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強気で「やめた」一方で、実はその時点ではまだ講師の行き先が決まっていなかったのだ。それもあって、3月に入ってもまだ正式に辞意を表明しなかった(できなかった)のだ。しかし「優しい校長編」にあったとおり、次年度の計画を立てるための面接などが始まったのに「翌年もいるふり」をするのはイヤだったので、その旨を伝えてしまい、さらに次の話が決まる前に「やめる」ことの方が先に決まったのである。そのあたりは、「まあ何とかなるさ」と思える楽天的な自分なのだ。 私は教科が社会科なので、あまり「人が足らない」という教科ではない。ましてや私立で…となるとなかなか空きが出るわけでない。で、やっと出たある高校の募集に応じて、面接・模擬授業までやりに行ったのだが、「世界史」の講師募集なのに、「得意な科目は?」と聞かれ「倫理と日本史です」と答える失態まであり、「こりゃだめだ」と思いながらの結果待ち…になっていた。他に若者が5人くらいいたので「終わったな」とすでに思ってはいた(年齢が高いほど報酬を高くせざるを得ないので向こうは結構嫌がるとの話を他の私立校の人に聞いていた)。 そんなある日の夜、電話が鳴った。ある小学校で、1年間研修に出る人がいて、その代わりに1年間限定で講師をやらないか…という話であった。教える科目は基本的に全科(クラス担任)ということだ。実は過日、自分の出身大学の就職課に登録して、履歴書をあずけていったのだが、その大学の附属小学校の校長が人を探しに訪れて、就職課の人が照会&紹介してくれた…のだった。(就職課のEさんありがとう) 即答できずに待っていただいた。(というか向こうが「少し考えていただけますか」と言ってくれた。)いい話というのも唐突すぎると思考回路を停止させるものである。問題点や状況を整理してみると、1 せっかくはじめても翌年につながらない1年かぎりのお話である。2 自宅から1時間半くらいなので今よりはいいが、近いとも言えない。3 大学では小学校の専門課程だったが、実は初めての経験である。4 でも「一度小学校の担任もやってみたい」と前々から思っていた。5 いくつか専科の教科が入っても全科なら枠数が大きいので金銭面で助かる。6 あ、もし高校の講師受かってしまったら断らないといけなくなるが、そっちには「第1志望」って言ってしまっている。7 高校断ったあとで、こっちの小学校も落ちたらピンチ!8 でもこの話は断るのがもったいないぞ! ぜひやってみたい。 などといろいろ考えるうちに、「ここに行くのが一番」ながらも、筋を通して、「こちらが今は第1志望ですが、すでに受けている手前、高校の話が来てしまったらそちらに行きます。でも多分落ちてます。はっきりするまで待っていただけますか?」という電話を後日した。そしてありがたいことに待ってもらえて、無事?高校の不採用通知をもらい、さあ、これからこの小学校の面接だ!…となった頃がちょうど養護学校をやめた日だったのだ。 なので、その面接には背水の陣でのぞんだ…のだが、こちらの気合いとは裏腹に、対応してくれた教頭や教務主任が優しくて、しかも「採用」を前提にしたかのように話がどんどん進むのでとまどってしまった。ひと通り状況説明や勤務条件などを聞いたあとで、「あのー、採用かどうかはいつどんな形でお知らせいただけますか?」と聞くと「今は校長が海外出張中なので正式には採用と答えられませんが、もともと校長が履歴書見て気に入ったのだからまずまちがいないですよ。私達二人(教頭・教務主任)はもちろんOKです。それよりも、こんな条件で○○さんこそ、この話を受けていただけますでしょうか?」と言われた。 1年間、さんざんイヤな管理職と戦ったせいか、思わず泣きそうになるくらいうれしかった。そして数日後、帰国した校長の確認がとれて、採用が正式に決まった。「捨てる神あれば拾う神あり」 「禍福はあざなえる縄のごとし」なのである。(すみません今回、テーマの「障碍児と生きる日常」になってませんでした…。書き直すのもったいないのでそのまま登録します)
2005/10/31
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なんだか傷ついて(笑)やめてしまったかのようだが、「行ってよかったー」とその頃以上に今は思っているのである。 (ただし、行っていた当時は、家で妙に怒りっぽかったり、ちょっと自信喪失気味だったり、職場でもあまり元気がなかったり、友人へのギャグがさえなかったり、体重が8kg落ちたり…これ以上続くとやばそう…と追い込まれていたのだ) ではそんな思いもしたけど行ってよかった理由をいくつか。1、いろいろな情報が集まってきた。食傷気味!?になるくらい校内研修もあったし、自閉症関係の専門家の名前をたくさん耳にしたり一部の人に会えたり、それぞれの生徒の利用するレスパイト先とか療育団体とかいろいろなものの存在がわかった。また卒業後の進路の話題から、一般就労・福祉作業所とか成人後の様子も少しわかった。また、いろんな先生の教材をたくさん見たことで、どんなものが必要か、自作の時のためのヒントをもらったり、プリント類やカード類の資料も多少手に入った。2、クラスの保護者との交流で、障碍児の親としての生き方・生きざまを見せてもらった。結構変わった人がいて困ってる担任の姿も校内の他クラスでは見たが、私のクラスの保護者は本当にいい方々だったし、こちらも本音で接することができた。それぞれタイプは違うのだが「母は強し」の感があり、いろいろな組織(療育施設とか学童的なものとか)をうまく使いながら、子どもに人生のすべてを捧げるのではなく、「自分も豊かに生きよう」とする姿があった(そうは言っても一般的な親と比べれば相当捧げてるのだろうが)。なんていうか、あの姿に「俺も自分のやるべきことをやらなければ」という気にさせられた。3、実際にいろいろな生徒の様子を見て、その指導を体験できたことがよかった。たとえば「自閉症だから」「ダウン症だから」とひとくくりにできないくらいにそれぞれのケースがあり、しかもそれをただ見学したのではなく、一緒に過ごして仲良くなることで彼らの楽しさを自然体で理解できたことがうれしかった。でも逆にそれぞれの障碍に共通するようなことも必ずありそれを具体的な事例から学べた。さらに、生徒達が「がんばってもいるけど、手を抜いてもいる、私たちと同じ」ということにも安心した。よく「自閉症児は嘘つかない」とか本には書いてあるが、とんでもはっぷんあるいてごふん、毎日、脱走したくなると「トイレ」と言って教室を出て、トイレから出ると反対方向に逃げる子がいた(ちなみに私はさらにその先に隠れていて「わっ」とおどかして連れ帰るのだった)。4、「待つこと」の大切さを知った。待たなければ自分でできるチャンスを奪ってしまう。可能な限り待ち続けたり、最小限の支援だけしたり、スモールステップでちょっとずつ成長したり…教育の原点はここにある…と言われるのがよくわかった。それまでの自分がいかに人を「急がせていた」のか、とても反省した。養護学校から普通学級に来た先生で「何とも言えぬ良さ」を持っている人を何度か見ていたのだが、このあたりを知っているか知らないか…が教師としてのふところの深さになっているのかもしれない(ちなみに私も以前よりは待て始めた。でもやはりいまだにやや短気…)。 自分はやめといて言うのも何だが、「教員になる人は必ず養護学校か特学で一定期間学ぶべし」とかすべきだと思った。(インターンシップみたいにできないのかなあ。養護学校は人手不足だし助かるはずだが。) 私の経験から、最初の勤務地でとして行くのがお薦めである…。
2005/10/30
