アルバム売りさん

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ヒトの気もしらないで('08/3)


 あれは、風の強い日のことだった。いつもの木の根元で、紙を糞の上に置いた時、一陣の風が吹いて紙がふわっと舞い上がった。紙をつかもうと立ち上がった瞬間、私は、ホワイトの首輪につなげて握っていたリードを、うっかり離してしまった。数歩歩いて賢者ホワイトは、自分が自由の身であることを悟ったようだ。慌てた私が、あ、と叫んだのが、ホワイトには、ヨーイドンに聞こえたのだろう。ホワイトは走った。
 ミニチュアダックスのホワイトは、短足のくせに俊足だ。私は彼の全力疾走についていくことができない。ホワイトは、あっという間に公園を出て道路へ。30m先の車止めを越えたら大変だ。車の運転席から子犬の姿は見えないし、自転車のチリンチリンの意味をホワイトは知らない。出会い頭に子どもに踏んづけられるかもしれない。血を流し傷ついて横たわるホワイトの姿が浮かぶ。ほんの2秒間程で、文字にすれば長編小説が書けそうなくらいのよくない結末が、私の頭を占拠した。私は走り出した。
「ホワイトー!」
 私が叫ぶと、ホワイトは薄茶色の体毛を陽光に光らせて走りながら、チラとこちらを振り向いた。その表情を見て、私はハッとした。笑っていたのだ。早く早く、こっちこっちと、ホワイトは遊んでいるのだった。そしてもっとスピードをあげた。ほとんど悲鳴に近い声で、走りながら私はもう一度呼んだ。やはりホワイトは楽しそうに振り向いた。車止めは、あと5mに迫っていた。
「そうだ!それならば…」
 私は、走るのをやめ立ち止まった。すると、ホワイトもピタリと止まった。やはりそうだ。ホワイトは、追いかけっこをしていたのだ。私は笑顔をつくり、振り向いたまま立ち止まっているホワイトと目を合わせた。膝を折って徐々に体を低くしながらゆっくりと近づき、やっと手が届くというところまで来て、さっと素早く手を伸ばした。抱きしめた私の腕の中で、ホワイトは暴れた。きっと追いかけっこの続きがしたかったのに違いない。
「ああ、ホワイト」
 構わず私はもう一度、小さな体をぎゅっと抱きしめた。ハァハァと息の荒いホワイトが、いつもより少しあたたかいような気がした。


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