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東京23区で緑が多い区はどこか?東京都建設局のホームページに掲載されている東京都都市公園等区市町村別面積・人口割比率表(平成26年4月1日現在)をひも解けば分かる。国都区市町村立の都市公園等(自然ふれあい公園、海上公園等を含む)の区別の面積を可視化(地図化)したのが次図。葛西臨海公園(805,861m2)のある江戸川区がダントツの1位。2位は木場公園(238,711m2)や猿江恩賜公園(145,088m2)のある江東区。1位:江戸川区(7,652,331 m2)2位:江東区(4,296,935 m2)3位:足立区(3,222,124 m2)4位:世田谷区(2,815,162 m2)5位:大田区(2,804,146 m2)6位:練馬区(2,071,605 m2)7位:板橋区(1,951,802 m2)8位:葛飾区(1,931,730 m2)9位:千代田区(1,702,767 m2)10位:渋谷区(1,640,407 m2)では、1人当たりの面積ではどうか?1人当たりの都市公園面積等が5m2を超えているのは次の5つの区。住民が少ない千代田区(33m2/人)を別とすれば、江戸川区と江東区は絶対面積も1人当たりの面積も多いことが分かる。1位:千代田区(33.05m2/人)2位:江戸川区(11.34m2/人)3位:江東区(8.97m2/人)4位:渋谷区(7.69m2/人)5位:港区(6.45m2/人)ゴミの埋め立てによって、緑豊かな都市公園を獲得した江戸川区と江東区。新築マンションが多い区でもある。(マンション・チラシの定点観測より)------------------------------ちなみに23区内の都立公園の面積ランキングがこちらにあった。1位の水元公園(葛飾区)936,999m2と2位の葛西臨海公園(江戸川区)805,861m2が圧倒的に大きい。江戸川区では篠崎公園も10位に入っており、緑が多い区であることが分かる。東京は都心にもそれなりに緑があり、1人当たりで千代田区が1位なのはそれに加えて居住者人口が少ないこともありそう。江戸川区や江東区は大型公園が功を奏している印象だが、それぞれの居住地の近くに都市公園が配置されているのかどうかは別問題。実際葛西臨海公園や夢の島公園など臨海部の埋立地に位置しており、「居住地に緑が多い」と単純には言えない。この辺りは、実際にそれぞれの区の住民へのアンケート等で居住者の感触というのを聞いてみたい気もするのだが。
2015.01.25
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小田急小田原線の東北沢、下北沢、世田谷代田の3駅(いずれも東京都世田谷区)が、23日の始発から地下化された。同日未明には代々木上原−梅ケ丘駅間にある9カ所の踏切が撤去され、朝夕のラッシュ時の1時間のうち40分以上閉まっていた「開かずの踏切」が解消した。下北沢駅では23日午前4時40分に新しい駅舎が開放され、カメラを手にした鉄道ファンらが入場。同55分、始発の新宿行き普通電車がホームに入ると、カメラのフラッシュが一斉に瞬いた。駅舎はまだ工事途中で、昨夜まで使われていた地上の線路とホームには立ち入りできないようフェンスが張られていた。周辺の飲食店では地下化に合わせて若者の交流イベント「街コン」が開かれた。100人近くの参加者が22日夜から翌朝まで飲食を楽しみながら、「地上」の終電と「地下」の始発を見届けた。参加した近くの会社員、篠倉智樹さん(32)は「開かずの踏切がなくなり便利になるのはうれしいが、逆に街の風物詩がなくなってしまうようで寂しい思いもある」と話していた。(毎日.jpより)------------------------------前週の渋谷駅に続いて、今度は下北沢駅が新旧交代。懸案でもあった開かずの踏切の解消が実現したのは安全面でも導線面でも大きな一歩。そして地下化は街の景観を大きく変化させるトリガーとなる。雑然としたおもちゃ箱的面白さは下北沢の大きな魅力でもある。裏路地まで個性的な店が立ち並ぶ様は東京の中でも独特の位置づけで人気も高い。若者を中心とした文化の発信地としての顔もある。一方で狭い道路と建て込んだ街は防災面での危険が指摘されており、再開発を促す声もある。しかし自然発生的に存在感を確立した下北沢の存在価値はその混沌にあるともいえるだけに、商店街を中心に反対の声も大きい。今後の街のあり方は依然として五里霧中。合意形成の難しさはあるものの、安全安心も重要な選択肢ではある。小田急の地下化が街の今後にどのような影響を与えるのか、まずは見守りたい。
2013.03.24
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東京都千代田区の景観まちづくり重要物件に指定されている大正時代の銅板建築「柏山(かしやま)邸」(神田須田町一)が十月、老朽化のため取り壊される。将棋の駒のようなユニークな形の「マンサード屋根」を持つ建物を記憶にとどめてもらおうと、近隣にある大学の学生らが「お別れ会」を企画、パネル展示やライトアップなどで、およそ九十年の歴史の幕引きをする。 神田のオフィス街にある木造三階建ての建物は、交通博物館があった旧万世橋駅跡地の目の前に位置する。正確な年月は不明だが、大正期の建造とされ、家の正面部分に、現在は薄緑色になった銅板が張られている。屋根は勾配が上部は緩く、軒に近い方で急に折れ曲がっている。 この十七世紀のフランスの建築家が考案したマンサード屋根と、銅板との組み合わせは珍しく、区が重要物件に指定した。 戦時中、付近一帯は空襲を免れ、戦後は一階でボタンやジッパーなどを扱う洋服の裏地店が営まれてきた。所有者の柏山和子さん(86)は店主だった夫を亡くし、三人の子どもが独立した後、八月まで一人で暮らしていた。「周囲のビルの建て直し計画や、家屋がやや傾いている状況などを考え、残念だが売却し、近くに引っ越すことにした。あと五年は住んでいたかった」と柏山さんは話す。一帯は再開発され、オフィスビルが建つ予定だ。 「お別れ会」を催すのは、地域の街づくりを手伝っている日大、東京電機大、明大、東京芸術大の学生やOBら約二十人。日大OBで、区観光協会に勤務する本郷寛和さん(30)が呼び掛けた。「建物は協会のまち歩きツアーのコースだった。柏山さんに大変お世話になり、恩返しをしたかった」と本郷さんは話す。 九月十~十二日、柏山さん家族が暮らしていた二、三階の内覧会や、昔の写真などのパネル展示をするほか、最終日の夜には建物をライトアップし、柏山さんや近所の人々を招いての懇親会を開く。一方で建物の内部を計測、平面図や立面図を作成したり、ビデオ撮影するなど、記録に残す作業も進めてきた。 メンバーの一人、明大理工学部建築学科四年の山本真兵さん(23)は「秋葉原に近く、周囲の開発が進む中で、魅力的な建物がよく残っていた。味のある銅板が、昔はどんな色だったのか想像すると楽しい」とメジャーで熱心に計測していた。学生たちの行動に柏山さんは「本当にありがたく、感謝しています」と語った。 内覧会などは誰でも参加可能。問い合わせは区観光協会=電03(3556)0391=へ。 <千代田区景観まちづくり重要物件> 歴史的な価値があり、区民に親しまれている建造物などを、区景観まちづくり条例に基づき指定する。所有者が保存工事を行う際に、区は専門家の派遣や工事費の一部を助成している。今年3月現在、日比谷公会堂、神田まつや、聖橋など51件を指定。所有者の申し出などにより、指定を解除する場合がある。(東京新聞より)----------------------神田でも須田町など一部の区画は戦災を免れたことで古い建物が残っている地区で、関東大震災後に建てられたいわゆる看板建築が並ぶ。軒がなく、防災対策として区画整理で道路幅を広げたことによる敷地は減歩から生まれた苦肉の策ともいわれる、また耐火性を向上させるため、外側を銅板で覆ったため独特なルックスになった。時代の象徴だった看板建築も多くは戦災で焼かれ、神田の一角に残るのみとなっている。それでもこの一角には藪やまつや、伊勢源、ぼたん、竹むらといった老舗が軒を連ねることもあり、レトロ気分を味わいに訪れる人が多かった。柏山邸もそんな古き良き時代を感じされる建築のひとつだけに寂しい。古い景観を残したい一方で、防災上の観点から再開発が必要との声もある。直下型地震の激しい揺れによる倒壊や火災から街を守るには、やはり耐震や免震といった構造上の対策を進めざるを得ない。東日本大震災では歴史的建造物である九段会館で天井が落ちて犠牲者が出たこともあり、この問題が急浮上した。人気の高かった九段下ビルディングも、倒壊の危険があるということで解体されてしまった。多くの人の命を守る上で防災対策を放棄するわけにはいかない。しかしその流れの中で街の景観を作っていた伝統的建築物を解体せざるを得ないというジレンマ。今後の東京を考える時、避けて通れない問題なのかも知れない。
