~Ayu's Protection Room~

生きる意味

生きる意味

生きる意味は何か?これは究極の問いである。そして、究極の問いには究極の答えがある。つまり、生きることに意味などないのである。しかし、誤解を避けるために少し説明してみよう。

まず、「意味」って何でしょう?我々は分からない言葉に出会うと辞書を引き意味を調べる。そして、その言葉を使っているうちに「意味」など意識しないでも使えるようになる。また、子供は親に自分の分からないことをいろいろ質問する。そして、説明を聞いて納得するともうそのことを特に意識しなくなる。つまり、「意味を求める」という行為は、何か自分の外に自分の生と折り合いのつかないものを見出し、それを何とか自分に納得させる、あるいは、自分の生と折り合いをつけることである。折り合いがつけば、「意味」などもう意識にのぼらなくなる。

それは、「間違った意味」ですらよいのだ。自分の生と折り合いがつき、慣れ違和感がなくなればよいだけだからだ。しかし、あなたは、「真の意味」を求めたいというだろう。はっきり、言うが、「意味」はすべて「近似」にすぎないのだ。例えば、量子力学で光は、波でありかつ粒子である、と言えば、イメージの上では矛盾する。しかし、式の上では説明可能であり、波に似た性質は波動方程式の形によるものであり、粒子性は演算子であらわしたときの固有値の離散性などから来る。では、「その式の意味は何ですか?」と言えば、あなたは、日常的な言語で表現できるものの中に類似物を見出し、自分と折り合いをつけたいのである。そうすると、波であり粒子である、となるわけだ。しかし、その意味って日常言語での近似にすぎないでしょ?

「対象」を曲線にたとえるなら、「意味」とは、その時点で対象に引いた接線みたいなもので1次近似にすぎない。その時点で納得すれば用が終るのである。すべてそれで説明しようとすると接線は遠くに行くほど曲線からズレて行く。これが言語の曖昧性なのだ。

次に、「生きる」って何でしょう?例えば、我々は普段、呼吸をしているが、「呼吸する意味は何か?」と人に聞けば、「生体を維持するため。」、「生きるため。」という答えが返ってくる。つまり、生きることが、あらゆる意味の根底にある。そして、「意味」とは、自分と疎外感のあるものと自分の生に折り合いをつけることであった。よって、現実の生命体としての自分を言語化すると「意味を求める主体」となる。そして、言語上で「生きる」という言葉を使うとき、それは、「各瞬間において、意味づけを行うこと」と言える。あるいは、意味づけを求めている。

さて、最後に、「生きる意味」だが、まず、意味を求めている以上、あなたは今、生きることに疎外感があるわけだ。しかし、「生きることが、意味をつけること。」である以上、この問いには答えはない。もし誰かが、あなたに生きる意味を教えてくれたとしても、先に述べたように、「意味」は近似にすぎないのであって、教えてくれた人がそれで人生に折り合いをつけているにすぎない。一時的には、納得できようが、やがて自分とのズレを見出すであろう。


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