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Googleが拾ってきたインターネットの記事です。ゴッドファーザー3の作中の言葉を広島の超覚寺さんが紹介され、江田智昭先生が因果応報の解説をされています。やはり恨んだり憎んだりしたときは正しい判断ができずあとで後悔しますし、それに伴ってとった行動で一時的に溜飲が下がっても、その行動で自分がのちに苦しむ「因果応報」が待っていることを ゴッドファーザー3を例にわかりやすく教えていただいています。ゴッドファーザーを全編通して観たくなります。■参考リンク2024.11お寺の掲示板:相手を恨むな。判断が鈍る映画「ゴッドファーザー」超覚寺(広島県)、江田智昭 ダイヤモンド・ライフ編集部フィアのドンが戒める言葉 フランシス・フォード・コッポラ監督不朽の名作『ゴッドファーザー』3部作は、私がとても好きな映画作品です。今回の掲示板は、『ゴッドファーザーPARTIII』(1990)劇中のセリフから。 Never hate your enemies. It affects your judgement. ―― 敵を憎むな。判断に影響する。 ニューヨークマフィアの五大ファミリーの一つ、「コルレオーネ・ファミリー」の長で、“ゴッドファーザー”の異名を取るヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)。その三男で、2代目のドンとなるマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)が、おいであるヴィンセント・コルレオーネ(アンディ・ガルシア)に対して発した言葉です。ヴィンセントは短気でカッとなりやすい性格だったため、マイケルは周囲のマフィアグループへの報復を戒める意図でこう言ったのでした。 仏教の教えの中でも、憎んだり、恨んだりすることは厳しく戒められています。この連載の中でも何度か「怨みは怨みによって息(や)むことはない」というお釈迦さまの言葉を紹介しました(第74回参照)。浄土真宗の宗祖である親鸞は、恨みや憎しみに関して『教行信証』の中で次のようにおっしゃっています。 瞋憎(しんぞう)の心、常によく法財を焼く。「法財」とは、基本的には「法(仏の教え)という財産」になりますが、ここでの「法財」については「功徳」や「自分という存在」などさまざまな意味で解釈されています。 仏教の教えでは、周囲とのつながり(縁起)の中に自分が生かされていることを説きます。「瞋(いか)りや憎しみの心」は周囲とのつながりを破壊し、それによって「自分という存在」をも破壊してしまうのです。以下略。Never hate your enemies. It affects your judgement.お寺の掲示板 単行本(ソフトカバー) – 2019/9/26江田智昭 (著)
2024.11.10
東京の築地本願寺の宗務長を経て2022年から京都の西本願寺の執行長をされていた安永雄彦さんが、突然退任されたとのニュースを今年の8月に読み、びっくりしたとともに、理由が知りたいと思っていましたが、今回の日経新聞の記事を読み、わかりました。ご本人は長く務めるつもりだったのが、オーナーと何らかの行き違いで、ご本人の意思でなく退任されたようです。日経新聞の記事は有料会員用の記事ですが、私は楽天証券の日経テレコンで無料で読みましたが、安永さんの幼少のころからの人生や仏教とのかかわりが紹介されて面白いです。築地本願寺では数々の改革を実行され、すごいなと思っていました。2年前の夏に京都の西本願寺を訪れた際、拝観料もとらないで立派な施設を見学できてよかったと思いましたが、その後 すぐ安永さんがここに移られたと知り、より大きな舞台でのご活躍を楽しみにしていました。今は雌伏のときかもしれませんが、これからどう生きられるのか注目するとともに応援し、自分の人生に生かしたいと思います。 何度でもリセット 元コンサル僧侶が教える「会社軸」から「自分軸」へ転換するマインドセット Kindle版安永雄彦 (著) ■参考リンク2024.9.30日本経済新聞:僧侶 安永雄彦さん 何度でもやり直せる(1)日本最大の仏教宗派・浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺(京都市)の経営トップの執行長(しゅぎょうちょう)だった安永雄彦さん(70)。銀行出身の日本一変化を恐れないお坊さんだ。その手腕が評価されて信頼される寺への改革を進める道半ば。8月に突然退任することになった。つまずきは何か。「何度でもやり直せる」。その信条が自身に突きつけられる。8月7日に西本願寺で開かれた評議会は異様な空気になりました...この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。残り1351文字すべての記事が読み放題有料会員が初回1カ月無料京都・西本願寺のトップに藤實無極氏を新たに選出 現職の安永雄玄氏は1期で退任2024年8月8日 5:30京都新聞7/2京都旅行:JALスカイタイム、京都市バス、西本願寺
2024.11.02
在宅で仕事をしていると家族がショートスティに出かけているときとか、宅配便屋さんでも来なければ、たまに1日会話をしないときも在ります。これはいかんと思って、何かしら用事を作って表に出て他人と言葉を交わすようにしています。コンビニで「お弁当温めなくていいです。」とか店員さんにいうだけでも一応効果ありそうに思います。たまにスーパーのレジで、列ができてるのにおばあちゃんがレジ係と世間話してるの見かけイラッとしてましたが、事情を理解して暖い目でみてあげないといけないなと思いました。■参考リンク2024.10お寺の掲示板: 誰かと話すって心地いいのね。 知らなかった。新世紀エヴァンゲリオン 式波アスカラングレー(西本願寺鹿児島別院)この間のステイホームで、色んなことに改めて気付かされたのではないでしょうか。何よりもコミュニケーションをとれることの喜び。本当の地獄とは孤独だと教えていただいたことがあります。隣にいる人にありがとうを伝えたいですね。なお、本日も新聞でこちらの掲示板を取材いただきました。「誰かと話すって心地いいのね」川越の寺、なぜエヴァ・アスカの名言掲示? 「一人で抱え込まないで」副住職の思い2021.04.06 17:14JCASTニュース 埼玉県川越市の仏教寺院・最明寺に掲示された標語がユニークだと、SNS上で注目を集めている。「なんだか楽になったわ。誰かと話すって心地いいのね。知らなかった」 なんと「エヴァンゲリオン」シリーズに登場するキャラクター「式波・アスカ・ラングレー」のセリフが寺の掲示板に張り出されているのである。J-CASTニュースは、このセリフを掲示した最明寺副住職の千田明寛さんに、掲載理由などを取材した。以下略。
2024.10.01
あれこれくよくよ迷って何もできないまま長いこと生きてきました。心を決めて速やかに実行してやり切れたら充実した人生になるとわかっていてもできないのがもどかしかったです。迷わない秘訣は、妙心寺さんにあるように「常に相手の立場になってものごとを考え」るのも大事ですが、以前読んだ斎藤茂太さんの本が参考になり、少しだけ変われたと思います。令和5年11月のことば(浄土真宗興正派持名山一心寺)迷っていると何もできずに時間が過ぎ去っていく、空しい。これと心を一つに定めて、人生を生き切っていきましょう。「いい人だけどグズ」を直したい人が読む本―仕事・人間関係のクヨクヨを晴らす考え方 Kindle版斎藤茂太 (著) 形式: Kindle版■参考リンク成道会 〜鏡のような心(2012/11) 迷いとは 心が二つになること 悟りとは 心がひとつになること臨済宗大本山 妙心寺抜粋心のコントロールを お釈迦さまは続けて、「但ダ妄想執着アルヲ云々」と言われ、人間は、煩悩(ぼんのう)や妄念(もうねん)の虜(とりこ)になっているから、仏性に気づかないのだと教えられました。お釈迦さまは、この煩悩や妄念という悪魔を退(しりぞ)け、仏性に目覚められたお方なのです。 では、私たちも、仏性に目覚めることが出来るのでしょうか。 よく、坐禅を組めば、修行をすれば、煩悩をなくし、悪魔を退けられると考えますが、煩悩という悪魔は、私たちが生きている限りなくなるものではありません。逆にいえば、煩悩があるから生きていると言えないこともないのです。 だから、煩悩を無理に滅ぼそうと間違った努力をすると、逆に苦しい負担(ふたん)がかかり、最後には負けてしまいます。 私たちは、煩悩をなくすることは出来ません。しかし、それを整理し、調整しながら使いこなすことは出来るのです。 人間の心は、常に二つの顔が現れたり隠れたりしているのではないでしょうか。一つは、自分にとって都合(つごう)の悪いことや、嫌(きら)いなことは徹底的(てっていてき)に排除(はいじょ)してしまい、「俺が・私は」といった自分中心的な我欲執着(がよくしゅうじゃく)の心。もう一つは、相手の立場になって相手を理解し、それを受け入れて自他ともに、一体となろうとする、我欲執着に捕らわれない心です。 私たちは、この自分中心的な、我欲執着に支配される煩悩に捕らわれることなく、常に相手の立場になってものごとを考え、行動すればよいのです。「いい人だけどグズ」を直したい人が読む本―仕事・人間関係のクヨクヨを晴らす考え方(斎藤茂太著):「Kindle Unlimited読み放題」から
2024.09.01
YouTubeでも観られるんですが、三木大運住職の本が好きで5巻まで持っています。先日7巻が発行されたので、セールで6巻にポイントがアマゾンで結構ついたので買ってみました。三木住職のお話で一番好きなのが、この「黒いシミ」の話です。人間は、知らず知らず、あるいは自分ではそれほど悪いとは思わずに、人に危害を加えたり、あるいはよくないことをすることが在ります。そういったことで他人から自分への良くない感情が溜まって、ある時点でそれが自分に悪い方向で一気に表面化することがあるかもしれません。それに気づいた時点で、同様に悪いことをしていた他の人たちへお詫びして償ったことで主人公は平常に戻ります。大谷大学の先生の「同じように罪や障りが多ければ多いほど、後に得られる功徳も多いのです。」というのは、このことなのかと思います。■参考リンク「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」親鸞『高僧和讃』 (『真宗聖典』493頁):大谷大学 きょうのことば - [2010年05月]抜粋「罪や障(さわ)りは、そのまま功徳のもとになるのです。その関係は氷と水のようであり、氷が多ければ多いほど、溶けたときの水は多くなります。同じように罪や障りが多ければ多いほど、後に得られる功徳も多いのです。」 仏教では、「罪」とは煩悩によって作り出される悪の行為を言います。「障り」とはさとりの障害になるという意味です。ですから、罪・障りは功徳に反するもののように思われます。ところが、親鸞はそのような罪・障りが功徳のもとであると述べます。更には、その罪・障りが多ければ多いほど、それが転じたときに得られる功徳が多くなると言います。つまり、親鸞は罪・障りがあるからこそ、功徳が得られるということを述べているのです。 私たちは生きていく中で、様々な困難にぶつかります。いままさに思い通りにならない現実にぶつかって苦悩している人もいることでしょう。また、時には思いがけず過ちを犯したり、失敗をしたりすることもあります。私たちは出来ることなら、失敗や苦悩することなく、楽しく生きていきたいと思います。しかし、失敗したり苦悩したりすることは、決していけないことや悪いことではありません。それらはやがて自分を育て、成長させていくという一面があるとも言えます。そのように捉えられたとき、失敗や苦悩に対する価値転換が生まれるのではないでしょうか。怪談和尚の京都怪奇譚 妖幻の間篇 (文春文庫) Kindle版三木 大雲 (著)
2024.08.20
先日、お寺で母の七回忌を無事終えてきました。亡くなってから8月6日でもう6年、最初の2,3年はお盆やお彼岸の頃、よく夢に出てきてくれたり、夜中に部屋がみしっとよく家鳴りがしたりして、母が帰ってきてくれてるのかと思ったりしましたが、最近3年くらいはしばらくご無沙汰でした。まだ母との亡くなる前に交わした約束が果たせないものもありますが、母が亡くなった頃抱えていた私の大きな懸案も半分くらい片付いたので、母も安心してどこかで生まれ変わって楽しく暮らしているのかなと勝手に思い、それならそれでいいやと思っていました。そう思って寝た8月4日の晩、妙な夢を見ました。小学校6年くらいの女の子に私が勉強を教えているか私が教わっているシーンです。起きた時、なぜか暖かい気持ちになってました。この夢にどういう意味があるのかわかりませんがひょっとして生まれ変わった母の登場かなと思ったりします。死後6年の経過と12歳の子では、亡くなってからの年数とこの子の年齢が若干合いませんが、生まれ変わって元気な姿をわざわざ見せに来てくれたと都合よく解釈して、自分も残る大きな懸案に取り組もうと思いました。そう思ってはみたものの、よく考えると7月末に観たおもかげというドラマは浅田次郎さんの原作で、ストーリーが同じ浅田次郎さんの鉄道員を思い出させました。私の夢解釈も鉄道員のシーンに似た展開なので、たぶん脳内でこの映画と母のことをミックスさせた自分の都合のいい自分を安心できるストーリーの夢を作り出したのかもしれません。不思議なことにこの夢を見た翌々日、7月中盤から抱えていた大きな問題が一気に解決して、のんびりとした気分でお盆を迎えられました。これも母のおかげかと思います。今後はせっかく楽しく暮らしている人の邪魔をしてはいけないのでもっと頑張ろうと思います。■参考リンクNHK:特集ドラマ おもかげ 原作:浅田次郎 主な出演者:中村雅俊 浅田美代子 不破万作 モロ師岡 前田亜季 板橋駿谷 さとうほなみ 宅麻伸 余貴美子 三田佳子鉄道員エンディング:モロネタバレです、ご注意ください。
2024.08.06
介護をまだ経験したことが無いころ、親の介護で忙しい友人に対して、なにもわからないのに、大変ですね、と通り一遍のお見舞いを言ったことが今、恥ずかしいです。一心寺さんのおっしゃる通り「同感できないと分かった上で寄り添っていきたいものです。」ちなみにこの言葉はAqua Timezというグループの『虹』という歌の一節です、全然知らない歌手ですが。■参考リンク2024.8お寺の掲示板(浄土真宗興正派持名山一心寺):似たような喜びはあるけれど 同じ悲しみはきっとない令和6年4月のことば喜びは似たような経験で分かりあえるかもしれません。同じ悲しみはなく、ひとりひとりの物語があります。同感できないと分かった上で寄り添っていきたいものです。虹の歌詞:Aqua TimezあくあたいむずORICON NEWS歌ネット:似たような喜びはあるけれど 同じ悲しみはきっとない
2024.08.02
世の中、コンピュータがどんどん進化しています。自分の仕事でも以前は機械の英訳なんで使い物にならないと思っていましたが、最近はもとの和文原稿をちょっと体裁を整えて、Google翻訳にかけ、ちょっと編集するくらいでけっこう使える英文ができてきます。そのうち、人間の翻訳者は不要になりそうです。AIと宗教ですが、AIの仏様が作られたようです。試しに質問してみましたがうまく答えが出てきません。ほかの方の質問への回答をみるとそれなりの回答がなされていて興味深いです。10年後には人間と宗教、AIはどんな関係になっているでしょうか?■参考リンクAIは後生をおしえてくれるかな:本願寺鹿児島別院今年のシルバー川柳の入選作品に「AIに 冥途の行き方 聞いてみる」という作品がありました。なるほど、膨大な情報を学習し、さまざまな答えを導き出してくれるAIに「冥途の行き方」を聞いてみるなんて、何とも時流を捉えた興味深い川柳だと感じました。 そこで実際にあるAIに冥途の行き方を尋ねてみました。すると、「文化や宗教によって異なります」と、残念ながら濁されてしまい、答えはわからずじまい。いや、仮に行き方を教えてくれたとして、それを受け入れていくことができるでしょうか。大切な方との別れの悲しみ、このいのちの行方をこの数年で開発されたばかりのAIに託すことは、やはりできないでしょう。 仏教は2500年にわたって命の行方、「後生」に向き合ってきました。「冥途の行き方」はAIではなく、お寺に尋ねてみませんか。「生きる理由が分かりません」 メカニカルなAI仏様に相談してみよう! ChatGPTと同エンジン搭載:いじって楽しいAI図鑑2023年03月08日 18時00分 公開[ITmedia] 人生何かと悩むこともあるだろう。例えば「生きる理由が分からない」「どんなに頑張っても成果が出ず苦しい」など……。そんな相談にのってくれるAIが登場した。仏教的な視点から答える「HOTOKE AI」だ。HOTOKE AIは家入一真さん(@hbkr)が作った相談サイト。相談内容を入力すると、仏教や心理学、コーチングの視点から解決方針や心掛けを自動生成する。文中のキーワードに沿ったハッシュタグも生成できる。米OpenAIの「ChatGPT」にも搭載しているエンジン「gpt-3.5-turbo」を採用している。 作者の家入さんは、GMOペパボの前身会社、ネットショッププラットフォーム「BASE」、クラウドファンディングサイト「CAMPFIRE」の創業を手掛けた起業家だ。浄土真宗で得度(僧侶になるための出家の儀式)もしている。 HOTOKE AIとはどんなやりとりができるのか。実際に質問してみた。相談 生きる意味が分かりません以下略。HOTOKE AIお悩みにメカニカル仏が答えますAIがいつでもあなたのそばに
2024.07.01
自分の解釈としては、人生にやり直しは聞かない。ただ自分の取った行動をふりかえれば、その結果いろいろ欠点に気づくこともある。それを是正した行動を取れば、気づかないまま同じ過ちを繰り返すこともなく、また自分や周囲にもよい影響を及ぼすのではないかと思います。■参考リンクインスタグラム 2024.6西本願寺鹿児島別院の掲示板から:やり直しのきかぬ 人生であるが 見直しはできる仏法に出遇えば、今まで気づいていなかった「おかげさま」に気づかされます。過去の事実が変わることはありませんが、過去が持つ意味は変化します。これまで思いを致さなかった「おかげさま」を見直してみたいものですね。Wikipedia:金子大栄金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3日[1] - 1976年〈昭和51年〉10月20日[1])は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。法語集自の喜びの深さは、他の喜びとなれることを知るところにあるようである。随喜されない喜びは眞の喜びではない。(『口語譯・教行信証』信の巻 領解)悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる。(『歎異抄領解』)やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことができる。花びらは散っても花は散らない 形は滅びても人は死なぬ。お念仏とは自分を発見する場所である。わが日本人においては、陛下の御名において、その実の御徳が全現しておるのであります。それ故に国民は、陛下の御名において生き、陛下の御名において死することができるのであります。(『正法の顕現』)※末尾に括弧のない句は、「しんらんWEB 法話集」より転載[出典無効]真宗大谷派徳泉寺さん金子 大榮2021年10月やり直しのきかぬ 人生であるが 見直しはできる明治から昭和にかけて活躍された浄土真宗の僧侶、金子大榮さんの言葉です。人生は後戻りはできないけれど、過去を問い直して今を生きることはできる。そして、受けとめられなかった出来事や自分の姿とも和解できるんだよ、と聞こえます。(2021年11月の言葉)真宗大谷派難波別院(南御堂)さん今月の言葉やり直しのきかぬ人生であるが見直すことはできる 〜金子大榮〜 私たちは、子どもの頃から親や家族に期待されて育ってきた。運動会では1番になれ、勉強では100点をとれ、そして世の中の役に立つ人間になれと言われて育ってきた。けれども、運動会で1等賞をとるのは一人だけ、試験で満点を取るのは大変である。そこで、一生懸命それに向けて努力することが大切だと言われてきた人が多いのではないか。 しかし、人生では躓くことがよくある。その躓いた時、この言葉が響いてくる。躓いたから駄目なのではなく、躓いたからこそ開かれてくる、違った道もあるよと示して下さっているようだ。1等賞、満点の生き方でなくていいよと、温かく見守ってくれる言葉ではないかと思う。 コトバンク見直す(読み)ミナオスデジタル大辞泉 「見直す」の意味・読み・例文・類語み‐なお・す〔‐なほす〕【見直す】[動サ五(四)]1 もう一度改めて見る。また、その結果気づいた欠点を是正する。「提出前に作文を―・す」「仕事の進め方を―・す」2 それまでの認識を改める。「今回のことで新しい市長を―・した」3 病気や景気などが回復してよいほうに向かう。「八月の半ば過ぎになると、稲穂もよほど―・した」〈藤村・夜明け前〉[類語](1)見返す・再見・二目
2024.06.01
