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お久しぶりです。10日間 日記を書けなかった。慢性化した病気というのはやっかいなものだ。自分の日記を書いて みなさんの日記を読ませてもらうのがこの2年ほどの私の楽しみになっていた。でも今は心身ともにかなり悪い状態で大切にしてきた薔薇たちや庭の花も 全て枯らしてしまって雨戸を閉めて 家に閉じこもってしまおうかと本気で思った。そうしてしまったら 私は二度と立ち上がれなくなるだろう。私自身は人生に幕をおろしたいという悪魔のささやきに応じたい。しかし、そんな自分勝手な事が許されないのはわかっている。生きる事は辛いけど・・・あい間をぬって花に水をやり、写真を撮って 気ままに日記を書こう。家事をするのが先だとわかっているけど 今はわがままに生きるしかない・・・現在の心境を正直に書きました。鬱病のいろいろな症状については書きませんでした。でも気分を悪くされた方がおられたら 申し訳ありません。みなさんも私のひとり言と読み流してくださるとありがたいです。 Template-すず♪♪
2006/07/10
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昨日の日記を書いたあと、ただでさえ調子が悪いのに寒気がして胃の具合も悪くて 今日はほとんど寝ていました。昨日の日記へのみなさんの温かいコメントに心から感謝です。ありがとうございます。心身ともに回復するのには 暫くかかりそうです。画像はヒマラヤユキノシタです。とうとう花が枯れ始めたので 今年最期の姿を撮りました。それでは おやすみなさい。Template-すず♪♪
2006/03/27
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今日は一日中寝ていました。うつ病であることはプロフィールにも書いていますのでご存知だと思います。日記にはガーデニングをテーマに書いていますので元気なんだと思ってくださってる方もいらっしゃるでしょう。夏になって暑さが本格的になってからは食欲がなくなり、それにつれて身体が疲れやすくなってしまいました。元気な頃はこんな事で寝込んだりしなかったのですが、うつがこういう形で残っています。気分障害が全くないと言うと嘘になります。こういう日が続くと、15年も前の事なのに筆舌につくしがたい苦しい日々を思い出してしまいます。そんな訳で夏休みをとることにしました。いつ復活できるかは私にもわかりません。私のページに来てくださる数少ないありがたい皆様にはお一人ずつにごあいさつしたいところなのですが、この日記でお許しください。具合の良い日は皆さんの日記を読ませていただきに行くと思います。黙って帰っても許してくださいね。
2004/07/31
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昨年のシーズン終わりごろにこのユリの鉢植えを安く買った。今年になって「母の日」前から楽天市場の花屋さんはいろんな種類のユリを売るのに懸命だった。その頃わが家のユリは茎が伸びて葉は綺麗に揃ってきた。最近になってやっと小さな蕾が出来た。こんな小さな蕾から花は咲かないだろうと思っていたらどんどん蕾は膨らみとうとう本日こんなに素晴らしい開花となった。丈が120cmはある。花屋さんではこんな背の高いものは売っていない。矮性化してあるのだろうか?今日はお昼まで寝ていた。夫が居る日は安心して寝てしまう。もう習慣となってしまった夫の土日の食事当番。お盆にのせてテーブルにブランチを運んでくれる。パン、ミルクティー、トマト入りのスクランブルエッグ、とうがらしの炒め物がのっている。栄養満点だ。夫「このスクランブルエッグのかくし味何か分かる?」私「わからへんわ」夫「ヨーグルトや」ヨーグルトのせいかどうかは 分からないが美味しかった。有難くいただいた。食器を洗って、パソコンを1時間半ほど。その後、今日は何日ぶりかで涼しかったので庭にでる。