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母は私の誕生の瞬間を覚えていないと言う。難産と体質に合わない陣痛促進剤によって生死の境にいたのだそうだ。

母が瀬戸際から戻ってきた頃、入れ替わりのように私が命の危機に陥った。母子血液型不適合による黄疸が重症化してしまったのだった。ほとんどふれあうことのないまま母だけ先に退院をした。
母はまったく母乳の出ない体質で私は100パーセント粉ミルクだった。親子のふれあいという意味で、母乳が出ていたらちょっとは違ったのかもしれないなと思う。
私はいつ退院できたの?という質問に母は答えられない。みんなが感心するくらい手のかからない赤ちゃんだったよと笑いながら話を逸らす。

1月の雪の日に私は生まれた。
アルバムの最初の写真は夏の光を浴びて芝生に寝転がっている写真だ。

誰よりも私を可愛がっていたのは犬のパールだったと聞いている。パールは私が一才になる前に家からいなくなった。駆け寄ってきて私の顔をのぞきこむ茶色い顔を覚えてる。偽物の記憶かもしれないが、だとしても、瞼の裏に浮かべば、きゅんとなる。

母は産後まもなく仕事に復帰した。夫婦でやっているバーだった。父は店に寝泊まりするような生活でほとんど家に帰らなかった。母が不在の時に私の世話をしてくれたのは母の弟で当時夜間大学生だった叔父と母の友人のKさんだ。Kさんは一時期うちに同居もしていた。 大きくなって行くにつれて頻度は減ったが二人には六歳までお世話になった。

一緒に過ごす時間の量に比例して両親よりも叔父とKさんに親しみを感じていた。
叔父に対しては恋人みたいな感覚をKさんに対しては友達みたいな感覚を抱いていたような覚えがある。一緒にいたくて駄々をこねたりするような強い気持ちは持っていなかった。

箸を使えるようにしてくれたのは叔父だ。読み書きや本の楽しさ、オセロやトランプなんかのゲームも叔父が教えてくれた。Kさんはお絵かきや空想遊びの面白さを教えてくれた。
母はこれらのことにものすごく縁遠い人だから二人がいなかったなら私は今とは大きく違った人間になっていたのかもしれない。

性格は絵の具の色みたいなものだと思う。生まれる時に持ってきたものに環境が混じって変化し続ける。私が生まれ持ってきたものは一体どんなふうだったんだろう。
人並み以上に明るく社交的だったという幼い頃の話を聞くと、そのままでいられたなら生きやすい自分だったんだろうなと落し物をしたような気分になってしまう。

はっきりした時期はわからないが、1、2才の頃から大体週末ごとに市内の父の実家に預けられていたらしい。少したつと普通列車で2時間ほどの距離にある母の田舎にも預けられるようになった。
年に何度か、一ヶ月くらいの間、母方の祖母の家を起点に親戚の家を転々として過ごす。

私が三才の頃に両親はバーに加えて喫茶店も始めている。同じ時期から父はタクシーの運転手業も始めた。一体どういう配分でやっていたのかは謎だ。母も細かなことは覚えていないらしい。
よそに預けられていない時の昼間は大体喫茶店で過ごしていた。ほとんどは邪魔にならないように店の隅や外で一人で遊んでいたが、時々は簡単な手伝いをしたり、お客さんと話したりもした。

母は当時の私を「おりこうさんだった」と言う。
「すごく頭がいい子でね、天才って言われていたんだよ」
「なんでもかんでも人より早くできるようになったんだよ」
「ものわかりが良くて、お行儀良くて、人見知りもしなくって、
 すごく育てやすい子だったから何も心配しないで人に預けることができた」
と同時にこうも言う。
「神経質で潔癖症。癇が強くって、よく一人で、わんわん泣いたり、足をバタバタして怒ったりしていた」
「体が弱くて、しょっちゅう熱を出して寝込んでいた」
「食が細い上に好き嫌いが激しかった。チョコしか食べないから医者に相談したら
 チョコを食べてれば死にはしないと言われたから放っておいた」
私は母を変な人だと思う。

父はもちろん母からも言葉でも態度でも愛情を示されたことがない。
両親以上に近しい存在に感じていた叔父やKさんからも示されたことがない。
祖父母たちからもない。つまり誰からもない。
だけど私は、幼少期の自分を思う時、あのままが続いていたら良かったのになあと夢見てしまう。あの頃の私につらいことや悲しいことは何もなかった。

誰からも愛情を示されたことがないことを意識したのはもっとずっと大きくなってからだった。家庭内でつらいことや悲しいことが増えて、なんでこんななんだろうと考えるようになってから気がついた。
もしも幼い頃の生活が続いていたなら、いずれ何かの際に気がついたとしてもたいして気にしなかったと思う。

おりこうさんで社交的、心配なく人に預けることができたはずの私は神経質で潔癖症で癇が強くもあったので、幼稚園にまともに通うことができなかった。登園拒否だ。
病気がちということもあって全体の三分の一ほどしか行ってない。場にも人にもなじめなかった。
友達どころか普通に会話する程度の相手すらいなくて、やけに私を嫌っていたYという子の嫌がらせに対して、やめてという時くらいしか声を出していなかったように思う。
お友達を作ろうねと先生に言われていたことを覚えている。輪の中に入れるよう手伝ってくれていたような気もする。
私が望んでいたのは放っておいてもらうことだった。Yも他の子たちも先生も私に構わないでほしかった。生まれてからずっと私のまわりにいたのは大人ばかりだったし、親も含めてみんな、私に対して淡泊で、必要以上に人に構われるということに慣れていなかったのだ。

