壊して20年近い。社会主義の脅威を受け福祉に目をむけ、修正に修正を重ねてきた資本主義が、社会主義というライバルがなくなったことで凶暴な牙をむきだした感じだ。悲惨な労働者は過去ではなく、現在の話である。ある統計によれば週に60時間以上働いている人が1割にのぼるという。つまり深夜までの残業というのも珍しくないわけだ。非正規雇用者になれば求職の時間や連絡待ちの時間もあるので、拘束時間はもっと多いことだろう。そして年収200万以下、つまり自分の生計も維持できるかどうかといった賃金以下の層も1000万人を超えている。蟹工船とセットで収録されているので読んだ人も多いと思うのだが「党生活者」という小説がある。あそこにでてくる労働者達は仕事帰りに「しるこ屋」に言ってだべる時間があり、解雇となれば団結して抵抗した。時代は下って「キューポラのある街」の最後にでてくる工場労働者達。昼休みには屋上でバレーボールや合唱を楽しみ、さすがに深夜までの残業はないだろう。健康な人間が定職につけず、結婚どころか自分の生計すら維持できない。朝早くから深夜までの勤務も珍しくなく、労働基準監督署にかけこめばたちまちに解雇される。ホームレスの中には数年前までは普通のサラリーマンだった人も珍しくないという。なにか今の労働者って、昭和30年代あたりにくらべても、よほど悲惨のような気がする。※最近はフォークの神様岡林信康が若者に人気だという。蟹工船だけではない。反戦フォークやうたごえなど、労働者の側からの抵抗のシンボルだったものが、今後、次々と復権していくのではないか。むきだしの資本主義に異議をとなえるために。
2008年12月02日
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義賊として有名な鼠小僧の話は実はフィクションである。そうした盗賊は実在したが、単に武家屋敷専門に盗みを重ねただけで、その金を貧しい人に配ったりはしなかったそうである。しかし、庶民はそれでも彼に喝采を送ったのは事実だったという。何故だろうか。日頃自分達を見下し虐げている武士をだしぬいて窃盗を重ねている・・・そんな彼に庶民は自らの願望を重ねたのである。江戸時代は強固な身分社会で、それだけ希望ももてずに鬱屈した生活を強いられている人が多かったからだろう。身分や貧富などで人々が分断された社会ではまず治安が悪化する。治安の悪化は犯罪を行う当人だけでなく、そうした犯罪に密かに快哉を叫び、捜査に非協力的になる庶民にもよるところがあるのだろう。だから途上国では一般人のみならず、セレブや金持ちを狙った犯罪も頻発するので、金持ちは要塞のようにガードマンで囲まれた区域に住むのだという。日本でもそんな要塞マンションが現れたそうだから、まあ、日本もそれだけ途上国化していったということかもしれない。※セレブ、金持ちといえば、その頂点にいるのは「王様」である。こう考えると、「王様」の地位も格差の烈しい途上国よりも北欧などの成熟した福祉国家で安定しているというのも納得がいく。王室のニュースが多くの国民に微笑みをもって迎えられる・・・それも多くの人々が幸福に暮らすことの出来る中流社会、福祉社会ならではの贅沢というものであろう。
2008年11月19日
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君にこそ蟹工船を読んでほしかった・・・この漫画が秀逸である。http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200806241225182「君」に必要なのは希望。連帯によって社会は変えられる。そしてその希望がある限り「君」は負け組なんかではない。※この間の日記で日本には労働行政も雇用政策もないなんていうことを書いた。いったい日本で労働行政なるものが始まったのはいつのことなのだろうか。それは社会主義運動や労働運動が体制に脅威を与えるようになった昭和初期、内務省の中に労働行政を担当する部局が設置されたのが最初のようである。なんのことはない。日本の労働行政は社会主義や無産者の運動から体制を守るために、労働者を宣撫する手段として始まったのだ。そうだとしたら冷戦終結で「社会主義の脅威」が薄れれば労働行政や雇用政策が空洞化するのも無理もない。つまり労働行政の規制緩和。するとどういうことになるか。企業、つまりその所有者である株主達であるが、競争に勝ち利潤を極大化するためには人件費を下げようとする。原材料や機械は安くするわけにはいかなくとも、人間なら安く出来る。非正規雇用の活用と正規、非正規を問わずに行うサービス残業の強制である。過労死や過労によるうつ病、自殺は過去最高に達したそうだが、たぶん氷山の一角だろう。今の労働環境自体が劣悪化し、蟹工船も過去の物語ではなくなっているのだから。※最近発表された厚労省の調査では非正規雇用者の割合が4割近くに達しているという。性、年齢階層別の比率はでていないようだが、30代の男性に限ってもかなりの比率に達するのではないか。貧困の拡大や未婚率の上昇なども、おそらくこうした非正規雇用者の増とリンクしているのだろう。不況だと言って、多くの企業は派遣の雇い留めや社員のリストラを言い出しているという。学生の内定取消しも相次いでいるという。愚かしいことである。政府が小金をばらまいたところで、雇用不安が社会を覆っている状況でどうやって景気が回復するのだろうか。明日の職さえ不安な状況でいったい誰が自動車や電気製品など買うのだろう。「不況の厳しい時だからこそ皆で一丸となって乗り越えていきたい。そのかわり役員の給与は1年間返納する。」こんなことをいう企業幹部がいないのだろうか。
2008年11月09日
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自動車が売れなくなっているらしい。そんなニュースで、都会では自動車は必要ないからとかいったことを、もっともらしくコメントしているキャスターがいた。違うだろう。工場なんかで働いている派遣社員を正社員にして、超残業もなくせば、自動車くらい無理しても買うにきまっている。某自動車企業が海外で自動車が売れずに減益だなんて騒いでいるけど、国内で売れないものが海外で売れるわけがない。人件費を削るために、派遣社員ばかりを増やし、その結果、自動車どころかその日の生活にも困るような人間が量産された。非正規雇用やサービス残業で人件費を抑制し利益をあげているのは、蛸が自分の足を食って栄養をとっているようなもので、やがては社会全体の体力を奪い、国力だって低下していく。自動車が売れなくなる。電気製品も売れない。旅行やレジャーの支出も減る。皆、根っこは同じである。※政府が準備中の労働者派遣法の改正案。これが中味を見るときわめて不十分なものらしい。治安維持法、人権擁護法。たしかに法律は名前だけで判断するととんでもないことになる。派遣もそうだが、こうした雇用や格差の問題にどう対応していくか。それこそが今の日本の最重要テーマではないかと思っている。格差といえば…。轍鮒の急という言葉がある。同じバケツ一杯の水でも、轍の中で死ぬ寸前の鮒と悠々と池を泳いでいる魚とでは、まるで重要性が違う。同じ額の金にしても、本当に困っている人と、年収1500万円の人とではまるで意味が違うではないか。こんな一過性のバラマキをやるくらいなら、本当に困っている人に回すような施策ができないのだろうか。
2008年11月07日
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星新一のショートショート「生活維持省」を読んだことがある。国家が「生活を維持」するために無作為に抽出した人間を殺害するという話だ。そんな殺害を請け負う生活維持省の公務員。でも最後に抽出された人間の名を見ると・・・。こんな話が発表された頃は少子化どころか人口の過剰が問題となっていた。このまま人口が増えていけば資源もいずれは使い尽くされるのではないか。そんな危機感がこんな話の背景にあったことは想像に難くない。この星新一の「生活維持省」と最近の漫画「イキガミ」との類似が問題となっている(らしい)。※「イキガミ」という漫画は読んだことはないが、かなりの長編で死ぬ前に人はどう生きるかをテーマとしたものらしい。それで結論めいたものをいうのは間違いかもしれないが、どうやら「生活維持省」と「イキガミ」との類似点は国家が無作為に抽出した人間を公共の利益の名の下で殺害するということだけで、他の類似点はないのではないか。推理小説で犯罪トリックが生命であるようにSFではアイディアが生命である。ただ推理小説の犯罪トリックとSFのアイディアは違う。全く同じ犯罪トリックを使えば剽窃といわれても仕方ないが、SFのアイディアというのは一人の作家のアイディアが他の作家に活用され、それでSFというジャンル自体が発展していくのではないのだろうか。透明人間、タイムマシン、宇宙戦争などのアイディアはウェルズが最初に出したが、いずれもその後の多くの作家によって踏襲されている。「生活維持省」のアイディアもそれと同じで、「イキガミ」の作者に抗議するというよりも、このアイディアを最初に考え出したのは星新一であることを誇ればよいだけではないか。※これだけいろいろな物語が世にでているとプロットの似た話というのはいくらでもある。古典では「罪と罰」と「破戒」などは、親切な友人、貧しい父を持つ心優しい女性、何かを告白して遠くへ行く主人公というストーリーはそっくりである。それでも誰も盗作だなんてことはいうわけもない。最近では、NHKドラマで、互いに知らずに育って偶然にであった双子の姉妹という話がある。これも昔読んだ漫画「海の星山の星」にそっくりだ。大金持ちの家が双子が生まれると悪いことが起きるという先祖からの言い伝えを信じ、一人を養女にやる。その二人が偶然に出会って・・・という話だがこんなストーリーはさがせばきっともっとあることだろう。