朝降った雨で草が面白いように抜ける。満開の「ブリエッタ」をいさぎよく切り戻す。情けない姿になったがバイオの花は再生も早い。クチナシの木にかなり太ったオオスカシバノの幼虫発見。ただちに駆除。殺生してしまった。庭の仕事って尽きる事がない。でも楽しい。ふと気がつくとあたりはもう薄暗くなっていた。ガーデニングライトのスイッチを入れる。(センサーが壊れているので毎日手動)夫はビールのつまみなどおかずも作って先に飲み始めていた。普段、私はアルコールは一切飲まない。飲めないのである。ところが隣に住む夫の母が「これ美味しいのよ。まぁ、飲んでみなさい」と言って黒生のビンビールをくれたので冷やしておいた。因みに80歳の義母は毎日飲んでいると言う。その黒生かなり美味しかった。コップに一杯飲んでしまった。しばらくすると身体がだるーくなってきた。パソコンを開いたが日記はかけない。レスのみ。知らない間に机につっぷして眠っていた。目が覚めたら11時半。疲れていたので眠れるだろうと眠剤(レンドルミン 1Tハルシオン1T デパス1T)を飲んでベッドへ。しかし、いつまで経っても眠れないとうとう2時前にあきらめて起きた。そして日記を書いている。私の生活は最近むちゃくちゃである。鬱のひどかった頃は子供もいたので必死でやってきた。ダウンしながらも頑張れた。鬱病患者に「頑張れは禁物」であることは間違いない。しかし、重篤な時は絶対守らなければいけないが、それを越えるとやはり頑張らないと社会復帰出来ないのである。人によって違うので私はそうして来たと解釈して欲しい。間違ってもこれを読んで頑張らなければと思わないで欲しい。人それぞれだから。今の私は全く頑張っていない。一番困るのは外出できないこと。何故と聞かれても返事が出来ない。振込み送金他にも用事はある。振込みはネットバンクでかなり解消された。でも外出できないというのはかなりストレスが溜まる。家事も最低のラインをわっている。やはり子供達が出て行って「空の巣症候群」といったところかもしれない。先日信頼する前の主治医にこのままでいいのでしょうか?と聞いてみた。答えは「自分で期間を決めてその間は今のままでもいいでしょう。でもいつまでもそうしていては良くないね」と言われた。期限か・・・。いつまでにしようかまだ思案中である。15年間で鬱の症状も変化してきた。これからは夫と力を合わせて生きていきたいと思っている。若い頃は1+1=2の力のある夫婦であったと思う。今はずい分夫の足をひっぱている。病気になるまではこんな事なかったのに・・・。なんて昔の話はもう済んだ事。先を見て歩かないとしようがない。やっぱり、まだ鬱が残ってるなーーー。__________________________送信したらメンテナンス中だ。いつ終わるんだ。
2004/07/10
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「ピエール・ドゥ・ロンサール」今日は画像とは関係のない話。でも、モーツアルトに一番似合う華やかなバラを選んだ。今日は午前中には起きたのだが昨日から風邪気味で、そうすると鬱っぽい気分にいまだになる。その上、今日の暑さが追い討ちをかけてくる。頑張って洗濯だけはした。遅い昼食後、夫がクーラーのスイッチを入れた。疲労感に耐えられず私は5時頃からソファーで眠ることにした。今は眠たいと思った時は眠れるようになったので救われる。眠たいのに眠れなかった辛かった頃を思い出す。目が覚めたらすっかり夜になっていた。夫が夕食を作って先に食べ始めていた。持つべきは料理の出来る夫である。感謝。先に食べ終えて夫が音楽番組を見ていた。私は食事をしながらテレビに目を向けた。モーツアルトの話しをしている。自然に引き込まれていった。鬱病で入院した15年前を思い出した。ちょうどレコードがCDに移行した時期だったと記憶している。見舞いに来てくれた弟がCDプレイヤーと3枚のCDを持って来てくれた。モーツアルトとバッハの曲だった。電話をして家からも好きなCDを何枚か送ってもらった。