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こん○○は!!ちょうさんですじゃ・・・。(↑トップ画像は 近くの島からのぞむ・・浦戸湾・・。) なにか 集中して没頭したいな・・と おもっています・・。 去年から いろいろとありまして 今年は さらにひどい年で・・・。がっくりとくることばかりで 心の中がぼろぼろとなっています・・。中身がこわれてしまって がわ(外側)だけみたいなものかな・・・。すこしは まともになりつつありますけど・・。まーなんとか仕事も気力がでてきまして やっとりますけど・・・。 どうも心のパワーというか 力強さがもどってきません・・。いつも もろい状態のままですので なにかの拍子で また どつぼにはまってしまって 抜け出すのに時間がかかりそうって 感じです。このままでは 逃げ出したいとかいって逃避行・・ってことになっても あれですからね・・。 帰りに近くの書店で 絵画のコーナーをみていましたら木彫りの本がありました・・。 ちいさいとき・・・おふくろが働いていた木工所のおがくずの中でそだちました・・。 そういうこともあるのか 小さいときから いろんなものを小刀でけずったりして遊んでいました・・。 基本的なことから まったくわかんないので あれですけど 木彫りでお地蔵さんとか仏像とかほってみたいとおもっていました・・。ちょうど そんな本がありまして 買ってきました・・。少しずつ やってみたいとおもっています・・。ちょっと へろへろになった心をなにかに没頭することで 雑念をたちきったり・・・できたらいいのですが・・。そのときだけでもね・・。心を寝るでなかった(寝てしまってどうする)・・練ることが できればいいなー・・。
2005.06.21
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こん○○は!ちょうさんですじゃ・・。 仕事に出かけて あまりにいい天気だと仕事を休んで 旅に出かけたくなりますね・・・。むかしは よく休暇をもらって バイクですっとんでました・・。そんな天気の日がありましたね・・。 ブログの名言 154 [ 聖なる性 ]『‘老い’と‘恋’は突然やってくる』って話しを聞いたことあるけど、・・・・。 あははは・・いつも みさせていただいてます・・・。 若いのに・・・。年代がかわるとき・・今までの体調から のギャップがすごいですからね・・・。20代から30代・・へ。30代から40代へ・・。そして40代から50代に・・わたしが いまこれですけどね・・。 20代のある時期まで 無敵状態で・・怖いものなし(力・・エネルギーの固まりみたいな感じでしたね・・)・・みたいな感じで生きてきましたが 自分が思うように わりと物事がすすんで うそのような人生でしたね・・。そのときに つきの大半を使い果たしたのかもしれませんね・・。20代半ばで 仕事で腰を壊しまして・・無敵状態から・・ただの人に急落・・ですね・・。 無理が重なると腰をかばって・・それが膝にきて 歩くこともできなくなり・・・体力は あるのに 悔しい思いをずいぶんとしました・・。そのうち 腰をかばうのが当たり前になり 好きだったスポーツが本格的には できなくなり・・だんだん 今のような体調になってきましたねー・・。とほほほ・・。 ここんとこ・・も 腰が もうひとつで 苦しい毎日ですが はー・・・なんとか いろいろしながら すごしています・・。 片思いばっかで・・そだってきた青春でしたから・・。ほんとうの意味でとの恋愛とか恋とか 長く知らずにいきていたのかもしれません・・・。人を本当にすきになるなんて ないだろうととか ある意味あきらめていきたいたのかもしれせん・・・。 あるとき突然 人をすきになってしまって・・気がついたら そのひとのために自分は いきてきたのだなーと 思っている自分がいました・・・。あるいみで一番たいへんなときに その人を助けてあげるのが 私が生まれてきた使命だったのかもしれません・・ね。それができただけでも よかったとおもいます・・。その意味からすると いまは わたしは おまけで いきているのかもしれませんがね・・。あははは・・。 もう 昔みたいに 無敵のような体力もないので なんにもできませんけど・・。いくつまで いきていけるのかは わかんないけど 少しでも 困っている人たちのなにかのお手伝いができるなら お手伝いをして その人たちが これからいきていく 何かの力になればいいなー・・と おもいます・・。 そういうなにかをみつけるのも 生きていくってことなのかもしれませんね・・。 連絡の取れなくなった友達がたくさんいるけど みんな元気でやってるだろうなー・・。みんなそれぞれの問題をかかえているなかで もがいてもがきなからも 前に前にすすんでいるだろうから 私も 少しずつ少しずつ すすまなきゃーねー・・。 