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第7官界彷徨
佐藤勝明先生の「おくのほそ道」
さて、NHK第2「古典講読」の時間の今年度は、松尾芭蕉の「おくのほそ道」です。先生は、和洋女子大学の佐藤勝明先生。初めてお聞きしましたが、なかなか深い良い感じの先生でした。
1回目
芭蕉は元禄2年(1689年)旧暦の3月27日(新暦5月16日)から、8月21日(新暦10月4日)に大垣に着くという曾良との旅をします。その後約2年間をかけて江戸に帰り、旅から4ねんほどのタイムラグののち、おくのほそ道の執筆にとりかかります。
上方に滞在中は「猿蓑」を編集。
*初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり
を巻頭に、その刊行を見届けて、江戸に帰ったらしい。
元禄6年、おくのほそ道の執筆に着手、何度も書き直したのち、その本を手に最後の旅に出ます。おくのほそ道は芭蕉がその晩年に勢力を傾けて作ったものだそうです。
芭蕉と同行した曾良は芭蕉より5歳年下で、筆まめな人だった。その彼の日記が昭和18年に発見され、その中には同じ日の克明な記述もあり、曾良書き留め(日記)により、おくのほそ道研究が進展しました。
出版技術が進歩した時代で、持つ人が限られる書き写した本から、大量に印刷できる木版の時代になります。芭蕉没後8年の元禄15年(1702年)に、おくのほそ道も上梓されます。(これは定本となった西村本)
平成8年、芭蕉自筆のおくのほそ道が発見されます。これは持ち主の名前から「中尾本」と呼ばれ、多くの張り紙と訂正がしてあるそうです。最初の本らしい。
次に、訂正後の中尾本をうつした天理本があり、それにも朱が入っていて、最終的に「そりゅう(そりょう)」の写した西村本になった。
芭蕉は、その表紙に「おくのほそ道」と帯箋(たいせんって、こういう字かな?)を書いて最後の旅に携えたらしい。芭蕉はこれを完成品と認めたとして、この西村本が今の定本となっているのだそうです。
おくのほそ道は、芭蕉が自分の理想とする形になるまで推敲を重ねたものらしい。曾良日記とは違う場面も多くあるらしい。
先生は、「芭蕉の気持ちとしては、比較しないで西村本だけ読んでくれればいい、と思っているのかも。しかし比較して、芭蕉がこの作品にかけた情熱を解読していきたい」とおっしゃられました。
最初の
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
も、早速、中尾本には張り紙があって訂正。もとは「立ちかへる年も」になっていて、旅とは出かけて再び戻るもの・・・という古今集など、昔ながらの考えがあった。しかし芭蕉は、家を売り払ってでかける旅に「再び戻る」はふさわしくないと考え訂正したのではないか、とのことです。
先生からは「これから行く手はるかな旅が待っています。ぜひとも同行してください。そしてそれが楽しい旅になりますように」と、聴いている人たちへのメッセージが♪
2014年4月13日
NHKラジオ第二、古典講読で「おくのほそ道」の2回目を聞きました。有名な冒頭部分から。
=月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。=
年も月も日も、時間はとどまることがない。出会いと別れを繰り返す人生そのもののように、時は旅人である。時は無常であるとして、これからの旅のイメージ・テーマをまず書いてあるらしい。
そして、
=舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅をすみかとす。=
職業として身近に旅を生活している人もいる。
おくのほそ道では、中国の文章や詩に多く使われている「対句」「縮約表現?」「縁語」をふんだんに使っており、ただの紀行文ではないことがわかる。
=古人も多く旅に死せるあり。=
芭蕉の尊敬する西行(1190年)、宗祇(1502年)。中国では杜甫、李白も旅先で亡くなっている。
=予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、=
芭蕉は「笈の小文」の旅から、元禄元年の8月に帰ってくる。そして留守にした芭蕉庵の蜘蛛の巣を払ったのです。そして半年もしないうちに・・・
=やや年も暮れ春立てる霞の空に白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、=
年もくれ春になりかすみのたなびく頃になると、「そぞろ神」「道祖神」不可思議なものに突き動かされるように旅への思いがつのります。
=ももひきの破れをつづり笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、
*草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸け置く。=
股引の破れをつづり、現実的な旅支度を行い、家も手放して「生きて帰れないかもしれない、それでもかまわない」という意気込みで杉風の別宅に移ります。
杉風は幕府や大名に魚を下ろす大商人で、今の清澄庭園のそばに別宅があったそうです。彼の説明が書かれていないのは、杉風といえばあの人、とわかる範囲の人が読者であったことが想像できる。
面八句は、その場に居た人たちが八句を作り、残りの白紙の部分はこれから書かれる、旅が始まるイメージか?