もしかすると私は「放っておいても大丈夫な赤ちゃん」ではなくて「放っておかれると機嫌良くしている赤ちゃん」だったのかもしれない。
「放っておかれなければ機嫌悪くなる赤ちゃん」

だとすると母が私を可愛がらなかったのも構わなかったのも(他の人たちが私に淡泊だったのも)私が望んだことということになる。
よその子を預かる際の大人が口にする定番の言葉がある。
「お母さんがいなくて寂しくない?」
「早くお母さんに会いたいでしょ」
私はママがいなくても全然平気と笑っていた。本当に平気だったし偉いねと褒められるのが気分良かったりもした。

親子関係というのは親が子を育てるだけじゃなく子が親を育てるものだったりもする。甘えられて縋られて頼られて、この子にとって自分は絶対的で必要な存在なのだと実感することによって特別な愛しさや幸福感、親としての自覚や責任感が膨らんで行く。そういう意味では、私は子供失格だったと思う。親を育てることのできない子供だった。
だからといって自分を責める気にはならない。私がこんなふうに生まれてきたのは私のせいじゃない。それに母は私の親であることよりも父の妻であることを大事にしている人だった。

私を産んだ時、母は22才。三つ年上の父が、最初に愛した人、最初に付き合った人だった。今の時点から眺めてみれば、最初で最後、一生にたった一度の恋愛だったりもする。
私の目に映っていた二人はとても仲が良かった。夫婦というより恋人同士のようだったし、喧嘩もしなかった。母は本当に父のことが大好きだったと思う。
ところが父には困った問題があった。酒癖の悪さだ。おもに浮気なのだけど、その時の気分によっては暴力的になることもあったらしい。お酒さえ飲まなければ最高の夫。
とにかく母にとっての軸は父だった。これは私がどんなふうだったとしても変わらなかったと思う。

私が小学校に入学して間もない頃、父の浮気相手が、妊娠したから離婚してくれと言って来た。
同じ時期、小学校の家庭訪問があって、私のことで思いがけないことを言われた。簡単に言うと「自閉症なんじゃないか」ということだった。

当時は、自閉症を、親の育て方や愛情不足、両親の不和など、家庭に問題があることが原因の心の病気と思っている人が多かった。
字面からのイメージで「心を閉ざしている子」という意味でこの言葉を使う人も多かった。

私は隣の部屋で担任の先生が「現実と空想の区別がついていない」「幼稚」「友達や教師に心を開かないで一人でいたがる」「知能の面では優れているのに生活面では劣っている。普通はこの二つは比例しているものなのだ」といったことを自閉症と考えられることの根拠としてあげて母に「家庭に何か問題があるのでは」と尋ねているのを聞いていた。

今の常識からすると先生は自閉症をよくわかっていなかった。まさに「心を閉ざしている子」という意味で捉えていた。ただ、なんか変だ、なんかおかしいと感じた教師の勘自体は正しかったと思う。

もっともこれは何年も経ってから思うようになったことで、その時はただ、最初の二つに対して、怒りと反発とショックで私の頭の中が真っ赤だった。
仕方がないと思う。私は物ごころついた時からずっと天才だなんだとおだてられ、大人の気分でいた子供だったのだ。

だけど本当のショックは教師が帰ってからだった。
「おりこうさん」の娘を持っているつもりだった母は家庭訪問でも当然褒められるものだと思っていただけに猛烈な屈辱感だったのだろう。
私を大声で罵りながら何度も何度もぶった。
「あんたのせいで恥をかかされた」「あんたのせいで私が責められた」
嵐のように荒れ狂う母。見たことのない母だった。怖かった。私は泣きながら今後人からおかしな子だと思われないようにすることを約束させられた。

後から考えてみると幼稚園時代に既に問題が生じていたにもかかわらず、なんでそういう所のある子なのだということを全然わかっていなかったんだ?と不思議だ。やっぱり母は変な人だ。

一年生の夏休み、両親が離婚した。その少し前に母に「パパとママどっちが好き?」と訊かれた。ママと答えた。父に訊かれていたならパパと答えていたかもしれない。
ママと答えた私は母に引き取られることになった。
二人とも私と暮らすことに積極的ではなかったようだ。私が選んだ方が私を引き取ることになっていたのだと後になって知った。

私は急に母と二人きりになった。父がいなくなったのは勿論だが、両親が離婚したこの年、叔父とKさんもそれぞれ就職と結婚で遠くに行った。みんないなくなってしまったのだった。

母には看護師の資格があったので母子二人の新生活は病院の寮からスタートした。転校はしなかった。元の学校に電車で通うことになった。どうしてそうなったのかは母もよく覚えていない。もしかしたらこれも私が選んだことなのかもしれないが元の学校に特に愛着があった覚えはないので質問されて適当に答えた程度の選択だったと思う。

学校が終わるとまっすぐ帰って来て病院内の保育所に行った。本来は学齢前の子供対象の所に特別に入れてもらったので「あなたのことは他の子にするみたいな世話はしないよ」って感じになっていた。それは良かったのだけど、いじめの標的にされてしまった。
年下の子たちからいじめだなんて情けないと思われるかもしれないが多勢に無勢だし、中心になっていたのは一つ年下の子たちで早生まれで平均よりかなり小柄だった私よりずっと体も力も大きかった。

いじめのきっかけは親だった。もとはといえば職場で母がいじめっ子たちの母親に嫌われていたのだと思う。いじめっ子たちがぶつけてきたのは「私の母の悪口」「私の家庭の悪口」で、いかにも自分たちの親の受け売りといった感じの口ぶりだった。
はっきりと「ってうちのお母さんが言ってたよ」と言われることもあった。