入院した当初は音楽など聴く余裕などなかった。しかし一週間、十日と経つうちに家で二年間ほとんど寝ていたとは信じられないくらい気分が快復する時間が持てるようになった。散歩も買物も出来るようになったし、小説も読んだ。編み物さえ出来るようになった。しかし、このまま入院生活が続くわけではない。退院したらまたあの家に帰らなくてはならない。何より子供と夫が待っている。一見すると気楽な入院生活だが病状がそんなに早く良くなるということはなかった。昼寝はどうしても出来なかったし、夜は追加の睡眠薬をもらっても十分眠れたことはなかった。快復への期待とそんなに簡単には治らないだろうという現実との間を心が揺れてせつなくてどうしようもなかった。そんな時に何度も何度も聴いた曲が今夜テレビで聞いたモーツアルトのピアノ協奏曲20番だった。せつなくて美しいメロディーは忘れることはない。あの頃の私をどこかで支えてくれていたと想う。
2004/07/03
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今日は身体がだるくて何も出来ない。鬱じゃなかった頃はこの程度のだるさで家事をサボった事などなかったのに。今日ももまた夫に食事を作ってもらう事になった。Week Dayはお昼頃まで寝て、あとは半日遅れながらも普通に動けるようになっているのだが、今朝はいつもなら寝かせておいてくれる夫が9時にお越しに来たので、無理して起きた。眠たいのをこらえて朝食をゆっくり食べた。夫が作ってくれたスクランブルエッグとほうれん草のバターソテー、パンとスコーンを全部たいらげた。「ごちそうさまでした。」と感謝を込めて言った。しかし、どうしても眠たい我慢できないのでとうとうベッドへ向かった。そのまま5時頃までうとうと眠った。やっと起きると、夫はもう夕食のロールキャベツを作ってくれていた。何事も私より手際がよい。救われるのは味付けだけは私の方が勝っているということだ。でも作れなければ意味がない。近くで一人住まいしている娘がやって来て久しぶりに三人で夕食を食べた。夫はビールを飲んでいる。娘はワインを飲みながら饒舌になっている。私もそれが嬉しくて一緒に楽しく会話した。2年前、娘は突然一人住まいをすると言い出して一人で引越しの準備も新しく自分が住む所も探して来た。何故出て行くのか説明をしないまま娘は出て行った。私の中でじわじわとそのショックが広がっていった。しかし2年という月日が娘を変えた。今は本当に私に対して優しくなった。大人になったなぁと感慨深く思う。娘と上手くいかなかった苦しくて悲しい日々は過去のものとなった。今日はこの時間になってもまだ身体がだるくてやる気がない。今夜は12時には寝よう。
2004/06/13
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今日は土曜日。いつもなら夫は休日なのだが出勤して行った。先日の台湾出張でデスクワークが溜まってしまったようだ。このご時世に仕事が次から次とあるのは有難い事だ。とは言うもののやっぱり家に居て欲しい。結婚して30年にもなる。好きだから家に居てよというのとは違う。ここ9ヶ月ほど土日は夫を頼る習慣がついてしまった。冬の間は外出するのも嫌、食事を作るのも嫌、イヤ、イヤだらけの生活だった。夫が家に居てくれると安心していられる。宅配便が来ても、回覧板が回って来ても夫が出てくれる。それに夫は食べる事が好きで自分で料理をするのも好きなほうだ。団塊の世代の男の中では融通の利く性格なので助かる。つい最近まで土日は朝、昼、晩と食事を作ってくれていた。こんなことではいけない、しっかりしなさいと自分に言い聞かせても身体が動きたくないと言っている。昨年家を建てて夫の母と一線を引くようになって30年近くの同居に終止符を打った。とは言っても80歳になる義母を一人で置いて行く訳にはいかず隣同士に住むことになった。家を建てる為に2回の引越しがあった。半年に2回の引越しは身体にこたえた。新しい家に入居したのが昨年の2月だった。