数年ぶりに浜町公園の中央区総合スポーツセンターに寄った帰りに、公園内のお寺で見つけた掲示板です。お寺は加藤清正公を祭った清正公寺、明治時代には神社だったそうです。日蓮聖人のお手紙『崇峻天皇御書』の一節で、大塚山妙蔵寺さんの解説によれば、もう少し長く引用すると、『人身は受けがたし、爪の上の土 人身は持(たも)ちがたし、草の上の露』となるそうです。人間として生まれるのは稀有な事であり、平穏に生きることは大変なことなので、まわりの人と共に心を照らす「ともしび」を広げて不安に覆われない日常をつくっていきましょうと、お教えいただいています。あわせて妙蔵寺さんの四無量心(しむりょうしん)の解説が、日ごろ忘れかけている慈悲喜捨の心をわかりやすく解説していただいているのでご紹介します。2024.5清正公寺の掲示板:人身は持ちがたし草の上の露■参考リンク大塚山 妙蔵寺『人身は受けがたし、爪の上の土 人身は持ちがたし、草の上の露』2年前今日の言葉日蓮聖人のお手紙『崇峻天皇御書』より『人身は受けがたし、爪の上の土人身は持(たも)ちがたし、草の上の露』人間として生まれるのは、この世界にある土の中で爪の上に乗るほどの量くらい希有なことで、平穏に生きることは、草の上の朝露が、そのままの状態を維持するように大変なことであるということを表しています。これまでの安全が揺らいでいる今、人間として何ができるのかを見つめ、ホッとしたり笑顔になれる時間をつくりながら、まわりの人と共に心を照らす「ともしび」を広げて不安に覆われない日常をつくっていきましょう。大塚山 妙蔵寺:四無量心(しむりょうしん)慈(じ) …「相手の心が楽になるように」と思う心悲(ひ) …「相手の不安や悩み・苦しみを取り除きたい」と思う心喜(き) …相手の喜びを一緒に喜ぶ心捨(しゃ)…相手からの見返りを求めない心私たち誰もが持っている、生き物としての「人間らしさ」の根本で、「思いやり」とも表現できる要素です。この損得を超えた心の姿勢は、表情や言動に表れてまわりに伝わり、共鳴を生みます。すぐに報われないことも多いですが、必ず廻って不安や怖れに対応し、自分の安心を支えてくださる人とのつながりをつくる心の力となります。四無量心はあなたの中にある「安心の種」です。大切に育んでいきましょう。猫の足あとさん:清正公寺|熊本本妙寺の別院Wikipedia:清正公寺清正公寺(せいしょうこうじ)は、東京都中央区にある日蓮宗の寺院。歴史文久元年6月(1861年7月)に開山。同地にあった肥後国熊本藩下屋敷の敷地内に、熊本藩主家が領内の日蓮宗本妙寺に安置された加藤清正公の分霊を仏式で勧請したのが始まり[1][2]。明治維新の際、信徒らの請願を受けて神道式に変更、「加藤神社」と称された。1874年(明治7年)6月、当主細川護久の願により庶民の参拝が公許されたが[3]、1876年(明治9年)12月の東京府布達(甲第156号 私邸内ノ神仏堂衆庶参拝停止ノ件[4])により、一般参拝を中止。1878年(明治11年)6月、さらに許可を得て一般参拝を再開したが、1885年(明治18年)11月、信徒の請願により仏式に戻して「浜町清正公堂」と改称、熊本県飽託郡の本妙寺に管理が委託された[1]。1923年(大正12年)9月の関東大震災により焼失。細川家邸は1903年(明治36年)以降、細川家親族の長岡子爵邸となっていたが、同敷地が帝都復興事業(帝都復興公園) により浜町公園として新設整備されるとともに、堂の規模も縮小され公園内敷地に遷座。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲により再び焼失。戦後に公堂が再建され現在に至る[5]。鏑木清方や谷崎潤一郎は、かつて当寺の近くに住んでいたこともあり、往時の思い出を書き残している[2]。
2024.05.01
年を取ると肉体的にも精神的にも思うようにならないことが増えて、ついつい永遠の命や若さを求めがちです。最近の医学の発達からすれば、寿命を延ばしたり若返ることも夢ではないですが、たとえそれが実現しても、まわりの知った人がみな死んでいて自分だけ生き残っていたらそれは結構さびしいと思います。グリーンマイルのラストがうっすら思い出されます。やっぱり自然に生き、自然に死んでいきたいものです。また、自分の周りの人を大切にしたいと思います。東城貴之さんの解説が分かりやすいです。あんたが年をとればあたしも年をとる それでいいじゃないか 幽遊白書(幻海師範)■参考リンク漫画の名言を噛みしめる#2『幽遊白書』東城貴之2022年9月19日 21:02「あんたが年をとればあたしも年をとる それでいいじゃないか」幽遊白書:幻海師範幽遊白書の名言その10「あんたも年をとれば、あたしも年をとる。それでいいじゃないか」かつてのジャンプを支えた看板作品!!幽遊白書の名言を徹底紹介更新日:2018-10-31幻海ゲンカイ:ニコニコ大百科
2024.04.01
今月の言葉は、1926年に鹿児島で生まれ鹿児島大空襲を経験された吉峯睦子さんの言葉です。本願寺さんの解説の「仏さまの教えは、当たり前の日常を当たり前ではない日々であると気付かせてくださいます。そして普段通りに過ごせる日常は幸せであり、幸せとは、なるものではなく気付いてゆくものと教えてくださいます。」ということを吉峯さんの戦争体験は具体的に示してくれています。朝元気で言葉を交わした人が、夕べには戦争や地震で亡くなったりすると、この言葉の大切さを感じると思います。横田 ちえさんの東洋経済オンラインの記事の4ページ目まで読むと、この言葉のオリジナルの作者が分かってびっくりします。2024.3 西本願寺鹿児島別院の掲示板から:おはようと家族全員揃うこと平凡なれど最上の幸(吉峯睦子)日々を過ごす中で当たり前に明日がきて普段通りの日常を過ごすと思い、一日一日を送っていませんか。しかし縁があればこの当たり前の日常は、いともたやすく崩れ去ってしまうのです。私たちは失った時に初めてありがたさを知らされます。仏さまの教えは、当たり前の日常を当たり前ではない日々であると気付かせてくださいます。そして普段通りに過ごせる日常は幸せであり、幸せとは、なるものではなく気付いてゆくものと教えてくださいます。当たり前のように送る一日のありがたさに気付かせていただくことは、人生を豊かにしてくださいます。■参考リンク「日記を83年書き続けた女性」の波瀾万丈人生火の海から逃げた鹿児島大空襲の夜横田 ちえ : ライター 東洋経済オンライン2020/11/22 11:0095歳の吉峯睦子(よしみね・むつこ)さんと知り合った。それは今年の8月で、終戦記念日の翌週だった。ちょうど、戦争体験を書いた記事が新聞に掲載されたらしく、その切り抜きを見せてくれたのだ。平和への願いと、庭先に落ちる桜の葉を通して「命への感謝」を書いた文章だった。95歳の女性の書く「命」の重さが胸に迫った。聞けば、文章を書くことをずっと続けているのだという。大正、昭和、平成、令和にまたがる95年の人生。どれだけのことを睦子さんは見て書いてきたのだろうか。睦子さんのことが忘れられず、後日改めて「今までの人生のお話を聞かせてください」とお願いして話を聞きに通うことにした。以下略。苦楽をともに Kindle版吉峯 睦子 (著) 形式: Kindle版
2024.03.01
私心はいろいろな意味がありますが、松下幸之助さんはこのとき、私心を自分の利益だけを考える心として使っていたように思います。たまたまこの言葉に関する動画を見つけたのでご紹介します。動画の中で松下さんがしきりに、自分も私心が消せないと離されていたのが印象的でした。私心=煩悩なのかもしれません。今回はじめて松下さんが浄土真宗と縁のある方と知りました。伊藤忠商事、丸紅を創業された、近江商人の伊藤忠兵衛さんも、同様に浄土真宗に縁のある方と知りました。「近江商人の通った後には草も生えない」という言葉を昔聞いて、お金にがめついからなのかと思い込んでいましたが、どうやら間違いらしいです。伊藤忠商事さんによれば、近江の商⼈の経営哲学「三⽅よし」の精神は、「売り⼿よし」「買い⼿よし」「世間よし」にあり、また三方よし研究所さんによれば、「同業者がそんなふうに言いたくなるほど、巧みな商法とずば抜けた商品開発力で多くの人に喜ばれる商品を提供したということ。堅実・勤勉・質素倹約・信用第一を基本とする一方、無償で橋をかけたり、学校を建てたりと、利益の社会還元を進んで行う」など実績から生まれた言葉のようです。伊藤忠兵衛さんの考えも、自分だけの利益を考えずみんなの利益を考えるという点で松下幸之助さんと同じです。年末に読んだサイバーエージェントの藤田社長の本の中にも、仕事の成果を独り占めする人は、その後失敗すると書いてあります。どうやら、自分だけの利益を考える人は昔から現在に至るまで、短期的にうまくやったと思い込んでも、成功はないのは間違いなさそうです。経営者だとすれば、自分の利益のみを追求せず、従業員・株主・消費者・関係者等の利益を考えながら企業を運営することが大事と改めて知りました。■参考リンク「立派なひとであっても私心があったらそれはあきまへんな」パナソニックグループ創業者 松下幸之助パナソニックグループを一代で築き上げたカリスマ的経営者の松下幸之助氏は、京都・本願寺の門徒総代も務められるなど、特に仏教を大切にしたことで知られています。そこには、「自分だけがよければいい」という考え方ではなく「人のために生きる」ことの尊さを大切にする大乗仏教の精神が、松下氏の経営に通じる心があったからでしょう。 どれほど世間から「立派な人」と言われようとも、その心の奥底には「自分だけがよければいい」=「私心」があるならば、それはやっぱり、あきません。 親鸞聖人はそのような心は臨終まで消えることがないと厳しく見つめていかれましたが、私心が消えないことを「それでいい」と開き直るのではなく、申し訳ないことでした、恥ずかしいことでしたと省みていくことが大切でしょう。「たとえすべての事業・財産を失うことがあっても他力安心の信心を失ってはならない」伊藤忠・丸紅の創業者 初代伊藤忠兵衛伊藤忠商事や丸紅の創業者である初代・伊藤忠兵衛は滋賀の近江商人で、経営者として非常に先進的な取り組みを進めた人であり、また従業員と「正信偈」のおつとめを日課とするなど浄土真宗の熱心な門徒でした。「商売は菩薩の業」として、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の実践や「商売で嘘をつくな」という厳しい教えなど、その経営理念には深く浄土真宗のみ教えが根付いていたのです。「個人の仕事においても同じことがいえます。 目先の利益に惑わされて、仕事の成果を独り占めしようとする人がいます。ところが、こういう人は次第に周りから嫌われて、誰も協力してくれなくなります。短期的には「得した」「儲かった」とその人は思っているかもしれませんが、長い目で見ると、信頼を失い、非常に損をすることになるのです。」運を支配する 株式会社サイバーエージェント代表取締役社長 藤田晋蓮如上人御一代記聞書43「他力の安心(あんじん)」:浄土真宗本願寺派教念寺抜粋では、他力の安心って何なんだろう。阿弥陀様のお心を知って頭をさげ、すべてをおまかせすること、これが他力の信心だよ。阿弥陀様は、いつもいつも僕たちのことを心配して立ち続けてくださっている。そして、仏の教えに耳をかさずに私利私欲にまみれて地獄に落ちていく僕たちの姿を見ながら、涙を流されているんだ。そのお心を知ったなら、「もっと悪いことしよう」なんて、口が裂けても言えないよね。近江商人群像:三方よし研究所さん伊藤忠商事:歴史と価値創造モデル創業からの経営理念初代忠兵衛と「三方よし」
2024.02.01
最初、よさそうな言葉と思いましたが、今一つ意味が分かりませんでした。西本願寺鹿児島別院の解説は短いながらもよく意味が分かりました。なるほど、親に限らず身近な方ということでも通じる様です。あらためて身近な人を大事にしたいと思います。浄土真宗のお寺の掲示板によくある言葉なので、出典を知りたかったですが見つかりませんでした。■参考リンク2024.1 西本願寺鹿児島別院の掲示板から:人は親を亡くして親を知り親を亡くして親と出遇う私たちは身近な人や大切な人が元気でいるうちは、その人がそこにいることが当たり前というなかで生活しているので、日常を特別に思うことがなかなか難しいように感じます。しかし別れて初めて、なんともなかった日常がそのひとつひとつは有り難かった、かけがえのない出来事だったと気付かされるのです。
2024.01.02
仏教伝道協会さんが毎年開催されている「輝け!お寺の掲示板大賞」の2023 年販です。入賞作のうち気に入った言葉を拾ってみました。入選作に特定のお寺に偏りがあるようです。そのお寺に優秀作が多いのか、あるいは応募が少ないのか?来年は応募してみようと思います。11月にここ数年で珍しいくらいやることなすことすべて裏目に出て参った時期がありました。まあそんなときでも、神や仏のような人間を超えた偉大な力を信じてそれに守られていると信じ安らかな気持ちで、絡まった糸をほどいていると、やがて道が見えてきました。進退に窮まったときちょっとひいて、冷静に考えれば、良い解決策がひらめくことも在ります。物やお金にあまり執着しないで生きると心穏やかに過ごせるように思います。人は実際その悲しみを経験しないと、相手の悲しみが理解できないように思います。その人のいないところで、悪口を言うのは自分の品位が下がると思います。独自の道を行くとか、まあそんなに気張らず、みんなと仲良く歩いたほうが、人生は楽しいかも知れません。■参考リンク輝け!お寺の掲示板大賞2023 :仏教伝道協会
2023.12.15
西本願寺鹿児島別院の掲示板から、今月は芦田愛菜さんの言葉をご紹介します。:ANCHORさんの芦田愛菜の名言15選を読むと、この言葉が何を受けてのものかわかります。芦田さんのコメントはYouTube「蘆田愛菜 名言」で検索すると結構でてきます。若いのにたいしたものです。日頃から挨拶と感謝と(人には)いたわりの気持ちをもって人でも仏様でも接していれば、多少ぶれかかってもそんなに外さないように思いますがどうでしょうか。■参考リンク2023.12 西本願寺鹿児島別院の掲示板から:やっぱり口に出して感謝を言うほうが気持ちは伝わりますよね(芦田愛菜)「いつもありがとう」。思っていてもなかなか言えない言葉ではないでしょうか。「ありがとう」という感謝の気持ちは、もちろん心に思うことが何より大切ですが、心でそう思うならば行動することも大切でしょう。やっぱり口に出して言う方が気持ちはより伝わりますよね。「南無阿弥陀仏」と声に出して称えるのは、仏さまへの敬いと感謝の心の表れです。もちろん心に思うことが大切ですが、「南無阿弥陀仏」と、仏さまへの感謝の気持ちを言葉にしてみませんか。今月のことば:4月のことば「呼びかけに育つ」学校法人光華女子学園 人は人との関わりの中で、心豊かに過ごすことはできるのでしょうか。先日こんなことがありました。京都桂川の堤防道路の路肩に脱輪し立ち往生している軽トラックに出くわしました。ドライバーは外国の女性の方で動揺が隠しきれない様子。そこにはたまたま通りかかった非番の警官が1人。警官は何度か車の移動を試みますが、タイヤが空回りして動きません。警官は自分の弟を呼び出し、2人は協力してロープを使って牽引しましたが、うまくいきません(ちなみに、この弟は消防士。兄弟で本当に頼もしい限りです)。時間も経過し夜も遅くなり、心細く不安げな様子のドライバーに周りの人たちは心配して声を掛けました。「会社の車なので会社の方に叱られる。」とつぶやきます。「仕方ないよ…。大丈夫やし。」と私も声をかけました。ドライバーは少しずつ口を開き、話をするようになっていました。しばらくして会社の方が到着し、集まった総勢6人が力を合わせ、なんとか軽トラックを路肩から引き上げることができました。その時、周囲は拍手と安堵に包まれました。このように、予期せぬ事態が起こった時、人は不安に苛まれます。どうしてよいのか迷い苦しみます。しかし、周りの人たちのちょっとした声掛けによって、幾分かは気分が安らぐものなのです。以下略芦田愛菜の名言15選:ANCHORさん
2023.12.01
苦しいときは先々をつい悲観的に見たり、あるいは有頂天のときは楽観的についついみたりします。ドラえもんの言う通り、局面が一瞬にしてがらりと変わったことを経験したことがありまq巣。おごりたかぶらず謙虚に一日一日を生きることが大切に思います。■参考リンク 2023.11:西本願寺鹿児島別院の掲示板から:未来なんてちょっとしたはずみでどんどん変わるから ドラえもん『大迦旃延一夜賢者経』には「一夜賢者の偈」というお釈迦さまのお言葉があります。「過去を負うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられ、未来はまだ来ない。だから、ただ現在のことをありのままに観察し、動揺することなく、よく理解して、実践せよ。ただ今日すべきことを熱心になせ。」過去は過ぎ去ったものであり、未来とは来るかどうかもわからないものです。ただ確かなことは「私たちは今を生きている」ということです。思い描いた未来が来る保証はどこにもありません。大切なのは今私が何を成し、何に出会うのかです。2022.12築地本願寺の掲示板:過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ていない。
2023.11.01
お寺の掲示板を検索していたら見つけました。折々の有名人の言葉に浄土真宗の本質的な解釈を加えているところがユニークで興味深いです。頭にストンと入ってきます。早速西本願寺鹿児島別院のインスタグラムをフォローしました。2023.10西本願寺鹿児島別院の掲示板から:「いずれまた会おうな」元阪神タイガース 川藤幸三横田慎太郎さんがこの娑婆でのご縁を尽きていかれました。葬儀で弔辞を述べられた阪神タイガースOBの川藤幸三さんは、横田さんとの思い出を語りつつ、最後におっしゃったのがこの言葉でした。私たちはこの娑婆の世界に生まれた以上、必ずいのちを終えていかねばなりません。これはどれほど時代が変わっても不変の真理です。しかし、この娑婆での縁が尽きればそれで終わりでしょうか。阿弥陀さまがおつくりくださった極楽浄土は、「必ずふたたび会う」ことのできる世界です。永遠の別れではありません。「いずれまた会おうな」と、再会を誓える場所が、極楽浄土です。■参考リンク【2022.3】今月も味わい深い言葉が並ぶ西本願寺鹿児島別院の掲示板 2023年1月30日:カゴシマニアックス
2023.10.01
大谷大学の先生の解説では、「他力をたのむ」とは「阿弥陀仏の本願をよりどころとする」であり、自分とかのある立場からの願いという考えを捨てて、阿弥陀仏から何を願われているかを聞きとめて生きることが大事とされています。また、 手品師さんの引用された「歎異抄講述・聞書(一)序 響流選書 鶴田義光」では、「たのむ」には、「依頼・取引」の「頼む」と「(阿弥陀様に)一切お任せ」の「憑む」の二つがあり、浄土真宗のたのむは後者だそうです。手品師さんの解説の「(たのむの)出発点は、阿弥陀さまであって、私ではありません。」がわかりやすかったです。2023.10.02内容の追加。2023.9築地本願寺の掲示板:他力といふは如来の本願なり■参考リンク「他力というは、如来の本願力なり」親鸞『教行信証』( 『真宗聖典』 P.193):大谷大学きょうのことば2003.11これは、親鸞 (1173-1262) の主著『教行信証』「行巻」にある言葉です。親鸞の言葉の中でも、最も大切な意味を持つものの一つと言えるでしょう。「他力の信心」や「他力をたのむ」などは、親鸞思想の根本を表現したものであります。 「他力」を辞書(『広辞苑』)で引くと、「他人の助力。仏・菩薩の加護の力を指す。浄土門において阿弥陀仏の本願の力をいう。」とあります。「阿弥陀仏の本願の力」とありますから、冒頭の親鸞の言葉にしたがった解説であるとも言えます。しかし、一般には「他人の助力」として使われることが多いようです。もう少し辞書を読みすすめますと「転じて、もっぱら他人の力をあてにすること」ともあります。「他力本願ではダメだ!」という言葉をよく耳にしますが、これは自分で努力することをあきらめて安易に他人に頼ろうとする人を誡めるときに使われます。 しかし、親鸞が「他力をたのむ」と言うのは、そうではありません。「他力」とは、例外なく阿弥陀仏の本願力を意味します。しかも「たのむ」とは、「あてにする」という意味の「頼む」ではなく、「憑む」という漢字を書きます。これは「よりどころとする」という意味です。つまり「他力をたのむ」とは、「阿弥陀仏の本願をよりどころとする」という意味なのです。以下略たのむ (憑む) - 手品師さん(浄土真宗の教えについて)
2023.09.01
8月になり、今年も旧盆間近です。今月の掲示板の言葉は、毎週末にお寺にお勤めに通っていた頃、最後にみんなで「拝読 浄土真宗のみ教え」を朗読するのですが、この言葉を含む箇所「先だった方々を思えば、在りし日の面影を懐かしく思うとともに言いようのない寂しさを覚える。親鸞聖人は、お弟子に宛てた手紙の中で仰せになる。 浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし 再び会うことのできる世界がそこにある。」が好きでした。本当に極楽浄土があるかどうかは確信持てませんが、亡くなった父母や懐かしい方が自分を楽しみに待っていてくれるという前提で生きると、老いるのも死ぬのもまた楽しみです。昨年暮れに亡くなったネットゲリラさんも新盆ですが、先日台風の進路予想動画Windy.comのリンクを貼っていて、このコンテンツもネットゲリラさんの台風の進路予想天気図をパクって作ったことを思い出しました。久しぶりにお盆にお経をあげれば、ひょっとして実家に帰るついでに私の夢に出て来て一緒にお酒を飲めるかなとちょっと期待します。2023.8.12内容の追加。2023.8築地本願寺の掲示板:浄土にてかならずかならずまちまいらせ候ふべし■参考リンク妙念寺・電話法話原稿一覧第964回 かならず再び会う ~南無阿弥陀仏に遇えば~平成23年、7月14日~先だった方々を思えば、在りし日の面影を懐かしく思うとともに言いようのない寂しさを覚える。親鸞聖人は、お弟子に宛てた手紙の中で仰せになる。 浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし再び会うことのできる世界がそこにある。今ここで、同じ信心をいただき、ともに阿弥陀如来の救いにあずかっている。だからこそ、かならず浄土に生まれて再び会える確かさを、今よろこぶことができる。本願の教えに出あえた時、今ここで救われ、再び会うことのできる世界が恵まれる。 拝読 浄土真宗のみ教え 34頁毎月 お会いするものの なかなか話が合わない方もあります。世間のおつきあいが すべてであって 若いときには 地域の旅行今は 老人クラブの例会 忙しくて 忙しくて 後は病院通い、お寺などには とてもいける時間は ありませんと 豪語される強者です。何度お話ししても 年を取ったらおしまい 良いことは何もない。死んでしまったら 何もなくなる 生きている間が 花ですと、お浄土のお話をしても 仏さまのお話をしても すぐに 世間の価値観に戻ってしまわれる方です。以下略。拝読 浄土真宗のみ教え【電子書籍】
2023.08.01