芭蕉は元禄2年に各地への便りで北への旅を連絡する。それにより、すでに旅程が決められたことがわかる。そしてまた、粗衣粗食の乞食のような行脚をしたいとも述べられているらしい。
最初は近所に住む風雅な乞食僧の「八十村露通=ろつう」と行きたかったらしい。ところが彼が江戸を去り(芭蕉と同行したくなかったらしい)曾良が同行します。芭蕉は曾良のマネージメント能力に助けられてこの旅を続けることができたのです。
風景との出会いをのぞみ、人との出会いを願う芭蕉の旅がはじまります。
2014年4月20日
今週のNHKラジオ第二放送、佐藤勝明先生の「古典講読の時間=おくのほそ道=名句でたどるみちのくの旅」は、「旅立」。
まずは日本の詩歌から俳諧が生まれるまで。文字がなかったので歌謡だった。
中国から文字が入り、うたを記すことが始まり、リズム的に5,7の繰返しに定型化されて、最後に余韻として7がつけられたらしい。万葉集には長歌と短歌ができ、旋頭歌もでき、のちに連歌もできたけど、室町の頃の連歌は高尚だったけど、庶民的なこっけいな連歌を俳諧連歌といって、江戸時代には大流行したそうです。
そして芭蕉さんも生まれたのです♪
では本文。
=弥生も末の七日、あけぼのの空朧朧として、月は有明にて光おさまれる物から、不二の峯かすかにみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。=
弥生も末の七日、というのは3月27日のこと。この年元禄2年は1月が2回あるうるう年だったので、この日は太陽暦だと5月16日で、晩春。
あけぼのの空朧朧として、は源氏物語の「帚木」の1節「月は有明にて光をさまれるものから」を引いてあるそうです。源氏を使ったのは、古典作品を尊重する気持ちらしい。和文の伝統を踏襲。
不二の峯・・・当時の江戸ではどこからも不二が見えた。花の梢は、きちんと読めば見えているとは書いてないが、イメージとして脳裏にある。
=むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住と云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそく=
親しいものたちが集まって舟で送ってくれる。千住で船から下りれば、これからの長い旅路を思い、はかないこの世を凝縮したようなつらい別れに泪する。
=*行春や鳥啼き魚の目は泪
この句は漢詩に近い発想で、幻想的な世界をかもしだしている。
=是を矢立の初めとして行く道なをすすまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと見送るなるべし。=
もう会えないかもしれないという気持ちが双方にあって、長い道のりを前に別離の泪にくれての旅立ちの様子です。
この句は、おくのほそ道執筆時に書かれたもので、最後の大垣の
*蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
と対になっているらしい。
今週はここまででした。大昔の教科書のメモには
『詩的イメージにあふれ、旅の話というものの、現実性にとらわれず、作品として書いた点に文学上の新しさがある』とありました♪
5月4日
「おくのほそ道」は草加の次の「室の八嶋」
東北・北陸の歌枕を訪ねる、というのがおくのほそ道の目的の1つでした。
室の八嶋というのは、歌枕=和歌に歌われた名所のひとつであり、平安時代、下野の国の山あいにあった煙の出ている場所、ということらしい。
藤原実方(清少納言なぎ子ちゃんのすごく親しい男友だちね♪行成とけんかして陸奥に飛ばされた。)のうた
*いかでかは思ひありとも知らすべし室の八嶋のけむりならでは
源俊頼のうた
*煙かと室の八嶋を見しほどにやがては空の霞ぬるかも
など多くの人が歌に詠んでいるのです。しかし、平安時代の歌人たちの見た室の八嶋(どこかわからない)と、芭蕉や今の私たちが見る室の八嶋は別物なんですって!
さて本文
=室の八嶋に詣す。同行曾良が曰く、「此の神は木の花さくや姫の神と申して富士一体也。無戸室に入りて焼給ふちかひのみ中に、火火出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申す。又煙を読習し侍るもこの謂れ也。」はたこのしろといふ魚を禁ず、縁記の旨世に伝ふ事も侍りし。=
というもの。芭蕉の見た室の八嶋は下野の国下都賀郡にある大神神社で、歌の世界のようなものを作ってあるらしい。この段で芭蕉の感想はなく、同行曾良の語る歌枕の伝承のみ書かれている。
曾良は岩波正庄右衛門正宇といい、芭蕉より5歳年下。上諏訪の人で神道を学んだのちに蕉門に入った人。ここで読者に「さりげなく物知りで神道にも詳しい」同行曾良の人となりを分からせる工夫もあるらしい。
曾良の説明の前部分が略されているのか、木の花さくや姫はニニギノミコトと一夜を共にしただけで懐妊したので、潔白を疑われ、天孫の子ならば火をかけても死ぬことはないと、出産の折り「無戸室=うつむろ=戸のない産室」に火をかけさせ、そこで産まれたのが火火出見=ほほでみのみこと。
曾良は伝承を語った上で室の八嶋の名前や「煙を詠みならはすのもこの謂れ、と解説。
また、このしろという魚は焼くと死人の臭いがするということで、食べるのを禁じる場所もある。--縁記のむねーー曾良の話を聞いて余が書き加えたもの。
このしろの伝承は、許婚のいる一人の美女を国守がほしがったので、両親は棺にこのしろを入れて焼き娘を守った=子の代=その美女が木の花さくや姫と変化した例もある。
この段は、旅に出て最初の歌枕の実態を知った芭蕉のどう書きようも無い気持ち。(なので書いていない)曾良の語りによってさまざまな伝承を知り、目の前の姿だけでなくその土地の持つ記憶を感じ取っていくのも旅の大きな意味だと思ったり、、、、のスタートらしい。
この段に芭蕉の句はないけれど、曾良日記にいくつかメモがあるらしい。
*あなとうと 木の下やみも 日の光
など。日光の句に似てますね。それにしても、歌枕の最初が作り物だった、という芭蕉さんのがっかり観・・・人間的で楽しいですね!
