明日の風

明日の風

兄の事


( 1 )
凸凹(兄)から荷物が届いた。
頼んでおいた保険証とバァちゃんの好きそうな食べ物やお菓子が入っていた。
少しのお金もね。
バァちゃんの年金額からしたら微々たる物だけど。

バァちゃんはうちに来て五年になるが住民票は移していない。
凸凹がバァちゃんをうちへ連れてきた時は、こんなに長くうちに居るとは思ってもみなかった。
だって毎年のように今年一年持つかどうかと言っていたのだから。
大げさな血筋なので話半分に聞いてはいたけど。

バァちゃんは子育てが下手だった。
虐待とか放任ではなくて自分の思うように育てようとした。
子供のためを思っていたのだろうけど叱咤激励型で子供にはしんどかったなぁ。
私はそれでも良い子のふりをしていたけど、凸凹は最初から良い子のふりなんかしなかった。
家の中で凸凹はいつも叱られ、良い子のふりをしていた私は凸凹にいじめられていた。
そんな兄妹が仲が良いはずはない。

父は優しい人だったが凸凹には落胆していた。
今思えば凸凹には家に居場所がなかったのだ。
それでもバァちゃんは凸凹を愛していた。
凸凹の不始末をいつも尻拭いしていたし、凸凹も怒られながらバァちゃんに甘えていた。
凸凹は結婚もせず、好きな時だけ仕事して本ばかり読んで暮らす人間になった。
親が元気な時はそれでも良かったが、介護が必要になるとそうはいかない。
それでも二・三年は頑張ったのだと思う。
そのうち糖尿病になりバァちゃんをうちへ連れてきた。
仲の悪い妹に頭を下げる事もできず、逆切れして帰っていった。
住民票も年金も保険証も渡さずに。

( 2 )
私はバァちゃんが苦手だったが凸凹(兄)はもっと嫌いだった。
世の中で関わりたくないタイプが自分の母と兄だなんて。
父は好きだった。
温厚で寡黙で、家の中で父が居る事でバランスを取っていた。
謹厳実直型の父だったので兄には冷ややかだった。

それでも父が癌になった時凸凹が世話をした。
私も遠距離介護に通ったけれど一ヶ月に数日が精一杯で、大半は凸凹が看ていた。
私は大事な父の時も心の中で逃げていたのだ。

私が凸凹を嫌っている事を何よりも凸凹は感じていたと思う。
凸凹も多分私が嫌いだ。

バァちゃんを押し付けられて私は凸凹と縁を切った。
自分からは電話もしないし、寂しがりやの凸凹がバァちゃんの声を聞きたがっても電話に出さなかった。
実際混乱して田舎に帰りたがっていたから、凸凹の電話なんか聞かせたらあとが大変だったからね。

一年間は介護サービスも受けず一人で頑張ったが、介護サービスを受けるためには凸凹の協力が必要だった。
二年目からは介護サービスを受け、一ヶ月に一度バァちゃんの近況を知らせ請求書も一緒に送った。
凸凹からは母の好物とお金の入った小包が送られてくる。
そんな付き合いがもう四年も続いているのだ。

人を憎んだり恨んだりすると自分が疲れる。
バァちゃんを持て余し凸凹を恨んでいた頃は悲惨だった。
生きていくのが辛かった。

バァちゃんも凸凹も私も似ていないようで結構似ているところもある。
自分の事しか考えられないところだ。
他人に厳しく自分に甘い。
上手く行かないのは相手のせいにしていた。

バァちゃんとの暮らしの中で少しずつ私が変わり、バァちゃんも可哀そうだと思えるようになった頃バァちゃんも穏やかになった。
私の中にあったトゲが抜けたのを敏感に感じたのだろうか。

私は凸凹を許してはいない。
でももう恨んでもいない。
孤独な人生を選んで可哀そうだと思う気持ちもほんの少しある。
そう思える様になったら生きていくのが楽になった。
凸凹へのトゲが抜けるまであと少し…かな。

