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恩田陸『黄昏の百合の骨』講談社文庫『麦の海に沈む果実』後の水野理瀬を描いた幻想ミステリ。魔女の館に隔された謎と一連の怪事件の真相に迫る。本作は、『三月は深き紅の淵を』に関連付けられる一連の作品群の中の、水野理瀬をヒロインに据えた系統の作品で『麦の海に沈む果実』の続編として位置づけられる。関連作品を読んでいれば独特の雰囲気に馴染みやすく、作品の中に散りばめられた謎めいた記述についてより一層楽しむことができる。とはいえ、『三月は深き紅の淵を』関連の作品の関連は実に緩やかで、特に本作は独立性が高いため、これ一冊だけでも十分ミステリとしては楽しめる。この作品も他のシリーズと同じく、独特の恩田ワールドが転回されていく。この恩田ワールドを一言で説明するならば、幻想と現実の狭間にある儚くも奥深い世界と言えるのではないかと私は考えている。黄昏のような美しさと不気味さの混在する瞬間を舞台に、百合のように美しく華やかで強烈な魅力を持った登場人物によって、読者は奥深くに埋められた凄惨な骨の真実を垣間見る。恩田陸のシリーズはたいていこのような筋書きになっている気がする。この作品の舞台も、日本を舞台としながらもどこか西洋風ファンタジー世界の香りが感じられ、謎めいた事件の舞台として申し分のない舞台装置に仕上がっている。特に水野理瀬のシリーズはいかにもな館が主な舞台となっておりミステリ色が濃い。登場する知的でミステリアスな少年少女たちも透明感と底知れぬ闇を兼ね備えており、読者を惹きつける。事件のほうはこれまでの関連作品よりも比較的普通ではあったが、小さな謎を散りばめるという手法は今回も遺憾なく発揮されワクワク感を高める効果を高めていた。最後の最後に一波乱あって最後まで気を抜かせないところも良かった。
2007.05.17
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林浩『アジアの世紀の鍵を握る 客家の原像―その源流・文化・人物』中公新書自身も客家である著者が、客家について多角的に説明。客家とは、中原を追われ華南や東南アジアに移住していった漢民族のエスニックグループのこと。客家人は漢民族中のエリートグループとのプライドと反骨精神を持ち、古くからの伝統を固持しながら、商業や学問の領域で活躍している。また、歴史上の反乱や革命の指導者の中に客家人が多い。李登輝やリー・クァン・ユーなど、アジア各地の指導者になっているものもおり、その活躍の舞台中国国内におさまらない。李登輝も客家だということに興味を持ち、本書を読む。客家の歴史的生活スタイルは、日本人が憧れを抱いているような中国のイメージと近いようだ。言語も客家語が日本の漢字と近いとのこと。日本語の食べるは、中国の普通話では吃となるが、客家呉では食のままだという。そのほかにも、日本人が尊敬していた中国のイメージのもとと思しき風習もかなり残っているようだ。もちろんどんな民族でも、自分自身のことは総じて美化して書きたがるものなので、すべてをそのまま信じるのはいけないかもしれない。また、客家が自信を持って説明していることのでも、日本人の感覚からは疑問に思うことも幾つかあった。しかし、それでもいまの中国全体のひどいイメージと比べると、ずいぶん立派に思えた。日本人は、昔から中国に反発しつつも一定の敬意も持っていた。しかし、日清戦争以降は中国人を軽侮し、敗戦後は自虐的な贖罪意識を持ち始めた。最近は侮蔑と恐怖と敵意が入り混じっている気がする。確かに、中国は様々な面でレベルの低い国であるが、急成長もしており、何より日本の地位を脅かす存在である。しかし、中国の歴史を見る際には、いまの関係から来るバイアスを捨てて、冷静かつ客観的に評価していく必要があるだろう。中国関係の本を読むたびに、中国は広大で複雑だという、諦めにも似た感想を持つ。「中国のユダヤ人」といわれる客家の総代で興味深い歴史も、中国の歴史のほんの側面にしか過ぎない。中国を読み取るために必要なのは、民族の絆か、一族の血縁か、秘密結社の契りか。共産党の時代といいつつも、イデオロギーとは異なる様々な関係によって結びついている。その一方で所詮は散砂のようにまとまりがなかったりもする。広大な地域で膨大な数の人々がエネルギッシュに欲望をぎらつかせて活動している中国。極東の島国に日本に住む一介の若造にすぎない者が、何冊かの本を読んだところで、把握できるような生易しいものではない。それでももっと知りたいと思わせる魅力と、知らなければ怖いという存在感を中国は持っている。
2007.05.09
