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『漱石とその時代・第一部』江藤淳(新潮選書) 例えばご婦人方がたまに甘いものが欲しいとお感じになるように(じゃないかと勝手に想像しているのですが)、わたくしもひと月に一二度、例の大型古本チェーン店に行きたくなります。 あの大型古本チェーン店がなかった頃はどうしていたかと思い出してみますに、やはり町の小さな古本屋さんと、そして新刊書のお店とをぶらぶらしていたものでした。小さな古本屋さんが3軒、新刊書の本屋さんが3軒ある町でした。 ふーむ、なるほど。 私はほぼ半世紀に亘って、同じ行動様式をほとんど無意識に繰り返していたのですなぁ。まるで、壁にぶつかったら何も考えず曲がるだけというアメーバーの様であります。 で、大型古本店で私はどんな本を買うかと言うと、基本的には文庫本です。大きな本は、もう家の中に置くところがほぼありません。それは、それだけ家に蔵書がたくさんあるということではなくて、単純に家が狭いということであります。 で、どんな文庫本を買うかを大きく分けると、純文学系とその他となります。 その他は全くのその他で、ここのところはあまり法則性やポリシーを持ちません。まぁ、一番近い言葉でまとめると「いい加減」というべきでありましょうか。この部分につきましては、今回さらなる考察を加えるのはやめておきます。 で、(「で」ばかり3回も続いてるのですが、まー、文章表現能力にかなり問題があるというご理解でお許しいただいて)で、話の中心はその純文学系本で、買って読んでほぼ外れのないのが夏目漱石に関する本と、源氏物語に関する本であるという経験則を、この度も再認識した(確か以前にも同様のことを書いたように記憶しています)ということを、書こうと思ったんですね。 しかしまぁ、私が再認識するまでもなく、今回取り上げた漱石評伝は天下の江藤淳の労作でありますから、いわば、外れるかな外れないかなとドキドキしながら読んでいく種類の本とは、はじめから異なってはいるのですね。 江藤淳といえば出世作『夏目漱石』が、もはや現在では漱石研究の基本文献でありましょうから、わたくしが改めて言うまでもないのですが、私自身が初めて『夏目漱石』を読んだ時も、ある意味ショックを受けましたね。 今でも覚えているのは、『こころ』を分析し、自らの体調不良に苦渋を覚え生よりも死に対して親近感を感じ、弱弱しくほとんど死に隣接しているような漱石像を、江藤淳が描いたことでした。 さてそんな江藤淳の、これも有名な漱石評伝ですが、わたくし、今まで読んでなかったんですね。いえ、いつまでも読まないわけにはいかないだろうという気持ちを持ちつつ、まー怯んでいたわけです。何と言っても、5冊もありますからねー。(で、未完だそうです。) 今回、重い腰を挙げまして第一部だけ読みました。(家には、第2部まで買ってあります。)……んー、やっぱり、重いですねー。 しかしどういったもんでしょ、わたくし、伝記というジャンルの本はほとんど読んだことがないんですが(子供のころ、『野口英世伝』とか『シュバイツァー伝記』とかは読みましたが)、伝記ってみんなこんなに重いんですかね。 考えてみれば、一人の人間の生の事実を辿っていくわけですから重いといえば重いのが当たり前かもしれません。ましてや、夏目漱石であります。(「ましてや」というのは、漱石自身が確か随筆で、私が死んだらみんなに万歳をしてもらいたいと語っていたからですね。それ以来漱石と言えば、辛く苦しく重い人生、と。) 第一部のポイントはおそらくこの2点です。 1.漱石の人格形成に決定的影響を与えた幼少年時代。 2.兄嫁「登世」との秘められた恋愛。 まず「1」ですが、これがまた予想通り重いです。漱石自身が書いた自伝的小説『道草』の内容とか、随筆『硝子戸の中』にもかなりこの時期のことが描かれていましたが、そこにあった如く、とっても暗く重い幼少年時であります。 かつて私は『坊ちゃん』に描かれていた、坊ちゃんの子供の頃の様子について、両親にあまりに愛されなさすぎるんじゃないかと感じたことがありました。しかし本書を読んで、漱石の幼少年期について知ると、一種のカリカチュアとしての坊ちゃんの少年期はリアリティがあるかもしれないなと考え直した次第であります。 そして「2」の兄嫁「登世」との恋愛ですが、私が驚いたのは、筆者が本書で肉体関係の可能性にまで触れていることであります。 ただ、一方でこの江藤淳の説はあまりに強引じゃないかという指摘が少なくないことについて、私もなるほどここまで言うかーという思いは、無きにしも非ずであります。 という訳で、やっと第一部が終わりました。 常識的にはこの後、第二部に進むべきなんでしょうが、まぁ、わたくし、過去にも何冊も途中「ケツワリ」本がございますしー、近いところでいえば、北杜夫が父斉藤茂吉について書いた三冊本も、一冊で止まったまんまですしー、……。 うーん、まー、ちょっと、考えてみます。 (漱石本に外れなしと自分で言ったくせにー。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.11.23