2012.09.05
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大街道商店街の89店舗の写真をアクリル板に納めて、街並みを100分の1サイズで再現した「ミニチュア大街道」が、松山市一番町の松山三越アトリウムコートで展示されている。松山大街道商店街振興組合(日野二郎理事長)が、県内の写真家や画家らに協力を依頼し、6か月かけて制作したもので、訪れた人らは「商店街に親しみがわきますね」などと話していた。ミニチュアは、同組合の梅林良一理事らが「ひと目で商店街がわかるものを作ろう」と企画。県内の写真家に頼んで、一番町から三番町にかけて並ぶ89店の写真を撮ってもらい、アクリル板に転写。同じ街並みになるよう、長さ約3・5メートル、幅56センチ、高さ20センチのアクリル板製のアーケードを作った。梅林さんらが特に苦労したのはアクリル板の透明度。写真が鮮明に見えるようにするため、メーカーに何度も作り直してもらったという。 アーケード内をのぞき込むことも、外側から眺めることもでき、外側からだと、写真は左右反転して見える。買い物に訪れた松山市内の今井映子さん(50)は「商店街の様子が分かりやすくまとまっており、かわいい」と笑顔を見せた。 6月4日まで松山三越で展示。その後は、立体的なフロアマップとして、商店街の路上に設置することも検討する。梅林理事は「実際に多くの人に利用してもらう日が来るのが楽しみです」と話していた。(読売新聞より)--------------------子どもであれ大人であれ、模型というのはわくわくするものだ。精巧なジオラマなどはいつまで見ていても飽きない。これは男の子特有の習性なのだろうか?松山でもっともにぎやかな大街道の模型。商店街振興会も力が入っている。ベースが写真というのも面白い。立体的なフロアマップという位置づけもいい目の付け所。せっかく作ったのだから、ただ展示するだけでなく、大街道の名物にしたいところ。この手法で古い時代の大街道の姿を模型で復元して、現在の模型と比べられたら楽しいと思う。是非見てみたいが、松山はちと遠いかな。
2012.06.01
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東京の墨田区押上は、京成線や地下鉄半蔵門線など4路線が乗り入れる交通の要衝ながら、これといった特徴のない下町のローカルタウンだった。 それが東京スカイツリーの出現で、突如として全国区の知名度となり、タワーの建設中から多くの人が押し寄せている。 当然地元への波及効果も期待されており、周辺の商店街はご当地キャラクターを作ったり、独自のみやげ物を考案したり、開業直前の週末にはみこしを担いで雰囲気を盛り上げるなど、波に乗ろうと準備を進めてきた。 しかし東京の下町で生まれ育ち、今もスカイツリーを近くに眺めて暮らす筆者としては、目論見通りに事が進むかどうか気がかりだ。 最寄りの押上駅、とうきょうスカイツリー駅(旧・業平橋駅)から周辺のどの商店街へ行くにも、スカイツリーまでの道から少し外れるか、逆方向に歩かなくてはならない。 しかもスカイツリーには300店以上を収容する巨大な商業施設が併設されている。飲食も買い物も、すべてスカイツリー内で完結し、期待していたほど周囲にお金が落ちない懸念が浮上している。 隅田川を挟んで、浅草という横綱級の観光地が隣接していることも、押上には不利に働くかもしれない。遠方からの観光客が、スカイツリー見学のついでにもう一カ所訪れるとしたら、回り道が必要な商店街よりも、電車で3分程度の浅草に向かう可能性が高い。浅草寺の五重塔とスカイツリーを同じ写真に収めるのは悪くない。 ただ、押上界隈にも潜在的な集客力はある。 スカイツリーから程近い鳩の街通り商店街の周辺は、作家・吉行淳之介の芥川賞候補作「原色の街」、芥川賞受賞作「驟雨」の舞台となった。もう少し足を伸ばせば、永井荷風が「?東綺譚」で描いた玉の井(現・東向島辺り)があり、往年を忍ばせるタイル張りの民家がわずかながら今も残る。 すでに鳩の街には古民家を利用したカフェなどが登場しているものの、文豪の遺産を観光資源としてさらに生かせば、文京区と台東区にまたがる谷中・根津・千駄木のような、文化的な香りのする人気スポットになれるかもしれない。 スカイツリーの近くまで行くと、昭和のまま時代が止まった町並みに、何の脈絡もなく巨大な塔がそびえ立つ風景に少しぎょっとする。スカイツリーという巨木は、栄養を吸い上げて周囲を枯らしてしまうのか、それとも周囲と調和し、たわわな実を落として地元を潤すのか。スカイツリーは5月22日、開業した。(ロイターブログより)--------------------華々しく開業した東京スカイツリー。天候が悪かったり、強風でエレベーターが止まったりと上手くいかない部分もあったものの、あれだけの人が並んだという事実からもその注目度が尋常でないことを感じる。ツリーだけでなく、水族館や商業施設など、付属施設も充実している。東京でも今後一大観光拠点となっていくことは間違いないだろう。ただ、記事にあるように地元商店街への波及効果については危惧される部分も多い。街の活性化に際しては極力地元への配慮がされてしかるべきだが、以前からこの点については疑問を持っていた。例えば、駅名の改称。業平橋駅は東京スカイツリー駅になった。東武鉄道にとってはシンボル的な意味合いも強く、意図は分からなくもない。ただ、地元はスカイツリーの開業を期待して「おしなり君」というキャラクターを導入していた。おしなり=押上と業平橋である。これで駅名を変えられてしまったら立つ瀬がない。要は、事前に地元との協調がしっかりとされていたのか、という疑問である。開発の方針や、商業施設に伴う地元商店街の立ち位置など、ある程度配慮されるべきではなかったか。場所だけ提供して根こそぎ持っていかれるのでは地元にとってあまり美味しいものではない。街づくり的な部分では、企業の論理があまり前面に出過ぎてしまうのも感心しない。地元への配慮はどの程度されているのだろうか。そして商店街に利益をもたらすことになるのだろうか。開業後の動向を注目したい。
2012.05.23
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赤レンガで親しまれたJR東京駅丸の内駅舎の外観復元工事がほぼ完成した。1945年の空襲で焼失した3階とドーム部分が復活。1日までに足場や工事用シートの大部分が除去され、67年ぶりに創建当時の姿がよみがえった。 同駅舎は924万個のレンガを使って1914年に完成。空襲の2年後に修復工事をしたが、焼失部分は復元せず2階建てのままだった。80年代に復元機運が高まり、07年から焼失以前の姿に戻す工事を進めていた。 復元後の駅舎は、東日本大震災で被災した宮城・雄勝産の天然スレートを南北ドームなどに使用。尖塔(せんとう)部を含めた高さは46.1メートル、床面積は復元前の約2.2倍の4万3000平方メートルに拡大された。 今後は内部の工事が進み、6月には現在の仮改札が正規の改札として本格的に使用できるほか、みどりの窓口などが営業を始める。さらに10月には駅舎内の「東京ステーションホテル」も営業を再開する。(毎日jpより)--------------------日本を代表する「赤レンガ」の復活。東京駅の東京駅たる所以。駅周辺はここ数年で大きな変化を遂げているが、やはり丸の内の景観は赤レンガあってこそ。かつての姿を復元しつつ、機能的に改良されるいい先例であって欲しいもの。伝統のステーションホテルの再開は10月。こちらもどんな姿に生まれ変わるのか、楽しみだ。
