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2023.10.22
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『芽むしり仔撃ち』大江健三郎(新潮文庫)

 実に、約半世紀ぶりの再読であります。
 半世紀も前に読んだ本なんて、何も覚えていなくたってそれは私の記憶力に問題があるとは思いませんが、この度は、なんとなーくいろんなシーンを覚えていたようで、何と言いますかー、えらいものであります。

 わたくし、それに関して、経験則的に感じていることがあります。
 それは、むかーしに読んだ本で、内容についてはほぼ忘れてしまっているのに、この本は自分はけっこう感動して読んだ、などの記憶だけが残っていることが、割とあるんですが。こういうのって、どうなんでしょうか。
 例えば今回の大江作品でいえば、『万延元年のフットボール』なんて小説は、やはり半世紀ほど前に読んで内容はほぼ忘れているけれど、感動したという記憶は何となく残っている、と。……。

 さて、『芽むしり仔撃ち』であります。
 上記にあるように、断片的には内容を覚えているところがあるものの、初読時のトータルな読後感の記憶がないんですね。
 かつて高校生だった頃の私は、この本を読んで、感動した、よかったと思ったのだろうか、と。

 実はこの度読み終えて、わたくし、どうも一つ疑問が残ったのであります。
 いえ、それは、作品そのものにというものではありません。

 本書の解説文の中に、この小説に対する作者の言葉として、「この小説はぼくにとっていちばん幸福な作品だったと思う」とあったり、それ以外にも大江氏がこの小説が好きだと言っている等のことを読んだりするのですが、困ったことに、この度再読してみても、なぜそうなのかが、どうもよくわかりません。(好き嫌いの話なんだから、というような単純なものではきっとないと思うわけですね。)

 とはいえ、筆者は日本の誇るノーベル文学賞受賞作家であります。先日亡くなられましたが、昭和、平成、(そして令和もですかね)の日本文学史上の「大巨人」であります。
 よくわからないのはお前のせいだといわれると、私自身、当然のように納得してしまいます。
 ということで、身の程知らずにも、何と言いますか、かなわぬまでもという感じで、私の思いを以下に書いてみますね。

 いえ、私の考えたことは極めてシンプルです。
 私たちは小説を読む時に、誰に(何に)感情移入して読むのか、という事です。
 そして付け加えるなら、(いかにも素人っぽい読みかもしれませんが、)読後やはりカタルシスが欲しくないか、という事であります。

 本書は、十代の青年が主人公の一人称小説です。最後まで、その視点から離れて描かれることはありません。
 と、すれば、読者はやはり主人公に感情移入して読むのではないか、と。(もっとも、感情移入して読むことの正誤良し悪しは考えられねばならないでしょうが。)

 つまり、私は、主人公に襲い掛かる圧倒的に理不尽な暴力、そしてその結果としての屈辱感、無力感が、読んでいて我が事のようにつらかった、不快感を伴ったということであります。
 そしてエンディングの絶望。
 少し長いですが、そこを引用してみます。

​しかし僕には凶暴な村の人間たちから逃れ夜の森を走って自分に加えられる危害をさけるために、始めに何をすればよいかわからなかった。僕は自分に再び駈けはじめる力が残っているかどうかさえうわからなかった。僕は疲れ切り怒り狂って涙を流している、そして寒さと餓えにふるえている子供にすぎなかった。ふいに風がおこり、それはごく近くまで迫っている村人たちの足音を運んで来た。僕は歯をかみしめて立ちあがり、より暗い樹枝のあいだ、より暗い草の茂みへむかって駈けこんだ。​

 どうですか。
 ここに描かれているのは絶対的な絶望的状況ですよね。
 とすれば、この先にあるのは、主人公の死以外にないんじゃないでしょうか。
 上記にも書きましたが、圧倒的に理不尽な暴力にさらされ、恋人を失い弟を失い、友人たちからも離れられていった主人公の作品最後の状況がこれだとすれば、その主人公に寄り添うように読んでいった読者(わたくしですね)は、どこにカタルシスを覚えればいいのでしょうか。
 大江氏の述べる「幸福な作品」「好きな小説」の意味がよくわからないとはそういう意味であります。

 と、いうようなことを、先日、我が文学鑑賞のメンターに述べたんですね。
 するとあっさり、「あんた、読み違えている」と否定されました。
 そして、だいたいこんな風なことを教えてくれました。(ちょっと違うかもしれませんが、私はこんな風に理解しました。)

 なるほど、このラストシーンに描かれているのは、絶対的な絶望状況かもしれん。しかし、だから次には主人公の死とは、どこにも書かれていない。初期の大江がしばしばテーマにした監禁状況だが、そこからの脱出ができたのかできなかったのか、その寸前、別の言い方をすれば、主人公の置かれている絶対的絶望状況そのものの確認の時点で、筆者が筆をおいているところに注目すべきじゃないか。絶対的絶望状況、だから脱出できなかったと筆者は書かなかったのか、だけど脱出できたと筆者は書かなかったのか、大江が晩年に至るまでこの作品を好むといっているならば、たぶんその理由は、この辺りの読みにあるのではないか。
 そして、ではなぜ、筆者は脱出の成功不成功を書かなかったのか。それは、こう言いかえることができるのではないか。
 この絶望的状況こそあなたが生きている現実ではないのか。
 少なくとも、初期の大江作品における現実認識はこのようであったと思う。その困難を困難の中で生きることが、今を生きるということだと考えていたのじゃないだろうか。

 ……うーん、なるほどねー。
 ……そー読むんかー。
 これなら、筆者の本作についての好き嫌いの発言も、なるほど納得できますよねー。

 いやー、えらいものです。
 いえ、この度はいいことを教えていただきました。
 「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」と。


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Last updated  2023.10.22 11:13:36
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七詩 @ Re:父親という苦悩(06/04) 親子二代の小説家父子というのは思いつき…
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