泡雪の日記

泡雪の日記

泡雪さんの日記

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新年から、一年の半分が終わってしまいました。
今日は七夕。

年に一度、牽牛と織姫が出会える日といわれてきた。
空を見上げる、祝いの日。

旧暦の7月7日で言われているのなら、1ヶ月ほど後ですね。
七夕は、西暦で数えれられて居るのか、旧暦の7月7日なのか、
ご存知の方居ませんか?

二人を隔てる、天の川。
7月7日しか見られないわけではありません。

空に浮かぶ、星雲ですから、ミルキ~ウエイは無くなりません。
日本の関東の神奈川では、見づらいです。
子供の頃、天の川がイメージしづらかったです。

中国大陸の奥地に行くと、見事な星雲が見られます。
織姫の話は、大陸から伝わったと思います。
<貴方の幸せが、何故か私にも力をくれます。
貴方のくれる感動が、私の波動を大きくしていきます。

フィ~ル・イン・ユア・サイ!


ファンド・イン・ユア・セルフ。


ウィ・マスト・ホ~ルド・オン・トゥゲザ~。


ウィ・ウィル・オ~プン・ニュウ~・ミラクル・ワ~ルド。


私は、事実しか書きません。
想像力に欠けているからです。
でも創造力は?
私の知る所では有りません。
私の知っている限りにおいては事実です。


以前の日記。
未だ、自分に何が起きているのか理解できず、只不思議体験を書いた。
自分でも理解を超えていた
ライコスで書いていた事。不思議体験の一部。
誰にもわかって貰えないと言う、諦めと、この変わった出来事を越えて理解してくれる人を探していた。
理解されるような文章さえ書いていなかった。



9月28日から楽天の日記をつけ始める。
10月28日に「青い炎の日記」と出会う。

日記にはこう書かれていた。
「もし生まれ変わる事が有ったら、魚になってもいいな~。」
と水槽の魚を見て思った。
でもそのときには、小さな水槽の中でなく、大きな海を泳いでいたい。
そして、魚の目で、色んな世界を見てみたい。

私もその頃、テレビを見ていて、渡り鳥の記憶の話をきいていた。
「生まれ変わったら、鳥になってもいいな~。」
と思って居た。

この二つの、輪廻転生に対しての思いは
生きる事への姿勢は非常に似ていて、心が震えた。
「自分以外に同じように考える人が居る。」

「鳥のように飛びたいとか」、「魚のように泳ぎたい」ではなくて。
その存在として生きる体験を感じて見たい。
と言う考え方。

いろんな事を感じている自分を、楽しんでいる「意識」のある証だ。

この人の人形にでも、成って、傍に居て、全てを委ねたい気持ちに成った。
これは、私が他者を愛し始めた、最初の瞬間かもしれない。
わたしは、元来、甘えん坊。
それが、素直に表に出てきた。
頼りたいと思える人に初めて出会った気がした。
そして、文章から察するに、若い人と感じ自分の抱いた感情を告白し、
相手に、罪の意識の告白をした。

彼は、私の感情を理解して、受け入れてくれた。
医学生で今は研修医。
受け止めてもらって、孤独から開放された。
私の望みは小さな物。
私が居る事を知っていて欲しい。
理解されたい。
それだけだった。
そして、それは大変難しい事でもある。

日記のリンクを赦してもらい。
彼も、してくれた。
これは、非常に珍しい事。
そして年齢的に恋愛対象ではなかった事が幸いした。

そして、今「炎」を‘愛する気持ち`が‘人の子イエスお思う気持ち`の有り方を教えてくれた。
すこし、嫉妬する気持ちも体験して、
「神が妬むほど人間を愛している」
と言う気持ちを理解した。

相手を認めて、互いの感情を犯さない愛仕方。
人間が人間を愛する時の姿勢。

それ以前私は人を愛した事が無かった事。
人を愛して初めて知った。
これまでは
愛ではなく、<情動で求め合う、要求と与える関係>で関わっていた事。

愛された事は多くある。
愛し合う両親から沢山の愛は貰った。

愛は無償で与えられる。
特別私が良い子で愛されたわけではなく、
むしろ逆だった。
問題が多い為に愛を受けてきた。
愛される事は容易い。
愛のある人に会えば誰でも愛される。

愛する事はナカナカ学習されない。
自分が愛せる人に会わない限り。

「愛すると言うこと」は新しい<概念。>

愛する事を経験して、愛を理解する。
愛すると言う事は、自分の心に「愛」を胸に抱く事だと知る。

愛を与えたつもりが、欲しがる相手にに対して、情動で過干渉をしていただけだと、気がつく。
愛する事は相手への存在への尊重が伴う事。
その人物そのものを受け入れる事。
関係を求める事とは違う。
敬虔が無ければ生まれない。

愛したことで、初めて知った。
「この愛」には、人間の情欲を含まれないもの。
且つ自分と同じような理解と価値観を持ち、自分に無い個性がある。≪この場合異性という個性。≫でした。
自分に無いものに対する憧れと、尊敬が生まれた。
畏怖の感情。
敬虔な感情。
それらを理解するに至った。
そして、胸の真ん中に暖かい物が棲み付くようになった。
環境が出来たのだと思う。