その後荷解きや家の中の家具選びや外構の工事もまだ続いていたので常に人が出入りしていた。その時は気をはっていたのか鬱的な症状は全くなかった。ところが一段落付いた初秋の頃、すごく疲れを感じた。それまでは新しい自分達だけの家のインテリアに夢中になっていたのに急に興味がなくなってしまった。そして外出できなくなり、料理がおっくになり家事全てが嫌になった。幸い庭いじりには喜びを感じ続けることができて救くわれた。それと楽天市場で買物する事がとても楽しかった。一日を自分の好きなように暮らした。同居(敷地内同居)している時は玄関を出ると庭は共有だしお互い何処へ出かけるにも報告しなければいけなかった。勿論、「帰りました。」と声をかけるのはあたり前。その他、もろもろあったのだ。鬱病のきっかけになったその家で病気になってからも15年住んだのだから自分でも良く頑張ったと思う。その頃の夫は親にも妻にもどちらにも味方することなく悪く言えば知らん顔をしていた。私はだんだん夫にも腹が立つようになっていた。それが昨年新しい生活が始まってから夫との仲は修復し始めた。母親の目を気にしないで良くなった事は夫にもいい影響があったように思う。そんな訳で私は緊張がとけて気が楽になり上に書いたような状態になったのではないかと思う。だから現在の気分は鬱とは言えない気がする。しかし、いつまた波がやってくるかもしれない。その時はその時のこと。今から心配してもしょうがない。
2004/06/12
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台風の影響で今日はずーと雨が降って部屋の中も薄暗い。こんな日にパジャマのままで素顔でいると気分が滅入る。でも今日の私はお昼前に起きて洋服に着替えてお化粧もしている。どんなに気持ちを切り替えて着替えようと思ってもどうしても着替えられない。こんな日が昨年の秋の終わり頃からつい最近までかなり頻繁にあった。今でもそういう日がなくなったわけではない。でも確かに減ってきている。お化粧やお洒落をするという事は人によって生活に占める比重が違う。顔に何かを塗ったりするのは好まないという人もいるし、お洒落になんか時間をかけるのはもったいない他に何かする方が良いと考える人もいる。それぞれに生活スタイルがあるから何も言うつもりはない。私はお化粧が好きである。面倒だけど好きなのだ。気持ちがしゃきっとする。子供が小さかった頃は幼稚園に送って行く前に、洗面台の鏡に向かって超特急でお化粧した。思い出してみると子供の頃から大人の女性が綺麗に装う姿を見るのが好きだった。そして大人になって就職した私はほぼ毎日のように勤務時間後デパートめぐりをしていた。好きな洋服、靴、バッグ、アクセサリーなどを見てまわってお小遣いの範囲内でささやかな買物をたのしんだ。買い物と言うのは予算が決められているから楽しいのだと思う。ささやかな予算しかないから一生懸命好きな物を探す。そうして買った物は大切にする。飛躍するが、マイケル・ジャクソンのような買物の仕方は決して幸せではないと思う。余計なお世話だと言われるだろうが彼は自分の買った物を一つ一つ大切に思っているだろうか?彼の買物は彼の淋しさの表現のような気がする。私はうつ病になって入院した時のことを思い出す。シャンプーや入浴さえ困難な状態で入院したのだから当然お化粧など出来るはずもなかった。しかし入院して2、3日経って周りの状況に目が行くようになった。パジャマを着ている人が少ないし中にはお化粧をしている人もいることに気がついた。私は看護婦さん(当時は看護師とはまだ言わなかった)に聞いた。すると「お化粧してもいいし、好きな服を着てくださっていいですよ」と答えが返って来た。家を離れ遠く離れた病院に入院したことで、地獄の底でうずくまって動けなかった心と身体が少しずつ動き始めているのを感じていた。そんな時に聞いた看護婦さんの話は私の心にひとすじの明るい光をあたえてくれた。パジャマ以外着るものは持って行っていなかったので家に電話をして夫に服を送ってくれるように頼んだ。送られて来た洋服に着替えて、だんだんにお化粧をするようにもなった。散歩に出たり、デパートへも行って好きなスカーフを買ったりも出来るようになった。病気になるまで習慣となって身に付いていた毎朝お化粧をするという行為と今日はどれとどれを組み合わせて着ようかなという楽しいと思える行為によって私は入院生活にスーと入り込んでいけるきっかけをつかむ事が出来た。
