第7官界彷徨

第7官界彷徨

五味文彦先生の平家物語


今年度のNHKラジオの古典講読は、放送大学の五味文彦先生の「平家物語」です。
 1回目を聴いたけど、なかなか難しいです。でも、1年聴けば平家通になれるかも。

 五味先生は、歴史家の見方から複眼的にとらえて、平家物語の講義をなさるそうです。

 祇園精舎の~から始まる冒頭は、歌そのもので、平家物語は琵琶法師に語らせて広められた。方丈記の226段に
「行長が作って琵琶法師に語らせた」と書かれているそうです。
 平安末期は歌の時代であり、方丈記の冒頭も
「ゆく川の流れは絶えずして~」と歌のような語り口。

 平家物語の「殿上の闇討ち」の段には、今様をうたい、新人たちが舞をする習いが描かれます。
 今様は平安中期から民間に広まり、後白河上皇は特に今様を愛し自ら全ての今様を空んじ、梁塵秘抄を編纂させました。

 巻5の月見の段には、福原遷都ののち
♪旧き都を来てみれば 浅茅が原とぞ荒れにける
 月の光は隈なくて 秋風のみぞ身には染む♪

 巻1の妓王
♪君を初めて見る時は 千代も経ぬべし姫小松
 御前の池なる亀岡に 鶴こそむれ居て遊ぶめれ♪

 今様は僧兵にも歌われました
 巻1の「額打論」
 上皇(誰?)崩御の折りに、延暦寺と興福寺などの僧たちが、寺の額を打って狼藉。
 そして2人の悪僧、
「観音坊は黒糸おどしの腹巻きに白柄の長刀茎短にとり、勢至坊は萌黄おどしの鎧を着、黒漆の大太刀持って、延暦寺の額を切って落とし、さんざんにうち割り、♪嬉しや水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えず♪と歌へとはやしつつ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。」

 大河ドラマが、騒々しくてすごいことになってますけど、平家物語自体が、相当騒々しいですね。

 では、冒頭より 
 「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅(しやら)雙樹の花の色、盛者(じやうしや)必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうかう)、漢の王莽(わうまう)、梁の朱异(しうい)、唐の禄山(ろくさん)、是等(これら)は皆舊主先皇(せんくわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌(いさめ)をもおもひいれず、天下(てんが)のみだれむ事をさとらずして、民間の愁(うれふ)る所をしらざ(ツ)しかば
、久しからずして、亡(ばう)じにし者どもなり。

 近く本朝をうかゞふに、承平(せうへい)の將門、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前(さき)の太政大臣(だいじやうだいじん)平の朝臣(あ(ツ)そん)清盛公と申(まうし)し人のありさま、傳(つたへ)承るこそ心も詞(ことば)も及ばれね。」

 この後、清盛の出自が述べられるのですが、合戦の時もそれを名乗るしきたりだったらしい。

 平家物語は、巻6で清盛が亡くなるのですが、元はそこまでで、治承物語と言っていたらしい。
 保元物語、平治物語、承久物語などの歴史物語のように。
 しかし、語り継がれるうちにふくらんで、時代の名前ではなく「平家物語」になったのだそうです。

 五味先生は、参考にすると良い資料を教えてくださいました。
 「平家物語延慶本」「源平盛衰記」「平家物語大事典」、など。

 私は、昔の教科書の「平家物語 流布本、野村宗朔校註、というので読んでいます。延慶本というものは、どこに売っているんでしょうね。大事典は、高価です。
 折りおり、「ひとことコラム」というのも教えてくださるそうで、この一年が楽しみです。

2012年4月22日
 今週のNHKラジオ第2放送、古典講読の時間、五味文彦先生の平家物語は、3回目。

 今週は、なぜ清盛が目覚ましい出世を遂げたのか。平家物語に書かれていることは。

 忠盛死後、保元の乱以後
 安芸の守、播磨守、太宰守と出世。
 平治の乱の後、正三位に。
 1161年9月には中納言
 1165年 大納言
 1167年 太政大臣

 慈円の愚管抄によれば、太政大臣とは、天下の模範となる人がなる位で、ふさわしい人がいなければなくてもよい官職で、実権はない、としているそうです。
 しかし、清盛は、名誉も実権も持った太政大臣となった。

 なぜ清盛のもとで平家はこのような繁栄を手に入れることができたのか。
 その理由を平家物語では。

 巻2の「鱸」の段に
「ひとえに熊野権現の御利生とぞ聞こえし。清盛まだ安芸の守たりし時、伊勢の国より舟にて熊野に参られけるに、大きなる鱸の舟に躍り入ったりければ、先達申しけるには「昔、周の武王の舟にこそ白魚は躍り入ったるなれ」」

