第7官界彷徨

第7官界彷徨

英勝院様御事績


 県の文書館での古文書講座に行きました。

 徳川家康の側室・英勝院とその時代
「英勝院様御事績」を読む、というのです。

 寛政年間には大名や旗本で、家族の輝かしい歴史をまとめるのが盛んに行われたらしい。
 これもその頃書かれたのです。
 英勝院は、太田道灌の太田家の中興の祖として書かれています。
 最初に江戸城を築いた太田道灌は、暗殺されてしまっていたのですね。

 家康にはたくさんの側室がいました。
 中でも活躍した人たちが女中三人衆と(後世に)呼ばれ
 初期は
 お八・・・遠江の鋳物師の妻
 おむす・・秀吉の朝鮮出兵の折、肥後の陣の家康に同行
 すわ・・・大阪の陣で徳川方の使者。東福門院が後水尾天皇に嫁す時に同行

 中期は
 お亀・・・尾張の義直の生母
 お万・・・紀伊?の頼宣・水戸の頼房の生母
 お勝・・・英勝院。頼房の養母

 後期は
 お奈津・・家康の遺産の金を管理
 お六・・・英勝院の部屋子だった
 お勝・・・英勝院

 家康の側室の多くは、今川、武田、北条、北畠、里見など武将たちの家臣や縁者だった。
 そしてけっこうな働きをしたのですね。

「英勝院様御事績」では

 英勝院は、太田道灌公から4代目の新六郎公の姫で、母は北条氏の家老。
 兄は重正公。

 永禄5年、父が北条氏に謀反を企てたのが発覚、江戸を去って安房の里見家に身を寄せた。

 お勝さまは天正6年(1578年)、安房の小湊で誕生し成長した。

 天正18年(1590年)権現様(家康)は秀吉から関東へ移るよう命じられる。 
 その折、名家、名族の子孫がいたら、男女に限らず召抱えるとの意向がもたらされた。

 当時、お勝さまの兄、重正公は京都にいたので、13歳の妹のお勝さまが房州から江戸においでになった。
 この折、取次ぎ役に戸田氏(三河の浪人、子孫は綱吉の頃に老中を輩出)黒田氏(北条氏に仕え、重正公と仲が良かった。娘のお六はお勝さまの部屋子ののち、家康の側室となる)

 お勝さまはまだ幼いため、安西という女中がお世話をした。
 (この人は岡山の池田家の家臣の小崎半兵衛のゆかりの人)

 天正18年の冬、お勝さまのお願いにより、兄の重正公が家康にお目見えし旗本となる。

☆そんなところ。
 家康が家臣を編成していく様子がわかって面白いです。
 その土地の支配者が滅亡したあと、その家臣たちを取り込んでいったのですね。
 大河ドラマ、大原麗子(お福)の春日局では、東てる美さんが、お勝を演じて、ずっとお福の力になってくれていましたっけ。

2013年10月29日

 なぜこの文書が千葉にあるかといえば、明治維新の折、将軍家は江戸城を出て、駿府に移ったのですが、そのため、当時駿府にいた太田家が、千葉の芝山に移ったからだそうです。

 今日は、お勝さまの次世代への影響の部分でした。

 慶長12年(1607年)、30歳のお勝さまは66歳の家康との間に、姫を生みます。
 家康の最後の子として大切に育てられますが、4歳で亡くなります。

 そのなきがらは、家康の祖母の華陽院さまの駿府のお寺に葬られました。
 松平家の夫に死に分かれた華陽院さまは、何人かの夫に死に別れ、今川義元?の夫人になったらしい。
 家康さまを少年時代に育てた人で、今もある寺院の華陽院には家康の植えた蜜柑や柿の木があるそうです。
 今川家の人質になった暗い少年時代というのも、ちょっと違うかもね。

