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父が大層な勲章をもらったそうなので、お祝いに親の家まで行ってきたっすw 5年に1回くらいしか会わないけどねw幼少の頃からずっと弾いていた思い出のチェロがあったよドイツ製の安物。まだ弾けるか不安だったけどキラキラ星とか簡単な曲くらいはぎりぎり弾けたよ白鳥とかもう無理かなー「お母さんが死んだら、これを形見にあげるよ」チェリストのお袋がそう言ってくれた。でももう70を超えているのに、まだ小学校の先生やったり、毎週子供たちに音楽のレッスンしてるようだ。俺の100倍元気だな辛い事や寂しい事が続くとどうしても絶望してしまうけどチェロの旋律の低い振動は、少しだけそれを跳ね返してくれるみたいなんだ。
2008年12月02日
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ひとつ前の日記、暖かいコメントありがとうっす。マジ泣きっすよ。俺にはリアルの永久に家族がいないので、ついここで弱音を吐いてしまいがちっすね。ああ家族というのは、いっしょに生活するという意味っす。親や妹は健在っすけど、連絡は半年に一回ほどメールが来るか来ないかくらいっすねwま~そんな人は俺以外に大勢いますけどねwただ、ま~俺にとってはネット空間というのはわりとリアルより近い距離で、ネット仲間は家族みたいなものだったりするっすw弱音を吐いたりするのは、いろいろな言葉を期待してだと思うっす。ホントいつもありがとうっすちなみに、生徒の前では弱音はもちろん吐きたくないっす。生徒たちは基本的にmixiにいるのですが、もし楽天の方で、所謂"mixiもやっている"って人がいたら、普通にマイミク申請してくださいw ぶんさだで友達検索すればひっかかるっすwま~mixiの日記は学校中心の話題で更新はこっちよりさらに遅くいっすけどね…。あとmixiもやってみたい人がいたら、メアドを私書箱に送ってくれたら、普通に招待するっす。ここは新規では始められないっすよ。って宣伝しすぎやねw 楽天万歳! いちおうフォロー。さらに我ながらすごい暗くてネガティブな癖があるのでカミングアウトするっす。この国のいたるところには昔、200mおきくらいに電話ボックスという個室が立っていたっす。今でも、大きな駅の近くにはあるっすけどね。個室といっても、透明の箱っす。基本的にはお金さえあれば、誰でも電話を利用できたっす。急激な携帯電話の発達で、ほとんどが撤去されたっすけどね~。撤去費用どのくらいだったんだろうwそれこそ、親といっしょに住んでいた子供の頃は、秘密の電話は近くの電話ボックスでするのが基本だったっすよ。親に聞かれたくない電話としては、もちろん好きな女の子との電話や、ヤロー友達のモリタやタゴやWATAとの思春期の悩み電話っすねw 現代ではメールがあるので、秘密の連絡はメールが基本だと思うっすけどね~。暗くてネガティブな癖とは、この深夜の電話ボックスで1人きりで電話する事っす。相手がいないのに受話器に向かって話かける。自分の本音や、気にいらない事や、好きでどうしようもない子がいる事や別に具体的な相手も想定せずに、ただひたすら打ち明けるっす。通りすぎる人はこっちをチラ見するのだけど、もちろんそれだけで過ぎ去るっす。受話器の向こう側に誰もいないなんて、思いもしなかっただろう。場所は中野の公務員住宅の近くっすねw この俺の心の叫びを全て受け止め続けてくれた深夜の電話ボックス。もちろん今は撤去されてるっすwちなみに怖かった実話がひとつだけあるっすwある夜いつものひとり電話が終わって受話器をおいた瞬間公衆電話が鳴り響いたっす。電話をとると、受話器の向こうからは女の子のすすり泣く声。俺は怖すぎて、すぐさま切り、部屋に帰って布団にもぐったっすけどねw実は今もネット上に誰も見に来ない。俺のブログが存在してるっす。もちろん誰にも教えてないし、知り合いは誰も訪れないっす。知らない誰かが見に来てたりはするのだけど、電話ボックスの通行者と同じっす。何も言わずに過ぎ去っていく。俺は表現を生業にする者だから、本当は自分の傷すら作品にしなくてはいけないのだけどでも、自分の精神コントロールのためなんだと思うけど、この癖はたぶんやめられないと思うっす。ま~犯罪性はないし、誰にも迷惑はかけてないので許してっすw ああそこ!引かないように!