 そしてみんなで食べて、その後、吉事が続いた、、、んだそうです。熊野権現のはからいで約束された平家の繁栄。
 また巻6の「慈心坊」では

 清盛は只の人ではなく、比叡山の中興の祖である慈慧僧正の生まれ変わりであると、地獄の閻魔さまよりお告げがあった、、と書かれています。

 清盛は、1172年、西行なども参加させて、法華経を読む1000僧供養を行ったそうです。

 また、清盛の出自についての噂も取り入れてあり、高貴な血筋として同じく卷6の「祇園女御」に、
「清盛公は只人にならず。まことには白河院の御子なり」とあり、

 白河院が、晩年の思い人である祇園の女御の所に通うときに、清盛の父の忠盛も付き従っていた。その時に、怪しい物の気配がしたので、白河院が退治するように言うと、忠盛は斬り殺したりしないで調べると、明かりを点けようとしている堂守の法師だった。

 白河院はその優しい思慮深さに感動して、寵愛していた祇園の女御を忠盛に下げ渡した。その時、祇園の女御は懐妊していたので
「産めらん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば忠盛とりて、弓矢取りに仕立てよ」と仰せになった。

 男の子が生まれ、院の熊野行幸についていった忠盛は、院に畏まって
「いもが子は這ふほどにこそなりにけれ」
 というと
「ただもり取りてやしなひにせよ」
 と、院が付け加えたので、忠盛は、吾が子として育てた。

 この若君はあまりに夜泣きがひどく、これを聞いた院は
*夜泣きすと忠盛立てよ末の代に清く盛かふる事もこそあれ
 という歌を下された。
 清盛が12歳で元服して兵衛の佐になり、18歳で四位になったのを、人々は皇室関係の人みたいに出世が早いと言ったけれど、白河院は「清盛はどの華族にも負けない血筋だ」と仰られた。

 五味先生は、清盛の母について、
 祇園の女御の妹。その妹が亡くなったので祇園女御に育てられた。
 父親は白河院という説もあるが、忠盛であろう、とのことでした。

 しかし、祖父も父も母も伯母も白河院と近い所にいて、そこで生まれて成長したのが、清盛、とのこと。

 「今鏡」には、祇園女御は晩年の白河院の寵愛を一身に集め、1105年、祇園女御が八坂神社のあたりに立派なお堂を寄進した事も書かれており、その庇護のもとで清盛は成長したらしい。

 今日のNHK大河ドラマでは、藤原家成の館が襲撃されるらしいけど、平家物語の「西光が斬られ」には家成邸に出入りしていた14、5歳の高下駄をはいた平家の長男(高平太)の清盛のことが書かれており、子どもの清盛とこの家成を引き合わせたのが、継母の池禅尼だったそうです。

 平家物語、面白いです。

2012年4月29日
今週のNHKラジオ第2放送、古典講読の時間の「平家物語」は、禿童、我身の栄華、妓王、でした。

 清盛は51歳の時に病気になり、命長らえるために出家して、入道になりました。出家後も栄華は続き、14、5歳の童を選んで髪を禿に揃えて赤い直垂を着せ、六波羅の童として都を闊歩させた。

 六波羅というのは、父の忠盛が根拠地として清盛に残したもので、今の建仁寺あたり。
 六波羅の禿といえば、どこでも出入り自由で、馬も車も道を譲ったのだそうです。 

その邸の場所により
 清盛の弟の頼盛は池殿、
 教盛は門脇どの
 重盛は小松どの   と呼ばれました。

「我身の栄華」では
 清盛一門がすべて繁昌している様が描かれます。
 嫡子の重盛は内大臣、次男宗盛は右大将、3男知盛は3位中将、嫡孫の維盛は4位の少将、、、、。

 その娘たちは8人おり、それぞれに良縁に恵まれており、
 一人は信西のもとに嫁ぐ予定が平治の乱により、とりやめ、花山院の左大臣に嫁ぎ、
 一人は皇后になられて22歳で皇子を生み、建礼門院とおっしゃられる。
 一人は、摂政藤原基実の北政所になり、高倉院の御母代となり
 一人は、藤原基道の北政所になり
 一人は、冷泉家隆房の北の方
 一人は、七条の大夫信隆卿に輿入れし、
また
 安芸の国厳島神社の内侍の腹に一人、これは後白河法皇にお仕えさせて、女御のようにお暮らしになる。
また
 九条の院にお仕えしていた常磐(義朝の妻)の腹の一人は、花山院の上臈女房になられた。

 日本の国に66カ国があるけれど、そのうち30余りが平家の知行国で、帝も上皇をも上回る富を築き、綺羅充満して堂上花の如しであったそうな。

 次は「妓王」の段ですが、くたびれちゃったので以下は明日にでも。
 義経の母である常磐さまは、のちに藤原長成という人の妻になり、幸せな日々を送ったらしいことが、奥山景布子さんの「源平六花撰」に書かれています。
 いつの世も、美人は得ね!

