馬 耳 東 風

馬 耳 東 風

幸せのカケラ

【幸せのカケラ】



~1~ 
 両親が離婚した。
 突然のことだった。
 しかもメールで。
『お母さんとお父さん、別れる事になったから』
 たったそれだけのメールだった。
 それでも、沙織には実感が湧かなかった。
 赤ん坊の頃から、母方の祖父母に育てられていたから。

 母は、根っからの仕事人間で、家庭をかえりみず、仕事一筋で、まともに沙織を抱いた事もなかった。
 父は、そんな母に愛想をつかし、外に恋人を作り、家に帰ってくることもほとんどなかった。
 だから、沙織は、両親とほとんど顔を合わせる事はなく、祖父母の元で、育ててもらっていたのだ。

 そんな両親が離婚した。
 離婚を切り出したのは、父の方だったそうだ。
 恋人と結婚したいと。
 母は、なんの抵抗もすることなく、承諾した。
 親権は母になったが、沙織を引き取る事はもちろんなかった。
 これまで通り、祖父母に育てて欲しいと言ったそうだ。
 養育費だけを渡し、母は、ますます仕事に埋没していった。
 沙織は、寂しくなかった。
 これまでと、生活が変わったわけではなく、今まで通り祖父母と生活をするのだから。
 祖父母は、とても優しかった。
 沙織のことを、精一杯愛してくれていた。
 沙織は、それだけで満足だった。
 沙織はとても幸せだった。



~2~
「そんなの勝手だ!しかも、メールで済ませるなんて、なんて母親なんだ!!」
 幼馴染の信二は、沙織の両親の離婚に激怒したが、沙織はまったく動じなかった。
「俺はずっと沙織と一緒だからな。安心しろよ」
「なに?急に。信二、怒りすぎだよ。私、全然平気だよ。おじいちゃんもおばあちゃんも大好きだもの」
 中学生になって、幼稚園の頃からの幼馴染の信二とは、小さい頃のように毎日遊ぶ事はなかったが、それでも、家が近所なのもあり、信二の部活が早く終わると、よく一緒に帰っていた。
 中学では、すでに公認の仲になっていた。
 お互いに告白なんてしてなかったけれど、一緒に居るのが当たり前だった。
 沙織は、祖父母と信二がいてくれるだけで、幸せだった。
「でもさ。勝手すぎるだろ?お前の両親だから悪く言うのなんだけど、だけどさ」
「もういいんだって。今までと全然変わらないもの。私は、おじいちゃんとおばあちゃんと、それから、信二がいてくれれば、幸せだよ」
「恥ずかしい事平気で言うな。でも、沙織がそれでいいなら、俺はずっと一緒だからな」
「ありがとう。それだけで、十分だよ」
 ふっと立ち止まると、信二は沙織の方を向いた。
「それより今日、体育で倒れたの、大丈夫だったか?」
「あ、うん。大丈夫。ちょっと貧血だったみたい」
「ちゃんと食べてるか?お前、そんなに体強くないんだから、食べるもんくらいきちんと食べなきゃだめだぞ」
「ふふ。信二、おじいちゃんと同じ事言ってる」
「笑い事じゃないんだぞ。心配してやってるのに。じいちゃんだって、心配してるんだからな」
「そうだね。ありがとう。大丈夫だよ。ちゃんと食べてるから。夜なんて、動けなくなるくらいいっぱい食べさせられてるもん」
「そっか」
 また歩き出して、それでも心配そうに顔を覗き込んで、
「やっぱ、顔青白いぞ。本当に平気なのか?」
「大丈夫だって。今はもう、フラフラしないもん」
「そっか」
 一応納得したように、信二は前を向くと、沙織の歩調に合わせて歩き出した。



~3~
 しかし、信二の約束が守られることはなかった。
 中学二年になって、信二の父親の転勤が決まった。
 信二一人が残るわけにもいかず、信二も転校することになってしまった。
「ずっと一緒にいてやるなんて言っておいて、約束、守れなくてごめんな」
「・・・仕方ないよ。おじさんの仕事の都合でしょ。信二が謝ることなんてないよ」
 言うより先に、沙織はぽろぽろと涙を流した。
 両親が離婚しても泣く事のなかった沙織が。
「俺、絶対戻ってくるから!泣くな、沙織」
「うん・・・」