仕事もしたいといってもあと10年ほどしかできません・・。全く先が見えない状態ですが・・・。今の環境の中で 現在の体調で できることを少しずつしていくしかないわけですな・・。焦っても仕方がないので 土佐の海のように ゆったりとした気持ちで あたらしい友達を大切にしながら ぼちぼちといかんとね・・。 などと・・わけわからんことをかいてしまいました・・。がははは・・。 人は 生きているのが当たり前のように思って生きているのかもしれませんが 突然に死はおとづれるものなので 私は 本音で語り 本音でいきていくようにしとります・・。 後悔しないためにね・・。みなさんも 精一杯 明るく楽しくいきませり・・。(ちょうすけ) 日記にかいたところ・・早速 腰は大丈夫かよって 連絡がありました・・。ありがとうね・・。感謝感謝ですー・・。(ちょうすけ)
2005.06.18
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こん○○は!ちょうさんですじゃ・・。 さても いい天気じゃった・・昨日・・バイクで でかけとりました・・。ちと 雲はあったけんどね・・。 土曜は 仕事をすませてから 山の空気でもとおもったら雷はなるは でしたので・・車で仕事場に・・。郵送の資料をほいほいとつくり・・かえろうとしたら雨が降りはじめてましたので バイクでこなくてよかったね・・。 うーん・・バイクにのりたかったのに・・と 思って・・日曜日・・。 まだまだ 天気は もっているので 午後にバイクでおでかけすることに・・。タイヤのエアを もう確認して少しだけあげて・・と・・。燃料は ほとんど満タンなのでOKですな・・。いつものように 玄関迄・・TT-R改君を押してだす・・。道路で ほいっと右足をあげて またがり乗車・・・。燃料コックONにしてチョークボタンをひいて 始動・・・。いい音でかかりましたよーん・・。そこの場所で暖機するわけにはいかないので(あったかくなったらしずかなんですけど始動直後はすこしにぎやかですのでね 近所迷惑ですから)・・ね。 さーて・・先日・・車で でかけた「やまうどん」の百日紅のお店でコーヒーでものんでこようかなっと おもいたって・・でかけることに・・(参考:鏡 吉原をたずねて・・。)。まっお店にだれかいれば いろんな話もきけることだしね・・。ちょいと 安全はたしかめて 前方の確認がとれるところは メリハリを付けた運転をこころがけて・・・・。人のそばとか人家の近くは 静かに・・走行・・です・・。また バイクをこわがらないように・・って かんじでね・・。バイクももうかなりのっていますけど トライアル車っぽいのが 一台別にほしいけど・・。むかしは そういう感じでもっていましたけどね。XLRとTYRをね・・。 高知市の鏡川橋から北上して 鏡村いまは 高知市鏡ですけど・・ね。先日とおったときもきれいな川であそんでいたりしてたのですが 今回は さらに人がふえているようで・・。他の河川と同様 こちらも鮎漁解禁でしょうね・・。 今日は アクセルワークに リニアにバイクがついてくる感じで きもちいいー・・。いいなー・・こういう感じ・・。うんうん・・。エンデューロタイアもすこしアスファルトで ちびてきたので もうすこししたら 新しいのにしないとね・・。今度はオンロード指向のタイヤでもいいけど・・。 さて・・鏡の支所をまがって いよいよ・・道の狭い区間に・・。対向車がくるぞという意識と きてもいいようにできるだけ(片道ではなくて センターラインなどないし・・)一車線のどうろを左よりにはしる・・。カーブがおいいのでプラインドカーブも結構あります・・。気持ちよく単気筒のここちよい ぐりぐり感覚で ごりごりとすすんでいきすー・・。 プラインド カーブからバンがでてきたけど 後輪にきもち過重掛けながらきつめにブレーキング・・。ごごー って感じで減速・・。いいかんじですね・・。 さて・・百日紅の降り口(入り口)にきまして 前を確認して ゆっくりと下る・・。(↓画像:百日紅をグランド側から撮影) 車が何台か駐車してありました・・。今日は電話していないけどあいてるよねー・・。って思いながらバイクをとめて スタンドが(土に)にえこまない(ずぶずぶっ少し沈むと たおれるから)ように下に ちっこい石をおく・・。 ヘルメットを外してホルダーにかけて手袋をはずしてましたら・・。携帯がなりまして・・。えーこんなところでも入るの??と思いながら電話に出るも相手の友達の声はきこえるのに相手には きこえていないもよう・・。 すく前をみると・ジャングルジムがあるので 携帯をかかえて その上の方にかけあがる・・。電話やっと話がつうじるようになったぞね・・。