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「行って良かったー」の話を後日回しにして、先に一番のもめ事…校長の事を暴露。今回は特に長いです。 彼はすごい人だった。切れ者で悪人。よく「あいつが死ねば…」なんて人は本心でなく言うが、当時の私は久々に「ヤツが死んだら俺は本気で喜ぶだろうなあ」と思える敵に出会ったのだ。先輩教師曰く、「今あの人が夜道で殺されたりしたら、『みんな動機がある』ってことで捜査は難航するだろうなあ」 そういう人だった。外部に対しては、やり手で温かい校長を演じているのだが、内部では教師にも生徒にも愛情がないのだ。ある日、うちのクラスの跳びはねる男の子が廊下でニコニコしながらちょっとぶつかってしまったのだが、笑ったり優しく注意するどころか、汚いものでも見るかのような顔でにらみ、背広を手で払っていた。この一事で彼のすべてを見切って、そして対立の日々が始まった。 とはいえ、日頃は接することはない。校長室にこもりっきりなのである。若い女性のお客さんとかが来ると積極的に学校案内とかするのだが(これは気持ちはわかる)、そうでもないとまず会わない。だから直接の戦いは「面接」の時だけなのである。 5月…普通は「もう慣れたかい」「はい、がんばっていますがまだまだ」とかそういう面接の時期なのだが、すでにこの頃、私は先の「1年間だけがんばる」という気になってしまっていた。100人超の学校で面接の時間も少ないし、丸めこまれては大変…と自分の気持ちを書類にまとめて前もって出しておいた。どうもこういうのがお嫌いらしい(笑)。いきなり「あなたは何を考えているんだ」と叱られ、お説教。「やる気がないとかそう決めつけないでくれ、私はこの1年間限定だけど本気にやるんだ」とていねいに気持ちを伝えようと試みたが、まったくお話にならなかった。 10月…遠距離通勤を理由にした転勤を希望するむねを調査票に書いておいた。いきなり中学校にもどる…という無茶はあきらめて、とにかく近い所に…と教育委員会の基準にのっとって他の養護学校を希望した。「あなたはわがまま」「とんだ期待はずれ」「人としておかしい」「あなたみたいな人はどこいってもいい仕事なんかできない」などと言われながらも、ていねいな敬語で文句を言い返した。10分の持ち時間を20分くらいオーバーして、最後には「はいはい、わかりました。教育委員会には異動希望の書類を出します。その代わり、校長の意見を『この人はわがままな人です』とつけます」 12月…朝から呼ばれて校長室へ。なんだかうれしそう。「教育委員会から審査会の返事が来ました。あなたの希望は認められませんでした。3年いないのはわがままってことでしょう。やっぱり私の言うとおり」とご機嫌で伝えてくれた。まあ、ここで「すまないねえ、力になれなくて…」というような普通の人ならがんばろうという気にもなったかもしれないが、ある意味、私が感謝しているのは「こんな対応」だったからこそ「さあ、私立の講師を探そう!」とふんぎりがついたのである。「早めに教えていただいてありがとうございます。これで気持ちの切り替えやいろいろな準備ができます」という私のことばを完全に都合よく解釈して、「そうそう自分の仕事に気持ち切り替えてはげみなさい」みたいなことを言っていた。 3月…来年度のことを話し合う面接で、教頭に「3月末でやめます」と伝えると、意外にもあの教頭が慰留しようとしてくれていた。そして、翌日、朝から校長室に呼ばれた。開口一番、「遅い。一ヶ月前に言うのが普通だ。社会人の常識がない」といきなり真っ赤になって怒っている。怒ったら気持ちが変わるとでも思っているのだろうか…。 さんざん言わせた後でやっと逆襲の時間。「人が人生の一大事の結論を出したことへの第一声が『遅い』ですか? まずは『どうしてなんだ』とかいうべきことがあるんじゃないんですか。あなたは『障害児と障害児の保護者のことを第一に考えています』と宣伝するけど、一度でも障碍児の親である私のプライベートのことの訴えを本気で聞きましたか?職員だと同じ親でも違う存在になるんですか?」とはじまり、すべてていねいな敬語でののしった(笑)。 そのうち向こうがカッとしてけんか腰になるのを待ち、汚いことばを言わせた後で、私はドスをきかせて 「そういう言い方やめようや、ケンカになるよ」と低くひとこと。ついに主導権を握った。 「私もニホンジヘイショウキョウカイの一員です」が効いたのか、自分の悪口を後々言われないように保身に走ったのか、なんだかその後は急に優しくなった。「私にもあなたの悩みに気づいてあげられなかった落ち度があった」とか少し謝り(ちゃんとは謝らない)ながらも「今後、新しい学校から身分照会とかがこっちに来ることもある」とかわざと言って、和解を促し「自分の悪口を口止めしている」その姿がちょっと情けなく、強敵だったはずが…その後の戦いは盛り上がらなかった。 その後の展開は猛スピードで、私の代わりに、新規採用ではなくベテラン教員をとるために、「あなたの退職願は2月28日に出たことにするから」とか言って、あわてて書類を準備してくれて、その日の10時くらいには見事に手続きが終わっていた(はええよ)。退職理由を書く欄があって、「ここにある例から選ばないといろいろ審査されて退職金とかの支給が遅れる」と言われて、「家族の介護のため」とかを選んだ。 今思えば、「校長も教育委員会もいやになったから、さようなら」くらい書くべきだったのに、「すっきり」していてつい気分良くサインしてしまった。「フロントがアホやから教育がでけへん」みたいな名言を書くべきであった。 残念!
2005/10/29
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今までの文章の流れからや、フリーページを見て気づいた方もいるかと思うのだが、実は私は養護学校の教諭を「1年」でやめている! その後の暮らしは、講師として教育界に残りながら、障碍児教育にもまた違う関わり方をする(この辺の話はまたいずれ)…ことで成り立っているので、収入減のこと以外はまったくもって後悔はない。でも他の人からは、「このご時世に公務員を辞めるか普通…」と言われるので、やめる(というか転職する)と決意するに至った理由(たくさんあって複合している)を少しずつ整理しようと思うのである。というか、だんだん自分でも忘れそうなので、もともとこのことを「今のうちに書かなければ」と思って始めたブログなのである。1、家でも職場でも似たタイプの子(ほとんどの子が自閉症)にばかり接していて、煮詰まってしまった。一日中、コミュニケーションとろうとがんばってもなかなかうまくいかないことで、家でわが子に接するパワーがもう残らない。またどのことが自分の子のことだったかわからなくなってしまった。(○○ができた…と思ったらあれは○君だったとの勘違い…。)そのことで自分の方が混乱していたのだ(4月からずっと)。これは、同じ子達とさらに関わって慣れていくか、違うタイプのクラスに変わることでも解決するのだが、学年を持ち上がらせてもらえず、翌年も新入生の「主に自閉症の子を集めた学級」を担当するように内示(これは3月)が出てしまった。2、とにかく通勤の片道2時間25分がつらかった。朝は5時おき。もうそれだけで、家に帰った時にはぼろぼろ…。それなのに仕事そのものは大してやれていない悔しさや後ろめたさがあった(4月からずっと)。せめて1時間近い養護学校に変わりたいと思ったが、異動そのものが校長にも教育委員会にも聞き入れられなかった(12月)。通勤時間に本でも読めば…と言う人もいるが、乗り換えもあり、座れない時が多く、まさに「痛勤」だった。酔ってもないのに、ボーッとして乗り換え忘れるようなこともしばしば…だったので自分でもやばいと思い始めた。3、自分の特性として、広く浅く(これは本当は深いほうがいいのだが)全体を見渡したり、しゃべってなんぼで口達者だったり、初対面の人にめっぽう強かったり、ツッパリ系の人と波長があったり、いざとなればドスをきかした方言でハッタリが効いたり、持ち味を生かすにはやっぱり中学校の普通学級だったんだ…という思いが強くなってしまった。もちろん、目の前の養護学校の生徒はかわいいし、そのことで手を抜いたことはないつもりだが、「ここにいる自分が自分らしくない」事に気がつくと、「将来的には絶対に中学校にもどろう」と思い始めた(5月)。ところが、教科まで同じ状況の先生で、3年たってからもどろうとしたのに、ダメだった人が出た。いい仕事をすれば必要だから出してもらいにくくなるし、校長と仲が悪くても嫌がらせで出してもらえないし、「こういう風にすれば、いついつにこういう結果が出る」というのがわからない、そんな中で我慢をするのがいやになった(3月)。4、1年後に子どもの就学を控えており、フルタイムで共働きの妻と、「いずれは祖父母に送り迎えも頼れなくなるから、どっちかが身動きとりやすくするようだね」という会話があった。その時は「車の免許のある俺が…」となった(もちろん「この時すぐ…」という話ではなかったはずだけれども)。5、敷地内禁煙が翌年からおこなわれることになった。中学校勤務の頃から、「たばこも校内で吸えなくなったらその時は仕事やめる」と公言していた。「生徒は吸ってるのにずるい!」と…。これも引き金のひとつ。でも今年4月からは、本人が禁煙にほぼ成功しています。 そんなこともあり(まだ後日追加しそうですが)、「とにかく1年は意地でもがんばる」と指折り数えながらがんばったのだ! 人から見ると「たった1年で投げ出した」と思うかもしれないが、自分の中では「遠い目標までがんばることができた」のである。 そして多くの人は「なんだか養護学校に行って変な校長のせいで仕事やめちゃって…」と同情?したり、「よく考えずにすぐに行動してしまうからそうなる、悪い癖だ」とあきれたり怒ったり?するのだが、本人は「養護学校に行っててよかったー。正解だったー。」と思っているのだ。 「行ってよかったー」ということについては次回以降に。