2007年06月19日
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ドラマ のだめカンタービレが最終回を向かえ、俺の脳内ドラマランキング2006で、白夜行をぬいてトップに躍り出たっすクラッシック音楽というメジャーそうで純文学並みにマイナーなジャンルになりつつある題材をコメディータッチで、楽しく描いていたっすよ 音楽教師でチェリストである俺の母親がポロっともらした事があるっす。「あなたは本当はコンダクター(指揮者)にしたかった」す、すまんw 一応ぎりぎり芸術家だと思うから、許してくれっすwでも俺もなりたかったなぁ コンダクター。ただ、俺が知っているプロクラッシック家への道はそんなには甘くないっす。3歳の頃から、ピアノの英才教育を受け、ピアノが嫌で嫌でしょうがなかった俺は、今でもハノンの旋律を聴くと、気が狂いそうになるっす。俺は、さっさと離脱したからいいけど、その倍も音大に向けて地獄を味わった妹はのストレスを考えると、想像を絶する。しかもそうまでして苦労して音大に入っても、プロオケに行けるのはごく一部っす。就職率などを考えたら、超ハイリスクな進路と言えると思うっすよ。俺が中学生の頃、俺の町の普門館という何かの宗教用のホールにあの近代クラッシックでもっとも天才的なコンダクターがやってきたっす。彼の指揮棒を右から左に持ちかえるという破天荒な癖にしびれたっす。彼の名はもちろんヘルベルト・フォン・カラヤン。そして、演奏されたのはルードイッヒが耳が聞こえなくなってから作ったあの世界でもっとも有名な交響曲っす。俺の身体も老化により、これからどんどん破壊されていくだろう。例えば視力を失ってからこの偉大なルードイッヒのような作品を作れるだろうか、いや作る気力を持てるだろうか。そういえば、もうすぐ世界中にこの交響曲が流れる季節っすねやな思い出ばかりの年末だけど、この合唱付を口ずさみながら、もう少しがんばってみようかな
2006年12月26日
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僕の世代が小学生の時、あるベストセラーに日本中が震撼するっすその本は「ノストラダムスの大予言」1999年、7月に人類は滅びるという内容。つまり僕らの世代なら30代でみんな死ぬって事っす。俺はこうゆうのすぐ鵜呑みにしてたので、少年の頃は怖くてしょうがなかった。たぶんM☆さんはポジティブだから、怖がらなかったんじゃないかなw毎晩毎晩、眠ろうとすると、その事ばかり考えて、びくびくしてたっす当時はゴジラとかパニック映画が流行ってたので、どうしても東京タワーに津波が押し寄せてくる風景が浮かんでしまうっすま~こういった恐怖妄想はけっこうみんなあるみたいで、他には俺は、自分以外はみんな宇宙人なんじゃないかってウルトラセブンとかトワイライトゾーン的、妄想にはかかったっすねwこの本の作者の五島勉はおそらく、この研究でかなり有名になったっすね。今はもしかしたら、世紀の詐欺師とかみんなに言われているかもしれねーっすwある天体的な事実が判明した時には、もう覚悟したっすよw それは1999年の7/15に惑星が十字架にならぶ、グランドクロスが起きる。これは本当だったし、実際におきたっすwああ もう駄目だ。人類は滅亡するのだ。なんて絶望した少年期。なんで人類の行く末がそんなに自分の中で大事だったかは、現在では謎っすねw その頃になると少年マガジンでも、キバヤシって名前の編集者がいろいろのたまわってたっすwどうせ滅びるなら今を楽しもう。って刹那主義。俺もけっこう刹那主義だけど、こういった恐怖や妄想が、そうゆうのに拍車をかけてたかもしれねーっすwそして1999年、恐怖の大魔王はやってこなかったっす。いや、本当はやってきていて、人類は滅亡してるのかもしれねーっすけどねw 僕らはすでにかつて人類だったものの幻かもしれないティラリラティラリラ…♪(トワイライトゾーンのテーマ(かきねのかきねのと歌いましょう))