 子どもを亡くしたお勝さまを不憫に思った家康は、多くの養子をお勝さまに託して生きがいになるようにします。
 そのことで、太田家は人的つながりで栄えていきます。

 まず、家康の助言でお勝さまは甥の道顕さま(資宗)を養子にします。当時11歳で、家康の小姓となって仕え、後に家光の側近(六人衆=のちの若年寄)の一人となり活躍。

 慶長15年、家康はふさぎこんでいるお勝さまに池田輝政公の息女を養女にさせます。
 池田輝政公の側室は2代将軍秀忠公と同母の徳姫で、家康はそこで生まれた姫(自分の孫)をお勝に預けたのです。
 この姫は、お勝さまが養母として伊達家にお嫁に行きます。

 このことで、太田家の道顕さまと伊達家の忠宗公は義理の兄弟になります。

 元和二年、家康はおまんの方さまの生んだお鶴君をお勝さまの養子にします。
 おまんさまは、紀伊大納言頼宣公と、お鶴君を産み、お勝さまがもらったお鶴君は水戸中納言頼房公になります。

 おまんさまとお勝さまは格別の思いで結ばれていました。
 ひとつには、水戸様のご生母だったこと。
 もう一つには、大変熱心な法華経の信者だったことです。
 そして、ともに北条氏綱公からのゆかりの人なのでした。

 家康さまが駿府で、秀忠さまが江戸で将軍となられた時、お江さまはどうしたわけか、嫡男の竹千代君をうとんじ、国松君をたいそう可愛がっておいででした。
 側近たちも次の将軍は国松君と思い、にぎやかに人々が集まっていました。

 参じる者も少なく淋しい竹千代君のもとに訪れるのは、永井伝三郎どのと太田新八郎(道顕)の両名だけでした。
 お江さまに気づかれないように人目をさけてのお部屋通いもしました。
 この文書には、庭の玉石に紙を敷いて足音を消し、お江さまに見つからないようにしたとのこと。

 お勝さまからは、「家康様は筋を通す方、国松君を次の将軍にするなどあり得ない。新八郎(道顕)も、国松君についたなら勘当です」
 と言われたと、後年、道顕さまはたびたび仰っていました。

 あるとき、家康様がお勝さまに、新八郎(道顕)を水戸家の家老にさせて、頼房(お鶴君)の家来にしたい、という申し入れをします。

 しかし、お勝さまは、このまま江戸で将軍家にお仕えさせたいと辞退します。

 ご三家の付家老の五家は、それぞれ格別の知行地と家柄を誇りましたが、太田家はそれを辞退して将軍直属として仕え、大名となりました。
 後になれば、当時の家康さまの破格のお申し出よりも、直接将軍家におつかえしていた方が、のちの太田家の隆盛にとっては良かったのです。
 女性とはいいながら、英勝院さまの先を見通す力は立派なものでした。

☆こんなところでした。
 古文書には、仮名の崩し字などが多くて、そういう点に関心のある人も多いみたいでした。
 私は、そういう知識もないし、あらすじが分かればそれでいい、って感じ。
 政争ではなく、一族を固めて行く家康の姿も垣間見えて、面白いですね。

2013年11月5日
「英勝院様御事績」を読む。
 今日は晩年の記録です。

 元和元年、家康が亡くなると、お勝さまは髪を下ろして英勝院さまとなりました。

 寛永11年、英勝院さまのために鎌倉扇谷に英勝寺が建てられます。

 実家の太田家が法華宗の信徒だった英勝院さまですが、4歳で亡くなった市姫さまを浄土宗の華陽院さま(家康の祖母の寺)に
葬ったこともあり、浄土宗に宗旨替えなさいます。

 英勝寺の場所は、かつて先祖の太田道灌公が上杉家に仕えていた折の屋敷跡でした。
 そののち、水戸光国公が、そのことを石碑に書いて残してあります。

 英勝院さまは、水戸光国公の父の養母なのですね。

 寛永14年、将軍家光さまは、鎌倉英勝寺に対し、寺領三百石を寄付なさいます。
 その場所は相模国の池子。滅亡した北条氏の所領であった場所で、北条氏ゆかりの英勝院さまのものとなったのです。

 水戸家の小石川より合力金が出て、英勝寺はそれを貸金業として運用していたそうです。

 英勝院さまは、水戸の頼房さまの養母なのですね。

 1641年寛永18年、英勝院さまは病に倒れます。家光さまは側近中の側近を侍らせて介抱させます。

 寛永19年8月22日、英勝院さまは危篤となり、家光さまはかけつけようとなさいますが、夜中とのことで止められ、代わりに6人衆が参じます。
 翌日23日午前10時頃、65歳で亡くなりました。