 そうそう、池殿こと、頼盛様は、頼朝に親切にされて、平家滅亡ののちにも朝廷に仕えたらしい。
 その人のひ孫?が鎌倉幕府の時代に朝廷を一世風靡した西園寺公経という人らしい。
 いろいろな人が出て来て、すごい時代だったのですね。

4月29日続き
入道は天下を掌中に納めて、世のそしりなどは、憚らない行いをしていた。
 その頃に都で人気のあった、白拍子の妓王、妓女という姉妹を近くに置いて寵愛した。
 「我が身の栄華」で平家の光の部分を描いた物語は、次に陰の部分を語ります。
「妓王
 白拍子とは、鳥羽院の時代に水干に立烏帽子、白い鞘卷姿で舞っていた遊女達が、のちに烏帽子、刀を外して水干姿で踊ったので、白拍子と呼ばれるようになったもの。

 都中の白拍子は、妓王一家のめでたい様を聞いて、羨みつつ、あやかりたいと思うものが多かった。

 3年ほど過ぎて、加賀の国から出て来た仏御前という16歳の白拍子が、都で人気を得るようになった。
 ある時、仏御前は
「我天下にもてあそばるると言へども、平家の入道どのに召されぬこそ本意なけれ」

 と、清盛の別邸のある西八条へ参上した。
 清盛は怒って帰そうとしたが、妓王が
「すげなく帰さずに、舞をみてやったら」と口添えしたので、仏御前は今様を一つ歌い舞った。

♪君を始めて見るときは 千代も経ぬべし姫小松
 御前の池なる亀岡に 鶴こそむれて遊ぶめれ♪

 仏御前は見目すぐれて声も良く節も上手だったので、清盛も気に入り、妓王、妓女にいとまを出してしまいます。
 そして代わりに仏御前の一族が篤い庇護を受けたのでした。

 翌年の春、清盛が妓王の所に使いを出して、仏御前が退屈そうで淋しそうにしているので、参って慰めよと言います。
 はるか下の座敷にて、流れる涙を抑えつつ
♪仏も昔は凡夫なり 我らもつひには仏なり
 何れも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ♪

 それを聞き、並みいる平家の一門の人々は、皆感涙にむせんだのです。 
 清盛も、これからは召されずともときどき参って仏御前をなぐさめるようにと仰るのでした。

 妓王は自害して果てたいと思ったけれど、21歳で尼になり、19歳の妹も、45歳の母もともに、嵯峨の奥に柴の庵を結び念仏に専修する日々を送りました。
 その後、訪ねる人があって出て見れば、髪を下ろした仏御前の姿がありました。

 四人はこの庵で朝夕仏に祈りを捧げて余生を送り、のちに後白河法皇の長講堂の過去帳に、四人一緒に入れられてある、とのことです。

 以上が「妓王」のあらましです。
 栄華を極めた平清盛も、人の心までは変えられなかった、、、という場面かな? 
 なかなかに、まだまだ感情移入の難しい、平家物語ではあります。

 2012年5月6日
 今週のNHKラジオ第2放送、古典講読の時間、「平家物語」は、「二代の后」「額打論」「清水炎上」でした。

 「二代の后」は
「昔より今に至るまで、源平両氏、朝家に召し使はれて、王家に従はず、自から朝権を軽んずる者には、互いに戒めを加へしかば、世の乱れはなかりしに、保元に為義斬られ、平治に義朝斬られて後は、(源氏衰退)今は平家の一門のみ繁昌す」

 という書き出しです。うよくのみな様が、大河ドラマ平清盛の中の「王家」という言葉にいたく反応し、
「天皇家をないがしろにする半島人」が作ったドラマだなんて騒いでいて、NHKも「王家」という言葉を使わなくなったみたいだけど、行長さまの原作どおりにしたまでなのにね。
 半島人という言い方がまた、天につばする感じで笑える。(と、ここだけでいばってみる)

 二代の后は、亡き近衛院の后の多子さま(頼長の養女で藤原公能の娘)は、23歳でちょっと年上だけどとても美しい人なので、二条天皇は盛んにお手紙を送り、入内してほしいと願いました。
 大臣たちは「唐の大宗の后の則天皇后は高宗皇帝の后だったという例はあるが、それは他国の事、日本では神武以来二代の后の例はないので、やめるべき」と諌めたが、二条天皇は、「天子は人の子ではなく父母は天と地だ」と言ってきかないので、後白河院も止めることができませんでした。

