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第7官界彷徨
五味文彦先生の平家物語その5(巻7)
「篠原合戦」
平家方には、東国の武士たちも大勢参加していました。
彼らは戦のない夜には集まって酒を酌み交わしていました。
ある時、斉藤別当実盛が語り始めます。
「つらつら思うに、平家の負けは濃厚なので、自分は木曽どのにつこうと思うが」
といえば、皆その意見に賛成します。
翌日、実盛が、もう一度昨日の話は、、、、と言い出しますと、俣野五郎景久が進み出て、
「我らは東国では名のある武士。吉について彼方こなたへ行くのは見苦しい。皆さんはどうあれ、自分は平家について討ち死にするつもりだ」
と言うと、斉藤別当は
「実は皆の心を試したのだ。自分も北国にて討ち死にし、都には二度と帰らないと、大臣どのに申し上げてきたのだ」
といい、その場にいた人たちは平家方についたまま、全員北国にて討ち死にしたのでした。
平家軍は加賀の国篠原に退いて人馬を休めているところに、義仲軍が5万余騎にて攻めてきます。
「草もゆるがず照らす日に」水の流れるような汗をかいて両軍入り乱れて戦います。
その中に、越中の18歳の入善小太郎を見て息子を思い、情けをかけた平家の高橋の判官が討たれます。
「実盛最期」
落ち行く平家の中にあって、斉藤別当実盛は、思うことがあって引き返して戦います。
いでたちは
♪赤地の錦の直垂に、萌葱縅の鎧着て、鍬形打つたる兜の緒をしめ、こがね作りの太刀を帯き、二十四差いたる矢負ひ、滋藤の弓持って、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗ったりけるが♪
木曽方の信濃の国の手塚太郎光盛が名乗りますが、実盛は名乗りません。
♪斉藤別当、心は猛う思へども、いくさには、し、疲れぬ。♪
討ち取られてしまいます。義仲は斉藤別当と思うが、70を越えているはずなのに白髪ではない、と、樋口次郎兼光に顔検分をさせます。
樋口の次郎は、人目見て「あな無残」と、はらはらと涙を流し、かつて、60過ぎて戦場に出るときは、髪やひげを染めて若いもののようにして行くつもりだと語っていたと、話すのでした。
実盛は都を出るときに宗盛にいとまごいをした折に、戦わずして逃げた富士川の合戦のことは恥辱に思う、今度北国に下ったときには討ち死にして果てたい。
死んで故郷の越前に錦を飾りたい、と、錦の直垂の着用を許してもらったのでした。
♪斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に掲ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ♪
4月17日、平家は10万余騎にて都を出たのですが、5月下旬には、2万余騎での帰京となったのでした。
「還亡=げんぼう」
京の町では、戦死した夫や息子を思い、歎きの声と念仏が満ちたのでした。
6月1日、宮中から兵乱が静まれば伊勢神宮に行幸のお達しがくだされます。
「木曽山門牒状」
京を目指して進軍してきた木曽義仲は、越前の国府まで来て会議をします。
「これから京へ入る途中には比叡山がある、山門の大衆と事をかまえては、平家の二の舞になってしまう。」
そこに覚明(もと興福寺にいた人ね!)が、大衆にもいろいろな考えの人がいるので、まずは牒状を送って、その返事で様子を見たらどうか、と進言します。
衆徒の心持を知っている覚明は、名文で
平家の悪業、義仲の活躍を書き、これから平家をほろぼすために上洛する我らは、比叡山の下を通る。もし、平家に組するようなら合戦しよう、しかし我々は無益な合戦はしたくない、
「こひ願はくは天台の衆徒、神のため仏のため国のため君のために、源氏に同心して、凶徒を誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至りに堪へず。義仲恐謹んで言す。
寿永2年6月10日の日
源義仲進上
と、書いたのでした。
今週はこのあたりまででした♪
2012年11月18日
今週のNHKラジオ第二放送、五味文彦先生の「平家物語」は、いよいよ都に攻め上る木曽義仲、頼みの後白河上皇が鞍馬に逃げてしまい、都から逃れる平家の人々、、、、。
「山門返牒」
比叡山ではいろいろな考えの僧がいたが、老僧たちは会議を開き、天皇の世が永遠であるように祈ってきたが、天皇を抱える平家の悪行は目に余り、源氏の運命は今開かれようとしている、どうして山門のみが平家と運命をともにできようか。
源氏に合力するべき、と答えを出します。
義仲は家の子郎党を集め「山門は義仲に同心、平家を滅ぼすことに同意すると言ってきた」と、覚明に読ませます。
*現実問題として、山門の荘園が多くある北陸道を押さえた義仲と戦うのは、得策ではない、と大衆たちは考えたらしい)
「平家山門への連署」
そうとは知らない平家の人々は、一門の公卿10人が連署して、山門に手紙を出します。
清盛が存命の時には、厳島神社を氏神としていたが、今後は延暦寺を氏寺に、日吉社を氏社にしたい、これは、我らの先祖桓武天皇の頃より、山門の喜びは我らの喜び、社家の憤りは我らの憤りとして長く伝えられてきたものだ。
通盛、資盛、惟盛、重衡、知盛、清宗、経盛、教盛、頼盛、宗盛の連署があり
寿永2年7月5日の日、敬って白すと書かれていました。
山門の管主はこれを読んで哀れみ、すぐに人々に見せて拒否されるのを嫌って、権現の社壇におさめて3日間祈りを捧げたのちに衆徒たちに披露します。