母を傷つけたくなかった。母の耳に自分の悪口を入れたくなかった母はその母親たちと仲良くなれてるつもりでいたから尚更だった。できれば自分の所で堰き止めて何もなかったことにしたかった。だけど私にはそんな能力はない。いじめっ子たちの気持ちを変えることなんてできやしなかった。
悔しくて涙が出てしまうせいで「泣き虫」と更にからかわれることになった。

そもそもこの時期の私の悩みは泣き虫なことだった。幼稚園時代も泣き虫なことでさんざんからかわれていたし大人たちからも「すぐ泣くから悪い。泣き虫をなおせ」と注意されていた。
私だってなおしたい。というか誰より私が一番なおしたい。なおせないから困っているのに、なおせと叱られ、なおせないことにうんざりされて、さらには泣けば済むと思っているのだろうと決めつけられもして、ますますつらい。

母はやられっぱなしでめそめそしていることが許せない。幼稚園の時には普通に叱られていただけだったが、今や怒った母は荒れ狂う嵐の母だった。
それもあってますますいじめの事実を知られたくなかった。

それなのに託児所の先生がいじめのことを母に教えてしまう。迷惑だった。せめてもの救いは単に泣き虫だからいじめられていることになっていたことだったが、自分が望んだこととはいえ、そのために母の怒り方に私への引け目も遠慮もなかったのはたいへんだった。

結局のところ、いじめの本当の問題は「ひとり」ということなのだと思う。
泣き虫だろうが性格悪かろうが味方がいれば結構大丈夫だったりする。いじめられなければ泣くことにもならない。私は何をおいても味方作りをすべきだったのだ。ひとりでいるのが好きだったからわからなかった。
いじめは、その後、病院の権力者の娘(この子も一つ年下だった)が何故か私を気に入って託児所に出入りするようになったことで収まった。

二人暮らしが始まってから嵐のような母はレアじゃなくなった。怒ればそうなった。だからといって慣れて平気になるというものでもない。その後も長い間、私にとって「一番怖いもの」といえば幽霊でも殺人鬼でもなくて母だった。
とはいえ、この時期はまだ怒っていない時の方が多かったし、普通の時には冗談好きの面白い人だった。
これもまたそれまで知らなかった母の一面で単純に楽しかったし好きだった。
二人きりになった分、母と私の距離は以前よりか縮まった。それでも母は相変わらず子煩悩でも教育熱心でもなかったので私の子供にしてはかなり自由な私生活はそんなに変わらなかった。

母は友達みたいな親子になりたかったらしい。あの生活が続いていたなら、案外、いずれそう遠くもない未来には母の望みは叶っていたんじゃないかって気がする。
そうはならなかった。二人暮らしは半年ちょっとで終わった。母が再婚したのだ。少しも好きではない人と。
新しい父によって私は「ダメな子」のスタンプを押されることになる。そして母も「ダメな母親」の。

もともと母は私のことを変わってると思っていた。ただし良い意味で。母は私の普通じゃなさを好いていた。なんでもかんでもというわけではなかったけれど大体においては一般的には短所とされるようなことでも気楽に面白がっていたりした。
だけど母は「自分の子が人から劣っていると看做されること」「そのことで自分(母)が責められること」に耐えられない。家庭訪問の日や、いじめの件での怒りも、そういうことなのだ。

新しい父に褒められたことといえば、なんと顔だけだった。それも最初のうちだけだったし子供に対する見た目の褒め言葉なんて褒めたうちに入らない。つまり、ないに等しい。ダメな所の指摘ばかりだった。
すごかった。決して大げさではなく本当に何から何までケチつけてくる。重箱の隅をつつくようなとはああいうことなのだと思う。しかも時間のある限り説教し続ける。
的確な指摘もあった。わりとたくさん。

父の親戚の家に挨拶につれて行かれた日、態度が悪いということで外に引きずり出されて顔や体を平手で打たれた。
この日は私の人生の中でもっとも盛大に悲鳴が溢れ出た日だ。叩かれてよろよろする私の服をつかんでまた叩く。
怪我はしていないので、それなりに手加減していたのだろうけど「いい気になりやがって、ぶっとばすぞ、てめえ、ああ?」「なめてんじゃねえぞ、このガキ」といった、それまで言われた経験のない安っぽくて荒々しい口調が生理的に嫌だったし怖かった。
父を止めてくれたのは父の親戚たちだった。
その時、母がどうしていたのかは、まったく印象に残ってない。おそらく呆然と見ていたのだと思う。父はこの日までは暴力の匂いなんてどこからもしていない人だったから。

もっとも、この時が最悪だった。これ以降は、罰と言えば、長時間の正座、夜に外に出す、何日にも渡って完全無視、私が描いた絵などをぐちゃぐちゃにする、といった感じで、ぶつとしても一発二発でおしまいだった。
外に出すために荒々しく腕をつかんで引きずるとか脅し文句を言ったりということは普通にあったけれど最初の時と比べれば穏やかなものだった。

母は父の私に対する一連の言動を単純に継子いじめと捉えていた。私は当時も今も、
そうとばかりは言い切れないんだよなーと思っている。というか継子いじめという言い方にはどうも違和感を感じる。

父は私をよく連れ歩いた。デパート、スーパー、映画館、喫茶店、レストラン、銭湯。
再婚してから小四までずっと父と一緒にお風呂に入っていた。
男の人と一緒にお風呂に入ったことすらなかったのにいきなり男湯。本当は嫌だったけれど嫌だと言えなかった。
時々、母が加わると銭湯から家族風呂に行先が変わった。家族風呂は狭いから男湯よりもっと嫌だった。

