正史 馬操伝

正史 馬操伝

荀イク

荀イク<文若>



潁川郡穎陰の人。163年に生まれた。名門の荀氏に生まれ、彼自身も容姿端麗の偉丈夫でもあり、若い時に何ギョウに「王佐の才」があると称された。王佐の才とは王を佐けると言う意味で主君に仕えてその人を偉大足らしめる才能のことである。また、荀イクが幼児の頃に権勢を振るっていた宦官・唐衝の娘を娶っている。しかし宦官の一族と繋がったことで何らかの批判を受けた。

189年には守宮令となるが董卓の乱の時に帰郷し、冀州牧の韓馥に下った。しかし、着いた頃には冀州は袁紹に奪われており、袁紹は荀イクは反対に彼を迎えた。しかし、荀イクは彼は大業をはたせる男ではないと悟り、曹操のもとに下った。曹操は「我が子房(張良)がきた」と言い、大いに喜んだ。

その後、曹操のもとで数々の功をたてた。194年に曹操は徐州の陶謙を攻めて荀イクは程イクと曹操の本拠地のエン州の留守を任されるが、張バクと陳宮が呂布を引き込んで謀叛を起こしてエン州はほぼ呂布たちに取られた。荀イクの守備する城には「呂布が曹操の援軍にやって来たので城を開ろ」と使者がやってきたが、荀イクはすぐに謀反とわかり、夏侯惇と合流し、曹操陣営に残った三城を曹操の帰還まで死守した。

曹操は根拠地を奪われ、徐州を再び攻めようとしたが、荀イクが「高祖・光武帝が天下を統一できたのは本拠地の関中・河内をしっかり治めたから。まずは本拠地のエン州をしっかり治めるべきだ。」と諫めて、曹操は呂布と対決してこれを破り、エン州を平定した。

荀イクは献帝が洛陽に逃れてきたのを好機とし、献帝を奉戴するように献策した。そして曹操は帝を奉戴し、許に迎え入れ、この功績により曹操は大将軍となり、荀イクは侍中、尚書令となった。

200年の官渡の戦いでは、かつて袁紹のもといた経験をもとに袁紹の弱点を説明した。そして戦いでは荀イクが言ったとおりになった。荀イクは戦いには参加しておらず許の留守をしていたが、その時に曹操が引き上げようかと訊いてきた。荀イクはこれに反対して曹操を励まし、勝利に導いた。また袁紹に一旦勝利した後、彼との決戦を止めて劉表を攻めようかと考えたことがあったが、荀イクは今、袁紹を完全に潰しておくべきと反対した。これらの進言に従い、曹操は袁紹を滅ぼして華北のほぼ全域を領地に治めた。

203年にそれまでの功績から万歳亭侯になり、その後も加増される。

しかし、その後に曹操が魏公の地位を欲して九錫を受けようとしていた。荀イクはこれに猛反対し、曹操との間に亀裂が生じた。
212年、曹操の孫権征伐に従って出征し、陣中で病気を発して死去した。享年50。




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