2006年04月18日
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チェリストでありピアノの教師である母は、俺が生まれた時にコンダクター(指揮者)にしたかったらしい。今思えば、ぜひ歩んでみたかった人生のひとつではあるなwただ、クラッシック音楽を学ぶというのは幼少よりの大変な努力の積み重ねだ。 ことにオンコー(音楽科高校)オンダイ(音楽科大学)へ進むためには一般受験をはるかに凌駕する犠牲を払わねばならないっす。俺の感覚でいうと東大目指すほうがはるかに楽かなw 実際、東大なら、おっさんの俺でも、今からでもがんばれば合格する可能性があると思うけど、東京芸大に合格するのは不可能だw だから我が家には貧乏にふさわしくない高級なグランドピアノがいつもあった。5歳の頃の記憶だが、10円玉を数枚こぶしの上に積み重ね、ピアノを弾かされていた。指のフォームを矯正するためだ。10円を1枚でもおとそうものなら、母の平手がとんできた。上手く弾ければ10円はさらに増えていく。巨人の星のようなスパルタだw ちなみに、クラッシック音楽の道を進むためにはピアノは誰でもやる。だからチェロをやってる人がピアノを弾けないなんて事はない。小学校3年からはチェロもやらされた。 中学生の頃に母と大喧嘩をして、ピアノもチェロもやめた。英才教育の鎖を自ら断ち切った。俺にとって音楽をやるメリットというのは、学校の授業の音楽の筆記試験(当時はあったw)で必ず100点をとれることくらいだw 特に男子にはト長調だとかフラットがいくつだとか、数学より難しかったみたいで、たいていは賛嘆たる点数っすw 俺には日本語を読むより楽譜を読むほうが簡単だったっすよw その母の情熱というかしわ寄せは全て、妹に集中することになるっす。妹はほとんどの子供としての時間を音楽のために犠牲にしたっす。残念ながら妹には音楽のセンスというか感覚がなかったと思うっす。それでも執念で音大にこぎつけるわけっすけどね~。妹にとっては兄の犠牲となった地獄の18年間だったと思うっす。ちなみに、今楽天の仲間にも赤ちゃんをもつママがいっぱいいますよね。いちおう言っておくっす。クラッシック音楽の道を歩んでも、音楽が職業になるのは極まれなうえに、クラッシック音楽しかできない人間が育つっすw演奏家で食っていくなんて、やっぱり選ばれた人だし、プロの作曲家や編曲家なんて、専門の勉強をしてない人のほうが多いくらいっすw カ○イ音楽教室の先生にでもなれれば、いいほうっすよ。俺が母を恨んでいるかというと、まったくそんな事はないっす。よくぞ無理やり音楽を教えてくれたと、感謝してるくらいだし、バンドをはじめた高校の頃にはやめた事を後悔したくらいっすねw妹がどうかというと、もういい歳で音楽とはまったく関係ない事務の仕事についてたりとかしたっすけど、いまだに母と子供時代の音楽教育の事で喧嘩してるっす。とても悲しい事だけど、俺はそれが間違っていたとかあっていたとか、そうゆう事ではないと思うっす。あんなことがなければ別の人生があったという妹の主張。そして老いてひたすらあやまる母。この現在の姿は俺は間違っていると思うっすね。妹には「それでもピアノがあったじゃないか」と言うつもりだし、母には「自分が信じてやった事を謝るな」と伝えるつもりっす。俺には5年に1回も会わない家族なんすけどねw 俺が14歳の頃、妹が何やら俺のパステルで落書きしてたのを、奪った事があるっすよ。俺はからかおうと思って奪ったそのスケッチブックには、後ろ向きの外人の子供の並んだ絵が、何枚も描かれていたっす。子供の俺にでもわかるほどの恐ろしい才能が詰まっていたっす。当時俺にはその事が伝えられなかった。もし妹が俺と同じ道を歩んでいれば、俺なんて超えていたんだろうなと思うっす。どんな人生も別に間違った人生なんて事はないのだけど、自分の進むべき道を見つけられたかどうかで、幸福感は決まってくるような気がするっす。そしてそれは自分で気がつかなくては何の意味もない事っす。ちょっとだらだら散文すぎますねw 風邪気味なんですまんすw 次回あたりからユウちゃんの続きを再開しようかなw