2008年10月16日
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最近「古事記」がブームだという。様々な関連本が出版されているだけでなく、女優の浅野温子氏などは全国をまわって古事記の語りを行っているという。古事記といえば日本最古の書物であり、しかも未だに読みつがれている本だ。こうした本があらためてブームになっているのは、混迷の時代に原点に返ろうということなのだろうか。実は古事記は大好きな本で子供の頃に子ども向けのもので三回。注釈つきの原文で二回読んだことがある。古典が難しいのは文章が冗長で主語が省略されたり、途中で変わったりするからである。もともとが語りで伝えられてきた古事記は、文章もそれほど難解ではない。現代語訳で読むと、もともとの文章のリズムや雰囲気はかなりそこなわれるので、絶対に注釈つきの原文で読んだ方がよい。※古事記といっても、神話の部分は最初の3分の1くらいだろうか。冒頭はこんな言葉で始まる。「天地の開らけしとき、高天原になりませる神の名はあめのみなかぬしの神」宇宙が始まったときにお生まれになった神は天御中主神・・・なんかこれってビッグバンを暗示しているようではないか。爆発するということは、まさに中心が定まるということである。150億年の昔、この宇宙はビッグバンとよばれる大爆発で始まった。いわばこの世の始まりである。古代の人々が最新の理論を知っているわけもないのだが、なんか直感のようなものでこうした物語を作ったのではないか。※この冒頭にでてくる天御中主の神は、宇宙の中心を支配する神という名の意から最高神のようにもみえるのだが、実は古事記全文の中でこの最初の一行にしかでてこない。これも最も権威あるもの、最も重要なものは常に中心にいるが常に隠されているという日本文化の特質のような気がする。
2008年10月09日
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今の政治の最大の対立軸は何だろうか。それは格差と貧困ではないか。財界が自己の利益のために労働コストを引き下げる。正規雇用を非正規に置き換え、労働者を使い捨てることで、労働分配が破壊されていく。一方で国家の再分配機能は低下し、累進課税は緩和されるとともに、消費税のような大衆課税は強化される。※こうした見地でみた場合、マスコミのはやすジミンとミンシュの対立というのはどうなのだろうか。国連重視か日米同盟重視か。天下り規制をどうするのか、公務員改革をどうするのか。こうした点には意見の違いがあるようであるが、こと「格差と貧困」の問題に限ってはちっとも対立などしていない。二大政党制というものはそれ自体がよいとか悪いとかではなく問題はその中味である。英国の保守労働などは再分配重視か自由競争重視かという対立軸の下で双方がチェック&バランス機能をはたしているようにみえるが、米国の民主共和の二大政党制は多勢の貧困層を政治から阻害しているようにみえる。二大政党だの政権交代だのという言葉に惑わされずに、ジミンとミンシュの政策の中身を冷静にみる視点が重要であろう。はっきりいってしまえばジミンとミンシュの「対立」などは政権のうまみをどっちが握るかの対立であって根本的な政策の対立というほどのものではないのではないか。※さらにいえばミンシュのとなえる「官僚主導の打破」とか「官僚支配の脱却」というのもよくわからない。役所の幹部の人事には政治家の意向がはたらくし、労働法制の規制緩和だって、厚労省の官僚が自己の利益のためにやったことでもない。財界の意向を受けた政治家が官僚を動かしてやったことではないか。ミンシュの官僚批判は、単に有権者の嫉妬心をあおるだけの戦術のようにしかみえない。もちろん官僚の特権や優遇にはメスを入れる必要があるとは思うが、それは別の問題であろう。また、ミンシュの議員には岡田前代表を初めとして多くの官僚出身者がいる。実際、ミンシュは官僚出身でもっている党のようにもみえ、それが政策に強い政治家が多いというプラス評価にもなっている。そんなミンシュの官僚批判っていったい何なのだろうか。参照http://toyugenki2.blog107.fc2.com/
2008年10月07日
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日本人の昔からの娯楽の一つである神社仏閣めぐりに最近はまっている。神社仏閣といっても観光地ではない。家の近くの神社仏閣、そして職場で昼休みの散歩で行ける範囲の神社仏閣である。神社と仏閣とは違うという人もいるかもしれないけど、蘇我物部の争い以降は日本では神様と仏様は仲良くやっているので、神社仏閣とひとまとめに言っておく。※そんな神社仏閣の一つで「太子堂八幡宮」に行ったのだが、そこに神社についてやさしく解説した子供向けのパンフレットが置いてあった。こんな内容である。雨が何日も降らず鎮守の森の仲間達(虫や木や花など)は皆困ってしまう。ようやく雨が降ってくると、皆、「ありがとう」と叫ぶのだが、そのあと、いったい何に対して「ありがとう」といったんだろうね、と考える。ありがとうの意味は、「有り難し」で珍しいこと、普通でないことというのが本来の意味だ。健康であること、食べるものがあること、今生きていること、こんなことは当然のように考えがちだが、本当は適時適切に雨が降るようにすごく「ありがたい」ことなのかもしれない。よく神仏に感謝なんていうけど、神仏に感謝することで、不思議に周囲の人への感謝も生まれてくる。※よく社会的成功者が「自分は努力したからここまでこれた」と胸をはる姿をみることがあるが、こんなのにはつい一抹の傲慢さを感じてしまう。成功の条件となった高い能力や運。そうしたものは誰にでも与えられるものではない。自分にそうしたものが与えられたことにまず感謝し、そして世の中には自分と同じくらいに努力してもそれほどの成果を得られない多くの人がいることに思いをはせてほしい。昨今の日本で多くの人が「格差社会」に不満を感じているのは、勝ち組の側から傲慢な発言ばかりが聞こえてきて、そんな彼らの発言に公共とか社会全体とかといった視点を感じることが出来ないのも一因なのかもしれない。社会的に成功した(と思う)人は自分の能力や努力を誇る前に、自分にそうしたものが与えられたことをまず感謝してみてはどうなのだろうか。※成功者かどうかは別として、友人の一人に小さな事業所で働いている人がいる。彼の同僚に体の弱い人がいて、いつも同僚の仕事までカバーしなければならないのが不満らしい。同じ給料なのになんで・・・という疑問が頭を去らないというし、本人にしてみれば無理からぬことなのかもしれない。でも、ちょっと視点を変えてこんなふうに考えてみてはどうなのだろう。同僚が病弱なのは本人が好き好んでそうなっているわけではない。彼が病気にもかかわらず自分が健康だというのはすごく「ありがたい」ことなのではないか。そんな風に考えると、不平不満もずいぶん変わっていくと思うのだけれども。※なんか今日は年寄り臭い日記になったが、「敬老の日」ということでご容赦を・・・。
2008年09月15日
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「生きているのが辛いなら」という歌が様々な議論をまきおこしているという。最初の方に自殺をすすめているともとれる歌詞があって、それが問題になっているようだ。でも、あの歌を聴いて自殺するとしたら、それこそ自己責任で、歌自体が原因だなどとはとても思えない。それに歌を一応聴けば、趣旨は「いやになるほど生きればいい」にあって「いっそ小さく死ねばよい」ではないことは、すぐにわかる。それにしても、なかなか説得力のあるよい歌だと思う。※ただ、ちょっと気になるのは「小さく死ねばよい」も「いやになるほど生きればよい」も、生きづらさをあくまでも個人の領域として扱っており、横への広がりがあまりないことだ。でも、生きているのが辛い…というのは、本当に個人だけの問題なのだろうか。もちろん個人的な生きづらさもあるだろうけど、社会の問題として考えなければならない生きづらさもあるはずだ。貧困や雇用をとりまく問題のような「生きづらさ」なら、個人の心構えの問題にしてしまうよりかは、声をあげることだって必要ではないか。どうしてこんな風に歌わないのだろうか。生きているのが辛いなら、こんな世の中変えればよい…と。※昔、それこそやんなるほど聞いた歌に「友よ」(岡林信康)というのがある。この歌は、同じ辛さでも直太郎の歌とは、全く別のメッセージを発している。友よ 夜明け前の闇の中で友よ たたかいの炎をもやせ今、本当に必要なのはこんな歌なのではないのだろうか。誰かカバーして、平成の今の世に「友よ」の大合唱が起きたら素敵だと思うのだが。http://jp.youtube.com/watch?v=oB94C--IgoM
2008年09月10日