その上巻に、はじめはなかった、1首の歌が書かれていました。
*平かに花咲く宿も年ふれば
西へかたぶく月とこそ見れ
山王大師は哀れんで、なんとかしようとしたが、結局一山が源氏へなびこうとしていたのでした。
「主上の都落」
7月14日、貞能は鎮西の謀反を平らげて帰京します。
22日、保元の乱に為朝を捕縛して平家になった重貞が「義仲がすでに坂本まで来ている」と知らせてきます。
津の国や河内などからも源氏の軍勢が集まってきているとの知らせが入り、平家は1ヶ所で戦おうと、都に集まります。
24日、宗盛が建礼門院のいる六波羅に参って言うのは
「何とかなるであろうかと思っていましたが、このようになってしまいました。このうえは、法王や天皇を西国へお連れしようかと思っています。」
♪女院、今は只、ともかうも、そこの計ひでこそあらんずらめ、とて、御衣の御袂に余る御涙、塞きあへさせ給はねば、大臣殿も、直衣の袖絞るばかりにぞ、見えられける。♪
後白河法皇には、その噂が伝わったのか、その夜の夜半に資方の子、資時だけをお供に、ひそかに御所をお出になり、鞍馬にお逃げになりました。
それを聞いた宗盛は何かの間違いだろうと急いで御所に行ったのですが、法皇の行方を知る人はいないのでした。
法皇に見捨てられ、山門を敵にした平氏は西海に下るしかなかったのでした。
平家の人々は、6歳の天皇の輿に建礼門院が同乗し、三種の神器や宝物を持って、朱雀を南に落ちて行きます。
翌7月25日、摂政の基通も御幸のお供をして行こうとしますが、車の前を袖に春の日と書いた童子が横切り、これは春日の神が擁護してくれるということか、と思っていますと、件の童子の声らしきが
*如何にせん藤の末葉の枯れ行くをただ春の日に任せたらなん
と言います。
そこで、供の高直と目配せをして、車を飛ぶように翻し、北山の知足院にお入りになったのでした。
基通については、春日権現絵巻に、神鹿が顔をなめた、というのと、春日の垂迹の絵を描いた、というのが描かれているらしい。
信仰の力、春日の神に通じて、都落ちを免れた、ということです。
2012年11月26日
「惟盛の都落」
平家の人々が落ち行く中、小松の大臣惟盛は、北の方に別れを言います。
北の方は、成親卿の姫であり、父母はすでになく大変美しい方でした。惟盛との間には10歳の六代、8歳の姫がいるのです。
惟盛は
「たとえ私が討たれたと聞いても、決して尼になどなってはいけない。誰とでも夫婦になって世を過ごし、幼い子どもたちを育ててください」と言い。
北の方は袖にすがって
「同じ野原の露とも消え、ひとつ底の水屑ともなりたいと契りましたのに、、、」
と泣くのでした。
これから惟盛は北の方を残して西に立ち、やがて平家一門から離脱して高野山で仏門に入り、のちに那智の滝で入水するんだそうです。
そして、斉藤実盛の息子の斉藤五と斉藤六は、惟盛の言いつけを守って北の方と六代の命を頼朝の世まで守り通そうとするのだそうです。
♪北の方は引き被いてぞ伏し給ふ。
若君姫君女房たちは、御簾の外までまろび出で、声をはかりに泣き叫び給ひけり。♪
♪平家都を落ち行くに、六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下、人々の家二十余箇所、其のほか次々の輩の宿所、京白川四五萬軒が在家に火をかけて、一度に皆焼き払ふ♪
「聖主臨幸」
帝のいらっしゃった町やその他貴重なものも皆灰にしてしまった。
♪禍福道を同じうし、盛衰掌を返す、いま目の前にあり、誰かこれを悲しまざらん。
保元の昔は春の花と栄えしかども、寿永のいまは秋の紅葉と落ち果てぬ♪
「忠度都落」
清盛の弟の忠度は、落ち延びる途中どこからか引き返し、五条の藤原俊成の家の門を叩きます。(定家くんの実家ね!)
落人が来たと門の中で騒いでいるので忠度は馬から下りて、申すべきことがあると言いますと、俊成が忠度ならばと対面してくれます。
忠度は推敲した歌を書きつけてきました。世の中が平穏になって勅撰集を編纂なさるときには、一首でも採りあげていただければ、、、と託すのです。
後に俊成は「千載集」によみびと知らずとして忠度の歌を載せます。
*さざ浪や滋賀の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな
この時のことが「青葉の笛」という歌の2番なのね♪
♪更くる夜半に門をたたき・わが師に託せし言の葉あはれ♪
「経正都落」
この段は、忠度都落と対のようになっていて、有名なんですって!
忠度は歌人の誉れとしての名声が高く、清盛の弟経盛の子の経正は、琵琶の名手としての誉れが高かったのです。
北国下向の時に、竹生島で琵琶を演奏して神様が喜んだ人です。
経正は8歳の頃から13歳で元服するまで御室の仁和寺の覚性法親王(鳥羽天皇の第五皇子)に童子として仕えて寵愛されていて、青山と呼ばれる唐渡りの琵琶をいただいていました。
今は後白河法皇の第二皇子、守覚法親王の代になっていましたが、都落ちの途中で経正は、その琵琶を返上するために仁和寺を訪れるのです。
法親王はあはれに思い歌を詠みます。
*あかずして別るる君が名残をば後の形見につつみてぞおく
仁和寺の人々はなごりを惜しみ、経正の袖にすがり涙を流したのでした。
経正が幼い頃にはまだ若い僧だった行慶はあまりに名残が惜しく、桂川のほとりまで泣く泣く送っていきます。
経正は壇ノ浦の戦いののち、汀で源氏の兵に討ち取られてしまうのだそうです(涙)
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