5月10日
俳諧人口が増えた1647年、季題の解説書「山之井」が出版されます。これは歳時記のはしりともいえそう。これを書いた北村李吟という人は、芭蕉が師と仰いだ人なんですって。
たとえば「春雨」はうそさびしくしずかに長々と降る、なんて書いてあって
*降り来るは さしあしなれや 春の雨 (ぬきあしさしあし)
*春雨は 花をうちでの 小槌かな
*春雨や 四方の霞の しぼり汁 (見立て、頓知)
などという例句が載っているそうです。
さて、本文は「佛五左衛門」
『三十日日光山の麓に泊る。あるじの云ひけるやう、「我名を佛五左衛門と云ふ。萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まま一夜の草の枕も打ち解けて休み給へ」と云ふ。いかなる佛の濁世塵土に示現して、かかる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとどめてみるに、唯無知無分別にして正直偏固の者也、剛毅朴訥の仁に近きたぐひ、気品の清質もっとも尊ぶべし。』
三十日に日光の麓に泊ったと書いているが、この年には29日までで30日はなかった。曾良の日記によれば、28日、栗橋の関所を抜けて「ままだ」に宿。29日、小山、飯塚、室の八嶋、鹿沼に宿。4月1日、日光東照宮に参詣して五左衛門の宿に泊る・・・となっている。
芭蕉は、30日でこの月も完全に終わったと強調し、「安心して休めという」五左衛門が、正直一途な人と思い、乞食順礼のような修行者に似た自分たちの前に仏が現れるとは、何と幸先の良い・・・それは悟りを開いた仏ではなく、ただ無知無分別の大愚の存在であっても、生まれついた清らかな気質はなんといっても尊ぶべき存在だ、と、思うのです。
この段には仏教、儒教、老荘思想が出ているが、江戸時代は異なるものの中に共通性を見つけて、どれも良いものだ、という考えが一般的だったらしい。その考えは芭蕉の中にもあるそうです。
そして月も改まった4月1日「日光」
『 卯月朔日、御山に参詣す。そのかみ此の御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時日光と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此の御光一天にかかやきて恩澤八荒にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏なり。猶はばかり多くて筆をさし置きぬ。
*あらたふと 青葉若葉の 日の光 』
特別の日である朔日に日光に参詣する。(架空の30日を設定して)
日光の名にふさわしく、恵みは隅々まで行き渡り、人々は平安に暮らしている。(徳川家と御山全体に対して)恐れ多いので筆は差し控えるけれども・・・。
ここで、3月から4月・・・・春から夏へ
俗世の善人から・・・・尊い日光へ の鮮やかな対比が見られるらしい。おくのほそ道にかけた芭蕉の熱意のほどがうかがえますね!
5月18日
では毎週恒例、NHKラジオ第2、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」。
かけことば、見立て、古典的知識など17音の中に複数のイメージを入れている貞門俳諧などの紹介をするのは、芭蕉がこれをどうやって乗り越えたか、も、この講座のテーマだから、だそうです。
まずは、俳諧の歳時記ともいえる北村季吟の「山之井」より「さみだれ」。
「さみだれ」とは、山の中の寺も水辺の楼台のようになり、宮城も竜宮城のようで、庭の松の木は海草ふう、井の内の蛙も大海を知り、しょろしょろ川も大井川みたいで、雲の波は軒を浸して晴れ間もなく降り続く体を言い表す」・・・というような説明。こういう例句つき。
*五月雨は大海知るや井のかはず 貞徳
*五月雨や山鳥の尾の(しだらでん?大雨や大風のさま) 慶友
では、本文
『黒髪山は霞かかりて雪いまだに白し。
*剃捨て黒髪山に衣更 曾良
曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま象潟の眺ともにせん事を悦び、且つは騎旅の難をい たはらんと、旅立つ暁、髪を剃りて墨染めにさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。よって黒髪山の句有。衣更の二字力ありてきこゆ。』
ここも歌枕の地であり、山の雪を見て歌枕の世界を眼前の事実として確認。
*ぬば玉の黒髪山に雪降れば名も埋もるるものにありける(山が雪に埋もれてわからなくなるように、その名も埋もれてしまう?)源俊頼のうた。
曾良は河合氏で通称惣五郎といい、芭蕉の下に隣り合うようにして住んで、日常生活の助けをしてくれている。そして、松島、象潟の旅にも美しい景色を共に楽しむ仲間であり、またきびしい旅の援助者でもある。
旅立つにあたり、髪を剃って法体=ほったいに変え、名前までを宗悟に変えて僧らしくして、予の旅にどこまでも寄り添う覚悟の曾良。この句は、髪をおろして旅に臨んだ曾良の決意の現れである。
髪を剃り捨て旅立った私が、この黒髪山についてみれば、世間は衣更の時期なのだった。
僧衣に変えた、のと季節的な衣更、のダブルイメージが句の中にあるのです。
『二十余丁山を登って瀧あり。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧湛に落たり。岩窟に身をひそめ入りて瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳え侍る也。
*暫時は瀧に籠るや夏の初 』
少し山を登ると瀧があった。岩山の頂上から流れ落ち青みどりの滝つぼに落ちていく。岩穴に身をひそめて入ると裏側から見られるので、裏見の瀧と云われているそうだ。