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中国の反日感情というのはよく知られているが、実は韓国に対しても嫌韓感情というのがあるらしい。その一つには歴史認識がある。歴史・・・といっても近代のそれではない。古代国家高句麗の歴史は中国史の一部と扱って韓国が反発し、まあ、大王四神記なんていうドラマを作っているわけだが、火種はそれ以外にもある。韓国は大陸と地続きのせいか、俗説も含めると気宇壮大な歴史の仮説が多い。中国古代史にでてくる○○族というのはKoreanではないかというのは、よくある議論だし、それを発展させて漢字の発明はKoreanだとか孔子も実はKoreanだとかいう説もある。それに中国人が反発する。日本にだってチンギスハン義経説があるけど、モンゴル人がそれに反発しているという話はきかない。おそらく中国人の嫌韓感情の根底には、個々の歴史のとんでも仮説というよりも、豊かな先進国としての姿を現してきた韓国に対する中国人のねたみやっかみがあるのだろう。※それに孔子韓国人説を云々するのなら、中国に昔からある釈迦中国人説はどうなのだろうか。唐の時代、道教が国教となり仏教の勢いが衰微したとき、仏教と言うのは実は老子が蛮人を教化するために考えた教えという説がうまれた。老子化胡説といって牛にのっていずこともなく姿を消した老子は釈迦となって印度で教えを説いた。道家の教えと仏教とはどことなく通じているので、説話としてはなかなか面白い。http://www.ne.jp/asahi/choonji/namo/hanasi3-295.html
2008年09月08日
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青森県には大きな縄文時代の遺跡がある。雪深い青森になぜあれほどの縄文集落があったのかと不思議に思うが、当時の東北の気温は今よりも高かったという。これに限らず全地球規模でみても、人類の歴史には温暖な時期と寒冷な時期とが交互にあったという。そうだとしたら地球温暖化というのはそれほどの問題なのだろうか。水に沈む小さな島国は死活問題かもしれないけど、永久凍土のシベリアは肥沃な農地に変わるかもしれない。人をよせつけなかったツンドラも氷がとければ、新しい資源がでてくるかもしれない。もちろん気候が変われば転換を余儀なくされる農作物はあるのかもしれないけど、全地球が寒冷化していくよりも温暖化していった方が農作物の総量は増えそうだ。昨今はスーパーにも国産の熱帯果実が並ぶがこれも温暖化の効果かも。※なんとなくそんなことを考えていたので、昨日か一昨日、新聞に温暖化は問題ではないといった趣旨のコラムは大変興味深く読んだ。それによると気候変動で砂漠化などの被害を蒙るのはヨーロッパで、だからこそ欧米中心の国際世論が温暖化を問題視しているのだという。真偽のほどはともかくとしても、温暖化のプラス面についてもそろそろ冷静な議論がでてきてもよいような気がする。そしてまた過去の人類の歴史の中で気候変動がどんな影響を及ぼしてきたのかも検証する必要がある。一説によると民族の移動などは気候の変化で説明できる部分もあるという。北アジアで進化した新モンゴロイドの南下についてもそんな説明をきいたことがある。寒冷化による民族移動はあっても温暖化による移動というのはあるのだろうか。また、長い時間をかけてではあっても、ヨーロッパが砂漠化するようなことがあったら、それは国際関係にどんな影響を及ぼすのだろうか。※地球温暖化の議論もそうなのだが、環境問題の議論にはどうも首をかしげるものが多い。温暖化は本当に廃棄ガスなどの人為的なものが原因なのだろうか。そしてその温暖化の結果というのは本当に破滅的なものなのだろうか。資源枯渇、大気汚染、水汚染といった環境問題だって、本当は人口を減らすしか対策はないのではないか。それなのに同じ政治家が環境問題と少子化問題と同時にとなえる不思議・・・。サマータイムの議論だって本当に変だ。照明等を使わなくてすむので省エネになるなんてことを大真面目にいいながら、レジャーが活性化すれば経済効果があるなどともいう。レジャーをするにはエネルギーや資源が必要だなんてこと気が付きそうなものなのに。※※産科医などの不足に対処するために医師個人に手当てを支給するという案がでているという。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080827-00000021-cbn-sociそれならなぜ同じように人材不足がいわれている介護労働者についてはヘルパー個人に手当てを支給するという案はないのだろうか。手当ても含めた報酬の増と自らが要介護状態となった場合の施設への優先入居・・・介護労働者の確保策はそれしかないと個人的には思っている。だいたいインドネシアの介護士がきたところで豚肉料理を食べさせる介助などかなり抵抗があるのではないか。また、手作りは概して歓迎されるが、ものによっては人間よりも機械を使った方がありがたいものがある。入浴や排泄の介助などはその最たるものだろう。何歳になったって人間には羞恥心がある。いっちゃなんだけど機械のような感覚で外国人を導入するよりは、入浴や排泄の介助をするロボットの開発などの支援はできないのだろうか。(alexさん。ご指摘ありがとうございました。)
2008年08月29日
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厚生労働省の調査によると派遣社員の労災が急増しているという。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080821-00000169-jij-polかねてから派遣については安全管理などの問題が指摘されていたが、その懸念が調査でも裏付けられたわけである。そしてこれはあくまでも労災として表にでたものだけの数字であるので、実際、派遣社員の業務に係る怪我ははるかに多いのかもしれない。ところで、この労災というのは事故と表裏の関係にある。ろくに安全管理もしないまま、モノのように人間を使い捨てする働かせ方では、労災だけではなく、事故も起こりやすくなっていることが考えられる。派遣と労災の関連だけではなく、派遣と事故の関連を調査してみても、そこにはなんらかの有意な結果がでることだろう。※消費者庁なるものがいよいよ設立されるらしい。消費者保護といったって分野はいろいろである。医薬品もあれば電気製品もあるし、農産物だってある。それぞれの分野についての知識や法制に精通している人材となると、やはりそれぞれの所管の省庁からひっぱってくるしかない。そしてひっぱってこられた職員ややはり親元の省庁の方をみながら仕事をする。消費者庁なんて議論がでてきたときも唐突な感じがしたけれども、中味を考えてみても行革の時代に逆行する無駄な役所というように思えてならない。ポストの増える役人は大喜びなのかもしれないけど…。ちなみに消費者庁は定員207人、予算は160億円だそうである。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080821-00000269-jij-pol※高齢化対策の一環として親と同居する世帯に減税する案が浮上しているらしい。大変けっこうなことではないかと思う。特定のライフスタイルを優遇するのはけしからんという批判もあるそうだが、それは違うのではないか。孤独死、失火、防犯など、今後は高齢者の単身世帯に伴う問題が急増するだろうし、それに係る行政上、社会上のコストも少なくはない。高齢者との同居はそうしたコストを減少させるわけであり、税制上優遇するのは当然ではないだろうか。ただし、この優遇は、高齢者が子供夫婦と同居する三世代世帯にも、成人した未婚子と同居する核家族世帯にも同様に行うべきであろう。結婚して親と同居するのは親孝行で、未婚子が親と同居するのはパラサイトシングルなどという人もいるかもしれないが、現実にはたぶん後者の数の方が多い。※※最近、歌手岡林信康がちょっと気になっている。親は牧師、本人は同志社大神学部卒、別名フォークの神様ともいわれているが、彼の曲「友よ」をあらためて聞いてみると、曲調や歌詞が非常に賛美歌に似ているように思う。賛美歌というのは祈りの歌である。あの頃、「夜明けは近い~」というリフレインを合唱しながら、多くの人は本当に夜明けがくることを祈っていたのではないか。そうだとしたら、平成の今の時代、あの「友よ」がもう一度ブレイクしたっていいような気がする。貧困や格差社会の中で苦しむ人々が、「友よ、この闇のむこうには~、友よ、かがやく明日がある」なんて歌で勇気づけられたら素敵ではないか。http://www.youtube.com/watch?v=oB94C--IgoM
2008年08月22日
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政治家の人気にはいろいろな要素がある。これには、どうも二つのパターンがあるような気がする。一つは、マスコミがネタにしやすい、ネタにされることが多ければ自然に親しみもわく・・・というもので、かっての「田中真紀子人気」などはこの典型であろう。そして、もう一つは、「共通の敵」を非難し、罵倒する政治家が人気を博するというものである。一頃の安倍人気というのは、北朝鮮という「共通の敵」によるところが大きかっただろうし、小泉人気も特異なキャラの演出だけでなく、彼の「共通の敵」作りのうまさによるところが大きいように思う。様々なアンケートによると、未だに「小泉人気」というのはあるらしい。なぜ給料が減り、貧困が増大し、庶民には辛い時代を招来した元首相が人気があるのか、全く不可解であったが、彼がどの政治家よりも、「共通の敵」作りがうまいことを考えればそれも納得がいく。抵抗勢力、守旧派、公務員、北朝鮮、エトセトラ。いうまでもないことだが、人気のある政治家が必ずしも国民に益をもたらす政治家とは限らない。それどころか、人々が熱狂した政治家が国民に幸福をもたらした例というのは案外少ない。※※お盆の帰省ラッシュのニュースというのは毎年定番になっている。しかし、人々がどっと地方から大都市に移動してきたのは1960年代のことである。今では都市住民でも地方からでてきたという人よりも、もともとそこで生まれ育ったという人の方が多い。ニュース映像にみる親子づれなどは、帰省よりも国内旅行の雰囲気である。お盆の帰省も、甲子園のふるさと応援もだんだん少なくなっていく?そしてもう一つの定番ニュース。ゴールデンウィークの出国ラッシュの映像もいつまで続くのだろうか。今や若い人の半数が非正規雇用という時代である。不安定就労ならとてもじゃないけど海外旅行どころではないだろうし、残り半分の正規就労者でも土日や祝日も関係ないような職場が増えている。そのうち、あの連休の出国ラッシュの映像も、日本が豊かで普通の人が海外に観光旅行に行けたような時代にはあんな映像もあったねと懐かしく語られるときがくるのかもしれない。