2005年10月09日
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すすまん、思わず日記止まってるよね><あとレスとかコメントもうすい。こんなにうすいのはぶんさだじゃない! とお嘆きの方。申し訳ねーっす。ちょっとね 仕事が忙しいのと暑い(むしろぬるい)のとで 細胞が活動してくれないw でも気持ち的には、ちょっとだけ元気になったっすよ。先に仕事片付けるから もうちょっとお待ちを。あとね昨日、うかつに携帯が水浸しになったっす。だから携帯メールの返事は書けません。すまんっす><ところで、10代の俺が勝手につくっているWEBタイムマシーンですが、俺もすっかり忘れていたんですが、今朝更新されてたっすね今度は20代前半にタイムトラベルしてるもようっす実はちょうどユウちゃんが自殺する直前や直後の自分の心境を調べるために部屋あさっていたら、いくつかでてきたっす。わけのわからねー人は私書箱で聞いてくださいw例によってURLの公表はしねーっす ま~楽天内だからすぐわかるっすねw
2005年08月28日
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俺がユウジを殺した 20年もの間 今でもそう思っている*****中学時代の友人たちのグループがあるっす。今でも付き合いは続いているっす。この日記にたまに登場する人たちがいるっすね。全員ヤローばっかっすね。もう大きな子供がいたりして、違和感あるっすけどねwなんでか、こうゆう友人って俺から見て歳とらねーし、俺らもう年齢的には中年すら終わろうとしているんっすけど、いつまでも中学の頃の幼い印象のままっすよ。もうまれには会わないっすけどね。1年に1回とか2回くらい、たまに会う事もあったりするっす。幼い頃の俺を俺よりもよく知っている彼らは、俺の鏡っす。 集まると必ずユウジの話になるっす。このグループでリーダー格だった俺は、ユウジをグループから追い出したっす。あくなき向上心の固まりだった俺は、向上心なく毎日ブラブラしているユウジが許せなかった時期があるっす。”このままじゃユウジが駄目になる”俺はユウジが一人になれば、きっと思い直すに違いないなんて思ってある日、何時間も説教をし、そしてグループから追い出したっす。その2年後ユウジはバイクで暴走して死んだっす。今、俺は自分が間違っていたとはっきりわかるっす誰かが駄目になるなんて、そんなことは誰に決められる事ではないっす根拠のない大きなプライドがあるからこそ、ブラブラしているっす自分の器を結論づけてしまうのが 自分でも怖いから現実を見てしまうと、自分が誰だかわかってしまうからだから、ブラブラすることで ”自分はまだ途中”と思い込もうとするっす俺と何も変わらない。俺はそんなユウジのプライドをずたずたに切り裂いてしまった。*****だから20年たった今でも、ユウジを殺したのは俺だと思ってるっす今でも夢に見るっす。ここで告白したからといってその罪が消えることはないっすいつか誰かに俺もずたずたにされたとしても、それは当然の応報だと思うっすもういないユウジにいくら誤っても、もうとりかえしようもないっす俺に出来ることはこの苦しみを抱えて生きていく事だけっすよ
2005年08月06日