 かつて水戸の頼房さまの側室に子どもが出来たときに、兄の所にまだ子が無いのを遠慮して、側近にその子を処分するよう言ったところ、困った側近が英勝院さまに相談。

 英勝院さまはその子を京都の重野井?という公家に預け、成人した時に常陸下館城主頼重となり、のちに高松城主となったそうです。
 高松松平家は、お勝さまを特別な存在として大切にしていたらしい。

 幕政を左右する溜詰めという存在は老中よりも重い存在で、その中でも発言力のある常溜とは
・高松松平家
・井伊家
・会津松平家
 だったそうです。

英勝院さまの墓碑は
・英勝寺(鎌倉)
・養厳院(日光)お勝さまの部屋子だったおろくさまの菩提寺
・妙法華寺(実家の太田家の菩提寺)
・法然時(高松松平家の菩提寺)

 の4ヶ所にあるそうです。

 また、英勝院さまは、家康が亡くなったあと、多くの側室たちを自分の養女にして、しかるべき家に嫁がせました。
 その人たちのことも、この「御事績」には書かれています。

おむう殿=土井利勝さまにお仕えして土井利房さまを生む。現在の甲斐守さまの祖母となる。

おしゐ殿=渡辺半兵衛様の奥方、源蔵さまの母上。

おたつ殿=織田武蔵守さま奥方。織田信濃守さま御祖母、当代の監物さまのひいおばあさま♪

 などなど。
 北条氏滅亡後、戦乱の世を生き抜いた一族の姫として家康の側室となったお勝さまですが、将軍家光を誕生させ、多くの人たちの世話をして、多くの人に愛され慕われた人らしい。

 まあ、その顕彰目的のためにまとめられたものなのですけどね。

 3回の講座は、これで終わりでした。

=歴史講座=
2013年12月4日
 歴史講座に行きました。テーマは
「民衆の生活と信仰
    ~歴史の中の女性~」

 というもの。千葉経済大学の菅根幸裕先生です。
 先生らしく、学生が寝ないようにかな?時々、大声で聴衆を喚起させます。
 そして、ご自分の家の古文書なども参考資料にしてくださって、すごく興味深い講座でした。
 へ~え、千葉にもこういう先生がいたんだあ~♪

 まずは日本史の教科書10社で共通する人物を調べると、圧倒的に女性の取り上げ方が少ない話。

古代(1192または1185まで=清盛くんが入るのね♪)
 男  117人   女  7人(女の天皇が多かったので)

中世(1603年まで)
 男  111人   女  3人(北条政子&日野富子&阿仏尼)

近世(1868まで)
 男  214人   女  2人(東福門院=徳川から京へ&和宮)

 特に徳川時代は家制度重視の儒教と女性は穢れているという仏教の影響で女性は重要視されなかった。

 そこで、資料として僧侶のテキスト台本「談義本」の中より、「近世往生伝」が紹介されました。

 三河国加茂郡本地村の加藤みとさん
 性格がまっすぐで人と諍いをせず、貞操を守り両親に孝養し、臨終の折には「転女成男」できたらしいのは、人知れず常によく念仏していたからだ。

 (女のままでは成仏できないので、死んだとたんに男になれて素晴らしい!)

 浄土宗では、1日3万回の念仏が勧められており、ほぼ不可能なこの行為は女性の思考回路を断つことになるそうです。

 ほかに、
・美人で祭りや盛り場が嫌いで念仏第一の人。
・流行のファッションは嫌いで夫が死ぬと5年間は引きこもり、その後は寺の説法を聞きに行って片隅にいて、ただただ後生を願って念仏ざんまい。