2008年08月18日
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昨今は蟹工船がブームになっているだけでなく、米国の貧困の実態を描いた本なども売れているらしい。実はそうした本を読んだわけではないのだが、米国の格差や貧困の広がりには大変なものがあり、イラクに志願して行くような兵士のほとんどはそうした格差社会の中で希望を見出せない若者達なのだという。ここで一つ疑問がわく。それほど貧困が米国社会に広がっているのなら、なぜそうした貧困層を支持基盤とする政治勢力がでてこないのだろうか。セレブも一票、ワーキングプアも一票。なぜ貧困者達は投票権という最後の武器を行使しないのだろうか。中米では膨大な貧困層の支持を得て左派政権が次々と誕生しているのになぜ米国はそうならない。※これにはいろいろな解釈ができるのかもしれないが、米国の政治が強固な二大政党制であるということもその理由なのかもしれない。二大政党が政策を競い、その中で民意を代表する政治が行われていく。競争に勝つために両方の政党が切磋琢磨し、政策研究に余念がない。二大政党制にはそういったプラスの面がたしかにあるだろう。しかし、その二大政党の掲げる理念や政策が似たり寄ったりのものになってしまった場合には、有権者の選択肢は自然に狭まる。昨日いただいたコメントに米国の貧困層は政治に期待することができず、投票率も低下していると書いて下さった方がいたが、ああ、やはりという思いである。強固な二大政党制の下、他の政党は伸長する余地がないのだとしたら、民主主義の機能不全ではないのだろうか。まさに本当は怖い二大政党制である。※日本でもしきりに二大政党制がよいものであるかのように喧伝する人々がいる。今度の選挙でもきっと「政権選択」だの「日本にも本格的な二大政党制の時代がきた」だのとはしゃぐ人もいるだろう。しかしよく考えてみればよい。ミンシュとジミンといったってその間にいかほどの差があるというのだろうか。米国の民主と共和よりもその差は少なく、その上、大連立でもされたら事実上の一党独裁ではないか。そんな状況になったら、今以上に弱者の声はきりすてられることだろう。凄まじい格差社会の中で、希望の持てない貧しい若者がイラクに行くような社会はごめんこうむりたい。
2008年08月17日
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こうして日記を書くようになってから確実に変わったことがある。それは、他の多くの方々も同様だと思うのだが、マスコミに対して常に批判的な目をもつようになったということである。かって新聞は社会の木鐸とよばれていた。そんな中で人々というかマスコミ外大衆は、既成のマスコミ論調の中から、自分の意見にあうものを選択していた。でも今はそうした時代ではない。別に日本のマスコミを通じなくても人々はネットを活用して様々な情報にアクセスすることができるし、マスコミの論調もブログなどのネット上の論調も含めた様々なもののワンオブゼムにすぎない。※だからマスコミが自明のことのように言っていることだって十分に疑ってかかることもできる。「二大政党制がよいものである」というのも、そうしたものの一つではないか。二つの有力な政党が政策を競いながら交替で政権を担うといえば、たしかによいことずくめのように思われる。ましてや米国をはじめ多くの先進国はこうした二大政党制をとっているときけばそれしかないという気にもなる。しかしよく考えてみよう。交替で政権を担うような二大政党というのは往々にして政策は似たりよったりになる。ということは有権者の立場からすれば選択肢が非常に狭まるわけである。蟹工船ブームだけではなく、最近ではアメリカのおそるべき格差や貧困を描いた本も売れているという。あれほどの格差や貧困が蔓延しているにもかかわらず、なぜそれが政治に反映しないのか。様々な説明が考えられるが、米国が強固な二大政党制であるということもその理由なのではないか。保守的な善男善女を支持基盤とする共和党とリベラルでインテリうけする民主党という色合いの違いはあっても、民主党政権下でも貧困層は貧困層のままで、貧しく希望のもてない青年が軍隊にやられるという構図はなんらかわらない。中南米では貧困層を支持基盤とした左派政権が次々と生まれた。ネパールでは選挙によって共産主義政権ができ、王制は終焉を迎えた。米国ではそうした貧困層を支持基盤とする政党はなかなか伸長する機会がない。米国政治の中に民主共和という二大政党制がしっかりと根をはっているからである。※ひるがえって日本をみてみる。マスコミによって二大政党のそれぞれの雄とされているミンシュとジミンとの間には、米国の民主と共和ほどの政策の差もみられない。というよりもミンシュの主流はもともとは自民党を割って出た人々で、ミンシュとジミンとの差は、かっての自民党内の派閥の差と変わらない。今の自民党の政治に批判的で「一度くらいミンシュにやらせてみては」と言う人は小生の周囲にも多い。しかし国政というのは「一度はやらしてみる」云々という簡単なものではないはずだ。政権の交代が無用な混乱をまねき、それが行政や経済の停滞を生む状況もおそれなければならない。たぶん次の選挙では、政権選択選挙、二大政党制の到来、ミンシュかジミンかとさんざんマスコミはあおるだろう。しかしそんなものに踊る必要はさらさらない。政権交代というよりも、健全な批判勢力を伸長させるという方向だってあるのではないか。※このまま市場原理主義をおしすすめて格差を拡大し、貧困を量産する政策を続けていくのか、それとも再分配重視の方向に舵をきるのかということが真の争点であると個人的には思っている。その意味では、おそらくミンシュが政権をとったところで、現状はさしてかわらないであろう。さらに言えば、ミンシュの唱える施策には外国人への参政権付与であるとか国連の指揮のもとでの国際貢献であるとか、ちょっと見にもくびをかしげるようなものが多い。※※北京オリンピックの開会式の「少数民族」の子供たちは実は漢民族だったという。そういえばシドニー五輪の開会式のアボリジニーも本物のアボリジニーではなく、それに扮した白人達だったという話をどっかできいたことがある。
2008年08月16日
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オリンピックのたびにいつも思う。どうしてマスコミは日本選手や日本が期待できる種目しか放映しないのだろうか。ひどいときはいくつものチャンネルで全く同じ映像で同じ競技をながしている。正直言って柔道はルールを知らないとみていて全然面白くないし、女子レスリングはどうも競技自体があまり美的でない気がする。それにあの感動押し付けのような絶叫報道ももううんざり。「感動をありがとう」ってどうして友人でも親戚でもない誰かさんのとったメダルに感動するのかなあ。※日本選手の細々したプライバシーを追いかけるよりも、外国の選手の中に出場までのとてつもないドラマを持つ選手がいるかもしれないし、そういうのを紹介した方がよいのじゃない。なにしろ200以上の国が参加しているし、世界の多様さを実感する上でも、意味があることだろう。それに個人的に興味があるのはやはり体操かなあ。美しい選手が人間技とも思えない技をこなしているのをみると、素直に賛辞をおくりたくなる。五輪のヒロインといえば、やはり体操の女王。それなのに女子体操の放映については昔よりもずっと少なくなっているような気がする。その昔はコマネチ人気などは日本でも社会現象になったくらいなのに。※※実は、前回のアテネのときも同じようなことを日記に書いている。それだけではない。4年前の日記をみると、今と同じようなことを考えており、つくづく自分は進歩のない人間だなあといやになる。以下は、そのアテネで水泳競技が行われている頃に書いた日記で、なぜかこのときだけ1000件を超えるアクセスがあった。有名な千葉すず選手の名言について書いたものである。(4年前の日記)オリンピック前半の花形種目といえば、なんといっても水泳であるが、水泳というとどうしても思い出すことがある。アトランタ五輪の日本女子競泳陣である。このときの女子競泳はメダルのよびごえが高かったのであるが、期待されていたような成績ではなかった。スポーツであればもちろん運不運もあるし、こちらの努力以上に相手のレベルがあがっているということもある。しかし、多くの人が強い印象を受けたのはその後の彼女たちの言動である。「オリンピックを楽しんできました。」そんなことを明るく語る彼女らの姿は、国家とか公よりも個人に重点を置く新世代がこの国にも着実に育っていることを強く認識させた。そしてそんな彼女らの中でのきわめつきは千葉すず選手(当時。今は別の選手の奥さんになっているらしいが。)である。