2012.04.02
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門前町は宿場町と並んで街の発展形態として非常に分かりやすい。それは生活の場としての集落でありつつも、外来者を受け入れる宿命があったことに関係するのかもしれない。それでも昔の名残を残すような門前の参道は案外多くない。東京では浅草寺や柴又帝釈天、富岡八幡宮あたりに雰囲気を残すが、明治神宮の表参道などはもはや面影もない(笑)我が地元の大国魂神社も門前という意味ではあまりそれっぽくない。そんな中、成田山新勝寺の参道はいい感じだ。古い建物や老舗の店に交じって、今風のおしゃれな店もある。全体の雰囲気を大きく壊すことなく、現代の需要を満たしているように見える。こういうちょっといかした参道を見ると嬉しくなる。そしてなぜか旅に出たくなるのだ。
2011.08.28
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現在、青森駅はまさに青森市街地のど真ん中にある。しかし、1891(明治24)年に開業した際は、旧青森町の町外れに位置した。北海道への連絡船の桟橋と接続するためには、当時の市街地の外縁部に設置せざるを得なかったのである。その桟橋の建設は1898(明治31)年まで遅れ、それまで渡航客は、浜町桟橋(現青森市スポーツ会館周辺)まで2キロの道を歩くしかなかった。町外れといいながら、青森駅が面する安方町は青森町が発祥する以前からの古い村である。安方町は江戸時代初期までは善知鳥(うとう)村と称する漁村だった。この漁村を、弘前藩では江戸廻米(かいまい)のための拠点港として整備することになり、1624(寛永元)年から、森山弥八郎を開港奉行として港町の建設が行われた。このとき、新しい町の中心になったのは安方町より東側の現在の本町周辺であり、青森という地名も、本町周辺にあった青い森に由来する。この小地名が町名になり、近代以降は県名となった。青森は町奉行と町人の代表である町年寄が支配したが、善知鳥村は、しばらくは町年寄の支配を受けず、漁師村として漁師派頭(はだちがしら)の支配にあった。青森町年寄の支配となったのは、1714(正徳4)年のことで、現在でも善知鳥神社に名前を残す。江戸時代の神社周辺は、現在でいうところの官庁街であり、神社の前には青森町奉行所、その南(百貨店の旧「松木屋」周辺)には町奉行屋敷、屋敷の向かいには、廻米を収納する藩の米蔵(御蔵)や材木蔵が置かれた。ちなみに現在の県庁は御仮屋(おかりや)といって、藩主の巡見のための宿舎が置かれた。御蔵の跡には、明治以降は青森市役所や青森警察署が置かれ(現在は駐車場)、時代は変わっても行政の中心地としての性格は継続されている。明治末年の地図を見ても、青森駅西口は言うまでもなく、東口にもまだ一部に田んぼが残り、完全に市街地化していない。明治の青森駅開業から、今年で109年、北海道新幹線との接続を考慮する新幹線新青森駅は、さらに市街地の西側にできた。まだ空き地も目立つ新青森駅周辺だが、かつての青森駅周辺のように発達していくのだろうか。(毎日jpより)--------------------以前から、「青森」という地名に魅かれていた。それはたぶん子どものころからで、自分に未知の土地であるこの地を想像するにこの二文字はとても魅惑的だったのである。大人になり、青森という町のことも知り、かつての連絡船への乗り継ぎ駅は新幹線に置いて行かれた現状を知る。それでも青森という地名の由来は知らなかった。駅と町の関係は鉄道開業当初から大きく変化した。かつて国鉄の駅は必ずといっていいほど町はずれにあったが、現在では町は駅を中心に発展する。記事にあるように青森駅周辺も様変わりし、やがて新青森駅周辺も変化を遂げるであろう。新幹線の開業で東北本線そのものが表舞台から姿を消すことになる。東北という地域を支えた大動脈はその役割を終えたのだろうか。否、新幹線という怪物は都会の論理で成り立っている。だから地元を救うことにはならないのである。交通網が発達すれば町は栄えるというのはかつての考え方だったが、現在では逆に流出を助長する。青森という素晴らしい町がもしさびれてしまうとすれば日本の大きな損失になることを多くの政治家が気づいていないのは残念だ。地方都市の繁栄こそが日本の未来をつくることを確信している。
2010.12.10
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京都市下京区の百貨店「四条河原町阪急」が22日、閉店した。京都を代表する繁華街・四条河原町の顔の一つとして人気を集めてきたが、消費の低迷と〈百貨店離れ〉の荒波を受け、34年の歴史に幕を閉じた。この日は通常より1時間早い午前10時に開店、買い物客らが次々と訪れた。また、建物北西の外壁にあり、待ち合わせの目印として親しまれた世界地図のレリーフ前では、記念撮影する人の姿が絶えなかった。午後7時50分、玄関前で、亀井潤一店長(47)が「最後の日まで見守っていただき、ありがとうございました」とあいさつ。買い物客らの大きな拍手の中、深々と頭を下げる店員の前でシャッターが下りた。京都市下京区の大学職員、大西観栄さん(32)は「学生時代、待ち合わせ場所といえば阪急だった。買い物でも多くの思い出があり、さみしい」と残念そうだった。後継テナントには、ファッションビルを展開する丸井グループ(東京)が決まっており、来春開業の予定。(読売新聞より)--------------------時代の流れといえばそれまでだが、街の顔ともいうべき百貨店が消えるのは寂しいものだ。軒並み苦戦する百貨店業界、名門阪急もまた例外ではないということ。待ち合わせ場所として親しまれていたように、百貨店という以上の意味を街に与えていたのではないか。もちろん新しいテナントへの期待は持ちたいが、やはり去りゆくものを惜しんでしまうのは年齢的なものなのだろうか。。。
2010.08.23
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東京の夏の風物詩「隅田川花火大会」が31日あり、約2万発の花火が下町の夜空に咲き乱れた。 今年で33回目。東京都墨田区と台東区の会場には95万2千人(実行委員会発表)の観客が集まった。 会場そばには、30日に高さ400メートルを超えたばかりの建設中の東京スカイツリーがある。今年は実行委に「ツリーを背景に花火の写真を撮りたい。いい場所はないか」との問い合わせが多く寄せられたという。(asahi.comより)--------------------33回目を迎えてすっかり東京の夏の風物詩として定着した隅田川花火だが、今年は新参の光景があった。スカイツリーである。我々の世代は東京タワーを長年東京のランドマークとして見てきているので、スカイツリーが同じように人々に愛されるだろうか、という疑念が正直あった。しかし、今年の花火の写真を見る限りツリーは背景として違和感なく溶け込んでいるように感じられた。東京の下町の新しい光景。少なくとも、夏の花火にはよく映えていた。
2010.08.02
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休日のオフィス街は寂しい。人もまばらで、店もほとんど休み。まるで街全体が眠っているようだ。逆に観光地などは休日に稼ぐので平日は閑散としている。じっくり見れるのでお得といえるかもしれないが、にぎわいには程遠い。街の顔とかイメージとかあるけど、実際には平日と休日でまったく異なる。渋谷や新宿などの繁華街になると平日休日問わず人は多いが、それでも色は違う。休日は街がどことなく華やいだ色に見えるのだ。行き慣れた街でも平日休日で違う空気が味わえる。東京にもそんな街がたくさんある。出かけてみようか、いつもの街へ。
2010.05.10