 多子は厭だったけど、父の公能が「もし皇子を生めば国母となり、父も外祖父と仰がれるだろう。親孝行と思って入内してほしい」と言うので、多子さまはなかなか車にも乗らず、泣く泣く入内なさいました。
 権勢あるものに人生を翻弄される女性の悲しさを描いているということです。

 次に「額打論」
 この二条天皇は、1165年、病に倒れ、位を2歳の皇子(大蔵大輔伊紀の兼盛の娘の子)に譲り、7月に崩御。

「御年二十三。蕾める花の散れるが如し。玉の簾、錦のとばりの内、みな御涙におはします」
 葬送は舟岡山で行われました。当時は
 化野、鳥辺野と舟岡山が葬送の場でした。また、この舟岡山を基準にして平安京の区画が作られたという重要な場所だったらしい。

 その葬送の夜に、東大寺、興福寺、延暦寺の僧たちが、額打の順番を争い互いに小競り合いを行い狼藉に及びました。
 ここで、南都北嶺の僧たちの騒動の序が描かれます。

 次に「清水炎上」
 その騒動のさなかに、興福寺の末寺の清水寺が焼き払われ、また、後白河院が清盛を追討するのではないかという噂がたちました。
 平家一門の人々は六波羅へ集まり、後白河院もまた誤解を解くために六波羅へ向かいます。

 騒動が収まった時に、後白河院は
「露ほどにも思っていないことが、どうして噂になるのだろう」と嘆きますと、そばにいた西光法師が
「天には口がないので(言えない)、噂は奢る平氏を討つべしという、天のはからいなのかもしれません」と言います。

 後白河院が、六波羅から御所にお帰りになるとき、清盛は用心してついていかなかったが、息子の重盛が丁重にお送りしてきた。
 帰って来た重盛に、清盛は「太っ腹の良い息子だ!」と褒めたらしい。

 ところで、院と帝の対立の間で、清盛は「あなたこなた」によく仕え、武士の地位を高めるために努力してきました。実際は、重盛は院の近臣として仕え、院と清盛の間を取り持つ役を、そつなく行っていたらしい。

 そしてまた、もう一人、院と清盛を結びつける役割の人がいました。
 建春門院(時子の妹の滋子)(小弁の局)であり、1161年9月、院との間に皇子をもうけたのです。
 院はこの皇子の誕生により、もう一度政治への意欲を高めたらしい。

 2歳で天皇になった六条天皇を、5歳にして新院とし、仁安3年5月、高倉天皇が即位します。
 後白河天皇と平滋子の子であり、平氏はここに天皇の外戚の地位を得たのです。

 時子、滋子の兄の平時忠は、その頃の地位や除目を思いのままにし、それはまるで、楊貴妃の時代に兄の楊国忠が栄えたのと同じような権勢だったということです。

 いろいろな人が出て来て、だんだん面白くなってきた平家物語です。

ラジオの平家物語では、最後に先生が「ひとことコラム」というお話をしてくださいます。
 今回は「悪党」について。

 悪といえば「悪左府」さまという方もおいでです。
 左大臣の藤原頼長さま。

ウイキでは以下のとおり
=藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。兄の関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれた。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。

 先にあげた多子さまの養父です。賢い切れ者だったようです。

 額打論では興福寺の「悪僧」が出て来ますが、倫理的な悪人、というわけでもないそうです。

 保元の乱で破れた頼長は「悪左府」と呼ばれ

 平治の乱で義朝の子の「よしひら」は「悪源太」と呼ばれ、叔父の「よしかた」を滅ぼします。
 その滅ぼされた「よしかた」の子が、木曽に逃れ、のちの木曾義仲になるんですって。

 悪は必ずしも悪いものではなく、人並み以上の力を持った人、という意味合いのようです。
「悪党」という存在も歴史に出て来るのだが、その一人に「楠木正成」がいる、、、のだそうです。

1012年5月13日
 今週のNHKラジオ、五味文彦先生の古典講座「平家物語ーその歴史的背景を読み解く」は。
「殿下の乗合」と「鹿の谷」。

 「殿下の乗合」は、建春門院との間の皇子を位につけ、熊野の神、賀茂の社に出家の許可を得て、後白河院は出家をなさる。
 7月16日と平家物語には書いてあるけど、本当は6月17日。
 院は、うちうちに
「将門の乱、前九年の役、後三年の役、と功のあったものたちを出世させたが、受領以上になることはなかった、今、清盛がこういうふるまいをするのは、世も末になって王家の威信が尽きて来たからだ」
 とおっしゃる。

 と、平家物語には書いてあるけど、この頃、平家と法皇の間は悪くなかった。平家物語は、ストーリー展開のために、法皇にこう言わせている、らしい。

 13歳の資盛が事件を起こします。
 嘉應2年10月16日「雪は斑に降ったりけり。枯れ野の景色面白かりければ、若き侍ども三十騎ほど召具して、蓮台野や、紫野、右近の馬場に打ち出でて、終日狩り暮らし、薄暮に及んで六波羅へこそ帰られけれ。