夏籠り=夏行=ゲアンゴ=一夏(いちげ)。旧暦の4月16日から7月15日まで、僧侶が1箇所に集まり夏の行をする・・・・この夏のはじめに瀧の内に入っ た私は、しばし瀧にこもった・・・私なりの夏行のはじめなのです=これから修行の旅もはじまるのです・・・曾良の決意に呼応する「予」の思い。
5月25日
今週のNHKラジオ第二放送、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、那須でした。まずは、季吟の山之井の「五月雨」の実用句。
貞門俳諧
*五月雨はしょうぶ刀のとみずかな (とみず=研ぎ水)
*五月雨は道行く馬もあしかかな (あしか=海馬)
*五月雨は屋根にも谷の流れかな
*五月雨は瀧の糸だすといやかな (瀧のように糸を出す問屋)
談林俳諧
*五月雨に世界や水の器(うつわもの)
*五月雨や世界の飛び石富士浅間
(物の捕らえ方がユニークでちょっと新鮮)
ともあれ、山之井の知識は庶民にとって大切なものだった。芭蕉は貞門から談林、そして自らの独自のものを編み出していく・・・・。
では本文「那須」
=那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかかりて直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に雨降日暮る。農夫の家に一夜を借りて明れば又野中を行。=
那須の知人をたずねるため日光を発って那須野を越えて直線を進んで行こうとする。曾良日記では、雷雨の中を歩き、2日の夜、玉入に泊まる。宿悪しき故、無理に名主の家に泊まったと書いてあるが、「農夫」の家のイメージへの思い入れがあるらしい。
=そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。
「いかがすべきや、されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえんあやしう侍れば、此馬のとどまる所にて馬を返し給へ」とかし侍りぬ。
ちひさき者ふたり馬の跡したひてはしる。獨は小姫にて名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ
*かさねとは八重撫子の名成べし 曾良
やがて人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。=
野に放たれた馬がいるので、草刈の農夫に「嘆き寄る」と、彼は自分はついていけないが、この野は縦横に別れて、初めての旅人なら道を間違えてしまうのが心 配だ。この馬を貸すので、馬に乗っていきなさい。馬が道案内をするので、馬が止まったところで返してくださいと、貸してくれる。
幼い子どもが馬を追ってついてくる・・・おくのほそ道のこの場面を愛らしく思う人は多く、蝶夢という人の芭蕉翁絵詞伝?にも取り上げられているそうです。
曾良は芭蕉が少女の名を聞いて感じたことを句に詠みます。芭蕉とものの考え方が一致する人物なのです。
*かさねとは八重なでしこの名成べし 曾良
なでしこは、古来より子を撫でる、慈しむ、というイメージがあり、山之井には「なでしこは幼い子をいつくしむことにつかわれる」と書いてあるらしい。
では、昔の教科書に書いてあった私のメモ(句そのままだけど、一応松尾聡先生ね♪)
=この子は、田舎には珍しく優雅な「かさね」という名をもつ。子どものことをなでしこに例えるが、かさねは、八重なでしこの名でありましょう。=
集落についたので、馬の借り賃を鞍つぼにつけて馬を帰したのでした。さまざまな人との良い出会いに恵まれた旅のイメージができてきました。
6月1日
さて、今週のNHKラジオ第二放送、古典講読の時間「おくのほそ道」は、黒羽でした。日光のときに黒羽に知人がいるって書いてあった人。
俳諧の先人たちの編み出した、発想や句の型(構造)を受け継ぎながら、自分の句を生み出していく芭蕉。
次回からは芭蕉の句の説明なんですって。
さて「黒羽」本文は
=黒羽の館代浄法寺何がしかの方に音信る。思ひかけぬあるじの悦び、日夜語つづけて、其の弟桃翠など云が朝夕謹とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ日をふるままに、ひとひ郊外に逍遥して犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。
それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、別しては我が国氏神正八まんとちかひしも、此の神社にて侍ると聞ば、感応殊しきりに覚えらるる。暮るれば翠桃宅に帰る。=
館代は、主の留守を預かる人。城代ともいうが、黒羽は城がなかったので「館代」と呼ばれたらしい。彼は芭蕉の門人らしい。号を秋烏や、桃雪と言ったらしい。その弟の翠桃が、より芭蕉に親しかった。
曾良日記では最初に弟の翠桃宅を訪ねているが、作品では最初に浄法寺に、と書かれている。館代の兄を立てる演出らしい。
桃の字は、芭蕉の初期の俳号に使われている。
曾良日記
『3日・快晴。玉入を立って矢板、沢村、大田原を経て翠桃宅へ。
4日・浄法寺へ招かれる
5日・雲岩寺見物。 6日より9日まで雨やまず。9日・光明寺へ招かれる。』
2人は、この伝承の多い地で歴史散歩をするように遺跡を訪ね歩き、14泊を過ごします。
犬追物は、三浦介や上総介が、練習のために行ったという、その跡を見物し、
那須の篠原は、実朝のうたに
*もののふの矢並(やなみ)つくろふ籠手(こて)の上に霰(あられ)たばしる那須(なす)の篠原(しのはら)
と、あるので那須野を訪ね、玉藻の前の伝承の古い塚を訪ねます。それから那須八幡宮を訪ねます。那須与一が平家とのいくさの折に扇の的を射たときに祈ったという伝承がこの宮であるかと思えば、この神社の霊験をことのほか感じる芭蕉なのでした。ここで、義経に関わる逸話が出てきたのです。