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実家が引っ越した。今まで住んでいたところからは車で15分程度。JRの駅から徒歩15分。一軒家からマンションへ。。。歳をとってからの引越しなので環境になじむまで少し時間がかかるかもしれないが、住環境は悪くなさそうだ。これまで住んでいたのはかつての新興住宅地だが、町全体が高齢化していた。これは多摩ニュータウンや千里ニュータウンでも見られる傾向で、日本の住宅政策が抱える一つの問題だと思う。街そのものが次世代へと受け継がれることが理想なのだが。。。
2010.01.31
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福岡県上毛町は、イルミネーションで飾った家を紹介したマップを作り、広報誌とともに全戸に配布した。町の支所・施設のほか、複合温泉施設「大平楽」や道の駅「しんよしとみ」などにも置いている。マップは、町内8地区で電飾した13世帯のカラー写真と各家からの一言メッセージを紹介。各世帯の点灯期間や時間と道路案内を掲載している。明るいまち作りや防犯意識の向上を目指し、町は電飾・点灯世帯を対象に、購入費用の一部を助成しており、コンテストも実施している。(毎日jpより)----------------------街のイルミネーションが輝く季節冬の夜に浮かぶ光は、不思議なもので気持ちを暖かくしてくれる。最近はパブリックスペースばかりでなく、各家庭でも電飾を楽しむことがブーム。住宅街を歩いていても本格的なイルミネーションを施している家もあるほど。イルミネーションの紹介やコンテストは年齢を問わず、大人から子楽しめる。これはナイスアイディアかも知れない。自分の家の近所にも、すごい電飾屋敷がある(笑)みんなに紹介できたら楽しいのにな。
2009.12.15
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JR山手線の車窓から富士山を眺めることができた唯一のスポットで、商業ビルが建設され、今夏以降は見えなくなっていることが分かった。「都心の富士」として眺望を楽しんできた通勤客や愛好家から、惜しむ声が上がっている。富士山を望めたのは山手線の高田馬場-目白駅間(東京都新宿区)。大気が澄んだ冬の早朝などに車窓から南西の方角を見ていると、ビルの間に頂上周辺が垣間見えた。ほんの1秒足らずだが、希少な眺望が逆に人気を集めていた。山岳展望ファンでつくる「山の展望と地図のフォーラム」代表で筑波大付属高教諭、田代博さん(59)が9月下旬、車窓から富士山を探していたところ、新しいビルに隠れてしまっていた。田代さんは「通勤・通学時のささやかな楽しみにしていた乗客は多かったはず。首都圏の貴重な展望ポイントを失い、大変ショック」と話す。新しいビルの関係者によると、線路から約100メートル離れた新宿区内に8月、4階建ての商業ビルが完成した。山手線では以前、原宿-代々木駅間の車窓からも富士山を望めたとされるが、建物の高層化が進み、田代さんの話では、高田馬場-目白駅間が最後のスポットだった。(毎日jpより)----------------------恥ずかしながら山手線から富士山がまだ見えていたことも知らなかった。日本人にとってやはり富士山は特別な存在。関東平野からであれば遠くても冬の晴れた日ならその姿を拝むことは可能で、東京でも富士山ビュースポットはたくさんあった。しかし、ビルが建てばそれまでだ。20数年前に自分が世田谷に住んでいた頃、アパートの近所の環7の歩道橋に上ると富士山が見えた。夕方になると、黄昏の中に東名高速の灯が浮かび、その先に富士山が鮮やかな姿を見せていて、その時間帯になるとひとり歩道橋に上って景色を見ているのが好きだった。それがある日から、ビルが建ってしまい見えなくなった。現在自分が住む府中のアパートも窓から富士山が見えるのが選んだ決め手だった。ところが数年間その方向に新しいマンションが建った。今でもかろうじててっぺんは見えているが、以前のような雄大さはない。たくさんの人が住む都会では仕方のないことかも知れないが、心のよりどころにしていた景色が見えなくなるのは寂しいものだ。そう言えば都内には江戸時代からたくさんの「富士見坂」が存在するが、現在でも富士山が見える富士見坂は1か所だけだという。江戸は遠くなりにけり、である。
2009.10.15
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イカロス出版が気になる本を発売した。「首都高をゆく」以下はイカロス出版のサイトより抜粋----------------------日本の首都にして世界一の過密都市・東京。この都市に網の目のように張り巡らされ、文字どおり物流の大動脈となっているのが首都高速道路だ。今年で創立50周年を迎えるこの道路は、いかにして現在のネットワークを形成していったのだろうか。実はそこには、空間的・時間的制約をビックリ仰天の技術でクリアしてしまう過程にあふれていたのだ! 本書はそんな「ウルトラC」ともいうべき建設方法を、まったく土木技術がわからない人でも容易に理解できるように紹介。首都高速道路(株)完全協力により、同社に眠っていた建設当時の貴重な写真をあますところなく掲載している。また、漫画家・江川達也氏をはじめとする「首都高フリーク」にインタビューを敢行。首都高の面白いポイントを存分に語ってもらう。その他にも首都高を取り巻く人々の舞台裏を取材したり、首都高の新しい楽しみ方の提案するなど、ハード面だけでなくソフト面の記事も充実。東京に住んでいる人、首都高を走ったことがある人、ドボクの世界や都市計画に興味がある人は必見の、首都高まるごと大百科だ。 ●大橋ジャンクション&山手トンネル、建設快調! ●首都高ウルトラC級建設史 首都高年代記/道の上に道をつくる!/川を埋め立てる!/海に橋を架ける!/地下を掘る!/川の上に道をつくる!/海底に道をつくる!/橋の上に橋を吊る!/鉄道をまたぐ!/現在の路線紹介/首都高未来図/未成線を歩く ●「首都高フリーク」が語る! ここが首都高の「萌え」ポイント ジャンクション/トンネル/橋/景観/工事現場/渋滞/高架下/標識 ●首都高を「守る」 ●首都高を「楽しむ」 (イカロス出版ウェブサイトより)---------------------首都高速をひとつの交通手段と考えるのが走り屋。しかし、建造物としての美しさや機能性、つまり土木遺産としての価値を考えた場合、首都高はまた違う顔を見せる。工場萌えというのがあるそうだが、首都高の機能美も勝るとも劣らない。そして機能美ばかりでなく、街の一部としての顔もある。50年間東京の街を見つめ続け、そして東京の景色の一部であり続けた首都高。交通手段としてだけでなく、街を俯瞰する動的なビュースポットでもあったのだ。本の中には首都高の古い写真等も掲載されているようだが、どの時代の景観にも溶け込んできた姿は特筆に値するだろう。走り屋が感じる首都高と違う姿を街好きは感じている。それこそが首都高萌えなのかも知れない。
2009.06.30
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いよいよ、梅雨本番。雨の日にありがたいのは地下通路だ。都会には地下道が張り巡らされているが、例えば東京駅、改札を出てから雨に濡れずに、東西南北いったいどこまで行けるだろうか。各方位の端を目指して、ある日曜日に実際に歩いてみた。地図を片手に、東京駅八重洲中央口からスタート。まずは北側から調査。歩いて行くと、東京駅だというのに何だか人が少ない。それもそのはず、このあたり(大手町)は完全なオフィス街なのだ。「日本ビル」の途中で通行止め。この先の各店舗が日曜定休で入れない。平日だったらもう少し先まで行けそう。方向を西に変えて、大手町駅の方へ進む。地下鉄のめぼしい出口をひとつひとつ当たって行くと、どうやら大手町駅C2b出口が最も北まで行ける出口のようだ。この付近もオフィス街で、コンビニまで定休日で人通りまばらだが、さらに屋内を進んで日経ホールまで到達。どうやらここが北の端。東京駅中心から直線距離で約950m。続いて南へ向かう。東京暮らし3年の筆者だが、東京駅が大手町駅、二重橋前駅、日比谷駅の全てと地下通路でつながっていることに初めて気づく。いや、知らなかった。