第7官界彷徨

第7官界彷徨

定家くんの日記


 早読みの私のことですから、あっという間に読んでしまったのですが、あまり頭に入りません。
 なので、ここにメモすることでさだいへ君の日記を我が物とすることにしました。

 さだいへ君は、1162年に生まれ、途中で1192作る鎌倉幕府などの政治的変化の時代を経て、1241年、80歳で亡くなっています。10代の頃から亡くなるまで、「明月記」という貴重な日記を残しました。
 ドナルドキーンは書いています。

「定家の明月記が、日本人が書いた日記の中で、最も重要なものの一つであることは疑いをいれない。
 (しかし)明月記は、漢文で書かれているために、まだ日本語に翻訳されたことがない。(略)
 まりにすばらしい日本語訳ができたとしても、この途方もなく長大な作品を、楽しんで読めるところまではまだいかないだろう。といって、この作品を、歴史家たちの埃っぽい書斎の中に埋もれさせておくだけでは、いかにも勿体ないのである。
 定家がこれを日本語で書かなかったのはいかにも残念である。」

 さだいへ君は、藤原俊成の息子です。
 俊成には約27人の子どもがいました。
 さだいへ君の母は、五条局と言われる人で、はじめは大原三寂の一人、藤原為隆(寂超)の妻で、源頼朝、平重盛などの肖像画家として有名な藤原隆信を生んでいます。
 夫が早く出家したために、俊成に言い寄られて、妻になりました。それ以前に俊成は為隆の姉妹の一人と結婚しており、この当時は「群婚的多夫多妻」の時代だったそうです。
 母は、俊成との間に8人の子どもを生み、さだいへ君は39歳の頃の子どもです。
 紫式部供養のための経供養なども行っています。

 さだいへ君もまた、27人の子どもをなしました。

 さだいへ君は、九条家に勤めていて、また父の俊成から、吉富、越部の荘を受け継いでいました。そののち、千葉県の銚子市のある「三崎」という所も貰っていますが、鎌倉より先であり、地頭の力が強くなって、貢ぎ物が上がって来なくなってぼやいています。

 さだいへ君にはまた、健(けん)御前というしっかりものの姉がいました。健御前は、建礼門院右京大夫と同じ1157年に生まれ、同じ頃に宮廷におつとめをしました。
 そして「健御前日記」(たまきはる)を残しています。
 建礼門院の日記は、作者の感受性の勝った日記であるが、健御前の日記は客観的そのもの、のようです。
 健御前は源平の戦には言及していないが、後白河院を支持して平家を嫌っていたふしがあり、性格の表れるシーンとして、安徳天皇の没後、皇位を継ぐのは誰かということで、後白河院が八条院と相談をしているとき、退出すべきなのに気づかないふりをしてその場に居残って、次の天皇がのちの後鳥羽帝ということを知り,肝心なことを全て聞いてしまったあと、ようやく気づいたふりをして、神妙なふりをして引き下がった、、、、といいます。
 また、さだいへ君が困った時には、何かと助け舟を出してくれる、頼もしい姉でもあります。
 和歌の家に生まれたのに、和歌は得意ではなく、健御前日記は,当時としては珍しく歌が非常に少ないそうです。

さだいへ君の仕事
定家かなづかひについてよそさまの論より引用させていただきます

=藤原定家は、昔の人が書残した書物で遣はれてゐる仮名に比べて、現在の人達が使ふ仮名の乱れてゐる事を残念に思つて、仮名の遣ひ方の手引書を書きました。定家は、初めてイロハ四十七文字を語に拠つて書分ける事を考へ出したのです。原理として現在判明してゐる事は、「を」と「お」の書分けが、当時の京洛で使用されてゐたアクセントの高低で判断されてゐたと云ふ事だけです。此の事実は、国語学者の大野晋さんが気附いて論文で発表されてゐます。又、アクセントの件は、後述の行阿も理解してゐたやうです。

定家は「旧草子」を元にして仮名遣を決定したとしてゐますが、当時は既にワ行の音とア行の音の混同も激しくなつてをりましたし、ハ行転呼音も発生してをりました。どれだけ信頼の置ける「旧草子」を活用されたのか、現在では推測が出来ません。唯、結果を見て混乱した後のものを採用してしまつたのではないかと思はれるものも幾らか見受けられるのも事実です。以下に其の点を列記しておかうと思ひます。

定家仮名遣と正仮名遣の比較
定家仮名遣  正書法   正仮名遣
をとは山    音羽山   おとは山
風のをと    風の音   風のおと
をくる    送る   おくる
人のをこる  人の怒る 人のおこる
をろか     愚か  おろか
おしむ    惜しむ   をしむ
おきの葉    荻の葉  をぎの葉
花をおる    花を折る 花ををる
おりふし    折節   をりふし
おひ      老い   おい
甥      をひ    
風さえ    風さへ   風さへ
かえての木 楓の木   かへでの木
えふ      醉ふ   ゑふ(葉の字音はエフ)
花のえ    花の繪   花のゑ
そなえり    供へり   そなへり
草木をうへをく 草木を植ゑ置く 草木をうゑおく
ことのゆへ 事の故 ことのゆゑ
栢[かへ]   栢     栢[かえ(かや)]
たへなり    絶えなり たえなり
ゆへ      故    ゆゑ
さへけき    清けき   さえけき(さやけき)
ききたへ    聞き絶え ききたえ
うへにをく  上に置く うへにおく
詠[ゑい朗詠]  詠(エイ) 詠[えい朗詠]
ゆくゑ    行方    ゆくへ
おひぬれは 老いぬれば おいぬれば
つゐに[遂に色にそいてぬへき] 遂に色にぞ出でぬべき つひに[遂に 云々]
池のいゐ    池 いけ
よゐのま    宵の間  よひのま
おひ[ゐ]ぬれは 老いぬれば おいぬれば
かほる    薫・香・馨  かをる
さほつ    竿・棹      さを(つ)
しほるゝ    萎るゝ      しをるゝ

