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鬼怒川温泉駅の転車台は駅構内ではなく駅前広場の一角に造られました。1日3回の回転は観光客が見学しやすくなっています。JR西日本芸備線三次駅から移築されたものです。スイッチバックを繰り返して入ってきたC11が回転して向きを変えます。駅前は出店が出て人が多いです。 再び、駅に入っていきます。 ホームの方から見た転車台。SL大樹、結構堪能しました。
2017年09月08日
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SL大樹は下今市を出るとゆっくりゆっくり進みます。12kmに36分もかかります。特急型客車のため、窓は開かず煙も入ってきません。SLらしさがあまり感じられないのが残念。車内販売や写真撮影がひっきりなしに来ます。大谷川を渡り、7月にできた東武ワールドスクウェア駅に停車すると、終点鬼怒川温泉駅はすぐです。↑ちなみにこの写真は大樹1号です。 機関車と切り離された客車。大樹のサボ。 スイッチバックして隣の車線にSLが戻ってきました。 車内でもらった記念乗車証。1号から6号までデザインが違います。こちら指定券。名前のところは消しましたが、Mくん、取ってくれてありがとう。
2017年09月07日
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SL大樹の車内ではグッズやお菓子、アイスなど売っています。車内販売で黒いアイス(300円)を買いました。味はごま、バニラ、いちご。ごまはともかくバニラを食べた友人が黒いのに驚いていました。お土産には石炭あられにSLプリントクッキー。 石炭あられは竹炭を使い中まで真っ黒。 本当に炭みたい。クッキーはこんな感じ、「大樹」「SL」のデザインでした。
2017年09月06日
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SLの運転に必要な転車台。東武下今市駅に新たに設置されたものは、JR西日本山陰本線の長門市駅から移築されました。SLに乗車したためここでの回転は見られませんでした。隣には機関庫が見えます。帰りにもう一度寄りました。 さらに駅構内にSL展示館ができました。鉄道模型のジオラマやSLの部品の展示、昭和34年に廃止された東武矢板線のSLの写真などもありました。廃止の日までずっと電化されずSLが運行していました。ちなみに矢板線は廃線跡を歩いてトンネルやホームを探索したことがあります。
2017年09月05日
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いよいよSL大樹に乗ります。下今市13時ちょうど発の大樹3号を引っ張るのは蒸気機関車C11形207号機。現役時代はずっと北海道を走り、00年に復活するとSLニセコ号、冬の湿原号などの名称で北海道を走っていました。隣の側線にいた列車はいったんバックします。 スイッチバックしてホームに入ってきました。煙を出して汽笛を鳴らして迫力満点です。東武でのSLは66年佐野線以来51年ぶりです。新たに転車台もできました。 12.4kmと距離は短いながら、曲線と勾配が多く、後ろからディーゼル機関車が押して上がります。
2017年09月04日
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東武鉄道鬼怒川線で8月からSLの復活運転(下今市-鬼怒川温泉)が始まりました。大樹3号のチケットを友人に取ってもらったので9月2日、浅草からリバティけごん17号に乗りました。下今市まで1時間半余の旅です。新しい車両は乗り心地が良いです。 こちらは浅草でリバティより10分、先に出たりょうもう号。足利・桐生方面、赤城まで行きます。12時39分下今市到着。乗り換えです。会津田島まで行くリバティ会津を切り離します。 鬼怒川温泉で遭遇した金色のスペーシア、特急きぬ。 こちらはJRから来た客車。 北千住駅で。帰りのスペーシアとお別れ。 続く。
2017年09月03日
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滋賀旅行の最後に、米原駅で買った駅弁「ステーキ弁当」。新幹線の中で食べました。残念ながら、近江牛ではなさそうです。ただ肉は見ての通りの分厚さ。焼き方はミディアム。文句なしの美味。1300円もするだけのことはある。ご飯は滋賀県産近江米。付け合わせはスパゲティサラダ、レタス、ジャガイモ、茎わかめ。
2017年05月24日
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長浜城の後は「長浜鉄道スクエア」に行きました。1882年(明治15)に建てられた、現存する日本最古の駅舎である旧長浜駅舎(第1回鉄道記念物)を中心に、北陸線電化記念館、長浜鉄道文化館が建てられました。SLやELの静態保存もあります。英国人技師ホルサム設計の洋風2階建ての駅舎は石灰コンクリ―ト造りです。入り口と窓枠にレンガが使われているのがおしゃれです。建物の四隅には花崗岩の切り石が使われています。中に入ると、人形を使って出札口が復元されています。階段が鹿鳴館風の手すりです。 一等二等待合室の様子。明治の雰囲気がします。奥には駅長室もありました。この駅舎が使われたのは、新駅舎が完成した1903年(明治36)までのわずか21年間でした。その後は倉庫として使われていました。「長浜鉄道文化館」には長浜&北陸線の鉄道史の展示。鉄道資料やクイズなど多数。鉄道模型もHOゲージのジオラマが2階にあって、列車がぐるぐる回っていました。 琵琶湖汽船の舵輪です。1982年引退のはり丸です。「北陸線電化記念館」で。ED70形1号交流電気機関車。1975年まで18年間使われました。 D51形793号蒸気機関車。このデゴイチは、1970年まで27年間現役でした。EL、SLどちらも、運転台に入れます。両車両の周りは、東海道線の開通当時の模様(各駅の写真)が見られました。今はなき大谷駅、神奈川駅などの写真もあって貴重です。その他、駅員の制服やランプや時計、長浜駅の模型に古い地図、子供向けクイズコーナーなど、じっくり見たい資料がありました。
2017年05月18日