2004/06/11
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今朝から夫は台湾へ短い出張に出かけた。昨夜はあまり眠れなかったが、夫が出張の日くらいはお見送りしなくちゃと思ってふらふらと起きた。時計を見るとまだ6時じゃないか。1時間ほど前から夫が起きてごそごそと動いている気配がしていたのに。なんでそんなに早いの!昨晩は7時に家を出ると言っていたのに。階段を手すりを持ちながら降りて下のリビングに行ってみると、シャワーも朝食も済ませて悠然と新聞を読んでいる。「どうしてこんなに早いのー」と半分寝ているような調子で聞くと、「最近は明るくなるのが早いから猫が外へ出してくれとうるさいんや、それで目が覚めてしまってね。」と夫。朝の早い夫と全くダメな妻。当然、寝るのは夫の方が早い。すれ違いが始まって半年になる。夫は何も文句を言わない。ただ「早く寝るようにな」と言うだけだ。さっきも台北から電話で「早く寝るようにな」と言われた。「うん、わかった。そうする。」と言っておきながらまた夜更かししている。結婚して30年になるが、こんなにわがままな日々を過ごすのは初めてだ。文句を言ってくれる子供もいないし、一年前に突然夫の母と別に住むことになって同居していた敷地を2つに分けて私達の小さな家を建てた。だから私は今、何の束縛もなく本当に楽になった。私は一年前この話が決まった時、きっと病気は治ると思っていた。でもそう簡単ではなかった。私は自分の病気をどこかで人のせいにしていたのだ。確かにきっかけはその人達だったかもしれない。でも病気の根本にあるものは自分自身であるという事を再認識する結果になった。今、与えられた有難いやすらぎの中で私は再生しなければいけない。
2004/06/07
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今日だけじゃなくて毎日半日くらい体力がもてばいいほうである。今日は日曜日、夫が家に居てくれると思うだけで気分が楽になる。毎日、昼寝と言うか夕方寝というか時をかまわず身体が疲れてくると横になるしかない。宅配便やセールスなどが来るのではないかと以前はきがきじゃなくてゆっくり眠れなかった。でも、最近は歳を重ねて少しは肝がすわって来たようだ。寝ると決めたらカーテンを閉めて眠る事にしている。インターフォンが鳴っても電話が鳴っても出ない。夜も更けてこれから眠るのだと思うと寝付けなかったりするので眠前の薬は飲むことにしている。しかし効かない日もある。それなのに不思議な事に昼寝は十分過ぎるくらい出来るである。しかし、寝起きは最悪である。身体がだるくて頭がぼーとしていて立ち直るのに30分はかかる。それでも眠くて辛いのに眠れなかった頃を思うとありがたい話である。うつになる前は10分か15分椅子にもたれたりして熟睡できた。そして目が覚めたら疲れはとれていて頭はすっきり、脳がリフレッシュしたのが実感できたのに・・・もう1度あの頃の様な昼寝が出来ないものかと切望する。
2004/06/06