昔仲良く飲みに行った仲間に久しぶりに連絡して飲みに誘っても体よく断られて、あの人も変わったなと思うことがあります。その逆も又あります。大阪の専念寺のご住職の言葉「仲の良い人が嫌な人に変わった時は自分へのシグナルです」を読んで、胸に手を当てて考えるといろいろ思い当たることもあり、嫌いな人に変わったのは自分だったことに気づいてハッとします。熊との距離感を使った人とのかかわり方とか、仏教と猫のかかわりの話とかおもしろいです。日本一綺麗な迦陵頻伽(ガリョウビンガ)が本堂に描かれているお寺で、確かに写真を見ると美人です。大阪に行ったら一度訪れたいです。■参考リンク7/12まいどなニュース:「仲の良い人が嫌な人に変わったら…」ネコ坊主さんの言葉に「ハッとしました」「心に留めておきたい」 竹中 友一(RinToris)さん一向山 専念寺(大阪市平野区)
2023.07.19
2023.7の築地本願寺の掲示板の言葉です。2017年にできたばかりの東京町田の真宗大谷派 往還寺のご住職の解説を読んではじめて正信偈からの引用と知りました。こんな箇所あったかなと久しぶりに正信偈を開いて早速見つけました。その前から引用すると「能発一念喜愛心不断煩悩得涅槃」となり、「日常生活を懸命に生きることができるなら、弱くてもいい。強くならなくていい。生きていくことが重要。それがよい暮らしにつながる」と解釈されるそうです。「日常生活を懸命に生きることができるなら」という前提条件が大事な気がします。これが無いと煩悩にまみれっぱなしでもオッケーと誤解する人も出てきそうです。2023.08.01内容の追加。2023年7月 今月の参拝カード:築地本願寺■参考リンクほっとする温かいおてら真宗大谷派 往還寺:親鸞聖人について弱くてもいい。生きていくことが大事親鸞聖人は真宗大谷派の宗祖です。親鸞聖人は鎌倉時代前半から中期にかけての仏教者。幼い頃から俊才の誉れ高く、9歳の時に出家されました。最期は90年のご生涯を閉じられるのですが、その生き方には現代を生きる私たちに大きなメッセージをあたえてくれます。親鸞聖人の数ある教えのひとつにあるのが、「弱くてもいい。生きていくことが大事」ということだと思います。よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。この言葉は、親鸞聖人が書かれた「正信偈(しょうしんげ)」に出てくる言葉です。「教えを信じて、ひと思いの喜びの心を起こすことができるならば、煩悩をなくさないまま、煩悩にまみれた身のままに、煩悩の支配を受けない涅槃という境地にいたることができる」現代を生きる私たちが解釈するなら、「日常生活を懸命に生きることができるなら、弱くてもいい。強くならなくていい。生きていくことが重要。それがよい暮らしにつながる」ということではないでしょうか。以下略。
2023.07.01
6/28岐阜旅行で飛騨高山国分寺に立ち寄りました。そこの掲示板で見つけた言葉です。Google検索して出てきたのが大谷大学の先生のエッセイです。省略した後半部分が特に参考に鳴ります。会社を離れ友達が減ったり、SNSでうまく人間関係がいかないと、孤独を感じることがありますが、独りを楽しんで自分を見つめ直したり、勉強、仕事に励めば新たな展開がみえてくるかもです。独りで行くほうがよい 孤独で歩め 悪いことをするな 求めるところは少なくあれ 林の中にいる象のようにブッダのことば■参考リンク「犀の角のようにただ独り歩め。」『スッタニパータ』(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 17頁)大谷大学:きょうのことば - [2016年09月] 標題のことばは「サイの頭部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさい」という意味です。インドサイは群れではなく単独で行動することが知られていますので、「犀の(一本)角」という比喩表現は「孤独」を意味します。このように仏教が孤独を勧める背景には「私たちの悩みは人間関係から起こる」との分析があります。つまり、悩みを生み出す原因が「人のつながり」にあるのなら、そこから一時的に離れてみることが心の成長に必要ということです。 現在のようにつながりが強化された社会では、つながりからこぼれ落ちた存在が際立って見えます。人々は他者とのつながりを求め、それが断たれた状態を不安や不快として感受します。ですが、実際のところ私たちが孤独を感じるのは、周りの人に囲まれながらも「誰も私のことを見ていない」「誰も私に関心を持っていない」と実感するときです。一人でいることが孤独感の原因なのではなく、周囲とのつながりを実感できないからこそ孤独を痛みとして感じます。にもかかわらず、私たちは一人になることを怖れ、なるべく他者とつながろうとする結果、毎回同じ痛みを感受することになります。そのような私たちに、標題のことばは、孤独を怖れる必要はないと教えます。以下略。
2023.06.28
いつものように築地本願寺の掲示板の今月の言葉で検索して上位に表示されたサイトです。大谷大学の先生のご説明にある自分の生きる道を明らかにしてくれる、かけがえのない「まこと」の言葉は何かと聞かれると、恥ずかしながらすぐには思いつきません。今までであったかもしれませんが、通り過ぎて忘れ去ったように思います。今からでも遅くないのでみつけて、忘れないように書き留めたいと思います。ところで最近、夜中に寝床でスマホを検索していて、ブログネタを思いつくと、「ホーム画面に追加」して、スマホのヤフーカレンダーにメモするようにしたら、ネタ探しに以前よりも困らなくなりました。良い言葉に出会ったら同じようにしたいと思います。真宗大谷派難波別院南御堂さんの事実・現実・真実の解説と、最後の結論にうならされました。「ただ念仏のみぞまことにておわします」の本当の意味が、わかりました。2023.06.16内容の追加。2023.6築地本願寺の掲示板:ただ念仏のみぞまことにておわします■参考リンク大谷大学:教員エッセイきょうのことば - [2008年07月]「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」『歎異抄』(『真宗聖典』P.640) 毎年、その年にもっとも世間で流行した言葉が、流行語大賞として選ばれています。最近の言葉では、冬季オリンピックでの日本人スケーターの活躍により「イナバウアー」が、その前は「小泉劇場」「想定内」が選ばれています。流行語は、その年その年の世相を反映する言葉でもありますから、誰もが関心を持つことと思います。しかし、その一方で、流行語は、その時には誰もが知っていても、いつの間にか忘れ去られてしまう言葉でもあります。今あげた流行語も、「ああそうだったか」という思いを抱くように、先ほどまでは特に思い出すこともなかった言葉でしょう。 それはなぜなのでしょうか。 冒頭の文章は、親鸞(1173‐1262)が常に語っていた言葉として、『歎異抄』に伝えられている言葉です。この文の「そらごと」「たわごと」とは、「空言」「戯言」と書き、うそやいつわりの言葉、中身のない言葉という意味です。ですので、「世間には、うそやいつわりの言葉、中身のない言葉ばかりで、まことの言葉はないのですが、しかしただ一つ、念仏のみがまこと(真実)の言葉なのです」と親鸞は言っていることになります。途中略。私たちは人生を照らすそのような言葉に出会っているでしょうか。もしかしたら、私たちが大学の普段の授業で耳にしている言葉や、目にしている数多くの書物の中に自分の生きる道を明らかにしてくれる、かけがえのない教えがあるのかもしれません。それこそ「まこと」の言葉なのでしょう。 そのような言葉に敏感になって学んでいくことが、大切なことだと思われます。ただ念仏のみぞまことにておわします~『歎異抄』~難波別院(南御堂)真宗大谷派難波別院世の中で大きな事件が起こると、決まって人々は「真実を知りたい」という。仏教的に考えてみよう。たとえば雨が降る。これは気象現象であって「事実」にすぎない。しかし私たちはそれを「雨が降って都合が悪い・都合が良い」と見る。これを「現実」という。つまり必ず都合(煩悩)を入れて事実を見ているのが人間である。よって煩悩で眼が曇っている人間は決して「真実」を見ることができない。これが仏教の人間観である。以下略。
2023.06.01
今年の春は、桜に関するブログを書くことが多いですが、5月の築地本願寺の掲示板の言葉も桜に関するものです。光華女子学園の先生の解説では、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められているとのこと。昨年末にネットゲリラさんが新型肺炎であっという間に亡くなられたことを思えばなるほどなとうなずける親鸞聖人の和歌です。一方で、満照山 眞敬寺 蔵前陵苑のご住職の紹介された山中伸弥教授の言葉の「桜は来年も咲きます。命さえあれば来年見られるんですから!」これもそうだなと思います。ここで昔耳にした「明日できることは今日やらない!」を思いだして、検索したところ西口新先生の記事を見つけて読んでみました。その根底には、明日まで待てないほど緊急な仕事はないという考え方があるそうです。9歳の親鸞少年のように花咲く桜を一瞬のものととらえてその瞬間を精一杯に生きることも大事です。また山中先生のように花咲く桜を連続する大きな時間軸の一部としてとらえる考えもあります。個人的には、得度のためおそらく京都から比叡山を登って夜遅く到着した努力は評価されるけれども、あらかじめ得度式をその日に行うと決めていたわけでもなさそうで、その日は旅行日だったと思われるし、それは達成されたと思います。お寺のお坊さんも一日の仕事を終えて疲れていて、それぞれ予定もあるだろうと思います。山中先生のように大きな流れの中で物事をとらえて、得度式は1人ではできないことを説明し、明日まで待つように説得したら、親鸞少年はどのような反応をされたか興味があります。得度を済ませずにその晩万が一亡くなってもただそれだけのことのように思います。ついでに仕事についていえば、西口先生のおっしゃるように新しく発生した仕事は「明日やる」を基本にして、マニャーナの法則の、何か緊急の仕事でもない限り、仕事の量を一定に保って無理のない範囲で仕事を進めていくというやり方は効率的に進めるうえで大事と思います。■参考リンク2023.5.13内容の追加。2023.5築地本願寺の掲示板:明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは学校法人光華女子学園:今月のことば平成26年4月のことば「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」今月のことばは、親鸞聖人が詠まれたと伝わる和歌です。親鸞聖人が9歳の時、仏門に入られる決心をされ天台座主である慈円を訪ねましたが、すでに夜だったので、「明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われました。しかし、聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられ、その時詠まれたのがこの歌と伝わっています。この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。以下略。満照山 眞敬寺 蔵前陵苑:住職アンテナ2020年3月29日STAY HOME 「この時代に生きる 私たちの矛盾」山中伸弥教授が「桜は来年も咲きます。命さえあれば来年見られるんですから!」っと言われておられて、そうだよね!と思うと同時に、、親鸞聖人の「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」の和歌を思い出しました。以下略産業保健新聞:明日できることは今日やらない!~マニャーナの法則で計画的に働こう~2018/10/5働き方改革西口 新Home働き方改革明日できることは今日やらない!~マニャーナの法則で計画的に働こう~明日できることは今日やらない!~マニャーナの法則で計画的に働こう~2018/10/5働き方改革西口 新毎日やるべき仕事があって、1日があっという間…。もしあなたがそんな毎日を送っているなら、イギリスのビジネスコンサルタントのマーク・フォースターが提唱する「マニャーナの法則」が役に立つかもしれません。マニャーナとはスペイン語で「明日」というで意味で、この法則では「明日やれることは今日やらないこと」を原則とする仕事術です。その根底には、明日まで待てないほど緊急な仕事はないという考え方があります。本日は心理的ストレスを軽減して効率をあげる「マニャーナの法則」を紹介していきます。以下略。
2023.05.01
今月のことばは、お経の正信偈にある「摂取心光常に照護したまう」です。正信偈は去年の春まで2年半、毎週末のお寺に通い、朝のお勤めでほとんどの回で詠んだポピュラーなお経で、参加者は皆さん暗記されていました、私はできませんでしたが。たしかこの言葉があったなと思い出します。浄土真宗本願寺派光明寺さんの解説では、正信偈は『教行信証』の全体が圧縮されており、真宗教義のすべてを学んだことになるくらい大事なお経だそうです。「摂取心光常照護」の解説の中で、阿弥陀仏の仏像の手のポーズについて触れられていたのが興味深かったので調べてみました。今まで気づきませんでしたが、両手で輪っかを作られています。岸寺日下賢裕先生によれば、浄土真宗では、人々を収め取って決して捨てないという阿弥陀仏の慈悲の心を表す「摂取不捨印」というそうです。人類初のオッケーサインのようにも見え、安心感があります。仏像の手のポーズの意味もいろいろ調べると面白いです。■参考リンク2023.4.13内容の追加。築地本願寺:2023年4月 今月の参拝カード2012年1月 摂取の心光 つねに照護したもう 法語カレンダー解説投稿日: 2011年12月30日 作成者: admin 浄土真宗本願寺派光明寺抜粋「正信偈」の文今月の法語は、『教行信証』「行分類」の「正信偈」の文から選ばれました。まず、「正信偈」について少し述べることから始めたいと思います。「正信偈」は正式には「正信念仏偈」と呼ばれます。われわれ浄土真宗の門徒が心の依りどころとする根本聖典、『教行信証』の最も重要な一部分の抜粋です。それは、六十行百二十句からなる讃歌です。「帰命無量寿如来 南無不可思議光(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)」(『日常勤行聖典』六貢)から始まるこの偈頌(げじゅ)は、多くの人に親しまれ、読誦されています。また、この二句のなかに、親鸞聖人の喜びと如来の光のなかに見も心も投託された信条が、余すところなく表されています。一月の法語解説でも少し触れましたが、「正信偈」は二つの部分に分けられ、「法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)」(『同』)からは『無量寿経』に基づいて述べられる依経段、「印度西天之論家(いんどさいてんしろんげ)」(『同』十七貢)以下は三国七高僧の釈によって説かれる依釈段と呼ばれます。そしてこの偈のなかに『教行信証』の全体が圧縮されているのです。したがって、「正信偈」を読むことによって真宗教義の全体が鳥瞰(ちょうかん)できるのです。そしてまた、「正信偈」を学べば真宗教義のすべてを学んだことになるといっても、過言ではありません。さて、その「正信偈」のなかから、摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)(『日常勤行聖典』十三貢)(摂取の心光、つねに照護したまふ。『註釈版聖典』二〇四貢)の文が取り上げられてあります。この一句は『観無量寿経』の、光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。(『註釈版聖典』一〇二貢)や、善導大師の『観念法門(かんねんぽうもん)』に、ただもつぱら阿弥陀仏を念ずる衆生のみありて、かの仏の心光つねにこの人を照らして、摂護(しょうご)して捨てたまはず(『註釈版聖典(七祖篇)』六一八貢)等とある文に依られていると考えられます。途中略この和讃では、阿弥陀仏という名告りは、十方世界に生きるあらゆる者を念仏の衆生に育てあげ、光明のなかに摂め取って捨てないからであり、それゆえに阿弥陀と名付けるのであるといわれます。といたしますと、摂取ということが「阿弥陀仏」という名告りの基盤をなしているということです。摂取不捨ということを離しては、阿弥陀仏という仏さまを語ることはできないということです。ですから、阿弥陀仏の仏像を拝見しますと、右手を高く掲げ、左手を下にしておられます。それは、摂取と不捨ということを表しておられる姿といわれています。もっとも智慧と慈悲を示されているとの見方もあります。いずれにしましても、この和讃からは阿弥陀仏と名付ける理由として、念仏の衆生を摂取して捨てないからだといわれます。仏さまのハンドサイン:彼岸寺2014年4月9日日下 賢裕先生抜粋最後に「来迎印(らいごういん)/摂取不捨印(せっしゅふしゃいん)」を見ましょう。これは阿弥陀如来特有の印相とされ、臨終の際、阿弥陀仏が西方極楽浄土より迎えに来るときのポーズとされています。「施無畏印・与願印」と似ていますが、指で輪を作るのがポイントですね。少し前ですが、大河ドラマ「軍師官兵衛」で、石山本願寺のご本尊が阿弥陀如来の像を用いなければならない所、釈迦如来の像を間違って使っていた、というニュースがありました。釈迦如来像と阿弥陀如来像はよく似ているので、テレビにチラッと映るくらいでよく気づいた方がおられたなーと思ったのですが、ひょっとしたらこの印相の違いで見抜かれたのかもしれません。浄土真宗では「来迎印」とは言わず、人々を収め取って決して捨てないという阿弥陀仏の慈悲の心を表すお姿、「摂取不捨印」と言います。2021年10月14日仏のポーズ「印相」は写真映えする:デイリーポータルZ
2023.04.01
今回の言葉は小林一茶の俳句ともいわれているそうです。この言葉をGoogle検索に入れて出てきたサイトを2つご紹介します。一つ目は小学校の校長先生のエッセイです。アニメに出てきそうなかっこいい小学校の名前です。小学生の教育で、「素直である事」、「やさしい事」、どんな時でもめげたり腐ったりせず「やる気を失わない事」の3つを心がけて指導すれば、どこに行っても困らない、安心できる児童に育つのではないかと述べられていて、なるほどと思いました。こういった人は、同年代や目上の人からも好かれて幸せな人生を歩んで行けそうです。このエッセイを読んで、小学生の頃、父親から何かの時に、もう少し小学生らしくしなさいと怒られたことを思い出しました。何か素直でない口答えをしたのが原因だったかと思います。また大学生の頃、目黒のメッキ工場でアルバイトしたときのことを思い出しました。もう一人いたアルバイトが、このエッセイに出てくるような素直で優しく明るいやる気にあふれた青年で、アルバイト先の経営者や先輩社員から可愛がられていたのが、うらやましかったです。私はその逆で、途中でクビになってしまいました。彼がうらやましくてその後しばらく彼のまねをしたふるまいをしてみましたがうまくいかず、やめてしまいました。今思うと、この3つが身につくには教育以外の生活環境とかも重要な要素ではないかと思いました。また、すべての人がこの3つを必要条件として持つことは難しいので、それぞれの持っている良さを伸ばしてあげるのも大事かと思いました。もう一つは俳人大谷弘至さんの書かれた小林一茶の生き方です。一茶のことは数首の俳句くらいは知っていましたがそんなに興味ありませんでした。一休さんとか、良寛さんとかとごっちゃになってたくらいです。てっきり世俗を離れて俳句ばかり作っていた人かと思っていましたが、Wikipediaを読むと、継母との折り合いがつかず奉公に出されたり、遺産相続をめぐる争いに巻き込まれたり、50代で授かった娘さんを小さいころに天然痘で亡くされたり、同じ50代で脳梗塞になるも奇跡的に助かったり、一時は私と同じ町内に住んでいたりとか、興味が湧きました。大谷さんが紹介された句の中で「ことしから丸儲(まるもうけ)ぞよ娑婆(しゃば)遊び」が気に入ったので、ご紹介します。58歳で脳梗塞になり一時は半身不随になった一茶が奇跡的に回復して詠んだ句だそうです。一度は終った人生が思いがけず復活した喜びが素直に表れています。人生のロスタイム謳歌といったところでしょうか。ちょうど先日大橋未歩さんの記事を読んだあとだけにすんなり理解できます。時間ができたら小林一茶についてもう少し勉強したいと思います。2023.3.23内容の追加。掲示板の近くのツバキの木。落ちた花がきれいでした。築地本願寺:2023年3月 今月の参拝カード■参考リンク学校だより:なつのくも練馬区立光が丘夏の雲小学校はだかにて 生まれてきたに 何不足 校長 牧 野 光 洋小林一茶の句とも言われています。この世に産まれてきたときは、何も持たず丸裸だったじゃないか。それを思えば、今、生きていられるだけで何も不足はないはずだ!という意味でしょうか?10年以上昔の話になります。私の学校に新任教諭が配属されました。実に覇気のある明るく責任感の強い好青年でした。しかし、彼は時々、「え-っ!」と言うような大失敗をやらかします。先輩たちは「また-!」とカンカンに怒ります。すると「はいっ!すみません!」と大声で謝ります。聞いていて実にさわやかな謝り方。先輩たちが理由を聞くと「はいっ。自分は~だと思いました。済みませんでした。」これもまた大声で真剣です。彼は決して怠けたり、さぼったりすることはありません。ですから、叱責途中でも、終いには先輩たちも笑いだして「こんなことも知らないのか。これはこうだよ。」と笑いながら丁寧に教えられています。以下略。Wikipedia:小林一茶小林 一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日) - 文政10年11月19日(1828年1月5日))は、日本の俳人。本名は小林弥太郎[† 1]、一茶とは俳号である。別号は圯橋[2]、菊明[2]、新羅坊[3]、亜堂[3]。庵号は二六庵[4]、俳諧寺[5]。信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった[6]。NHK解説委員室:「小林一茶の生き方」(視点・論点)2021年12月21日 (火)俳人 大谷 弘至江戸時代の俳人、小林一茶は今や日本だけでなく世界中で愛読される存在ですが、その一生は苦難に満ちていました。きょうは一茶の俳句や生き方から私たちは何を学べるのか、お話します。一茶は幼い一人娘、さとを天然痘ウイルスによって亡くしています。文政二年(一八一九)、一茶が五十七歳のときのことです。老いて授かった娘ということもあり、一茶はさとを大変可愛がっていました。それだけにショックは大きかったようです。一茶は、さとの死を受けて、次の句を詠みました。以下略露の世は露の世ながらさりながら老が身の値ぶみをさるるけさの春死に下手とそしらば誹(そし)れ夕炬燵(ゆうごたつ)ことしから丸儲(まるもうけ)ぞよ娑婆(しゃば)遊びともかくもあなた任せの年の暮れ2/9サンスポ:大橋未歩、人生の目標は「健康だけ」 34歳で脳梗塞を発症し価値観変わる