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国鉄下河原線は、国分寺-東京競馬場前の旅客線と北府中-下河原の貨物線に分かれています。東京競馬場前駅を確認した後、分岐点に戻りました。今度は右の貨物線方面に直進しました。下河原緑道は、舗装された遊歩道がずーっとまっすぐ続いていきます。中央高速道の下をくぐり、左手に郷土の森博物館の敷地を見つつ右にカーブしていきます。この貨物線は、多摩川で砂利を採取して運搬するための鉄道で、下河原駅は北府中起点3.8kmの地点です。老人ホーム「わたしの家府中」があるあたりから、下河原の貨物ヤードがあったといいます。以前は広い空き地があったりして、砂利の運搬基地の痕跡を見せていたそうですが、現在では緑道の沿道には住宅が立ち並び、まるで判然としません。 さらに進み、府中市立心身障害者福祉センターのあるあたりが正確な下河原駅跡だそうです。引き込み線があったようで緑道は続き、南町4丁目付近で終点となります。緑道の向かいには公園があり、下河原の地名の由来を書いた碑があったりします。廃線はこの辺で終了。道をまっすぐ進むと京王線中河原駅です。
2017年03月17日
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1976年に全線廃止された国鉄下河原線の廃線跡は北府中を出て現JR武蔵野線の西に並行して進みます。京王線の下をくぐって約100m、番場北裏通りとの交差点には、レールが埋め込まれています。当時の物か定かではないが、踏切の雰囲気はあります。踏切跡を渡ったところには、下河原線の説明板がまたあります。古い枕木を柱に利用して作られています。 さらに進み、その先の旧甲州街道付近には、手前に、下河原線の踏切事故の供養塔があるのが鉄道があったことをしのばせます。合掌。通りを渡ったところには、古いSLの写真などを使った下河原線の説明。だいぶ塗装が剥げているのが残念。南武線を緩い上り坂・妙来橋(当時の物ではない)で乗り越えて、しばらく行くと、道が二股に分かれます。左が、東京競馬場前駅につながる旅客線。右に直進すれば、貨物線で下河原貨物駅に至ります。 まずは左の旅客線の方に。現在遊歩道が工事中です。1kmも行かないうちに武蔵野線にぶつかりますが、終点手前にある「電車ごっこ」の像が、鉄道跡であることを示しています。駅跡は矢崎町防災公園になっています。奥にオレンジ色の電車が見えます。府中本町駅は100mほど北にあります。 東京競馬場へは、地下道でつながっていました。ちょっとボケちゃった。
2017年03月16日
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国鉄下河原線は、国分寺-東京競馬場前5.6km(旅客線)と北府中-下河原3.8kmの貨物線です。武蔵野線の建設に伴い、1973年に旅客線、76年に貨物線が廃止になりました。北府中までは武蔵野線に大部分が転用されたので、今回、北府中から遊歩道になった廃線跡を歩いてみました。府中本町に向かう武蔵野線は地下に入りますが、下河原線は地上を進みます。島忠の横にあるスペースは廃線跡です。ケーズデンキの横から下河原緑道が始まり、すぐにモニュメントが出現します。「下河原線広場公園」。木のホームの上に駅名標っぽい看板があります。もちろんここに駅があったわけではありません。 横に、下河原線の由来を記した説明板があります。地面にはレールが埋め込まれています。 甲州街道を渡り、その先で京王線の下をくぐります。
2017年03月15日
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武蔵野競技場線の廃線跡は、玉川上水を渡って武蔵野市に入ると「グリーンパーク遊歩道」と名を変えて、新武蔵境通りから離れて右に進みます。途中の関前公園では、廃線跡は公園にのみ込まれますが、その先で再び遊歩道が現れます。池がある大きめの公園です。 途中中島飛行機武蔵製作所の引き込み線の説明板がまたあります。公園の先は、右に大きくカーブして終点を目指します。 遊歩道の終点付近。国鉄の境界線標。通りを渡って、武蔵野中央公園に線路跡はのみ込まれます。細い側道が線路跡か? 終点の駅跡は、武蔵野ガレリアというマンションになりました。正確な駅舎の位置が分からないので、緑町二丁目アパート(球場跡)との境目や、マンションの周りを1周しました。
2017年03月13日
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堀合(ほりあわい)遊歩道として三鷹駅付近から続いていた武蔵野競技場線の廃線跡は、武蔵野市との市境で玉川上水を渡ります。当時の鉄橋は川の両脇に橋台だけが長年残っていましたが、2012年に橋台を再利用した「ぎんなん橋」が作られました。鉄道跡であることを示すように、板張りの上にレールがはめ込まれています。橋の下をのぞいてみると、確かに橋台が残っています。そのまま残すのもいいけれど、こういう形の復元?もありかと思います。 橋を渡ったところには、武蔵野市が建てた説明板「中島飛行機武蔵製作所工場引き込み線橋台跡」があります。 その先の武蔵野市内の廃線跡は、「グリーンパーク遊歩道」と名を変えて続いていきます。新武蔵境通りから離れて右の方に進みます。
2017年03月12日
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国鉄武蔵野競技場線は中央線三鷹と武蔵野競技場前駅の3.2kmを結んでいた鉄道です。中島飛行機の武蔵野製作所跡地にできた「武蔵野グリーンパーク球場」のアクセスのために、1951年4月に開業。50年5月に廃止された中島飛行機の引き込み線を利用したものです。しかし、グリーンパーク球場はわずか1シーズン(プロ野球16試合、東京六大学19試合)のみの運用で休止になり、武蔵野競技場線も1年で休止、球場が56年に閉鎖されたために59年に正式に廃止されました。廃線跡はほとんどが遊歩道に転用されています。JR三鷹駅北口を出て、西にしばらく進むと側線が現れます。正面には「堀合児童公園」。ここが武蔵野競技場線の廃線跡の始まり。グラウンドが右にカーブしているので鉄道のあったことが分かります。グラウンドの先まで行くとさらにわかりやすいです。 公園の先からは遊歩道が始まります。三鷹市と武蔵野市の市境に当たる玉川上水まで、堀合(ほりあわい)遊歩道が続いてます。新武蔵境通りに並行して進みます。
2017年03月11日
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筑波山ケーブルカーは、筑波山神社近くの宮脇駅(標高305m)と、男体山と女体山の中間、御幸ヶ原にある筑波山頂駅(800m)を全長1634m、8分で結びます。20分間隔で運行。大人1050円、JAFカードなどで割引になります。神社から宮脇駅までの階段がかなり急で、駅に着くまでにもうへとへとです。まっかな「もみじ」号が止まっていました。もう1両、緑の「わかば」号があります。定員107人。車内に入ると、傾いていて通路に階段がある。さすがケーブルカー。午後1時ちょうど、宮脇駅を発車します。 全長1634mは日本で3番目に長いそうです。最奥時速12km、自転車ほどの速度です。途中333mの東京タワー、634mのスカイツリーの高さの目印があります。下ってくるわかば号と一瞬ですれ違い、トンネルをくぐると山頂はもうすぐです。筑波山頂駅に到着しました。標高800m、降りると麓よりもずっと寒いのが分かります。風も強い。