徐々に人通りも多くなり、ズンズン進むと日比谷駅A14番出口に到着。都心のオアシス、日比谷公園が目の前。ここが西の端のようだ。東京駅中心から直線距離で約1250m。さて、向きを東へ変える。ここで、日比谷駅が銀座駅とつながっていることに気づく。銀座はさすがに日曜日も大賑わい。銀座駅の奥にさらに連絡通路があり、東銀座駅までつながっていた。東銀座駅6番出口を出ると目の前に新橋演舞場が。どうやらここが南の端のよう。東京駅中心から直線距離で約1400m。ここからは北へ進む。有楽町の東京国際フォーラムを抜け、ディズニーランドへ向かう列車の始発駅、京葉線東京駅の改札脇を抜けて、賑やかな八重洲地下街へ。おいしそうなメニューが並んでいる。23番出口を地上へ出た所が東の端のよう。東京駅中心から直線距離で約400m。そして、スタート地点へ戻って調査終了。4時間歩きっぱなし。東京駅の地下通路は予想以上に広く、南北約2.5km、東西約1.5kmに達していた。筆者は歩きながら、エジプトのピラミッドのことを思い出していた。何千年かの後、滅びた東京を発掘した科学者が「東京の地下に巨大迷路発見! 目的は何か?」なんてニュースを報じているかも……。(exciteコネタより)----------------------なかなか興味深い実験だ。歩く距離の長い短いはともかく、雨の日にはなるべく外に出ずに目的地に近付きたいもの。実際に自分も傘をささずに地下街やデパートの中を通り抜けるパターンをよく使う。この場合、行き慣れた場所であれば経験的に濡れないルートは分かるだろうが、初めての場合はなかなかそうもいかないだろう。地図や空中写真で見る街のつくりは、あくまでも地上(見える部分)しかとらえていない。建物の内部や地下などを俯瞰的に理解するのは案外難しい。地下街やショッピングビルなど、通行可能な屋内ルートがデータベース化されていればナビも可能になる。地下街に関してはすでに一部ナビゲーションに反映されているかも知れないが、建物の中は合法的であるかどうかも含めてまだ難しそうだ。となると、何らかのプラットフォーム上に投稿情報を集約する手が一番現実的か。濡れないルートガイド、便利だと思うのだが。。。
2009.06.22
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ぶよう堂の地図物語シリーズ「あの日の新宿」と「あの日の神田・神保町」が発売された。昭和20年代の地図の復刻と、時代背景や街の成因についての冊子がついている。懐かしい写真もふんだんに使っている。今回は制作に携わったこともあって、思い入れも強い。街の成り立ち、そして変遷。すのすべてが今に結びついている。そう考えると街は生き物だ。今回は昭和20年代~30年代を実際にその場所で生きた人たちへたくさんの取材をかけた。皆一様に復刻された地図を懐かしそうに見つめながら、ぽつぽつと記憶の糸を紡いで話し出すから不思議だ。地図はそういう力を持っている。取材でお話を伺う度に、感動して涙した。彼らの言葉を聞きながらスタッフ一同、奮い立たされた。そして何よりも勉強になった。完成した本を手にするともう感無量だ。取材先に完成した本を見せると、涙を浮かべて喜んでくれた人もいる。こちらも思わずもらい泣きする。とにもかくにも、魂がこもった本だ。文章の行間にも、そして写真の奥底にも、一人一人の気持ちが宿っている。是非是非、多くの人に見て頂きたい。どうかよろしくお願いいたします!
2008.11.02
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広島市民球場が老朽化に伴い今季で閉鎖される。28日に行われた広島カープのセ・リーグ地元最終戦は、6-3で広島がヤクルトに勝ち有終の美を飾った。試合終了後、選手たちがグラウンドを一周。3万人の観客は総立ちで市民球団の本拠との別れを惜しんだ。 同球場は地元財界が建設費を寄付して、1957年7月オープン。被爆地・広島の市民に半世紀余り親しまれてきた。そして今では少なくなった土と天然芝のグラウンドとしても存在感を示していた。 カープの本拠は来季以降、広島市がJR広島駅東方の貨物ヤード跡地に建設中の新球場に移る。おそらく新球場は機能的にも優れたものになるだろう。メジャーリーグ式の天然芝グラウンドであるのも魅力だ。ただ、現市民球場が本当の意味で市の中心部に位置していたのに対して、新球場は再開発地区。広島に限らず、新しいスポーツ施設は郊外や再開発地区に作られるため、街中からは離れることが多い。全国的に見ても、東京ドームや神宮球場、横浜スタジアムを除けば街中スタジアムは少なくなっている。法律的な規制もあると聞くし、これはこれで仕方がないものかも知れないが、寂しくもある。街中に野球場があるのは、何となく文化として野球が根付いてきた証しでもあるからだ。もちろん快適な施設が作られることは素晴らしいことだが、英国のサッカー場に見られるような、狭くて歪な空間であっても街の光景になじむような、そんな佇まいが羨ましくもある。
2008.09.30
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最近以前にもまして東京に愛着が出てきたように思う。それは、きっと少しずつこの街のことが分かってきたからなのだろう。街の地形や立地といった地理的な要素はもちろん、そこに人が介在して街が形成されてきたという歴史が面白いと感じるようになった。新宿の街は東京では比較的新しく発展した地域だ。戦後、それも昭和30年代以降にインフラ的にも文化的にも繁栄していく。内藤新宿、赤線・青線、コマ劇場、ゴールデン街、思い出横丁その歴史は良くも悪くも人が作り上げたものだ。新宿歴史博物館が面白い。この街が持っている色んな顔がどのような経緯で形成されたのかが良く分かる施設だ。個人的には内藤新宿のジオラマや復元された家屋、旧都電の現物展示などが嬉しい。これだけの充実した施設が300円で見学できるのはありがたいことだ。見終わると皆何となく新宿博士になっている(笑)
2008.06.27
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痛ましい通り魔事件、そしてあまりにも理不尽な犠牲なぜ犯人はこのような犯行に及んだのかそして別に何故犯人は秋葉原を選んだのか?あえて選んだとすればこの街に何を見ていたのだろうか?この街を訪れる人を何か特別な対象としてとらえていたのだろうか?秋葉原を泡沫文化の街として見ていたとすれば、それは間違いだ「アキバ系」などとよく言うが、秋葉原がそんな一口で表せるような単純な街でない例えばメイド喫茶の最盛期でも自分はアキバでメイドに出会ったことがないそれはアキバのほんの一角で展開するに過ぎない世界だからだもともと秋葉原はやっちゃばと言われた神田市場があった場所後に電気街として発展していくわけだが、これは電気大の学生を対象としていたと言われる当初はラジオや無線関係の部品を売る小さい店が中心だった何となく闇市の延長線上にあるようなごちゃごちゃ感それこそが秋葉原の原型イメージやがてそれが家電の街に変わっていく高度成長期の頃、3種の神器と言われたテレビ・洗濯機・冷蔵庫国民の富の象徴が電化製品だったつれて大型店がこの街に登場するようになるそしてオーディオやビデオなど、いわゆるAVの時代がやってくるそこでもこの街は主役だったさらに時代が進んでパソコン全盛IT文化のの中心になったのもこの街だその頃からだろうか、アニメや同人誌などの愛好家が集まるメイド喫茶が登場するさらにアイドルの街としてアキバ系タレントを輩出するつまり、これら全てが秋葉原オタク文化というが、それはある意味ラジオの時代からずっと続く伝統でもあるだから今もってたくさんの文化の混沌があるだから秋葉原は泡沫文化の街ではないこの街を表現するなら混沌という方が正しいと思うつまりこの街を訪れる人は、一般にイメージされるような特別な人ではないもし被害者がこの街に来ていたがために事件に巻き込まれたとすればあまりにも理不尽だそしてこのような無差別殺人は絶対に許されるべきものではない
2008.06.09