2023.03.01
バレンタインデーの明けた2月15日、久しぶりに寝床の中からスマホで築地本願寺の晨朝勤行で法話を聴きました。当日の講師は野田茜先生という本願寺布教研究専従職員の方で、話方がお上手で5分程度の短い時間で、中国の四害駆除運動を例に生きるものをすべて尊重するという仏教の動物観をわかりやすく、興味深く説明していただいて勉強になりました。この日はお釈迦様が亡くなった日で、涅槃図に描かれているように臨終に多くの人や、お釈迦様が大切に思っている動物が集まってきました。仏教が動物の命を大切にする例として、中国政府が昔、雀が田んぼの米を1羽当たり1.8kgも食べるような害鳥とみなして、収穫高を上げるために、国をあげて駆除したことがあったことを挙げられました。その結果は、雀という天敵がいなくなったことにより、田んぼの虫たちが繁殖し、米を食い荒らし、かえって収穫高が減り3000万人が餓死したそうです。雀の大切さを知った中国政府はその後、駆除をやめたとのこと。あとでネットで検索したら、これは中国の四害駆除運動のことだと知りびっくり。こういったお話を聴くと、無駄な命や不要な生きものは無いことと、命はつながっていると改めて思い、生きものを大切にしようと思います。また、北朝鮮でも、耕作地拡大のため森林伐採して、保水力の喪失で洪水が発生したという話を聞いたことがあります。トップダウンの国はこぅいったことが起こりやすいと思いました。■参考リンクWikipedia:涅槃会涅槃会(ねはんえ)は、涅槃講や涅槃忌とも称し、陰暦2月15日、釈迦の入滅の日に、日本や中国などで勤修される、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要である。現在では、3月15日に行なわれているところもある[1]。概要涅槃とは、迷妄のなくなった心の境地を指す言葉であったが、この場合には、釈迦が亡くなったという意味で用いられている。実際には、釈尊が入滅した月日は不明であり、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日(ウェーサーカ祭)と定められている。ヴァイシャーカ月が、インドの暦では第2の月であることから、中国で2月15日と定めたものである。法要中は、釈迦が娑羅双樹の下で涅槃に入った際の、頭を北にして西を向き右脇を下にした姿で臥し、周囲に十大弟子を始め諸菩薩、天部や獣畜、虫類などまでが嘆き悲しむさまを描いた仏涅槃図(涅槃図)を掲げ、『仏遺教経』を読誦することとなっている。仏涅槃図の絵解きを行うところもある。平安時代には、山階寺の涅槃会がとりわけ有名であり、常楽会(じょうらくえ)とも称されており、『三宝絵』の中でも「年中主要法会」の一として記されている。涅槃図解説:青岸寺公式サイト抜粋もう一つ有名な話があります。「十二支の順番」が関係しています。お釈迦様の入涅槃の話を最初に聞いたのは牛です。ネズミは牛の頭に乗り移動しました。移動の途中猫が寝ていましたが、日頃より仲が悪かった、ネズミと猫でしたので、ネズミは起こさず向かったそうです。お釈迦様の元に近づくと、ネズミは牛の頭から、飛び出して、一番に到着しました。猫は結局お釈迦様の涅槃に間に合わず、十二支にも入らなかった、というお話です。恐らく、時代が遡り江戸時代頃につくられた寓話だと推測されますが、中々面白い話です。Wikipedia:四害駆除運動抜粋四害駆除運動(簡体字: 除四害, 拼音: Chú Sì Hài)とは、1958年から1962年にかけて実施された毛沢東が主導する中華人民共和国の大躍進政策において最初にとられた行動の1つである。 駆除の対象となった四害とは、すなわち、ネズミ・ハエ・蚊・スズメのことである。スズメ絶滅の試みは、スズメ打倒運動(簡体字中国語: 打麻雀运动, 拼音: Dǎ Máquè Yùndòng)またはスズメ撲滅運動(簡体字中国語: 消灭麻雀运动, 拼音: Xiāomiè Máquè Yùndòng)とも呼ばれ、深刻な生態系の不均衡とその結果としての中華人民共和国大飢饉をもたらした。1960年、毛沢東はスズメ撲滅運動を終わらせ、第4の焦点をトコジラミに変更した。運動「四害」駆除運動は、毛沢東が1958年に導入した衛生キャンペーンであり、マラリアの原因となる蚊、ペストを蔓延させるネズミ、空気中に蔓延するハエ、そして伝染病を媒介し穀物の種子や果実を食害するスズメ属、中でもユーラシアスズメ(学名:Passer Montanus)を撲滅することを目的としていた[1][2]。中国共産党政府はまた、鳥は資本主義の象徴である旨を宣言した[3]。市民は鍋・フライパン・バケツ・洗面器といった音の鳴る物を叩いて、スズメが木の枝で休む隙を与えず、空から死んで落ちるようにした[1][4]。スズメの巣も破壊され、卵は割られ、雛が殺された。これらの戦術に加えて、市民はまた、飛んでいる鳥の射殺も実施した[5][6]。これらの大量攻撃によってスズメの個体数は減少し、絶滅寸前まで追い込まれた。さらに、企業(zh:国有企业・zh:公司)・政府機関・学校の間で清浄コンテストが開催された。ネズミの尾、ハエや蚊の死骸、スズメの死骸を最も多く提出した者には、名誉的報酬が与えられた[7]。一部のスズメは、治外法権となっている国内のさまざまな在外公館の敷地内に逃げ込んだ。北京のポーランド大使館職員は、そこに隠れているスズメを追い払うために大使館敷地に入りたいという共産党政府の要求を拒否したが、その結果大使館は太鼓を持った人々に包囲された。2日間の絶え間ない騒音の後、ポーランド大使館職員はシャベルを使用して大使館のスズメの死骸を処分しなければならなかった[9]。影響運動中は、転落や銃の誤射による事故が多発し、仕掛けられた毒入りの餌により多くの他の動物が巻き添えで死んだ[10]。チベットでは、チベット仏教の教えから殺戮を拒み、監禁・自死を選ぶラマ僧が現れた[6]。1960年4月までに、スズメは穀物だけでなく多くの昆虫を食べていると指摘した鳥類学者の鄭作新(中国語版)[3]の影響を受けて、指導者たちは意見を改めた[11][12]。撲滅運動後のコメの収穫量は、増加するどころか、大幅に減少した[6][13]。スズメを駆除することで生態バランスが崩れ、天敵のいなくなった虫が農作物を荒らすことに気づいた毛は、スズメ撲滅運動の停止を命じて今度は「益鳥」として"名誉回復"し、対象をトコジラミに変更した[1]。しかし、もはや手遅れであった。それらを食べるスズメがほとんどいなくなったため、個体数が急増したワタリバッタは国中を襲い、大躍進政策によってすでに引き起こされた、広範囲にわたる森林伐採や毒物や農薬の誤用などの生態学的問題をますます悪化させた[13]。さらに人民公社が野生動物を食用として捕まえるためにデメトン・ジメドンや劇薬を使用したために(劇薬で汚染された食物は、中毒を引き起こした)本来の目的である殺虫剤としての在庫を欠乏させており、畑はズイムシ・ヨコバイ・ワタキバガ・ハダニなどの害虫の天国となったのである[10]。生態学的な不均衡は、同じく大躍進政策によって引き起こされ、1500万から4500万人が飢餓で亡くなった中華人民共和国大飢饉をさらに悪化させたと考えられている[14][15]。中国政府は最終的に、ソビエト連邦から25万羽のスズメを輸入して、個体数を補充する羽目になった[16]。旭照寺の法話 ほうおんこう①野田茜さん「南無阿弥陀仏のおいわれ」2022/11/22
2023.02.16
ことしもバレンタインデーが近づいてきました。何時の間にやら中学生の頃のときめきも消え失せてしまいました。かえって義理チョコとかのお返しが面倒と思っていたら、それさえも最近はもらえなくなってきてちょっと寂しいです。この「義理」という言葉は仏教用語から来たそうで、生活に仏教用語が浸透していると感じます。真宗大谷派是三寺のご住職の言われるように、インドで生まれた仏教が、日本で独自の発展をして、どんな人でも阿弥陀様が救われていく教えが生まれたことはありがたいことだと思います。また浄土真宗本願寺派瀧上山善立寺のご住職の言われるように、状況や自分の都合、相手の都合によって変わる「愛」のほかに、仏菩薩が苦悩する私たちを救わずにはおれない「慈悲」の心のありがたさを忘れないようにしたいと思います。「慈」は、与楽の意で父の愛、「悲」は、抜苦で母の愛に喩えられるそうで、一般人には「慈悲」の心を持つのは難しいそうですが、できないなりに、困っている他人に優しくするとか小さなことから心がけたいと思います。義理チョコならぬ慈悲チョコを贈る習慣とかもあってもよさそうですが、渡し方によっては上から目線的になりそうで、ちょっと難しそうです。2023年2月 今月の参拝カード:築地本願寺■参考リンクBUDDHA WORLD STYLE:仏教の基礎知識>義理(ぎり)ことわり、道理、正しいすじみち。ためになること。教えられていること。経典の説く意義・道理。人の踏み行う道。さまざまな対人・交際関係で、立場上務めなければならないと意識すること。本命元辰(ほんみょうがんじん)本命星元辰星の略。本命星とは北斗七星のうちでその人の生年にあたる星、元辰星とは、人間の運命を支配する星をいう。禅宗では、自己の本性、本来の自己の意味に用いる。愛(あい)仏教の愛にはつぎの5つがある。自己・血族・親族に対する「愛」、他者に対する「親愛」、特定の個人に対する「欲愛(恋愛)」、性的な「愛欲」、病的・盲目的な執着の「渇愛」である。語源由来辞典:本命/ほんめい意味本命とは、競馬や競輪などで一着になると予想されている馬や選手。有力視されている人。最も望んでいる対象。その人にとっての第一候補。本命の語源・由来本命は「命」を呉音読みした「ほんみょう」が本来の読み方で、陰陽道で生まれた年により決められている特定の星、生まれた干支を指す言葉であった。重要なことを決めるときは本命によって決め、自分の本命を大切にして本命星(ほんみょうしょう)として祭られた。やがて、競馬の予想に用いられるようになり、さらに転じて、最有力とみられている人や、第一候補を意味するようになった。住職ブログ2019/02/14:バレンタインデーと日本の仏教。真宗大谷派是三寺今日はバレンタインデーです。好きな人にチョコレートをあげるだけではなく義理チョコや友チョコなどもあるようですがチョコレートを贈る習慣は日本だけのものだそうです。東京や神戸のチョコレート屋さんが始めたそうですが、少し前の恵方巻と似ていますね。クリスマスやハロウィンなども本来の意味をはなれて日本独自のイベントとして定着しています。日本人はいろいろなものを受け入れて独自のアレンジで楽しむことに長けているように思います。実は仏教も同じように日本には日本独自の仏教が定着しています。仏教はインドで生まれて中国を経て日本に伝わりました。その間にいろいろな新しい解釈が入り日本にやってきました。そして日本でさらに独自の発展を遂げました。その意味ではお釈迦様が最初にお説きになった仏教と現代の日本の仏教は同じものではないといえます。以下略住職の法話:『愛』のバレンタインデー浄土真宗本願寺派瀧上山善立寺もうすぐバレンタインデーです。特に男子学生などは、好きな人にチョコをもらえるのか気になる日です。愛の形を受け取った人は、幸せの一日となりますが、もらえなくて落ち込む人もいることでしょう。結構残酷な日でもあります。私も学生時代に経験があります。せめて義理チョコでもあれば、世の男性は救われるのですが。こんなやっかいな日を誰が作ったのでしょうか。仏教語で「愛」は、「渇き」です。喉が渇いたときに水を欲しがるような激しい欲望です。仏教語辞典には、『愛が深ければ深いほど、憎しみの可能性も大きくなる。愛が本質的に自己を愛することを中心としているからである』と書かれています。そして、愛は状況や自分の都合、相手の都合によっても変わります。ところで、仏教では「愛」に変わる言葉として、「慈悲」という言葉を大切にしています。慈悲の「慈」は、与楽の意で父の愛、「悲」は、抜苦で母の愛に喩えられますが、凡夫が慈悲の心をおこすことはできません。慈悲は仏菩薩が苦悩する私たちを救わずにはおれない心をいいます。 幼い頃に両親を失った親鸞聖人でありますが、ご和讃に『大慈救世聖徳王父のごとくにおわします大慈救世観世音母のごとくにおわします』と讃えられています。人間には、変わることのない不変の愛が必要です。仏教でいう慈悲です。以下略
2023.02.01
仏教伝道協会の輝け!お寺の掲示板大賞2022が年末に発表になりました。2021も含めて、気になった言葉を紹介します。この中で「もっとも優しい言葉はその人の名を呼ぶことである」が、心に残りました。また「一人じゃさみしい 二人はわずらわしい」の解説が面白かったです。■参考リンク輝け!お寺の掲示板大賞2022 - 仏教伝道協会かんしゃくのくの字をすてて 日をくらす受賞者la source de vie @1947_2016撮影寺院徳源院(臨済宗妙心寺派・東京都文京区)[講評]小学生低学年にも伝わるシンプルなメッセージ。でも大人になるとこれができにくい。かんしゃく(怒り)は欲から起きる。欲を抑えて今あることに感謝したい。伝道句集『風水泉』からの引用だが、句集も注目される。(仏教タイムスホームページ http://www.bukkyo-times.co.jp/)輝け!お寺の掲示板大賞2021 - 仏教伝道協会仏の顔は何度でも受賞者 林鶯山 憶西院 超覺寺@chokakuji撮影寺院 超覚寺(真宗大谷派・広島県広島市)[講評]「仏の顔も三度まで」ということわざが世間に完全に定着していますが、仏様はその程度で腹を立てるような方ではありません。阿弥陀仏は無限の慈悲を備えていらっしゃいます。「仏の顔も三度まで」というより「仏の顔は何度でも」のほうが仏様の表現としては正確であることを知ってもらいたいということで今回大賞に選ばれました。本当のものがわからないと本当でないものを本当にする受賞者✨パードレ✨ @hiro5936撮影寺院万福寺(浄土真宗本願寺派・福岡県行橋市)[講評]安田理深師のことば。安田師にとっての「本当のもの」とは「仏様の智慧」です。現在様々なフェイクニュースが溢れ、多くの人々がそれらに振り回されています。このような時代だからこそ、仏教の教えを通して物事を判断し、自分自身の姿を見つめることが大切ではないでしょうか。一人じゃさみしい二人はわずらわしい受賞者✨パードレ✨ @hiro5936撮影寺院正行寺(真宗大谷派・大分県中津市)[講評]寂しいは人間の欲求のスタートではないかと思う。寂しいから求め、手に入るも思うようにならず、煩わしい。仏教の全てが詰まった言葉。ただ、この言葉を見て連想するのは熟年離婚。一人で寂しい夫と二人が煩わしい妻(苦笑)。(フリースタイルな僧侶たちホームページ https://freemonk.net/)もっとも優しい言葉はその人の名を呼ぶことである受賞者まぜるてとて|関さんぽ@mazerutetote撮影寺院明淳寺(浄土真宗本願寺派・岐阜県関市)[講評]オンラインが隆盛となり、名前を呼ばれることが少なくなったこの一年。リアルコミュニケーションが少なくなったことで失われたものの一つが、名前を呼ばれるということではないでしょうか。「名前を呼んでもらうこと」は、自分の尊厳を端的に表す象徴。仏教的には阿弥陀仏の名前を呼ぶことによってもたらされる優しさだと思いますが、身近な実生活においては「人の名を呼ぶこと」が、今求められ、誰にでもできる優しさのように思います。(まいてらホームページ https://mytera.jp/)
2023.01.12
新年明けましておめでとうございます。旧年中はいろいろとありがとうございました。本年もお世話になりますがよろしくお願い申し上げます。毎月の築地本願寺の掲示板の言葉ですが、いつも参考にしている参拝カードが、去年と同様1月は掲示板の言葉でなく新年の書に代っているため、中旬に築地に行くまではわかりませんのでお待ちください。ことしの新年の書は「慶」です。昨年は、ロシアのウクライナ侵攻、インフレの激化等、暗い話題が多かったですが、気持ちを切り替えてポジティブな1年となるように心がけて生きたいものです。1年経って、気づいたら自分の身の回りに「慶」があふれていたらうれしいです。2023年1月 今月の参拝カード:築地本願寺2023.1.14追記1/12に築地本願寺の掲示板を確認したところでは、12月の掲示板の言葉から変わっていませんでした。■参考リンク2022/1築地本願寺の掲示板:新年の書 覚と、「眠れない夜をなげくものは多いが目覚めた朝に感謝するものは少ない」【名づけ】力強く喜びにあふれる「慶」を使った名前をご紹介!抜粋「慶」の成り立ちと由来まずは、「慶」の成り立ちと由来から解説していきます。「慶」の成り立ちと由来「慶」は鹿の一部「廌」と「心」から成る漢字です。その由来には諸説あり、古来、お祝いごとに鹿の皮を贈ったことがはじまりであるとも、古代の裁判で用いられた神獣「廌(たい)」がもとになっているとも言われています。これらのことから、「慶」は喜びをあらわす漢字として使われるようになりました。「けい」「きょう」「ちか」「のり」「やすし」などさまざまな読みがある漢字です。「慶」の意味「慶」の意味は祝いごとにまつわるポジティブなものばかりです。「慶事」「慶祝」といった言葉が代表するように、豊かさ、祝福といった意味をはじめ幸運、幸福、優しさ、思いやりといった意味も持ちます。古来よりめでたい場面で使われてきた「慶」は、縁起の良い漢字として名付けでも好まれてきました。
2023.01.01
今年も残すところわずかとなりました。12月の築地本願寺の掲示板の言葉からGoogle検索してでてきた言葉です。最初は埼玉県加須市の龍蔵寺さんのブログです。前から、なんで来年の事を言うと鬼が笑うのか、不思議に思っていました、ブログを読んで謎が解けました。また、掲示板の言葉でお釈迦様が言わんとされていることが分かりました。今日一日を精一杯生きよ、という言葉だったんですね。一方、tsuputonさんのブログでは、この掲示板の言葉に関連する古今東西の偉人たちの言葉を紹介されていて興味深いです。レオナルドダヴィンチ、ゲーテ、スティーブ・ジョブス、ガンジーの言葉が心に残りました。聖書のことばに「マタイによる福音書 6章34節:だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」というのがあります。これも掲示板の言葉に関連すると思います。Novellaさんのブログがついつい迷いがちな生き方をただす参考になります。2022.12.19内容の追加。■参考リンク2022.12築地本願寺の掲示板:過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ていない。過去を追うな。未来を願うな。 過去はすでに過ぎ去り、未来は未だ来ていない。Published by yozui on 2016年11月27日龍蔵寺過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに過ぎ去り、未来は未だ来ていない。マッジマ・ニカーヤ「来年のことを言えば鬼が笑う」は、来年ことを楽しげに話している人間を見て、鬼が閻魔帳でその人の死に時を確認してみると、じきに死ぬことが分かって、笑ってしまう。未来の不確実性と、それを頼む人間の愚かさを戒めたことわざです。以下略2017-12-29現在は現に在り, 過去は過ぎ去り,未来は未だ来ない:永遠の「今・ここ」tsuputon's blogさんイエス・キリストの『明日のことを思い煩うな』 過度な欲望が人間を弱らせるNovellaさん
2022.12.01
今月の掲示板の言葉は以前見た記憶があるなと思ったら去年の9月のGoing forward & Coming backに関連して調べた言葉でした。改めて検索したら、光華女子学園の解説で、闘病生活のなかで、仏法を聴聞し続けた鈴木章子さんという方の言葉「道に迷ったら、たちどまって道を知っている人に尋ねるのが一番」を紹介されていました。シンプルですが素直な良い言葉と思いました。自分はとかくなんでも自分で解決しようとして我流でやってうまく行かないことがこれまで多かったですが、他人の言葉に素直に耳を傾けて、それをうのみにせず、納得がいったら、今までの視点が変わり、それを実行すれば違った結果が生まれるように思います。また、周りからも知恵を求められたら自分の経験、知識に基づいてできるアドバイスをしてあげられたら良いと思いました。2022.11.17追加。■参考リンク2022.11築地本願寺の掲示板:前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え。光華女子学園今月のことば平成21年5月のことば前に生まれん者は後を導き、後に生れん者は前を訪(とぶら)え。抜粋今月のこの言葉は、前に獲信し、後を教え導く法然上人と、救いの道をもとめる親鸞聖人との関係を表したような言葉です。実は、仏教はこのような関係でお釈迦様以来伝えられ、苦しみ悩む人々に応えてきたのです。親鸞聖人が、『教行信証』の末文の総結びとしてこの言葉を引用されているのは、自らの求道の経験から、後の世に生きる私たちの生き方への呼びかけではないでしょうか。この道綽禅師の言葉は、四十二歳で乳癌を発祥してから四十六歳で亡くなるまで、苦しい闘病生活のなかで、仏法を聴聞し続けた鈴木章子さんのこの言葉を思い出します。「道に迷ったら、たちどまって道を知っている人に尋ねるのが一番」 (宗)2021.9築地本願寺の掲示板から:Going forward & Coming back