2017年01月13日
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那須旅行2日目(12月28日)、那須どうぶつ王国は10時からで時間があるので、9時オープンの「SLランドミュージアム」に行きました。0系新幹線やEF58機関車が道路から見えて気になっていた施設です。しかし、中にはSLがどこにもない!1階に鉄道模型のジオラマがあるけれど、2階・3階はトリックアートやリカちゃん人形のコレクションなど鉄道と関係なし。きかんしゃトーマスの遊具や、のぞき窓でSLの走行映像を見られるのが、唯一SLと関係ある部分でした。ジオラマの動く時間は11時から1時間おきなので、100円入れて、新幹線・ドクターイエローを動かしてみました。 1周半ほど回って終点。外に出ると、連なる客車と、SLがあります。以前はきかんしゃトーマス仕様だったようですが、外されています。クレームでも来たのでしょうか。 子供はSLの運転席に乗れてうれしそうです。客車は子供用のプレイランドになっています。幼児ならまだしも10歳のうちの子はもう遊ばない施設です。それにしても、塗装が変です。 10時の那須ドームの3D映像上映を係員さんに勧められましたが、子供が待ちきれなかった。内容も「ゲゲゲの鬼太郎」と鉄道と全く関係ありません。せめてトーマスにしてほしかった。係員さんも気の毒に思ったのか、鉄道模型の全列車を動かしてくれました。ようやく鉄道施設らしさを見られました。子供に人気の新幹線が多いのはいいけど、SLランドを名乗る以上は、蒸気機関車が1編成あってもよかった。 ミュージアムの隣にはレストラン「蒸氣機関車」があります。列車が料理を運んでくれて人気だそうですが…。まだ9時半なので割愛。SLランド、せめてSLの写真とか模型とかの資料の展示があっても良かったんじゃないか、と思います。これで1000円(JAF割引で100円引き)は高いよ。
2017年01月01日
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留萌線に乗った帰り、「深川そばめし俵おむすび」を食べました。午後2時半まで、お昼が食べられなかったので、帰りの特急スーパーカムイの中でパクつきました。そばの実の入ったおにぎりに、シューマイ、鶏唐揚げ、長芋フライ、ウインナー、ポテトサラダ、ミニトマト、キュウリの漬物。駅弁のある駅も少なくなったけど、こういうものでもその土地のものが食べられてよかった。 札幌でエアポート快速に乗り換え、新千歳空港へ。わずか2日間の北海道旅行を堪能しました。たった2日間の旅行なのに、長々とブログ23回分も続きました。終わり。
2016年11月15日
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札幌市電は路線縮小後、長い間西4丁目-すすきのの往復運転でしたが、両駅の間はわずか400mしか離れておらず、昨年12月に新線(都心線)400mが開通してループ線になり、循環運転(内回り・外回り)が始まりました。新線区間は道を歩いたこともあるので、10月24日、日没後ですが初乗りしました。まずは新しくなった西4丁目停留場へ。電車の行き先表示が「循環・外回り」に変わっています。 西4丁目を出た電車は、道路の真ん中ではなく、両端を走ります。歩道から電車に簡単に乗れるような作りになっています。床も低く、LRTと言っていいでしょう。約80年ぶりに復活した狸小路停留場。こちらは外回り駅。狸小路の商店街が近いです。こちらは狸小路の内回り駅。 約5分で、すすきのに到着。信号でたびたび止まり、もしかすると歩いたほうが早いかもしれません。
2016年11月13日
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平和を過ぎた夕張鉄道の廃線跡は以前は、錦沢の山越え区間をサイクリングロードでたどれましたが、トンネルの崩落の恐れがあって一部通行止めになっています。僕は車で先回り。雪が激しくなり前が見えないほどになりましたが、「新二股」「継立(つぎたて)」の2駅舎が残っており、発見できました。新二股は、バス停の前。廃墟ですが、特徴のあるデザイン。保存という形で残してほしいなあ。写真下は駅舎の裏側。ホームがあったほうで雰囲気があります。 継立は、松原産業の事務所として使用されています。資料としてよく見る写真と違って、煙突がありません。改装したかな。車道と反対側が駅の雰囲気があります。雪が強くなってきて、その先の探索は断念しました。駅跡の記念碑などがあるようです。また来ることがあれば、捜してみたい。
2016年11月12日
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夕張鉄道廃線跡のサイクリングロードは、平和駅の手前で右に大きく旋回して、石勝線を乗り越し、180度方向を変えて室蘭本線栗山方面に向かっていました。オメガカーブと呼ばれる雄大な眺めを、現役時代見てみたかったなあ。JR(当時は国鉄夕張線)と道道をまたいでいた跨線橋は、往時の橋梁が残っています。整備されて新しくはなったものの、雰囲気が残ります。特にJRの上が。下の写真は石勝線の車窓から窓越し。 若菜-平和は1.7kmですが、その間に2駅もありました。橋の若菜寄りに夕製前、わずか600m先、橋を渡ったところに礦業所前の駅がありました。橋の奥、平和運動公園の敷地が広がっていますが、かつての北炭平和炭鉱や炭鉱住宅があったところ。さらに先が平和駅でした。その先は錦沢のスイッチバックなど見どころがありますが、今は雪の季節。しかもこの日(10月24日)はふぶいています。天候がいいときにまた訪れて跡をたどってみたいものです。
2016年11月11日
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鹿ノ谷から2km、営林署前から1km、若菜駅がありました。現在の夕張鉄道のバスターミナルの近く。ホームがしっかりと残っています。雪に埋もれていて見落とすところでした。若菜駅跡へと上るJR石勝線の踏切には、「若菜駅前通り踏切」の名称が残っていました。開業時は若菜辺駅でした。 こちらがその踏切。石勝線側から見る、ホームにつながる路盤下の水路橋。土台は、しっかりしています。 その先も、しばらくは石勝線と並行したサイクリングロードが続きます。
2016年11月10日
