ラバウルのエースたち・笹井醇一中尉

ラバウルのエースたち笹井醇一中尉
笹井醇一
台南航空隊中隊長 天才肌の戦闘機乗りとして有名をはせ、「ラバウルのリヒトフォーヘン」を自認した笹井醇一中尉。その彼もガダルカナル島上空に散り、弱冠二四歳で海軍少佐に任ぜられた。
笹井・坂井の名コンビ誕生
米・濠(オーストラリア)間の交通を遮断し、米の反抗を封じるとともに 濠を孤立させる作戦を準備する為、日本海軍は昭和一七年(一九四二)四月までにラバウルとニューギニア島北岸要地を占領した。四月末の一夜、ラバウルの最前線であるニューギニア島東部ラエの、湾に面した桟橋に二人の男が いた。台南航空隊の笹井醇一中尉と坂井三郎一等飛行兵曹である。彼らは階級を越えて格別に親しい間柄だった。坂井が後輩を使いに立て、笹井を誘いだしたのである。
「何だ先任」細身で筋肉質、凛々しいしく貴公子然とした面立ちの笹井が聞いた。笹井は普段高い声だが、坂井と話す時はわざと低い、重々しい声を出す。笹井の照れ性を知っている坂井は軽いユーモアを感じながら切り出した。「貴方はとうとう私たちの中隊長なりましたね。あすから中退を率いていくわけですが、大将たる者絶対後ろを振り向いてはいけません。見張りは私と西澤が(広義一飛曹)に任せてください。私が必ず敵機を見つけて合図します。隊長は安心して、暴れるだけ暴れて下さい。日本一、いや世界一の笹井中隊を作ろうじゃ有りませんか貴方を義経にして、私と西澤は弁慶に徹します」笹井はしっかりと坂井の手を握った。笹井と坂井の名コンビが誕生したのであった。一中隊は三つの小隊(一小隊は三機編成)から成り、笹井は第一小隊を兼ねて、その二番機に西澤を、第三小隊長を置く強い布陣をしいた。坂井と西澤は日華事変以来のエースである。
坂井はこの大戦で計六三機を撃墜破したといわれる。撃墜機数の確定は難しい。坂井自信この数は確認できない言っているが、戦後、米・英・仏から数々の表彰状や記念品を贈られ、撃墜王と、評価が高い。笹井醇一は大正七年(一九一八)二月東京・青山で生れた。父謙二は海軍造船大佐、母久栄の妹淑恵は、のちの特攻隊の最高司令官大西瀧治郎中将の妻。醇一は大西の義理の甥に当たる。姉一人妹一人の三人兄弟である。東京・東中野に住む姉敬子の話によると笹井は赤ん坊の時疫痢にかかって胃腸が弱く、久栄は栄養をつけるために、ほうれん草を裏ごしにして食べさせた。子守のミスで床に落とされて腰を打ち、これが基で小学校二年ころまで夜尿症。整骨医の治療でやっと治る。それに前後して小児結核を煩い、転地療養をつずける。父親の転勤で転校が多く、小学校を六回変わる。受難の幼児期であった。しかし我慢強く、胃腸が丈夫になると言われれば苦いせんぶりも素直に飲んだ。ひ弱で学校も休みがちで有ったのだが頑張り屋で、試験の成績は何時も一番。欠席日数が多い為優等生にはなれず、二番に甘んじ、1年遅れで卒業した。東京府立一中(現・日比谷高校)に進学してからは見違えるほど丈夫になり、骨折を心配した父親に内緒で講道館に通い、家族が気ずいた頃には黒帯を締めていた。卒業時には二段の腕前だった。
天性のパイロット
昭和一一年、六七期生として海軍兵学校に入校する。海兵受験の動機について敬子は、「父親が海軍軍人だったからと言うことは、特に関係有りません。小さい時から海軍に行って、お国のために働くのだと話していました」と説明している。兵学校最下級生の4号生徒時代、細い体に似合わず相撲では打っちゃりで勝ち星を重ねた。目をしばたかせ、どもるような早口からは後年の空のエースを想像するのは難しいのだが、飛行学生になってから気性の強さが注目され、シャモという仇名がついた。