最初は≪親子程、年下にそんな感情持つのは犯罪だ。≫とおもった。
異性としての感情を持ったからだ。
色んな事を考えた。
100歳で子供を産んだサラの話。
長男の嫁が、夫に死なれ、弟全部と結婚し、子を成さなかった時。
天の国では、誰の妻に成るのかと言う問いに。
天の国では、娶ったり、孕んだり、もはやしない事をキリストは言った。
そう。魂の状態では人は自由なのだと気がついて、罪の意識から逃れた。
何時終わるか判らない苦しみは、20日ほどで通り過ぎた。
苦しい時、苦しさを和らげる為に、苦しさと同じ音楽を探した。
偶然、1999年の12月6日リリ~スされたサンプルのCDに
ぴったりの物を見つけた。

トリニティ~・エンタ~プライズ 03-5347-5338 担当石井
のもので、 ≪angels’
       andles≫

と言うアルバムの中の、3曲目
タイトルは《ANGELS’CANDLES/COLNNLE NA nAINGEAL》 
この曲が私のであった恋と言う感情そのままだった。

慰められるのは、6曲目の
     《THE SWANS AT COOLE》

アルバム全体は軽快な曲と織り交ざって、重くない。

興味ある方は聞いてみて下さい。
バイオリンの曲です。

Maire Breatnach と言う人のようです。

この出会いが、私をクリスチャンとして生きるきっかけを与えた。
彼もまた、聖書を好んで読む人だと知ったのは、後の事でした。
日本以外で子供の頃を過ごした人で、神を受け入れる事に抵抗が無かったそうです。
真理の探究をする人と知って神様についての疑問を話せる相手ができた事を嬉しく思った。

私は、24年前に聖霊に出会い。
あまりの不思議さで、水の洗礼の儀式を受けた。

直後から、サタン「聖霊でない霊」の攻撃に会うようになり、
キリスト教を考えないようになった。
聖霊に関わらなければ、サタンの攻撃も止む、と考えたからだ。

自分自身は洗礼を受けたけれど、クリスチャンと言ってよいものか、
既に判らなくなっていた。
心に聖霊の不思議を忘れる事は無かったが、「教会や聖書」を遠ざけていたからだ。

そして今。

この何年かの不思議体験の後。

不思議を起こすのは神の力だけではない事(サタンといわれる物も不思議を起こす)を知っているので、
炎との出会いをきっかけに、キリストの神を素直に求めるようになった。
サタンと友達になるのなら、キリストのほうがよいからだ。

切なく苦しい思いを感情を
相手に迷惑にならない気使いをして
自然に過ぎるまでそのまま受け止めていたら、
(その期間は3週間でした。)
聖霊を受け入れる体になっていた。

初めは、余りの苦しさに、胸に炎症が残ったのかと思った。
私には胸の中央に熱い感じで残りました。



11月25日から29日 は京都の旅で密教について知った事を書いた。
聖霊について、
その後、サタンの霊について
エクソシスト
ポルタ~ガイスト
と自分のキリスト教へ目覚めていく道筋が書いてある。
そう、私も目覚めたばかりなのだ。

これから、色んな事に出会うと思う。

私を見守ってくださいね。

神=万物を構成する要素全ての存在。宇宙はその一部分。
聖霊=愛のエネルギ~
神の思いは愛である。
聖霊=は、イエスの人間の肉体を着た神が人間の苦しみを知り、
   人間の苦しみから、救う為に作られた霊団。

≪神=霊では無い。≫

3週間。
これこそ、「初恋」と思った、苦しみの後、心に熱い暖かい物が残った。
最初、それが、≪心≫と言う「者」ではないか?
と思っていた。
或る日意味も無く、心が荒れた。
自分の成りたくない、タイプの人を見て、
「こんな人たち死んでしまえばよいのに」
と思った。
感じるままに
≪こんな心持ちではこんな事を思うのか~。≫と意識が自分を観察していた。
私は感情に余り振り回されない。
思う事は、そう思った自分をそのまま自覚する事にしている。

荒んだ日を潜り抜けた後。
再び胸に、暖かい物が≪ポっツ≫と蘇った。
聖霊が棲む様になって日が浅かったので居なくなった時には気がつかなかった。帰ってきたときに居なかった事を気がついた。
そして、今それが≪聖霊≫であるだろうと思うようになった。
居なくなった何日間の心の荒みを考えると、無くしたくないものだと感じて居ます。

これは、
≪神は居る事が当たり前と思う信神ではなく、聖霊信仰だ。≫
自分を信じて当たりをつけ、思う方向を決める事を信仰と言う。
他人の相談したり、薦めに従う事とは違う。


聖霊は人格を持つ。
私に聖霊だと言う事を知らせる為に、一時離れたようだ。

聖霊の棲む体について、後々話して生きたいと思う。
聖霊は、人の頭を乗っ取る事はしない。
気がつくのは自分でしかない。
聖霊の異言でさえ、本人に意志に逆らって話す事は無い。
聖霊からの物は本人に従う。
自分の意志に従わず体を占領するなら、それは聖霊ではないと思ったほうが良い。
聖霊は、自由の意志を大事にする。

最後に、聖霊の導きによる、≪智慧で描く事は≫、あくまでも、個人の体験による物で、他者には参考の為に書き記している事。

それぞれの道で、皆さんが聖霊を受け入れ、それぞれの生活の中で、神とお付き合いされる事を祈ります。
聖霊の働きは、受け入れた器で働きが変わります。

≪皆さんに神の祝福を・・・・。キリストの御名によって。エイメン≫










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