
さざんかが咲いたよ。
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毎週木曜午前の用事を済ませてきたところだ。
すれちがう人たちの様子から、
歳末だなあと感じる。
寒いせいもあるけど、
みな急いでいる。
自転車に危ないくらいの買い物を積んで走ってる人や、
大きな掃除機を乗せて移動している人もいる。
年末はいつもひとつの着地点。
原点回帰の時。
それぞれの現実に自分を合わせて、
それなりの幸せを噛み締めるときでもあると思う。
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僕の今年の心像風景は「諦」だった。
諦めは投げやりとはちがう。
諦めは
ひとつの調整である。
現実に自分を合わせなおすプロセスだと思う。
期待した政権の無力振りには諦めるしかないし、
肉体の不具合にも諦めるしかない。
昨日4回もテニス倶楽部の横を通り過ぎて、
長年見慣れた光景を眺めているのに、
ゲートボール楽しんでいるグループを見かけるときと同じように、
楽しそうだけど自分はしたいと思わないなと感じた。
一年かかって、
そういう心境に適応してきたのだろう。
人間の気持ちというものは、
いざというときにならないと分からない面もあるにはある。
だから分からないけれど、
号泣の準備は出来ていた風にいえば、
諦めの準備は出来ている、
という感じかな。
心境の移ろいを文字にしてみた。
直感だから本来の意味は知らないけれど、
諦から楚へ、
という感じだ。

書いた後で楚を調べてみたら、
昔の中国の王国だったり、
なんだか罰としてのムチや
粗忽などの意味合いもあったりするし、
すっきり、
という意味合いもあったりする。
楚々とした女性像が好きだから、と
楚は好きな字なのだ。
自分としては、
第四楽章の通奏低音として、
楚のイメージを描いている。
The kanji of my present image of mind
is moving fro 諦 to 楚.