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『漱石の記号学』石原千秋(講談社選書メチエ) 「記号学」と、タイトルに書いてあります。 ……、………うーん、こういうのって、よくわかんないんですよねー。 新しい文芸批評理論にわたくし、ぜんっぜんっ、ついていけないんですよねー。 かつて、もはや「古典」になっていそうな筒井康隆の『文学部唯野教授』を読んだ時も、作品中に描かれていた文芸批評理論がさっぱりわかりませんでした。(あ、だんだん思い出してきました。あのあたりから私は、何もわからない文芸批判理論を逆恨みして、自分では夏目漱石の「自己本位」のつもりで、勝手な読書感想文を書き出したんですよねー。) それに、新しい文芸批評理論って、カタカナが多くありません? あれやめて欲しいんですけどー。パラダイムとか、コンテクストとかいうの。……。 「コード」なんて単語でも、私は読んでいてなんでここで電気のコンセントが出てくるんだよと思ってしまうほどであります。(威張るなよ。) やれやれ、困ったもんでありますなー。(自分がロートルなだけだろう。) と、思いながら読み始めたのですが、そしてやはり片仮名交じりの文芸理論も出てきたのですが(前半に多かったように思います)、でも筆者が述べている(のだろう)ことは、なんとなくわかりました。 よーするに(私の「よーする」が少しくらいはツボに当たっているとして)、小説に描かれた内容は、書かれた時の時代背景をしっかりと精査し直すと、「今」読んで感じるものとかなり違うことがあるよ、と、まぁ、そんなところでしょうか。(我ながらかなりアバウトなまとめ方ですなぁ。) 実は私は、過去に関川夏央氏が漱石の『坊っちゃん』について書いた文章を読んだ時に大いにそんなことを感じ、そして感心した経験があるんですね。 それは、「坊っちゃん」が卒業した「物理学校」(現在の東京理科大学)について触れられた部分ですが、作中には「坊っちゃん」は下から勘定した方が便利な成績順でありながら三年したら自然に卒業してしまったと書かれています。 関川氏の考察によりますと、その「物理学校」は、入学は無試験であったものの進級や卒業については極めて厳格で、三年で卒業する者は入学時の十分の一ほどであるということでした。 ということは、実は「坊っちゃん」は極めて出来のいい学生であったということになりますね。……うーん、これは、我々が持つ「坊っちゃん」のイメージとかなり違いませんでしょうか。 さらに関川氏は、この「物理学校」の実際の状況について、「このような背景は、当時の小説『坊っちゃん』の読者には諒解されていたことだと私は思う。」と書き切っています。 うーん、使い古された表現ながら、「目から鱗」とはこんな事を指すんじゃないでしょうかねー。 例えば本書にも、田山花袋の『蒲団』のことがこんなふうに書かれてあります。 それは、『蒲団』は主人公の中年の小説家の「性欲の告白」の物語であると一般的には理解されていますが、実は『蒲団』が書かれた当時には「堕落女学生」というコード(!)がすでに世間に広く流布されていたというものです。 そこに着目すると、主人公小説家の女弟子の行動を、肯定的に見ようが否定的に見ようが、作品の中心テーマであると思われていた主人公の「性欲の告白」の重みは、相対的にかなり軽くなり作品の佇まいは大きく変わってきます。 なるほど、こういった発見は、実に刺激的ですよねえ。 一方、本来の漱石作品については本書にどのようなコードによる解析があるかというと、「神経衰弱」「自我」「主婦」などいろいろあるのですが、「長男」と「次男」をコードにして、それらの言葉の当時の社会的認識と実態を元に、『坊っちゃん』『それから』(「次男」の物語)、また『行人』(「長男」の物語)などを捉え直しているのが秀逸でした。 (一つのトリッキーな読みとして、『行人』の主人公長男の「一郎」が継子ではなかったかという仮説は、なかなかスリリングで面白かったです。) 最期に少しだけ不満を述べますと、この筆者の文芸評論に時々見られる「味噌もくそも一緒」という強引さがやはり本書にも見られます(筆者はそれもわかって書かれているとは思いますが)。 しかしトータルで見ると、なかなか刺激的な文芸評論でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.01.23