(↓画像:TT-Rを百日紅側から撮影) 知人がもうじき高知にはいるとのこと・・。しばらくあっていないので・・。うーん仕方ない すぐおりますってことで せっかくきたけど また高知市内におりていくことに・・。出発前に携帯で 大慌てで近くの写真をパシャパシャととる・・。二階のお店にいったけど どうも キャンプ場にでもいってるのか いないみたい・・。仕方ないので また今度ね。またまた ヘルメットとかをかぶり きた道をくだる・・。下りはさらに軽快ですけど 対向車を想定しながら走行・・。(↓画像:後ろは吉原川で 川をはさんで向こう側にはキャンプ場とかありますよ) もっと ゆっくりしたかったけど。 バイク自体も快調で 下にながれる鏡川とか吉原川もよくみえてきれいでした・・。 バイクもはしっているといろんなことを忘れて からっぽになれるからいいなー・・。
2005.06.06
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こん○○は!!ちょうさんですじゃー・・。 みなの衆・・げんきで やりゆうかの??やりゆうぞねっ!!ちゅうて いわんといかんぞね・・。がははは・・・。(なにをやりゆうかは みなそれぞれじゃが・・) さても 話は 前回からのつづきじゃのお・・・。生きるということ 生かされるということ・・そにょ2・・。( その頃ぐらいから市内に仕事がすくなくて遠くの現場に泊まり込み(弟妹もつれて)で親父たちは仕事にいくようになりました・・。いわゆるかぎっこにわたしはなっていましたね・・。まだそのころそんな言葉はなかったですけどね。家に帰ってもだれもいない家で・・。さみしくて本屋でいろんな本を立ち読みしていました・・。これだとお金はいらないから・・。)・・さて ここからじゃのお・・。 小学校の高学年ではありましたが 一人でアパートにしばらくくらしていました・・。 ある日、学校にいきましたら 担任の先生から 突如の集金・・のお話・・。げっ・・生活費しか ないのに・・と 思いながら 変なプライドばかりあるので 後先考えずに もっている食費代からしはらってしまいました・・。しかし・・のこったのは ほとんど無く・・。からっぽ・・。約一週間お金なし・・。なにげに 以前も水だけで一週間くらしたこともあるから 大丈夫と・・覚悟しとりましたけど・・。以前はみんなで・・。今回は 一人だけで・・・。飯場にいける土日まで がまんしなければなりません・・。交通費は切符でもらってた?(このあたりはよく覚えていませんが 別においといたかもね)ので 別途お金はいらないので そちらは安心ですけどね。困っても電話はないし・・。やるしかないわけで・・・。 それから昼飯は学校の給食が ありまして なんとかなるのですが・・。朝飯と晩飯はなし・・ですじゃ・・・。一日目は なかなかきつくて 夜はおなかがぐーぐーなって・・なかなかねられませんでした・・・。 二日目になると からだが少しずつなれてきたのか あんまり感じなくなり・・・。木曜ぐらいになると もうそんなにしんどくなくなっていました・・。そういうときに限って 電話もかかってこないのでね・・。もちろん電話はないので そのころ得意の呼び出しになりますけどね・・。今では ほとんどの人が固定電話はなくても携帯(電話)をもっているので まーしんじられないような時代ですね・・。そして やっと 今で言う花金になり学校がおわってから バスにのり とおい親父たちのいる飯場(工事現場の宿舎みたいなやつですな)にむかいました・・。しかられるからだまっていたのですが お袋が わたしのやせているのに気がついて どうしたがーっと といつめられて・・。お袋にしかられたことしかられたこと・・。なんぼいうたち・・ごはんたべんと この子はちゅうて・・。あとで学校の担任にどなりこんでいきよりました・・・。今考えると 変な意地ばかり張ってて私自身がすなおでなかったですね。きちんと先生にはなせばよかったし・・。アパートのおばさんたちにでもはなしたら ご飯もつくってくれたのですけどね・・。小さいときから 変なところで 超いじっぱりなんです・・。飯場につきましたら こどもながらも 大人の中にまじって重い資材を高所ではこんだりしていました・・。ほんとは あかんのですけどね・・。 実際 親父の弟が私のみている前で クレーンの玉がけしてまして はねとばされて 一番上から 落下していくのが みえました・・。おじは 途中で足場にしがみついて ことなきをえましたけど ビルの屋上から 下まで・・おちたらっておもうとぞっとします・・。 さて、中学生になりましたら、小遣いも無いに等しい状態でしたので・・新聞配達をすることにしました・・。自分で自転車も購入し・・ほとんどのお金はお袋にわたしました・・。そのころには 親父たちは 市内で仕事していました・・。