零式艦上戦闘機 画像有り 製作中

零式艦上戦闘機

皆さんこのページは戦争というより、我が国の当時の工業力の水準の高さと
現在にも使用されている技術に関して、戦闘の部分も出てきて不快な面も御座いましょうが、零戦製作の技術力と日本の世界的な航空技術力を紹介いたします。

昭和16年12月8日(7日)現地の開戦時のパール・ハーバー攻撃時の陣容は、下記、編隊の様な陣容だったと思われます。零戦は明灰白色機体カラーで皆さんお馴染みのグリーンは昭和18年7月頃からです。














遠い遥かな~南の空に飛び発ちて~今だ帰らぬ~英霊たちと~後継機の無いまま~終戦まで戦い続けた零戦に捧ぐ
昭和12年海軍よりの要請で、着工に入った十二試艦上戦闘機から、最終の零戦54型(量産型64型)零戦と其れに関わった人たちや、航空戦・基地での出来事など、その他、ライバル機などを語っては見ませんか、零戦ばかりにとらわれず、その他の飛行機も語って行きたいと思っています。必ず一度は憧れる零戦、昭和15年、皇紀2600年に制式採用になって以来、世界を震撼させた零戦の活躍と衰退を、語って見ようでは有りませんか。
さらばラバウルよ~又来るまでは~しばし別れの涙が滲む~今度来る時きゃ紫電に乗って~友よ見てくれこの勇姿~♪

type52kou

厚木航空隊・302空所属・赤松貞明中尉機

零式艦上戦闘機・52型・甲・A6M5-A・中島飛行機製

終戦の年の5月29日、零戦に乗り、横浜近郊で75機
のマスタング相手に、加過重の速度も全く問題にされない零戦52型で、単機攻撃をしかけるという、常識では考えられない行動をとり、見事ルーファンス・ムーア少尉機を撃墜するという快挙を成し遂げている。
この攻撃を目撃したトッド・ムーア大尉は後日「もし、赤松中尉がアメリカ人だったら、あの得難い議会名誉勲章を授けられていただろう」と語っている

12空零式艦上戦闘機11型・A6M2A

第12航空隊・零式艦上戦闘機11型・A6M2A 三菱名古屋航空機製

この部隊は、太平洋戦争前に、中国大陸で活躍した部隊である。
まだ、制式採用されていなかった零戦を、横山保大尉・進藤三郎大尉らの手により実戦テストをし、仕上げた物である。昭和15年9月13日中国、重慶を攻撃し、実戦投入、早々に実力見せつけ、進藤大尉率いる零戦13機が27機の中国軍機、ソ連製のイ15・イ16全機を全て撃墜し、華々しいデビューを飾った。
零戦の名前の由来は、制式採用されるまでは、零式艦上戦闘機では無く
十二試艦上戦闘機と呼ばれていた。此れは、海軍が三菱に制式発注した年が
昭和12年であった為、それから名付けた物である。制式採用された年が西暦
では無く、皇紀2600年だった為、末尾のゼロを取り零式艦上戦闘機と名付けられた。因みに、この年は、昭和15年であった。零式と十二試の式と試の違いは、試、此方は製作及びテスト段階で使われる呼称である。後の式は制式採用後に使われた呼称である。
この部隊も、太平洋戦争前に台湾に本拠地を移し、開戦時には台湾~フィリピンを無給油で往復し、大活躍した。皆さん知らない人は、真珠湾ばかりを注目しますが、此処に第二の真珠湾があった事をお忘れ無く。この部隊に居たパイロットたちは、後に各地で活躍する事になる。

平成15年9月17日

零式艦上戦闘機・設計主務者・堀越二郎氏経歴


零戦を語るには、やはり三菱重工名古屋航空機製作所の堀越二郎設計主務者

から語って行かないと話が進みません。

零戦生みの親ですから。

明治三十六年、群馬県生まれ。

昭和二年、東京帝国大学工学部航空学科卒業。直ちに三菱内燃機(現・三菱重工業)
に入社。名古屋航空機製作所に勤務。

昭和四年~昭和五年に掛けて、ヨーロッパ各国及びアメリカに滞在し、航空機工場を視察
ドイツのユンカース社、アメリカのカーチス社にて機体技術を研究。

昭和七年、七試艦上戦闘機の設計主務者

昭和九年、九試単座戦闘機(96艦上戦闘機)の設計主務者

昭和十二年、十二試艦上戦闘機(零戦)の設計主務者

昭和十五年、十四局地戦闘機(雷電)の設計主務者

昭和十七年、十七試艦上戦闘機(烈風)の設計主務者

昭和二十年、三菱重工業参事、同社本店技術部に転勤

昭和三十八年、新三菱重工業参与を最終役職として退職

以後、東京大学校講師、防衛大学校教授、日本大学理工学部ならびに、同生産工学部非常勤
講師などを歴任。

昭和五十七年、死去

以上が、堀越二郎氏の経歴である。

平成15年9月18日
零式艦上戦闘機・52型・甲・A6M5-A・中島飛行機製

零戦52型・甲 厚木・302空・123



映画、パール・ハーバーの零戦への感想!!