自分の用事につき合わせることも多かったけれど(時には仕事にまで連れて行かれたのだ)遊園地や海水浴、スキー場なんかにも、よく行った。そこでは私だけ遊ばせて自分はただそれを見ている。水着になることもスキーをはくこともしないで本当にただ何時間も見ていた。

見ていたといえば、毎晩、寝顔を見にきた。自分の部屋で遊んでいる時、読書や勉強をしている時、はっと気がついたら背後に父が立っているということもよくあった。
自分の部屋をもらってからはドアの音があるので真後に立たれるまで気がつかないなんてことはなくなったけれどノックもしないで急にドアを開けるのは相変わらずで
やっぱり気が休まらなかった。

勉強のノート、日記張、ランドセルの中や机の引き出し。とにかくなんでもかんでも父の気分次第で勝手に見られた。いきなり「見せろ。出せ」と言われることもあったけれど大抵は知らない間に見られていて後からそれをネタに叱られる。つねに見られることを意識しているわけでこれまた気が休まらない。

薬品会社の営業だった父は自宅に薬の在庫を保管していた。試供薬や期限切れの薬もたくさんあって、何かっていうと、医者気取りの素人でしかない父が処方したそれらの薬を飲まされた。
子供用がないからと大人用を砕くのは当たり前。なんだかちょっと咳が出ているなんて時に、「風邪だな」ということで、総合感冒薬、咳止め、抗生物質、胃腸薬、痛み止めと何種類にもなったりする。
引っ掛かる点が満載過ぎてどこを突っ込めばいいのかわからないほどだ。今の私が当時の父に何か言うとしたら「バカ」の一言だろう。
私が不安から飲めずにいるとマシンガンのように怒鳴る。
「俺のことが信用できないのか」「こんなにおまえのことを考えてやってるのに
 それがわからないなんておまえには人の心がないのか」「もういい、わかった。おまえは俺のことが信用できないんだな。もうおまえのためになんか何もしてやらないぞ。一人で生きていけ」「ひどくなっても病院になんて連れてかないからな。おい、ママ、看病もするなよ、ほっとけよ。こいつは薬を飲まないんだからどうなったって自業自得だ」
で、最終的に「どうするんだ?飲むのか飲まないのか?」

怒鳴りつけられているうちに、わけわからない気分というか、やけくそな気分というか、頭の中がぐちゃぐちゃになって、結局、私は抗いきれないのだった。
今の私は、あんなもの飲まされていたせいで、のちのち自分の健康が損なわれてしまったんじゃないかと疑っている。

父の私に対する言動を継子いじめと認識していた母だったが庇ってくれたことは、私の覚えている限りでは全然なかった。
火に油を注ぐことになってしまうからだったらしい。そのとおりではあるけれど、それでもなあ・・・とは思う。

父と出会った小一、6才の頃の私は短くてギザギザしていた爪をしていた。いつも噛んでいたからだ。虫歯だらけだったりもした。前歯は全滅、みそっ歯だ。

偏食がひどかった。食べ方もひどいものだった。犬食いだ。食器をかじったりなめったりすることが駄目なことだと知らなかった。当時の私にとって食事の際にしてはならないことといえば、残すことだけだったし、それも許されていたので、たいして重く考えていなかった。

偏っていたのは食だけではなかった。全体的に偏っていた。
定番の服装はミニスカート。ワンピースも多かった。夏にはサンドレスをよく着た。
髪は長くて、つり目になるほどきっちり結ったり編んだりされていた。お出かけでもないのにこんな格好しているのは私だけだった。
こんなお嬢さんぽい格好で、口を開ければみそっ歯、食事をすれば下品。ギャップが異様だ。

きりがないのでこのへんでやめておくけれど、父の言うとおりだった。6才の私には変な所がいっぱいあったし母も親として変だった。
いっぱいすぎて重箱の隅まで変だった。他の人たちにどう思われていたのか考えるとげんなりして来る。
そう思いつつも父に対して感謝の気持ちはわいてこない。たぶん父がいなくてもなおっていただろう。

母は自分のことを変だなんて思っていなかった。私のことも変わってるとは思っていたけれど短所や欠点だとは考えていなかった。だから父の指摘全部を難癖つけられていると受け取っていた。
最初のうち、父に関することで私が母に言われていたのは「怒らせないようにして」だけだった。

父が言っていることは難癖だから、正しくないし、気をつけてたって言ってくる、だけどそれでも、少しでもイヤな思いをしないで済むように、言われたとおりにしておきなさいよ。おとなしくしててよ、逆らわないでよ。ということだ。

そうした流れの中で母は私に目を向けるようになった。改めて言うけれど私は叱られ慣れていなかった。
もちろん幼い頃から怒られたことがなかったわけではない。
だけど母が私を怒るのは、私が母に迷惑をかけた時だけだったのだ。家庭訪問の時も、いじめにあった時も、そうだった。
母に恥をかかせたから怒られた。その他にも、買い物先で迷子になったとか、忘れ物をしたとか、服を汚したとかなんかでも怒られた。
家の中に二人きりで怒られた時はとんでもない怒り方をされたりもしていた。
それでも一緒にいる時間が少ない分、迷惑をかけることもそんなにはなくて、
だから回数でいったらむしろ「あんまり怒られたことがない子」だったと思う。

ついでに言うと、私は小さい頃から「迷惑かけたら怒られる」と思っている子供で
人に迷惑をかけないようにしていたから母が父と再婚するまで母以外の人からは怒られたことが全然なかった。