2022.11.01
福井旅行の2日目、雨の中を永平寺まで行きました。あいにくお寺の中には入れず、境内を散歩中に見つけたのがこの葉っぱの舟に乗った一葉観音です。てっきり仏様が舟に乗って川遊びしていると思ってました。調べると、曹洞宗の開祖道元禅師が中国に勉強されて舟での帰途、嵐に遭い、観音経を唱えたところ、蓮華の花びらに乗った観音菩薩が現れ、風雨が静まり助かったとのことです。見ていると穏やかな表情で、心が癒されます。人生の嵐に遭った時、この写真を見れば元気が出そうです。撮影時、気づかなかったカエルも愛嬌があっていいです。キリスト教でも、同様な話があります。イエスは嵐を𠮟りつけて鎮めましたが、一葉観音のほうが、平和的で好きです。観音様について調べました。インドで誕生した当初は男性の仏様だったそうですが、中国に渡った際、男尊女卑の儒教倫理に悩む人たちがすがるものとして、女性の観音菩薩が誕生したという話は面白かったです。女性の仏教界進出第1号かもしれません。ガラリアの海の嵐画家 : レンブラント・ファン・レインMUSEY■参考リンクぶらり加賀たびさん:永平寺巨大かえるが永平寺に出現!|福井カエルスポット2021年2月2日:福井かえる道さんマタイによる福音書8章18-34節 「嵐を静める主イエス」:心に響く聖書の言葉2.嵐を静められる (参照マルコ4 :35-41)8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。8:24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。8:25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。8:26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。8:27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」Wikipedia:観音菩薩観音菩薩(かんのん ぼさつ、梵: Avalokiteśvara)は、仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。名称の由来観音菩薩という呼び名は、一般的には観世音菩薩の略号と解釈されている。[9]日本語の「カンノン」は「観音」の呉音読みであり、連声によって「オン」が「ノン」になったものである。性別古代より広く信仰を集め、日本では各地に建立されることが多い観音像観音菩薩は男性と女性の両方の姿を取ることから、欧米の研究者のあいだではジェンダー・フリーの体現者であると解釈され、評価されている[10]。しかしながら、本来は男性であったと考えられる。例えば、松原哲明は、梵名のアヴァローキテーシュヴァラが男性名詞であること、華厳経に「勇猛なる男子(丈夫)、観世音菩薩」と書かれていることから、本来男性であったと述べている[6]。植木雅俊も、ガンダーラの観音菩薩の彫刻は、ほとんどが口ひげをたくわえている。『法華経』のサンスクリット原典(ケルン・南条本)の第31偈には、観音が導師となる阿弥陀仏の浄土に女性は誰も生まれてこない、と書いてある。なお、この部分は鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』にはない。『法華経』のサンスクリット原典では、観音は16の姿を現すとされ、その全てが男性である。『法華経』の初期の漢訳である 竺法護訳『正法華経』(286年)では、観音は17の姿を現すとされ、その全てが男性である。鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観音偈ところが鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』(406年。現在、最も普及している法華経)では観音は「三十三身」を現すとされ、そのうち7つが女性の姿である。という事実を挙げ、観音の女性化はインドではなく中国において起きたこと、中国での観音菩薩は男尊女卑の儒教倫理に悩む人たちがすがるものであったこと、例えば、世継ぎの男子を生めない妻は離縁されて当然という儒教(『礼記』の「嫁して三年、子なきは去る」)の男尊女卑の考えに苦しんだ女性たちは、観音に祈れば男児が授かるという現世利益的な観音信仰を広く受け入れたこと、を指摘している[11]。たしかに、中国では「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。また、例えば地蔵菩薩を観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多い[12]。観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性に対しては女性に変身して説法することもあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになった。また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなった。これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山(浙江省・舟山群島)から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や道教の媽祖信仰などの女神と結び付いたためと考えられている[要出典]。また、妙荘王の末女である妙善という女性が尼僧として出家、成道し、観音菩薩となったという説話が十二世紀頃に中国全土に流布し、『香山宝巻』の成立によって王女妙善説話が定着、美しい女性としての観音菩薩のイメージが定着したとする説もある[13]。Wikipedia:道元道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日) - 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧[3]。日本における曹洞宗の開祖[3]。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄[3]。道元禅師とも呼ばれる。教義・思想ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる[3]。道元のこの立場は修証一等や本証妙証と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった[3]。一葉観音像:長田晴山 作
2022.10.02
種田山頭火は、以前観た映画の「あなたへ」の中で、ビートたけしさんが旅と放浪の違いを、松尾芭蕉と種田山頭火を引き合いに出して解説されていたのが印象的です。「どうしようもないわたしが歩いている」は最初、さびしい絶望的な俳句に見えましたが、俳句の教科書さんの解説、特に鑑賞文を読んで、深い意味に気づきました。山頭火も、本当は放浪では無く、旅をしていたのかとも思えるようになりました。2022.10.26写真の追加。2022.10築地本願寺の掲示板:どうしようもないわたしが歩いている 種田山頭火■参考リンク【どうしようもないわたしが歩いている】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!2020年1月3日 2020年1月3日 俳句の教科書さん種田山頭火の『絶望名言』前編|読むらじる。 - NHK旅をしながら多くの自由律俳句を詠んだ種田山頭火は、家族や故郷、身に降りかかった災難についても、日記に多くを書き残しました。それらの中から、頭木弘樹さんが山頭火の絶望名言を読み解きます。(聞き手・川野一宇アナウンサー)【出演者】頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)私一家の不幸は母の自殺から――今回は種田山頭火。たくさんの俳句を残した俳人です。代表的な句をいくつか読んでみましょう。分け入つても分け入つても青い山まつすぐな道でさみしいどうしようもないわたしが歩いてゐるうしろすがたのしぐれてゆくか山頭火『草木塔』青空文庫以下略Wikipedia:種田山頭火種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)[1]、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い[1]。山口県佐波郡(現在の防府市)の生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ[1]。概要自由律俳句の代表として、同じ『層雲』の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある[2]。なお、「山頭火」とは納音(なっちん)の一つであるが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。また、「山頭」の定義には「火葬場」も含まれている[3][4]。このことから、「山頭火=火葬場の火」と解釈できるという説もある[4]。山頭火がこの意味を意識して名前を選んだ可能性について、山頭火の母親の死との関連性が指摘されている[4]。山頭火には「燃え上がる火山」という意味もある[1]。代表句あるけばかつこういそげばかつこうへうへうとして水を味ふ一羽来て啼かない鳥であるうしろすがたのしぐれてゆくかどうしようもない私が歩いている生まれた家はあとかたもないほうたる音はしぐれかゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ酔うてこほろぎと寝ていたよ鴉啼いてわたしも一人笠にとんぼをとまらせてあるく笠も漏り出したかけふもいちにち風を歩いてきたこの旅、果もない旅のつくつくぼうしこころすなほに御飯がふいた鈴をふりふりお四国の土になるべく霧島は霧にかくれて赤とんぼまた一枚脱ぎ捨てる旅から旅まつすぐな道でさみしいふるさとはあの山なみの雪のかがやくすべつてころんで山がひつそりまた見ることもない山が遠ざかる松はみな枝垂れて南無観是音分け入つても分け入つても青い山鉄鉢の中へも霰山へ空へ摩訶般若波羅密多心経水音の絶えずして御仏とありほろほろほろびゆくわたくしの秋生死の中の雪ふりしきるおちついて死ねそうな草萌ゆる濁れる水の流れつつ澄むあなたへ【旅と放浪の違い】「自分はやっぱり旅人なのだなぁ」と思う:かぶとたいぞうさん
2022.10.01
日本では仏教は江戸時代以降、葬式を担当する宗教のイメージが強くなりすぎて、人の生き方の規範を示すような本来の宗教的な役割が、一般の人々にも宗教者にも重視されなくなってきたように思います。この掲示板は、両者へ本来の仏教の役割を再認識させるような言葉と思います。この言葉をGoogle検索したところ熟女を導く非聖職者ABさんの「聞法は死の準備ではなく生の糧である」が出てきました。「聞法(仏教の教法を自己をむなしくして聴聞すること)」という言葉はわかりやすくするために、「仏の教え」に言い換えられたと思います。紫寶山眞廣寺さんの解説でご紹介されている蓮如上人の言葉『わかきとき、仏法はたしなめ』『としよれば、行歩もかなわず、ねむたくもあるなり』はまさにその通りだと思います。若いころは実利的なことばかり追求していましたが、当時宗教にもっと深く接していれば、自分の生き方や人との接し方も変わり、もう少し充実した人生を送れていたように60歳を過ぎて思います。また若いころの方が吸収力も高かったように思います。検索していく中でUnder the Canopyさんの「光あるうちに光の中を歩め」(トルストイ)が出てきました。高校生の頃に読んだ本で大変感動したけれど、その後題名を忘れて探していたものですがようやく見つかりました。てっきりトルストイの民話のひとつと思い込んでました。早速キンドルで購入しました。昔読んだ米川正夫さんの翻訳が現代風にわかりやすく改めてあるようです。ある男が、いくどかある人生の転機にキリスト教の門をたたこうとするも周囲の説得に断念して、老境に入って再度チャレンジするときのお話です。ブドウ畑のたとえが強く印象に残っています。上述の蓮如上人の言葉も、このトルストイのお話も、それぞれ真実だと思います。2022.9.25内容の追加2022.9築地本願寺の掲示板:仏の教えは死の準備ではなく 生きる糧です■参考リンク聞法は死の準備ではなく生の糧である:いま仏教があなたを癒す! 聞法は死の準備ではなく 生の糧である 2012年10月:紫寶山眞廣寺お寺まいりは「まだはやい」という人がいる。「もうすこし年取ってから」。それも結構だが、蓮如上人は『わかきとき、仏法はたしなめ』と仰る。なぜか。『としよれば、行歩もかなわず、ねむたくもあるなり』と。この真意は年齢によらず、そのうち聞こうなどと思っていると、本当に聞きたいときに聞けなくなっているかもしれないよ、ということだろう。さて、今年も秋が来た。夕暮れを見ていると無性に「今」という時間がいとおしく感じられる。それは、同じ夕暮れが二度と来ないからか、それとも明日また夕暮れを見られる保証がどこにもないことを感じるからか。以下略2016年6月7日火曜日トルストイ『光あるうち光の中を歩め』の感想:Under the Canopy光あるうちに光の中を歩め (古典教養文庫) Kindle版レフ・トルストイ (著), 上妻純一郎 (編集), 米川正夫 (翻訳) 形式: Kindle版
2022.09.01
先日久し振りに4年前の8月に亡くなった母の夢を見ました。亡くなった当初はその年のお彼岸から始まり、毎年お盆とお彼岸に夢に出てきてくれましたが、この1,2年は見なくなって残念に思ってました。母の夢を見ると、急に心が暖かくなって元気が出ます。あれこれ悩み事があるのを心配して励ましにきてくれたのかと勝手に思ってます。何歳になっても面倒かけてばかりで申し訳ないと思います。自分は疲れた時にお風呂に入って温まりリラックスしたときにこういった夢を見る気がします。亡くなった人の事を思っているからそういった夢を見るんだとか、浄土真宗ではお盆にご先祖様は帰りませんとか、いろいろな考えがるようですが、ただ自分がその事実を信じて納得すればよいように思います。みなさんはどうなのでしょうか?ガールズちゃんねるの投稿を一部紹介します。小さな子は霊が見えるという話がよく出てきますが真相はどうなんでしょうか。■参考リンクお盆に故人はちゃんと帰ってきてくれているのか?:ガールズちゃんねる2021/08/16(月) 13:481. 匿名 2021/08/09(月) 18:01:40 大切な家族が亡くなってから何回目かのお盆を迎えますが、故人はちゃんと家に?帰ってきてくれているのでしょうか?見えないけど、何か感じたりしますか?普段と違う何かがあった経験のある人のお話が聞きたいです7. 匿名 2021/08/09(月) 18:02:55 死んでも本当に魂ってあるの…?無になるか、生まれ変わって幸せになってたらいいな8. 匿名 2021/08/09(月) 18:02:59 お盆に海で遊ぶと幼い子が連れていかれるとはよく言う14. 匿名 2021/08/09(月) 18:03:22 昔お父さんに婆ちゃん帰ってきたよってトンボ指差しながら言われた今でもトンボ見ると婆ちゃん帰ってきた!!ってなる。15. 匿名 2021/08/09(月) 18:03:26 >>1準備してる?帰るところないとね。帰ってくる乗り物とまた戻るためにきゅうりとなすは必須。20. 匿名 2021/08/09(月) 18:03:54 初盆には来てくれてると思う。言葉で言えないけど、不思議な空気を感じるよ。23. 匿名 2021/08/09(月) 18:04:07 小さい頃、お迎えしたあとにお仏壇の前で姉妹喧嘩したら、ぶつかったりしていないのに、位牌やお供物がバラバラっと落ちて来たことあって、母親に、ほらー、おじいちゃん怒ってるよ!って言われてから、帰ってきてると信じてる。27. 匿名 2021/08/09(月) 18:04:18 0歳の甥がバイバイを覚えた時に仏壇にバイバイしてて感激したよ何か見えたのかな28. 匿名 2021/08/09(月) 18:04:31 いとこがまだ小さいとき、祖父母の部屋に亡くなった祖父が座ってるよ~って言ったことあるけど、子どもの言うことだからね~でも来てて欲しいな29. 匿名 2021/08/09(月) 18:04:34 元住んでたお家にお盆で帰って来るより、輪廻転生してこの世に生まれ変わって楽しく過ごしてくれてる方が良くない?34. 匿名 2021/08/09(月) 18:05:01 母を亡くしてコロナでまだ四十九日できてない・・・今日は母の夢を久々に見たから、帰ってきたのかなあ。40. 匿名 2021/08/09(月) 18:05:30 >>21来るときは馬に見立てたきゅうりで早く、戻るときは牛に見立てたナスで少しでも遅くだよね?これだけはよく聞かされたので覚えてる。今年も帰省できないので辛いわ。44. 匿名 2021/08/09(月) 18:05:50 なにも感じないし、見たこともないけど、お盆の時期に虫みるとバーチャンが会いに来たんかな?って思う虫、苦手で触れないけど45. 匿名 2021/08/09(月) 18:05:51 帰ってきてくれてると思う。本当は来てくれてなくても、その人が生きていた思い出を思い出す、大切な時期だから、心の中に帰ってきてくれてるよ53. 匿名 2021/08/09(月) 18:07:31 帰って来てると思うお盆って空気感が変わりませんか?実家に居た時はリアルに感じてました65. 匿名 2021/08/09(月) 18:09:01 うちはもう30年以上前に母親亡くなったんだけど、本当に正直に言えばもうとっくにどこかに生まれ変わってる気がしてるし、そうであってほしい納骨堂とか仏壇とかそんな所にいつまでもいると思うより、元気な体に生まれ変わってどこかで笑って生きててほしい69. 匿名 2021/08/09(月) 18:09:18 来てるか分からないけど毎年お盆はお仏壇に、東日本大震災の津波で他界した息子と旦那の好物のハンバーグと唐揚げをあげてる拝んだあと私と娘でそれ食べるんだけど美味しいって娘に褒められる普段料理の感想言わない子なのに、何かしら感じて言ってくれてるのかなーと不思議に思ってる75. 匿名 2021/08/09(月) 18:10:27 10年以上前の話だけど、祖父のお墓参りから帰ってきたあと弟(当時5歳)が、祖父が使っていた部屋に向かって手を振った。みんなでえっ!どうしたの!?って聞いたら弟が「じいだよ」って言うもんだから静まり返った笑弟はその時のこと忘れてるから真実は闇の中、、、85. 匿名 2021/08/09(月) 18:11:40 浄土真宗なのでお盆に先祖は帰ってきません97. 匿名 2021/08/09(月) 18:13:45 知り合いの祖父が亡くなるちょっと前に「死んだらお盆に絶対帰ってくるからね〜!その時に何か合図送るわ!」って言ってたらしいんだけど、毎年お盆の時に何かしらの怪奇現象が起きるらしいとても陽気な人だったみたい。99. 匿名 2021/08/09(月) 18:14:14 ほぼ毎年、お盆前に蛍が一匹玄関に来るからお祖父ちゃん帰ってきたって思ってる100. 匿名 2021/08/09(月) 18:14:20 どこかの風習でお墓まで迎えに行って、おんぶする格好したら重みができてそれを家まで連れて帰るらしい101. 匿名 2021/08/09(月) 18:14:23 >>8海とか川とか池とか湖ね。水のあるところに集まるって言われるよね。104. 匿名 2021/08/09(月) 18:14:47 田舎出身の母が言ってたんだけど、お盆には遺影から抜け出して白いちょうちょとして遊びに来たりするらしいです。田舎では不思議な話がいっぱいありますよね。107. 匿名 2021/08/09(月) 18:15:34 >>63数年前のお盆の時期に行方不明になった男の子を見つけ出したスーパーボランティアのおじちゃんが取材受けて身振り手振りで話してるときに指先にトンボがとまってきてたね。男の子のご先祖様がおじちゃんにありがとうって言ってるのかな、なんて思った108. 匿名 2021/08/09(月) 18:15:42 ウチには死産した娘がいるのでお盆には迎え火の代わりに花火をやる!お兄ちゃん達がキャッキャしてる側をあの子もニコニコしてる気がするから!ナスやキュウリは私が手作りしたフェルトのぬいぐるみ。写真あげたら身バレしちゃうので拾い画。お金に余裕が出たら提灯買いたいな。109. 匿名 2021/08/09(月) 18:15:54 人間ではないのだけれど…。学生時代、お盆の時期に友だちと電話していたら、後ろでずっと犬の声がしてた。半年くらい前に愛犬が亡くなったことは知ってたから、新しくお迎えしたのかな?ととくに触れずにいた。でも、友だちの声が聞き取りづらくなるくらい声が近くなってきたので、「ワンちゃん抱っこしてる?名前はなんていうの?」と聞いたら、新しい家族は迎えてないと。友だちはお盆だから帰ってきてくれたのかな…と泣いてた。電話のあと、愛犬の写真に好きだったおやつを供えたら、それがパタンと倒れたと聞いた。111. 匿名 2021/08/09(月) 18:16:58 父が亡くなってから必ず13日に父が嬉しそうに家にいる夢見るよ。祖母の方が父より後に亡くなったけど、祖母が亡くなった時は13日に祖母を車に乗せて帰ってくる夢見たよ。117. 匿名 2021/08/09(月) 18:17:38 浄土真宗は帰ってこないとお坊さんに言われた亡くなったらすぐ極楽浄土に行くと言われて、じゃあ初七日や49日って何の為?って思ったよ高いお金を払ってお坊さんにお経あげてもらうより家族が集まってお経あげる方が先祖は喜ぶだろうなと119. 匿名 2021/08/09(月) 18:18:01 >>105わたしも蝶々🦋のイメージかな。コロナ前にお盆に帰省してお墓参りに行ったら、どこからともなく大きな揚羽蝶が飛んできてお墓参りしてる間ずっと周りを飛んでて、ご先祖様かなって思った。120. 匿名 2021/08/09(月) 18:18:04 >>101水辺には近づくなとは言われたお盆におじさんが川でカヌーやって連れていかれたばあちゃん達がなんで!