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夕張鉄道は、函館本線野幌駅-室蘭本線栗山駅-夕張本町を結ぶ53.2kmのローカル私鉄でした。石炭輸送に大活躍しましたが、昭和46年から一部路線の廃止・旅客営業廃止が始まり、昭和50年には路線が全廃されました。終点の夕張本町駅は閉鎖された旧夕張市民会館。次の末広駅は、現在のJR夕張駅近くにありました。写真はその南、末広踏切。右手はまだ現役の、JR石勝線夕張支線で、左に並行して走る細い道が、サイクリングロードになった廃線跡です。その先にある士幌加別川の橋台。位置的に夕張鉄道のものと思われます。 そして石勝線(当時は夕張線)との接続駅が鹿ノ谷。跨線橋の下に広がるスペースが、往時の盛況を思わせます。鹿ノ谷から1km、営林署前駅付近の踏切。資料によれば廃止後しばらくは、駅舎が残っていたそうですが、新しい葬祭場に変わっています。雪のためか、その裏にあるという一部ホームの残骸は発見できませんでした。
2016年11月09日
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三菱大夕張鉄道の南大夕張駅跡の保存車両を見学した後、車で清水沢方面に戻りました。途中駅・遠幌(えんほろ)の位置は定かではありませんが、遠幌加別川に架かっていた遠幌橋の痕跡を探してみました。川の両側に橋台が残っていました。 こちらは、南大夕張駅近くの遠幌寄りの小川。ここも小さな橋台が残っていました。南大夕張より先は最近まで駅跡等残っていましたが、2015年の夕張シューパロダム竣工により、ダム湖の湖底に沈んでしまったようです。渇水期に捜せば痕跡は見つかるかもしれません。今回は雪の季節で、行くのは断念しました。石勝線との分岐駅・清水沢との広い構内。空き地は大夕張鉄道のあったスペース。かつての盛況を思わせます。 清水沢駅の駅舎内に残る写真。ディーゼル機関車に引かれる貨客混合列車が、かつての石炭輸送を想起させます。 南大夕張炭鉱は85年のガス爆発事故で死者62人の大惨事を起こし、大夕張鉄道は87年に廃止。炭鉱は90年に閉山になっています。
2016年11月08日
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三菱石炭鉱業大夕張鉄道は、石勝線清水沢と大夕張炭山の17.2kmを結ぶ鉄道。石炭の輸送だけでなく旅客営業も行っていました。大夕張炭鉱の閉山に伴い、73年には南大夕張から先の9.6kmを廃止、87年には南大夕張炭鉱の合理化のため残りの7.6kmが廃止されました。僕が乗ったのは83年8月でした。南大夕張駅跡には駅舎はなくなったものの、ホームと駅名標が残り、客車列車が静態保存されています。雪の中、レンタカーで駅跡に到着。キ1型ラッセル車を先頭にスハニ6、オハ1、ナハフ1の客車3両、セキ1、セキ2の貨車6両がホーム跡に連結されています。 駅名標。ラッセル車キ1。改めて見ると凄い雪だ。 客車2両の中は、入って見学できます。こちらはスハニ6。かつては青森の津軽鉄道のようにストーブ列車を運行していたため、そのスペースが残っています。写真左下がストーブがあったところと思います。それにしても客車が古い。床はがたがた。 ナハフ1は車掌車。中には入れませんでした。その後ろの貨車はセキ1、セキ2。石炭を積んで走っていたのが想起されます。 オハ1の客車。オハ1の車内。こちらもさらに古い。昭和末期まで現役だったのが不思議なぐらい。 ダルマストーブを置いてあったのはこの金網の中でした。 ラッセル車の前でビニール袋をかぶっていたのはモーターカー。人を乗せてトロッコのように運行できます。一時、客車が横倒しになったりして保存が危ぶまれましたが、地元の三菱大夕張鉄道保存会の活躍で現状維持できています。雪が深く、冬の間は訪れるのは大変そうですが、遺産を後世に残してもらいたいと思います。
2016年11月07日
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12時47分、終点増毛(ましけ)に到着しました。約30年ぶりの訪問。廃止が12月4日に迫り記念乗車のツアー客や鉄道マニアがホームにあふれました。増毛漁港は日本一のボタンエビの漁獲高で知られ、甘エビ、タコなども多く取れる。また、増毛(ぞうもう)にあやかり髪の薄い人が押し寄せたり、高倉健さんの映画「駅 STATION」(81年)の舞台でもありました。増毛の開業は1921年(大正10)。95年で廃止になります。 増毛駅は84年には簡易委託駅になり、90年代には無人駅になりました。駅舎内の運賃表。留萌までは360円、深川まで1450円です。僕はすでに、滝川で帰りの切符は買ってありました。 駅舎内は、海産物などの土産物を売る店になっていました。上り列車は10分停車して12時57分に折り返します。実際は3分遅れて出発しました。 さらば。
2016年11月06日
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12月4日限りで廃止される留萌線の廃止区間最初の駅が瀬越(せごし)。目の前は海。ホームと駅舎は山側です。僕は海側に座っていて車内は席を立つこともできないほど混んでいます。駅舎の写真は帰りに撮り直しました。よくある貨車改造の駅ではなく、コンクリートのしっかりしたものでした。1926年開業も仮乗降場→臨時駅を経て正式に駅になったのは1987年のJR発足時でした。海のほうには、写真を撮っている人がいました。レンタカーに乗って撮影しているのでしょう。前日の夕張の僕みたいに。 海はずっと右手に見えます。次の駅の礼受の手前には、95年まで浜中海水浴場・臨時駅がありました。礼受(れうけ)。駅のすぐ裏に海が見えます。潮風のためか駅舎がかなり傷んでいます。 阿分(あふん)。ここも1987年、国鉄からJRになったのと同時に仮乗降場から駅に昇格したうちの一つ。阿分神社の境内を列車が横切ります。信砂(のぶしゃ)。も昇格組。次の舎熊までは、800mしかありません。 舎熊(しゃぐま)。1921年(大正10)の路線開通当時から駅があったところ。朱文別。ここも仮乗降場だった駅。 箸別。ここも仮乗降場上がり。増毛の港が見えます。終点・増毛はもうすぐです。 箸別-増毛間では、融雪期に斜面から線路に流入した土砂や雪に列車が乗り上げて脱線する事故が近年に2度起きている。昨年2月23日~4月28日にも雪崩および斜面の土砂崩壊で運転を見合わせるなど、土砂崩れがたびたび発生する災害線区であり、将来にわたって安全を確保するには数十億円に及ぶ防災工事費が必要と見込まれていた。ただ赤字なだけでなく、災害の多いことも廃止の理由だったのですね。
2016年11月05日
