1・17


ある新人消防士はそろそろトイレ掃除のために起きなければと、仮眠室のベッドで布団のぬくもりに未練していた。
その瞬間、爆音とともにベッドが搖れる。
上半身を起こすが立ち上がることはできない。
なすすべもなく、揺れが収まるまでベッドにしがみつく。
数分は搖れたのだろうか。かつて無い揺れを経験した消防士は、揺れが納まるとともに事務所に駆け込む。
高鳴る指令音声。これはすごいことになったと、新人ながらに思う。
望楼に登り周囲を偵察。幸い火の手は上がっていない。双眼鏡をのぞきながら買ったばかりの携帯電話で家に連絡。
「お前の部屋の棚だけ落ちた」と笑う父に無言で電話を切る。
しばらくして災害も無く、朝食を摂りに食堂におりる。
食堂のテレビはヘリコプターの中継を流していた・・・。

「ありえん・・・」

画面の向こうには空を覆い尽くす勢いの黒煙が立ち込めていた・・・

二日後、再び出勤する。朝の交替もすっ飛ばして、人員輸送車に詰め込まれる。
小一時間後、ヘリポートに到着。事務所で説明を受け、今度はヘリに詰め込まれる。防寒衣のポケットにはコンビニのおにぎりが5個入っていた。
離陸し程なく瀬戸内海が見え、右手に六甲山脈がそびえる。そして海と山の間には数本の巨大な黒い煙の柱がある。
約20分で六甲山脈中腹の兵庫県消防学校に着陸。カラーの違う同じヘリが2機いた。そのまま荷物のように古い救急車に詰め込まれ、走り出した。
新人消防士は座席なんか座れるわけも無く、リヤハッチの内側にしがみ付く。外から見たら車でルンルンの幼児状態。
滑るように救急車は山を降り、市街地に入る。そして・・・

見たことも無い景色が流れた。

ただの瓦礫と化した建物。
そのまま倒れているビルディング。
その下でぺったんこになっている車。
盛り上がって割れているアスファルト。

勝手に涙が出た。止まらない。
皮手袋をした手でリアハッチを何度も叩いた。

悲しさ?悔しさ?恐ろしさ?

新人消防士は、
かつて見たこともない景色を目の当たりにし、かつて感じたことの無い感情に翻弄された。

やがて救急車は目的地に到着。先遣部隊と交替した。
新人消防士の同期が疲れた笑顔で迎えた。
「海のラインは引き揚げた。水利探してくれ。計器類は吹っ飛んでるよ」

近くの交番を基地にして、新人消防士はベテランさんと共に水を求めて活動を開始した。
教科書で見た東京大空襲の写真のようなエリアを、瓦礫をよけては消火栓を開き、コックをひねる。しかし水は出ない。こんなことを繰り返し、半日歩き回る。
ベテランの先輩が歩きながらふと「おい新人、この臭い解るよな・・・」とつぶやく。
新人消防士は「はい」と涙目で答える。
それは紛れも無く、先月覚えたての焼死者の臭い。
その臭いが、さっきから10mほど進んでは、漂ってくるのだ。
周囲は瓦礫が軽く1mは積った焼け跡。地面に触れるとまだ暖かい。靴工場が多かった地区で、おそらく瓦礫の底はまだ燃えているのだろう。人と共に・・・
なんとか水の出る消火栓を見つけた新人消防士は、そこからホースを伸ばして放水をはじめた。湯気が立ち上る瓦礫の山に・・・

ふと、少し遠くに焚き火をしている数名が見えた。よく見ると同じ格好をしている。
「神戸市消防局」。彼らのうなだれたヘルメットにはそう書かれていた。
もうボロボロになって動けない彼らを、新人消防士は黙って遠くから眺めるしかなかった・・・。

夕方になり日が落ちるころ、新人消防士は他の部隊と交替して、長田消防署の前に止めたポンプ車の中で、肩を寄せ合い仮眠をとった。幸い、夜中に出動することは無かった。

夜が明けて、交替の部隊を迎えてから、再びヘリポートに向かった。昨日よりは煙の柱は幾分ましにはなっている。

新人消防士は、結局分けの解らぬまま、体力に任せて水を撒いて帰ってきた。
消火栓を探すときに、いろいろな人とすれ違った。
笑顔でありがとうと声を掛けてくれる老人。
無言で遠くを見詰めて動かない中年の女性。
洗面器で骨を拾う若い女性・・・。

新人消防士は、なにかできたかというと、何もできなかった。
だけど、見た。あの、一瞬の出来事の結果を、少しでも。
6400人余りの人々が命と引き換えに教えてくれたこと。


二日後、新人消防士は再び出勤した。
消防の責任と誇りを感じて。







この話は時々フィクションです。m(__)m


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