本文つづき
=修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。
*夏山に足駄を拝むかどで哉
光明寺は山伏の寺であり、浄法寺一族の親族なのでした。では、昔の教科書のメモにあった松尾先生の句の解釈。
=遠く仰ぐ陸奥の夏山への門出に、行者にあやかりたいと思ってその足駄を拝むのです=
6月8日
さて、土曜日のNHKラジオ、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、雲岩寺でした。まずは若い日の芭蕉の句。
知識と理屈の貞門俳諧を踏襲した27歳の頃です。伊賀上野の頃。
*五月雨も瀬踏み尋ねぬ見馴川(1670年)
桃青という名で談林俳諧の頃
*五月雨や龍灯上ぐる番太郎 (1677年)
*五月雨に鶴の足短くなれり (1681年)
この頃、踏まえているのは、中国の荘子などの無為自然の考え、だそうです。次回も芭蕉の五月雨吟の変化を教えていただけるらしい。では本文。
「雲岩寺」
『雲岩寺のおくに、仏頂和尚山居跡あり。
*堅横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば
と松の炭して岩に書付侍り、といつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岩寺に杖を曳けば、人々すすんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼の麓に至る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に松杉黒く苔したたりて、卯月の天今猶寒し。十景尽くる所、橋をわたつて山門に入る。
さてかの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死闘、法雲法師の石室をみるがごとし。
*木啄も庵はやぶらず夏木立
ととりあへぬ一句を柱に残し侍し。』
曾良日記によれば、黒羽についた芭蕉は、まずは雲岩寺に行ったのだが、最後にして1つの章とした。知人の仏頂和尚の旧居をたずねたのです。
仏頂和尚は鹿島の人で、鹿島神宮との間に寺領の争いが起き、その裁判のために深川の芭蕉の近くに住んでいた。1682年勝訴し、その後は各地を回ったそうです。
雲岩寺で歌を書き付けた、という話を和尚本人から聞いた芭蕉は、そこを訪ねることも旅のコースに入れていたらしい。歌は=小さな草庵だけれど結んだのも悔しい。雨さえなかったらこのようなものは必要ない、野宿で十分なのに=という意味らしい。
芭蕉がその跡を尋ねようと杖を手に出かければ、人々は自ら同道を申し出、若いものも多く、わいわいとあるいているうちに麓についてしまいました。(土地の人たちとの楽しげな交歓模様)
山は奥深く、4月の時候なのに寒い。五橋、三井など十景を見尽くした先に、橋を渡って山門に入ります。その庵の跡はどこかと、後ろの山によじのぼると、その上に草庵が岩に結ばれて作られていました。
それは中国の妙禅師や法雲法師の苦闘の石室のようだったのです。俗世から切り離された雲岩寺の有り様に、これが仏頂さんの話していた庵なのか。ここに滞在し、この庵さえ余分なものとして立ち去ったのか・・・と、芭蕉は感銘を受けたのです。
では、句の解釈を、昔の教科書の松尾先生の聞き書きメモより♪
『この草庵は鬱蒼とした夏木立に囲まれて静まりかえっていて、木啄が木をつつく音のみ響いているが、木啄もさすがにこの草庵は破れないとみえて、昔を偲ぶことができる』
と、即興で詠んで柱に残したのでした。
2014年 6月15日
では、今週のNHKラジオ第2放送、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」。今、NHKBSで、カーネーションの前に「日めくり・奥の細道」を放映始めたので、前も見たけど楽しみにしています♪
まずは芭蕉の五月雨句の変化。
芭蕉は貞門でさまざまな知識をよく学び、壇林での知識や詠み方を学びつつ、それを脱しようと新たな方向を模索した、、、。その3句の紹介。
1681年 *五月雨や鶴の足短くなれり を作った以降五月雨句を作らなかった。
1687年 3つの五月雨句を作る
1・五月雨や桶の輪切るる夜の声
(この7,8年間で芭蕉の句が変化したことがわかる。五月雨は~哉、にならない。因果関係もない。これは
森鴎外の*五月雨の畳くぼむやひじまくら
漱石の *目を病んで灯ともさぬ夜や五月あめ に通づる、らしい)
芭蕉の2・髪生えて横顔青し5月あめ (鏡で自分の顔を見て)
3・さみだれに鳰の浮き巣を見に行かん (五月雨に琵琶湖も増水しているだろう)
(芭蕉は先行作品を踏襲せず、自らの感覚を研ぎ澄ました新たな五月雨句の境地を開いた・・・らしい)
では本文「殺生石・遊行柳」
=是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此の口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望み侍るものかなと、
*野を横に馬牽むけよほととぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝉のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。=
予は雲岩寺を発って殺生岩を訪れる。館代が馬を用意して送ってくれた。この馬を引いている男が「短冊に句を書いてください」と願うので、意外な人から意外な依頼を受け、予は「これは風流なことを望むものだなあ」と面白く思い、早速
*ほととぎすが一声聞かせてくれたから、どうぞそちらに向かってください