映画、パール・ハーバーの嘘、零戦の機体の色がまちまちで有る。

時代考証的に見れば、機体色は明灰白色が本当なのに(灰色系の色)

緑色の機体の飛行機が飛んでいる。あれは、真っ赤な嘘です。何を考えて

あの監督は映画を作っているのか?本物の零戦と言っても、本当のオリジナル

エンジンを使っているのは、プレーズ・オブ・フェイムの零戦52型だけです。

中島製(栄21型エンジン現富士重工製)他の零戦21型22型は、共にプラット&ホイットニー社

製のエンジンである。零戦21型に至っては、翼端が折畳みが出来ず、オリジナル

とは異なる。(零戦11型までは翼端が折畳出来なかった。零戦21型からは、開戦を視野に

入れ、空母搭載時、飛行機を甲板に上げる為の昇降機に翼端が当たり易いので

左右・片翼50センチ×片翼50センチ計1メートル折畳可能にした。)

後は、この、開戦当時に現存した機体は、明灰白色の機体の零戦21型のみで、

22型が昭和17年、52型が昭和18年制式採用となっている。という事は、開戦当時には

22型、52型は、無かった事に成ります。機体が緑色に成ったのも、昭和18年夏の頃である。

機体のオリジナリティーを最も保っているのは、プレーズ・オブ・フェイムのこの零戦52型のみです。

映画、パール・ハーバーは、映画的、娯楽として見るのは良いと思うが、しかし、どうかと思う。

本格的に、時代考証を求めるなら、トラ・トラ・トラをお勧めする。

未だ、零戦の機体は、T-6テキサン練習機の改造機体だが、横から見るぶんには零戦その物

であったし、日米合作であったので時代考証が正確に出ていた。

失敗は、空中戦の時に落下増槽タンクを付けたまま空中戦をした事くらいが、間違いであった。

(空戦時には、落下増槽タンク(補助燃料タンク)は落とさないと被弾したら大爆発を起こします。

あの中には、一般乗用車の約5台分弱の航空機燃料が搭載されています。約330リッター

今見ても良く出来た映画である。この零戦を使用した次の、やはり日米合作の、ミッドウエイ

も良い出来であったし、音響効果は最高であった。センサーラウンドと言う音響装置を設置し

体が震えるほどの音響効果であったのを覚えています。

又、パール・ハーバーに戻りますが、時代考証的に見たら、あんなインチキな時代考証は無い

見る観客に失礼です。

まあ、映画的娯楽で見るつもりで見るのが賢明である。

「パール・ハーバー攻撃時の零戦の塗装は上記↑に飛んでいる零戦の色が

本当の色であり、この時すでにグリーンになっていたのが、雷撃機の

中島製九七艦上攻撃機であった。雰囲気的には上記の様な編隊で攻撃した。」

一寸、オタク的な事を言い過ぎたかな・・・見る人の自由ですね。しかし、

笑えます。


平成15年9月19日(記)
零式艦上戦闘機・52型・甲・A6M5-A・中島飛行機製

零戦52型・甲 厚木・302空・152

重量増加に伴うスピードDOWNに伴い、苦肉の策として考案されたのが
推力式単排気管(別名・ロケット排気です)
此れにより、水平飛行で10数キロのスピードUPに成功、副産物として
急降下・上昇力も性能向上に至った。(其れまでは集合排気管で1本に纏められ左側、第5フラップから突き出していた。)しかし、エンジンなどは
22型同様に、星型二重空冷14気筒、離昇出力1.130馬力の中島製・栄21型エンジンのままであった。
上記写真の、プロぺラ後方の黒い大きなエンジンカバーの隙間から
排気管が姿を覗かせている。因みに、機体の各所の塗装が剥げているのは
この当時、塗料質も悪く下塗りしていなかったので、所々ジュラルミンが剥き出しに成っているのです。でも、この機体は本土防衛用のため、まだ綺麗な方です。南方で使用された機体などは、機体前方などは殆ど塗装など剥げ落ちて有りませんでした。

平成15年9月23日(記)

零戦の各TYPE



零戦は、十二試艦上戦闘機から始まって・11型・21型・32型・22型・52型その他に甲・乙・丙・53型・

62型(63)・54型(64)・11型練習機・21型練習機・二式水戦・21型複座偵察機

各TYPE

総合計、約10.370機生産された中で、52型の生産量は、約、6.000弱で一番生

産された。

この合計数の中で、中島飛行機の生産数の方が三菱を上回っています。

此れは、三菱は開発が多忙で、生産に手が回らなかったようです。

性能が落ちる度に、改修、改修で手が回らなかったようです。

但し、この生産数も混乱の中での数字ですので、確実な物とは言えないみた

いです。

当の堀越氏も、実際の所、分からない様です。


平成15年9月29日(記)