2005/10/28
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今回は養護学校のシステムというか構造上の問題点(大げさすぎ!)についてのまじめな話。そうはいっても、たまたま私の行った所は…ということなので、他の養護学校の方からの「そんなことはない」という声には一切耳を傾けませんのでご了承を!でも、もしかしたらあい通ずる部分があるかも…。 先生達一人ひとりの資質…ということについては、基本的に「いい人」が多い。やはりこの世界を最初から目標にした人は志が高いし、普通学級から来る人も生徒の優しさにいやされて?新たながんばりをしていたり、他の校種で受けたのにここに来たという若手も鍛えられながらがんばる…と精神的な面ではなんとなく「優しい空気」があると思う。で、一人ひとりの優しさがあるからそれでいいかというと、逆に「暴走する人を止められない」という感があったのだ。 学校も組織である以上は、ある程度それぞれの意志をいかしながらも、みんなで同じ方向を見ていないと「学校」として機能しなくなる。たとえば荒れた中学校とかの教員(私はその生活が一番長いのだが)達は、せっぱつまった極限状態ではそれぞれの思惑を超えてよく団結するのだ。それは「みんなの安全を守る」とか「授業の成立だけは絶対ゆずらない」とか「給食のデザートだけは盗ませない(笑)」とか、何か同じ目標に向かってそれぞれのやり方で取り組んでいることがお互いにわかるからである。で、その時のリーダーは、学年主任とか生活指導主任とか立場のある人の時もあれば、そうでない人でも「緊急時に強い人」とか「粘り強い人」とかいろいろな人が活躍する。 養護学校で暴走する人というのは、別に悪いと決めつけられるわけでなく、それが正しいのかどうかまわりにもよくわからないのである…。私の不勉強というだけでなく、1年間最後まで誰のやり方が正しいのか、はっきりとはわからなかった。というのも、中学校だったら本人や保護者から直接フィードバックされるような評価の声が、養護学校では、他のクラスの担任には聞こえてこないのである。はっきりとした苦情とかは、直接管理職とかにいったり、問題にされるけど、「これがうまくいっている例です」というのがとてもわかりにくかった。(もちろんわからないなりに「あの人のやり方いいなあ」とかくらいはありますよ!) で、さっきの話でいうと、暴走している人というのは「自分のやり方だけが正しい」と思っている人なので自分の方法をみんなにやらせるようにがんばってしまう。私が思うには、いろいろな方法論があって、その中から「目の前の子にあった有効なやり方を探しながらやれればいい」と思うのだが、どうもそうはいかないらしい。「同じ方向を見すえて、それぞれのやり方で取り組む」先ほどの荒れた中学校の団結の話とは逆に、「同じやり方でやろう(やらせよう)としてそれぞれが違う方向に行ってしまっている」気がしたのだ。 あっ、ちなみに私のいた所で一番暴走していたのは学校長なんですが…。 で、そういう時にみなさん「いい人」だから結構それを受け入れてしまう…文句は聞こえてくるんだけどなかなか向こうには伝えてないらしい。私は駈け出しで、自分の考えが合っているどうかもわからないし、新参者が言っても説得力もないので言わないのだが、「立場の強い人」「はっきりものを言う人」の意見が支配的になっていて…変な方向(正しいのかもしれないけど?)に行っていたのだ。 必要なのは、普通の?先生達での「話し合い」だと思うのだが、その時間・タイミングが実にない。休み時間に職員室で顔を合わせる…ということがないので、生徒がいる8時~3時半はまずゆっくり話せない。その後も正式な会議(指令伝達)とかがあったり、書類書き(提出書類ばかりどんどん増える)にみんなが追われていて話せない…。で、私のような家が遠い人はとっとと帰ってしまう(すみません)ので、大事なことで意思の疎通を図る場面がなかなかなかったなあと思うのである。 そんな中、それぞれが工夫してよくがんばっているなあ…と思う。だからこそ、東京都?の話のような、「議員?が介入してきて、歴史ある性教育にいちゃもんをつけて教具も教員も処分した」とかいう話を聞くと、そういう圧力に押された時、どれだけの学校が踏ん張れるのかなあ…と不安に思うのである。 じゃあ、どういうシステムにすればいいか…すみません、わかりません。少なくとも、「主任」みたいな人はみんなで投票とかすると少しは違うかもしれない。最近は管理職が決める…というのが普通になってきているようだ。すると、「あの人は…」という人が偉くなって困っている学校は多いに違いないのだ。
2005/10/27
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どちらかというと「楽しかった、のほほん系」の思い出は「6」までで終わりで、ここからは「現実の大変さ」や「職場環境へのグチ」や「校長との戦い」の話が増えそうである(だから匿名にしたのだが)。 自分にとって良かったような悪かったような出来事がその年の6月頃にあった。学年の他のクラスの先生が短期入院することになり、私はそこに応援に入った。重度重複学級だったので、2人の先生で3人を見ていたのだが、その一人の子はそれまで見るかぎりでも相当大変そうであった。スクールバスを降りた時に2日に1回はすでにうんちのおみやげ付き…、自分でトイレに行ける時もあるが思い通りにならないとわざとその場で大小便(わざべん)、パニックの時の自傷、さらにパニック時の他害(ツメで思いっきりひっかく)、担任の年配男性の顔や首の傷がその大変さを物語っていた…。 それまではあまり彼との関わりがなかったのだが、日常接するようになって、彼のがんばる面やおだやかに甘えている時の笑顔などいろいろないい所が見えてきた。そうした中に身を置いていられる時は「ゆるゆるの空気」でお互いにとても居心地いいのだが、「突然の不機嫌」によって自傷や他害のパニックが始まってしまうのである…。どうしても理由が見つからない時が多いので、多分1時間前くらいのことを思い出して怒りがわいてくるのか、あるいはもっと昔の記憶がよみがえるフラッシュバック的なものなのか、いずれにしても「突然の悪夢」なのである。 彼のパニックは、床や壁にとにかく激しく頭をぶつける。ヘッドギアはつけていない。本人の安全のためにもこちらは必死で止める。しかし、同時に彼はまわりの人を無差別にひっかく(ツメで横に切り裂く)という状況になるのだ。だから彼のパニックを止める時、大人が2名必要になる。1名が頭の下にももを入れて頭を持ち、もう1名が上から手足を押さえる。ところが1名しかいない時、または手が離せない時もある…それが担任の傷の理由だったのである。 そしてその日、ついに彼と私が1対1の時にパニックが起こったのである。ちょうど床も固い教室の時。 …ちなみに私は、いばって言うことではないのだが「自分を犠牲にしてまで誰かを助けるような人間ではない」のである。それまでも、中学校で3年生の担任の時に、最後までグレっぱなしの子があれば、指導は仕事として最後までやるけれど、「どうしてもバイクをやめないヤツ」とかには「もう死んでよし」と本当に怒りながらもあきらめているのである。で、まわりの先生とかにも本当にそう言ってしまうのだが、当の本人には卒業式とかでなぜか勘違いされて、「先生が最後まであきらめずに俺のことを心配してくれた」とか言われ、つい「うむ」とか言ってしまう男なのである。なので自分のせこい所というか、あくどい所は、自分では重々承知なのだ…。 しかし、その時、私は自分としては驚くべき行動に出た。彼の頭を必死で守り、激しい攻撃を受けながらも頭を上から抱きかかえ、大声で「誰か手伝ってー」と必死で呼んでいたのだ。そうは言っても無防備ではなく、ツメを必死でよけたり、自分の頭をぐりぐり押しつけたり…とかいろいろな攻撃はしてしまう(笑)のだが、全体的に「何としても彼の頭を打ちつけさせない」という必死の姿だったのだ。数分後に他の先生が来てくれた頃にはもうほとんどおさまっていた。 なぜこの事件が私にとってよかったかというと「俺って結構いいヤツだ」ということを知ったからである(笑)。いざというときにそういう行動がとれたということは、今後の教員生活において、「まあまあ自分に安心できるな…」と思ったのである。(でもこれは普通は「最低限」のような気もするが) ではなぜこの事件が私にとって悪かったかというと、年をとると傷の治りが悪くなる。目の下とかちょっと「ハク」がつくような場所の傷あとはもう治ったのだが、鼻の下の、一見、鼻毛とまちがわれそうな位置にある一本の傷あとは2年たった今でもうっすらと残っているのである。 これ鼻毛じゃないって!