(3)
バァちゃんは今日からショートでお泊り。
主人は来週末まで実家に帰っている。
次女もまだ帰ってこない。
家にはニャンコと私だけ。

時間があると余計なことを考える。
いつもは蓋をしているけれど。
これからどうなるのだろう。
バァちゃんはなんとかなる。私がなんとかする。
問題は凸凹(兄)だ。

凸凹は私より二つ上、実家に一人残っている。
言うことだけは立派で、行動が伴わなくて。
挫折するたびにやる気をなくし酒に逃げていた。

私は遠くに嫁いでいたが、いつもバァちゃんの愚痴を聞かされていた。
凸凹はがむしゃらに働く時と酒に溺れる時を繰り返す。
暴力をふるうわけではなく、飲みだすと酒を買い込みひたすら自分の部屋で飲むのだ。
まるで何かを忘れるように。

何年かそんな事を繰り返していたが、ある時期から飲まなくなった。
それでも嫌な事があると家にこもってしまう。
そして本ばかり読んでいた。
そんな凸凹でもバァちゃんは立ち直ったと喜んでいた。

バァちゃんがしっかりしていたら凸凹はバァちゃんと離れる気はなかっただろう。
バァちゃんと凸凹はお互いを必要としていたのだ。
父が亡くなりバァちゃんが少しずつおかしくなって、限界を超えた頃うちへ連れてきた。

凸凹は糖尿病で入院した事があるが、食事療法などしていないだろう。
お酒も止めたのか又飲んでいるのか分からない。
毎月あった仕送りが去年から二・三ヶ月に一度になり、今年からは途絶えた。

亡くなった父名義の家に一人住み、バァちゃんの年金で暮らしている。
凸凹が入院しても、介護が必要になっても私には言えないだろう。
私も知りたくない。
だから私は一方的に請求書を送るだけで電話はしないのだ。

それでも少しずつ凸凹が壊れかかっているような気がする。
それはちょうどバァちゃんがおかしくなった頃の予感に通じるのだ。

(4)2007年4月
桜が咲く頃になって、早朝パートに行く時東の空が少し明るくなってきた。
私は朝四時半に家を出る。
まだ夜明け前だ。
月も星も出ている。
それでも以前と比べて空の色が青くなってきたし、月が靄がかかったように霞んで見えると春だなぁと思う。

外に出たくて、バァちゃんから少し離れたくて、早朝パートの仕事に出るようになってこの八月で三年になる。
石の上にも三年。
もうすっかり慣れた。
頭も体も適度に使う仕事なので、私のリハビリにはちょうど良い。
私はその前は四年間プチ引き篭りで、一日中バァちゃんに向き合っていたのだ。

僅かでも自分の収入があるという事も嬉しい。
実働四時間なので大した事はないが、ヘソクリには十分と思っていた。
なのにそれを見透かしたように凸凹(私のしょーもない兄)が介護費用を払わなくなった。
バァちゃんはそれなりの年金があるのだが、凸凹が握って離さないのだ。
凸凹は筋金入りのパラサイトだからね。

それでも最初の頃は介護費用は払ってくれていた。(当たり前だ)
月に一度はお金もバァちゃんの好きそうな食べ物も送ってきていた。(年金額からしたら微々たるものだけど)
一昨年あたりから介護費用だけになり、去年から介護費用も銀行引き落としができなくなっていた。

私のヘソクリ倍増計画は泡と消えたけど、介護費用が自分で払えて良かった。
主人に対しても引け目を感じなくて済む。
凸凹に関しては腹が立つのはとっくの昔の段階で、今はとにかく関わり合いになりたくないのだ。

凸凹からは何も言ってこないし、何も言えない。
凸凹は私以上にバァちゃんが気になるはずだ。
私も何も教えない。
気になるだろうな、寂しいだろうな、とも思う。
自業自得だよとも。

音信不通になって一年。
その凸凹から速達が来た。
中には新しいバァちゃんの健康保険証とメモが一枚。
「お金と荷物はあとで送ります」
ナンダカナア‥

一年前も同じだったけど。
それきりだった。

会いたいんでしょ。
気になるんでしょ。
だったらちゃんとしなよ。
私はもう怒ってはいないよ。
でも甘やかしもしない。
バァちゃんは時折思い出して泣いてるよ。

たまにはバァちゃんの写真でも送ってやろうかな。



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