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墨田区にあるプラネタリウム館「ユートリヤ・スターガーデン」で、夜景の映像に2011年完成予定の新東京タワーが先取りで登場している。これは周辺の景観が再開発やマンション建設など経年変化したことからリニューアルしたもので、未来の景色として新タワーを加えたもの。ちなみに今までは開館した14年前の景観で、いわゆる経年変化の反映は今回が初めて。高さ610mの新タワーは周囲の景観の中でも特に目を引く。もちろんプラネタリウムでは星が主役。それでも経年変化を反映しなければならないのは街が動いており、人々がその景観に溶け込んで生活している何よりの証拠だろう。 そして実際の新タワーが街の景観に、そして人々の心にどんな印象を残すことになるのか、今はまだ誰も知らない。
2008.06.06
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新宿歌舞伎町の代名詞とも言える新宿コマ劇場が、今年大晦日の「年忘れにっぽんの歌」の生放送をもって閉館する事が発表された。演歌の殿堂として名高いコマ劇だが、それ以上に歌舞伎町を象徴する施設としての顔がある。ちなみに現在阪急グループの傘下となっている。そもそも戦後復興の際に歌舞伎座を新宿に持ってくる計画があったことでこの地に「歌舞伎町」の名がついたのだが、結果的に歌舞伎座の誘致は実現せず、コマ劇場が出来た経緯がある。以来50年以上この街を見守ってきたものの、施設の老朽化や入場者減による業績の低迷のために閉館することとなった。跡地では再開発が行われるが、戦後娯楽・文化の発信をになった新宿の街を引き継ぐような施設が出来ることを希望したいが。
2008.05.30
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数週間前の話だが、テレビ局から突然会社に電話がかかって来た。その内容は「二子玉川」の範囲を教えて欲しいというもの(笑)で、最近メディア担当(?)の自分にまわってきたのだけど、正直二子玉川の範囲なんて分からん。。。とりあえず、・「二子玉川」は通称で町名として存在しないこと・駅名はもともと「二子玉川園」で現在は閉園された遊園地の名前に由来していること・駅周辺に「玉川」という町名があること・川向こうの川崎市高津区に「二子」という町名があることを伝えた。それでも「地図屋としての判断で二子玉川の範囲を定義をしてください」と食い下がられたが。。。その電話のやりとりの模様が16日深夜のテレビ東京「オニ発注」という番組で放送されたらしい(笑)どうやら自分はその電話で芸人さんと話していたらしい。放送で流すなら言ってくれよ~分かってたらちゃんと声作ったのに(笑)
2008.04.18
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飲んでばかりではなく正月ムードを味わいに初詣へ。地元の大國魂神社へ出かけた。2日の午後遅くという微妙な時間帯を狙って行ったもののやはり長蛇の列時間はかかったものの何とかお参りを済ませてお守りを購入。これで何となく一安心(笑)大國魂神社は武蔵国の総社。これだけ格式の高い神社が地元にあるのはありがたいことだ。関東で初詣と言えば明治神宮や川崎大師、成田山新勝寺や大宮氷川神社、浅草寺などいわゆる有名どころが毎年多くの参拝客を集める。初詣のパターンとして、こうした有名どころへの参拝と有名でなくても地元の寺社へ参拝する2通りがある。有名どころはご利益も多いという考え方もあるかも知れないが、この場合「初詣」という以上に「お出かけ」的な意味合いも含まれる。これに対して地元での初詣は日常の生活空間に対しての行為。だから有名どころへ初詣で遠征する場合でも、それとは別に地元の寺社にもお参りしているケースは多い。何はともあれ、せっかくの初詣参拝者全員にご利益があることを信じたいものだ。
2008.01.02
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謹賀新年。毎年元日は千葉市の実家で宴会が恒例だが、今年は弟宅で開催されることになった。場所は江東区塩浜のマンション。訪れるのは初めてだ。地下鉄東西線木場駅下車。徒歩10分程度かな?このあたりは下町なのだが、いわゆる下町情緒はあまり感じられない。三つ目通りは上に首都高速が走っていて空がないせいもある。時折見える運河がなんとなく雰囲気をかもし出してはいるが。少し広めの運河を渡ると町名は木場から塩浜に変わる。以前は何もない倉庫街の様なイメージがあったが、現在ではマンションがたくさん建っている。都心への交通の便がいいこともあって、なかなかの人気のようだ。近所に大きなイトーヨーカドーがある。元日から夜10時まで営業。これなら正月前に買出しをしたりしなくても何でも揃う。そのせいか、街も浮き足立った感じはなく正月でありながらも日常の中。富岡八幡宮あたりまで行けば変わるのかもしれないが。などと言いながらも、宴会が始まってしまえばどこの街だろうと関係ない(笑)たまにしか揃わない家族、積もる話もそれなりにあるわけで。。。帰り道はもう暗かったこともあってあまり人も歩いていなかった。そう言えば今日は電車も空いていたな。今年がいい一年でありますよう。木場の運河に願ってみた。
2008.01.01
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街で暮らす我々にとって、どこの区や市に所属しているかというのは行政上重要だが、日常ではそれよりも「どこの沿線」に属しているか、という考え方の方が現実的だ。東京でも大阪でも同じだが、都心は環状線があって、その周辺を網の目のように地下鉄が結んでいる。そして郊外へは放射状に路線が延びていく。その放射状の路線の沿線はどうやら似たような文化が形成される傾向がある。もちろんJRでも同じだが、私鉄はその沿線の色がよりはっきりしている。これは街のつくりからスーパーのブランドに至るまで、あるいはその沿線に住む人たちの生活スタイルまで何となく似てくるように感じるのだ。京急、東急、小田急、京王、西武、東武、京成、西では阪神、阪急、京阪、近鉄、南海。。。それぞれ明確な個性やブランド力がある。そして車内に乗っている人もなんとなく同じような雰囲気に見えるから不思議だ。沿線の街の個性が沿線住民を同じような色に染めているのか?はたまた偶然そういう人々が集まることで沿線のカラーが形成されたのか?何だか検証してみたい気がするが。
2007.12.21
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8月以来の大阪出張。いやはや、師走らしいあわただしさだ。新幹線の車中は原稿書きに追われて新大阪に昼前着、梅田で軽く食事して午後一で最初の得意先へ。ひとしきり打ち合わせるとタクシーで御堂筋を移動次の得意先へ。ここでまたひたすら打ち合わせるともう4時半。。。もう何件かまわりたかったのだけど時間的に断念。御堂筋線で新大阪に戻って17:16発ののぞみで帰京。さすがに帰りの新幹線ではPCを開く気にならず。。。たまたま場所が大阪というだけで何だか東京にいる時と変わらない一日。違うのはエスカレータの左を空けることくらいか?(笑)あ、南船場がとてもオシャレな街になっていた。。。
2007.12.17
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何かとお酒を飲む機会が多いシーズンである。肝臓のケアには気を使いたいものだ。それはそうと、地元の飲み屋で飲む機会はどれくらいあるだろうか?飲む時って大概は会社の近くとか、出先とかで、わりと地元で飲み屋に入れば機会は少ないような。。。地元で飲む場合って、近所に一緒に飲めるような親しい仲間がいるか、はたまた気に入って通えるお店があるか。もしかしたらそれって街の活気そのもののバロメーターになるのでは?繁華街を別にすると、街にそういう店や仲間がいるということは地域のコミュニケーションが活発であることにつながる。今日ある街で飲んでいてそんなことを感じた。自分の地元ではないが、何となくそんな雰囲気があってうらやましかった。皆さんの街はどうでしょうか?