ニュースステーションに出演した彼女はメダルのことを問われてこういった。「メダルメダルってメダルき○○いじゃあないですか。」そのとおり。私も前々からメダルという結果だけに狂奔する報道には疑問をもっていた。「そんなにメダルっていうなら、自分でやってみればっていいたくなりますよ。」まあ、こんな趣旨の発言だったかと思うが、これを聞いて思わず笑いころげた。そうなんだ。自分ではできないくせに、私達大衆はついつい選手にメダルを期待する。まさに彼女ならではの本質をついた鋭い発言である。こちらの側も日本選手の活躍だけに熱狂するのはもうやめよう。人類の祭典として、強いもの、美しいものを素直に賛美すればそれでよいではないか・・・。そんなわけで千葉すず選手の発言にはおおいに共感したのだが、一方で、ちょっとわりきれない思いを抱いたのも正直に白状しなければなるまい。そもそもオリンピック参加の目的が彼女らが楽しむためだけのものだったら、なぜ国が選手に強化費を支給しているのだろうか。なぜ国費で選手を派遣するのだろうか。千葉すず選手も強化費を貰っていたはずだが・・・。人生いろいろ、能力もいろいろ。そしてその能力というものについての考え方も、人によってどうもいろいろあるらしい。つまり、能力を自分一人の人生の僥倖ととらえる人と、それを社会や他の人々のために活かすことを考える人と。もちろんどちらがいいとか悪いとかということではないのだろうが、聖書の「より多く与えられた者はより多く与える。」という言葉には、後者の意味が含まれているという話を、以前どこかで聞いたことがある。
2008年08月14日
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某自動車会社では、自動車の販売が不振でリストラを検討しているのだという。正規雇用者を極力減らして派遣やパートでまかない、業績が悪くなれば正社員も削っていく。たしかに、企業の目先の利益だけを考えればそれが一番賢明な選択かもしれない。でも、安定した職にも就けない、その職だっていつ失うかもしれないという人ばかりの世の中になったら、いったい誰が自動車など買うだろう。タコは腹が減ると自分の足を食うという。当面の空腹は満たされるが、やがては体全体が衰弱して死に至る。人間をもののように使い捨て、役員や株主の利益だけを考える企業というのは、もしかしたらそのタコのようなことをやっているのかもしれない。豊かで幸福な大衆がいるからこそ、物も売れるし、さまざまな文化もはなひらく。良質な労働力も提供される。それが長期的には企業の利益にもなっていくのではないかと思うのに…。
2008年08月09日
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どうもよくわからない言葉に政治家の人気というのがある。マスコミはよく特定の政治家について、人気がある、人気があるとはやしたてることがあるが、いったいそうした政治家の主張する政策についてどのくらいの説明をしているのだろうか。また、人気があるとする基準は何なのだろうか。実際にそうした人気を裏付ける世論調査やアンケートが行われているということもきかない。要するに、マスコミはネタとして「人気のある政治家」を作っているだけではないのか。だからマスコミにとって持ち上げる価値がなくなれば、あっという間に手のひらをかえしてたたきはじめる。かって田中真紀子は大変に「人気のある政治家」とされていた。マスコミはこぞって彼女を未来の総理と持ち上げ、一言半句をさも名言であるかのようにとりあげ囃した。それが彼女と外務官僚との確執が起きると風向きが変わる。私的な場の発言や伝聞を基にした人格非難など、これでもかこれでもかというほどのバッシングの嵐であった。別に田中氏がよいとか悪いとかではない。マスコミの囃す政治家の人気などその程度のものだということである。そういえばコイズミがでてきたときもマスコミは囃した。政治家らしくないスタイルや風貌、趣味嗜好など、ネタとしての価値はあったのだろう。そのうち「主婦に大人気」とか「若者が熱狂」とかそんな報道がなされる。韓流などの作られたブームと同じ構造で、マスコミが人気だ人気だと言えば、それに乗る人もいるわけで、本当に人気がでてくる。マスコミがやるべきことは、そして我々が考えるべきことは、人気をあおり、その作られたブームに踊ることではなかったはずだ。彼の政策を検証し、「官から民」、「小さな政府」、「規制緩和」とかいう方向が本当によいものであったかを考えなければいけなかったのではないか。もうマスコミが囃す「政治家の人気」に踊るのはこりごり・・・というのが庶民の実感である。
2008年08月04日
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最近、産経新聞に格差や貧困を問題視するコラムや記事がめだつ。昨日の「マルクスの亡霊」についての記事などもその一つだろう。http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080731/plc0807310235000-n1.htm資本主義を放置しておくと、野放図に格差や貧困が広がっていく。そしてそれは社会を不安定化させ、結局は国力をも低下させる。今、日本で進行していることも、まさにそれであろう。企業は目先の利潤のために労働力を買い叩く。大切に人材として育成するのはごく少数のエリートだけで、あとは使い捨て社員や機械扱いの派遣社員でよい。こんな状況では結婚して子供を持つなんてのは夢のまた夢だろう。10年先どころか1年先の職場さえあるかどうかわからない情況では結婚なんて無理だからである。日本人が減っていく分は外国人が埋める。使い捨てや機会扱いなら、豊かに育った日本の若者よりも、中国などから来る若者の方がよほど根性があるし使いやすい。最近移民1000万人を提唱する有力政治家がいたり、総理が「留学生30万人」計画をぶちあげたりしているのも、そうした外国人労働力を受け入れたいという財界の意向にそったものだろう。外国人が流入すれば、日本の低賃金層はますます周辺においやられる。インドネシア人介護士が入ってくれば日本人介護士の待遇はますます低下するだろうし、現場の負担も増えることだろう。いつしか日本は少数の富裕層と多数の貧困層の国となっていく。その頃には、かって「もはや戦後ではない」が流行語になったように「もはや先進国ではない」が流行語になるのかもしれない。※格差の問題、そして元凶となった派遣業の規制をどうするかが今後の政治を考える上での対立軸ではないか。こうしてみると野党というが、ミンシュは実に及び腰である。マスコミなのではしきりにジミンかミンシュかと煽る。また、周辺にも「一度ミンシュにやらせてみれば」という人も多い。しかし、ミンシュというのは、本当に野党と言う名に値するのだろうか。政権をとりたいという以上の明確な政策がみえないし、どうもジミンかミンシュかといっても、それはかっての自民党の派閥が単に別の政党になってるだけのような気がする。ジミンの格差拡大、貧困量産政策に疑問をもっているのならミンシュに投票しようなんて思わないほうがよい。あんなのはそもそも野党でもなんでもない。単なる利権集団の派閥である。参照http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080726ddm005010085000c.html※※どうもよくわからないのは「政治家の人気」というもの…。よくマスコミはあの政治家は人気があるとかないとかいうけど、それってただマスコミがネタとしてはやしているだけのような気がする。その証拠にあんなに持ち上げていた田中真紀子も外務官僚との確執が起きたとたんに手のひらをかえしたように叩きはじめたではないか。
2008年08月01日
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中国雲南省のバス爆破でイスラム教系の組織が犯行声明をだしたという。チベットの次は東トルキスタン…つまりウィグル族である。本当にオリンピックは無事に終わるのだろうか。また、オリンピック後の中国は、日本や韓国がそうであったように、五輪を起爆剤にし、経済が発展し、順調に先進国への道をあゆむことになるのだろうか。そうではなく、オリンピックにより豊かな都市部の情報が全国土に行きわたることで、かえって農村部や少数民族の住む辺境地域住民の不満が爆発し、さらなる混乱が起きるのではないかという気がしてならない。それはあの天安門事件だって、ソウル五輪での豊かな韓国の映像が流れたことが背景にあるような気がしてならないからである。欧米人が豊かに暮らしている分には、まあ火星人が優雅に暮らしているようなものでまあ諦めがつく。近代史で水をあけられた日本人の豊かさだって、それは自国の近代化への動機付けにはなっても現政権への不満には結びつかない。でも韓国の豊かさとなると、そうもいかない。我々の着ているもの、食べているものが韓国人に比べて見劣りするのは政治がわるいのではないか・・・この不満が爆発したのが天安門事件の暴乱ではないか。そうだとしたら先進国と遜色ない生活をしている都市部の住民の映像が中国全土に流れたらどうなるのだろう。五輪後の中国が安泰というわけはない。※中国が混乱すれば、中国移民の流れにはますますの拍車がかかる。もともと民族意識や血族意識はあっても国家意識は希薄といわれる人々なので、今でも金のある人や教育のある人はどんどん外国に出て行っている。以前、オーストラリアに行った時、町全体がチャイナタウンのようになっていてびっくりしたことがあったが、たぶんああいったことはあちこちの先進国でみられる光景だろう。今の時代、マスコミや政府などの公的な機関は表立って人種差別を公言しない。しかし民衆レベルでの感情的軋轢となれば話は別である。この間、イタリアで中国人暴徒と警官隊の衝突が起きたというが、異質な文化をもち、容易に同化しない集団が大挙してやってくればそれ相応の社会的コストがかかるものである。※こうした中国人と並んで世界のあちこちに拡散し膨張しているのはムスリムである。今の趨勢がつづけば何年後かには世界のほとんどはムスリムになるというが、たしかにムスリム人口の自然増のいきおいや宗教としての伝播力の強さは目を見張るものがある。そして、中には過激な宗派もあり、ドイツではそうしたイスラム過激派に入信した白人青年がテロに関与して社会に衝撃を与えたという事件もあったらしい。よいとか悪いとかではなく、異質な文化や宗教などが、そうしたものを担う人々とともにどっと入ってきた場合には、必ずそこには軋轢があるはずだ。※ひるがえって日本をみてみる。有力政治家は1000万人の移民受け入れをとなえ、イスラム国インドネシアからの看護婦介護士導入はすでに動き始めている。いったい日本の政治家や官僚は、中国人やムスリムの移民をめぐって世界で起きていることをどの程度研究しているのだろうか。