って嘆いてた122. 匿名 2021/08/09(月) 18:18:57 見た事もない祖先は何とも思わなくても、大事な人が亡くなったら帰って来てるように思うのかもね父が亡くなってから母は「お父さんが帰って来てるから家に誰かいないと寂しがる」言ってお盆はどこにも行かないお盆の初日は「お父さんが帰って来てるから挨拶しなさい」と言われる仏壇に挨拶するだけなんだけどさ124. 匿名 2021/08/09(月) 18:19:31 弟が小さい頃お盆の時期になると天井を見上げて「じいちゃんとばあちゃんがいるよ」って教えてくれた。毎年帰ってきてくれているような気がする。128. 匿名 2021/08/09(月) 18:21:11 >>105うちはハエだったんたけど親戚一同「ああ、おじいちゃんが帰ってきたのね(´▽`)」って暗黙の了解で和んでたのに、父がパチーンってハエ叩き潰してて「あ、、、(;^∀^)」ってなってて、私は笑いを堪えのに必死だったよ145. 匿名 2021/08/09(月) 18:25:01 弟が突然死で亡くなってからあの世とか霊とか無いって確信した。まだ幼い子ども達や奥さんを残して死んだのに、10年経っても誰も弟の何かに会えてない。子煩悩だったから沢山伝えたい事があるはずなのに、出てこれないって事はあの世なんて無いんだよ。151. 匿名 2021/08/09(月) 18:28:29 >>1うち、家族全員でご詠歌をあげるんだけど、霊感皆無のうちの家族はわからない霊感がある義姉は、ご先祖様帰ってきてるよ、皆が来てくれてすごく喜んでくれてるよって言ってたいい事だから信じてる152. 匿名 2021/08/09(月) 18:28:35 >>145それは辛いね、、私は病死した娘に夢でたくさん会って話をしたよ。納骨するまでは家の中でポルターガイストが何度も何度も起きた。納骨したらすごく静かになったけどね。163. 匿名 2021/08/09(月) 18:32:27 >>1コメントでお盆に猫を撫でにくる先祖がいるって見た事がある。私の実家に来る住職さんは「生きてても里帰りしたりしなかったりするんだから、故人も気が向いたら来るし今年はやめとくかって人もいる」って言ってたよ。172. 匿名 2021/08/09(月) 18:37:52 うちの地元だけかも知れないけど、虫になって帰ってくるって言われててうちは父が亡くなってるんだけど、何年かお盆になると家の中にカマキリが来てたよしかも家の中の埃とか食べてたそしてなぜかお盆が終わると姿が見えなくなってた正直それまではあんまり信じてなかったけどそれ目の当たりにしてからちょっと信じるようになった201. 匿名 2021/08/09(月) 18:50:17 10年以上前なんだけど、亡くなった祖父がお盆明けに誰かと宴会してる夢を見た。「おじいちゃん、もうお盆終わってるよ?」と私が言ったら、「忘れてた!」と言ってバタバタどこかに帰って行った。それ以来、本当に帰って来てるんだなと思ってる。208. 匿名 2021/08/09(月) 18:56:55 お盆の時期の直前に亡くなるとその年のお盆には帰ってこれなくて一年後になるからお盆過ぎて死んだ方がいいんだよね。それか三ヶ月ぐらい前。210. 匿名 2021/08/09(月) 18:57:55 >>114 >>115帰ってきたよ。正確に言うと10数年後に夢の中に現れてきた。常に私がべたべたして嫌がってた愛猫なので夢の中でも不機嫌な顔してた笑 誰かにそろそろ行ってやれと言われたと思ってる。221. 匿名 2021/08/09(月) 19:03:43 >>1初盆はおばあちゃんの匂いしたから帰ってきてたのかな。それからは気配も匂いもしなかった。でも私も幽霊を見なくなったのが同じ頃だから帰ってきててもわからないのかも。以下略
2022.08.10
どちらかというと舌切り雀のおばあさんのようにけちで欲張りな性格で、お金や幸福はひとりじめしたいと思いがちな自分には今月の掲示板の言葉と、群馬県高崎市の並榎山常仙寺のご住職の解説は大変参考になります。話は飛びますが、舌切り雀のおばあさんが、途中でつづらを開けないで、家に帰って開けたら何がでてきたのか気になります、割とどうでもいいですけど。■参考リンク2022.10.04追記2022.8築地本願寺の掲示板:幸せは分け与えてもなくならない並榎山常仙寺(群馬県高崎市)今月の言葉幸福は分けても減らない「一本のろうそくから何千本ものろうそくに火をつけることができる。しかし、それで最初のろうそくの寿命が短くなることはない。幸福は、分かちあうことで決して減らない。」 仏陀の言葉「ハーバードの人生を変える授業」よりお釈迦様が説かれたろうそくの炎の話。一本のろうそくは、その炎を何千本のろうそくに分けても元の炎が減ることはなく、炎は分けられたろうそくの分だけどこまでも増えてゆく。幸せも同じように一人の人がその幸せを他の人に分け与えれば分け与えただけ幸せも増えてゆく。元の幸せが減ることはない。これは、「ハーバードの人生を変える授業」という本の中で紹介されているお話しです。簡潔ですが、幸せの本質をついたお話しだと思います。幸せは物ではありません。物(やお金など)は分ければ当然減ってゆきますが、幸せは心の状態です。状態が減ると言うことはありません。一人の人の幸せは、他の人の心の状態を同じように幸せな心の状態に変化させることが出来、またそれは多くの人数に対して可能であり、かつ自らの幸せが損なわれることがない。現実の人の心は様々に変化しますのでそれほど単純ではないと思いますが、このように実践できればこれほど素晴らしいことはありません。以下略Wikipedia:舌切り雀舌切り雀(したきりすずめ)とは、日本のおとぎ話の一つである。あらすじむかしむかしあるところに心優しいお爺さんと欲張りなお婆さんの老夫婦がいた。ある日、お爺さんは怪我をしていた雀を家に連れ帰って手当てをした。山に帰そうとしたが雀はお爺さんにたいそう懐き、お爺さんも雀に情が移り、名をつけて可愛がることにした。しかし、雀を愛でるお爺さんの様子をお婆さんは面白くなく思っていた。お爺さんが出掛けたある日、お婆さんが井戸端で障子の張り替えに使うために作った糊(続飯)を雀は食べてしまった。怒ったお婆さんは「悪さをしたのはこの舌か」と雀の舌をハサミで切ってしまい、痛がる雀にお構い無しに、どこにでも行ってしまえと外に放ってしまう。そのことを聞いたお爺さんは雀を心配して山に探しに行くと、藪の奥に雀たちのお宿があり、中からあの雀が出てきてお爺さんを招き入れてくれた。以下略
2022.08.01
先日築地本願寺のサイトを見ていたら、築地本願寺アプリがリリースされていることを知りました。見てみると既存の築地本願寺のサイトのコンテンツが過不足なくうまく掲載されて見やすいです。「お悩み僧談所」も相談事例が紹介されていて参考になる上、こんな質問ができるのかと自分も気軽に相談したくなります。2年半近所のお寺に週1回朝の勤行に行っていたのを3月末で終わりにして正信偈を週一回唱えなくなってから、何か物足りなさを感じていたので、朝7:00からのお勤めにスマホで早速参加してみました。30分くらいのお経の後、全国から来られるお坊さんの5分くらいの法話があり、ちょうどいい時間配分と思います。PCをみるとこのYouTube上のお勤めを視聴している方は300人近くいらっしゃいました。3年前本堂のお勤めにいったときは10-20人くらいの参加者だったので、インターネットの力を感じます。このアプリを利用する人としては、私みたいにある程度浄土真宗には触れているが、わざわざお寺に行かないで、浄土真宗と縁を続けたい人とか、高齢や病気、けがで、お寺に行けないけれど朝のお勤めに参加したい人とかが、まず頭に思い浮かびました。異常気象で猛暑と寒波が激しくなる中で、アプリでお参りできれば体の弱い方には便利だと思います。ただ、傘下の小さな寺院が個々に配信すると準備が大変なので、築地本願寺でこのように中継できれば便利だと思います。築地本願寺俱楽部の会員番号を登録するシステムになっているので、今後は視聴だけでなく双方向の機能も充実が期待できそうです。初心者向けコンテンツを充実させれば、布教の場ともなりそうです。個人的には将来は会費制で、このアプリを使いスマホだけで、学習・お勤め・葬儀・法要等が、完結するインターネット分院のようなものが出来たらいいなと思います。担当のお坊さんは法話等を聴いて、気に入ったお坊さんを指名できるようにするとか。今後の充実が楽しみなアプリです。■参考リンク築地本願寺アプリ リリースについて6月7日築地本願寺の公式アプリがリリースされました。どなたでも無料でご利用いただけます。主な機能■ 今月のひとこと毎月仏教にまつわるひとことをご紹介します。■ おてLIVE築地本願寺では堂内の様子をYouTubeチャンネル内で「築地本願寺LIVE」としてリアルタイム配信しています。アプリではそのLIVE配信を1クリックでご覧いただくことが可能です。■ お悩み僧談所日常のちょっとしたお悩みや、仏教・仏事に関する疑問について、お気軽にご質問いただけるコミュニケーションツールです。■ お寺マガジン -寺マガ-仏教・浄土真宗の教えや、仏教行事の作法、仏教と文化の関わりなど、様々なジャンルの記事を掲載しています。お好みのカテゴリを選んで、お楽しみください。会員向け機能■ 会員カード会員証画面のご提示で、施設内・外店舗、協賛店舗での特典が受けられます。■ 築地本願寺倶楽部会員サイト会員マイページへ進むことができます。法要や様々な講座、僧侶への相談など築地本願寺倶楽部会員サービスを申し込むことができます。12/22WSJ:「宗教アプリ」に押し寄せるベンチャー投資の波
2022.07.28
「当たり前だと思うかありがたいと思うか 浄土真宗」で検索してでてきたのが、根来暁先生のコラムです。確かに大学の合格発表で自分の名前を見つけた帰りの電車の中ではすべてがばら色に見えて、周囲の人に優しく接してあげられそうな自分がいました。桂三枝師匠のさんまさんへの教えもポイントをついています。日々の出来事を「当たり前だと思うかありがたいと思うか」というよりも、「当たり前だと思うかおもしろいと思うか」で、芸人としての視点が養われたのかと思いました。自分がブログを書く参考にもなりそうです。最初はたいしたことでないテーマと思っても、書いてるうちにいろいろ気づいて話がふくらみ筆が乗って結果的に面白くなったことがありますがそんな感じでしょうか。根来暁先生の法話があったのでご紹介しておきます。2022.7.14内容の追加■参考リンクリレーコラム「当たり前」と「有り難い」 【根来 暁】 2014年7月9日 先日、睡眠時無呼吸症候群の検査を受けました。結果は最悪で、1時間に約70回以上、無呼吸の状態があったそうです。よく窒息死しなかったものだと思いました。寝ていても酸素不足を体が感じ、脳が常に覚醒していたそうです。ほんとに体は自分の思い通りにならないけど、だから朝を迎えられていたのかもしれません。同じ出来事、同じ景色をみても、置かれている状況によって感じ方は変わるようです。以前タレントの木下優樹菜さんが結婚会見をしていたのをテレビで見ました。彼女はディズニーランドでプロポーズを受けたそうです。電車で行ってられたそうで「行きと帰りの電車から見える景色が違って見えました」と語っていました。これは、上りと下りで景色が違うという話しではありません。置かれたいる状況によって、見え方が変わったのでしょう。人は同じ景色を見ても、同じように見ている訳ではないようです。また、明石家さんまさんは、若いころ桂三枝(現在の桂文枝)さんの運転手をしていたそうです。毎朝迎えにいくと、必ず「昨日なんかおもろいことあったか?」と聞かれたんだそうです。「そのたびに昨日の出来事で面白いことはなかったと思い出していた」とあるテレビの対談番組で話していました。あのころは、いやでいやでたまらなかったけど、それがあったから今でもテレビで話し続けることができていると言っていました。以下略22:05あたりから
2022.07.01
今週末京都の比叡山に不滅の法灯を見に行く予定です。延暦寺について、下調べしていて、前から気になっていた千日回峰行に行き当たりました。2回も達成された酒井 雄哉師大阿闍梨のユーチューブを観ていて厳しい行に驚きました。酒井大阿闍梨については若いころ、新婚間もない奥さまが自殺されたり、人生でいろいろ経験されて比叡山に入られたのをTVで観た記憶があります。著作の一日一生が面白そうでしたが、アマゾンンのキンドルアンリミテッド読み放題の別の本を借りてみました。また、千日回峰行について、成功率を調べましたがネットでは見当たりませんでした。本当に自害した人がいるのかどうかもわかりませんでした。ヤフー知恵袋の回答を見るとそんなに歴史のある行事でもない書き込みがあったり、昔は千日回峰行者が夜な夜な京都の街に繰り出していたとの書き込みもありました。ガチンコでやると本当に死人が出そうな行事なので、チャリティ番組のマラソンみたいな番組を盛り上げる演出みたいなものがあるのかどうかも気になりました。個人的には一日の千日回峰行を終えたお坊さんと祇園の街に繰り出して、冷えたビールでいっぱいというほうが、人間味があって好きです。1日80kmも何日も歩いたり、不眠不休で飲まず食わずでお経を何日も唱えるのは不可能に近いと思います。延暦寺のお坊さんの中でトップクラスの厳しい修行に耐えられたお坊さんを、不滅の法灯と一緒に、延暦寺の象徴としてアピールする行事と考えると、しっくりきますが、真相はどうなんでしょうか。また、親鸞聖人はかつて比叡山で厳しい修行を行いましたが、悟りを開くことが出来ず山を下りられました。千日回峰行という激しい修行によらなくても、たとえばある勉強やスポーツを究めたりすると何か見えてくることがありますが、それで代替できそうにも思います。■参考リンクWikipedia:千日回峰行 (比叡山)千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、滋賀県と京都府にまたがる比叡山山内で行われる、天台宗の回峰行の一つである。満行者は「北嶺大先達大行満大阿闍梨」と称される。「千日」と言われるが実際に歩む日数は「975日」である。「悟りを得るためではなく、悟りに近づくために課していただく[1]」ことを理解するための行である。概要行者の服装(1954年7月発行の国際文化情報社「国際文化画報」より)この行に入るためには、先達から受戒を受けて作法と所作を学んだのちに、「初百日満行」入り、その後7年の間、1 - 3年目は1年間に連続100日、4 - 5年目は1年間に連続200日、行を為す[2]。無動寺で勤行のあと、深夜2時に出発する。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30キロメートル (km) を平均6時間で巡拝する。途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、降魔の剣(短剣)、三途の川の渡り賃である六文銭、埋葬料10万円を常時携行する。未開の蓮華の葉をかたどった笠をかぶり、白装束、草鞋履きで行う。堂入り無動寺明王堂5年700日を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。行者は入堂前に生前葬となる「生き葬式」を執り行い、無動寺明王堂で足かけ9日[3]かけて断食・断水・断眠・断臥の4無行に入る。堂入り中は明王堂に五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時に堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。水を汲みに出る以外は、堂中で10万回真言を唱え続ける[4]。堂入りを満了して「堂さがり」すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入る。6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60kmの行程を100日続ける。7年目は200日行い、はじめの100日は全行程84kmの京都大回りで、後半100日は比叡山中30kmの行程に戻る。満行後満行者で、無動寺谷明王堂の輪番職にある者は、その後2 - 3年以内に、米・麦・粟・豆・稗の五穀と塩・果物・海草類を100日間摂取しない「五穀断ち」ののちに、自ら発願して7日間の断食と断水で火炙り地獄とも俗称される「十万枚大護摩供」を行う。満行者は京都御所に土足参内し、加持祈祷を行う。京都御所内は土足厳禁だが満行者のみ許される。回峰行を創始した相応和尚が草鞋履きで参内したところ文徳天皇の女御の病気が快癒したから[5]であるとも、清和天皇の后の病気平癒祈祷で草履履きのまま参内したから[6]とも伝聞される。回峰行初百日を終えた後に立候補し、先達会議で認められた者が行に入る。“現代の生き仏”が死の3日前に語った「最期の言葉」がん2014/03/12 16:00筆者:朝日新聞出版・友澤和子Area.dotWikipedia:酒井雄哉酒井 雄哉(さかい ゆうさい、1926年(大正15年)9月5日 - 2013年(平成25年)9月23日 )は、天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。経歴経歴誕生1926年(大正15年)、大阪市玉造で、10人兄弟の長男として生まれる。5歳の時、一家で東京へ移る。旧制麻布中学を受験するも失敗し、1941年(昭和16年)、慶應義塾商業学校(慶應義塾大学の夜間商業学校)に入学、同校卒。落第生で卒業が危ぶまれたため、担任教員に、軍隊入隊を勧められる。当時は入隊と引き換えに卒業が認められる制度があった。入隊1944年(昭和19年)、熊本県人吉の予科練に入隊。そこで半年間の訓練を受けた後、宮崎県の宮崎海軍航空隊(後の松島海軍航空隊、陸上攻撃機)所属を経て、鹿児島県の鹿屋飛行場に移る。同僚が特別攻撃隊員として、次々と戦死していく中、鹿屋飛行場も連日のように米軍機による空襲を受ける。ある日、訓練の最中に米軍の機銃掃射による猛攻撃を受け、逃げ損ねるが、田んぼの溝に落ち、奇跡的に助かる。少し前まで元気だった優秀な仲間が命を失い、自身は生き残った体験から、世の無常を味わう。戦後戦後は、法政大学の図書館職員となり、その働きぶりが評価され、大学の教授から、法政大学入学を勧められる。自身もその気になり、法政大学受験を決意。願書を出すため、出身校である慶應義塾商業学校の成績証明書を取りに行くも、不安になり、中を見ると、品行が良くないなど、ろくなことが書かれていないことに愕然とし、受験を断念。同時に職場も放棄してしまう。その後、父親が始めたラーメン屋を手伝い、繁盛したものの、約5年で火事で廃業。次に、父親と株売買の代理店を始めるが、スターリン暴落による大損害で、借金取りに追われる始末。その後も、そば屋の店員、菓子屋のセールスマンなど、職を転々とする。33歳の時、従妹と結婚するが、新婚早々、妻が大阪の実家に帰ってしまう。連れ戻そうと迎えに行くも、しばらくして妻がガス自殺を遂げる。わずか2ヶ月の結婚生活だった。以後、抜け殻のような生活を送る。比叡山へある日、叔母と比叡山を訪ねたことがきっかけとなり、折に触れて通うようになる。1965年(昭和40年)、39歳のとき出家、得度。ここが最後の砦と自覚し、十代、二十代の若者に混じり、天台宗学の理論と実践を学ぶ。叡山学院を首席で卒業。天台座主賞も受賞する。千日回峰行に挑む前には、明治時代に死者が出て以来、中断していた荒行で知られる常行三昧も達成している。千日回峰行1973年(昭和48年)より千日回峰行を開始し、1980年(昭和55年)10月に満行した。この行の様子は1979年(昭和54年)1月5日、NHK特集『行~比叡山・千日回峰~』で放送された。しかし酒井はこれに満足せず、半年後に2度目の千日回峰行に入った。そして、1987年(昭和62年)7月、60歳という最高齢で2度目の満行を達成した。2度の千日回峰行を達成した者は、1000年を越える比叡山の歴史の中でも3人しかいない。一日一生 (朝日新書) 新書 – 2008/10/10天台宗大阿闍梨 酒井 雄哉 (著)第一章 「一日一生」・一日が一生、と思って生きる・身の丈に合ったことを毎日くるくる繰り返す・仏さんは、人生を見通している・足が疲れたなら、肩で歩けばいい・ありのままの自分としかっと向き合い続ける・人からすごいと思われなくたっていいんだよ・「一日」を中心に生きる・人は毎日、新しい気持ちで出会える第二章 「道」・生き残ったのは、生き「残された」ということ・長い長い引き揚げの旅が教えてくれたこと・同じことを、ぐるぐるぐるぐる繰り返している・どんな目にあったとしても・人の心には闇がある・ある日突然、妻は逝ってしまった・人生の出会いはある日突然やってくる・仏が見せた夜叉の顔・自分は何のために生まれてきたのか、なにするべきか問い続ける・その答えを、一生考え続けなさい第三章 「行」・衣を染める朝露も、いつしか琵琶湖にそそぐ・歩くことが、きっと何かを教えてくれる・知りたいと思ったら、実践すること・仏さんが教えてくれた親子の情愛・息を吸って、吐く。呼吸の大切さ・仏はいったいどこにいるのか・身の回りに宝がたくさんある・学ぶこと、実践することは両輪・ゆっくりと、時間をかけて分かっていくことがある第四章 「命」・ほっこち温かな祖父母のぬくもり・大きな父の背中におぶわれた冬の日・子供はおぶったりおぶわれたりして育つ・夜店で母が隠した父の姿・心と心が繋がっていた父と母・東京大空襲の時に鹿児島で見た夢・死を目前とした兄と弟 ・一生懸命生きる背中を子供に見せる・命が尽きれば死んで、他の命を支えるんだよ第五章 「調和」・桜は、精いっぱい咲いている・人は自然の中で生き、生かされている・重い荷物を負う中国の子供たちにみた「大志」・心のありようはいろいろなものに作用される・本当は同じものを見ているのかもしれない・まだ、たったの三万日しか生きていないんだなあ親鸞聖人・比叡山での難行── 煩悩との闘いヤフー知恵袋:lst********さん2015/10/21 12:37大峯千日回峰行挫折したら自害しなきゃなんないって、2015年の現在でも決められてるんですか?国も許可してるんですか?あと、堂入りって9日間飲まず食わずの無睡らしいですが、監視役いるんですか?監視役は目の前で食っちゃ寝してるんですか?ベストアンサーこのベストアンサーは投票で選ばれましたadv********さん2015/10/21 17:31さすがに自害に関しては認められないでしょう。平成に入ってこの儀式を無事に全行程達成した方のインタビュー記事を見たことがありますが現代では象徴的な物になってるみたいです。堂入りに関しては1日一回程確認の方が見回りに来る見たいですがそれ以外は独りきりのようです。神聖な修行の場ですから目前で飲食なんてしたら関係者から叩き出されるかと。只、堂入り含む修行の場にドクターストップをかける医者はいないみたいですので堂入りの最中や巡礼の途中の山道でバッタリ倒れて見つかった時には手遅れと言う事態は十分にあり得るみたいです。そのような事態になった場合に法律的には危険を侵して行く冒険家みたいな扱いになるのでは。ヤフー知恵袋:取りあえーずさん2015/10/21 17:16千日回峰について、失敗した時は自害しなければならないとの事ですが、過去に自害された人が居るのでしょうか?お分かりでしたら教えてください。※Wikiでは成功者47名との事ですが、失敗した人についての記載が皆無でした。失礼な言い方になりますが、全員成功ということでは、ちょっと何か裏があるのかと疑りが沸いてしまいます。ps.私はよく比叡山に登るのですが、横川に行った時に、浄土真宗の開祖・親鸞聖人を始めて知りました。諸説ありますが、彼は、九歳から二十九歳まで二十年間、その千日回峰行よりも、さらに厳しい「大曼の難行」に、全身全霊打ち込みましたが、結局は魂の開放には至らず、厳しい修行では悟りを開くことは出来ないと、結果、比叡山を降りたのを知っていますので、千日回峰についても、興味は持っています。ベストアンサー( =^ω^=)さん2015/10/21 19:09千日回峰は比叡山の伝統的な行ではなく十二年籠山制度とは別の修行でした。国家資格のお坊さんとは違って身分に関係なくだれでも千日回峰行をできたそうです。昔は結構乱れていて夜な夜な修行僧が京都まで遊びに行ったり行方知れずになった人もいたそうです。千日回峰が十二年籠山制度に組み入れられたのは戦後になってからなんだそうです。ヤフー知恵袋:mou********さん2015/10/21 16:22比叡山延暦寺の千日回峰行の「堂入り」は今年13人目の成功とのことですが、失敗した人がいるということですよね?何人ぐらい失敗されているのかどのように失敗して、どうなったのか失敗するときは自決しなくてはならないと聞いてますが、本当でしょうか?ベストアンサーこのベストアンサーは投票で選ばれましたbit********さん2015/10/22 9:17商業大相撲の行司と同じです。あいつらは行司差し違えをしたら腰の刀で自害すべきなんですが、差し違いはしょっちゅうあっても、いまだに誰一人、行司が自害した話は皆無です。