 語が明確でない例もありますが、通常行はれる表記を想定して其の仮名遣との相違を見られるやうにしました。「お」と「を」との書分けで正かなとの相違が出るのは、依つて来る原理の相違から来るものですので致し方ないとしても、「ゆへ(故)」や「かほる(香)」等の部分にすら当時の語の混乱が反映されてしまつたものも少からず見受けられます。

 又、「靈山法印定圓筆本」で重要な点は「一 」として纏められてある部分に、バ行の仮名とマ行の仮名との混乱を指摘してゐる点でせう。此の件は現在でも「寒い」を「さむい」とか「さぶい」とか言ふ事があるのですが、当時から之と同様の事象のあつた事の証左となるものと理解できます。

 定家が発見した事の重要性は、世間一般での書き方に混乱のある語に関して、一語一語について此の語はかう書くべきであるとして、冊子に纏めて公表した事にあります。事実上、仮名遣の始りは茲からになります。唯、頼りとした「旧草子」に既に誤りが紛れ込んでしまつてゐた点と、「お」「を」の書分けを当時のアクセントの高低で行つてしまつた点が別の意味で混乱を招いてしまひました。

 以後、此の定家仮名遣は、和歌や俳諧などの歌道に用ゐられるべき仮名遣として定着して行きました。

『假名文字遣』

定家仮名遣の普及の立役者は、鎌倉時代の僧の行阿(源知行)になります。行阿は、『假名文字遣』と云ふ本を書き、仮名を遣ひ分ける必要のある語を大幅に附加へ、更に夫々の語の意味を明確にした点で、大きな業績を上げてゐます。茲では後世に問題となつた部分を少しだけ指摘しておきます。

=以上よそさまの論引きおはり=

2010年6月
熊野詣で
 定家は建仁元年(1201年)40歳の10月5日、松明の灯りを頼りに出発です。
 熊野詣では、往復20日もかかり、難所もあり、不評であったのですが、白河法皇の頃から人気が出て、鳥羽、後白河、後鳥羽と、人気は高まるばかり。後白河上皇は34回も出かけたのだそうです。

 定家くんが出かけたのは、後鳥羽上皇が31回行った4回目。
 初めは信仰であったものが、すでに「遊行」に近いものだったようです。
 定家くんは、8月に「同行するように」と言われた時に「体力に自信がない」と思ったものの、上皇側近と近しくなれることや、道中で歌がつくれるかも、ということで自分を納得させたもようです。

 大変な行程だったようです。
 6日は
「阿倍野の王子(熊野の末社)に参詣、奉幣、次に住吉の社に参詣、御幸、奉幣、のりと、御経供養、里神楽、相撲三番、住江殿で和歌を講し、次に境の王子で参詣、大鳥居の新王子、篠田の王子、平松の王子で奉幣、乱舞、
 その夜は
「3間の茅葺きの屋。風冷たく月明るし」に泊まり、
7日は
 実に8カ所の王子に参詣。
8日も同様。
9日は
 山にさしかかり、崩れそうな道、海が見えてちょっといい気分」状態。

 夏のように暑くて虫が出る日もあれば、寒風吹く日もあり、海女の小屋に泊まったりしながら
13日には
 石田河を渡っているときに足を痛めてしまいます。
14日は
 山路いよいよ険しく、断崖は目もくらみそう。足を痛めたので「輿」に乗り、険しい山道を夜行して湯河の宿に泊まります。
15日は発心門に到着し、京で知り合った尼の所に世話になります。
 今までどこにも書かなかったが、発心門に和歌を書いたついでに、尼の堂にも一首書き付けたら、
「此の尼静止して、物を書かしめずと云々。知らずして書き了んぬ」
 尼に叱られてしまったそうです。

 堀田善衛さんは書いています。
「これでみると他の連中は、諸処方々に落書きをしてあるいたものと見える。山野の旅に出て人のすることは、貴賤を問わず、古今まったく同じである。」
 日本人の落書きは伝統かも。

16日、やっとのことで本宮に到着。
「山川千里を過ぎて、遂に宝前に奉拝す。感涙禁じ難し」
 体調が悪くて加持祈祷の僧が12人来てくれたが、「貧乏なので」十分なお礼ができなかった、そうです。
17日
 寒くて疲労困憊。様々な御遊があったが、宿で寝ていた。
18日
 船で新宮に下り、再び御経供養、乱舞、相撲、夜は和歌会。
19日
 那智参詣。疲れ果てて感想なし。
20日
 どしゃぶりの雨。
「道狭く、傘も使えず、みのをつけ、輿の中、海の如く、野の如し」「心中夢の如し、前後不覚」

25日
 摂津長柄より淀川を船で上り、山崎の油屋で泊まる。やれやれ。
26日 
 やっとの思いで京に入り、九条の家で小食を食べて住吉神社に帰参のあいさつ。

 定家はこれでこりごりしたものか、以後熊野行幸に参加した様子はないそうです。
 熊野から帰って11月3日に「新古今集」勅撰の命が下ります。
 うれしいけれど定家くんの関心事は12月の人事異動(除目)。中将になるために、自分の子どものような少将達に混じって日吉神社に法華経8巻を写経する願掛けをします。

 12月22日の除目の日、朝廷からは何の音沙汰もありませんでした。
 この年の日記は19日で打ち切られているそうです。文学とつらい浮き世の暮らしの両立は大変です。可哀相な定家くん!  








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