2008年07月27日
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何かの雑誌で経済界の大物が農業再生の方策として農地所有と使用を分離すべきということを言っていた。たしかに農作業だけでなく、経営者であり技術者であることを要求される今の農家経営ではハードルが高すぎる。農業従事者の高齢化を考えれば、遠からず日本の農業は絶滅してしまうし、農地所有つまり経営的部分と使用を分離するというのも時宜を得た提言なのかもしれない。しかし、それにしても提言しているのが経済界の大物の「この人」というのではねえ・・・。同じ内容でも、言っているのが格差拡大の元凶のような人物だと、目に浮かぶのは再生した農村の姿と言うよりも、搾取にあえぎながら過酷な農作業を行う新種のワーキングプアの姿でしかない。そうなれば「蟹工船」だけでなく、同じ作者の「不在地主」もベストセラーになって出版社は喜ぶかもしれないけど。※一方、別の経済界の大物はどっかの講演で外国人労働者の大量受け入れを提言しているという。日本人の失業者や不就業者も少なくないのに、ここで低賃金労働力としての外国人を入れれば、日本人の中には職を奪われる人もでてくるだろう。貧しい人々が外国人を襲うという移民先進国で起きているのと同じような現象が日本でも起きるのだろうか。それとも少数の中国系が政治も経済も支配し、もともとその国にいた民族は周辺に追いやられるような、東南アジアのいくつかの国で起きたのと同じようなことが日本にも起きるのだろうか。※昔はよかった…なんていうと年寄りの愚痴の常套句のようだが、財界人というのもずいぶん変わったように思う。実態はともかくとしても、かっての財界人には国士的というか啓蒙者的というか何か国全体、社会全体を考えているような匂いがあった。天下国家についての発言がそれなりの影響力をもっていた財界人も多かったし、「小さな親切運動」のような国民運動を提唱していた財界人もいた。それが今や自分達の階層の利益のみを主張し、格差を拡大し、貧困層を増大させる提言ばかりを行っているようにしかみえない。
2008年07月25日
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新聞を読むと、犯罪者や容疑者の肩書きについて、よく「元自衛官」とか「共産党員」とかいうのがあるが、あれって変だと思わないのだろうか。まず元自衛官であるが、自衛隊は若者を2年か3年の任期で採用しており、自衛隊勤務経験のある人というのは意外と多い。そうした人々からすれば自衛隊勤務というのは人生のほんの一こまであり、中には自衛隊を除隊した後もいくつかの職業を経験している人も入る。自衛隊を除隊して何年もたった人間が何らかの犯罪を行ったからといって、その肩書きを元自衛隊員として公表するのはおかしいではないか。元というのなら、元少年、元大学生、元会社員、元アルバイトと一人の人間にはいくつもの元がつくはずだ。※同じようなことは共産党員についてもいえる。人はその生活の局面で様々な肩書きを持つ。会社では○○会社△△部の××課長だとしても、同時に町内会の役員だったり、どっかの寺の檀家だったりもする。共産党員というのも、その人の生活の中の政治信条にかかわる部分で、その肩書きを犯罪報道などであえて公表するのは疑問が多い。それも他の場合には公表しないで共産党員の場合だけ出すというのは恣意的な報道ではないか。共産党員が下着ドロとか痴漢とかといった記事は見たことがあるが、自民党員が万引きとかクリスチャンが恐喝とかそんな記事は見たことがない。これはこうしたことがないのではなく、共産党員の場合だけをあえて書いているとしか思えない。犯罪報道は警察発表に依存するので、こうしたバイアスはもしかしたらマスコミよりも警察の方にあるのかもしれないけど・・・。
2008年07月24日
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米国では、黒人が白人を殺害した場合とその逆、そして黒人が白人をレイプした場合とその逆とでは、量刑がまったく違うという。つまり、黒人と白人が加害者被害者となった事件では、どちらが加害者であるかによって世の受け取り方は異なるのである。こうしたことは米国だけではなく、もしかしたら国際社会だって同じようなものかもしれない。よいとか悪いとかではなく、現実として国際世論は欧米(まあ白人)の論理や感情で動いているのだから。もちろん、この場合の黒人白人というのは、有色人種と白人と置き換えてもよい。※近代以降の歴史では、圧倒的に白人が優勢で、有色人種が立場が優勢になった局面というのはあまりない。その数少ない例が、戦時中、東南アジアで日本軍が欧米人を捕虜にした例で、その際の不条理な被害者感情はSF名作「猿の惑星」に結実している。猿が人間を支配する惑星を舞台にしているのだが、小説中に人間を「人間」とか「地球人」とか書かずに「白人」とわざわざ書いてある箇所があって、猿が何を暗喩しているのかはすぐにわかる。日本人の多くがなんとなく憧れや親近感をいだいているイギリスやオランダのような国で、ときどき反日デモや謝罪要求が起きるのも、根底にはこうした不合理な被害感情があるのだろう。※ところでこうした太平洋戦争中の捕虜虐待についての映画が製作されるという。http://www.zakzak.co.jp/midnight/hollywood/backnumber/S/020130-S.html悪名高いパターン死の行進を扱ったものでトムクルーズ主演でスピルバーグ監督だという。こういう映画がヒットしたら、また日本のイメージが悪くなりそう。
2008年07月17日
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アジサイは漢字で書くと紫陽花なのだが、韓国語の辞典をぱらぱらとみていたら向こうでは、水菊という表現もあるらしい。雨の似合う花にはぴったりのネーミングである。桜の季節には街にはこんなに桜の木が多かったのかと思うのだが、梅雨の季節になると紫陽花が目に付く。雨にけぶる宝石のような紫陽花の花も、本格的な夏が訪れる頃には枯れてしまう。我が家近くでは目青不動の紫陽花がちょっとした見所で、携帯で写真などをとっている人も多い。※本屋をのぞいてみたら、漫画でよむ名作文学というコーナーがあった。もちろん漫画版「蟹工船」なども高くつまれてある。他には「こころ」とか「破壊」、また、「カラマーゾフの兄弟」のような外国の大作もある。ざっと見た印象で、すべてをおしはかるのもなんなのだが、いずれも粗雑な劇画調で、こんなので一冊にまとめてしまうのは、なんか原作に対して失礼のような気もする。特にカラマーゾフなんかは筋をおえばよいというものでもないように思うのだが。そんな中で、あの蟹工船だけは、粗雑な劇画調がぴったりしていて、蟹工船ブームのきっかけの一つに劇画版の刊行があったという指摘も、あるいは正鵠を射ているのかもしれない。もちろん格差の拡大とかといった他の要因も大きいのだが。※日本人論でよくあるのは日本人イコール農耕民族と前提から日本人の特性を論ずるパターンである。農耕は文明の一大要素で日本人だけがやっているわけではない。だから日本民族の特性イコール農耕民族という議論も乱暴だとつねづね思っていたが、最近はどうもこの農耕民族特性論というのも真実をついているのではないかと思うことがある。たしかに世界中の多くの地域で農耕は行われているが、牧畜など家畜との付き合いという面では文明による差がかなりある。家畜をあまり使わずに、ひたすら労働集約的な農耕を行っているというのは、欧米などと比べた場合の日本の農業の特色だろう。牧羊犬でも馬でも家畜を扱っていれば、生来利口な犬もいればそうでもない犬もいるし、足の速い馬もいればそうでもない馬もいるなどということは、いやでもわかる。また、人間の方だって、馬の扱いの巧みな人もいれば、そうでもない人もいるだろう。ところが相手が植物だとそういうことはない。栽培する人によってコメの味が異なるなんていうことはまずないし、コメだってその生育は土壌や気候次第である。こうしたことが、人間観に投影した場合、牧畜など家畜を扱う文化では人間の能力差に対する冷徹な認識が生まれるのに対し、そうではない日本のような文化ではこの能力差を最後までオブラートに隠したがるのではないか。それが、教育論にあらわれると、勉強すれば誰でもできるといった「努力信仰」になるわけだが、経済社会の問題でそれがあらわれると「貧困の自己責任論」となるのかもしれない。誰でも努力すれば貧困から脱出できる。それができないのなら努力しない本人が悪い・・・というように。