もっとも他人はよその子に対しては気を使って怒らなかったりもするし私の母は普通の人より迷惑を感じるハードルが低いから母基準に気を付けていれば大丈夫だったということもあったと思う。

怒ると叱るは違う。怒るのは自分のためで叱るのは相手のためだ。当時の私は、怒られると叱られるの区別がついていない。どっちも「怒られる」だった。人を怒らせてしまうこと=怒られる、だ。
母は怒るけれど叱らなかったし親子関係に距離があった分怒ることも多くはなかった。
故に私は、幼い頃、怒られた(と感じる)経験が少なかった。家庭訪問の日は慣れてない所にいきなり爆発級のが来たからこそあんなにも衝撃的だったのだと思う。

再婚後、父も母もいつも怒っている、家にいたら四六時中怒られている、という気持ちで毎日を過ごすようになった。

母は私に目を向けるようになって、こまごまと注意するようになった。母の性格からいってダメな母親呼ばわりが悔しくてしっかりした母親になろうとしたんじゃないかと思う。怒るに加えて叱るようにもなったというわけだ。
だけど、お互いにとって残念なことに、当時の私は全部ただ怒られてると受け止めた。

今までは何も言われなかったことなのになあ?という思いがあるだけに私はほとんど反省しなかった。父に対してと同じく、怒らせちゃった、怒らせないようにしなくちゃ、と思うだけだった。
「なんだ、怒るようなことじゃなかったね」と思ってもらおうとして躊躇せずに言い訳したり隠したり嘘をついたりした。どうしようもない時は逃げたりもした。
自分から告白したり謝ったりすることは全然なかった。

怒られてる時も叱られてる時も(区別ついていなかったのだが)私の根っこには、なんで?という疑問があって、それが顔や態度に出る。
母には「どうしてそういうことをするの?」「どうしたいの?」「どういうつもりなの?」「何考えてるの?」みたいに質問調で喋る癖がある。
最初は怒られないような返事をするけれど何回も何回も聞かれるから続かない。

なんでダメなのかわからない。なんでそんなに怒るのかわからない。普通にしろって言われても普通がわからない。常識って言われてもなんで常識に従わないといけないのかわからない。
だって、ついこの間までそんなことを言われたことがなかったのだ。
私は普通でも常識的でもない家で育ったのだ。

こうした私の態度に母は、苛立ち、腹を立て、そうして嫌いになって行ったのだと思う。

小学校の高学年の頃から、母は、父がいない時に決まって長い説教をするようになった。
いつも同じパターンだった。最初は父の悪口、ついで私が父を怒らせてしまうことについて、そのあと、小言を聞いている私の態度に腹を立てて手が出る。体罰だ。
ここから嵐だ。嵐が落ち着くと静かに、私だってあんたのことを可愛いと思いたいのにあんたがそう思わせてくれないと語り出す。
あんたのこういう所が駄目なんだという話を自分の身の上話や実の父の悪口に絡めてじっくり丁寧に。
最終的には、あんたみたいな子は誰からも好かれない、実の親ですら可愛いと思えないぐらいだもの、血の繋がらないあの人(父のこと)が嫌うのも当然だよね、という結論。
で「もういいわ」と追いやられる。大体いつも2時間ぐらいだった。

「もう我慢できない。言うこと聞けないならこの家から出てって。孤児院でもどこでも行けばいいんだよ。それがいやなら本当の父親の所で養ってもらえばいいんじゃない。あの人はあんたのことなんかどうでもいいからイヤがるだろうけど養うのは親としての義務なんだから。子はかすがいって言うのにね、あんたがそんなんじゃなかったら離婚になんてならなかったんだろうね。あんたのせいで私の人生ぼろぼろだよ。あんたがいなければこんな人と再婚することもなかったし、あんたがそんなんじゃなければこの結婚はもっとうまくいってた。おばあちゃんだってあんたの悪口言ってたよ。普通孫って目の中にいれても痛くないものなんじゃないの?そんな相手にまで嫌われるってことはあんたが本当に誰からも好かれないような子だってことだよ。わかってるの?私だってあんたのことを普通の母親みたいに可愛いと思いたいよ。血の繋がった親子なんだから怒鳴ったり叩いたりなんてしたくない。それなのにあんたがそうさせてくれない。私だってこんな自分はいやだ。あんたが悪いんだよ。あんたのせいで私はいやな自分になってしまう。なんでわからないの?」 

「あんたは誰からも好かれないような子」は母の常套句だった。この言葉には言い訳も入っていたと思う。私を愛せないことや行き過ぎの体罰をしてしまうことに対しての。その言い訳に私は洗脳されていた。

余談だけど子供を愛するのが人として普通のことだという考え方は親に愛されない子たちを不当に苦しめていると思う。
自分の子を愛せない人もいる。理由なんてないし異常なことでもない。

母の体罰は、げんこつで頭をぶつことから始まる。手が痛くなると竹の物差し。途中、よけると、髪の毛をつかんだり、腕をつかんで引きよせたりぶっ飛ばしたりする。
叩くのは頭。私がよけることで頭以外の所にあたることもあったけれど狙うのは頭だ。
母には機嫌のいい悪いに関係なく二人きりの時に口癖のように持ちだす話題があった。
「あんたって本当に父親にそっくり」
顔、ふとした仕草や笑い方、話し方や言葉。
「あんたを見てるとあの人を思い出してしまう」
私自身はそこまで言うほどには似ていないと思う。

「あんたの顔を見てたら腹が立った。一番思い出したくない人にそっくりなんだもの」と言われた時、だから頭なのかと思った。頭は顔に近い。
今はやっぱり単純に頭を叩きたかったのかもなと思う。