 信二が転校する前日。
 信二は、沙織を近所の公園に呼び出した。
 小さい頃から、よく遊んでいた思い出の公園に。
 その公園には、一本の大きな桜の木があった。
 そこにもたれかかるようにして、信二は沙織が来るのを待っていた。
 沙織は、目を真っ赤にして、現れた。
 さっきまで、泣きはらしていたようだった。
「沙織。俺、絶対戻ってくるから。戻ってきたらまた二人でココに来よう」
「・・・」
「ココに、沙織に渡したいもの埋めたんだ。俺が帰ってきたら、二人で掘り起こそう」
「・・・何埋めたの?」
「それは、内緒だ。絶対戻ってくるから、それまで楽しみに待ってろよ」
「・・・うん」
 沙織は、またハラハラと涙をこぼし、信二に抱きついた。
「絶対、戻ってくる?」
「うん。絶対だ。今度こそ、本当に絶対だ」
「待ってるからね。信二の事、ずっと待ってるから」
 信二は、沙織を抱きしめて、沙織の願いに応えた。



~4~
公立の女子高に通い始めた沙織の体に、異変が起こったのは、そんなに時間がかからなかった。
 幼い頃から、体があまり丈夫ではかった沙織だったが、高校に入って、体育の時間になると、必ずといって良いほど、貧血で倒れるようになった。
「医者に診てもらった方がいいんじゃないの。こんなに貧血が続くなんて、何かあるかもしれないし」
「大丈夫だよ~。中学の頃だって、何度かあったけど、激しい運動しなければ、大丈夫だったもの」
「でも、このところ、ちょっとした運動でもすぐに倒れること多くなったじゃない。絶対お医者行きましょ」
 祖母は、沙織に何度も医者に行くように勧めていたが、そのたびに、沙織は笑って首を振るのだった。

 三年になったある日、高校の体育の授業で、バレーのボールが顔に当たり、沙織は鼻血を出して倒れた。
 倒れる事はいつものことだったので、最初は友達もいつものことのように、保健室に連れて行ってくれたが、血が一向に止まらなかった。
 いつまで経っても止まらないので、先生は、祖父母に連絡し、病院へと連れて行った。

 祖父母は、揃って病院へとやって来て、待合室で座ってる保険の先生を見つけると、駆け寄った。
「大丈夫ですか!?沙織、血を出して倒れたって・・・」
「はい。倒れる事はよくありましたが、これほど血が止まらないのは珍しいので、念のため病院へと連れて来たのですが・・・。今、治療を受けてます」
「だから、もっと早く医者に連れて来ればよかったんだ。沙織がどんなに平気だって言っても」
「あなた、いまさら。とにかく、治療が終わるまで待ちましょう。先生、病院に連れてきてくださって、ありがとうございます」
「いえ。佐藤さんは、いつも貧血で倒れていたので、私も気になってはいたのですが・・・。申し訳ないですが、私も学校に戻らないといけないので、クラス担任へは、私の方から言っておきますので」
「ありがとうございます。原因が分かったら、お知らせしますので。お世話になりました」
 祖父母は揃って頭を下げた。


~5~
 しばらく待っていたら、治療室から先生だけが出てきた。
 思わず、祖父母は先生に駆け寄る。
「あの、佐藤ですが、沙織は。沙織は大丈夫でしょうか?」
「はい。今、点滴を受けてもらってますので。幸い血は止まりました。それよりも、先ほど血液検査をさせていただいたのですが、気になる事がありまして。少し、お話よろしいでしょうか?」
「・・・は、はい」
 祖父母は、先生に促され、相談室へと通された。
 祖父母は、何が起こったのかまったく分からず、ただ先生に従っていった。
「沙織さん。貧血で倒れる事が多かったのではないですか?」
「はい。少し激しい運動をすると倒れる事が、結構ありました」
「やはり、そうですか・・・。」
「沙織は、何か悪い病気なのでしょうか?」
 先生は少し顔を曇らせて、血液検査の資料を祖父母に見せた。
「こちらは、先ほど血液検査で出た結果なのですが・・・。沙織さん、白血球が平均値をかなり上回ってまして・・・。詳しく検査をしないと分からない点もあるのですが・・・。沙織さん、白血病の可能性があります」
「・・・白血病」
「白血病にも色々種類があって、急性のものや慢性のものなどがありまして。薬でそれを抑えることも出来るのですが、所見の様子では、慢性の白血病、慢性骨髄性白血病ではないかと・・・」
「あ、あの。治るんでしょうか?」
「インターフェロンという薬で、白血球数をコントロールする方法が一般的です。まずは、それで白血球が減ってくれるのを様子見た方がいいですね」
「そうですか。あの、入院とかした方がいいのでしょうか?」
「ええ。通ってもらう方法もあります。ただ、安静にしていてもらわないと、また倒れる事になるでしょう」
「・・・そうですか」
 祖父母は、自分の孫の身に何が起こったのか、イマイチ把握できてないようだった。
 突然のことで、頭が真っ白になっていた。
「いいですか?今は、白血病と言っても、いろんな治療法があります。治らない病気ではないのです。少しでも早く治す事が第一ですので、学校へ通いながらの治療もできますが、できれば、集中的に治療された方がいいかと」
「・・・そうですか」