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三崎亜記『となり町戦争』集英社文庫地方自治体間で公共事業として遂行される見えない戦争の物語。この手の作品が好きでないということは自分でもわかっていながら、その話題性と内容の奇抜に惹かれて読んでしまった。結局結論からいうと、やはり好みではなかった。一言で言うと軽薄すぎた。この手の作品が好きになれないところは、まず、極端な現実味のなさにある。現実と乖離した内容が問題なのではない。SFやファンタジーは非現実的な素材であるが、私は嫌いではない。ここで言う現実味のなさとは、作品世界の作りこみ不足からくるリアリティーの欠落のことである。この作品の主人公は「戦争に現実感をいだけないでいる」とのことだが、そもそも「小説の中の戦争の現実」が描けていない。物語を書く際には小説の世界設定の緻密さや人間心理のリアルさももちろん必要だが、小説のモチーフとなっている現実世界の事象を取材しそれを踏まえるのも重要である。本作の場合、町役場の描写についてはその努力が見れたが、戦争や戦争心理については現実のそれとあまりにも乖離しすぎている。小説で書きたい戦争と現実の戦争はもちろん全然違うということは承知しているが、それにしても酷すぎる。それどころか、小説世界での戦争についての描写も一切なかった。戦争をモチーフとしながら、ここまで戦争を描くことを拒絶したのはある意味で賞賛に値する。だが、これでは読者も、「戦争に現実感をいだけないでいる」主人公のいる、小説の中の現実を把握できない。どれだけ不合理で不条理な話でも上手く描かれてさえいれば、その不合理な世界に納得できる。よくできた小説ならば、小説の主人公が現実感をいだけないでいても、その主人公や彼を取り巻く小説の世界観が読者に伝わるのである。しかし本作品の場合は、筆者も小説世界の中の現実感を想像できないでいたのではないかと疑いたくなってしまった。もっとも、私の感性が鈍くなりすぎたがゆえに、小説世界の中の現実感を感じられなかったのかも知れない。あるいは、いまどきの小説には、そのようなものはもはや不要なのかもしれない。次に、そのテーマについてだが、奇抜な内容の作品のわりに案外と古臭い。誤解を恐れずに書くと、となり町との戦争であるという折角の面白いモチーフが生きていなかった。おそらく中心に据えているのだろう、一般人が無自覚のうちに間接的に戦争へ荷担しているという問題も、取立てて新鮮なテーマではない。特に経済的側面からは、第一次世界大戦や朝鮮戦争の特需のことを思い出せば日本人なら誰でもわかるし、戦争経済学という学問のジャンルもある。また、無自覚のうちに我々が殺戮行為に手を貸しているケースとしては、中国へのODAとチベット弾圧の関係を挙げるとわかりやすいだろう。戦争の悪として捉えるのではなく、その肯定的な側面もほのめかしているところは、意表を衝くと共に不気味さを煽りたかったのかもしれない。しかし、「たたかひは創造の父、文化の母」という側面は昔から言われていることである。もっとも、戦後の平和教育に洗脳された人にとっては衝撃なのかもしれない。お役所仕事のクールさや単調さの気味の悪さもこの作品の肝となっている。とはいえ、旧陸軍のお役所的だめっぷりの数々とくれべれば、実に可愛らしいものである。補足して言うと、個々人の運命が行政の歯車に巻き込まれ潰されていくということについても、本作のエピソードはあまりにも矮小である。これらのテーマを主張したいならば、非現実的なとなり町の戦争というモチーフよりもストレートに戦争そのものを描いたほうが余程効果的であろう。最後に、本作品全般についての感想を述べると、戦争というものの本質が描けていなかった気がする。平和で満ち足りた環境で、なに不自由なく育った現代日本の若者特有のナイーブさ、ひ弱さ、薄っぺらさ、小奇麗さばかりが目だっていた。世の中に無関心で戦争に対して現実味を持てないでいる若者を扱った作品でありながら、戦争のリアリティーを描けていないので、「戦争に対して現実味を持てないでいる若者」の姿にも危機感が出てこない。これだけ戦争と向き合うことを避けながら戦争を書こうとしたというのは驚異的であり、ある意味では戦後日本の最大傑作かもしれない。もっとも現代の日本人でも、少し過去の歴史を振り返ったり、海の向こうを眺めれば、生臭い戦争と向き合わざるを得ないのだが。作品のテーマも他のモチーフを用いたほうがより激烈に伝えられる。そもそも戦争というものを描けていない。しかし、それでもこの作品は大ヒットした。その要因は、いうまでもなく奇抜な設定にある。ただ、そのオリジナリティーある設定も、描写が不十分で小説の世界観が際立ってもいない。山田悠介の『リアル鬼ごっこ』を読んだときに感じたのと同じ、乱暴さを感じた。アイデアはぴか一で非常に面白かったので、その奇抜な設定のみをショートショートか短編にしていたならば、私も絶賛していた可能性もある。