もう一つ母が口癖のように持ち出す話題があった。
「小さい頃のあんたはすごく賢くてみんなから天才だとか神童だとか言われていたんだよ」
どういう意図でこの話をしていたのかといえば責めるためだった。
「頭がいいのになんでこんなことができないの?反抗してわざとやってないんじゃないの?」「かつては天才とか言われていたのに 今そんなんで情けなくないの?」「私は頭悪いから頭のいい人の言うことはさっぱりわからないわ」「自分が頭いいと思って私の言うことなんてバカにしてるんでしょ」「あんたを見てると天才となんとかは紙一重なんだなってつくづく思うよ」
「頭なんか多少悪くても普通のことができる人間の方がずっといいわ」

再婚してからの母は自分のことをバカだというようになった。卑下ではなくて「バカで悪うございましたね」的なニュアンスだ。
バカと言ったのは父だ。日常的に言われていたのかどうかはわからない。母はほんの数回言われたことでも一生怒り続ける人だから。
ただ私にも父が母をあがめていないということは見えていた。

母は女王様器質なのだ。ちやほやされて当たり前、特別扱いされて当たり前。普通だとか、他の人と同じような扱われ方だとかじゃダメなのだ。
母からすれば、再婚は「あまりにも熱心に請われたから仕方なく結婚してやった」という意識で最初のうちはあからさまに父のルックスを小馬鹿にしていた。
何故そんなことを覚えているのかといえば、その時私も笑っていたからで、再婚後ほどなくして私たちのそうした態度に突然父がキレて、それ以降、結婚前の朗らかさが消えたということが強く印象に残っているからだ。

父は母にプロポーズする前に、というより付き合ってもいない時に私に「お父さんになりたいんだ」と言った。
父は母が勤めていた病院に出入りする業者で、私は「保育所によく来る人。明るい人気者」として顔を覚えていた。私は輪の中に入っていなかったので接点はなく視界に入っていただけだ。あまり良い印象はなかった。一度として笑いかけられたことも声をかけられたこともなかったから自分だけ透明人間みたいな扱いをされていると感じていたのだ。
ひとけのない所で一人で遊んでいた時だった。初めて話しかけてきたと思ったら
「クリスマスプレゼントを買ってあげるからデパートに行こう」と車に誘われた。

車の中で顔立ちを褒められた。
あの頃、私にとって、美人といえば母、母といえば美人だった。
誰もが母を美人と言ったし、母を特別扱いする空気ができあがっていたから、
自分の中で既成事実として刻まれていたのだと思う。

お母さんは美人なのに娘は残念な感じだねと言われていたわけじゃないし大抵の子供がそうであるように私も自分で自分を可愛いと思っていたから、そこに複雑な想いはなかった。
だから父に褒められた時、すごく嬉しいってほどではなかった。当時人気のあった芸能人に似ていると言われたのがちょっとがっかりだったりもした。
私はその人の顔が好きではなかったから。それでも褒められるということ自体、普通には嬉しいことだったし母について何も言わずに私のことだけ話題にしているということが新鮮でもあって良い気分だった。
透明人間から格上げされたことでの爽快感もあったかもしれない。そうして別れ際に、父親になりたいと言われたのだった。

家に帰って母に話すと、びっくりするほど不快な顔をされた。
「私を手にいれたいからって子供を手なずけようとするなんて姑息な手段だ」
あの人に父親になってほしいかほしくないかといえば、ほしくないの方が断然上回っていたにもかかわらず、がっかりした気分になった。
なんだ、そういうことだったのか。
だけど、なんとなく、それだけでもないような気がした。

母は「この人は自分にベタ惚れ」という認識で再婚をした。母の予想はこんな感じだった。

自分は大事にされるだろう。娘は邪魔がられるだろうけど私に気を使ってあからさまにいじめたりはしないだろう。なにせ私にベタ惚れなんだから。

再婚にあたって母から注意されたのは「本当の親子じゃないってことをわきまえておきなさいよ」ということだった。

ちなみに再婚にあたって父が母に約束したのは「自分の子供は作らない」だったらしい。
私のためとのことだった。父は約束を守った。完全に完璧に。

子連れの人の多くが再婚相手に「子供の親になってくれる人」ということを求めている。子供と良好な関係を築ける人じゃなくちゃね、ということで、まあ当たり前といえば当たり前だろう。
しかし私の母は違った。そんなことは、はなから期待していない人だったのだ。

母は団塊の世代だ。同世代の村上春樹なんかとは大違いでまだまだ貧しく荒々しい空気漂う炭鉱の町で育った。
父親が病気がちだったために母親が朝から晩まで働いていて
小さな頃から家事全般と弟の世話をしなくてはならなかった母は、よその子みたいに自由に遊べなかったことが悲しかったそうだ。
だけど、母親から感謝され弟から慕われて、
父親からは目の中にいれても痛くないほどってくらいに可愛がられていたから、家族のために頑張ること自体はちっともイヤじゃなかったらしい。
中学3年の時に両親から高校には行かせられないと言われた時も母は、家にお金がないんだなと思い、我慢しなくちゃと泣く泣く受け入れた。
ところが教師が諦めなくて
「せっかく成績が良いんだから絶対に進学すべきだ。経済的事情があっても進学する方法はある。とにかく自分が直接、御両親と話してみよう」と家までやってきた。
父親は聞く耳持たず「進学させるつもりはない」の一点張りで、どうしてなんですかと迫る教師に、こう言った。
「自分の実の子じゃないから」
この瞬間まで母は父親と血の繋がりがないことを知らなかった。
まさに青天の霹靂で、今でも嘘みたいな気がすると、いまだに母は言っている。自分は本当に父親に可愛がられていたから、と。
これが母のトラウマだ。
そして「しょせん他人は他人」という考え方になった。
「血の繋がらない子に対して本物の愛情を注げる人なんかいないんだよ。いくら可愛がってるふうに見えたってそんなのは偽物」