 など、江戸幕府は僧を使って女性を外に出さない教育をした。

 それから、2000年の東京新聞「こちら特報部」さんの紹介。

 日本で最後に残る女人禁制の山らしい、奈良県天川村の大峰山に、その前年、屈強な?大阪の女性たちが強行登山をしたその後、、、についての記事。

=大峰山は、紀伊山地の南北約50キロにわたって連なる標高1500~2000メートルの山々の主峰。
 奈良時代の山岳修行者・役行者が、671年に悟りを開き、修験道の基礎を開いたという。
 修験者は厳しい自然に身をさらし、滝に打たれたり、崖からの逆さ吊りなどの荒行を通じ霊験の感得を目指してきた。

 山頂一帯と登山道の周辺は洞川地区の入会地で
「霊山とともに生き、霊山を守るのは山を所有するものの務め」との思いが地元には脈々と息づいている。=

 実力行使のあとも、地元では「女人禁制」を貫いているそうです。

 「宗教上の理由ならば仕方ない」というのが、拒否される観光客女性たちの主な声らしい。

 それについては置いといて、
 民俗学上の女性の穢れ。

 高野山の真言に
「女月水産生=おんなはけいすいとさんとに
 血流穢おおき故に
 常にこの真言を念ずべし」
 というのがあって、今も使われているらしい。

 そんな穢れ多い女が、死産などをすると、穢れが重なったために極楽往生できないとされ、亡くなった産婦の髪、櫛、鏡、位牌などをお題目を書いた布などとともに川のほとりに置き、水をかけて穢れを払う場所「流れ灌頂」が、各地にあったそうです。

 また、お産も穢れとされ家に穢れがうつらないように「産家」で一人で子どもを産まされる、という風習もあったらしい。

 そんな迫害された女性たちの歴史を知ると、大峰山登頂の女性たちの気持ちも分かる気がします。
 しかし、以前は多くの山が女人禁制だったのに、皆解放されてしまい、今は一つだけ残ったお山だと思うと、残しておきたい貴重な文化遺産みたいな気もします。

 そうそう、女性は「七去」といって、おしゃべり、とかやきもち焼きとか、信じられない理由で「三行半」で離縁されてしまったけど、なかには「七行女房」といって、バツ2の女房を自慢する向きもあったらしい。
 でも、これも男の言い分なんだわね。
 七行亭主を自慢する女性は、いなかったのでしょう。
 ちょっとジェンダーに目覚めた私でした。

12月11日
 歴史講座の2回目。
 東京大学の本郷和人先生。
「古代後期の房総と両総平氏」の1回目で、まずは古代後期の日本の様子。

 藤原氏の摂関政治が終わりを告げる頃から。
 そうそう、本郷和人先生は昨年の大河ドラマ「平清盛」の時代考証をなさった方なのです♪

 死体を埋める習慣などなかった当時の京都の町を再現したら、「画面が汚い」とブーイング♪などなど・・・。

 なぜ摂関政治から院政になったかといえば

 後三条天皇は母が皇女だったので藤原氏の介入がなくて、自分の政治ができた。
 その皇子の白河天皇(伊東四朗さんね)がパワフルだった。

 ということらしい。

 中右記によれば
『白河上皇は、後三条院崩後、天下の政をとること五十七年(在位14年、位を避るののち43年)意に任せ、法に拘らず、除目・叙位を行ひ給ふ。
 古今未だあらず。
 威四海に満ち天下帰服す。幼主三代(堀河、鳥羽、崇徳)の政をとり・・・・
 聖明の君、長久の主と謂ふべきなり。但し理非決断、賞罰分明、愛悪掲焉にして、貧富は顕然なり。男女の殊寵多きにより、すでに天下の品秩敗るるなり』

 頼道の頃に摂関家の力がなくなり、荘園を守ってもらえなくなると、地主は天皇家に土地を寄進して守ってもらおうとする動きが強くなる。

 天皇家はトンネル会社として「寺」を作り寺の収入が天皇家に流れるようにした。

 のだそうです。
 おお~これを昨年の大河の前に知っていたら、もっとよくわかったのにな。
 こわいもんなしの白河上皇の怪演や、 
 たとえば京から鎌倉まで八条院さまの土地を通ってお手紙届けられたとかいう意味が。

 当時の土地への感覚って、
 頼朝が土地を与えるという下文も、まだ「管理する権限」を与える、という意味だったのですって。
 まだ、「土地は誰のもの」という意識がなかったらしい。











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