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『近代の文学と文学者』中村光夫(朝日新聞社) 少し前に中村光夫の文芸評論を読んだら結構面白く読めたもので、そんな時はわたくし、よい癖なのか悪い癖なのかよくわからないのですが、アマゾンで古書を探してしまうんですね。そうするとやはりあるんですね、中村光夫の昔のいろんな本が。 しかしこういうのは、便利だと思えばとっても便利なんでしょうが、アマゾンの狙い通りに激しく購買欲がそそられてしまい、つい買ってしまうんですね、それにまぁ安くもありますもので、これもやはりアマゾンの狙い通りですか複数冊いっぺんに。 というわけで、文芸評論の、文庫じゃない一般書籍なんてこの前はいつ買ったかとても思い出せないくらい久しぶりですが、まとめて3冊中村光夫の文芸評論を買ってしまいました。 冒頭の本は、そのまず1冊目であります。 やはりとっても読みやすいですねー。この読みやすさはいったいどこから来るのかと思い、確か以前も同じようなことをしたことを思い出しながら、他の文芸評論家の文章と読み比べてみたんですね。 今回取り上げたのは、小林秀雄の「私小説論」であります。 冒頭の本書は、明治維新以降だいたい昭和の初期くらいまでの日本文学史を概括したものですが、中心となっているのは、筆者が他の著作でも再三触れている「自然主義文学」(含む「私小説」)であると思いますので、ちょうどよかろうと、小林秀雄のほぼ同テーマの文章を読んでみました。 ……うーん、やはり読みにくいですねー、小林秀雄。 でも、このように読み比べて分かったのですが、お二人とも同じようなことを結構たくさん語っていらっしゃいます。例えば、日本の自然主義作家が、西洋の自然主義文学を移入するにあたってかなり恣意的な移入の仕方を行い、その結果日本の自然主義文学はとても歪な形になってしまったという指摘などです。 この主張は、中村氏の方が特に強くおっしゃっていますが(その歪さは現代文学に至ってなお大きな影を落としているというのは中村氏のオハコのような理論ですね)、小林氏も結構詳しく述べていらっしゃいます。 と、そんなこともわかって面白かったのですが、しかしやはり小林秀雄の文章の方が読みにくいです。そしてなぜ読みにくいのかも、何となくわかりました。きっとこういうことです。 小林秀雄の文章には飛躍が多いとはよく言われることですが、その飛躍には、論理の飛躍と、もう一つなんといいますか、「不親切」な飛躍があります。 「不親切」な飛躍とは変な言い方ですが、要するに文中の用語や概念についてあまり(というより「ほとんど」~「全く」)補足説明してくれないということですね。 だから、小林秀雄に準じた文学的教養のない者には結構キツい、と。 でもそれは、言ってみればすべての表現(文章表現だけに限りませんね。ビジュアルなものでも結局は同じでしょう)に言えることです。 とすれば詰まる所、小林秀雄と中村光夫の文章の違いは、想定する読者層の違いということでありましょうか。 ……うーん、極めて常識的な結論が出てしまいましたねー。 小林秀雄が読みにくいのはわたくしに教養がないせいである、と。 すっごいつまんない結論ですねー。 ということで、中村氏の本書はとても面白かったです。 上記にもあります「自然主義文学」の展開についての説明も、その背景には、明治維新以降の「富国強兵」政策、とりわけ西洋文明の速やかなる移入という喫緊の時代的要請があったという論旨はとてもスリリングで興味深かったです。 本書の最後にこんなことが書かれてありました。 文学の歴史は決して鉄道線路のように一筋に過去から現在にわたって伸びているのではなく、ちょうど鉱山のようにさまざまに掘り進められた細かな枝道が至るところにまだ究めつくせない可能性を残して現代の文学に進路を示唆してくれるものと思います。広津和郎氏がかつて二葉亭の小説を掘り棄てられた坑道にたとえましたが、同じようなものは二葉亭に限らず、至るところに残されているとみてよいでしょう。そのような過去の姿を本当に理解する時、現在に生きる道も新しく開けて行く、文学の本当のおもしろさもそこにあるように思われます。それは過去、現在、未来に通じる命のつながりなのです。 この文章によりますと、決して現代文学は衰退などしていないことが分かります。 まぁ世間的には「純文学オタク」のごとき私にとりましては、まことに有り難き福音の書であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.01.04
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