私はそうは思わない。そんなのは人による。大体本物の愛情ってなんなのだ。

それとは別に、私は母の話を聞いていて、どうも釈然としない。
おそらく、話していない部分があるか、母本人が誤解か勘違いをしているか、
母の出来事に対する解釈が微妙に歪んでいるか、あるいは母の知らない事情が隠れているかのどれかなのだろうけど、とにかく、母はこういう考え方を持っている。
だから、私と父が親子になれるなんて、はなから思っていなかった。むしろ親子になられたら面白くない。

再婚にあたっての母の予想は外れた。
夫になった人はやけに子育てに熱心で妻の自分をちっとも大事にしない。きれいにしていても、料理を作っても、何ひとつ褒めてくれないどころか文句ばかり言っている。
母親失格だのバカだの、しまいに下品とまで言われる。反論すればもっとひどいことを怒鳴り散らされる。

私の母は自己愛の塊のような人だ。女王様器質だ。美人というだけでなくいろいろな面で人より優れていると思っているし、そうでありたいがための努力の結果という面もある。
チヤホヤされるのが当たり前という感覚だし、実際チヤホヤされて生きてきた。
それが普通以下の扱いだ。いや普通以下よりもっと酷い。こんな扱いはされたことがなかった。しかも愛の言葉が一言もない。
釣った魚に餌はやらないとはよく言うけれど最初からない。
プロポーズはされた。だけど好きだとも愛してるとも言われていない。
照れ屋なだけなのかもしれない。
でも、指一本ふれてこないというのはどうなんだろう。

母は早い段階でベタ惚れどころか愛されていないのではないかと思うようになっていたらしい。
私は何も知らなかった。長い間、再婚から20年近く過ぎて母が口を開くまで。

それから更に10年近くたった頃に父の子供時代のことを知った。
それで、前々からうっすらと抱いていた、「もしかしたら父は母と結婚したかったというより私を含めての家族が欲しかったのかもしれないな」という考えの信憑性が増した気がした。

父の子供時代の話といっても父本人から聞いたわけではない。
母から教えてもらった。母も父の親戚から聞いた。
父は自ら過去の話をしたことがないらしい。母は聞いてわりとすぐに私に教えてくれた。つまり母も父の過去をほとんど知らなかったというわけだ。
「え、一度も話題に出たことなかったの?」と驚いた私に「本人が言いたがらないんだもの」と苦笑いしていた。

父も団塊の世代だ。母と同い年なのだ。母とは別の炭鉱の町で育った。近い場所だし時代も一緒なので町の雰囲気はよく似た感じだったんじゃないかと思う。
父は自分の父親を知らない。父の母親は結婚せずに愛人として子供を産んだ。父の他にもう一人、妹もいるので、結婚していなくても仲は良かったのだろう。
母親は父を、生まれてすぐに親戚に預けた。妹が生まれてからも「一人育てるのが精いっぱい」と迎えに来なかった。
だから父は社会人になって母親と妹の住む町に出るまで二人の顔を知らなかったらしい。それも自分から探して会いに行ったのであって母親側からのコンタクトはなかった。
親戚の家は、一家の長が酒乱気味で横暴なタイプだったので、小さい頃は理不尽に怒鳴られたり殴られたりすることもあったらしいが、ちょっと大きくなってからは上手に立ちまわっていたようだ。
話してくれたのは、母親代わりだった人。横暴オヤジの奥さんである彼女は父のことが許せないそうだ。
横暴オヤジに絶対服従となった父は彼女が横暴オヤジにひどいことを言われていても知らん顔で、こっそり泣いていた時には「おばさんが悪い」と言ったそうだ。
そのうえ偉そうに彼女をこきつかうようにまでなったらしい。
彼女としては子どもの頃はともかく大人になってからも謝られていないから許せない。
それはそうだろう。
「かわいそうだとは思うんだよ。親に捨てられたようなものだし学校ではそのことでいじめられてたみたい。うちの人のもとで暮らすのもたいへんだっただろうしね。なんだかんだストレスたまってたんだろうね。高校生の頃にね、よくトイレの中でぶつぶつ独り言を言ってたよ」

実の親に捨てられた父にとっては血が繋がっていることによる愛情というのはむしろ否定したいものだったんじゃないだろうか。
「家族」というものに対する憧れがあったんじゃないだろうか。そして私にかつての自分をかぶせたのではないだろうか。
その目線で見ると、母は「子供のことそっちのけで自分のことばっかりの人。母親失格」に見えただろう。

母は父の過去を知っても私が考えたようなことは言わなかった。「だから性格歪んだんだろうね」と言っただけだ。私も自分の考えを口に出さなかった。

これが「正解」なら良いなと思う。

大人になってから見えてきた。母は嫉妬心が強い。
なんでこんなことを言うのだろう?なんでこんなことで不機嫌になるのだろう?と不思議に思っていたことの多くがそれで腑に落ちた。
嫉妬心の根っこにあるものは「自分が一番じゃなくちゃいやだ」という思いだ。