 そこに、退出の藤原基房の行列に出会った資盛が、下馬の礼をとらなかったので、馬から引きづり下ろされ、痛い目に合わされます。

 資盛が泣いて清盛に訴えると、清盛はかわいい孫がはずかしめを受けたと大いに怒って
「あの小さな者に恥辱を与えるなんてけしからん。恨みを晴らさずにおくものか」。

 しかし、父の重盛は
「私の子どもともあろうものが、下馬の礼をしなかったのが悪い。無礼は過失だったとお詫びしなければ」
 と。

 しかし、祖父の清盛は、重盛に相談もしないで荘園の荒くれ武者たちを60人余り召し寄せて、殿下の髷(もとどり)を切って、資盛の恥をすすげと、命令します。

 そして、高倉天皇の元服の祝いの日、300騎が待ち伏せをして、着飾った上流貴族たちの髷を切り、牛たちを蹴散らして帰ってきたので、清盛は「よくやった」と喜んだらしい。このことで、平家の悪名が高まった。

 重盛はこれを聞いて、関わった侍たちを勘当し、
「すでに12、3になって礼儀を知るべきなのに、このような無様な事をして、祖父清盛の悪名を世間に立たせた。この不幸の至りの原因はすべて資盛にある」と、伊勢の国へ追いやった。
 このことで重盛は、人々に感心された。

 当時の九条兼実の「玉葉日記」には、むしろ首謀者は重盛だったと書いてあるらしい。
 基房は、重盛が息子の恨みを抱いて仕返しを考えているとの情報で、外出をさけていたが、天皇の元服ということで、出かけざるを得なかった。
 平家物語は、清盛の悪行を際立たせるためのストーリー展開をしている、ということらしい。

 そうそう、「雪は斑に降ったりけり」の場面も、実際は7月3日なので、雪はないのだが、鷹狩りの枯れ野のイメージを高めるために、10月16日にしてあるのだそうです。
 しかし、ひんやりとした空気や、景色がまざまざと目に浮かぶような名文ですね!

 今夜の大河ドラマは、後白河天皇の松田翔太さまと、建春門院の鳴海璃子ちゃんが出るので楽しみです!
 もちろん、一番は松ケンさまです!そうそう、崇徳上皇の「ARATA」さまあらため「井浦新」さまって、せりふが全然ないのに、三上博史さまと互角の存在感。
 すごい歴史通で、悲劇の上皇になりきっていらっしゃるのだそうですよ。

1012年5月13日つづき
平家物語の続きです。「鹿の谷」

 嘉應3年、清盛の娘の徳子が15歳で入内。

 この章の大半は、藤原成親の、左大将の位を手に入れるためのはかない?神頼みの願が書かれています。
 岩清水八幡宮で100人の僧による7日間法要を行っても、賀茂神社におうかがいをたてても、あきらめよと言われ、次には「だぎに」の法というものを百日行わせたが、
 念願の左大将には右大将だった重盛が、空いた右大将の席には重盛の弟の宗盛が「数輩の上臈を超えて」ついてしまったのです。

 平家物語は成親に対して厳しいのですって。それは
○平家と同じように身分が高くなかったくせに高い位をのぞんだ
○後白河院をそそのかした
○妹が重盛の北の方、息子の北の方は経盛の娘、それなのに位が欲しいために平家打倒に向かったから

 この段について、杉本秀太郎さんは
「鹿谷の密議のあとの酒宴の場面は、いつしか私の頭のなかでは、にぎやかな饒舌、あくどい「もどき」が止めどもなくつづく歌舞伎の舞台のように変っている。
 しかし、あらためて「平家」を読むと、出来事はわずか四百字ばかりのうちに、すばやく、いきいきと描かれていて、徒(いたずら)な空想を添加すればするほど、場面のまことらしさ、あるいは趣は、失せることが納得される。」

 と書いていらっしゃいます。確かに、短いのにリアルで、臨場感いっぱい。

 後白河上皇もお出ましの宴会の席で、成親はその場にあった瓶子を引き倒して
 「へいじ倒れぬ」なんて言うので、
 西光法師も「唯、頸を取るに如かじとて、瓶子の頸を取ってぞ入りにける」

 その場の参加者は、保元、平治の乱で、後白河上皇の経済基盤を握るようになった人たちらしい。

 それにしても、昨日の大河ドラマ、崇徳上皇、かわいそうでしたね。そして、悪の悪左府さまの手中に落ちていきそう。

2012年5月20日
  今週のNHKラジオ第2放送、五味文彦先生の平家物語は、「鵣川合戦」「願立」「御輿振」でした。
 院政の時代の問題点を挙げています。
 白河院は
「賀茂川の水、双六の賽、山法師」と、制御出来ないものを挙げていますが、法師達の「山門強訴」の恐ろしさを。