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留萌到着は12時04分。深川でつないだ車両はここで切り離します。1両になった車両にツアー客がどっと押し寄せ、通路まで立ち客でいっぱいの満席になりました。札幌からバスで来た一団で、バスは増毛に先回りしているそうです。廃止前に記念に乗りに来たのは僕と同じです。13分も止まっているので、降りてみました。記念切符も買いたいし。改札前にある、SLすずらん号のヘッドマーク。乗りたかったなあ。 駅で記念切符を買いました。留萌-増毛間の9駅の硬券入場券。増毛だけ2枚で計10枚1700円で台紙付きです。いい記念になりました。12時17分、超満員の1両のディーゼルカーが増毛に向けて出発しました。右手に見える廃鉄橋。後で調べたら、留萠鉄道臨港線のものだそうです。さらに先に築堤&橋台も残っていました。 港を過ぎると海が間近に迫ります。留萌から増毛へはずっと海に沿って走ります。
2016年11月04日
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恵比島は、NHKの朝ドラ「すずらん」(99年)の舞台となった明日萌(あしもい)駅のセットが造られ、現在も駅舎として使用されています。昭和初期の物語で重厚な造りになっています。ヒロイン萌(柊瑠美→遠野凪子)の父(橋爪功)が駅長で、明日萌駅が重要な存在でした。ドラマ人気でSLすずらん号が06年まで運行されていました。絵はドラマがモチーフ?戦前風に右から左に書かれた駅名標まであります。 駅舎の中には駅長さんの人形まであるそうです。時間があれば降りてみたかった。かつて69年まで(正式廃止は71年)は留萠鉄道の分岐駅でもありました。炭鉱のある昭和まで17.6kmの路線でした。峠下。この駅で、分解した自転車を持って降りていく年配の方がいました。上り峠を自転車に乗って攻めるのかな、と思っていたら、なんと帰りの上り列車でこのおじさん、北一已から乗ってきました。両駅の間は鉄路で24.5km。道路はもっと曲がりくねっているので、ずいぶんと長い距離をサイクリングしたものです。峠は天塩・石狩の国境の峠です。 続いて幌糠。以前は峠下との間に06年まで東幌糠がありました。駅名標に修正した跡が。幌糠の駅舎。よくある貨車改造のもの。割ときれいです。 藤山。幌糠との間に90年まで桜庭駅がありました。利用客が少ない駅はどんどん消えていきます。藤山も峠下も幌糠もいつ廃止になってもおかしくない駅です。大和田。次が留萌です。
2016年11月03日
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留萌本線(深川-増毛66.8km)のうち、留萌-増毛間16.7kmは12月4日限りで廃止が決まっている。だがそれだけでなく、JR北は残りの区間も廃止したいようだ。10月25日、札沼線に乗った後、バスで滝川に出、特急スーパーカムイで深川へ。留萌線の列車はもう1両連結作業中。先頭車両は増毛まで、連結した車両は留萌で切り離します。2両編成ということは、それなりに乗客はいると思われます。特急スーパーカムイは札幌と旭川を結び、30分から1時間おきで1日23往復も走っています。 後続の特急オホーツクなどからも乗客が集まりだし、座席が埋まっていきます。留萌線の列車は11時8分、深川を発車します。次は北一已。 難読駅名として知られる「北一已」(きたいちやん)。乗客が少なく、来年3月に廃止したい駅にリストアップされているとされますが、地元の方が降りていきました。アイヌ語の「イチャン」はサケ・マスの産卵場の意味とか。秩父別(ちっぷべつ)。これも読みづらい駅。地名の由来は諸説あるようです。 北秩父別は行きも帰りも通過でした。下り2本、上り4本しか止まらない閑散駅です。石狩沼田はかつて、札沼線との接続駅でした。現在は駅舎寄りの1ホームしか使われていないけれど、別に島式ホーム2面がぽつんとあります=写真。札沼線があったころは島式ホームが留萌線、現在も使われているホームが札沼線用でした。 真布(まっぷ)。駅名はシル・ウトロ・マップ(大地の間の地区)に由来します。駅前は田園地帯でした。
2016年11月02日
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現在新十津川が終点の札沼線は、かつて72年までは線名の通り留萌線の石狩沼田とつながっていました。駅から600mほど先の徳富川にかかっていた橋梁の橋桁は今でも残っています。赤いガーターが目に映えます。現在は水道橋として使用されています。滝川に向かうバス(国道275号)から撮影しました。近くまで行って写真を撮る時間があればなおよかった。前日のようにレンタカーがあれば、可能だったでしょう。北海道の廃線巡りには、やはり車が必要です。 レールは、新十津川の先、しばらく続きますが、200mほどで住宅に突き当たって途切れていました。写真は、新十津川駅から100mほどの地点から駅を振り返ったもの。車止めの先のアパートの裏側に回ってみましたが、この先、鉄橋までの痕跡は途切れていました。
2016年11月01日
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9時28分、終点の新十津川に到着しました。30年ぶりの訪問。ホームを降りると地元の子供たちが手製の絵葉書を配っていました。駅前の空知中央病院の保育所の子供たちで、5年も前から列車のお出迎えを行っており、土曜には太鼓や踊りもあるそうです。地元の人たちが何とか盛り上げようとする熱意が伝わってきました。子供たちの記憶に残るまでこの駅が存続し続けることを願ってやみません。9時28分の列車は12分止まって40分に折り返します。日本一早い終列車です。 絵葉書を配っているお出迎えの子供たちが見えます。今日(10月25日)は火曜日で少ないほうかな。1931年の開業で85周年。当初は留萌線の石狩沼田までつながっていましたが、72年6月には路線の一部新十津川-石狩沼田34.9kmが廃止され、以来新十津川が終着駅です。 駅舎は以前と変わってないですね。30年前も1日3往復しかない駅でした。駅の時刻表の通り、1日1本しか列車が来ない駅、廃止は時間の問題かもしれません。何しろここから函館本線の滝川まで約3km、バスで10分で行けます。札幌に出るにはそのほうがずっと早い。浦臼も奈井江からバス20分。やはり石狩月形より先は厳しいと言わざるを得ません。 帰りの列車には乗らず、9時41分のバスに乗って滝川に出るために、新十津川を後にしました。
2016年10月31日
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浦臼から先は1日1往復しかないローカル線。かつて清水港線(84年廃止)がそうだったけれど、通学の高校生がいたし貨物もあった分、清水の方がましでした。新十津川の始発が9時40分では通勤通学用に利用するのは不可能です。浦臼から最初の駅が鶴沼。キャンプ場や温泉のある鶴沼公園からは離れています。続いて於札内(おさつない)。待合室の上のさびた駅名標は、国鉄時代からのものと言われています。 地元の人が1人、降りました。1日1往復でも利用する人はいるのです。南下徳富(みなみしもとっぷ)。一面田んぼの前の何もない駅ですが、沿線で写真撮影をしていると思われる鉄道マニアが乗車しました。 下徳富の駅舎。次が終点の新十津川。残念ながら、浦臼から先、地元の人は乗ってきませんでした。 以前は、新十津川との間に06年まで中徳富駅がありました。