という句を詠んで渡したのです。(本文にほととぎすは出ていないが、文章と俳句でおくのほそ道は成立している。「ほととぎす」は和歌の重要な本意でもあり、馬方の風流心に風流で応えた芭蕉さん!)
殺生石は出湯の出る山陰にあり、蜂や蝉などの死骸が無数に落ちています、そこで謡曲「玉藻前」のことを偲んだのでした。
本文= 又、清水ながるるの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡主、戸部某の、此柳みせばやなと折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにや、と思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍りつれ。
*田一枚植て立去る柳かな=
西行の歌に
*道のべに清水ながるる柳かな(そのすずしさに)しばしとてこそ立ち止まりつる
という、その柳は、蘆野の里にあって田の畔に残っていました。予は、謡曲でこの柳のことを知っていたが、それとは別に、この地の郡主の戸部某という方が、(湯島に江戸屋敷を構え、桃酔という名で芭蕉の弟子でもあった)「この柳を見せたい」と常づね話しておいでだったので、いつの日にか、と思っていたその柳の陰に立つことができたのです。
(西行はこの歌を画で見て詠んだのだが、のちに謡曲「遊行柳」により、この場所だと特定されたらしい。郡主は漢の官名・戸部、は唐の官名であり、身分の高い人をはばかってわざと中国の官名にした、という説と(本当は戸部さんは民部さん)役職も特にこだわらなかった、という説があるらしい。)
*田一枚植えて立ち去る柳かな (西行のように、柳の陰で時を過ごしていたのだなあ)
そこで、この句の中の主語が4つ考えられるという。
あ・植えるのも立ち去るのも 早乙女
い・植えるのも立ち去るのも 自分
う・植えるのは 早乙女 立ち去るのは 自分
え・植えるのも立ち去るのも 柳の霊 =謡曲のイメージ
芭蕉には、1句のなかで主語が変わるものもけっこうあるそうです。それらを踏まえ、佐藤勝明先生は、西行と同化したように、予も少なからぬ時間=1枚の田が植え終わるほどの、を過ごした、という意味で「う」を採るそうです。
松尾聡先生の昔のテキスト(岩波文庫)の昔の私のメモにも、
「早乙女が」田一枚植て「芭蕉が」立去る柳かな・・・・と書いてありました♪
2014年6月22日
さて、今週のNHKラジオ第二、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、白川の関でした。まずは芭蕉の五月雨句より。
貞門、檀林の句を越えて、1687年の五月雨3句で、芭蕉は新たな詠み方を作り出していきます。
そして1688年の作 *五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
(貞門・檀林の、五月雨とはこうこう、こういうもの・・・から離れて全てを隠す雨、それでも隠れない瀬田の大橋)
元禄4年・1691年 *五月雨や色紙へぎたる壁の跡
(落柿舎をたずね去る折に。五月雨と壁の因果関係はないが、どこか物憂いけだるいさびしい気分を)
元禄7年・1694年 *五月雨や蚕煩う桑の畑
(島田宿にて。病気の蚕が桑畑に捨てられている。陰鬱な五月雨の景色)
では、「白川の関」
この関は5世紀、北方の防衛の拠点だったがのちに縮小。西行の頃は関屋が残るのみ。中世には土地の豪族の手で私的な関がいろいろな所に作られ、芭蕉のときは場所も不明になっていた。1世紀のちに松平定信が旗宿を白河の関と定めた。
芭蕉と曾良は、20日湯本を去り、遊行柳を見て、白川の関がそこかと、関の明神を尋ね、2つの社にお参り、それから旗宿に行き、翌日は宿の主人からここかもしれない、と町の西の明神を教えられ、そこにも行く。
関についての情報は錯綜し、芭蕉もよく分からないまま、あちこち探索。
しかし、本文では、どこをどう訪ねたか、には触れない。白川の関に来たら旅心は定まる。なぜなら、多くの先人がここを通り、歌を詠んだ場所。陸奥の入り口のこの関には言い知れぬ力があるのだ。芭蕉はいくつもの歌を心に浮かべる。
本文「白川の関」
=心許なき日かず重るままに、白川の関にかかりて旅心定まりぬ。いかで都へと便求めしもことわりなり。
(平兼盛 *便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白川の関は越ゆると)
中にもこの関は三関の一にして風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し
(能因法師 *都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関)
紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれなり。
( 源頼政 *都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関)
卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。
(藤原季通*見で過ぐる人しなければ卯の花の咲けるはじめや白河の関=この歌が元になって、卯の花=白河のイメージが出来上がる)
(印性僧都 *東路の年も末にやなりぬらん雪降りにけり白河の関=雪の白河のイメージも出来る)
古人、冠を正し衣装を改めし事など、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
*卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曾良』
本文には書かれてないけど、芭蕉さんの頭を横切るこうした古歌の数々。眼前に見えるもの、見えないもの(紅葉や雪景色)、古人たちの思いを自らのものとして、予はここを通り過ぎるのだ!
