LIVE FOR LIFE

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彩の足跡 4


中学のとき いじめやイヤなそんことが多すぎて学力が最低に近いほどまで
落ちていました。
そんな私を救ってくれた人がいるのです。
母の知人が藤沢にいるとき行っていたおばさんの息子さんが
学校の先生になるため勉強をしていたため
私の勉強をみてくれることになったのです。
そのお兄さんはとても優しく根気よく私に勉強を教えてくれたのです。
私の覚えやすいようにノートに英語・数学の肝心な場所を整理して
くれたのです。
藤沢から逗子まで自転車で家まできてくれました。
私はなんとか私立でしたけど 入れる高校がありました。
そのお兄さんも中学の先生になりました。
あとから又 交流がでてくるとはそのときは思ってみませんでした。
その高校はなんと中学のとき私を助けてくれた三縄と一緒だったのです。
合格発表日 父の誕生日でした。
父と一緒に発表をみにいく途中までいったら一足先に結果をみにいっていた
私が途中までいきかけたとき三縄がものすごい勢いで走りよってきて
「一緒に合格したよ~!」と教えてくれたのです。
もう~うれしかったです。
それも三縄と一緒なんて・・・思ってもみていなかったのです。

高校入学式です。
クラスを確認をしました。
残念ながら三縄とは違うクラスだったのですが隣でした。
担任は女の先生でした。
クラス2クラスごとにの行動だったので三縄と私は一緒にいたのですが
1人の子が私に「何組?」と声をかけてきたのです。
私と同じクラスでした。
私はまだ 名前しかしらないこの子が声られたをかけて三縄の他に
この高校に知っている人がいることが不思議にも感じられてきたのです。
それと もう~1つ私を驚かしてくれたことがあります。
私と同じクラスに母の友達の娘さんが一緒だったのです。
教室で母親同士が偶然の出会いのご対面をしたのです。
私と娘さんはあ然でした。
娘さんは母親の後ろに隠れおとなしそうで恥ずかしそうでした。
その子はものすごくかわいかったのです。
ところが・・・私は数日後 自分の目を疑いました。
お弁当の時間でした。
色々な歌謡曲が流れてくる中 ピンクレディー・キャンディーズの
当時流行していた曲が流れると友達と2人で
教壇の前で踊りだし始めたのです。
私は入学式の式のときに声をかけてくれた永石と仲良くなり中学のとき
イヤな思いをしてきた自分とも別れられる・・・と思っていたのです。

私はこの頃 歌謡曲では”狩人”の大ファンになっていたのです。
この当時の歌番組NHK「レッツゴーヤング」という番組を放送したのです。
この番組に出演して”サンデーズ”というグループの中に私の目の中に
入った人がいたのです。狩人・・弟の高道さんでした。
この目に入った人はこのあと素敵な歌をきかせてくれたのです。
”あずさ2号”でした。
この曲をきいたとたん なおいっそうに私の心をゆらしていったのです。
この番組には多くの歌手が出演をしていました。
その中でも私は百恵さんの出演する日を楽しみにしていました。
芸能界 たくさんいる中女性では百恵さん 男性では高道さんでした。
その当時 毎日のように歌番組がありました。
月曜日 ”紅白歌のベストテン” 火曜日 ”歌謡ホール”
水曜日 ”ベスト30歌謡曲” 木曜日 ”ベストテン”
金曜日 ”ゴールデン歌謡速報” 土曜日 ”8時だよ!全員集合”
日曜日 ”ヤングオー オー”も放送していましたが
私は””レッツゴーヤング””でした。
この番組を司会をしていた作曲家の都倉俊一先生にも興味をもって
いました。
これだけ毎日歌謡番組があっても”レッツゴーヤング”が1番好きでした。