2016年10月30日
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石狩月形を出た新十津川行きの1両編成のディーゼルカーは深い山の中に入っていきました。突如停車したのは豊ヶ岡。紅葉の黄色がきれいな森の中。離れたところに待合室はあるけれど、人家は見当たらない。国道275号から離れているためで、札幌から手軽に行ける秘境駅として人気です。観光客らしき人が降りていきました。次は札比内(さっぴない)。国道沿いで少し集落に戻った感じがしました。 進行方向左手に、白く冠雪した山が見えます。ピンネシリ(標高1100m)を中心とした山々です。山々の紅葉は真っ盛り。前日の夕張の雪がうそのようです。北海道は場所によって天気が全然違うと実感。 晩生内(おそきない)。難読駅名だと思います。札的(さってき)。 浦臼に到着。地元の人が1人降りました。立派な駅舎です。ここから先は1日1往復しかありません。廃止したいから乗るな、と言わんばかりのダイヤ設定に疑問を覚えます。
2016年10月29日
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8時17分着の石狩月形で高校生(駅前の月形高か)の通学客は降りてしまい、車内は鉄道マニアと思われる人たちと、わずかに地元の人だけになりました。浦臼からの上り列車との交換のため発車は8時40分。23分も止まるので降りてみました。この先、浦臼までは1日6往復とちょっと減ります。月形町の名の由来は人名から。当地にできた樺戸集治監典獄(刑務所)の初代所長、月形潔から。 乗ってみた感じ、この駅まではまだ需要があるように感じました。改札の外に出てみます。有人駅で、硬券入場券を購入しました。 この行き先表示が2つ並ぶのはいつまでか。駅舎の外はこんな造り。 8時34分、浦臼発の上り石狩当別行きがやってきました。 上りも16分止まり、8時50分発です。のんびりしてるなあ。下りが先発した後、10分も止まっている意味が分からない。
2016年10月28日
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JR北海道は札沼線(愛称学園都市線、76.5km)のうち北海道医療大学-新十津川47.6kmの廃止を検討している。何しろ末端部の浦臼-新十津川13.8kmは今年3月のダイヤ改正で1日1往復に減らされた超閑散線区。札幌寄りの通学通勤区間は電化され1日50往復以上走るのとは対照的です。新十津川行きの唯一の便に乗りました。10月25日6時58分、札幌発の電車で7時38分、石狩当別着。ここから7時45分発の新十津川行きに乗りました。次の北海道医療大学までは、札幌から直通電車が走る区間。駅の目の前がキャンパスでした。廃止を見込んでいるのか、電車ホームと気動車ホームの間が離れているのが悲しい。ここから先は非電化です。乗客は減りますが、石狩月形までは1日8往復あります。 沿線の人家が減り紅葉の山々が迫り、ローカル色がぐっと濃くなって、石狩金沢。それでも、通学の高校生たちがまだ乗っています。 田園地帯を進んで、本中小屋。中小屋。貨車を改造したような駅舎は、北海道のどこに行っても見られます。 月ヶ岡。窓の汚れと逆光でこんな写真しか撮れませんでした。知来乙(ちらいおつ)。窓を開けて、駅名標の写真を撮りました。駅名が変わっている。語源はアイヌ語の「チライ・オッ」。イトウがたくさんいるところの意味だそうです。 次が主要駅の石狩月形です。
2016年10月27日
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新夕張から27分、12時26分、終点夕張に到着しました。夕張駅は移転を繰り返しており、ここは3代目夕張駅。マウントレースイスキー場の前。夕張に来るのは83年、88年に続き3回目です。現在の石炭の歴史村付近に初代の夕張駅がありましたが、85年に1.3km手前に移転、さらに90年に800m手前に移り現在地の夕張駅が開設しました。終着駅の雰囲気がありますが、初代夕張駅は貨物輸送の名残でだだっ広い構内だったことを思い出します。 駅舎は観光案内センター併設のため、随分立派です。路線が廃止になっても案内所として残りそうです。前回88年に鉄道研究会の合宿で来たときは、2代目夕張駅で古い貨車を再利用したちゃちな駅舎でした。時期は未定ですが、廃止は確実。これが乗り納めと思います。 こちらは、初乗り時の83年8月12日の初代夕張駅の駅舎。廃止後も、石炭の歴史村の事務所として保存されていましたが、06年に撤去されたそうです。残念。ちなみに写真の僕は15歳・高1でした。当時、夕張駅に往復はがきを出し、国鉄職員宿泊所に泊めてもらったことなど思い出します。今じゃ考えられないかな。次に来るときは冬季休業中の石炭博物館に来て、SLなど見たいところです。
2016年10月26日
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石勝線夕張支線は沼ノ沢を過ぎると次第に山深くなっていきます。まだ紅葉が残っているのに、雪が降り、風も吹いてふぶいてきました。北海道じゃないと見られない光景かも。次は「南清水沢」。沼ノ沢から4km5分。 その次は「清水沢」。かつては三菱石炭鉱業大夕張鉄道の分岐駅でした。廃止は1987年。83年(高1)の夏に乗っています。廃線跡もチェックします。 三菱鉄道があったための広い構内が、かつての盛況を思わせます。駅舎内には、かつて石炭の輸送で栄えていたころの清水沢の写真が多数貼ってありました。大夕張鉄道の写真も貼ってありました。 突如進行方向右手に現れる細い道は、1975年に廃止された夕張鉄道を転用したサイクリングロードです。後で跡をたどってみようと思います。清水沢-鹿ノ谷間に廃トンネルが見えます。夕張にはこういう遺構がいっぱいあります。 清水沢から6.6km12分と距離が空いて、「鹿ノ谷」。夕張鉄道の接続駅でした。結構雪が舞っています。 鹿ノ谷駅の広い構内。JRの右手にはかつて夕張鉄道の敷地もありました。
2016年10月25日
