片栗の花

インドに行って



1 2000年12月17日から30日までの2週間、同僚4人とインドに行って
来ました。(16日仙台発の深夜バスで出かけ、帰って来たのは31日早朝です)

2 CYBER STATION -Cyber Cafe 
  IT国としてのインド。電話、FAXと並んでEメールの看板も目につきました。
ホテルもメールアドレスが電話番号と並んでいました。サイバーカフェがホテルの
一室、バーの一角に新たに作られ若者でにぎわっていました。1時間10Rs(25円)
何を見ているのか覗いたら映画でした。テレビとは比べようもない綺麗な画面で
映画が見れるのですから。私も突然の停電に悩まされながら日本へメッセージを
送ろうとしたのですがフリーメールをメモしてこなかったので出来ませんでした。

A新聞にインドのNGOタラハートの記事がありました。「ITは富めるものと
貧しいものとの較差を一層広げたが、同時に両者の差を縮める道具にもなりうる」
と農村にサイバーカフェを開いて情報発信しているのです。
htpp://www.TARAhaat.com  このインドにしてこの試みありと思いました。
デリー.jpg
3 バラナシで片言の日本語を操り、関西弁をしゃべる12歳のラジャン君と出会い
ました。観光客に近づき、取り入り、商売につなげるその巧みさです。貧しい家庭
の中でたぶん家の貴重な働きてとして身につけたと思われる,生きるための知恵、
その感性のすばらしさです。このような子供たちが将来インドを背負う大人になるのです。
 テレビ深夜特急で沢木耕太郎役と知り合った少年とも出会いました。今はひげを
生やしあの面影は見る影もなく、自分の店を持ち日本人相手にそれを売りにしていました。
ラじゃん.jpg
4 道路は人や車であふれ、時には牛や犬までも歩いているのですが、みな
生き生きとして活気に満ちて?いたようにに思えました。みな生きるのに
必死のようでした。日本に帰って異様に思うのは道路に人がいないことです。

5 世界遺産に指定された観光地は家族旅行のインド人でいっぱいでした。
日本でも見られる子どもをかわいがっている姿は世界共通なのでしょうね。修学旅行
生もいました。カメラはまれでデジカメを持っていた私の周りには人垣が出来ました。
残念ながら英語の出来ない私には話の進展は望むべくもなく。ただ日本人と日本製品の
宣伝にはなったかも。日本製品はマルチスズキの車くらいしか目につきませんでした。
インド1.jpgインド2.jpg

6 ホテルは現地で一泊1食つきの500円前後の安ホテルに泊まりました。
あたりまえですが値段に応じて、いる人の階層が決まることです。5円のお金を
ねだる子どもを抱いた少女から高級ホテルに出入りする人までこれだけ
多様な社会を束ねていく政治家にはどのような資質が要求されるのでしょうか。
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スラム2.jpg

7 日本の冬の寒さと変わらなかったバラナシの朝、32度の真夏日の続いた
ムンバイ。美しい星空と水晶のデカン高原。多様な自然を持ち、多様な人たちが
ここにはいるのだと思いました。

8 思いのほか道路がよく整備されていました。1日で洋服が真っ黒になる環境の
中で生活する路上生活者。車社会がもたらした人類の壮大な環境実験なのでしょうか。

9 酒はもちろんですが、タバコを吸う人は一人もというくらいいませんでした。
前はもっといたというのにこれはどうしてでしょう。

10 デカン高原端のエローラの遺跡(岩を上から掘っていって作った寺院)の
ある岩は玄武岩質溶岩の黒い石で相当結晶化していました。水晶やアメジストを
売っていました。なかなか見事なものもありました。現地の人がナチュラルエッグと
呼んでいたジャガイモのような中空の水晶の岩の塊ですが、こんなものがどうして
出来るのか不思議に思いました。長い年月をかけ岩塊が削られたのでしょうか。
石1.jpg石2.jpg

11航空券(インド国内も)ビザなどの手配は全てインターネットで見つけた
格安旅行会社で行ないました。支払いも全てネットで振り込みました。旅行社とは
一度も顔を合わせることなく成田で航空券を受け取りました。こんな形で航空券
手配をしたのは初めてのことです。

50ものテレビチャンネルを持ち、高級ホテルの並ぶムンバイの街、その一方で
チョット中心から外れると延々続くスラム街。文化も自然も人種も違うインドで、
日本はどんな国で、どんなことが良くて、何が欠けているのか。日本にいては
見えなかったことが、チョットだけ見えかけかかったような気がしました   インド2.jpg
インド1.jpg



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