2005/10/26
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Sさんは、クラス1の美人である。というかクラスの女子は1名であるが…。でも母も美人である。さらになかなかおしゃれな格好をいつもしているので、跳びはねて指を鳴らしている彼女は、一種、天使のような趣きである。でも指鳴らしのその指を人の背中に当ててくる(何というかデコピンされてるようなチョップされているような感覚)ので、天使といえども、現実はなかなか「痛い」のである。 彼女も自閉症なのだが、初めて教室に来た人にはなかなかなじめず、泣いてしまったり、おそれて自分が教室から出ていったりが最初は多かった。でも、何かと人の出入りが多いクラスだったため、だんだんと慣れてきた。彼女がチョップの洗礼をあびせるとそれはその人の存在を「認めたあかし」となり、その日、一日中仲良しになれるのだ。 介護体験の大学生がよくこの洗礼を受けたが、特に「背中ががっしり」「半袖シャツの太い腕」「イケメン」の三拍子がそろうとまちがいなく、すぐに認めてもらっていたようだった。 そういえば一度、こんなことがあった。学生さんは特に自閉症のことを学んでくるわけではないので、朝、最初に「このクラスは自閉症の子が多いので簡単に…」と毎回私が1分間くらいで特性と配慮と今日やって欲しい仕事を説明していた。関わるのが難しいけど、無理強いさえしなければいいから「とにかく体当たりで接してみて!」ということになるので、大体はうまくいって仲良しになる。 でもある時の男子学生はびびってしまったのか、子どもたちに近寄らず、教室の隅でなぜかメモだけ取っているのである。「なんだそりゃ」と私があきれて呼ぼうと思ったら、Sさんが近寄って「びしっ」と攻撃開始!角にいて逃げられず、コーナーに追いつめられたままの彼の驚いた顔(まあ人生の中でそうそう美人に理由もなくたたかれることもないだろう)はなかなかのもの…少し緊張もほぐれたようだった。 そんな彼女は、日頃、教室内を跳びはねながら、最も高い打点で、仕切り用に金属で吊ってあるカーテンレールにいつも「ビシッ」とやっていたのだが、3月くらいになって私はあることに気が付いた。カーテンレールが大きく湾曲しているのである。その年はカーテンを使わなかったのでそれまで気づかなかったのであるが、多分カーテンがひっかかって動かないくらいの極端な曲がり方。これはもう「ボブサップの仕業」というくらいの破壊力の仕事を一年かけて毎日コツコツやっていたのである。やはり、美人は怖い…のであった。
2005/10/25
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教員2名で生徒5名(途中から4名)を担任していたのだが、T君は、急に脱走してしまうことがあったり(しかもどこに行くか毎回違うのですぐに追いかけないといけない)、足もかなり速いし、靴や靴下を急に脱いでしまうし(しかも道ばた脱ぎ捨て)、着替えの補助が必要だったり、急にパニックから自傷することがあったり…と、かなりマンツーマンディフェンス?の必要があったので、私は一日のうち、彼と過ごす時間が一番多かった。 スクールバスへのお迎えから一日がスタート。バスに入り、放心状態になっているT君に、靴下・靴をはくように指示して…という所で10分くらい…大体最後に降りることが多かった。最初の頃は降りたがらずに(学校いやだったのだろうなあ)泣いているのを落ち着かせる所からスタートだった。「今日も勉強だぁ、楽しいぞー」と言いながらも、もう一人の自分が「いや、そんなに楽しくもないと思うよ」とツッコミを入れてしまうので、負けずにテンションをあげたり、そっとしていたり…と日によっていろいろ演じて大変だった。 行きたくない気持ちもあってか、バスに乗っている間にのどに手を入れて吐いてしまう…というようなこともあり、そういう時に限って、甘えて抱きついてくれたりするので(笑)、朝からゲロ臭いただならぬ関係になったりしていた。 教室で荷物を置いたり着替えたりした後、いつもの係仕事のスタートだ。保健カードを届けたり、ゴミ箱を持って遠くまで捨てにいったり。これが果てしない道のりの時もある。でも慣れていくうちに、「自分の仕事だ」「終わればほめられる」という責任感が出てきて、バスで調子が悪くてもがんばれる日が出てきた。 いっぱいいっぱいの時は、「お仕事終わり」となると教室で跳びはねたりゴロゴロしたりの自由時間にするのだが、本人の調子がよくて、時間があって、天気もいい時は、屋上に行って走ったり歩いたりするようになった。彼は、朝のうちに体を動かして発散しておくと、一日「持つ」ことがわかってきたのだ。 行き始めの頃は、彼は屋上(ロの字形)をグルグル走り、私はそれを自転車(小学生用)で先導したり追いかけたりだけだった。何回目かのある日、彼は私の自転車を引っぱり、なんとなく「乗りたい」という意志を伝えてくれたのでそれからは「自転車に乗る」時間となった。とはいえ本人は乗りこなせたことはなかったようなので、補助が大変だ。横から片手でハンドルを支え、もう一方は腰を支えて、まずは「乗っている気持ちよさ」を味わってもらった。初めての時の彼の笑顔は忘れられないくらいにいい顔をしていた…と思う。 そのうち、「こがないと進まないよう」にして、「ハンドル操作をまかせて」とやっていった。ちょっと体育会系が入ってくると乗るのを嫌がることもあり、そんな時は私が自慢げに乗りまわった(おいおい)。1年間で、一人で乗れる…という所までは残念ながらいかなかったのだが、朝の日差しの中、西に山々、東に街なみ(本当は西も東ももっと雄大なものなのだが場所を特定してもらっては困るのでこんな表現)を見ながら、彼と一緒にゆっくり成長した時間は、私にとってもすてきな思い出になったのである。 ついでながら、彼は偏食が多く、すきあらば手づかみで食べてしまうのがうちの子にそっくりなのである。ただ、お盆の上に落ちると嫌いな物でもとっさに食べてしまう…という習性があったので、偏食指導の際にその手を使うこともあった…。やっぱりいけないかなあ…と思いつつもつい。でもお盆はきれいなお盆の上であって、彼が机に落としたりしたものはこっちは止めていた(彼は食べるとアピールして怒るが)。ちなみにそんな所も我が子はそっくり…好きな物限定とはいえ、なぜか落ちたものから先に食べる。誰もとらねえよ!