学校のほうでは朝 行くときは三縄と一緒にいっていたのが途中まで一緒にいける部活は音楽部に永石と入りました。
この音楽部が私を大きくかえてくれたのです。
偶然にも3年生に逗子からきてる先輩と知り合い朝 学校行くときも
その先輩も今までの友達に加わり高校まで一緒にいくようになったのです。
そんな私でぢたがクラスでは私の陰口をいっている人がいました。
せっかく仲良くなった永石とは喧嘩が多くなってなってきたのです。
永石は喧嘩のたびに他の友達も仲間にいれ自分1人では
何もできない人でした。
そんな私の前に現れたのが・・・・
幼稚園のとき 優しく一緒に遊んでくれた年上のお姉さんに
そっくりな「お姉さんではないか」と思うほど似ていた1つ上の先輩を
みつけたのです。
この先輩と仲良くなり交換日記を始めたのです。名前は沼野先輩。
先輩の写真をもらい下敷きにいれ 私の好きな狩人の曲の詩を
レポート用紙に何枚もかいてもらってもち歩いていました。
休み時間のたびに私のところにきてくれたのです。
学校へは部活を楽しみにいっている・・・というぐらい
先輩を頼りにして学校にいっていたのです。
クラスでは周りからは中学と同様 よく思われなくなってきたのです。
何をしたわけではない 中学のとき笑われていた英語も自分で調べ
教科書にふりがなや意味をかいたりして人前でも恥ずかしがらずに
多少のことはできるようになったきたのです。
部活のほうではよき友達に恵まれ楽しい時間を
すごすことができていました。
三縄を離れ私自身の友達・先輩ができていたのです。

私は体育は高校では診断書が受理され見学でした。
それでもラジオ体操だけはやっていました。
実技ができなかった分 体育の私の試験は各競技で先生のいわれた競技
(バレーボールとか陸上競技・・他)をレポート用紙に各30枚以上
調べて提出でした。
テストの時期は辞典探しに大変でした。

大好きな部活は輪がだんだん広まってきて部活が終わったあとも
仲良くなった令子・津田・恵子・中島先輩・永石・沼野先輩と一緒に残り
遊んで家に帰るのが遅くなってもいました。
そのとき 沼野先輩がピアノでよく弾いてくれたのが
「精霊流し」でした。
体育館でバレーボール・バスケットボールで遊んでいましたが
私はみているだけでした。
それでも先輩と一緒にいられることがうれしくて仕方なかったのです。
3年生が卒業のあと沼野先輩が部長になり
部長になった先輩は部活の練習中に指揮の練習もさせてくれました。
なかなかうまくできない私に根気よく教えてくれました。
沼野先輩は当時 人気だった原田真二のファンで
中島先輩は世良正則のファンで私が狩人だったので買っていた雑誌を
お互いに交換をしていました。
中島先輩とは手紙交換をして色々話をしていました。
沼野先輩同様 よき先輩でした。
そして1番恐れていた先輩の卒業式。
私は先輩と別れるのが寂しくて先輩の前で泣いてしまったのです。
沼野先輩は自分が使っていた・整理した教科のノートをくれたのです。
泣いてしまった私に「一生の別れではないのだから又会えるよ。」と
いってくれたのです。
先輩のいなくなった学校はなれるまで時間がかかりました。
先輩が休み時間にでも教室にきそうな感じだったのです。
先輩は学校と一駅違いのところに就職していたので
学校がおわると先輩の駅に向かいまちぶせをして乗り換えのある一駅
5~6分のところを一緒に帰ってきたのです。
この駅には父の会社もあり先輩を待っている姿をみられて
「早く帰ってこいよ」とよくいわれました。
父も相手が先輩だと知っていたので安心していたようでした。

先輩のいなくなった部活に1年生が入ってきました。
その中に逗子からきている子がいました。
「先輩」と呼ばれるうれしさ・恥ずかしさでいっぱいでしたけど
やっぱりうれしかったです。
1年生が次々と「先輩」と駆け寄って話かけてきてくれるときは
自分も満足した気分でした。
とてもかわいくも感じてきました。
逗子からきている後輩を初めだんだん打ち解けてきて
沼野先輩のいない学校にもだんだんになれてきました。

顧問の音楽の先生とも気さくに接することができるように
なっていました。
ちょっとだけ好意を持っていましたけど
永石は完全にはまっていました。
永石のお付き合いでいつも先生の所にいっていましたが
それが私の負担にもなりつつなっていました。
今でも忘れられないのが永石と狩人のコンサートに
行く約束をしたのです。
場所の最寄駅を「千駄ヶ谷」だったのを「世田谷」といってしまって
先生を困らせあっていると思いこんでいる私は
ものすごく意地を張って先生に抗議をしていたのを覚えています。
3年間 文化祭に向けて練習をしていたのですが
忘れられない曲は「モルダウの流れ」「美しき青いドナウ」です。
3年生間 両親は欠かさず見にきてくれていました。
舞台裏の準備も楽しかったです。
汗を流しながら用意した自分たちの舞台で講堂に集まった
何百人のも人の前で音楽部の仲間たちと歌を歌うなんて
中学だった頃の私には想像もできなかったです。
よき友達・先輩にめぐりあえて本当によかったです。
高校で私は大きく変わることができたのです。







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