~6~
 その日から、学校を休学し、沙織の闘病生活が始まった。
 薬を点滴で流し込んで、毎日の採血。
 安静にしていても、いくら薬を投入しても、白血球数は、多少下がっただけで、相変わらず異常数値を示していた。
 病室では、祖母が沙織のためにリンゴをむいていた。
 ただでさえ細い体が、ますます細くなっていったように見えて、何かを食べさせたくて仕方なかった。
「ほら、沙織。リンゴ食べなさい。少しでも栄養とって、早く元気にならないとね」
「・・・うん。ありがとう」
 リンゴをシャリッとかじって、少し咀嚼していたが、疲れたのか、半分も食べずに、皿に戻してしまった。
「もう少ししたら食べるから・・・」
 沙織は、弱弱しく笑った。
 その時、沙織の携帯が振動した。
 信二からだ。
 信二が中学二年で転校してしまってから、二人はメールや電話のやりとりを欠かさないでいたのだった。
 高校三年になった二人は、同じ大学に行こうと約束していたのだった。
 その時、信二は、こちらに一人暮らしとして上京してくると。
 沙織はどうしても、信二には、自分の病気のことを告げることができずにいた。
 余計な心配をかけて、勉強に支障をきたしても悪いと思って。
 同じ大学にいくことは出来なくなってしまったけど、信二に会いたい。
 その想いだけで、沙織の心は溢れていた。
『勉強はかどってるか?俺も絶対頑張って合格するから、試験会場では会えるよな』
『そうだね。信二、勉強頑張ってね。私も頑張る。早く会いたいよ』
 メールをしてる時が、病気を忘れられる一瞬だった。
 無機質な病室の中で、点滴の管を見てると、心まで病んできそうで、信二からのメールは、心の支えだった。


~7~
「今の薬では白血球の数値がなかなか減らないので、薬の種類を変えてみましょう」
 主治医は、祖父母を呼び出し、また詳しい話をしてくれた。
 沙織の白血球は一向に下がらない。
「まだ、薬の種類はあります。でも、最終的には骨髄移植をしなければならなくなります。白血球の型が合う人を見つけなければならないのですが、親御さんが一番近い可能性が高いのですが、沙織さんのご両親は?」
「沙織の両親は、離婚してまして。母親の場所は分かってるのですが、父親の方は、今どこにいるか分からないんです・・・」
「親御さんがいらっしゃるなら、是非、ドナー登録してほしいのですが、出来ますか?」
「・・・連絡してみます」

「えぇ!今、忙しいのよ。休むなんて出来ないわ」
「お前、自分の子どもが大病を患ってるんだぞ。それなのに、なんだその態度は!!」
「・・・分かったわよ。型調べるだけだからね。さっさと終わらせて。仕事山積みなんだから」
 祖父は、沙織の母親、つまり自分の娘に連絡すると、早急にドナー登録を勧めた。
 こんな時まで、仕事仕事。
 祖父は、憤りを感じていたが、今は沙織の体が一番心配だ。
 どんどん痩せていく沙織を、これ以上見ているのは辛い。

 母親の型は、みごと、沙織と一致した。
 ただ、主治医は、薬で治せるなら、それで治した方が良いと言う。
 骨髄移植は、最後の手段でとっておきましょうとのことだった。
 母親は、これ以上時間が潰れなくて済んだと喜んで、沙織にも会わずにさっさと病院を後にした。


~8~
「お母さん、来てたの?」
「あ、ああ。お前の白血球の型と一致したぞ。だから安心して治療しような」
「お母さん。来なかったね。忙しいのかな?」
「いいじゃないか、来なくたって。沙織は、病気に勝つ事だけ考えていればいいんだ。何の心配もいらないからな」
「・・・うん」
 沙織は、寂しくはなかった。
 ただ、母親がどんな顔していたか、もう分からなくなっていた。
 数えるほどしか会ったことない母親。
 その人と、白血球の型が一致した。
 一応、親子なんだなぁって思った。
 ただ、それだけだった。