2005/10/24
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Y君はダウン症で、ことばの少ない我がクラスにおいては、音声部門で非常に重要な男であった。(というか音声によってやりとりできるのは彼だけである) あまりにも他の子がしゃべらない(うなったり、ほえたりはするがY君に話しかけてはこない)ので、最初は「しゃべると怒られる」と思っていたようだが、だんだんと慣れてきていろいろとしゃべるようになった。 模倣がうまく、担任がねそべるI君に「起きろよ」といつも言っていると、そのうち担任より先に「起きろよ」と言うようになったり、手を引っぱって起こそうとしたり、世話を焼いてくれる。彼が言うと、ほんわかムードで少し空気が和むのである。 ただしいつもすてきな会話ではない。マイブームがあるようで、授業中などにやたらと同じことばを場面に関係なく叫んだりする。やはり、おうちでも怒られるような汚いことばほど言いたいのか、ブームが長かったのは「うんこ」の連発。(したいわけではない)「ハイ、これで終わり」「うんこー」「マラソンに行きます」「うんこー」 「このあと調理室でカレーを作ります」「うんこー」(これはある意味あってる?)こんな調子だった。 どうも、まわりが笑ったり、困った顔をしたり、注意したりという「注目」をあびるための「魔法のことば」(笑)にしているようなので、ある日徹底的に普通に流してみた。「先生、うんこだね」「そうだね、うんこだね」 「マラソンに行きます」「うんこー」「はい、うんこでも行きます」 給食中に「これうんこ?」「うんこではありません」 あまりにも「ただのことば」になったその日、だんだん「うんこ」は言わなくなった。(でも「しっこ」とか「ばかー」とか「おけつ」とかその後も週替わりメニューであったが) あと、彼は着替えでも移動でも一人でできるのだが、とにかくゆっくりであった。いつも更衣室からなかなかもどらず、急がせないとなかなか先に進まない。 ある日の帰りの着替え、最後の一人になってもなかなか進まない。のぞくたびに声をかけては一枚ずつ脱ぎ進むという感じだった。しばらく他の子のことでバタバタした後、10分以上たってから「もう終わっているだろう」とのぞくと、「テーブルの上にのって、四つんばいで恍惚の表情を浮かべている、白ブリーフ1丁のY君」がいた…。 声をかけると急に我に返って服を着て着替え終わったが、「一人の更衣室を楽しむ」どんなことがあったのだろう??? 彼はその後まもなく、家庭の事情で短期の在籍で転校した。最初からそのことはわかっていたのだが、すっかり仲良くなった後だけに、彼がいなくなっての静かな(落ち着いてという意味ではない)クラスはしばらくさびしくてしょうがなかった。
2005/10/23
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M君は自閉症で、とても人なつっこくて、発語はないが何かを伝えるのが上手な子だった。やわらかほっぺを他のクラスの先生や生徒がさわりに来て、一緒にニコニコしている。ただし、いつもと違う何かが起こるとかなり不機嫌になるタイプなので、毎朝自習しているプリントが一枚足りなかったりすると、顔を真っ赤にして「みゅいみゅい」文句を言ってくる(でもそれがまたかわいい)。 ある日の美術の時間、新入生のはさみの使い方を見てみようということで、「色画用紙に油性ペンで、たて横4本くらいのの黒い線を引いた紙」を渡した。私は補助の必要な子に付いて、マジックの線の上をなんとか切れるように手を添えていた。できると聞いていたM君には指示だけ出して一人でやらせていた。 すると後ろから、M君が「みゅいみゅい」と怒って呼んでいるのでふりかえった。すでに切ってある物を見せられて仰天! 油性ペンの黒い線の上を切ったのではなく、その線がくりぬかれているのである! わかりにくいかもしれないが、普通なら縦に4つくらいに切られた物が、それぞれまた小さく切られて正方形になるはずなのだが、彼のは、太さ3ミリくらいの黒いはしごのようなものができているのだ。黒い線を切ったのではなく、黒い線を切り抜く技術だったのだ。 そして「四角の中はどう切るんだ!」という感じで怒っていたのだ。穴を開けたり、折り曲げるやり方を教えると、うれしそうに残りの四角をくりぬき、なぞのはしごがいくつも完成した。鼻歌交じりではさみを滑らすその様子は、まさに「切り絵」職人だった。 さらに後日の帰りのこと。着替えが早いはずの彼がなかなか更衣室から出てこない。のぞいてみるとなぜかYシャツの第1ボタンに苦労しているのだ。ちなみに彼はいつも第1ボタンまでしめるのが好きだ。「ワイルドに行こう」とか言われ、担任が1つはずしても、いつのまにかササっときっちりしめている。 ところがその日はうまくいかなくて怒っているので、手伝おうとして、私はビックリ仰天! なんとYシャツが裏返しのままなのだ! こんなのボタンが閉まるわけない! でもなんと後1つ…という所まで来ているのだ。そでのボタンまで閉まっているがいったいどうやったのだろう??? 裏返しとの指摘に気づいた本人も、納得して着替えていたが、あまりの衝撃に担任陣が騒ぎすぎ、彼はちょっと泣いてしまった。(失敗したと思ってプライドが傷ついたようだ。悪いことをした。) その後も「すごいすごい」と褒めちぎったのだがそのままブルーな気分で下校させてしまった(反省)。 M君、その器用さは「いばっていい」んだよ。 その日の帰りの職員更衣室で、私もYシャツを裏返しに着ようとしたがまったくできなかった…。ぜひお試しを。
2005/10/22
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やっぱり生徒が来ると、何かと楽しくなるし、何かと大変になる(笑)。我がクラス(中学部の1年)は自閉症の子が多いので、部屋をなるべく構造化したり、それぞれの目印の色を決めて、その色のテープでいろいろな物をマーキングしたりと前もって準備しておいた。 一度色を言われると他のことに応用できた子もいれば、時間をかけてゆっくりと覚えていく子もいた。たとえばロッカーとかイスとかにもテープ(ビニールテープ)を貼ったりしていたので、慣れてくるとイスを移動した時もすぐに見つけられるし、個別学習の教材のコーナーとかいろいろな区別にも使えたり、「なるほどー」ともう一人の担任(主任)の取り組みに感心したものだった。 しかし、そう簡単にはいかせてくれないから生徒もさすがである。I君は水遊び・水いたずらが大好き。家でも午後は1時間以上水遊びをするこだわりよう。(でも母はさすが、キャベツとか野菜を与えて洗わせているらしい)学校には日頃は洗うものがないので、「自分のビニールテープをはがしては洗う」という行動に出たのである。はがすだけならまだしも、家のキャベツの時の癖なのかすぐに口に入れてしまうので「一部は食べてしまっているのでは…」と不安になって何とかやめさせたいと思っていた。 彼は「自分の物」はいいけど「他の子の物」に手を出してはいけないことがよくわかっていたので、「はがしてはまた新しいのを貼られる」時期を過ぎてからは、彼の物だけは「無印」ということになり、事なきを得ていた。でも2学期になってから急に他の子のテープまではがしては洗うことが増えた。毎日というわけではないのだが、結構やるようになり、特にロッカーのそれにこだわるので、場所が覚えられない子のためにも何とかしなければいけなかった。 前々からやろうと思っていたけど、そこまで手の回らなかった私は、その日の放課後、ニヤニヤしながら絵筆を握っていた。そう、ロッカー、机、イス…ビニールテープで貼っていた所を全部ポスターカラーで塗り直したのだ! 毎日毎日このことでもめていたあの戦いが終わる…鼻歌交じりでがんばった。 そして翌朝、「うー」とかうなりながら悔しそうにしているI君。私は「してやったり」でとてもいじわるな笑みをたたえていた。必死でこすったりするのを見ながら「フフ、悪あがきはやめな」などと余裕。 しかし! 「塵も積もれば山となる」のだ。彼は「洗う」事とは関係ないのに「色を取る」ことにがんばりを見せて、休み時間とかことあるごとにカリカリカリカリ…3日のうちに彼の机は無印になり、その後も少しずつやってはクラスメイトの机・イスも色がなくなっていき、1ヶ月後にはまた「貼り時々はがされ」の日々に戻されるのであった…。 幸い古い木製で、色が奥までしみこんでいたロッカーだけは貼る必要がなくなったのでそう困ることはなかったのだが、私の中では「まぎれもない1敗」であった。やはり「強い思いは岩をも砕く?」(なんか違うな)のである。 ついでながらその2年後、特学の小学校1年生になった我が子Sも、入学から1週間、毎日少しずつビニルテープをはがしてはカミカミしていたようである。
2005/10/21
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やっと過去日記も養護学校の入学式まで来たのだが、養護学校に転勤しようとした話の回の日記を自分で読み返すと、何か違和感があったため、逆戻りして、追加分を記入。 なんていうか、そんなに「我が子のため」という気持ちばかりではなかったのだ。もちろんそれは大きかったけれど、もう一つのキーワードは「もう飽きた」だった。 たくさんの人にご迷惑をかけての転勤なのでさすがに表立ってそのことばを言ったことはなかったのだが、ごく親しい同僚(しかもこの感覚をわかってくれそうな人)2名にだけ話したことがあったのを思い出した。 さかのぼると元々は、卒業後、私立高校や公立中学校での講師をバイト感覚で始めた。当時は音楽事務所に出入りしていて兼業ミュージシャンでそっちが主だったのだが、そのうち「学校の先生になろう」と思い採用試験の勉強を本気でして合格した。講師は4年間やった。 教諭になっての1年目のA中は、とにかく学年の飲み会が多かった。というか学年の先生のうちを泊まり歩いた1年だった。結婚して家が遠くなり通えなくなるので2年目でもう転勤(校長がいろいろと働きかけて勝ち取ってくれた)。B中での7年間は、荒れた学校でのバリバリ生活指導の日々に青春?をすり減らしたのだった。そしてSがその頃産まれて、のちのC中での3年間は先の日記の通り…。 結構燃え尽き始めていたのと、中学校教諭として経験する大変さと楽しさのほとんどのことを一通り味わったし、事件的なことはB中のにC中のを足すとほとんど出尽くしたし、ここから先はもう同じことの繰り返しだなあ…という思いもあり、「新しい体験」に飢え始めていたのである。さらに、あとあと学年主任とか生活指導主任とかを逃れられなくなって(あつかましい心配だが)、そういう立場で大変なことにあまり関わりたくないなあ…という気があり、違う校種に行けば一からやり直しでぺーぺーなので、責任も少なく楽だ…というよこしまな?気持ちもあったのである。 「養護学校での教育に燃えて、研究者みたいなのになるぞ!」というやる気と、一方で、「なんか飽きたから新しいことやるぞ!」といういつもの思い切りの良さでこうなったのである。 何するにしても一応1年単位では続いているのだが、ひとつのことをずっと長続きさせるのが苦手であることをこの後の展開のためにも覚えておいてください!(ひとつのことが長続きできる自閉症児の爪のあかが必要だ!)