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次々と路線廃止の方針を打ち出し、渦中のJR北海道。廃止が決定的な3路線に乗ってきました。まずは石勝線夕張支線(新夕張-夕張16.1km)。夕張市の鈴木市長とJR北の島田社長が8月17日、合意し、早ければ2019年3月にも廃止される。新千歳空港でレンタカーを借りて、吹雪の中、沿線の撮影をあらかじめ行い、起点の新夕張へ。駅前には、石勝線開通(1981年)前の夕張線当時の「紅葉山」駅の駅名標が記念碑的に残ります。駅前に車を止め、片道360円の切符を買ってホームへ。石勝線の本線のほうは、10月の台風でトマム-新得がいまだ不通のままです。帯広、釧路を結ぶ大動脈が切断され、JRだけでなく北海道の経済全体に大打撃です。現在は、トマム行きの臨時特急が3往復走っています。その先は代行バスです。 11時59分発の夕張行きは千歳始発。1両の車両には、鉄道マニアと思われる人ばかり。地元の人もいましたが、マニアが記念に来るほうが多いのは、末期症状でしょう。紅葉山という地名だけに、時季は過ぎたけれど紅葉は素晴らしい。夕張川橋梁を渡りながら、右に分かれていく石勝線本線を眺めます。 石勝線および根室本線の早期の復旧を望みます。山奥に進むに連れて、雪がだんだん強く降ってきました。最初の駅、沼ノ沢に到着しました。レストランが併設の駅です。
2016年10月24日
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上熊谷駅近くの上越新幹線高架下に、「バーボンクラブ」という名前のお店があります。古い列車を転用したバーです。秩父鉄道の電車と貨車と思われます。まだ営業時間前でしたが、ちょっと立ち寄りたくなりました。
2016年10月21日
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遊歩道・かめのみちは、乙女町踏切付近で終わります。ここからは上熊谷を経て起点の熊谷まで秩父鉄道と並行していました。当時の線路が撤去されずに草と土に埋もれていました。ただし踏切はアスファルトで埋められていました。写真は左が秩父鉄道。右が東武熊谷線の廃線・妻沼側。鉄路は右にカーブして秩父鉄道と分かれ、かめのみちの上を走っていました。同じ踏切から、上熊谷方面を見ます。遠くに駅が見えます。現役の線路とそうでないものの落差が激しい。 廃線から33年たっても、レールが残されています。文化町踏切。上熊谷駅がすぐそこ。 同じ踏切からこちらは、妻沼方面。ここも熊谷線の踏切だけ埋められています。右から高崎線が近づいてきます。線路をまたぐ鎌倉陸橋から見た秩父鉄道上熊谷駅。東武熊谷線のホームは金網でふさがれた側。手前はJR高崎線です。 上熊谷駅至近の第4熊谷堤踏切。やはりここも熊谷線のレールだけ埋められていました。この先熊谷までは0.9km。秩父鉄道と高崎線に挟まれて続いています。
2016年10月20日
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高崎線を乗り越えた先は、かめのみちが復活。石原公園には、気動車キハ2000形を模したトイレ「かめ号」があります。設置は89年3月。以前、廃線跡歩きに来たときに既にありました。ただし、トイレは別に造られ、もう使用していません。中はシャッターが下りて入れませんでした。窓からのぞくと、普通のフロアリングで公民館として使えそうです。側面の日付が設置された時と思われます。83年5月末の廃止から6年後です。 行き先標が前後の上に付いています。さらにかめのみちを歩いていくと、踏切の警報機がありました。もちろん本物ではなく、ここに踏切があったわけではないけれど、鉄道のあった名残を感じさせます。
2016年10月19日
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遊歩道「かめのみち」は、高崎線をオーバークロスしていた辺りでいったん途切れますが、熊谷方面でまた復活します。高崎線両脇に築堤の橋台の残骸があります。写真は妻沼寄りのところにあるカメ号をモチーフにしたレリーフです。妻沼寄り高崎線の築堤跡に残るコンクリートの水路橋です。 高崎線の線路を挟んで反対側(熊谷寄り)にも、築堤跡が残っています。こちらにもコンクリートが残っているようです。ここを渡ることはできませんが、踏切まで迂回して、熊谷側に渡ってみようと思います。 高崎線を越えて、熊谷寄りに残るコンクリート橋。こちらも下を川が流れています。撤去するのは大変なので、そのまま残ったのでしょう。上に登って先ほど通ってきた妻沼寄りの築堤を眺めてみました。「クマガヤ」の字が見えます。
2016年10月18日
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熊谷バイパスをくぐったところが大幡駅。妻沼から5.5km。ここまで駅がないのは沿線に人家が少ないから。やはり廃止は仕方ないかも。駅跡周辺は、鉄道用地を示すコンクリートの柵があり、中間地点で交換駅。上下線がすれ違う広い構内が脳裏に浮かびます。駅があったのは写真右側の住宅付近です。畑の先の住宅あたりが駅のあったあたりです。 遊歩道の入り口の柵。鉄道の駅跡っぽい。コンクリート柵は両脇にあります。 砂利道は、大幡中学付近まで400mほどで終了。新しい舗装道路が出現します。ここはまだ転用されたのは最近のようです。熊谷農業高校付近から、遊歩道「かめのみち」が現れます。ここもコンクリート柵が残り、鉄道用地=廃線跡であることがしのばれます。 カメ号にちなんだ亀が遊歩道のあちこちにいます。
2016年10月17日
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妻沼展示館でキハ2000形カメ号を見学した後、廃線ウオーキングに。妻沼駅跡は、「ニュータウン入り口」バス停前の広大な空き地。スーパーカスミの向かいです。機関庫もあったため構内は広い。写真左端の道路寄りにはホームの跡かと思われる土の塊もありました。現役時代ホームは1面でした。ここからの廃線跡はほとんど道路に転用されました。 10.1kmの廃線跡歩きに出発。線路が転用された道路に沿って5.5km先の大幡駅跡を目指して歩きます。沿道の家の玄関がこちらになく、裏の細い路地側にあるのは鉄道があったためと推理できます。福川を渡る鉄橋があった場所に、痕跡はありませんが、欄干に「東武橋」の銘があり、ここが鉄路だったことが分かります。反対側(熊谷寄り)はひらがなでした。 カメ号にちなんだのか、道路脇の休憩所には、亀のオブジェがあちこちに見られました。よく見ると、道路の端には境界線を表す「東武」の文字があちこちに見られました。 舗装道路は、熊谷市農業センター付近で突き当たり終了。その先に突然未舗装の道路が現れます。レールを外しただけの状態に見える、当時の雰囲気を残した貴重な痕跡です。ただしこの道はわずか100mほどで終わり。その先は工事も進んでいるので、いずれは消えてしまうでしょう。写真は熊谷側から、妻沼方面を振り返ったもの。30年ほど前に廃線跡歩きをしたときは、熊谷からこの辺まで歩いています。 道路を横切るとその先は、農耕車専用の砂利道になっています。廃止から33年たっても道路転用がまだ進んでいません。この砂利道は大幡駅の先まで続きます。沿道の田んぼのあちこちに立っている柱が気になります。枕木を転用した古いもの。東武のコンクリートの境界標が足元にありました。