2007.12.15
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あれだけTV出演の件を宣伝しておきながら今日も一日外歩きで自分では見れず。。。まあ再放送があるので。。。(12/10(月)25:00~25:30)本日も銀座~汐留~築地~銀座~新富町~入船~新川~八丁堀~茅場町~日本橋~丸ノ内~有楽町みたいなルートで。さすがに足はパンパンだぁ。でも歩くのは本当に面白い。電車での移動は何となくデジタル(笑)街から街へとピンポイントで動くのでその間がない。ところが徒歩で移動した場合、銀座がだんだん築地になっていく様子とか、八丁堀から日本橋への微妙な変化とかそういう空気を身体で感じられるのがよい。それが感じられるとますます街の個性が良く分かるのだ。歩いている人の雰囲気まで変わるから面白い。東京は本当に刺激的な街だ。
2007.12.05
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東京って不思議な街だなって良く思う。 雑然と色々なものが混ざり合う。 美しいものと汚いもの 華やかなものと素朴なもの 近代的なものと昔ながらのもの 賑やかなものと落ち着いたもの 銀座の雑踏を抜けてしばらく歩くと水辺に出る。 水のある風景は東京の個性だ。 川辺にたたずむと永代橋が見えた。 ちょっと和んだ。 昨日もお知らせしたとおり 本日12/5(水)15:30~16:00NHK教育テレビ「高校講座地理」 http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chiri/ に出演します。 出演は番組の1コーナーでわずか2分程度ですが、 ききての香坂夏希さんと渋谷の地形を歩きます。 (再放送は12/10(月)25:00~25:30)
2007.12.04
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今日歩いていたらとんでもなく低いガードを発見!ちょうど品川電車区の下をくぐる形のガードで高さ制限が1.5m立体駐車場より低い制限とは。。。道自体は一方通行の1車線プラス歩道。それでもそれなりに交通量は多くてタクシーとかびゅんびゅん走っていた。実は歩く人の方が辛くて、みんな腰をかがめないと通れない。しかも全長が300mもあるガード。背中を丸めて歩くにもかなり疲れる。我こそはと思う方はお試しを(笑)
2007.11.28
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「ALWAYS 続・三丁目の夕日」という映画がヒットを記録した高度成長期を目前にした東京の下町を舞台にした物語で原作は西岸良平の人気漫画。ノスタルジーヒットの要因はこれに尽きると思うただ、そのノスタルジーにもいろいろあるあの時代を過ごした人たちが誰しも持っているノスタルジー当時の街並みや生活に対するノスタルジーものがあふれて便利になった現代にはない何かがそこにあるそれは暖かさとか空気感とか、言葉に出来ない何か高度成長期に向う夢と活気に満ちた時代へのノスタルジー貧しくても頑張った分だけ報われた時代みんなが前を見てがむしゃらで、ものすごいエネルギーに満ちていたそして人と人のつながりに対するノスタルジー近所が声を掛け合ってみんな助け合っていた時代そこには確かなコミュニケーションと目に見えない団結があったすべては失われてしまったものだからこそのノスタルジーみんなどこかであの頃はよかったと思っているもちろん、思い出はいつも美しいまま生きることは楽しくもあり泥臭くもある時代が正しい方向へ向っているのかはたまた間違った方向へ進んでいるのか誰も答えを知らないただ多くの人がノスタルジーに共感しているこの事実さてさて、東京を歩いていると今でもこの映画に登場するような街並みに遭遇することがある。都会の片隅にふっと現れるタイムスリップしたような空間ノスタルジーを探しに街に出てみよう
2007.11.25
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めっきり寒くなった。特に夜は冷え込みは堪える。。。街を行くカップルにとってはそんな寒さも好都合。何しろ遠慮なく寄り添うことが出来るのだから(笑)さて、クリスマスが近づいて街にはイルミネーションがあふれている。都内には様々な「光の名所」があってたくさんのカップルが集まってくる。イルミネーションにはどんな効能があるのだろう。誰もが美しいものが好きなことは間違いない。それだけでロマンティックな気持になれるものだろうか?光には不思議な力がある。そういえば虫も光に寄ってくる(笑)これからの時期、あちこちで工夫をこらしたイルミネーションを見ることが出来る。うまくして「光の名所」になればそれだけで人は集まる。それこそ光に集まる虫のように(笑)最近では多摩地区など都心から離れた場所でも光の名所が出来つつある。人を集めたい街にしてみれば願ってもいないチャンスだ。さてさて今年も新しい光の名所は誕生するか?