2008年06月30日
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消費税アップを提言している、かの財界人の会社は偽装派遣や過労死の問題で物議をかもしたところだ。そのせいかついこうした消費税と社会福祉をリンクさせる議論には疑問を感じてしまう。ご存知のように消費税というのは極めて逆進性の強い税だ。必需品にもぜいたく品にも同じ率の税がかかってくるので所得の低い人ほど痛税感が強くなる。もちろん消費税が上がり物価が上昇するにあわせて、年金や生活保護費、給料も上がればよいのだが、なかなかそうはいかないだろう。そうなると福祉と消費税のバーターが行われる可能性がある。消費税アップがいやなら低福祉にも我慢しなさいよ、福祉がこれだけ必要なのだから消費税アップはうけいれなさいよ、というように。そもそもなぜ社会福祉の財源が消費税なのか、なぜ所得税や相続税、法人税ではないのか。今後の福祉需要を考えれば消費税アップもやむをえないのかもしれないけど、消費税と福祉を強く結びつけるのも危険なような気がする。※かの財界人でなくとも、どうも昨今の財界人には弱肉強食を賛美するような美しくない発言がめだつ。ネットで探したらこんなHPがあった。http://blog.livedoor.jp/star871/archives/50797908.htmlいずれも貧乏人をあざ笑う発言で、能力のない者は格差をつけられてもやむなしという発想が見え隠れする。能力差を前提にした上で、その能力や運に恵まれた者がそうでない者に慈善や喜捨を施すという倫理感を有する社会ならともかく、能力差そのものから目をそむけがちな日本のような社会でむきだしの競争がいかに酷い結果となるか・・・。これらの発言を読むと、それを目の当たりにみせつけられるような気がしてげんなりする。こいつらは自分の能力や運を誇示し、そうでないものを踏みつけることしか考えていない。そしてこんな奴らが今の日本を牛耳っている。鬱~。※他にも、曖昧な記憶なのだが、やはり財界人や政治家の発言でこんなのもあったように思う。「今の日本の貧困はアフリカよりもまし。」「フリーターやワーキングプアは結婚もできないのだから、やがて淘汰されていく。」そしてまたこんな下にあわせろ式発言も。「最低賃金が低いというけど失業よりもましではないか。」「非正規雇用の問題は、正規雇用が守られすぎているためなので、正規雇用の身分保障も見直すべきではないか。」こうした発言には自分達の利益しか念頭になく、社会全体という視点がまるでない。だから、同じ経営者の発言でも以下のようなのをみると少しは救われる気がする。あるブログで紹介されていたビル・トッテン氏の言葉である。「私は共産主義者であり、社会主義者である。こう書くと、多くの読者は驚くだろうか。しかし、私は皆さんに問いたい。では、あなたは非共産主義者で、非社会主義者なのかと。私の理解では、共産主義とは、文字通り「共に産み出すこと」だ。もう少し具体的にいえば、人々が一緒に働き、健康で幸せな生活のための製品やサービスを生産し、そこからもたらされる利益をみんなで分け合う社会思想だ。例えばイエス・キリストの思想なども、まさに共産主義だと考える。」http://kuromame55myhome.blog99.fc2.com/blog-entry-56.html※マルクスの思想がそのまま今の時代にあてはまるとは思わないが、資本主義が限界にきているのは間違いない。企業(経営者や株主)が利益を最大にするために最も合理的に行動すれば、少数の中核的人材や高度の専門能力を有する人材以外は、社外労働力としてできるだけ買い叩くか、社内にあっても代替可能な人手(人材ではない)として使い棄てていくのが最も賢いやり方なのだから。そしてその結果、多くの人が不幸になり、社会も壊れていく。今こそ、マルクスのとなえた平等と言う理想は再評価すべきであり、資本主義の暴走にもストップをかけるときなのかもしれない。※※西成の暴動は5日連続ということで、ついにイタリアのメディアにも紹介された。http://plaza.rakuten.co.jp/mikawannko/diary/200806180000/なぜ日本のマスコミは報道しないのだろうか。
2008年06月19日
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どうも韓国人は英語にコンプレックスを持っているようで、韓国の新聞をみていると英語教育に関するニュースがしょっちゅう掲載されている。なるほど・・・現国連総長のパン氏にしても、子供の頃から背の高い英語の天才少年と評判だったらしいが、彼の英語にしても発音をきく限りではけっしてうまいというほどのものではない。ついこの間も、どっかの自治体が肝いりで「英語村(ヨンオマウル)」なるものを作り、そこで合宿すれば英語圏に留学したのと同じ効果のある施設をつくったらしいが、その成果のほどはどうなのだろうか。そんな韓国人が世界中で唯一「あいつらに比べればまだ自分達の方が英語ができる」と安心して見ていられる国がある。いうまでもなく日本である。だから韓国では日本人の英語ベタを実証するエピソードなども流布しているようだ。最近、その韓国の新聞のコラムに掲載されたものだが、面白いのでちょっと紹介する。その1ある国際会議でのこと。日本人が一生懸命に英語で発表している。それを聴いていた米国人が隣の席の韓国人にこう言ったという。「へえ、日本語というのは以外に英語に似ているのだねえ。」その2タクシーに乗った日本人が運転手にdelux hotelに行きたいといくら言っても通じない。そこで仕方なく綴りを書いて運転手にさしだしたら運転手はこう言ったという。「わかった。derakkusu hoteruね。」要するに日本人の英語力は世界でも最下位ということだろう。※英語ができないのは仕方ないにしても、これが様々な思考方式や人生観にも影響しているのではと思うことがある。まず、一つは、こんなネット時代になっても、自分で直接に海外の情報にあたる機会がかぎられてしまうので、政府や評論家のいう「海外ではこうだ」という議論がそのまま流布しやすい。例をあげれば、市場原理主義や貧富の格差など、どうもそれが世界共通の流れであるという「情報」が流布しているようだが、実際には市場原理主義の見直しの動きの方が世界の潮流であるようだし、ヨーロッパの国の中には自由競争よりも再分配や平等に軸足を置いた政策をとっているところもある(という)。もう一つは、日本語しかできないせいかどうも無意識のうちに日本だけが世界のすべてだと思ってしまう人が多いのではないか。韓国の新聞には毎日のように移民の手続きを代行する業者の宣伝が載っている。エリートではない。普通の人が自動車の整備などの技術を身につけてカナダ、米国、オーストラリアといった国に移民していくのである。こうした移民には失敗例も多いというが、それでも日本国内での人生に希望がないと思ったとき、海外移住という選択肢を考えるのと考えないとでは大違いではないか。韓国の新聞に毎日のように掲載される移民説明会の広告をみながら、こうした需要は日本には本当にないのだろうか、それとも日本では規制があってこうした業者の存在自体がなりたたないのだろうか、とつい考えてしまう。
2008年06月16日
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最近になってようやく格差や貧困の問題に多勢の人の目がむいてきたように思う。少し前まで強者の立場からの物言いが流行り、そうした論客がもてはやされていたのを思うと、時代の変化の激しさに慄然とする。バブルに踊り、バブルがはじけ、必死に泳いでいたら、いつのまにか周囲にはワーキングプア、ネットカフェ難民ばかりの格差社会が現出していたということなのだろうか。蟹工船もすっかりブームだし、資本論や共産党宣言も売れているという。ただ古典的な「階級」概念をそのままうのみにすると、結局は「機会の平等さえ確保すればよい」とか「結果の平等は保障しないのでそれはすべて自己責任」とかといった方向に議論が流れそうで要注意だ。19世紀の牧歌的な時代には地主の息子は地主、工場主の息子は工場主というように親の資産が子供の社会階層を決めただろうが、今はそんな時代ではない。今の時代にあった再分配の思想や平等の思想を目指す必要があるのではないか。※最近見た映画や読んだ本の話など・・・。まず韓国映画の「恋する神父」。お約束的なストーリーだし、ちょっと女の子のキャラが猟奇的な彼女の二番煎じぽいのだけれども、イケメンのクォンサンウだけを見ていればよいという人にはおすすめ。神父の着る長い衣装(スートンというらしい)がとても似合っていて素敵だ。小説「チンギスハン」。堺屋太一で、この人はどちらかというと格差礼賛論者かもしれない。最近、格差への憤りばかりを書きながら、この人の小説を読んでいるのもちょっと矛盾しているのかもしれないけど、なかなかよく書けている小説である。チンギスハンの一生はたいていの人が知っているし、はらはらして先を読みたくなるという小説ではないのだが、その事跡を借金だらけの小企業をついだ男がそれを世界的な大企業に育て上げるという企業小説のような手法で書いたところが目新しい。決して天才でもない男が人材登用や情報重視の妙で史上最大の成功者になったという解釈には元気付けられる人も多いのではないか。たしかに一瞬元気付けられるのだが、考えてみると、人材も情報もそれができれば苦労はないよという話で、結局はそのあたり日経新聞の広告欄によくある成功のハウツー本とあまり変わりないといえば変わりない。