2016年10月16日
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東武熊谷線のディーゼルカーを静態保存している妻沼展示館には、路線現役当時の資料、写真が展示されています。駅員の制服やカンテラ、駅名標にサボ、サヨナラ運転のヘッドマーク、切符、旧妻沼町内の写真。SL時代のものもあります。模型も2つありました。赤字額はそれほど多くはなかったものの、東武唯一の非電化路線で運用・点検・保守の効率が悪いこと、上越新幹線開通に伴う駅の整備に邪魔になる、秩父鉄道にホームを間借りしていた、利根川を渡って東武小泉線と結ぶ計画が流れたことなど、いろいろ理由があるようです。鉄道友の会が作ったサヨナラ運転用のヘッドマーク。 こちらは、大幡駅のジオラマ。運賃表に、鉄橋を渡る写真、サヨナラ運転の写真パネルなど。 町中を横切る踏切の写真。結構窮屈そう。貴重な写真、資料が見られてよかった。気動車キハ2000見学の際は、ぜひ展示品も見たほうが良いと思います。
2016年10月15日
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東武熊谷線は、高崎線熊谷駅と妻沼(めぬま)まで10.1kmを結んでいた非電化路線。1983年5月末限りで廃止されました。終点妻沼駅跡近くの妻沼展示館には、往時の気動車キハ2000形が静態保存されています。その垂れ目の窓から愛称はカメ号。クリーム色の気動車は、事務所に言えば中の見学もできます。車両の足元には、由来が書かれています。ここに移ってきたのは2000年です。 SLから1954年に切り替わった気動車は3両あり、そのうちの1両、キハ2002が展示されています。こちらは反対側から。だいぶ傷んではいますが、屋根ありホームありで保存されていて、地元の人の愛着を感じました。 事務所に言って鍵を開けてもらい、中を見学することにしました。ホームに上ります。普段はいたずら防止のため、閉まっています。運転席をのぞきます。椅子にきれいなカバーが付けられています。 車内の様子。現役当時の写真パネルが6枚展示されていました。色は薄くなったけど、当時の路線図。10.1kmにわずか4駅しかありませんでした。この後、廃線跡を歩いてみようと思います。 手書きの案内が時代を感じさせます。思ったよりも車内は広い。座席に座ってみましたが、フカフカで座り心地が良かったです。 反対側の運転席。ちょっと傷んでますねえ。特急カメ号と呼ばれた気動車は熊谷まで17分で結んでいました。 展示館前の案内。地元では、熊谷線でなく妻沼線と呼ばれることも多かったようです。
2016年10月14日
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秋です。スーパーやデパートの駅弁フェアがあちこちで始まりました。先週食べたのが、これ。「銚子電鉄の肉飯弁当」(銚子)。昭和50年代、銚子電鉄の仲ノ町駅長が職員のために作ったまかない飯・肉飯を再現し商品化したもの。牛バラ肉玉ねぎ煮はよく煮込まれていてなかなか美味。ゆで卵もよかった。お肉の量がもっと多ければ、なお良かった♪
2016年10月12日
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ここまで来たら、SLスチーム号に乗らないといけません。この日の運行は8620形‐8630号機(ハチロク)。C62‐2号機やC61‐2号機が走ることもあります。以前は構内を行き来する程度だったのが、梅小路公園の外周を走り、JR嵯峨野線・JR京都線と並行して500m、往復10分かけて走ります。300円の切符を買って乗車します。大正3年製車両。ハチロクは日本で最初の量産タイプの旅客用蒸気機関車です。 汽車はまず、バックしてホームから下がっていきます。煙と汽笛が電車と迫力が全然違います。公園の中にある車止めまで、新快速電車などに次々抜かれていきます。座席にはつばめのマーク。以前よりも客車が新しく、乗車人数も多くなりました。 そして10分、公園を横に見、橋をくぐりカーブを回って、また機関車庫に戻ってきました。次の発車に備えて石炭をくべる人。 煙が煙くなかった。炭が良くなったのでしょう。10分の汽車旅、堪能しました。
2016年09月11日
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京都鉄道博物館に元々あった梅小路蒸気機関車館。20両のSLを保存する扇形機関車庫のうち7両が動態保存されています。本館2階から連絡通路ができました。上から見下ろすことができます。反対側に新設されたSL第2検修庫で修理中の蒸気機関車も見ることもできました。転車台。 左から9600形(キューロク)、D51(デゴイチ)の1号機、C62の1号機。現在は静態保存。C55の1号機と、C58の1号機。静態保存。C58はお召し列車を想定した装飾が施されています。 B20形は2002年に動態復元されました。1070形は静態保存。7100形。通称・義経号。大阪の交通科学館から移設し、2014年に動態復元されました。真ん中は、C62の2号機。通称スワローエンゼル。特急つばめをけん引したことで知られる有名車両で除煙板につばめのマークが入っており、特に人気が高い。「SLスチーム号」の保存運転をけん引することもあるが、この日はお休みでした。右はC61の2号機。いずれも動態保存。 C59、C53、C51。静態保存車両。SLスチーム号の保存運転(この日はハチロク)に向かいます。
2016年09月10日
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京都鉄道博物館の館内にある蒸気機関車。230形は、現存する最古の国産蒸気機関車。1903年(明治36)製。鉄道記念物で国の重要文化財です。壁には歴代の機関車の銘板がずらりと並んでいます。1800形は、英国キットソン社製。なんと1881年(明治14)製。鉄道記念物。番号が「40」なのは1893年に改番された時のものです。京都―大津間の勾配を乗り切るための機関車。 ヨ5000形車掌車。コンテナ特急「たから」時代の塗装に戻されています。キハ81形気動車は特急くろしお。 移設して、エントランス&ミュージアムショップとして使われている旧二条駅舎の中の展示では、お召し列車の装飾が見られました。 旧二条駅の駅舎です。
2016年09月09日
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