防弾装備に関して。



それでなくても22型以来重量が増加していた機体に、エンジンは同じ出力の栄21型では出力不足で、防弾装備など考える余地など無かったが、最低限
の装備は、52型成ってから考えられる様に成って来た。如何に日本軍が人を人と思わず戦わせたかがお分かりでしょうか。只したすらエンジンの出力不足を補うために、軽量化を図った。遣られたら自爆の道しか彼らには無かった。パラシュートなどは座布団代わりにジュラルミンの硬い操縦席に敷いて居ただけで、ベルトは体に付けてはいなかった。遣られたら体が何でも無くても、彼らには死が有るだけだった。何と非人道的な事でしょう。アメリカ軍などは、パラシュートとで落下した人間を、総力で助け出したのに比べ
、何と酷い事か・・・その結果後半のマリアナ沖海戦辺りから、熟練パイロットの不足により、徹底的に叩かれパイロットを失った。此れをアメリカ側では、マリアナの七面鳥狩りと称しこの時エースパイロットになった人間が多い。アメリカでは5機撃墜すればエースパイロット言われたようです。
日本には個人的な、その様な制度は無かったようです。
如何に日本軍は精神主義で戦ったかが、此れで良くお分かりに成ると思います。もうこの時点で、アメリカはハイテク戦に入っていた。
結局マリアナ沖海戦の敗北から、フィリピン、レイテ戦へと局面は移っていった。



52型・丙A6M5cに至っては更に重量増加により、離昇出力1.130馬力ではとても満足のいく防備など出来る筈も無く、運動性能は落ちるばかりでした。それでなくても、主翼と胴体内機銃に13mm3挺、
搭載したお陰で、更に重量は増加し、(7.7mm2挺は外したが)しかし
ロケット爆弾懸吊架装置も取り付け、更に重量は増加した上に、防弾フル装備はとてもじゃないが有り得なかった。
せいぜい、パイロット用防弾ガラスと、翼内および胴体内に自動消火装置を
装備、操縦者の後方に内袋式防弾タンク140リッターを新設、翼外板の厚さを増し急降下制限速度を計器指示400ノットに保つ。
防弾および火力増強を行えば尚グラマンF6Fに対し勝算有りとして、特急工事
重量増大し性能低下して、目的を達せず。と言う事で、性能向上どころか性能を低下させた。

52型丙などは、パイロット用背面用の防弾ガラスなどは、重量が増加するとしてパイロットが外してしまったらしいが、その結果、52型丙などは最高速の低下を招いた。

零戦52型・甲 厚木・302空・35

零戦52型・甲 A6M5a

このTYPEから、20mm機関砲は2号4型となり、弾倉TYPEからベルト給弾式となり、125発×125発=250発、計、左右で250発と成る。(其れまでは100発×100発計200発)その為に、主翼下面のバルジ、弾倉を覆っていた部分が撤去されて、多少の空気抵抗減少には成った。
この20mm機関砲は、ベテラン・パイロットが使用すれば、炸裂弾の為
1.2発で敵機を破壊したと言う。(炸裂弾とは弾の中に、火薬が詰まっていた
ので、破壊力は凄まじい物が有った。)米軍機は殆どが12.7mm.と口径が小さかった為、火薬は入っていなかったが、12.7mm機銃を6門主翼に取り付け
弾の多さで勝負していた様である。此方のが正解だったと思われるのは、
未熟なパイロットは、焦って滅多やたらと打ちまくったので、20mm機関砲
の携行弾数では、直ぐに弾が無くなり、機首部の7.7mmを使う羽目に成った様である。初期の20mmは、60発×60発計120発であったが、ベテランが多かったので、何とか成ったが、マリアナ沖海戦では初心者が多く、相当の犠牲が出た様である。

零戦22型第202航空隊所属・A6M3.

零戦22型第202航空隊所属・A6M3

三菱 零式艦上戦闘機二二型 (A6M3)
ガダルカナル攻撃に航続距離無く参加出来ない三二型を諦めて急遽、改善するため主翼内外翼部に固定式増加燃料タンクを設置、その重量増加によって増加する翼面過重を見直し主翼を二一型と同様の翼幅12mに戻した。改修による速度低下は僅かに3㎞/hほどに止まり、541㎞/hという最大速度と計算上零式艦上戦闘機各型中最大の航続距離を有する二二型は昭和17年10月頃に試作一号機が完成、昭和17年12月頃から陸上基地航空隊専用機として実戦配備され、ガダルカナル攻撃戦中盤から投入された。
この頃にはブインやムンダなどの前進基地が整備されたため大航続距離はそれほど必要でなくなっていたが、ガダルカナル戦中盤以降におけるラバウル航空隊の主力機として活躍している。
二二型の生産は三二型同様三菱のみで行われた、後に性能向上型として翼内機銃を長銃身の九九式二号三型20㎜機関砲に換装した二二甲型(A6M3a)が製作された。バランス的には零戦中最高にバランスが取れていた機種と思われる。





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