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昨日のような強い風をともなった大雨の翌日は背の高い花が倒れていたり、軽い鉢植えなどは飛ばされていたりする。後始末が大変だ。それでも庭いじりは楽しい。15年ぶりに訪れた完全とは言えないが穏やかな日々。結婚して子供を産み、ほぼ同時に夫の両親と同居し二人目の子供を産み、その後は両親とうまくやりながら子育てと家事を一生懸命やって来た。息子が中学2年、娘が小学4年の時うつ病が私を襲った。それはある日突然だった。その日は娘の運動会だったので娘に持たせるお弁当を作っていた。娘は出来上がったお弁当を持って家を出た。「お母さんも後から見に行くからね。」と送り出した。その後だった。多めに作ったお弁当のおかずを食べて朝ご飯を済ませようとおにぎりを食べようとした。ところがどうしても喉を通らないのだ。何故だか分からなかった。病気でもないのにどうしたのかなぁと思った。その日、夫と一緒に娘の運動会に行けたのかどうか記憶にない。それからの日々は坂を転げ落ちていくような速さでどんどん気分が沈んでいった。私はどうしてしまったのだ。今まで一度も味わった事の無い不安が身体中に広がっていった。新聞の家庭欄などを読んでうつ病という病があることは知っていた。私はうつ病になったのかもしれないと思った。しかし、精神科の病院へいきなり行くことができなかった。夫は良くも悪くもおおような性格で私の変化をたいして気にしていなかった。えたいの知れない不安と恐怖を抱えながら家事を続けた。あまりに辛く身体もいつも疲れている状態なのでいつも診てもらっている内科に相談に行った。今思えばあの時間違ったのだと思う。今でこそテレビで製薬会社がうつ病のCMを流す世の中になったが、15年前は医師でも畑違いだと「疲れが溜まっているのでしょう」と毎日のようにビタミン注射を打ってくれるだけだった。もともと細い私の身体がどんどん痩せていくのが目に見えた。3ヶ月経ったのか半年経ったのか覚えていないが内科の医師に専門の医師を紹介してくれるように頼んだ。その時は本当のうつ病の怖さを私はまだ分かっていなかった。紹介してもらったのはバスで10分ほどの距離にある内科・神経科という看板のかかった医院だった。不運はこの医院でも続いた。医師は50歳後半くらいの快活な人だった。軽いうつ状態の人なら治っていたかもしれない。でも私の状態はもうその医師の治療方法ではどうにもならないものだったと気付いたのはずーと後のことになる。その頃の事は断片的にしか記憶がない。食べられない、眠れない、いつも不安で怖くて自分が崩壊するのではないかと恐れていた。スーパーで買物をしてレジを済ませ、もらったビニール袋と商品の入ったカゴを台の上に置いたまま、暗くなり始めた外を呆然と見つめる自分の痩せた身体がガラスに映っていた。私はこれからどうなっていくのだろう。その瞬間の映像を今でもはっきり覚えている。子供達は母親の病気には無関心を装っていた。毎朝作っていた息子のお弁当も作れなくなっていた。4年生の娘が学校に持って行く物や連絡事項などは忘れないように、期日に間に合うようにとふるえる気持ちを押し殺してやっていた。娘は学校から帰ってもぬけがらの様になっている母親を見たくなかったのだろうか、毎日のように友達の家に遊びに行っていた。私はほとんど喋れなくなっていた。息子や娘に淋しい思いをさせている事がかわいそうで、申し訳なくて、身を切られる思いだった。入院するまでの恐怖の2年間そして退院してからもすぐに元気になれるような病気ではないので子供達のことを十分見てやることの出来ない悲しみは今でもこうして文章を書きながら涙があふれ出てくる。息子はそれでも中高6年間をスポーツをすることで自分の気持ちを支えて6年間一日も休まず大阪まで通った。どんな立派な成績を取るより私は嬉しかった。娘の小学校卒業式の一週間前に退院して何とか娘と出席することが出来た。しかし、繊細なところのある娘は母親の病気に影響を受けて気持ちが弱っていたのかもしれない。中学生になって3年間卒業するまでいじめを受けていた。娘は3年間一言もそのことを私に話さなかった。入院して何とか最低の家事は出来るようになっていたが病気の大きな原因である夫の両親との確執はなくなっておらず、治るものも治らないという精神的にとても不安定な日々が続いていた。自分の事で精一杯で娘の苦しみに気がついてやれなかったことはその後の娘との関係に影を落とす事となる。
2004/06/01
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