2007.05.07
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長嶺超輝『裁判官の爆笑お言葉集』幻冬舎新書 法の下で厳格かつシステマチックに運用される裁判の中で、チラリと見える裁判官の個性的なメッセージを紹介。裁判員制度のスタートが迫り、一般向けの裁判関連本が流行している。この本は、元司法浪人が書いたものであるので、趣味で裁判傍聴をしている単なるマニアの著作より、本質に迫っている気がした。ともあれ、一般の人にも裁判を面白いものとして興味を持たせるという意味で、この手の本はなかなか価値がある。法律というものは非常に論理的に良くできているが、同時に温かみの欠落している。誤解を恐れずに言うと、無味乾燥で面白くない。一般の人にとって、合理的な現代の法治よりも、人情が介入する余地のある人治のほうが魅力的に思えることもある。もちろん、人治が多くの問題を抱えていることなど自明のことで、中国の実情がそれを如実に表している。とはいっても、一般の人が難解に見える専門的な法制度に不信感を抱き、大岡裁き的な単純でわかりやすい裁判に魅力を感じる気持ちもよくわかる。そのような民心と司法のずれが問題となっている中で、この本は、機械的に思われるいまの裁判にも血が通っているということをアピールすることに成功した。裁判官達の人間としての声は、裁判への感情的な信頼感を誘うものである。自分と遠くはなれた無関係な世界と思っていた裁判が、本書を読んで、身近に感じられた人も多いかと思う。政治学を学んでいない人でも、床屋政談でああだこうだと天下国家を論じるのは、普通の人にわかる言葉で政治問題を扱った書物やテレビが多数あるからだ。娯楽として政治を扱ったものも数多い。一方で、これまで司法の分野は、専ら専門用語で語られ、門外漢には理解不能な領域だった。近年の娯楽として裁判を見るという風潮は、近寄りがたかった司法の領域を身近なものに変えつつある。裁判員制度をめって、司法への不信と司法への参加に対する躊躇の間でゆれる国民に、これらの本が与えた影響は大きい。
2007.05.05
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サミュエル・P・ハンチントン 『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書ハンチントンの名著『文明の衝突』の概要紹介に二本の論文を加えた、日本人向けの手軽で便利な一冊。ハードカバーの『文明の衝突』は値が張り、かつ読むのが面倒なので、手軽なほうで済ませる。日本のケースについて突っ込んで見ていきながら「文明の衝突」理論を掴めるように構成し、興味を持たせやすくまとめられており、サラリーマンの教養用向けとして良くできている。「文明の衝突」理論の紹介はいろいろなHPに掲載されているので当blogでは割愛し、「二十一世紀における日本の選択」に関しての一言コメントのみ記しておく。アジアの地域大国を中国、第二位の国を日本とする考え方は、非常に残念であるが認めざるを得ないだろう。日本とは中華文明圏と決別したアジアの国家であり、孤立しているのはやむをえないし、むしろそこに存在意義がある。また、日本の国家戦略は「追従(バンドワゴニング)」にあるというのも、悔しいがその通りである。ただ、日本がとるべき選択肢として、追従する対象となるパートナーにアメリカと中国のどちらかを選ぶことのなるとあるが、中国を選ぶことは考えにくい。日本にとって、中国とよりもアメリカとのほうが、共有できる中長期的な戦略的目標が圧倒的に多い。中国もアメリカも日本とは別の異質な文明のリーダーであるが、どちらかを選ぶとなればアメリカの理念のほうに共感する日本人のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。中華文明圏の辺境から離脱しアジア性を捨て去ったアジアの国が日本であるという存在意義を示すことこそが、近代化のはるか以前から国是であった。それをいまさら、中国に追従するならば、それはもはや日本が日本でなくなることを意味するのではないか。あくまで、表面上では中国との関係を悪化させないように配慮しながら、裏ではグローバルな超大国アメリカとしっかりと手を結んで中国を押さえるしかないだろう。ブレジンスキーも、ひよわな花である日本はグランドチェスボードのプレイヤー足りえないと書いている。孤独で小さな日本文明が、一極多極時代を乗り切るためには、アメリカの覇権と日米同盟が強固なものであり続ける必要があるだろう。