2022.06.25
今月の本願寺の掲示板の言葉をGoogle検索していたら下記の参考リンクの解説に出会いました。最後の部分について考えたのは「いい人、悪い人」という言葉がありますが、これは自分にとって「(都合の)いい人、悪い人」悪い人なのではないかと思いました。自分中心の見方によって多くのいのちとは言わないまでも、意見が対立する人とか多くの人を傷つけることのないようにしたいと思います著者の小池秀章先生のお名前にどっかで聞いたことあるなと思って調べたら中央仏教学院通信教育の昨年のスクーリングで真宗Ⅰのオンライン講義を受けた先生でした。講義の内容はすっかり忘れてしまいましたが、ソフトでわかりやすい、印象に残る講義でした。せっかくなのでアマゾンで先生著作の「日めくり歎異抄」を購入してみました。壁にかけて毎日少しずつ読んでみようと思います。2022.7.1画像の追加。■参考リンク築地本願寺:2022年6月 今月の参拝カード雑草という名の草はない 害虫という名の虫はいない今月のことば:龍谷大学非常勤講師小池秀章日めくり歎異抄 ([実用品]) 解説:小池 秀章
2022.06.01
以前読んだ、釈徹宗さんと大平光代さんの対談の「この世を仏教で生きる 今から始める他力の暮らし」に紹介されていた、兵庫県小野市にある阿弥陀三尊像の動画を2つ見つけました。このお寺は、戦乱で荒廃した東大寺再建を担った重源が兵庫の拠点として1197年に建てたものです。独特の建築方法による建物と、仏師快慶による浄土堂の阿弥陀三尊像には特殊な仕掛けがあり、三尊像の裏の戸をすべて開けると、夕暮れ時には、阿弥陀三尊像が背面から光に包まれ、西方浄土から雲に包まれやってくるように見えるそうです。実際NHKの動画を見て美しいと思いました。昔の人はこれを見て信仰心を篤くして、東大寺への寄進を行ったのでしょうか。釈撤宗さんの解説によれば年に2回、春と秋のお彼岸の中日には夕日が阿弥陀三尊像の真後ろに落ちるように設計されていて、太陽と阿弥陀三尊像の間には無数のため池が昔はあって反射光が綺麗だったそうです。ちょっと遠いですが、いつか行ってみたいお寺です。神社仏閣、城郭巡りも今後の趣味には良いかと思いました。大昔でもこのような建築、仏像で人々を感動させられたのなら、科学・建築・映像技術の発達した現代なら、VR等を駆使してもっとすごい仏教建築・仏像等の作品ができてもよさそうに思います。NHK:浄土寺 浄土堂 極楽浄土へのいざない~阿弥陀三尊像(2013)■参考リンクこの世を仏教で生きる 今から始める他力の暮らし:釈徹宗/大平光代Wikipedia:浄土寺 (小野市)歴史この地から西に約2キロのところに、奈良時代の僧・行基が建立したとされる広渡寺があった。この広渡寺が浄土寺の前身寺院とされる。荒廃していた広渡寺を浄土寺として復興させた実質的な開山は、平安時代末から鎌倉時代の僧で、東大寺大仏・大仏殿の復興に尽力した重源である。治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺や興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった。重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀国(現・三重県)、周防国(現・山口県)など日本の7か所に東大寺の「別所」を創設した。七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である。この地は播磨国大部荘(おおべのしょう)といい、東大寺領であった。こうして建久5年(1194年)に広渡寺を現在地に移転して寺名を浄土寺へ改めた。建久8年(1197年)に本堂の薬師堂と浄土堂が大仏様で建立された[1][2]。その配置は池を中心にして、西に浄土堂(阿弥陀堂)、東に薬師堂(本堂)が建つ。この配置は東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味するものである。薬師堂は明応7年(1498年)に焼失するが、永正14年(1517年)に再建されている。浄土堂国宝。浄土寺浄土堂(「阿弥陀堂」ともいう)は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成し供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の宋の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。堂は方三間(正面・側面とも1辺に柱が4本立ち、柱間が3つあるという意味)の単純な平面構成になるが、1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで平面の大きさの割に立ちが低いことと、屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色である。比較的地味な外観に比し、堂内部は貫(ぬき)、梁(はり)などの構造材をそのまま見せたダイナミックな構成になっている。天井を張らず、屋根裏に空間をつくらず、構造材をそのまま見せて装飾を兼ねる化粧屋根裏となっていること、貫(複数の柱を貫通する水平材)を多用することなどが大仏様建築の特色である。阿弥陀三尊像国宝。浄土堂中央の須弥壇に安置される。仏師快慶の代表作。巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)、両脇侍、右・観音菩薩と左・勢至菩薩の像高は各々3m70cmある。快慶は重源とは近い関係にあり、熱烈な阿弥陀仏信者だったことが知られている。快慶の作品には像高3尺(約1メートル)の阿弥陀像が多いが、本作は珍しい大作である。3体とも立像であり、各像の立つ蓮華座の下には雲が表されていて僅かに阿弥陀三尊が前に傾いていることから西方極楽浄土から飛雲に乗って来迎する情景を表現したものである。また中央の阿弥陀如来像の特徴として、人々に差し伸べられているのは右手、ほかの阿弥陀仏が左手なのとは逆の造りで、爪は長く伸びている。当時流行の宋風が顕著である。浄土寺の阿弥陀三尊の脇侍は左右逆配置である、この配置は密教寺院に存在する形式で「阿唎多羅陀羅尼阿嚕力経」や「観自在最勝心明経第九品」などの「密教系経典には右観自在・左大勢至とす」云々の記述があり、それを取り入れたものか。浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ。堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの西光が入り、晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現す劇的な光の演出効果を備えている[3]。その際、遠方の溜池群が西方の光を運び込む装置として機能することを、作者重源は巧みに計算していたようである。安藤忠雄に影響安藤忠雄による設計で1991年(平成3年)に竣工した兵庫県淡路市にある真言密教の寺院で真言宗御室派の別格本山である本福寺本堂の水御堂は、西から入る光が極楽浄土を現出させるこの浄土寺での重源の手法を踏襲したものである[3]。
2022.05.31
仏教・キリスト教、古今東西を問わず、築地本願寺の掲示板に加えて、マザー・テレサ、ミランダ・カー、相田みつをがそれぞれ言い方は若干違いますが、「あなたはあなたであればいい」と訴えていますので、この言葉は人が生きていくうえで、大切な言葉のようです。東大に入るくらいの地頭の良さを持ち合わせていなかったり、残念ながら人生のスタート時に配られた10枚のカードのうち、たとえ9枚がダメダメでも、岡本太郎氏のお母さんの言葉「自分の持つ他のすべての可能性に絶望して絵に専念しなさい。」のように、最後の1枚に見込みがあれば、それに早く気づき、賭けてみるという手もあると思います。また、マザー・テレサの言葉の解説にあるようにそんな自分の才能に気づいてくれる人を大事にしたいです。2022.5.18内容の追加。■参考リンク築地本願寺:2022年5月 今月の参拝カードあなたはあなたであればいいあなたは、あなたであればいいMay you be content with yourself just the way you are.マザー・テレサ(聖人)cotoba.co2021/11築地本願寺の掲示板:あらゆる未来の花は今日の種の中にある。All the flowers of all the tomorrows are in the seeds of today.と、ミランダ・カーの言葉バラは決してひまわりになれないし、ひまわりは決してバラになれない。全ての花は自分なりに美しく、それは女性のようなものだ。ミランダ・カー相田みつを 〜わたしの美術館〜トマト と メロン トマトにねえいくら肥料やったってさメロンにはならねんだなあ以下略ラジオ放送「東本願寺の時間」渡邉 尚子(愛知県 守綱寺)第6話 「今、いのちがあなたを生きている」 [2005.10.]抜粋今、いのちがあなたを生きています。思い通りにならない、と苦しんでいるのは、本当でないものを、本当としているからです。役に立たないと苦しんでいるのは、自分のすべき仕事を忘れて人の仕事ばかり気にかけているからです。あなたが、悩み、苦しんでいるのは、あなたの本体であるいのちから、その事を知らせる、信号です。無量寿のいのちは、いつも「あなたはあなたに成ればいい」「あなたはあなたであればいい」と願い続けています。どうぞ、逃げないでください。「TAROの塔」(2011):岡本太郎を作った二人の女性 寺島しのぶ、常盤貴子、 松尾スズキ・自分の持つ他のすべての可能性に絶望して絵に専念しなさい。
2022.05.01
テレワークをしていると季節の移り変わりにうとくなりますが、満開の桜もいつの間にか散ったようで、新緑の季節間近です。今月の築地本願寺の掲示板は花にまつわる言葉です。Google検索してみると、この言葉のベースは仏教詩人の、坂村真民さんの詩の一節だそうです。原文を見つけて読んでみましたが、素朴な力強い詩だと思います。築地本願寺の掲示板の言葉は、坂村さんの言葉を否定しているようには感じられず、浄土真宗の本質を軽妙に表現してこれもよい言葉だと思います。この2つの言葉をもしつなげるならどんな接続詞がいいか考えました。『ただし』あたりはどうでしょうか。「念ずれば花ひらく。『ただし』念じなくても花は咲き念じても花は散る」花に関する言葉が出たところで、いつも引用させていただいている光華女子学園のサイトに「花びらは散っても花は散らない」 という言葉を見つけました。この言葉も会わせて心にとどめておきたいです。2022.4.23内容の追加。2022.4築地本願寺の掲示板:念じなくても花は咲き念じても花は散る■参考リンク念じなくても花は咲き、念じても花は散る2018/06/01恵那市 自法寺住職 小栗隆博 師先日、何気なく目にした、あるお寺の掲示板の言葉に、私はたいへんな衝撃を受けました。そこには、「念じなくても花は咲き、念じても花は散る」とありました。仏教詩人である坂村真民さんの「念ずれば花開く」という言葉はあまりにも有名です。それに似せていながら、単に悪趣味な模倣とも言い切れない、より本質を突いた言葉と私は受け止め、掲示板の前でしばらく立ち止まり、あれこれと考えを巡らせたのです。「念ずれば花開く」という時の「花」とは、目的とする成果や結果のことを意味しているのでしょう。なのでこれは、強く願うことで、必ず思いは叶いますよ、という励ましを意味した言葉だと思います。一方、掲示板のほうの「花」は、直接、植物の花を意味しております。以下略2018-04-21 18:46:39●念じなくても花は開く念ずれば花ひらく詩人 坂 村 眞 民(さかむら しんみん)抜粋「念ずれば 花ひらく」 念ずれば花ひらく苦しいとき母がいつも口にしていたこのことばをわたしもいつのころからかとなえるようになったそうしてそのたびわたしの花がふしぎとひとつひとつひらいていった今月のことば:2月のことば「花びらは散っても花は散らない」 金子大栄『意訳歎異抄』:光華女子学園片付けものをしていたら机の奥から一枚の葉書が出てきた。「ようやくあたたかくなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。私は○○大学に進学が決定し、遅咲きながら桜が咲きました。これからもどうぞよろしくお願いします。○○○○」 目の前にぱっと、明るい笑顔が浮かぶ。九州に生まれた彼女は、幼いときから父親の故郷の京都に憧れていて、中学生の時に祖父母をたよりに京都に来て、本校に入学した。生徒会や演劇部で活躍した彼女は、まさにバイタリティーのかたまりのようで、その後も活発に京都と九州を往来していた。 訃報が届いたのは、この葉書をもらって間もない頃だったろうか。急な病で、まだ大学在学中のことだった。私は行けなかったが、九州の葬儀には仲間たちが駆けつけたらしい。二十数年も前の古びた葉書を見つめながら、はたと気づいた。私はこの葉書を数年前にも見て、同じことを思い出していたと。いや一度ではなく、何度も何度も・・・そして、そのたびにまた机の奥に大切にしまっていたことも・・・彼女に会うことは二度とかなわない。いや、だからこそ私はこの葉書を決して捨てないだろう。そして、また数年後に葉書を見つけ、彼女の記憶を甦らせ、机の奥にそっとしまうのだろう・・・彼女だけではない。私事で恐縮だが、光華にお世話になって38年、今年最後の一年を終えようとしている私は、ここで多くの「いのち」と出遇い、共に生きてきた。「ここには君を待っている人がいるんだよ。そのことを忘れてはだめだよ」くじけそうな時に力強く励まして頂いた上司も、「『宗教』の授業を聞いて、私のいのちも意味があるのだと思えるようになりました」難病に苦しみながら、しみとおるような笑顔を私にくれた彼女も・・・今は亡い。しかし、その笑顔や声は今も鮮やかに私の中に残っている。「花びらは散っても花は散らない形は滅びても人は死なない」先達の言葉が、今実感を伴って甦る。みんな生きているのだ。私の中に。そしてつながっていくのだ。大きないのちの源に・・・「前に生まれん者は後を導き、後に生れん者は前を訪とぶらえ。」(道綽(どうしゃく)禅師『安楽集』より)「光華」という場で互いに遭い遇う、さまざまな「いのちの願い」が永久に受け伝えられていくことを念じつつ筆を擱く。(宗教部)
2022.04.01
数年前に読んだ「夢をかなえるゾウ」で、神社にお参りするとき、願い事をせず、神様いつもありがとうと言えば、いいことがあるとガネーシャが主人公に話したのを読んでなぜだろうとおもっていました。下記の参考リンクにある、松下幸之助さんの言葉、「感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく」、斎藤茂太先生の「素敵な夫婦関係の決め手は、『ありがとう』のたった一言」という言葉を読むと、答えのヒントになりそうに思います。2022.3.18追記。本願寺の掲示板を写真撮影したときに横に設置されていたので撮影。てっきり掲示板をもう一枚設置したのかと思ったら、今、見ると液晶画面のようです。今年は締め切りましたが、築地本願寺でボランティアを募集していたようです。資格条件がありますが、ちょっとやってみたくなるユニークな企画です。築地本願寺インフォメーション:2022年度奉仕活動員(ボランティア)募集について築地本願寺内の接遇・案内にご従事をいただく「奉仕活動員」を募集しております。参拝される方々にお寺への親しみを持っていただけるよう、みなさまのお力添えをお願いいたします。(1)内 容 本堂・境内においての接遇・案内(2)期 間 2022(令和4)年4月1日 ~ 2023(令和5)年3月31日 ※年末年始等必要に応じて休止いたします(3)活動時間 午前10時~午後3時(内1時間休憩)(4)シ フ ト 月に1~2日間程度(5)募集対象 宗門関係機関における修学歴があり、浄土真宗について基礎知識のある方 (6)募集人数 若干名(7)採用方法 応募いただいた後、個別面談を実施(8)募集締切 2022年3月15日 ※応募人数によっては期日より早く締め切る場合があります応募や奉仕活動に関するお問い合わせは、下記連絡先までお電話ください。築地本願寺法要行事部 奉仕活動員担当TEL:03-3541-1131(代表)■参考リンク【お寺の掲示板56】「有り難い」の反対は「当たり前」幸せだから感謝するのではない。感謝しているから幸せなのだ。(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)DIAMOND ONLINE2019.9.30 4:30「有り難い」の反対は「当たり前」 今回は広島市にある超覺寺の掲示板からです。これに似た文言としては、東京都台東区の谷中にある金嶺寺が、パナソニック創業者である松下幸之助氏のこんな言葉を載せていました。 感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく このように感謝することを勧める文言が複数のお寺で掲示されているのですが、それはなぜでしょう? 感謝するとき、わたしたちは「有り難う」という言葉を発します。この「有り難う」という言葉は、諸説ありますが、仏教に由来しているともいわれています。『法句経(ほっくきょう)』の中の「ひとの生をうくるはかたく、死すべきものの、生命あるもありがたし」という一節がそれに当たります。 「有り難う」の本来の意味は、「命の貴重さや尊さに対して感動を表明した言葉」であり、それがいつの間にか感謝する際に用いられるようになったのです。ですから、「有り難う」と感謝の意を表すとき、実は同時に「これはめったにない貴重なことだ」という暗示や感動を自分自身の心に与えているのです。 この「有り難い」の言葉の反対は「当たり前」になります。 日常生活を送っていると惰性に陥り、多くのものが「当たり前」の存在になってしまいがちです。「毎朝目が覚めること」は「当たり前」のことだと思いがちですが、朝になっても目が覚めず、そのまま亡くなる人も少なからずいます。ただ、だからといって、「毎朝目が覚めること」に対して「有り難い」と感動を覚える人はほとんどいないのではないでしょうか。 仏教的にいえば、「諸行無常」や「縁起」の理がはたらいているこの世界において、「当たり前」のことは1つもありません。すべては「有り難い」ことなのです。 しかし、さまざまなことをわたしたちはすぐに「当たり前」のものと錯覚してしまいます。「電気を使って生活できること」も「お風呂に入ることができること」も「当たり前」だと勘違いしていますが、災害など非常時になってはじめて、わたしたちはその「有り難さ」を悟るのです。 何でも「当たり前」と思ってしまうと、そこには感動や幸福が生まれません。精神科医の斎藤茂太先生は「素敵な夫婦関係の決め手は、『ありがとう』のたった一言」とおっしゃっていました。それは「有り難う」の一言が、日常の「当たり前」な出来事を貴重な素晴らしい瞬間だとお互いに認識させてくれるからです。 「有り難う」と数多く言えば言うほど、「当たり前」というゆがんだ認識が正されていきます。そして、さまざまなことに感動を覚えるようになり、まさに掲示板の言葉どおり「感謝しているから幸福」になるのです。以下略人より「幸せを感じやすい人」が自然にしている事自己肯定感の高い人と低い人の差どこにある?中島 輝 : メンタルコーチ 2021/09/29 17:00東洋経済ONLINE抜粋つらいことがあったとき、美しいものに気が付いて、気持ちが晴れた経験は誰にでもあると思います。地面の泥を見て絶望に打ちひしがれていた男も、もし空を見上げる余裕があったなら、輝く星に未来への期待を見出せたかもしれません。「泥という絶望」を見るか、「星のような希望」を見るのかを自分で選択できるということは、「自分を幸せにできる選択」は自分自身でできるということ。もしその選択が失敗だったとしても、自分で選んだ道なら後悔は少なく、納得できるでしょう。自分で選択することを続けていけば、他人と自分を比較して落ち込むことが減っていきます。表面だけを取り繕ってごまかす必要もなくなり、自分の信念に基づいて、次々と新たな「幸せ」を選択できるようになるでしょう。鉄格子の中から上を向くか下を見るか。つまり、希望を見つけるか、絶望に浸るかは、他人に強要されるものではなく、自分自身の選択です。いいことも悪いことも、好きなことも嫌いなことも、自分の身に起きるすべては、理想の人生をデザインするための「ギフト」です。幸せとは満ち足りることではなく、気づき続けることです。毎日自分の身に起こるさまざまな出来事(=ギフト)から、どんな気づきを得ることができるのか。それは人ぞれぞれ異なります。最初に述べた「鉄格子の中」という過酷なギフトから、「希望」を見いだせた人のように、どんなギフトを受け取っても、肯定的に受け止めて感謝をすること。その積み重ねによって自己肯定感が高まり、人生がますます楽しくなっていくはずです。夢をかなえるゾウ(2007、水野敬也著)とドラマ「夢をかなえるゾウ」(2008)小栗旬、古田新太、瀬戸朝香、水川あさみ