 鵜川合戦は
 「北面は上古になかりけり。白河院の御時、始めおかれてよりこの方、、、」

 少年の時から仕え育ったり、院の近くにいたために、北面に仕える位の低い者たちが、人々の訴えを院に伝える役になり、やがて成り上がってきて、謀反に加担するものも現れてきた。

 信西の従者で、平治の乱に連座して出家した西光、西景の二人は、出家後も院の御倉預かりをしている。

 その西光の子に、師高というものがいて、なかなかの切れ者で加賀の守になった。その弟の師経は、鵜川の寺に乱暴を働き、兄弟が結託して配下の一千余騎で寺に火を放ち、合戦のもとになったのが、鵣川合戦。
 鵜川はは白山の末寺だったため、白山三社八院の大衆(だいしゅ)二千余人師経の館を襲う。

 しかし、大衆は、力及ばず撤退し、山門を通じて朝廷に訴えることとなり、比叡山に集結します。
 山門は、加賀の守師高を流罪に、師経を禁獄にと訴えたが、なかなか沙汰がおりません。

 山門の訴えは、時に道理に合わなくても呑んだ歴史があり、
 この件については

「大臣は禄を重んじて諌めず、小臣は罪に恐れて申さずといふ事なれば、各々口を閉ぢ給へり」
 と、誰も関わろうとしなかった、、、。

次の「願立」は
 白河院の時とは関係ないが、当時の人たちにとっての山門強訴の恐怖を語っているそうです。

 その昔、美濃の守の源義綱(八幡太郎義家の弟)が、比叡山の修行僧を殺害した時のこと。

 この時、日吉の社司、延暦寺の寺管など三十余人が上申したのだが、後二條の関白が命じて、八人を射殺し、十余人に怪我を負わせた。
 山門では、日吉の神輿を根本中堂へ上げ、その前で後二條関白を呪詛した。
 結願の夜、鏑矢が音を立てて王城を指して飛んで行く夢を人々は見た。
 翌朝、関白の邸の戸を開けると、山から取って来たばかりのような、露に濡れた樒の一枝が立っていた。その夜から、関白は山王の咎めを受け、重病の床についた。
 その母は嘆いて、日吉の神社に願をかけ、身をやつしてさまざまな方法でお祈りしたので、一応は治ったのだけど、3年ほどたって四十歳前に亡くなってしまった。

 平家物語は、人に聞かせるための作品のようですが、加賀美幸子さんの朗読が、名調子になってきました。
♪北国の方より雷おびただしく鳴って、都をさして鳴り上り、白雪くだって地を埋み、山上洛中おしなべて、常緑(ときは)の山の梢まで、皆白妙にぞなりにける♪べべんべんべん♪

 ちょっとおかしかったのは、裁定を下す時に、みんな無責任で
「大臣は禄を重んじて諌めず、小臣は罪に恐れて申さずという事なれば、、、」
 という所。今の日本のトップにそっくり。
 さわらぬ神にたたりなし、、は日本の伝統芸かいな。

2012年5月20日続き
昨日の大河ドラマ、平清盛、保元の乱の前夜で、いろいろな人々の動きをはしょってありました。詳しく書くと人々が混乱して「面白くない!」なんて怒るからでしょうか。

 でも、清盛と義朝がそれぞれ妻子を安全な所に疎開させたのなんて、良かったですね。
 常磐さまの上の子の今若?は、(1192)いい国作ろう鎌倉幕府ののち、頼朝の子の頼家に、謀反の疑いありとして殺されてしまうらしい。
 すごい歴史。

 また、池禅尼の宗子さまは、崇徳上皇の皇子、重仁親王の乳母だったので、身を切られる思いで、天皇側につく清盛を支持したのだと思います。
 崇徳上皇は、破れたのちに四国に流され、地元の人たちと交流しつつ、けっこう楽しいその後を過ごしたみたいです。井浦新さんに、四国での日々も演じてほしいなあ!

 昨日は、のちの弁慶になる、ちりとてちん、のそうそう兄さんも出ていましたね。比叡山から下りて来たのでしょうか。

 ではラジオの古典講読「平家物語」の続き「御輿振」

 通常の手続きをしても裁断が下されないので、強訴をしようと怒って比叡山を下りた神輿で町があふれかえるような騒ぎ。

♪神人、宮仕、しら大衆、専当満ち満ちて、いくらといふ数を知らず♪べべんべんべん

 そこで、源平の両大将にこれを防ぐよう命令が下ります。

 平家は、小松殿重盛が3千余騎で大宮表の、陽明、待賢、郁芳の3つの門を固めます。
(情報によれば、1騎には10人以上の人がつき従っているので、大人数らしい)
 また、宗盛、知盛、重衡、伯父さんの頼盛、敦盛、経盛などは、西、南の門を堅めています。

 源氏は、頼政が3百余騎で、北の門を堅め増す。
 大衆は、ここが無勢だということで、北の門から入ろうとします。

 そこに頼政は急いで兜を脱ぎ、手水うがいして、神輿を拝み、兵達も従います。
 頼政は、渡辺の唱(となふ)を使者に立て、大衆の中に向かわせます。

♪唱その日の装束には、きぢんの直垂に、小桜を黄に返へしたる鎧着て、赤銅作りの太刀を佩き、二十四さいたる白羽の矢負ひ、滋藤の弓脇にはさみ、兜をば脱いで高紐にかけ、神輿の御前に、かしこまって、
「しばらく静まられ候らへ。源三位より、衆徒のおん中へ申せと候らへと、、、」
 べべんべんべん♪

 要するに、こんな手薄の所を突破したら、京の童たちが後世もずっと悪口をいうと思うので、平家の方へ行ったほうがいいと思いますよ。
 という使者。

 大衆が、どうしようと相談していると、ある人が、頼政は源氏の正統であり、文武にすぐれた男であって、近衛の院の折りの歌会に「深山の花」という題が出て、人々がなかなか読めなかった時に、この頼政の卿が

*深山木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり
 という名歌を作ってたいそう褒められたこともある。

 という話もあって、数千人の大衆は、先陣より後陣まで、すなおにその場から立ち去った。

 そして神輿は、待賢門から入ろうとしたが、平家の武士たちに矢を射られ、御輿にも当たり、神人も射殺され、衆徒の多くは傷を負って、御輿を放り出して、大衆たちは泣く泣く比叡山へ帰って行きました。

 というのが、「御輿振」でした。
 これにより、山門の呪詛は恐ろしいという時代から、武力こそ威嚇の実力がある、、、という時代に変わって行くらしいです。





2012年5月27日
 NHKラジオ第2放送、古典講読の時間、五味文彦先生の「平家物語」、今週は巻1の最後の段「内裏炎上」と、巻2の「座主流」です。
 あらすじを書きますが、これは五味先生のお話をもとに、私が解釈したものです。違っていたら文責は私ね。

 山門の衆が、御輿を投げ出したまま山に帰ってしまったので、先例を上げて殿上の会議をし、今回は、刺さった矢は神人に抜かせ、祇園の社に入れることに。
 今まで騒動はいろいろあったけれど「神輿射奉る事は、これ始めとぞ承る」。

 山門の大衆が仕返しに来るとの噂があり、天皇も中宮も車に乗って避難された。
 平重盛が直衣に矢を負って警護に当たった。
(突然ですが、大河ドラマの重盛役は、窪田正孝くんです。浪花の華、で若き日の緒方洪庵役をやって良かった~♪彼は、真面目な重盛役にピッタリだと思いますねん♪)

 その嫡子の維盛は、束帯に「平(ひら)やなぐひ」を背負って従います。(武士りんりん!)

 山門では3000人が会議をして、京の都も根本中堂も皆焼き払って自分たちは野山に隠れようと決議。朝廷では山門の強訴を聞き入れようと決めて使いを送ったが、追い払われてしまいます。

 そこに使いとして平時忠。(時子の弟?、滋子の兄、平家にあらずんば人にあらずと言った人。その時はまだ佐衛門督)彼は、大講堂庭に集まっていきりたつ大衆を前に、「暫く静まりたまへ」と言って懐から小硯と畳紙を取り出し、一筆書いて渡します。
 「衆徒の悪は魔の所行。明王(天子)の制止を加えるのは善政の加護」
 と書いてあって、それを読んだ大衆は、納得してそれぞれの山に帰って行った。

 一紙一句をもって三塔三千の憤りを鎮めた、時忠すごい。

 朝廷では約束通り強訴を聞き入れて、(加賀で白山の坊さんをいぢめた兄弟の)加賀守師高を解職、師経は獄につながれ、矢を射た重盛の部下たちも獄につながれました。

御神輿の騒動は4月13日
強訴を聞き入れたのは4月20日。
そして4月28日の夜半、京の東南の隅の樋口富小路から出火、折からの東南の風に吹かれて、御所も含めて、京の町の大半が焼ける大火となります。

平家物語では
「折節 巽の風はげしく吹きければ、大きなる車輪の如くなる焔が、三町、五町を隔てて、乾の方へすぢかひひ、飛び越え飛び越え焼け行けば、恐しなどもおろかなり」
 以下には焼けたお邸の数々を。