毎日毎日仕事がおわると浴びるほど酒をのみ・・毎日毎日 理由もなくわたしは ぶんなぐられました・・。成績がわるいほけでもなく 礼儀作法がわるいわけでもなく・・ぐれているわけでなく・・。ただ ただ 親父が きにいらないからですけど・・ね。なんどもアルコール依存症の・・病院につれていくのですが じきに でてきてました・・。かえってくると また よけいにひとがったですね・・暴力が・・・。 三年ぐらいになると これは このままいたら あかんやろうと思う気持ちになり家族にはわるいけど わたしは私で外に出てくらしていかねばと思うようになりました。同時に いまのようにくらしていればいつかは 親に手をだして なぐりころしてしまうことにもなりかねないので・・。だれかをまもるためであれば 親にてを出すこともしかたないとはおもっていますが・・。てを出すときは 最後とおもっとのましたので・・・。すでに体格的には 親父よりはおおきかったし 力もありましたので・・。 新聞配達しながら大学まで行く話もありましたけど 親父からはなれたいのが 一番でしたから・・・。仕事しながら給料をもらいながら学校にいければいいので 探してましたらいくつかありました・・。最後にポスターをみた香川の企業内学校がはなれていることもありよかったのでそちらにすることにしました・・。全寮制で いいなっと おもいました・・。しかし・・学校の担任の女先生は ちと根性のわるい先生で・・。いままで 私がこうしていきているのは いろんなすばらしい先生たちにいきていくためのいろんなことをおしえてもらったからにほかならないのですが・・。この先生は 他の先生とことなり 自分の立場のみをかんがえる先生で 私のこととか生徒のことはほとんど考えない先生でした・・。試験に落ちたら学校の体面に傷が付くからとか・・他に推薦したい生徒は別にいるとか・・・。成績と人間性をみて 私ほどのひとは 居ないはずなので 猛然と抗議しました・・。それまでの担任の先生や技術家庭の先生なども 担任は ほっといて応援してくれました・・。おかげで 担任の先生もしぶしぶ了承してくれましたけど・・。最後の最後の試験の時まで おちたらいかんからねっ私がこまるがやきと自分本位のことばかりで なさけなくなっていました・・。普通試験の時はプレッシャーかけないようにするのが当然なのにね。ろくに勉強はしていませんでしたが・・・。あれよあれというまに筆記試験(中身はたいしたことはないですが)と体力測定・・。これがまいった・・試験場に鉄棒が設置されて・・懸垂がありましたから・・・。死ぬきでがんばりましたけどね・・。面接・・二時面接もなんとかうかり・・。そのたびに 担任のわがまま先生は 今度はむりやね・・って そんなことばかり わたしにいうんですよ・・。そんな先生って どうなんですかね・・。大人になってから考えても 最低だとおもいます・・・。世の中 いいひとばかりではないなっておもったときでしたね・・。かなしいですけど・・ね。 (つづく)
2005.06.05
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こん○○は!!ちょうさんですじゃ・・。みなさんは 決断するとき どうしてきましたか・・・。最初に結論的なことを・・。 私でしたら決めるときは自分で全てきめて生きてきたので後悔も何もしていません・・。だから他人のせいにしないように大事な物事をきめるときは 必ず自分できめてきました・・。そうしたら・・逃げ道がないですよね・・・。あははは・・。結果は どうでるのかは わかりません・・が。 私は 人に誇れるもの・・・。貯蓄がある訳ではないし、美人の彼女がいるわけでもなし・・当然 もてないので・・、それは おいといて・・。人に これは まけんぞっていうものは いまは とりたてて ないのかもしれませんね・・。むかしは山ほどありましたげろ・・。 自分の中では 貧乏と暴力とのなかで そだち・・一時は食事もままならぬときもありましたけど そういったひどい環境でそだってきたのですが なぜか ぐれずに まっすぐそだってきました・・。 それは なぜなのか・・。異常に負けず嫌いだったのかもしれない・・。貧乏でも 服がつぎはぎだらけでも・・穴がほとんどの靴下でも 爪がみえる上履きでも・・いいじゃん・・。 大人になって りっばになったら それでいいんじやないのって おもっとりました・・。 毎日毎日・・今考えると・・よくいきとったと・・思うぐらい 酒浸りの親父の罵声と投げつけられるものの中で小さいときから そだってきました・・。そらとぶ ちゃぶ台・・。目の前をとんでいくお皿・・そのほか・・・。あまりに ひどい状態で田舎ではくらせず 意を決して 高知に家族ででてきたとき 私は一才でした・・。最初の家が 漫画みたいですけど・・屋根裏部屋で 三角の部分の所にすんでいました・・これは なぜかしっかり覚えています・・。