1685年、清輔の「ふくろ草子」の版本が出版され、芭蕉もそれを読んでいたと思われる。この中に、竹田太夫という人が奥州下向の折に白河の関を越えるときに、衣類を着替えて行ったという。能因法師の歌に詠まれた白河の関を、どうして普段着で越えられようか、と。
白川の関で芭蕉は幾つか句を詠んだが、思いを同じくする曾良の句を、おくのほそ道には採用!
自分たちは卯の花を傘に飾って、それを関所の晴れ着にしました、という句。
何気なく、美しい言葉の連なっている白川の関だなあと思って読んでいましたが、こういういろいろな歌が含まれていたんですね。深くて素敵なおくのほそ道!
全然記憶にないけど、松尾聡先生の授業メモに
*別れにし都の秋の日数さへ積もれば雪の白河の関=大江貞重=続後拾遺集 というのがありました。白川の関の書き出しのところの「日数」は、この歌、ってことでしょうか?
6月28日
佐藤勝明先生のおくのほそ道は、須賀川でした。
まずは松尾芭蕉の生涯から。
彼は寛永21年ー1644年、伊賀に生まれました。この年は12月16日に正保元年になったそうです。父は松尾与左衛門。禄はないが士分で、普段は農業をし事あれば戦いに出る無足人=郷士の身分。父亡き後は兄が松尾家を継ぎます。姉が一人、妹が3人いて、のちに末の妹が兄の養女となり、松尾家を継いだそうです。
この次男という立場が自由に動けたということらしい。
幼名、金作、長じて宗房となる。明暦2年、1656年、13歳の時に父が亡くなります。
宗房は藤堂家に使え2歳上の若殿、良忠の近習となります。良忠は蝉吟という俳号を持ち、宗房はその影響で俳諧を知ります。
寛文4年、1664年、21歳のときに発行された「小夜中山集」に、蝉吟とともに宗房の句も記されているそうです。もっとも古い芭蕉の句です。
*姥桜咲くや老後の思い出 (謡曲「実盛」からの引用)
*月ぞしるべこなたへいらせ旅の宿 (謡曲「鞍馬天狗」から)
2句とも謡曲からなので、芭蕉はよほど謡曲が好きだったのか、と思われるが、当時の人は今のカラオケのように謡曲をたしなんでいた。
かつて藤原俊成は「源氏読まぬ歌詠みは遺恨のことなり」と歌の極意を語ったが、「謡は俳諧の源氏」とされていたそうです。
藤堂家の若君にかわいがられ、宗房は自らの人生が開けていくのを感じていたが、1666年、良忠が25歳で病死してしまいます。宗房落胆!もし、良忠が生きていたら松尾芭蕉は生まれなかっただろうといわれています。
芭蕉は京の北村季吟を俳句の師としていますが、彼は高い身分の人だけを対象にしており、藤堂家の若君がいたからこそ近づける存在だったらしい。
藤堂家の料理人などをしながら、1672年、29歳の宗房は自分と友人たちの発句を合わせて三十番発句合「貝おほひ」を作り、生家のそば、伊賀上野の菅原神社に奉納します。その勝ち負けの判定は宗房が行っていて、彼は上野では一流の俳人になっていたのです。
「須賀川」
=すか川の駅に等躬といふものを尋て、四、五日とどめらる。先、白河の関いかにこえつるやと問。長途のくるしみ心身つかれ、且は風景に魂うばはれ懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流の初やおくの田植うた
無下にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつづけて三巻となしぬ。=
4,5日と書いているが、実際は7泊したそうです。等躬は、相楽伊左衛門といい、芭蕉より6歳年長。芭蕉が俳諧の宗匠になったときに力になってくれた人で、因縁浅からぬ人なのです。
白河の関をどうやって越えたのですか?(どんなふうに、どんな句を詠みながら)と聞かれ、予は「長旅に苦しみ疲れて詠めなかった。かつ、風景にすっかり魅了され、昔を偲ぶ思いで胸がいっぱいになってしまった。」と答えます。
ここには、謙遜もあるが、絶景に臨み心奪われて詠めなくてもそれはそれで大切なことだとも言っている。
そこで挨拶句として一句を詠み、これを初めにして3人で36句を詠み合います。
発・芭蕉・風流の初やおくの田植歌 (陸奥で最初に聞いた風流が田植歌でした。労働歌の中に、和歌と同等の格を見出した芭蕉。)