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さてw 恐ろしいほど忙しい月に突入してしまったっす。ま~おそらく今までの倍は忙しいw 俺の場合忙しければ忙しいほど、楽天出没率は増えるっすけどねw んでもさすがに、今月はちょっときついのかな~w でもま~日記はどんなに長文でも1分くらいで書けるしねwどっちかというと、俺の仕事ってどの作品も守秘義務が多すぎて、何も話せないっすよw ま~これを破ると、賠償金が1億や2億じゃすまないっすけどねw だから日記に仕事の具体的な内容を書く事はありえないっすw 解説もコメントもレスもいっさいしないと宣言した、16歳の俺のサイトですが、もうここに来ているほとんどの方は見つけたっすねw まったく隠してないっす。検索かけるより遥かに簡単にみつかるっす。でもURLは公表しないっすw 一応、それでも絶対に見つけられなそうな人だけ私書箱で送ったっすけどねw もしまだ見つからなくて、見たい人がいたら、私書箱でもくださいっす。 ま~こっちはノートをはっつけるだけなので、日記更新に数秒しかかからないので、その気になれば、今最後のページまでのっける事は可能なんだけど、一応読んでくれている人もいるし、楽天制約もあるので、せいぜい3つづつくらいの更新にするっす 解説しないっていったけど、いちおうちょっとだけ解説w 俺の10代のモノはもうほとんど残ってないっすよ。詩なんて1000冊以上のノートがあったんっすけど、以前に全て捨てたか捨てられたっす。たまたま、資料にまぎれて1冊だけ残っていたのがこのノートっすね。ちなみに今の俺は詩なんて 書けません。もしそれが能力というのなら、とうの昔に失いました。でも失ってよかったのかな、なんて思ってるっす。毎日死にたいと思っていたから、詩がかけた。そして今はそんな事思ってないから、書けないっすw 昨日から、例のまつげさんの話も始まったっすね。あっちは、脚色ゼロの真実の記録っすけど、断片的すぎてなんだかわからないかもwま~資料的に見てくださいw もうちょっとしたら、こっちで書く予定もあるっすw そして、ノートはもうすでに終わりに近づいているっす。俺自身、残念ですが、このノートが終わった時に、WEBタイムマシーンも終わりっすよ。 16歳から19歳の自分を俺自身、興味深く見つめているっす。もちろん相手はこの世にもう存在しないので、いくら話しかけても、返事が返ってくる事はありえないんすけどね。もうあと残りわずかなページですが、皆さんも付き合ってくれていて、俺はうれしいっす。でも、タイムマシーンで20年以上前から来た本人がどう思っているかはよくわからないっす。 そうだ、ひとつだけ解説っす。いちおう出来る限り、当時の日付と年号を書いてますが、1982(1984)ってのは1982年の事を1984年に書いているって事っすね。
2005年06月01日
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25年以上前、「僕はランナウxイとともに旅にでる」で一世を風靡したパイオニア社の超高級ラジカセ”ランナウェイ" 僕らラジカセ世代にはたまらないあこがれだったっすよ。シャネルズ(不名誉で有名な田代のいたラッツ&スターの前身)の歌うランナウェイという歌が大流行した頃でもあったっすね。 その頃、家庭にあるオーディオといえば、通常巨大なシステムコンポセットが主流の時代っす。しかもレコード主流。 この日記を書くために中学の頃の友達の田子君にわざわざ電話して確認したのだが、俺がこれを無理して購入したのが中学2年生の時だったらしい。数年ほどためたお年玉に東京に遊びに来ていた祖母にだしてもらったっす。俺の記憶だと6-7万円のものだったと思うっすよ。中学生のおもちゃにしてはかなり高級っすね。でも現在の様な安いオーディオはなかったんすよ。もちろんカセットのウォークマンも出現する前の事っす。ちなみに、このあとミニコンポブームとなり、さらに10年たってからCDが出現するわけっすね。14才の頃のぶんさだ。学校ではいつも一番後ろの席wてか学校にラジカセもってきていいんかねw 当時はラジオってのがインドア派の子供にとってはTV以上の楽しみだったすよ。