さすがにすみにくかったのか 一年経つかたたないかで 引っ越ししました。その後にすんだ家は 結構長い間すんでいまして・・。ついこの間迄 家はかたむいていましたけど ありました・・。 その家で 寝たきりの爺さんと私が家の番をして・・わたしは ちっさな子供ができる範囲の爺さんのお世話です・・。親父は 大工仕事を探して 走り回っていました・・。それだけでは 生活ができないので・・おふくろもちかくの木工所に仕事にいってました・・。 まだ 車もみることもなく自転車も数少ない時代でした・・。家の前の道路には 牛・馬が闊歩していました・・。道路で遊んでもだれも怒る人もいませんでしたけど ただ 馬とかの糞は よけて 器用に遊んでいました・・。 貧乏でしたけど それなりに毎日たのしかったです・・。テレビがみたくなったら近くの文具店の子供のところにあそびによって みせてもらいよりました・・。丁度「中央公園」の大丸に近い方に 街頭テレビが もうすこしあとであったですね・・たしかに・・。水銀灯みたいに高い位置に テレビがありまして みんなで わいわいいいながら みていたものです・・。 毎日毎日・・酒の飲み方がひどくなると あばれて 困った親父でした・・。暴れ方がひどいと おふくろは 私を体でかばって(なげられた)ものにあたるので たまに血もつれになっているときもありました・・ね。おふくろは いつも自分はぼろぼろになりながら私をかばってくれていました・・。 あるとき・・昼間に セメントをうっただけの土間で まだちいさい私がセメントの栗石にあしをとられて転倒、おでこをぶつけて はげしく出血しました。頭の傷は結構ちがでますので・・。ねていた爺さんに ちがとまらないようと声をかけると ちりがみで強く押さえて止血しなさいとおしえてもらい・・。ちりがみとはいってももらってきた新聞紙をちり紙大にきって かさねただけですけどね・・。がさがさ・・音の出る ごわごわした新聞紙のちり紙?で一生懸命傷口におしあてるのですが なかなかとまらず ちだらけになって 血もつれの新聞紙がそこらあたりいっぱいになりました・・。おおきなこぶができて けっこうその盛り上がりがずっとのこって・・その後なぜか反対側も同様になり (パランスがとれたのか)きがついたらめだたなくなっていました・・。 せまくても一戸建て平屋の家から 今度は某小学校のちかくのアパートに引っ越し・・しました・・・。引っ越しして すぐ爺さんがなくなり 私は 一人になりました・・。年のはなれた弟がうまれ またまた年のはなれた妹も生まれ・・。子守りは私の仕事になりました・・。小学校がおわると背中に妹を背負い 弟の手をにぎって いつも学校のグランドであそんでいました・・。友達たちが遠くへあそびにいくというと (おふくろからのいいつけもあって)弟たちを遠く迄はつれてはいけないので なくなくがまんしていました・・。 (高知の中では)都会の真ん中でしたので 小学校の同級生は みんな こぎれいにしていました・・。同学年の中で 服とかきているもののぼろぼろなのは 私と私の友達の知恵おくれというのかこころやさしいけどすこしだけみんなについていきにくい彼のふたりだけでした・・。私も貧乏なのといじめられても まけないので クラスのみんなからいじめの対象になっていました・・。こころやさしいかれもいじめられていたようです・・。きがついたら 私がかべになっていましたけど・・。いじめられていた同士なのかからかわかりませんが彼もわたしも心がまっすぐなので 話があい よく彼の家にあそびにいってました・・。お父さんお母さんは ずいぶんと高齢のかただったように記憶しています・・。(後年・・仕事で何回か その家の後にいったことはありますが 彼とはあえていません・・。) あるとき学校で ほとんどクラスの全員に近い人たちが グランドで なにかの原因でわたしに 罵声と石を投げ始めましたけど わたしも自分は貧乏なだけでだれにも迷惑はかけていないし勉強ではクラスのトップだったし なにいうとんじゃーって けんかはつよくないのですけど負けん気だけはつよくて・・。みんなにむかって 小石をなげておいまわしていました・・。石は直接はあたらないようには なげていましたけど・・。 その頃ぐらいから市内に仕事がすくなくて遠くの現場に泊まり込み(弟妹もつれて)で親父たちは仕事にいくようになりました・・。いわゆるかぎっこにわたしはなっていましたね・・。まだそのころそんな言葉はなかったですけどね。家に帰ってもだれもいない家で・・。さみしくて本屋でいろんな本を立ち読みしていました・・。これだとお金はいらないから・・。 (つづく)
2005.06.04
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