2007.05.04
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蔡焜燦『台湾人と日本精神 日本人よ胸を張りなさい』小学館文庫日本人以上に日本的な“愛日家”蔡焜燦が台湾に息づく日本精神を紹介。そして、自虐史観に迷い込んでしまった日本人に、自信と誇りを取り戻すよう訴える。「日本人よ胸を張りなさい」知日派の台湾本省人の著作の代表作。この手の本の流れはだいたい以下のようなパターンが多い。(1)規律正しく、「公」を重んじる日本精神を日本統治時代に学んだ、(2)日本統治によって台湾は近代化に成功した、(3)日本の敗戦後、独立を喜び、中華民国に期待を寄せたが、中国人のていたらくを知って失望した、(4)外省人の苛烈な支配と腐敗した日常に耐えてきた、(5)李登輝以降、我々本省人は台湾人としてアイデンティティーを回復し、れっきとした国民国家へと更なる繁栄の道を歩んでいる、(6)現在の日本は敗戦以降の自虐史観を脱することができずにおり、中国の顔色を伺ってばかりでだらしがない、(7)日本と台湾は手を取りあって、輝ける未来へと前進するべきだ。最近の日台友好の原動力としてよく取り上げられるのが司馬遼太郎の『台湾紀行』と小林よしのりの『台湾論』で、この『台湾人と日本精神』の著者、蔡焜燦はどちらにも登場する。この本で特に面白かったのは、蔡焜燦の韓国・朝鮮人に対する意識。日本人と台湾人、大陸の中国人と台湾の中国人、台湾の本省人と外省人を、比べて書かれた文はよく読むが、日本時代の台湾人と朝鮮人の違いを皮肉たっぷりに書かれた文章は始めて読んだ。これについてもっと詳しい話を知りたくなった。参考までに軽く紹介しておく。・創氏改名について 朝鮮人:自己申告制、日本名を名乗る人が多かった、戦後は反日に 台湾人:許可制、日本名を名乗る人は少なかった、戦後も親日 先に日本に組み込まれた台湾よりも朝鮮を優遇した政策に蔡焜燦は苦言を呈し、朝鮮人は優遇されていたにもかかわらず戦後反日に走っていると指摘する。植民地統治について「反省」する際には、このように同化政策を捉える「アジアの人々」もいるのだということを踏まえる必要があるだろう。補足で記すと、創氏改名は朝鮮人側の要望に渋々応じたものであり、無理矢理押し付けたものではない。・戦後の三国人問題について 朝鮮人:日本人に対して横暴な振る舞い、戦勝国中華民国の人間には卑屈な振る舞い 台湾人:特権をいかして人々のために親切な振る舞い 三国人とは、戦勝国の人間でも、敗戦国日本の日本人でもない、旧植民地の人間のことを指した戦後の言葉。蔡焜燦は台湾人として、朝鮮人の悪行を暴き、台湾人の美談を紹介している。しかし、騒乱・衝突を引き起こした台湾人もいたわけで、日本人の感覚からしてはどっちもどっちだという意識もある。しかし、戦後60年以上たったいま、朝鮮・韓国と台湾の意識の違いは歴然と現れてきている。第3章では、上に紹介したようなエピソードが紹介され、最後のほうの章では今後の関係について言及している。その内容を紹介すると下記のような感じである。日本は反日的な韓国や中国よりも親日的な台湾をパートナーに選ぶべきで、中国にへつらい過ぎていれば、世界で一番親日的な台湾も今の日本を批判する立場に回らざるを得ない。もっとも、この反日は媚中派日本人に対する反日であるが。この指摘は、非常に示唆的なメッセージである。かつて親日的であったからといってこれからも親日的であり続けることが保証されているわけではない。親日的な「多桑」世代はもう高齢化している。「哈日族」の若者が惹かれているのは、日本そのものというよりも日本の先端的でクールな文化についてで、流行が日本以外に向けばその熱は醒めやすいだろう。今の日本の行動は、台湾に対して冷たすぎるとの指摘はご尤もである。にもかかわらず、日本人は親日的な台湾というイメージに満足しきっている。友好の為には、かつての歴史も重要だが、いまどのように行動するかが重要だということは言うまでもない。インドネシアも親日国として良く取り上げられるが、果たして親インドネシアの日本人はいまどれくらいいるのか。台湾にしてもその他の親日的なアジアの国々に対しても、格下の国々として軽んじ、根拠なく蔑視している日本人が多い気がする。これではとても、アジア諸国との友好は難しいだろう。失ってしまった“日本精神”を取り戻し、西洋との協調、アジア諸国との友好をバランスよくこなしていかなければ、中国の覇権を前に、日本は太刀打ちできなくなってしまうだろう。
2007.05.02
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