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『塩原多助一代記』三遊亭圓朝(岩波文庫) たぶん現在岩波文庫で手に入る三遊亭圓朝作品は、本作と『怪談牡丹燈籠』『真景累ケ淵』の三作だろうと思います。本ブログでもこれでなんとか三作の読書報告を揃えることができました。 でも、わたくし思うのですが、怪談話の他の上記二作に比べますと、どーも何と言いますかー、本作はキックが足りないのではないか、と。 そんなことを考えまして、そしてそもそも「塩原太助」(実在人物は「太助」だそうです。という人はどんな人なんだろーとネットでちょっと調べてみますと、江戸時代の群馬県の人で、群馬には記念館なんかがあって、地域の有名人ではありませんか。 ああ、そおー、と思ったのは、「炭団」を作った人なんですってね。 なるほどねー。 つくづく考えてみますに、わたくしにはこういった一時代前の国民的文化教養が非常に欠落している、と。 例えば「大星由良之助」とか「吉良の仁吉」とか、のちに知識として知りましたが、それは日本国民なら万人が知っているだろうという、国民的文化教養という感じの知り方じゃないんですね。 でも、それはもちろん私のせいばかりではありません。 こういった時代劇的人物は、一時代前の講談や芝居やかつての日本映画の中に広く生きていた人々で、その頃貧乏人の子せがれであった私は、そういった文化教養を受ける環境になかった、ということでありますね。 それに第一改めて指摘するまでもなく、そんな一時代前の国民的文化教養が、現在何の役に立つのかと言いますと、んー、何の役にも立たない、としか答えられないからであります。(多分。もし役に立つとすれば、やはり歌舞伎界とか講談の世界で必要な知識としてでしょうか。) 私それでふと考えるんですが、現代の「国民的文化教養」ってのは一体どういったものだろうと。どんなものだと思います? 何か思いつきますか? ……んー。あっ、あれっ! と思ったものが一つあるんですがね。 それは、スタジオ・ジブリの特にトトロと魔女の宅急便じゃないでしょうか。 現代における日本人の国民的文化教養といえば、これ以外にないのじゃないかなと思うのですが、いかがでしょう。(……んー、ひょっとしたらゴジラ、なんかもそうかしら。) というようなことを考えていましたらそれはそれでとっても楽しいんですが、本題の読書報告からどんどん離れっぱなしになりますので、ちょっと戻します。 三遊亭圓朝の落語の口述筆記です。ほぼ完璧な言文一致体で、ちっとも難しくありません。 このほぼ自由自在な口語文について、かつて私はなぜ明治の言文一致運動はこれを受けて発展していかなかったのかと(全く受けなかったわけではありませんね。二葉亭四迷はこれを参考にしています。)ずっと疑問に思っていましたが、中村光夫の文章に書かれてありました。 明治の文学者は、これを文章(言文一致文体)と見ていなかったのだ、と。 うーん、そんなことってあるんでしょうか、これもちょっと理解しにくい解釈ですよねー。 しかし現代でも、例えばもしもきわめて現代的な重要な文学テーマが、一作の漫画の中に描かれていたとして、それを無抵抗に優れた文学作品とは、我々もなかなか認めないでしょうしねえ。 そんな感じですかねー。(それとは大分違いますかねー。) さて作品の内容的な報告に一向に入っていきませんが、ストーリーとしては、要するに一言で言いますと勧善懲悪の作品です。 でもこういったほぼ完璧な勧善懲悪作品というのは、出来のいい作品は、なぜか悪役がとってもいいですよねー。 どこがいいのかなーと考えてみまするに、いかにも悪役、絵に描いた悪役、だからでしょうね。 現代は、そんな絵に描いたような悪役は、なかなか作品内に表わせませんね。 悪役になるに至った内的必然性なんかが求められたりして、それがリアリティだといえばそうなのかもしれませんが、何と言いますか、そのような複雑さの分、鑑賞する我々の側が変に気を使ってしまって、まー疲れるといえばちょっと疲れてしまうんですね。 本作はそんなことを何も考えなくていい(疲れなくていい)、そんな作品です。 悪役が実にストレートに憎らしい悪役です。 私たち鑑賞者が、何の条件も付けずに「この悪い奴らめ!」と言い切っていい極悪非道な登場人物たちです。 と、考えると、この「爽快感」も、なかなか捨て難いものではありませんか。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.11.08
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