2007.11.20
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子どものサッカー用品を買いに立川にあるビーアンドディーへ。この店がテナントとして入っているビルが「第一デパート」知る人ぞ知る立川のディープスポットである。ルミネやグランデュオに加えて最近エキュートがオープンした立川駅はまさに旬。その立川駅からすぐの場所に第一デパートが鎮座する。このデパートがだた者ではない(笑)昭和40年代の雰囲気が色濃く残るのはもちろん、他にはあり得ないような店が集まっているのだ。その中核を担うのがホビーショップコトブキヤプラモデルや模型(それもレアもの・・・)、キャラクターグッズにがちゃぽん、さらにフィギュアに至っては戦隊モノから美少女フィギュアまで初めて訪れるとそのマニアックさに唖然とする(笑)これは見ていて飽きないな。他にもコミックやマニア本に特化した書店や昆虫と爬虫類の店、レアもの鉄道模型の店などかなり深い。同じく駅近くでマニアックなフィギュアやアニメ系の店が入る「フロム中武」と併せて近年では立川がオタクの聖地となっているそうだ。多摩のアキバといった風情かな。最近は多摩地区だけでなく、山梨や長野からもお客さんがやってくるそう。街の活性化としては特殊な例かもしれないが、このような方法があってもいい(効果を狙ったものではないらしいが・・・)ただ、第一デパートもさすがに老朽化は否めない。耐震基準でも問題になるらしい。そして立川のランドマークとなる高さ130メートルの再開発ビルが同地で計画されている。いずれ取り壊しになってしまうのかも知れないが、街の顔とも言うべきディープスポット、何とか残したいものだが。。。でも新しいビルでは雰囲気が出ないな(笑)
2007.11.04
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所用で大手町、丸の内方面へ。昨日のアキバが萌え系、そしてごった煮的面白さの街とすれば大手町、丸の内はスタイリッシュな印象を受ける。もともと古くからのビジネス街。新しいビルに混じって重厚なつくりの古いビルも健在。でも一番違うのは歩いている人たちのファッションと空気か。アキバはどちらかというとふわふわしたイメージ。一方こちらはファッションもスタイリッシュ。典型的なビジネスマンや典型的なOLが多い印象かな(笑)これが銀座や汐留になるとまた空気が変わる。いずれの街もそれほど離れているわけではないのだが。。。街の空気は本当に置くが深い。
2007.10.30
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秋葉原はつくづく不思議な街だ。普段はつくばエクスプレスへの乗換えで使うものの、最近この街の隅々を歩く機会はなかった。久々に訪れた秋葉原はもはや「秋葉原」ではなく「アキバ」だった(笑)もともと電気街として名高かったのだが、かつてはラジオの真空管などの部品からアマチュア無線のパーツなどその筋のマニアが多く訪れていた街。その後は家電の街になり、オーディオマニアが主役になった。時代は流れてコンピュータと周辺機器やソフトの街になり、今度はPC系のマニアが集まった。さらにアニメや同人誌の街としても名を馳せてアニメファンが集まったかと思うと今度はメイド喫茶がブレイク。一気に萌える街として世界中で有名になった(笑)最近ではインディーズ系ミュージシャンの路上演奏スポットとしてもホットでそれにつれて多くのファンも集まるようになってインディーズ音楽のメッカとしても注目を集めつつある。こうして考えると、この街の顔はひとつではない。案外ごった煮こそがアキバの文化なのかもしれない。しかしそこにはどんなジャンルであれ、マニアの存在を無視できない。つまり、すべてにおいてディープな街なのだ。そんなオタッキーな歴史を誇るアキバも駅前は再開発で随分立派になった。ダイビルやUDXなどの巨大なビルが建ち、ロータリーや周辺道路も随分整理された。研究学園都市へと結ぶつくばエクスプレスが乗り入れたこともあってこれからは学術とビジネスが有機的に結びつく街になっていくのだろうか。だれもアキバの明日を予測できない。
2007.10.29
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全国的に見れば古い商店街はどこも苦戦しているのだけれど、都市部ではまだまだ頑張っているところもある。横浜で所用があったので久々に伊勢佐木モールを訪れてみた。特にみなとみらい以降の横浜の商圏の移り変わりが気になるところだったのだけどなかなかどうして、凄い人だ(笑)「モール」というとなんか小洒落た雰囲気だが、ここは実際には庶民的で人間味あふれる商店街(それでいて一流店も多い)だ。元町とかは最近どうなんだろう。今度偵察に行ってみよう(笑)ところで有隣堂本店で初めて「地べたで再発見!『東京』の凸凹地図」の第2版を発見(笑)ちょっと表紙の色が薄いような気がするのは気のせいか?(笑)1冊だけだったけど発売から2年近くたつ今でも置いてくれているのは嬉しいな。。。
2007.10.15
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現場仕事で一日ひたすら歩いた。その距離おそらく20km以上。最後は腰が痛いのと(荷物があったので)足が上がらないのと我ながら情けない。。。もう若くないなと再認識。神保町から竹橋、神田から岩本町、そして秋葉原。めまぐるしく変わる風景はなかなか新鮮。路地ひとつ挟んでまったく違う町並みだったり。歩いている人のファッションなんかも違うんだよね。やっぱりアキバは派手だぁ!一口に東京と言っても本当に色々だ。電車や車の目線ではなかなか気付かなかったけど街歩きはやめられない。
2007.10.13
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普段から何の気なしに電車に乗って移動しているが、実は本来歩ける程度の距離でも電車に乗ってしまっていることが多い。東京都心では駅間の距離は総じて短い。ホームの端に立つと隣の駅のホームが見えることも珍しくない。出発点と目的地の駅からの距離によっては、電車に乗らずに歩いてしまった方が早いこともかなりある。特に盲点なのが地下鉄。地図を見るより先に路線図を見てしまう(あるいは乗換検索サービスを利用してしまう)と歩いて10分程度の距離を2回乗り換えて20分もかけて移動する、なんてことも珍しくない。路線図もデフォルメされているケースがほとんどなのでそのあたりは分かりにくいが。。。駅のエリアそのものが広い場合もあるので一概には言えないが、例えば大手町と東京であれば歩いてもたいした距離ではない。丸ノ内線の大手町駅であれば一駅乗るのもありかも知れないが、東西線の大手町駅(JR東京駅と乗り換え対象になっている)からわざわざ丸ノ内線まで歩いて一駅乗車するのは距離的にもロスが多い。同様に東京国際フォーラムに行く場合最寄は有楽町駅だが、東京駅からでも十分に徒歩圏である。この場合に東京から有楽町までわざわざ乗車するのも無駄に感じる。さらにその有楽町と銀座一丁目や日比谷、日比谷と内幸町など実はそれほど離れていないことは実際に歩いてみればよく分かる。出発地と実際に訪れる目的地にもよるだろうか、駅を全ての基準とせずに徒歩も含めた最短ルートを考えることが大事ではないか。そのためにはやはり地図を見る習慣がものをいう。これからは歩くには気持がいい季節。健康のためにも乗りすぎには注意しましょう(笑)
2007.10.09
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最近「エキナカ」ビジネスが熱い。「エキナカ」とは駅の改札内の商業施設のこと。JR東日本が「ecute(エキュート)」というブランドで展開している。2005年に大宮と品川がオープンして好調でつい先日、10月5日には立川がオープンした。ちなみに東京メトロも表参道に同様のコンセプトで「エチカ」をオープンさせている。立川のecuteはまだ行ったことがないが、大宮と品川のエキナカは経験済み。いずれも下手な駅ビルを上回る店舗の充実振りで人が集まるのもうなづける。店のブランドも一流だし、食事も本格的なグルメ志向が強い。いままでエキナカビジネスと言えば、せいぜいキオスクと立ち食いそば。これはこれでひとつの文化を築いていると思うが、便利ではあるもののエグゼクティブなイメージではなかった(笑)もちろんターミナル駅にはレストランや土産物屋、さらにコンビニから床屋まで揃っているもののいずれも「間に合わせ」の域を出なかった。それはそうだろう。本格的な商売を考えた場合に「エキナカ」はお客を制限することになるのだ。何しろ運賃を払わないと入場できないわけだから。。。しかし、最近の世の中は閉じる(制限する)ことでヒットする仕掛けが多いのも事実。mixiをはじめとしたSNSがまさにそれだが、閉じていながらものすごい数の人が参加していたり。エキナカも同様で、改札内という制限がありながらいかに改札内にいる人が多いか、と言うことなのであろう。そこに目をつけたビジネスセンスはなかなかのものだ。かつての「間に合わせ」から「本格的ショッピング」へと変化を遂げたエキナカ。これから更なる展開があるのだろうか?あっと驚くビジネスに期待したい(笑)
2007.10.08
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