脇・主人・覆盆子を折て我まうけ草 (何もないが苺を摘んで田舎のおもてなし)
第三・曾良・水せきて昼寝の石やなをすらん (水をせき止めて枕の石をなおそう)
これからえんえんと句が続いたらしい。旧知の人との楽しいひと時です♪
7月6日
まずは芭蕉の生涯について先週の続き。
芭蕉忍者説がよく言われるが、佐藤勝明先生は、その可能性は薄いでしょうと。歩く速度や距離にしても、当時の人は交通の手段としてそのくらいは歩いた。伊賀上野出身ではあるが、芭蕉は郷士の出で、そういう方面にはそぐわない。曾良は芭蕉の死後、「幕府の巡検使随行」になっているが、それも時間が経ってから。
人間である以上、いろいろな側面があるだろうが、芭蕉の人生は、俳諧に費やされたと見るべきであろう、とのことでした。
寛文12年、1672年、29歳の宗房は「貝おほひ」を故郷の菅原神社に奉納。これを期に俳諧で生きることを決め、江戸に下ります。これ以前を貞門の時代。
藤堂家では藩を出る場合、5年ごとに帰国する決まりがあり、芭蕉は1676年に帰国していることが、江戸下りの時期を知る手がかりに。
宗房は日本橋の、北村季吟の門人小沢太郎兵衛を頼ります。俳号「徳入」。その息子はのちに「卜尺=ぼくせき」という俳号で芭蕉の弟子に。
芭蕉はこの人に連れられて杉山杉風を知ります。藤堂家、季吟との関係が宗房を助けます。
季吟と芭蕉との関係、芭蕉の江戸下りの時期を推察するのに「埋もれ木伝授」というものがあり、これは1673年に刊行された季吟の伝授であり、内容は「この書は家伝のものだが、俳諧の熱意が並々でないので、書き写すことを許す」というもの。1674年3月17日の署名があり、宗房生、と書いてある。これが芭蕉なら、季吟のお墨付きを得たことになる。
芭蕉が寛文12年1672年に東下したことの整合性は
1・江戸から京に伝授を受けに行った。
2・伝授を受けたのちに江戸に下った。
3・伝授に疑いあり。箔をつけるためのもの。
などが考えられているらしい。
芭蕉は江戸で「素堂」という終生の友人もできます。彼は季吟の同門で漢文にも通じていました。
延宝3年、1675年頃、名前を桃青と変え(李白を意識?)大坂から江戸に下ってきた西山宗因の句会に参加、檀林俳諧に傾倒していきます。その頃の桃青の句。
1675年正月*天秤や京江戸かけて千代の春
1677年 *あらなんともなや昨日は過ぎてふくと汁
1678年延宝6年 *かびたんもつくばはせ(平伏させる)けり君が春
1678年 *塩にしてもいざことづけん都鳥
桃青を名乗るようになって、大胆な調子の良い楽天的な句をよむようになった。
では本文「須賀川」つづき
『この宿の傍らに、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧あり。橡(とち)ひろふ太山もかくやと閑に覚へられて、ものに書付侍る。其詞。
栗といふ文字は西の木と書きて、西方浄土に便ありと。
行基菩薩の一生杖にも柱んも此木を用給ふとかや。
*世の人の見付ぬ花や軒の栗』
須賀川の宿の外れに大きな栗の木陰に住む人がいた。等窮の俳諧仲間で可伸と言う人。俳号は「栗井」。予は西行の歌を思います。
*山深み岩にしただる水とめんかつがつ落つる橡拾ふほど
予は其の生き方を理想と思い、彼の精神性の高さは西行と同じものだと感じ、深い感銘を受け、次のことを書付ました。
=栗という字は西の木と書く。西といえば西方浄土。行基菩薩も杖や柱にこの木をお使いになったということだ。
*軒の栗は、世間から忘れられながらも、自らの生の証を、小さい花に結実させている。世の人の問題にしない花を軒に植えてその木陰に住んでいる、床しい人であることだ。
その時の句。
*隠家やめだだぬ花を軒の栗 芭蕉
*稀に蛍のとまる露くさ 栗井
*切りくづす山の井の井は有ふれて 等躬
*畔つたひする石の棚はし 曾良
彼らはこのあと石河の滝を見に行こうとしたけど、水かさが増して見られなかったらしい。文化的な楽しい旅は続きます♪
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