もしも、ニューヨークにいなかったら、私は写真の道には進んでいなかった。そう言えるのは、私が日本の写真の世界に、私の嫌いな「日本の演歌」に通じるものを感じてしまうことが多いから。もちろん日本にも優秀で、好きな写真家はいる。だけども、町の本屋の写真集の多くはページをめくるほどに、憂鬱な気持ちにさせる。それは人それぞれの感覚の違いなのだから仕方がない。価値観も違う。私がニューヨークで写真を学んでいる間、とてもオープンな、風通しのいい、表現の明るさと言うか、心に触れることが多かった。ニューヨークと日本を比較すること自体、ナンセンスに近いことなのかも知れない。ニューヨークには優れた『表現者』と同じように優れた『傍観者』が存在する。それで自ずと写真のアイデンティティはしっかりと『アート』として捕らえられるし、写真表現自体のクオリティも上がる。優れた『見手』があってこそ。その点、日本はまだまだだと思う。日本人の写真家は器用な人が多いから、真似がうまいと聞いた。例えば、ブルース・ウェバー風だとかメイプルソープ風に真似て写すことは簡単にやってのけられる。だけど、ニューヨークでは何が要求されるかと言えば『オリジナリティ』と『自分なりのスタイル』。これを持っていなければ相手にされないと言っていい。写真は誰にでも撮れる。今は特にデジタル化が進み、カラオケが普及して国民総歌手になったように、アマチュア写真家とプロフェッショナルの境も曖昧になっている。そして誰もが接写レンズで花の写真を撮って飾ったりする。それはそれでいいとしよう。写真は特殊な「自己満足」の世界なのかも知れない。その波長に合った人がそれを見て感動したり心を動かされたりする。日本にいると時々、私は本当に写真が好きなのだろうか?という疑問にぶつかってしまう。そして、ニューヨークでロバート・フランク氏や友人の(最早、師匠ではない?)ラルフ・ギブソン氏と作品を見せ合って話をしているうちに我を取り戻す。それもまた、邦楽を聞かずにクラプトンなどを聞いて育った影響なのか、それとも元々そう生まれついたからそうなのか。多分ね。
All Rights
Reserved (c)
無断転載、使用を禁止します