まだTVの深夜番組枠というのは少なかったし、AMの深夜ラジオのオールナイト日本やパックインミュージックはもちろんっすけど、音楽を無料で入手できるほとんど唯一の方法として、FM放送が貴重だったっすよ。当時の日本の音楽文化というのはまだまだレベルが低くて、洋楽中心の番組が多かったっすね。なにしろ日本でしか流行ってない外タレブームってのがあったんすけど、ノーランズ、レイフギャレットなんかがそうっすねw ある意味、日本に行けばどんな洋楽もキャーキャー言ってくれて金になるので、なめられていた時代かもしれねーっすww FM雑誌というのがあってFMレコパルとかなんすけど、これにアルバムやライブの放送の予定がのってるわけっすね。これを録音する事をエアチェックなんて言ってたわけっす。もちろんまだレンタル屋さんなんかも出現してないっす。僕はラジカセのランナウェイと共にたくさんの音楽を手に入れるわけっすね。ロッドスチュアートやシーナイーストンのライブとか、ナベサダとか富田勲とかYMOとかがっすね。25年間以上たった今、10万本にもなろうかという積み上げられた膨大な量のカセットテープとともにまだこのラジカセは現役だったっす。先日、自分で作った古い曲をWEBで披露するために、ひさびさに電源を入れてみましたが、まだ動きました。でもそれをPCに録音している途中でバチンという音とともに、うんともすんとも言わなくなったっす。 よくぞ25年ももってくれたっす。もうこのただ場所をとるだけのカセットテープたちも、ランナウェイも役目を終えたのかな。 でも俺には捨てられないっすよ。もう俺の寿命まで数10年なんだから、持っててもいいよね。たくさんの思い出とともに死んでしまった機械のために泣いたのはこれで2回目っす。 ランナウェイ。君だけが知っている俺の孤独を25年間も、ずっと支えててくれてありがとう… 君は確かに俺の旅の仲間だったよ
2005年05月12日
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ゆうべ一晩中 絶望と戦った… そんな歌どおりの夜だった。いろいろ悲しい事があったまま、久しぶりに眠った昔の夢を見て目が覚めた。少年時代の事をリアルに再現された夢を見たんだ涙でぐしょぐしょで目が覚めた。大阪府吹田市津雲台の千里ニュータウンに転校したての僕の少年時代だその頃、毎日新聞がやっていた毎日サッカー少年団というのに入っていた。学校外の活動だった。でもクラスで一番目立つ住谷君が少年団にいた。住谷君 あだ名はスミっちょ。小さな体にかわいい顔をしていて、女子にも人気がありスポーツが一番で、いつも男子のリーダーだった。転校したての東京弁の僕といつも遊んでくれたスミっちょ。僕も彼が大好きだった。たいていの少年が一番最初に好きになるのは、女子ではなく男子らしい。これはやおいとか少年愛とか大それたものではなくwまだ性の区別がつく前の純粋で、ごく自然のあこがれみたいなものらしいっすスミっちょがいたおかげで、決して得意ではない毎週のサッカーの練習も楽しかった。僕らは何かの大会に出た。僕もなんとかレギュラーを勝ち取っていた。スミっちょは最後のコーナーキックをものにできず僕らは試合に負けた。最後のヘディングを決められなくてスミっちょはぐしゃぐしゃに泣いていた。僕もスミっちょの肩を抱いてぐちゃぐちゃになって泣いていた。審判の笛がなったあとも、コートの片付けが始まっても、夕暮れの中、二人で悔しくてずっと泣いていた。僕はそれからすぐまた東京に転校していった。他の大阪の友達とは大人になってから再会したのに、スミっちょだけあれから会ってない。僕の記憶の中で、誰よりも小さな体でボールを蹴るスミっちょのまま、たくさん時間が流れた。思い出の千里ニュータウンも今は高齢化に悩む町になったと聞く。もうけっして取り返す事のできない楽しかった少年時代。あんなに感情のまま泣いたり笑ったりして友達と遊ぶことはもう永久にない。そして僕の描く少年は いつもあの頃スミっちょの面影を残す。