2008年05月28日
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北方領土返還は日本の悲願だという。本当にそうなのだろうか。島が戻ってきた場合の、道路整備等のインフラにかかる税金、土地を保有していた人々の権利関係をめぐる難題、そして場合によっては在日ロシア人の処遇の問題など、どれを考えても気が遠くなるほど大変な話である。石油でもでるのならともかく、今後人口が減り続ける日本が、あんな北の島に拘る理由もないのではないか。なんか北方領土って鯨と似ている。鯨をどうしても食べたいという日本人は少数派なのだろうし、北方領土に行きたいという日本人も少数派である。それなのに、変に民族主義とからんで、たてた旗を降ろせずにいるという状態である。※おそらく北方領土返還というのは、スローガンとしていいつづけることに意味があるのであって、誰も実際に返還された後のことなどは考えていないのであろう。もし、現実の返還の可能性というものがあるのなら、かのソ連崩壊のときなどは千載一遇のチャンスだったはずだ。しかしながらあの時期ですら、北方領土返還の現実的な交渉を行おうとした形跡はない。悲願は悲願のままでということなのだろう。※いっそ北方領土は日本に一番近い外国ということで観光地になればよいのにと思う。以前、千島にコサックが入植して十字架をたてた(21世紀にこういうことをやっているのがすごい)というニュースがあったけど、北海道旅行とセットで本場のコサックの歌や踊りを見られるのならよいではないか。海外旅行気分を売り物にする国内の観光地としては、ハウステンポスもあるのだが、いくら建物がヨーロッパ風でも、肝心の通行人がああなのでちっともヨーロッパという気分がしなかった。建物だけでなく、人間も重要な風景の構成要素である。そこに行くと千島列島などは、北海道旅行と一緒にヨーロッパ旅行の気分も味わえる貴重な観光スポットなのではないだろうか。
2008年05月17日
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高校1年の夏、はじめてマルクスを読んだ。「共産党宣言」の感動は今でも忘れない。人類の歴史は歯車のように必然の軌道をたどっており、やがては「能力に応じて働き必要に応じて与えられる」社会が実現するという。搾取も被搾取も差別もない社会。そんな社会が実現したらどんなによいだろうか。人類の歴史に思想家は数え切れないくらい現れたが、「結果の平等」を理論として説いたのはマルクスがたぶん初めてだろう。宗教の世界でも平等は説かれてきたが、それは価値としての平等や神の前での平等であって、現実の人間が平等であるべきだということではない。※今、そのマルクスが読まれているという。資本家と労働者、持てる者と持たざる者との対立の図式というのは、つっこみどころ満載で今の時代には、とてもそのままあてはまらない。これだけ社会が複雑化すると、重要なのは農地を持っているとか工場を持っているとかではなく、どんな専門知識や技術をもっているかである。そしてその知識や技術も、誰でも身につけられる類のものと凡人にはとても望むべくもないものとに二極化している。凡人は単なる労働力として使い棄てられ、ほんの0コンマ何%かの専門知識や技術、企画力等を持った人材に富が集積しつつあるのが、格差社会の背景ではないか。今のところ非正規雇用が貧困の温床になっているが、そのうち正社員の貧困も問題になっていくだろう。能力主義や成果主義のかけごえの下で、結局、初任給からほとんど変わらない給与のまま働き続ける社員が急増し、賃金は抑制されるだろうから。「能力に応じて働き必要に応じて与えられる」社会は夢物語だろうけど、「能力に応じて働き能力に応じて与えられる」ままにしておくと格差はとめどもなく拡大していく。能力にかかわりなくすべての人を平等に扱えとまでは考えないが、何か能力のある人のモチベーションもそがずに、社会の多くを占める凡人もまた幸福になれるような、格差の「最適解」というのはあるのだろうか。
2008年05月15日
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かってソビエトという国があった。競争や利潤の代わりに、平等と連帯を理念としている国で、そこには差別も公害も貧困もなく皆が幸福に暮らしていた。そしてその国は初めて有人衛星の打上にも成功し、人類最初の宇宙飛行士となったソビエトの英雄は「宇宙には神はいなかった」と言った。貧困も搾取も克服した国では、人々は宗教にすがりついている必要もなかったのだ。※その国の歌はこよなく美しく、日本で流行ったものも多い。トロイカ、カチューシャ、灯、山のロザリア・・・今でも好きな曲だ。そして特に好きだったのは中学校のとき学校できいた「ロシア我が祖国」という歌。(曲http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/ 「ロシアのうたごえ」の中の「ロシア」という曲)白樺の林や草原の光景とともに自由な故郷の素晴らしさを歌った曲で、ロシアが故郷だったらどんなによいだろうと本当に思ったものだった。歴史にIFをいっても仕方がないが、その可能性だってあったのではないか。もし日露戦争でロシアが勝っていたら、もし東郷平八郎がもっと無能だったら、今頃は社会主義祖国の一員としてこの歌を祖国の歌として歌っていたかもしれないのに。本当に残念だ。※社会主義のイメージは、まず美しい歌や風景のイメージとしてやってきた。そして高校時代になると、その国が基盤としている理念がしりたくてマルクスやレーニンの本を読み始めた。・・・といっても、資本論はとても手がつかず、「ドイツイデオロギー」は読んでも理解不能、せいぜい感動して読み終えたのは「共産党宣言」と「空想から科学へ」くらいだったけど。※今ではソビエトという国があったのも過去の話。でもあの国が理念としていたはずの平等や連帯は本当に古くなったのだろうか。ソビエトの社会主義は失敗だったかもしれないし、いまさらあれと同じようなことをする必要はないのだけれども、行き過ぎた競争や格差がよいとはとても思えない。現実のソビエトは理想郷でもなんでもなかったのだが、平等と連帯という理念そのものは今でも輝きをはなっているのではないか。格差が拡大し、貧困層が増大しつづける日本の現状をみると痛切にそう思う。
2008年05月11日
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ブログに本名、それも立派な肩書きまで晒して書くとなると相当の覚悟が必要だ。まさにその社会的効果は出版と同じようなものなのだが、出版なら気の利いた編集者が「この表現はちょっとまずい」とかなんとか注意もしようが、ブログは気分にまかせて書いて、送信したら最後、とりかえしのつかないことになってしまう。昨今なにかと話題の方のブログ…ある意味本音なのだろうけど、ここで紹介されている文章はいかにもまずい。http://plaza.rakuten.co.jp/momen3/diary/200804280000/専業主婦志願の女子学生が踏み倒す可能性も認識しながら奨学金をかりるのはどうか…という疑問はわかるのだが、その例で「昼間からぶらぶらしていて殺された」特定の事件の犯罪被害者をあげるのは人権問題ではないか。この間の問題となった光市事件のブログでも、たしかに当時18歳だった男について多くの人がいっせいに死刑を叫んでいることについての違和感はわからないでもない。ただそれを赤ん坊は0.5人だとか遺族は死刑判決に大喜びなどはいわずもがなのことだろう。5人も子供がいて地球温暖化問題を主張するのはどうかというブログの別の箇所についても大いに同感。ただ特定の議員の個人攻撃にからめるのはどうか。もっともこの場合は公人なので許容範囲なのかもしれないけど。その伝でいけば、環境問題でリーダーシップをとるなんていいながら、国内では少子化対策だなんだといい、国外では環境団体の反発をかいながら調査捕鯨をつづける。よく考えれば日本もかなり分裂している。※ブログの怖さを感じさせるニュースはこれが最初ではない。「トカゲの部屋」と称するブログで患者の悪口を書いた女医が解雇された事件もあったし、「子供の死体が三度の飯よりも好き」と書いた匿名ブログで事故死した子供の写真とともに不謹慎な文章を書いた小学校教師が解雇の上、刑事事件にまでなった。前者の例は患者にも明るみになった以上病院にはいられないのだろうけど、後者の例で刑事処分までされたのはちょっと行き過ぎではないか。罪名は著作権法違反。自分のHPでかってに新聞社のHPからとった写真を掲載したのが罪状だが、こんなので逮捕されるのなら、ネット上には逮捕しようと思えばできる容疑者が無数にいることになってしまう。※※現在問題となっているブログの問題となっている記事はここにまとまって収録されている。う~んひどいと思うのもあるけど、共感できるものも…。いずれにしてもあまり近づきたくない人という印象をうけるし、こういう人に接触している学生はなんか気の毒。http://www.wikihouse.com/seo/index.php?%C2%BE%A4%CE%CB%BD%B8%C0
2008年04月29日
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