ある日、九三式中間練習機(通称「赤トンボ」)で宙返りが可能か、学生の間で話題になった。赤トンボでは機体がふらついて危険なので、試そうとはする者はいない。ところが、笹井は実行したのである。教官には絞られたが、学生仲間では男を上げた。
笹井中尉は開戦の迫った昭和一六年一一月一七日、飛行学生を卒業して台湾の台南航空隊に赴任した。副長兼飛行長の小園安名中佐が、「仕官でも遠慮は無用。早く特訓せよ」と、新米仕官をしごくように古参搭乗員にはっぱをかけていた。空戦に階級の上下はない。必要なのは戦う実力だけである。坂井は初めて目を合わせた瞬間、強い手ごたえを感じた。笹井は謙虚に教えを乞う姿勢を示し、坂井に全幅のおいてた。笹井を見込んで、坂井は徹底的に鍛えあげた。その結果、坂井が惚れ惚れするほど笹井の空戦技術は上達した。「パイロットの努力が全てであって、天才はいない」というのが、坂井の持論であった。しかし、笹井は例外だ、と坂井は感じた。笹井には天性の素質あり、短期間にめきめき腕をあげ、頭角を現していた。開戦後は台南空はマニラ、ボルネオ、スラバヤ、ジャワと航空戦を続けた。この間ペアを組む事はなかったが、坂井は必要に応じて笹井に助言した。そしてラバウルに来て,前述のように、二人の同盟が成立する。笹井を指揮官とする零戦中隊は、息のあったチームワークで戦果を上げた。ラエ南方のポートモレスビーにある 米、濠両軍基地を連日攻撃し、多い日は五機から十機を撃墜して無敵ぶりをしめす。
雄図むなしくガ島上空に散る
五月末ごろ、航空撃滅戦でモレスビー基地の敵戦闘機は減少したと見て、偵察を兼ねて出撃する事になった。スタンレー山脈を越え四五分で出もモレスビー上空。坂井は中隊長機に接近して風防を開け、「あの敵は中隊長に差し上げます」と手まねで攻撃を促した。笹井中尉はにっこりして「了解」と左手を上げ、急旋回して突っ込んでいった。
笹井は敵の真後ろに近かづき、三番機の上方から左に大きく捻って襲い掛かった。転瞬の早業で二〇ミリ機銃が火を吹く。三番機は空中分解した。笹井は急上昇し、今度は右へ捻って二番機をを撃つ。敵は錐もみ状態になって落下。笹井はまたもや急上昇、一番機の後方に迫った。一番機は機首を上げて宙返りに移ろうとした。反撃の態勢である。機首上げで背中をさらした瞬間 、笹井の機銃弾が機体を撃ち抜いた。坂井は思わず拍手を贈った。単機で三機同時撃墜とは世界の空戦史に例がないだろうと坂井は見ている。
笹井は両親にあてた手紙のなかで、「私の撃墜も今五四機リヒトホーフェン を追い抜けるつもりです。私の悪運に関しては絶対で、百何回かの空戦で被弾はたった2回です」と自信をこめて書いている。しかし、七月二一日、ニューギニア東部のブナに日本の陸海軍部隊が上陸後、無敵の笹井中隊も陰りが見え始める。これを契機に敵はモレスビーに戦闘機、爆撃機を増派してきたのである。ラエの戦闘機隊は守勢に立たされ、本拠地のラバウルへ退却する。
八月七日、坂井はガダルカナル島上空で交戦して重傷を負う。笹井の義兄でツラギ飛行艇隊長田代荘一少佐もこの日戦死。内地に送還される坂井を前に笹井は「貴様とと別れるのは,俺の方が辛いぞ。これを持っていってくれ」と言って、ベルトのバックルを引きちぎって坂井に渡した。その目には涙がにじんでいる。バックルは虎を浮き彫りにした銀製だった。「親父が作ってくれたんだ。虎は千里走って千里帰ってくるというので、貴様、必ず戻ってこいよ。もう一度、俺と一緒に戦おうじゃないか」笹井はしかし、八月二六日。ガ島の米軍飛行場攻撃に向かい、敵戦闘機群と激戦の末、雄図むなしく一命を失い、義兄の後を追おう。戦死後、二階級特進して少佐に任ぜられた。東京・豊島区巣鴨の坂井宅の書斎の隅に、いまも笹井の残したバックルが静かに鈍い銀色をたたえている。


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