『明日、いよいよ試験だな。早く沙織に会いたいよ。会場で会えるのを楽しみにしてるよ』
 いよいよ、明日。
 もう、黙っていられなくなった。
 信二に話さなければ。
 大学で会えない事を。
 信二に会うまでに、治ってほしかった。
 でも、どんな薬を使っても、沙織の白血球は、一向に減ってくれなかった。
 それどころか、少しずつまた増えはじめていた。
 話さなければ。
 でも、余計な心配をかけて、信二が受験に失敗してしまうのはイヤ。
 明日。
 信二が受験終わったら話そう。
 その日。
 初めて、信二からのメールに、返信しなかった。


~9~
『受験終わったよ。沙織見かけなかったけど、今どこにいるの?』
『受験、お疲れ様。きっと信二なら受かってるよ。私、ずっと祈っていたもの』
『沙織、受験しなかったのか?どうして?どうかしたのか?』
『それは・・・』
 意を決して、沙織は、今の自分の状況を信二にメールした。

 信二は、受験会場から、直接沙織のいる病院へとやってきた。
「どうして・・・。なんで教えてくれなかったんだ。こんなになってるなんて。俺、会場中探し回ったんだぞ」
「ごめんね。余計な心配かけて、信二が受験に集中できなくなってしまったらって思って、言えなかったの」
「で・・・。今、どうなんだ?」
「いろんな薬試したけど、やっぱり白血球、減ってくれなくて。もう、移植しかないみたい」
 別れた頃に比べると、随分と痩せて小さくなった沙織を痛々しそうに見つめて、信二は思わず沙織を抱きしめた。
「ごめんな。沙織が大変な時に、何もしてやれなくて。俺、ずっと浮かれてて。ホント、ごめんな」
「ふふ。なんで信二が謝るの?信二のせいじゃないんだよ。これは、仕方なかったの。でもね。薬で治るって信じてたから。そうしたら、信二と同じ大学にも行けるようになるかもって思ってて」
「移植、出来るのか?」
「・・・うん。お母さんと型が一致したから。でも、成功するかどうか、やってみないと分からないの。私、怖くて。骨髄移植するのも、その後も、結構苦しいみたいだから。同じ白血病の人が言ってた」
 抱きしめた沙織の体が、かすかに震えてる。
 もう一度、強く抱きしめて、
「絶対大丈夫だ。もう、俺、ずっとこっちにいるよ。沙織の移植が終わるまで。沙織が元気になるまで」
「ありがとう・・・。でも、お母さん、来てくれるか分からないし」
「そんな!自分の子どものことだぞ。それくらいの時間作ってくれるだろう?」
「でも、型を調べるのに病院へ来る事も、一度渋ってたみたいだったから」
「もし、なんか言うようなら、俺が這ってでも連れてきてやる!」
「怖いの。全部、怖くて仕方ないの・・・」
 肩を震わせて、恐怖に耐えてる沙織を見て、信二は主治医の元へと駆けて行った。


~10~
「本当に、いいの?」
「大丈夫だ。俺が先生に頼み込んだんだから」
「外に出るの、久しぶり」
「たまには、外の空気吸うのも良いものだろ?じいちゃんに頼んで、車で連れて行ってもらうから」
「行くってどこに?」
「俺たちが会ったら、行くところは一つしかないだろ?」
 沙織は、不思議そうに首をかしげる。
 信二は沙織の手をずっと握った。
 沙織の少しの不安も感じられるように。

 そこは、家の近所にある、公園だった。
 小さい頃、よく遊んでいた公園。
 信二が転校する前に、最後に会った公園。
 車を止めると、祖父は運転席から出て、沙織を支えるように車から降ろした。
 再び祖父は車に乗り込む。
 信二は、沙織の手を取って、大きな桜の木の下に連れて行った。
「あっ」
「思い出したか?二人が会ったらココにまた来ようって言ってただろ?」
 信二は、そう言いながら、木の根元を手で一生懸命掘った。
 しばらく掘ってると、小さな箱が埋まっていた。
 箱の泥を落とすと、沙織に向いた。
 手の泥を落として、沙織に向かって箱を開けた。
 そこには、花の形をかたどった指輪が入っていた。
「可愛い」
「だろ?」
 そういうと、指輪を拾い上げて、沙織の左手の薬指に指輪をはめた。
「沙織。俺と結婚してくれ。今すぐには無理でも、これは約束の指輪だ。中学の時に買ったから、オモチャだけど。でも、気持ちは本気だから」
「信二・・・」
 沙織の頬に、涙がつたう。
「イヤか?」
「ううん。嬉しい。ずっと一緒にいたいって思ってたから。でも、私の病気、治るかどうか分からないし、なんて返事をすれば・・・」
「返事は、イエスしか受け付けないよ。沙織が病気でも、関係ない。二人で治していこう。もう沙織は一人じゃない。ずっと俺がついてるから」
 沙織は信二の胸に顔をうずめて、声を押し殺して泣いた。
 悲しい涙じゃない。
 自分が少し、強くなれた気がした。
 そんな涙だった。