2005/10/20
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フリーページに、自分が忘れないように作った「自閉症関連で読んだ本」のメモをアップしました。全然責任持てませんが、よかったら見てご参考にしてください。一時期、いっぱい読んだというか、必死だったけど、結局は「目の前の自分の子をそのまま見つめて支援していこう!」と知識はここまでで充分という気になりました。 私をそんな気持ち(境地?)にしてくれたのは、まぎれもなく、養護学校で出会った生徒達や保護者のおかげです。(前置き終わり) さていよいよ入学式。やっと中学部の1年生と会えた。我がクラスは担任2名の生徒5名。控え室であいさつをしたりゆったりと式の始まりを待っていた。内部からの子が(校内の小学部より上がってきた子)が3名いたし、「落ち着いたもんだな…それに保護者もついているし…」と思っていた所で、保護者は先に体育館へ。残った生徒達を並ばせて入場となった。 まずこの段取りも聞いていなかった(それまでの会議でなぜやらない?)が、それ以上に驚いたのは、内部から入学の子で「式が苦手で、脱走する生徒」がいたのだった! もう一人の担任は小学部から聞いていたのか、「あっ、その子、逃げるから気をつけて!」と言われた時に、すでに時は遅し。脱兎のごとく駆けだしていった。後を追っていくと、ちょうど会場から一番遠い教室(2階角を曲がった100m以上離れた所)に逃げ込んでいって、いろいろと教室のものをさわり始めた。「なんか怒ってる…怒りたいのはこっちなのに…。」 式が始まるのでこっちは必死である。多分そのうち誰か助けが来るだろうと思いながらも、「焦る…。このことで式が始まらないのでは…。」 心配無用だった。二人を置いて、式は始まる、助けは来ない(怒)。20分くらいして一通り部屋のものをいじると落ち着いたので一緒に会場に行った。あとでわかったのだが、この部屋は去年の(小6の時の)彼の教室だったのだ。多分彼なりの方法で「もう小学生ではなくなった」事に納得したのではないだろうか。(始まる前にやっといてよ) そして式に出て、新入生紹介や担任紹介にちょうど間に合った後、10分くらいして今度は会場から脱出! 誰も入り口で止められず(かれはでかいのだ)、しかたなしにまた私がついていった。 今度はなぜか階段を上がって屋上の方へ。屋上への出口に追いつめた所で、説得開始。交渉決裂?した頃、彼が屋上への扉をガチャガチャといじり始めた。「(安全対策のため)開いているわけないだろう」と言った瞬間、なんと、開いていたのだ…。初めて出る屋上、私は形状も知らないので必死でタックルして止めて、超怒りモードに入った! 切れて怒る私ははっきり言って怖い!今までどんなヤンキーも最後はびびってくれていた。ところが、彼はどんなに脅されようがまた外へ行こうとする…戦いは10分近く続いた…。 ところが式が終わって人が出てき始めると、何事もなかったように体育館前の列にもどっていった。ようは式に出たくなかったようだ…。 そんなお互いの力(腕力)を出し切って初日の攻防は私の背広をよれよれにして終わった…(他の記憶なし)。
2005/10/19
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正規の職員としていったはずなので「潜入」ってのはまちがってるなと自分で気がついたのだが、前々回に「1」としてしまったので「2」まではこの題名でお許しを…。 2003年4月1日から勤務がはじまり、確か4月6日が入学式・始業式だったと思うので、それまでの数日間は生徒なしの状態。それなのにこの時点ですでにカルチャーショックの連続であった。 まず初日、朝、校内で会う人(つまり教職員)にあいさつをするのだが、いくらまだ全体で紹介されてないとはいえ、この日知らない顔があれば新しい人に違いないのに「あいさつを返してくれる人」が「半分」しかいなかったのだ! 知的障害の小学部・中学部・高等部とあって職員は100人を超える大所帯なので、「ずっとことばを交わさずに終わる人もいる」とは聞いていたが、声をかけられたらこたえろよな…と思った。もちろん、にこやかに、名を名乗って「よろしく」と言い合えた人もいたのだが(主に若い人)。まあ十数人も新しく職員が入れ替わったので仕方ないのか。 職員室で、用意されたいすに座ってみてまたビックリ。目の前の机は、新しめなのだがなんだか小さいような気がする。聞けば、職員数が多すぎて部屋に入りきれないため、数年前に「小さいサイズ」で新調したとのこと。油断していると道具が人の机に雪崩を起こすのでこれには後々も閉口した。でもサイズ以上に場所に驚いたというか、スペースがなくて、ろうかの壁の方とか中庭の窓の方に向いて座る席があったのである(全8列の両サイド)。まさに窓際族である。(でもこれは後々うらやましい席となった) さてお昼…普通は歓迎もふくめて、親睦会で弁当が出たり、学年とかで食べに行ったりするはずなのだが、組合の歓迎会と重なったこともあってか何もなく、知らされていなかった私は一人で外食となりちょっといじけた(あとでわかったが同じ学年の新しい人で、同じく「一人外食」した人がいて「いじけた」と後日聞いた)。 その後の数日間のうちに、会議・会議また会議と目白押し。まあこれは中学校だってそうなのだが、その会議の中身が違うのだ。特に職員会議。これは学校長の演説会である。マイクで延々と彼の考えを聞かされ、イヤミを言われ、ねちねちと言い続ける…やる気をなくさせるのが上手な人である。さらに質問というか意見とかを言う余地がないような会議である。今や職員会議は法的には「校長の諮問機関」とされて「決定権」は校長にあり教員の意見を参考に聞く…みたいな位置づけにされてしまったのだが、それにしてもこれはひどい…。校長がどう決めようが学校を動かしているのは俺たちだ…みたいな気概が感じられないのである。その一方で学部会、分掌部会、学年会などは意見は出せるのだが会議そのものが機能的でなく何となくいろいろな方向に意見が出て、何が決まったのかよくわからないまま終わってしまった…。 それでもまだなかなか自分たちのクラスの準備(本当はこれを早くやりたい)に取りかかれない。古い備品の処理とか、教室の入れ替えの大荷物運搬など、学部の仕事として重労働が待っていた。果てしない距離を移動したりしながら思ったこと…「野球部のみなさん、今まで何年間もありがとう!」 そう今までは春休み中や放課後でもいつも彼らがいて、大体の場合「よし、1年生は筋トレだ!」のひとことで手伝ってもらっていたのだ。バレー部女子などは何かお手伝いするたびに「よし、これで部の予算が少し増えるぞ!」などと顧問に完全にだまされていたし…。養護学校には若い先生が多いとはいえ、一人ひとりの運動量は相当なもので、おっさんの私は、生徒と共に学ぶ前にすっかり筋肉痛になったのであった…。
2005/10/18
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今日は仕事が早く終わったので、職場から車で30分くらいのスーパー銭湯に行った。散髪したかったのと、腰が痛かったのとの2つをいっぺんに解決するにはここしかない! なんと散髪が1300円(その代わりシャンプーさえなし。そのまま風呂に直行)、入浴料が650円なので、2000円以内で、散髪してもらって、シャワー浴びて、サウナに入って、露天に入って…とかなりいいのだ。 ジェットバスのお風呂とかもあるのだが、立ったまま入る深さ110cmの所の噴出口はなかなか気持ちよく、行くたびにそこで腰や肩を刺激しているのであった。 その深いジェットバスでオヤジ3人ほどがゆったりしている所に、小学校2年生くらいの女の子がツツーっとやってきて、110cmの段の境目の所で手すりをつかんで行ったり来たり…して遊びはじめた。「他の二人のオヤジのどっちかの子どもか?」と気に留めてなかったのだが、しばらくして一番奥まで渡ってきて、私ともう一人のオヤジとの間で「ポチャン」と沈んでいった! 潜ったのか沈んだのかわからないので(ややこしいけど自分の意志かどうかの違い?)しばらく横から見ていたのだが、お湯の中で頭が、3回ほどクラゲみたいに浮いたり沈んだりしていた。上がってこないので腕を持って「ひょい」と引き上げた。 女の子はキョトンとした顔をしていたので、「おぼれてた?ふざけてた?」と聞いたところで、前方から父が走ってきて、「こら、ふざけたらあぶないぞ!」「どうもすみません」なんて言いながら連れて行った。彼女は「フフフ」と言いながら消えていったので真相は闇の中! 他のオヤジ二人と顔を見合わせて、首をひねったのであった。 とりあえず、立ち泳ぎできるスペースはなかったし「人命救助をしたのだ」と日記には書いておこう!(古い表現) さて自閉っ子Sの存在はどこに? こういう日は職場から家に帰らずにそのまま行ってしまうので、ヤツはおうちでじじばばと過ごしていました。そして今は部屋で背中合わせに座っていたり、肩の上に立ったり座ったり…。
2005/10/17
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すっかり過去のことばかり書く日記になってきたので、カテゴリ分類をしましたが、今日の話は2年半前の3月末のことです。 いよいよ年度末の忙しい時に転勤先の養護学校の校長との面接に出かけた。忙しいからこそ、「夜の7時からとかでもいいから○日か△日に…」とお願いしているのに、勝手に「×日の8時10分」とか指定してきたのである(今思えばその後の彼との確執はこの時から始まっていたようだ)。 その日は合唱コンクール明けの最初の朝…つまり勝っていても負けていてもフォローが必要な朝学活だったのでどうしても行きたかったのだが、その電話を受けた中学校校長が勝手に約束してしまっていたので仕方なくその時刻に行った。(ちなみに合唱は負けたのでそれこそ行って労をねぎらうべきだったのだが…午後にそんな話題をし始めてもおまぬけだった) 行く時刻にあわせて電車やバスの時刻を調べていて、かなりショックなことが発覚!! 思っていた駅と違うのだ。駅名から考えて(勝手に)ここだと思っていた「2回の乗換で行ける所」と最寄り駅が違ったのだ。計4回の乗換、所要時間は片道2時間25分…。さらにショックなことに、うちから始発のバスに乗ったのでは間に合わないことがわかった。つまり雨でも何でも自転車で駅まで行くしかない…。でもその辺りは「まずその世界に入る」ための修行としてこの時はあきらめた。 面接は普通におこなわれたが「この校長切れ者だな」という印象だった。ただし、この時点では善人か悪人かわからないので、そう気には留めていなかった。でも変だなということが2点あった。 1点目は4月1日まで…という宿題を出そうとしたこと。学校が関わって出した出版物を買わされた上に、それについての意見をレポートにまとめてこいと言うではないか…。なるほどその学校のやってきた活動に興味はある。でも3月31日までは他校の先生なのだ。ましてや、引き継ぎや荷物の移動その他で普通は忙しいのだ(ちなみにその年の私は春休みは3月31日まで前任校で働いた)。それなのにこちらの都合もお構いなくそういうことを要求するのは「おかしい…」ととっさに思った。(でもこれは多分、やる気があるかどうかの踏み絵なのだろう) 自閉症に関してのレポートということで、ちょうどその日持ち歩いていた自分の研修報告書(このHPからも読めます)を出してそれで済ませてもらうこととなった。(ちなみに他のみなさんもそれぞれ宿題を出されていたことが後日判明) 2点目は配属。私は免許は小・中・高とあるのだが、特殊免許を持っていない(取ってから来るのは非常に難しく、来てから取る人が多い)。息子が自閉症で慣れていたり、多少は勉強したとはいえ、この世界では初心者なのだ。なのに、仕事の分掌もクラスもその年のプロジェクトになるようなチームに入っているのである。「少しずつ勉強したいので困る」と言ったのだが「もう決めて動き始めているのでこれでお願いします」と一蹴された。 この辺りの内部の事情は、4月1日の初出勤から少しずつ解け始めるのである…。
2005/10/16
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「養護学校の先生になろう」と思ったからといって簡単にはいかない。新規採用の時は本人が希望していないのに養護学校に行くことが多々あるのに、一度他の職種になると「異種間異動」という扱いで何かとハードルが高いのである。「こっちの方が楽だ(実際はそんなことはないのだが)」と勘違いして気軽になりたがるのを防ぐ面もあって、年々かわりにくくなったそうだ。 当時の校長(珍しくいい人)に相談してそういうことがわかると共に、今転勤して2年目だからここでバタバタと出るより3年の区切り(私の勤務地域ではこれが基本の最低ラインだった)まではいて、3年目の来年度はそういう研修を今の立場のまま受けてみてはどうか…とアドバイスをもらった。 「なるほど…」と納得。その学校は少し荒れてはいたがとても居心地がよかったし、野球部も勝負の年だったし、仕事の引き継ぎとかもゆっくりできるし…1年延期していいことづくめであった。その年は全部で12回くらいの「心障教育」の出張にも出られ、他にもことあるごとにそういう研修に参加。講師から紹介があったような本も読み、「予備知識」を蓄えられる時期となった。 その年は次の校長(評判悪し)に代わっていたが「引き継ぎ事項」として異種間異動のことを納得してもらっており、3月末日に某養護学校への異動の内示が出ることとなった。 私「ちょっと遠いなあ…」 校長「でもこれを流すと、養護学校に行けずに、ただ他の中学校にかわるだけの可能性もあるよ…」 私「ダメならここにもどれるんだったら、もう少し近い養護にかえて欲しい…」 校長「イヤ、一度断るとあとはとにかくどこかに出されてしまう…」という会話の後、そこに行くこととなった。校長が涙を流して握手を求めたので何となく「ベストの進路」に決まったような気になってしまった。 「よっしゃー、がんばるぞ!」と思ったり、「もう野球部の指導できないんだなー」「この大人数の前で授業するのもあと何回か…」とかおセンチになったりしながら残りの日々を過ごした。 しかし新しい生活は、とんでもないことになっていくのである…。
2005/10/15
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「このままではいけない」と思い始めた4年前、すでに「自閉症」の本を探しては読んでいる状態だった。でも今みたいにいろいろなホームページとか「アマゾン」みたいな書籍検索とインターネット販売のシステムを知らなかったので、いろいろな本屋に行っては「いったい何のコーナーに置いてあるんだ…」とその都度途方に暮れながらも、やっと見つけたものを読んでいた。 その前は、妻が同僚に借りてきた古い本しか読んでいなかったので「親の育て方で自閉症になった…」みたいな今は明らかに否定されている考えの本から読んでしまった。さらにドナの「自閉症だった私へ…」で、その世界がわかるというより前途の多難さに悲しくなってしまった…。 それだけにたまたま本屋で見つけたその本が「自閉症」という中根晃先生の1冊だったことが幸運だった。現在の自閉症療育の現状を正確につかめて、「なんとかできるんだ」という気になれた。 とはいえその年の、中3担任、野球部顧問、進路指導主任の毎日では「本を読む時間」さえとれないような日々…。本を見つけにいくこともままならず、気持ちばかり焦る中、「そうだ、養護学校の先生になれれば、仕事として勉強できるぞ」と考え始めたのである。
2005/10/14