2022.03.01
早くも2月3日の節分が近づいてきました。ふだん何気なく耳にする「鬼は外 福は内」も、浄土真宗の視点から見ると、考えさせられます。自分のうちにひそむ鬼は消しようもできなさそうですが、いかにそれを抑えるか気づかせてくれた掲示板の言葉でした。鬼といえば地獄ですが、浄土真宗の勉強をしていて、地獄についてはあまり具体的な解説は聞いたことがありませんでした。てっきり全員浄土へGOと思っていましたが、今回検索したら浄土真宗でも地獄はあったんだなと知りました。ちょっと新鮮でした。仏教の六道輪廻と浄土真宗の関係についての解説がたいへん参考になりました。長年の疑問が解けてすっきりしました。2022.2.19追加■参考リンク読むお坊さんのお話鬼のこころ都河 普鉦つがわ ふしょう広島・真宗学寮教授抜粋悪いものを外へ 最近の日本人の風潮を見ていますと、悪いことの原因を全部自分の外に追いやって、自分と切り離して考えているようなところを強く感じます。そもそも仏教は内に煩悩を見、それとどう向き合うかというところを大切にします。 毎年2月3日になると、日本中で「鬼は外、福は内」の声が鳴り響くのです。この心やこの見方に、今の日本人の大半がなっているように思えてなりません。鬼というか、悪もの狩りばかりが目立つのです。 自分にとって都合の悪いものを外へ追いやり、自分にとって都合の善いものはこっちに来いというのですから、ずいぶん、手前勝手なものの考え方・見方のように思えてなりません。 そもそも鬼というのは、腹を立てると全く聞く耳を持たなくなる自分勝手な心のさまの形容のようです。聞く心がないから状況判断ができなるなるということで、私たち人間に不幸や災いをもたらすものが鬼だと考えたのでしょう。これを外に向けるのが、日本古来の宗教観や一般社会の仏教観、考え方のようです。節分の豆まきの行事を全国的にやっていて、何も疑問に思わないということにも、問題があるように思われます。他力真実のみ教え どなたのものかは不明なのですが、「黒犬を提燈(ちょうちん)にする雪の路」「煩悩を喜びにする念仏者」というのがあります。浄土真宗では、煩悩を要らないもの、邪魔ものにして無くそうとするのではなく、反対に、喜びといいますか、味わいの糧(かて)といいますか、自力の廃(すた)る要素が煩悩であり、他力に帰せしめられるのも煩悩であると味わわれているのです。浄土真宗の本義といいますか、他力真実の味わいといいますか、この積極的な煩悩に対する姿勢こそ、浄土真宗の煩悩に対する対処の仕方であろうと思われます。Wikipedia:鬼鬼(おに、英語: demon)は、一般に日本の妖怪と考えられている、伝説上の存在。民話や郷土信仰によく登場する。概要現在、一般的に描かれる鬼は、頭に二本、もしくは一本の角が生え、頭髪は細かくちぢれ、口に牙が生え、指に鋭い爪があり、虎の皮の褌(ふんどし)や腰布をつけていて、表面に突起のある金棒を持った大男の姿である。肌の色は青・赤・黄・緑・黒の五色で、「青鬼(あおおに)」「赤鬼(あかおに)」「緑鬼(みどりおに)」「黄鬼(きおに)」「黒鬼(くろおに)」などと呼ばれる。この五色は五行説と五蓋説が組み合わさったものと言われ、木+瞋恚蓋=「青(鬼)」、火+貪欲蓋=「赤(鬼)」、土+掉挙蓋=「黄(鬼)」、金+睡眠蓋=「緑(鬼)」、水+疑蓋=「黒(鬼)」になったとされる(本来五行説の金に対応する色は白であるが、五蓋説と結びついた際に緑に変じたという)[1]。鬼は、人に危害を加え、さらに人を食べてしまう存在と考えられることもあった。地獄において閻魔王の元で亡者を責める獄卒としての鬼のイメージが現在もよく知られている。また、定まった姿は持っていないとされた場合もあり、見目麗しい青年や美女の姿で現れて若い男や女を誘ったり、化かす相手の家族や知人に化けることができるなどとされた。鬼は「○○童子」と名付けられる場合があった。これには「酒吞童子(しゅてんどうじ)」の名で呼ばれる大江山の鬼が最もよく知られている。今でも、日本の山や山地には、「かつて鬼が棲んでいた」という伝説で彩られたものが少なくない。現在、「悪い物」「恐ろしい物」の代名詞として使われることの多い「鬼」という語であるが、例えば、鳥取県伯耆町(旧・日野郡溝口町)では、村を守った「強い物」として鬼を崇めていたり、青森県の岩木山では鬼の善行に感謝して、神社の「神」として鬼を祀っているなど、これらのほかにも日本の各地には鬼を善的に捉え、また、畏敬の念で見ている例が少なくない。節分の豆まきに見られるように、鬼が厄災をもたらすとする信仰も根強いが、まったく逆に、鬼が悪霊を追い払い、人に幸福をもたらしてくれる存在と考えている例も少なからず見られる[2]。一方、中世の能楽の世界では、鬼を人の怨霊と化したものか、地獄のものとする例が多い。昔話の中の鬼は、一種の英雄譚のなかで定型的に懲らしめられる悪者の役を負わされていることが多い。鬼が悪者であったとする現代の鬼の一般的イメージは、ここから広まった部分が大きいともいわれる[2]。以上、日本の鬼は「悪」から「善」や「神」まで多様な現れ方をしており、特定のイメージで語ることは困難である。単純に悪者とはできない。ただ、「怖ろし気」「力強く」「超人的」のイメージは多くの鬼に共通しているようである。また、鬼は端的にいえば、想像上の鬼と、他方、鬼や鬼の子孫とみなされ、あるいは、自称した実在の人達の存在があったといわれる。ただ、実際に鬼として語られていたものはこの両者のイメージが混じり合ったものが少なくなかったというのが、民俗学における通説である。仏教の鬼生前に貪欲であった者は、死後に餓鬼道に落ち、餓鬼になるとされている(小泉八雲「食人鬼 (小説)」)。地獄で閻魔の配下として、鬼が獄卒の役を務めているとされる(牛頭馬頭、阿傍羅刹)。時に民俗芸能においては、先祖の祖霊を鬼と捉える事があり、盆や正月に鬼を招く祭礼が各地で行われている(国東半島の修正鬼会、三河の花祭(霜月神楽)など)。お念仏を申す生活法話:円光寺地獄の話抜粋 仏教浄土真宗では地獄のことをどのように説きますかという質問です。浄土真宗はただ念仏一つのおはたらきで阿弥陀さまのお浄土に往生し救われて仏に成るとお浄土のことは説きますが地獄のことはあまり詳しく説くことはありません。 ただ以前はこのお盆の時期には地獄の釜が開くという話もありますので地獄絵図を掲げて絵解きをし地獄のお話をしていたようです。 仏教で地獄を説かないのではありません。六道輪廻といって地獄餓鬼畜生修羅人間天上という六道六つの迷いの世界を経巡っているのが迷いの私たちだと説きます。 他人の話ではなくこの私は今人間界に生まれて生きていますが人間界に生まれる前があったその前もあったその前もその前もその前もあったという話です。それが地獄だったか餓鬼の世界だったか畜生だったかは分かりませんが六道世界を経巡りずっとずっと迷い続けて今この人間を生きているのがこの私というのです。ということはこれからもこの人間の命を終えた後もずっと迷い続けていくということです。 今人間に生まれて生きているということは一つは今までずっと罪を重ねてきたから人間に生まれたということでありもう一つは人間に生まれていよいよ仏さまの教えに遇うご縁をいただいたということなのです。 ご縁をいただいていますね皆さん、仏さまのお話を聞かせていただいています。この私一人をこそ必ず救うとおはたらきの阿弥陀さまという仏さまのお話です。この阿弥陀さまはどんな人もすべて等しく救うというのです。死後の問題と六道輪廻 大野光択(北海道 大真寺)抜粋私たちの宗派、浄土真宗においては、阿弥陀如来さまのお慈悲をいただき、今の命を終えた後は、阿弥陀如来さまの極楽浄土という世界に往生させていただくと考えます。阿弥陀如来さまとは、はるか昔からろくどう六道りんね輪廻から抜け出せず苦しみ続けている私たちを何とか救いたいと考え、ろくどう六道りんね輪廻を超えた世界である極楽浄土をおつくりになられた如来さまであります。
2022.02.01
2022.1.13追記1月の掲示板ですが、参拝カードと違っていてびっくり。新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。毎月恒例の築地本願寺の掲示板ですが、新年の書として覚という言葉でした。「浄土真宗は目覚めの宗教」で検索したところ、下記の2つのリンクが目につきました。ひとつはよく引用させていただいている光華女子学園の今月のことば。もう一つは、佐賀県の妙念寺さんの電話サービスで、白川晴顕先生の文章の引用が中心です。この先生は私が通信教育で学ぶ中央仏教学院の前院長で、現在も真宗の教科担当の講師でいらっしゃると知りびっくり。びっくりしたついでに、絶版の先生の著作『浄土真宗は目覚めの宗教』(永田文昌堂 )の古本をアマゾンでみつけて購入してみました。なかなか煩悩を通さない見方は難しいですが、常に頭の片隅にでも置いて生きたいと思います。■参考リンク第586回 目覚めの宗教 平成16年 4月15日~妙念寺電話サービス抜粋「目覚め」とは、今まで当たり前、正しいと思っていたことが 「当たり前ではなかった、間違いであった」と、自分の非に気づかされることです。当たり前、正しいと思っていたことというのは、煩悩を通した見方でもあります。これに対して「目覚め」というのは、煩悩を通さない見方に照らされて、何が真実かということに気づかされていくということです。わかり易くいいますと、仏さまのものの見方が知らされていくなかに、それまで正しいとおもっていたことの間違いに気づかされていく、これが「目覚め」ということではないかと思います。 人一倍仕事ができ、頭脳が明晰で、社会的に立派な地位にいることを誇りにしている人ほど、頭脳や判断力が衰えていくことや、地位がなくなっていくことがつらいといえるでしょう。財産を殖やすことを最優先に考えている人ほど、財産が目減りしていくことに耐えられないでしょう。生きているときだけがすべてであって、死ぬことは惨めでありダメになることであると思っている人ほど、迎える死は最も恐いものになるでしょう。 このように優劣・善悪を考えた価値観やものの見方には、そこに価値を認める度合いが強ければ強いほど、逆にその反動も大きくなっていきます。自分が重い病気になれば、それを劣ったものとして斥け、優れた価値のある健康を取り戻したいという願いを強く持つのが平素の心です。しかし、いくら願っても思い通りに取り戻せないことも現実が教えてくれます。以下略光華女子学園:今月のことば(平成20年12月のことば)当たり前のことに感謝私達は、人からとても親切にされたときや物などをいただいたとき、とてもうれしく思い感謝します。しかし、日常生活の中で特別に何かをされたり、もらったりしなくても感謝することはたくさんあります。例えば、自分の体が自由に動くこと、五感の自由が利くこと、友人がいること、今日も生きていることなど普段何気なく生活している中にたくさんの感謝すべきことがあります。要するに私達はあることが当たり前になり、それが自分自身の基準(尺度)となっているのです。実はその当たり前のことを一番感謝すべきありがたいことだと「気付く」ことが大切なのです。では、どうすれば「気付く」ことができるのでしょうか?仏教では、人が生きていく上での基本となる道理を示されています。 そして「目覚め」の宗教であるとも言われています。「目覚め」とは、今まで 当たり前、正しいと思っていたことが「当たり前ではなかった、間違いであった」 と、自分の非に気づかされることです。わかり易くいいますと、阿弥陀様のものの見方に気付いていく中に、それまで正しいと思っていたことの間違いに気付かされていく、これが「目覚め」ということではないかと思います。物事に対して優劣・善悪の価値や、自分にとっての都合しか考えない損得勘定を最優先するものの見方は、思い通りにならなければ、必ずその結果として苦痛だけが残ります。「目覚め」は、煩悩を通さない(煩悩の無い)阿弥陀様のものの見方によって、優劣・善悪・損得勘定の見方がいかに虚しいものであるのか知らされることです。以下略Wikipedia:白川晴顕白川 晴顕(しらかわ はるあき/せいけん、1950年 - )は、浄土真宗の僧、中央仏教学院院萇。広島県生まれ。龍谷大学大学院博士後期課程真宗学専攻修了。宗学院卒業。龍谷大学講師、中央仏教学院講師・学校教育部長、2009年中央仏教学院院長。安芸教区豊田東組専教寺住職[1]。著書『浄土真宗は目覚めの宗教』永田文昌堂 2005
2022.01.01
新型肺炎禍の米国で人々が共同体意識を求め、宗教アプリの人気が高まっているそうです。アプリはキリスト教が中心で、コンテンツは、瞑想サポート、聖書学習、オンライン動画等をサブスクリプション型式で提供しているとのこと。SNS的な機能も付いているとのこと。費用は毎月7ドルですから1000円以下。今のところ、教会にとって代わるまでには至っていないようですが、教会の持つ機能をコンテンツに加えていけば、将来はどうなるかもわかりません。毎週末教会に通う必要もなく、わずらわしい人間関係からも解放され、月収の10%を献金として納める必要もなく、いつでも出入りできれば、アプリに流れて行きそうに思います。■参考リンク12/22「宗教アプリ」に押し寄せるベンチャー投資の波有料コンテンツに否定的な聖職者もThe Wall Street Journal By Isaac Taylor2021 年 12 月 22 日 13:03 JST宗教関連アプリは、ベンチャーキャピタル(VC)からの資金調達が急増し、勢いを得ている。スタートアップ創業者や投資家によると、特に新型コロナウイルス禍で共同体意識を求め、アプリに目を向ける人が増えたことが背景にあるという。 調査会社ピッチブック・データによると、有料の信仰用アプリが今年調達したベンチャー資金は、12月半ば時点で1億7530万ドル(約200億円)と、2020年の4850万ドル、16年の610万ドルを大幅に上回っている。 信仰アプリは主にキリスト教系が多く、瞑想(めいそう)サポートや聖書学習モジュール、ポッドキャストなどのサービスを提供している。ほとんどがサブスクリプション型で、コンテンツの一部は無料だが、多くの機能は有料でしか利用できなくなっている。以下有料記事
2021.12.19
築地本願寺のサイトの解説を読むと、おかげさまという言葉の由来は木の陰で暑さや雨露をしのぐことができることからきているそうです。光華女子学園の先生のお話ではおかげさまという言葉を広めたのは近江商人とのこと。うまく物事が進まない時でも大きなはからいに感謝しながら生きるのが確かに大切と思います。ところで、築地本願寺で寺婚パーティを開催するそうです。残念ながら私の年齢は対象外ですが、興味のある方はchallengeしてみてはどうでしょうか。参加資格は、独身で、男性30~45歳の築地本願寺倶楽部会員、女性は25~35歳の築地本願寺倶楽部会員とのこと。シニアコースもあるといいです。2021.12.4内容の追加■参考リンク私もあなたもおかげさま語源由来辞典:お陰様/おかげさま今月のことば:光華女子学園平成20年11月のことばおかげさまの気持ちを忘れずに皆さん近江商人という言葉を聞かれたことはあると思います。近江の国はここ京都の隣の滋賀県のことで、非常に真宗の教えの盛んなところでもあります。先日、大阪の南御堂で行われたある講演会で、作家の五木寛之先生が御堂筋について、「北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)を結ぶから御堂筋と呼びます。お念仏のさかんな近江の国の商人が、御堂の鐘の音が聞こえるところに本店を持ちたいと願い、やがてそうした先代の願いを受けて丸紅や伊藤忠といった商社も御堂筋にやってきて大阪の経済を支えてきた。御堂筋とは信仰によって発展してきた街です」とお話しになられました。この話しを聞いて、信仰心の厚い近江商人が大阪経済の発展に関係しているのだと驚いたのですが、司馬遼太郎さんの著書『街道をゆく』によると、近江商人はこの他にも、現在の私たちにとって非常に大切なことを全国に広めています。それは「おかげさま」という言葉です。私たちは人から物をもらったり、親切にされるなど、自分にとって都合の良いこと、うれしいことがあると「おかげさま」といって喜びます。一方、自分にとって都合の悪いこと、残念なことが起こってしまうと、「おかげさま」とはなかなか言えません。逆に不平不満、愚痴をこぼしてしまいます。目先のことに対しては「おかげさま」とすぐに気づくのですが、なかなか大きな「はからい」には気がつかないものです。しかし、よく考えてみますと自分にとって都合の悪いこと、残念なことなどの方が、その後の自分を成長させる働きがあるのではないでしょうか。私たちは自分ひとりで生きているわけではありません。多くの人たちに支えられ、お世話になり、助けられながらともに生きています。すなわち自分が気づかない無数の縁、言い換えれば「大きなはからい」によって生かされていただいているのです。この「大きなはからい」こそが、阿弥陀如来のはからいであり、そのはからいをしっかりと受け止め、「おかげさまで」と感謝し毎日を生きていくなかで、生きがいのある人生が生まれてくるのではないでしょうか。辞書を引いてみますと「おかげさま」という言葉は「おかげ」をていねいに言う言葉で、「おかげ」とは他人の助力や援助という意味の他、神仏の助けという意味もあるそうです。良いことも悪いことも「おかげさま」と受けとめ、「自分が、自分が」ではなく「おかげさま、おかげさま」と感謝し、共に喜び合いながら暮らしていきたいものです。 (宗)【参加者募集中!!】寺婚Party「歴史あるお寺で素敵なご縁づくり」開催この度、築地本願寺にて寺婚Partyを開催します。「築地の寺婚」に入会するかどうか迷っている方も、出遇いのきっかけを作りたい方も、ぜひお気軽にご参加ください。1.日 時:2021(令和3)年12月11日(土)14:00~16:40 【受付】13:30~13:502.場 所 築地本願寺 第二伝道会館(瑞鳳) ※本堂向かって左側奥の建物3.定 員 20名程度(男女各10名程度)※先着順4.締め切り 12月9日(木)5.参加資格 独身で 男性:30~45歳の築地本願寺倶楽部会員 女性:25~35歳の築地本願寺倶楽部会員6.内 容 参加者自己紹介、法話(10分)、トークタイム(1対1)、カップリングタイム、築地本願寺からのお知らせ7.会 費 ¥3,000.-8. お支払方法 クレジットカードで事前にお支払いいただきます。キャンセルの場合は返金ができませんので、ご了承下さいませ。9.申込方法・倶楽部会員の方…下記申込フォームより会員番号・名前を記入してお申し込みください。・倶楽部未入会の方…築地本願寺俱楽部にご入会いただいた後(入会はこちら)、下記申込フォームよりお申し込みください。お申し込みフォームはこちら【男性の方】https://tsukijihongwanji.force.com/mypage/Ginza_YoyakuEntry?retUrl=/mypage/s/&recordId=a0x5j000000DX4HAAW【女性の方】https://tsukijihongwanji.force.com/mypage/Ginza_YoyakuEntry?retUrl=/mypage/s/&recordId=a0x5j000000DX4MAAW★★注意事項★★・申し込み後にキャンセルされる場合は、他の方に迷惑が掛かりますため、必ず早めにご連絡ください。・遅刻・途中退席は他の方に迷惑がかかりますため、ご遠慮ください。・当日は受付にて身分証明書(運転免許証など)のご提示をお願いします。・内容は予定であり、予告なく変更する場合がございます。あらかじめご了承ください。・トラブルを避けるため、イベント中の連絡先交換はお控えください。・受付にて検温と手指消毒をお願いします。イベント中はマスクのご着用をお願いします。・他参加者に迷惑となる行為等、主催者が相応しくないと判断した場合はご遠慮いただく場合があります。※築地の寺婚…築地本願寺倶楽部会員様がご入会いただける、仲人型婚活サポートサービス※築地本願寺倶楽部…入会費・年会費無料。門信徒になることを意味するものではありません。どなたでもご入会いただけます。※該当日が緊急事態宣言中の場合は実施を中止する場合があります。【お問い合わせ】〇築地本願寺倶楽部 tsukijihongwanjiclub@tsukijihongwanji.jp〇築地の寺婚 terakon@tsukijihongwanji.jp〇築地本願寺コンタクトセンター 0120-792-048(9:00-17:00)
2021.12.01
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