2005年03月17日
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4歳の頃、俺はアメリカ合衆国ロサンゼルス州に住んでいたっすよ。今日はその頃の思い出話を聞いてくださいっす 暖炉のあるリビング。サンタが入りやすそうだ。大きな庭にはレモンの木。平たい巨大な家。小さな子供だった俺にはそんな記憶になっているっす。当時子供たちの間で流行っていたHotWheelってミニカーのシリーズ。近所のブラウン兄弟と遊んだりいじめられたりだったっすw4歳の頃とはいえ、この頃の記憶は鮮烈っす。たぶん記憶の中で美化されている部分も多いとは思うっすけどねw おそらく共稼ぎのはずはないんだけど、当時となりに住んでいたアンっておばあちゃんの家ばかりにいたと思うっす。アンの作る洋ナシのパイの味はおそらく相当甘かったんだろうけど、今もその味は忘れられないっすよ。ある日アンの家にやってきた青年ヤン。ヤンはアンの息子?孫?または甥? それはよくわからないっす。ただ軍服を着ていたのは覚えているっす。 少年にとっては、あまりにも魅力的なかっこいい米軍の軍服をきたヤン。休暇だったんでしょうか。やさしいお兄ちゃんみたいな感じで、ボクはすぐヤンになついたっすよ。「やあ ブン? 今日はボクの車でおもしろい所にいくかい?」「いいよヤン!行こうよ!ねぇアン行ってもいいでしょ?」ヤンの車はオープンのアメ車。だったと思う。この辺は古いアメリカ映画と記憶がかぶってうまく思い出せない。ついた場所は湖?海?たぶん湖だと思うんだけど、巨大な橋があって、なんだか戦車みたいな車や、ヤンと同じ軍服を着た人が何人かいたと思うっすよ。ボクの記憶にはその大きな夕日と橋の映像があまりにも深く焼きついているっす。ザザーザザーって波の音とオレンジの世界に照らされた巨大な橋。そして戦艦のような船。こんな不思議な風景がすごく深く刻みこまれたんでしょうね。忘れていないっすよ。しばらく僕らは夕日を見ながら風にあたっていたっす。「ブン? 小ガニの取り方を教えようか?」「うんヤン 教えてよ。」「ok じゃしっかり覚えるんだぜ?」「覚えるよ ジョンの奴に自慢したいんだ」「まず 波がひくだろ? その時に急いで穴を掘るんだ。」ヤンは両手で砂を書き出し穴を掘った「そして 波がきて 引くだろ? そうすると ほら」波が引くと 穴の中は何匹ものカニがいた。カニと言ってもたしかザリガニに近い形状の種類だったと記憶しているっすけどね。「次の波が来る前に、バケツの中に入れるんだ。」そうやって、幼いボクとヤンは日が暮れるまでカニを取り続けたっすよ。夕日が沈み、あたりは暗くなってきたんだと思うっす。ボクはヤンの車で送ってもらったのだろうか。車の中で疲れて寝てしまったのか その後の事はもう覚えていないっす。バケツの中の砂と水でしばらくカニを飼っていたっすよ。なんか結構汚いものだったから、お袋とかは苦笑いしてたと思うっすw でもヤンといっしょにとったカニがうれしくてたまらなくて、なんだか手柄を立てた様な気持ちでしょうかwそれから何日もたたないうちだと思ったが、アンがおお泣きしている。なんで泣いてるか一生懸命聞いたのは覚えている。ヤンが死んだ。とアンは言ったっす。これだけは覚えているっすね。ヤンは軍人だった。戦死だったのか、訓練中だったのか、何かの事故だったのかもわからないし、今、親とかに確認するのも嫌っす。ただ、大人になってから歴史の年表を調べると、丁度ベトナム戦争中だった事は確かだ。幼いボクは死がなんなのかもわからず。ただアンの異常な悲しみが気がかりだったくらいっすね。そして、これも鮮烈に覚えているのは、ヤンが死んだとわかった日に バケツの中のカニが全部 死んでいた事だけっす。
2005年02月26日
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