人はみんな「自分が一番じゃなくちゃいやだ」という思いを抱えていてコントロールしながら生きているものだと思う。
ストレスの多い生活の中ではコントロールできなくなってしまう。コントロールできないままが続くと、どんどん肥大して行ったりする。
母はそうなってしまった人なのだと思う。もともと自己愛が特に強いタイプなだけにいっそう手に負えなかったのだろう。私は母が自分に嫉妬するわけがないと思っていた。検討すらしないくらいに。
娘だし、大体私は母が嫉妬するに値しない人間だからだ。だけど感情っていうのはそういうものじゃないのだ。理屈じゃない。

父母が再婚して以来、家にいる時はもちろん、外にいても、家族のことを思い出すと暗い気分になった。
父のこと。母のこと。父と母のこと。自分の生活を侵食する影。
常に一番の悩みだったとまでは言わないけれど、思うたび自動的に、なんとかならないものかと考えてしまう問題で、今の時点でもまだ重たい塊として心の中にあったりする。
いろんなものをくっつけまくって、なんだかわからないものになってしまった化け物のような塊だ。

中学に入ったばかりの頃のことだ。ふと何の脈絡もなく母が言った。
「あの人(父のこと)ね、あんたのせいで女の子に幻滅したってさ」
「幻滅?」
「女の子ってものへの憧れが強かったんだって」
黙っていたら
「もっときれいなものだとでも思ってたんじゃないの」
呟くみたいに言った。

父が所有していた少女を欲望の対象にした雑誌のことを母は知っていたはずだ。
私が知っているということもわかっていたと思う。雑誌は隠されていなかった。

裏通りの本屋のことは知っていただろうか。
小学校の高学年の頃、本屋に行くぞと父に言われて、何か買ってくれるのかなと期待してついて行ったら、私が読んでいい本なんてひとつもなさそうな大人の男の人の本屋だった。
父はなじみの客だったのだろう。店主と親しげに会話をかわしていた。
「娘さん?」と話しかけられて私も挨拶した。シュールだ。

雑誌にしろ本屋にしろ私は母に言わなかった。隠しておきたかったわけじゃない。
気まずい話題だから、自分から言おうって気にはならなかった。

もしかしたら母も私と同じ感じでいたんじゃないだろうか。
気まずくて言えない・・・。

母と私は立ち位置が違う。責任の重さも精神的負担の大きさも違う。妻で母親で大人である母と、子供でしかない私。

当時の私にとって父は「嫌いな人」ただそれだけだった。
一度好きになってから嫌いになったわけじゃない。
もともとどっちかといえば嫌いで、好きでも嫌いでもなくなったと思ったらすぐさま前よりも嫌いになって更にもっともっと嫌いになった。
見た目も中身も声も何もかも嫌いなのだ。
変な雑誌を読んでようがいまいがどっちにしろ嫌い。
そして私はその雑誌のようなことをされてはいなかった。
されていないから気持ち的に他人ごとだった。子供だし。

母は雑誌と私を結びつけて考えたと思う。大人だったら自然と連想することだし「父が自分に指一本ふれない」という状況にいたならなおさらだ。

母は私が何もされていないということを知らなかった。母からは訊きにくいだろう。
それらしき場面を目撃したわけじゃなくて状況から推察した疑念でしかないわけだし
間違っていたらたいへんだ。
訊くなら抽象的に「あんた大丈夫なの?」あたりだろうか。
そういえばこの言葉はわりとよく言われていた気がする。

知らない分だけ悪い想像が浮かんだだろうし知らないのだから簡単に振り払うことができなかっただろう。
疑心暗鬼状態。
もともと母娘の絆が細かっただけになおさらそうなりやすかったということもあると思う。しかも専業主婦(父の命令)で友達もいない。狭い世界で話相手と言ったら自分自身と私しかいない毎日を送っていたのだ。

当時、母はよく
「(あんたたちのせいで)頭がおかしくなりそうだ」と言っていて
私としては長年、オーバーに言ってるのだろうと受け取っていたのだが本当にそういう精神状態だったらしい。
後に本当にそうだったと聞いた時は、なんでそうなっちゃうかなと思った。
私が見たところ、母の生活は、おかしくなっても無理がないほどひどいものではなかったのだ。
考え方次第、工夫次第でどうにかできるレベル。
自分にしわ寄せが来ていただけに、同情よりも、なんとかしてほしかったよという気持ちの方が大きかったし、なんでだよって気もした。

だけど、もし母が、これまで口に出していたこと、私の目に映っていたことに加えて
「夫は性的な趣味嗜好が特殊。娘に対してもしや」というような疑いも抱えていたのだとしたら変になるのもわかる。
なんとかするったってなあ・・・と思う。
ただ、もし私が当時の母だったら離婚するから、離婚しなかったということに、なんでだよと思う。

丁寧に過去を思い起こしてみると父には疑われても仕方ないような所がいっぱいある。
というよりわざと疑うように仕向けてたんじゃないのかとさえ思える。

このことと結びつけて考えたことはなかったが私が父のすることで特に嫌いだったことが「罠をしかける」だった。
日常茶飯事といっていいほどの頻度だ。弱みや欲を、うまいことついてくる。
「おまえを試したんだよ」
「ほら、やっぱり、おまえってやつは」
つねに落とし穴を用意をしているような感じなのだ。
ドラマじゃあるまいしそんな人が本当にいるのか?と思われるかもしれないが本当にいるのだ。
こういう人なのだから、わざと疑うように仕向けていた可能性は充分にある。
もちろん憶測だ。本当のことはわからない。

何にせよ、大人になった私は思う。
子連れの人と結婚して、堂々とその子と近い年頃の女の子を対象にしたロリコン雑誌を読んでいる、というのも、全部偽装で母と私を疑心暗鬼に陥れるための罠だった、というのも、どっちにしたって、おかしい。



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