 この同じ大火を、鴨長明が方丈記で書いています。
 当時の鴨長明は父の死にあい、賀茂神社から離れ零落していた頃であったらしい。
 これも、加賀美幸子さんが読んでくださいました。

「火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして、一、二町を越えつつ移りゆく。その中の人、うつし心あらんや。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまぐれて、たちまちに死ぬ」

 鴨長明の「うつし心あらんや」は、平家物語にはないのですね。
 そしてまた、平家物語にある
「(一時がうちに皆灰燼の地とぞなりにける。家々の日記・代々の文書・七珍萬宝・さながら塵灰となりぬ。その間の弊如何ばかりぞ」

 の、文化的資産が失われた、、、の記述は、方丈記には無いようです。

 平家物語は巻の2「座主流し」
 京の町の3分の1が焼けた大火(1177年)の1年後、1178年、4月24日、京の町は再び大火に見舞われます。
 それから10日後の5月5日天台の座主明雲が、御輿を降り入れた張本人として、帝の逆鱗に触れ、伊豆へ遠流と決まりました。
 師高が父の西光法師とともに法皇に訴えたためらしい。

 会議の折りに、藤原長方が「罪が重過ぎる」と言ったけれど、続く大火と大衆の暴動に帝がキレてしまったらしい。

 長方は、今後いろいろな場面で、気骨ある発言のできる人として登場するのですって。

 5月21日、座主は東の出入り口の粟田口から出て配所に送られます。
 山門の大衆は、座主流罪への対抗策を練ります。
 敵は西光父子、ここは山王の神の力を借りて呪法に熱中、そのうちに「座主を奪い返せ」と「満山の大衆が皆坂本へ下り下り、石山に宿をしている明雲を取り巻きます。

 明雲は勅勘の身だからと従わなかったのだが、大衆に無理矢理輿に乗せられ比叡山へ運ばれます。
 叡山の会議で決まったのは、「座主を据えて朝廷とあくまでも対決しよう!」ということでした。

さて、昨日の平家物語の続きです。
 西光法師は、急いで後白河院の所に行こうとして、六波羅の兵たちに捕えられます。
 兵たちに馬から引きずり下ろされて、西八条邸の御坪の中に引き立てられ、清盛の詮議を受けます。
(ここで清盛は怒って西光の顔をふんずける、なんて書いてあるけど、松ケン清盛は、そんなことするはずはないので、カット!)

 西光は、悪びれず居直ってあざ笑い、
♪そもそも御辺は故刑部卿忠盛の嫡子にておはせしが、十四、五までは出仕もし給わず、故中納言家成卿の辺に立ち入り給ひしをば、京童は、例の高平太とこそ言ひしか。
 殿上の交はりをだに嫌われし人の子孫にて、今、太政大臣までなりあがったるや過分なるらん。♪
 憚る所もなう言ひ散らしたりければ、入道相国、余りに腹を据えかねて、暫しは物をも宣はずベベン、ベン。

 西光は拷問の上、五条西の朱雀にて処刑されました。

「小教訓」
 小部屋に押しこめられた大納言成親の所に、怒った清盛が来て、「平治の乱の折りに処罰されるべきを助けたのに、何の遺恨があってこういう企てをするのだ」と、西光の白状を読み聞かせます。

 そして、庭へ引き落とせと命令する清盛、しかし侍たちは重盛の縁戚なので躊躇しつつも引き落とします。

 小松殿の重盛は、時間が過ぎてから、兵を一人も連れずに息子の維盛とともにやってきます。
 車から降りた重盛に貞能が近づき、「こんな大事な時になぜ兵も連れずに来たのか」と言いますと、重盛は「これは天下のことではない。私事である」と言って中に入り、成親を救出します。

 重盛の北の方は成親の妹で、維盛もまた成親の婿なのです。

 父祖の善悪は子孫に及ぶ。善を積む家には余慶があり、悪を積む家には良くない事が起きると重盛が言えば、清盛もそうかもしれないと思い直して、死罪を思いとどまります。

 「小教訓」は、親が子を諌めるという意味だそうですが、今回は逆説的に子(重盛)が親(清盛)を諌める意味で使われているそうです。
 まだ終わらないのですが、長くなるので今週はこの辺で。  
 清盛と、一門の結束が揺らぐ姿へ加速していくらしいです。

 先生のひとくちコラムは「罪人の処遇について」
 西光は、身分が「地下人」で低いので、「つぼ」庭に身柄を据えられる。
    五条にて斬られる。(武家の断罪)
 成親は、公卿で身分が高いので屋敷の一間に置かれ、その後庭に引き落とされる。
    流罪
 成経は殿上人で身分が低いので、屋敷に入れられず、門前の小屋に置かれる。
    流罪
 という感じです。







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