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今から4年前、Sが3歳になったばかりの頃、やたらとうんちをさわる時期があった。紙おむつの中にして、それを教えることなく、手を入れてさわったり、部屋の壁になすりつけたり…と困り切っていた。 ある日の朝、夫婦で出勤準備をしている所にSが起きてきて、部屋の入り口に立って顔だけ出してこちらをじっと見つめていた。「Sおはよう、こっちおいで」とか言っても入ってこない。不審に思って迎えに廊下に出ると…本人はフリチンで、手とおしりが茶色い。そして寝室に入ると…床が茶色い下痢便の海! 本人の手を取ったまま、「大変だぁ」と叫び、Sを妻がシャワーに連れて行った。その間、私は寝室の床の茶色い海と格闘。ティッシュで拭いてバケツの中に入れても入れても終わらない。そのうちSが妻ともどってきて、夫婦で拭いている所をじっと観察。二人がこらえきれず泣きながら、床やその他の所についたうんちを拭いている姿を見て、自分もさめざめと泣き出した…。 そのうち何とかなるかな…と思っていたが何ともならず、「自分が何かしないといけない」と考え始める出来事となった。 ちなみにうんちいじり&なすりつけはその後ぴたりとやんだ。もしかしたら初めて「悲しみ」を共有できた日だったのかもしれない。 あっしかし、4年後の今でも、うんちはいつもおむつでしかしないし、たまーに、手にとって、においをかいだりすることがあったか…。
2005/10/13
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週に一度、仕事帰りに整骨院に行っている。何かが特にひどく…ということではないのだが、右足首・右のでん部・腰・肩などいろいろと痛くなるので治療というより現状維持のため…となってしまっている。 今年度は折を見ては、ウォーキングをしたり・泳いだり・ジムに行ったり…と結構健康的に体を鍛えているのだが、どうもそれだけにしては体傷みすぎ! 筋肉痛の多くは、こうしてCPに向かうと、右腕をまたいで乗っていたり、背中から登って肩の上に立っていたり(身動きできず)、そこから降りて勝手に肩車状態だったり…のS太が原因であることはほぼまちがいなし! 仰向けに寝ていると、お腹の上を歩き(腹筋鍛え)、グライダーを要求し(これが結構腰に来る)、「もう終わり」と言ってもしつこくねばるこの男が、1週間とは思えない疲れを導いているらしい。もちろん、加齢によるもの、仕事のストレス、長年の運動の蓄積…など少しずつ弱ってはいるのだろうが、これから先、ヤツはますます手強く・重たくなると思うと、体のメンテナンスの必要性を感じるのである。 ちなみにこの整骨院、元々は3年前に野球肩で右腕が上がらなくなって行き始めた。中学校の野球部顧問を9年間やってきて、ノック(左打ち)などによって右肩の肩胛骨が限界になっていたらしい。ずっと何年間も痛かったのを「だましだまし」使っていたのだが、ある時、カーブを連投(右投げ)していて「巨人の星」みたいな破滅の音が! さらに翌日、馬とびをしていて激痛! そのうち直るだろうと思っていたら次の日に腕が上がらず…。で、初めて整骨院へ行く決心がついた。 3週間くらいギブスで固定したので、その間は板書(黒板書き)を左手でやる(もともと大した量、書いてなかったから少しだが)羽目に。話ながらは書けなかったり、漢字の右左を逆に書いたり、知っている漢字が出てこなかったり、脳の不思議を知ったのであった。(当時)自閉症児の感覚の謎もこういう脳の働きにやっぱり関係しているんだろうな(右脳と左脳のつながり?とか)と思った。
2005/10/12
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今日は月に2回の療育センターに行く日。仕事を早引けして2時過ぎに帰ると、S太のちょっと泣いたり怒ったりしている声とばあちゃんが必死であやす声が奥から聞こえてくる。刺激しない方がいいなあと思い、そっと二階へ(笑)。 小学校からの連絡帳を読むと「今日、○○寺に散歩に行きました。途中、30cmの大ミミズがいて、いきなりさわろうとしてみんなを驚かせました。生きもの探しをしていて、急に小川に入り、靴からズボンまでぬれました。帰りはどうしても靴を履きませんでした。給食はまったく食べませんでした。」 うーん、先生達、誰かが学校までだっこかおんぶをしてくれたらしい…。または裸足で帰ったのか…。 家でも食事をとらなかったのに、「柿の種」をつまんで出かける頃にはご機嫌状態!! さらに途中のコンビニでこだわりの赤飯おにぎり(ある会社のモノのみ食べる)を一つ半食べてすっかり元気に。 療育は4年前の行き始めは月に1回ペース、今年からは月に2回、STとOTを2枠連続で受けている。個別の課題などに、笑っちゃうくらい真剣に取り組むので(家でも学校でもあまり見られない姿)、ぜひ病院の先生に家に来てもらいたいぐらいだ。 STの部屋では「荷物がなくて、こんなに構造化された部屋がうちにあれば…」と思い、OTの部屋では「こんな大きなトランポリンやブランコがうちにあれば…」と思い、でも思うだけで、うちは相変わらずの「いろいろなモノが転がり、ベッドや本棚やキーボードが天然のアスレチック」の部屋なのである。
2005/10/11
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うちの息子(以下S)は7歳で、知的な遅れを伴う自閉症児です。診断名だと自閉性発達遅滞。確か3歳の頃に最初の診断を受けました。 それにしてもやはり「自閉」ということばからの誤解は大きくて、いろいろな人に伝えるうちに、完全にまちがっている人もいることに気がつきました。「保育園か幼稚園を嫌がるの?」とか「部屋でじっとして動かないの?」とやはり「不登校・引きこもり」イメージでまちがう人。その勘違いのままさらに「引きこもり生徒の心を開く専門家?」を紹介してくれようとした方までいて、まいりました。かくいう私も10年前までは「物静かな子のこと」なんだと思っていましたが…。 ちなみにうちのSは「じっと動かない」どころか多動なので片時も目は離せず、スキがあればどこかに登ったりいたずらしたりの毎日です。心は開いているよう?ですが、うまく伝わらなかったりしては怒っています。現在もちゃんとした日本語としての発語はなくて、「はっきりした喃語」(バビデビチーなど意味不明)を発して怒ったり鼻歌を歌ったりしています。 このブログでは今後どうしても我が家のSの例ばかり多くなってしまうと思うので、十人十色の自閉症を伝えるには偏りがあるかと思います。自閉症について大まかなことを知ろうという方は、「お気に入り」の所の「日本自閉症協会ホームページ」や左上の「ホーム」をクリックした時に右側に表示される「フリーページ」の「研修報告書」(以前私が校内の先生向けに作ったモノです)をぜひ一度ごらんください。 今日(日付では昨日の夜)は、ひとつ前の日記を書いていてPCに向かっていた時に、ふとふりかえると、後ろが真っ白な世界に…。ティッシュが一箱すべて出されてばらまかれていました。やっとやらなくなったと思っていたのに、また戦いの始まりです。
2005/10/10
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「うー、めんどう…」と少し思うのは、職場の同僚や久しぶりに会った友だちに、「仕事をどうして変わったのか」とか「自閉症って何?」というのをすべて一から伝えないといけない時。もちろんそれをゆっくり話すことで、充実した時間や楽しい時間や浪花節的な時間?といろいろなるけど、少人数で飲んでる時でもなければ、なかなか短時間では語り切れずに尻切れトンボ(死語か?)になっています。 せっかく知り合い(私)がそういうことに関わっていて、自閉症のことや障がい児教育のことをもっと知りたがっている人がいるならば、もうちょっと伝えたい…。「よかったらこれを見て」と言えるモノをつくっておけばいいのだ…と突然思ってブログをはじめました。でも最初から気合いを入れると大変そうなので、思い出したことから少しずつ書いてみようと思います。
2005/10/09
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