~11~
 母は、またも移植を渋った。
「仕事が忙しいって、言ってあったじゃない。なんでこんな面倒ばかりかけるの」
「お前、沙織が今までなんの面倒かけたって言うんだ。お前達の勝手な理由で親をなくして、それでも素直ないい子に育った沙織に、そんなこと言えるのか」
「また、仕事に穴が開くわ。この前は検査で半日取られて、今度は一日かかるって言うじゃない。こんなことになるなら、産まなきゃ良かったわ」
「お前、言って良い事と悪い事があるぞ!それが、自分の腹を痛めて産んだ子どもに言うセリフか!」
「分かったわよ。提供しないなんて言ってないじゃない。ただ、私は、仕事が・・・」
「人の命より大切な仕事なんてない!お前の仕事は、命より大切なのか!?たった一日休むだけでダメになる仕事をお前はしてるのか。そんなもの辞めてしまえ!」
 祖父は、病院のロビーに響き渡るほどの大声で、自分の娘に叱咤していた。
 母は、渋々了承すると、とにかく早く済ませてくれの一点張りだった。

 母の骨髄を移植するために、沙織は無菌室に入って自分の白血球を殺す作業をすることになった。
 苦しかった。
 起き上がるのもやっとだった。
 信二は、毎日やってきて、ガラス越しに会って、励まし続けた。
 ついに、骨髄移植が始まった。
 ゆっくりと、母から抽出した骨髄を、点滴のように流し込んでいく。
 それから、母の骨髄が白血球を作り始めるまで、また苦しい思いをし続けた。
 信二は、代われるなら代わってやりたいと思うほど辛そうな沙織を見て、それでも毎日通って、沙織を励まし続けた。
 感染症を起こすわけにはいかないし、骨髄が拒絶反応を起こす恐れもあるから、慎重な毎日が続いた。
 何日も苦しみ続けて、やっと沙織の体の中で、白血球が生まれてきた。
 拒絶反応も起こしてないようだった。


~12~
「やっと触れた」
 信二は、一般病棟に移った沙織の手を握って、深いため息をついた。
「よく頑張ったな。もう大丈夫だからな」
「信二の顔色の方が悪いよ。病気みたい」
 そういうと、沙織は小さく笑った。
 細くなった指には、ぶかぶかになったオモチャの指輪がはめられていた。
「俺、夜もずっと祈り続けてたんだ。だから、かなり寝不足。沙織が一人で苦しんでるの、見てる事しかできなかったから」
「毎日来てくれてありがとうね。もう大丈夫だよ。先生も、正常値だって言ってたし。拒絶反応も起こしてないって言ってたし。まだしばらくは、入院続くけどね」
「いいんだ。俺、毎日来るから。沙織の隣で寝てやってもいいぞ」
「そんなこと言うと、おじいちゃんに怒られるよ」
「そりゃ怖いな。じいちゃん怒るとすげーからな」
 二人は笑いあって、もう一度、手を強く握り合った。
「指輪、新しいの買わないとな。これじゃ、ぶかぶかだし」
「ううん。これが良い。それに、また食べられるようになったら、元に戻るよ。きっと」
「そっか。そうだな。今の沙織、抱きしめたら、骨が折れちゃいそうだしな」
「少しだけ、抱きしめてくれる?」
 沙織は、ベッドに寝たまま、手を広げた。
 信二は、体重をかけないように覆いかぶさると、優しく沙織を抱きしめた。
 信二の肩が少し震えていた。
 沙織のぬくもりを感じる事が出来て、初めて、沙織が生きてる実感を得ることができた。
「信二君の泣き虫」
「・・・うるさい」







                                 おわり


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: