コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第六話 牙城クスコ(2)

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【 第六話 牙城クスコ(2) 】

一方、インカ軍の中枢部でそのようなことが起こっているなど、露ほども知る由のない一介の義勇兵であるコイユールは、その晩もインカ軍本営の一隅に設けられた負傷兵たちの寝所で過ごしていた。

日ごとに増加する負傷兵たちの看病と、そして、痛みを訴える兵たちに、その特有の自然療法を施して苦痛の緩和を図るために、最近では、夜間に自分の寝所に戻る時間もままならぬほどになっていた。

「楽になったようだ。」と、少し元気を取り戻した笑顔を見せる負傷兵の傷口に添えていた自分の手をそっと離し、コイユールも静かに微笑む。

「痛みが強くなったら、またいつでもお声をおかけください。」

そして、兵にきちんと礼を払い、音を立てぬようにその場を離れた。

テントの隙間から見上げる群青色の夜空に描き出される夏の星座は、既に深夜の位置である。

コイユールは、累々と横たわる負傷兵たちの姿を見渡した。

皆、一応の眠りにつくことができたようで、痛みを訴えている者も今は見られない。

ほっと小さく安堵の溜息をつき、少しだけ仮眠をとるために、同じく負傷兵たちの看護に当たっている女性たちの眠るささやかな臨時の寝所に向かう。

真夜中の初夏の涼風が、彼女の疲れた体をいたわるように優しく吹き抜ける。

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その時、ふと草陰の方から人の気配を感じ、コイユールは、はたと周囲を見渡した。

少し前方で、黒い大木の陰に溶け込むようにして、立ち竦んでいる者の姿が見える。

コイユールは目をこらした。

「マルセラ?!」

驚いているコイユールの方に、マルセラは「来ちゃった!」と、はにかみながら片手を上げて応じる。

その表情に、コイユールは、マルセラが隠そうとしている不安気な色を瞬時に読み取ってしまう。

「何かあったのね。」と、真剣な顔で近づいてくるコイユールに、マルセラは微妙に頷き、「夜が明けたら、クスコに行くことになったんだ。トゥパク・アマル様の使者として。」

「え?!」と驚愕して目を見張るコイユールの瞳の中で、「何となく、あんたの顔を見たくなったから…。」と、マルセラは笑顔をつくりながらも、物言いたげにじっとコイユールの方を見る。

マルセラの瞳には強い覚悟の色が確かに見えたが、そのもっと奥の方では、本人の意思を超えて、まるで救いを求めているかのような悲壮さがあるのをコイユールは見逃さない。

そのマルセラの瞳の奥で揺れるものを、コイユールは食い入るように覗き込んだ。

マルセラが押し込めようとしている渦巻くような不安と恐怖の念が、コイユールの中に激しく流れこむ。

二人は震える眼差しで、暫し、ただひたすらその目を見つめ合った。

「駄目だね。

やっぱり、あんたの顔を見てしまうと、あんなに張り詰めていた気持ちが緩んでしまう…。

ここに来ちゃいけなかった…。」

擦れ声で小さく呟くマルセラを、コイユールはかける言葉もなく、ただ、しっかりとその腕で抱きしめた。

コイユールの腕の中で、平素は男勝りを装うマルセラの細い肩が、明らかに震えている。

極度の心配とせつなさで、コイユールは言葉も出ず、ただもう夢中でその細い肩を抱きしめていた。

マルセラ、マルセラ!!…――と、あまりにも大切な友の名が、コイユールの頭の中で駆け巡る。

いつの間にかその瞳から涙をこぼしているコイユールの腕からそっと離れ、マルセラが、ありがとう、と、そのまだ揺れる瞳で頷く。

それから、「そんなに心配しなくて、大丈夫よ。私はトゥパク・アマル様の書状をお渡しするだけだし、それに、こんなお役目を果たせることを誇りに思っているんだから。」と、コイユールを安心させるかのように、そして、自分の心をも確かめるように言う。

コイユールも、涙を落としながらも、深く頷き返した。

「私…本当に、いつも何もできないけれど…でも、祈ってる。

夜が明けたら、明日はマルセラのためだけに、ずっと祈ってるから!」

必死な面持ちで言うコイユールに、「ありがとう!あんたのは、本当に効くものね。」と、マルセラはいつもの闊達な笑顔を取り戻し、応じた。

それから、少し間を置き、まじめな顔になって、真っ直ぐにコイユールの顔を覗き込む。

「あのさ…コイユール。

以前、私が、アンドレス様を冷たいお人だと言ったこと、あれは撤回するよ。」

そう言うと、マルセラは頬を少し赤らめて、コホンと軽く咳払いをした。

え?…――と、ふいにアンドレスの名が出て、コイユールはまだ涙の滲むその目を瞬かせる。

それから、インカ軍に加わったコイユールに全く声もかけてこないアンドレスのことを、「冷たい」と以前マルセラが言ったことを、思い出した。

マルセラが、何故、前言撤回をしたのかはコイユールには分からなかったけれど、きっとアンドレスとマルセラの間で、彼女の心を溶かす何かがあったのだろうと推察できた。

コイユールは、優しい眼差しで頷いた。

舞い降りる羽 朱

彼女の脳裏にアンドレスの面影がよぎり、再びせつない感情が動く。

「アンドレス」――その名が出るだけで、せつなげに瞳を揺らすコイユールの姿に幾度か触れる中で、今や、マルセラも、コイユールの中にあるアンドレスへの特別な感情を十分に悟っていた。

そんなコイユールの気持ちを察するように、マルセラは心を込めた声で続けた。

「もうずっと前だけど…、コイユール、あんたが義勇兵に加わったことを伝えた時、アンドレス様は本当に嬉しそうにしていたんだよ。」

コイユールの目が見開かれる様子に、マルセラは微笑み、しっかりと頷いた。

「だから信じていいと思う。

アンドレス様は、あんたのこと、きっと今も大事に思っているに違いないよ。」

「マルセラ…。」と、胸が詰まって言葉を続けられずにいるコイユールに、

「よおし!何だか、元気出てきたよ!じゃ、朝になったら、しっかり祈っといてね!!」と、そのしなやかな右手を上げると、マルセラは笑顔で踵を返し、トゥパク・アマルの側近たちの天幕の方に戻っていった。

後に残されたコイユールはその場に立ち尽くしたまま、マルセラを深く案じる思いと、アンドレスへの溢れるせつない思いとに憑かれ、そしてまた、一方で、その二人の活躍に胸を熱くもしていた。

そして、心のどこかで、自分の無力さを、ひどくもどかしくも感じていた。

死と背中合わせのギリギリのところで行動し続ける、これほどに大切な者たちのために、一体、自分は何ができているのだろか…――。

何も…、何ひとつ、できてなどいないのだ、と、コイユールの心に乾いた隙間風が吹き抜ける。

悲痛な表情で見上げると、既に夜明けも近いのか、群青色の空が僅かに白みはじめていた。

彼女は小さく溜息をつき、寝所に行くのをやめて、再び負傷兵の待つ治療場へと戻っていった。



夜明け(使者)

かくして、夜明けと共に、トゥパク・アマル及び側近たちに見守られる中、トゥパク・アマルの書状を携えたマルセラと、そして、護衛のロレンソ及び彼の精鋭の兵たちは、クスコ市の城門目指して馬を駆った。

愛馬に跨り、朝陽に照らし出されながら、風を切って傍らを駆け行く凛々しいマルセラの横顔を、ロレンソは無言でうかがった。

マルセラは、金糸で太陽の紋章が施された濃い紺色の輝くようなビロードの服を身に纏い、肩からゆるやかに巻きつけた緋色の短マントを風に翻し、その短く切った艶やかな黒髪には銀色に染め上げた絹のバンダナを巻いていた。

それは、インカ皇帝にも等しきトゥパク・アマルの使者として不足の無きよう、且つ、この国最高の司祭であるモスコーソに決して礼を失することの無きよう、トゥパク・アマルが自ら厳選したインカ皇族の特別な正装であった。

昇りゆく太陽を背景に、今や完全に決意を固めた眼差しで前方を、きっ、と見つめ、高貴な身なりに身を包んだマルセラは、その中性的な透明感溢れる美しさがいっそう際立ち、輝くような光を放って見える。

強い緊張感が、その凛々しい横顔をいっそう鋭利にさせ、初々しくも気高い美しさをさらに高めてもいた。

まさしくインカ皇帝の使者として、これ以上の者はないのではないかと思わせるほどに、さまになっていたのだった。

しかも、幼き頃から男勝りで運動神経もずば抜けていたマルセラは、やはり人並み外れて武勇に秀でたロレンソを凌ぐほどに軽やかに馬を乗りこなし、その上、その疾走速度も驚くほどに速かった。

特等の高貴な身なりで、陽光を受けながら、疾風のごとくに駆けゆくマルセラの勇姿は、ロレンソの目の中で、一瞬、真に太陽の中からでも舞い降りてきた勇ましき天使のごとくに見える。

ふと、そんなロレンソの視線に気付き、相変わらず馬を疾走させながら、マルセラが訝しそうな目を向けた。

「何か?」

不意にマルセラと視線が合い、「いや…。」と、やはり馬を駆りながら、ロレンソが口ごもる。

一方、マルセラも、内心複雑な心境でロレンソの護衛を受けていた。

再び、前方を見据えながらも、マルセラは微かに頬を染める。

そもそも、殆ど自分を男性と思ってきたようなマルセラは、他者を護衛することはあろうとも、己が護衛される――守られる――ことなど、全く、不慣れなことだった。

微妙な沈黙が二人の間に流れ、しかしながら、それは互いにとって、何か説明し難い、これまで未体験の不思議な瞬間、二人は否定するかもしれないが――甘美な瞬間――でもあったのだ。

しかし、そんな瞬間もたちまち終焉し、まるで二人の行く手を阻むかのように、眼前にはクスコ市の厳(いかめ)しい城門が見えてくる。



一団は馬を止めた。

その場にいる全員が、息を呑み、果たして現実として目前に現われたクスコの門を見つめる。

それから、意を決したように、マルセラがロレンソを見た。

そして、深く礼を払って言う。

「ここまでの護衛、誠にありがとうございました。

この後は、私一人で参ります。」

不安を決して表に出すまいとしているマルセラの気丈な様子が、ロレンソにはかえってひどく痛々しく思え、この期に及んで急に彼の胸を掻き乱しはじめる。

本当にこのような形で良かったのだろうか、昨夜、自分が使者に立つことを、もっとしかと通すべきであったのではあるまいか?!…――そのような念が、急激にロレンソに襲いくる。

そんなロレンソの惑いには気付きようもないマルセラは、懐に大切に持参したトゥパク・アマルの書状の感触をその手でしっかりと確かめ、もう一度だけ、ロレンソと彼の精鋭の兵たちを見渡して一礼した後、「では!」と前方に向き直り、馬を駆りかけた。

「お待ちを!!」

ロレンソの鋭い声に、マルセラは驚いたように振り返る。

「これを…。」と、ロレンソがその鍛えられた褐色の右腕を、真っ直ぐにマルセラの方に差し出した。

マルセラは、その腕とロレンソの顔を交互に見渡し、困惑と驚きの混じったような複雑な表情のまま、差し出された腕の先にある彼の拳の前に自分の手を出してみる。

差し出されたマルセラの手の平に、ロレンソは美しい薔薇色の石を乗せた。

マルセラが、いっそう驚いた瞳で、直系3~4センチ程のその艶やかな石を見つめる。

青年のような趣向のマルセラには、当然のように石の知識など無く、見たことも、名も、全く知らぬ石である。

それは、このインカの地、アンデス山脈原産のインカローズの石であった。

インカローズ

「マルセラ殿、そなたが存じているかわからぬが、これは『インカの真珠』…インカ時代から、特別な力があるとされてきた石です。

この石は、我々の意識を、宇宙や大地の力と結び合わせ、さらに高みへと導いてくれる力があると古くから言い伝えられています。

これは、わたしが戦(いくさ)の時、常に身につけてきたもの。

必ずや、そなたを守護してくれるであろう。

どうか、それを持っておゆきなさい。」

「でも…!そんな大事なものを…!!」と、戸惑うマルセラに、「さあ、どうか。」と、ロレンソは、まだその石を呆然と手の平に乗せているマルセラの指に己の両手を添えて、その石をしっかりと握らせた。

いきなり手を握られる形となって、マルセラは驚愕した眼差しでロレンソを見上げる。

警戒からやや険しくなったマルセラの眼差しに、しかし、ロレンソは真剣な表情で、しっかりとマルセラの目を見つめ返している。

そのロレンソの瞳の色に、マルセラの眼差しも思わずその険しさを和らげる。

そして、全く、自分の意志に反して、彼女は素直な不安な感情を思わず滲ませてしまう。

そのマルセラの素直になった目の色に、ロレンソは幾度も瞳で頷いた。

それから、そっとマルセラの指から己の両手を離しながら深い声で言う。

「マルセラ殿、必ず戻ってくるのです。

そなたが戻るまで、わたしはずっとここで待っているから。

そして、もしそなたが戻らねば、必ず救い出しに参るから。

たとえ、わたし一人でも。」

何が起こっているのか状況についていけぬまま、言葉も失って、ただロレンソを見上げるマルセラだったが、しかし、ロレンソの言葉とその声を聞いていると、何故だろうか不思議に気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

「ありがとう…ロレンソ殿。」

マルセラは、ギュッとその手の中の石を握り締めた。

「それでは!!」と、再び意を決した横顔になると、マルセラは愛馬の踵を返し、クスコ指して今度こそ本当に走り去った。

勢いよく砂塵を上げながら去りゆく彼女の後姿が城門の陰に見えなくなっても、ロレンソとその一団はマルセラを守護するように、クスコの方角を見守り続けた。



朝の遺跡

果たして、マルセラはクスコの城門にて、「トゥパク・アマルの使者」の来訪に驚愕したスペイン人の衛兵たちによって、一旦、差し止められた。

しかし、クスコの戦時委員会の面々は、「使者」であるマルセラのモスコーソ司祭への接見を許諾したのだった。

真に恐慌状態にあったクスコのスペイン側としては、もはや、藁にもすがる思いで現状の打開策を躍起となって模索していたのである。

そのような中、トゥパク・アマルの言い分は、ともかくも、一聞には値するものと判断したのであった。

クスコの戦時委員会の面々たちといえば、首府リマの高官たちに準ずるスペイン人の有力者や名士たちばかりである。

トゥパク・アマルの一連の動向に震撼と憤怒で青黒い顔色になっている彼らが雁首を揃える堅固な接見の間へと、マルセラは引き出されていった。

そこには、さらに、この国のカトリック教会の頂点に立つ司祭モスコーソがいた。

まさか、そのような雲上の大人物に接する日がこようなどと、文字通り想像すらしたことのなかったマルセラの心臓は、止めようにも止められぬ速さで打ちはじめる。

厳かな雰囲気の接見の間の壇上で、モスコーソ司祭はマルセラを睥睨(へいげい)するように反り返っている。

そんなモスコーソの前に敷かれた真紅の絨毯の上に、マルセラは深々と頭を垂れ、跪いた。

どれほど覚悟を決めてきたとは言え、敵方の複数の憎悪に満ち満ちたその射竦めるような眼差しに晒され、マルセラの手足は押さえきれずに震えだす。

しかし、それを悟られぬよう、表面上は、必死に、最大限に、気丈に振舞った。

そう、自分は、あのインカ皇帝、トゥパク・アマル様の代理として来ているのだ、しっかりするのだ、マルセラ!!…――と、己を叱咤しながら。

接見の十字架

無意識のうちに、ロレンソから授けられたインカローズの石を強く握り締める。

その手の平で、不思議にも、その石から手の平に強力な波動のようなものが流れ込み、己のエネルギーが高まっていくような錯覚を覚える。

意を決したように、マルセラはモスコーソ司祭に、もう一度深く礼を払った。

そして、精一杯に声音を落ち着けて、「私は、我が軍の総指揮官から派遣されて参りました。こちらのお手紙を、司祭様にお持ちするようにとのことでございました。」と、トゥパク・アマルから預かってきた書状を恭しい手つきで司祭の前に掲げ上げた。

モスコーソも、クスコの戦時委員会の面々も、内心、この予測外の意外な風貌の使者の来訪に驚きを抱いていた。

そのマルセラ特有の透明感と中性的な雰囲気は、憎悪の極みにあるに相違ないスペイン側の役人や司祭にとってさえ、下手に威圧感を与えることなく、尚且つ、どこか中立的な雰囲気を醸し出していたのだった。

トゥパク・アマルの使者となれば、果たして、いかに料理してくれようか!!…――とばかりに、先ほどまで眼を血走らせ、いきり立っていたモスコーソも、さすがに今は冷ややかながらも、その眼の光が僅かに静まっている。

マルセラは、ありのままの真摯な瞳でモスコーソを真っ直ぐ見上げ、「司祭様、どうぞ、こちらのお手紙にお目通しください。」と、その手の中の書状をさらに高く掲げ上げた。

その目の色に引かれるように、モスコーソはトゥパク・アマルの書状を受け取り、厳かな手つきで広げていく。

「トゥパク・アマルめ…この期に及んで、一体、何をたくらんでおるのじゃ。」

書状を開きながら、憎々しげな声がモスコーソの歪んだ唇の端から漏れる。

その場の全員が息を詰め、接見の間に、強い緊張感と張り詰めた空気が流れた。

禁断の扉

暫し、書状に意識を集中しはじめるそのモスコーソの目の中に、トゥパク・アマル直筆の、あの非常に整った文字と、スペイン人さえも及ばぬ澱みなく流麗なスペイン語の文面が展開する。

そのさまに苦々しさを噛み締めながらも、モスコーソは書状を目でなぞっていく。

その内容は、さしずめ下記のごとくであった。

なお、以下に掲載するのは、歴史上の資料として残る、トゥパク・アマル自身の手による司祭宛ての本物の書状(抜粋)である。

『司教陛下

聖にして聖なる洗礼を受けたキリスト者として申し上げますならば、カトリックの深い信仰をもつ教会の子は、崇拝する神の殿堂を汚すことは決してできませぬ。

且つまた、神父様たちに逆らうこともできませぬ。

ただ、此度の一連の行動の意図は、代官と呼ばれし暴君たちの愚かにして極道な悪事をみ、わが国の忠実なる臣民の戸口から金を搾り取り、暴虐の限りを尽くすのを知りまして、これを正そうと考えた結果であります。

わたしは、このファラオ(註:暴君)の絆を断ち切ってくれる人の現われるのを念じつつ、結局、わたしはこの王国の防禦のために立ち上がったのであります。

今や、わたしは我らの君主カルロス陛下に対する裏切り者、謀反人と呼ばれておりますが、わたしが忠良なる臣民であり、聖なる教会、カトリックの王に些かも背かなかったことは、やがて歴史が明らかにしてくれましょう。

わたしは単にこの国の暴君を除き、真の意味で聖なるカトリックの教えが守られ、平和と静穏の中に生きることを願ったのであります。

然(しか)るに、わたしの真意は、これ以上、武器を取り、火と血をもって事を進めることを願ってはおりませぬ。

ましてや、この麗しきクスコ市にて、戦火を交えることを決して望んではおりませぬ。

それは、司教陛下とて、同じお気持ちであられるのではありませぬか。

しかしながら、既に我がインカ軍は、当クスコの地を睥睨するに至り、もし貴下の兵たちが抵抗をなさる場合には、我らとて、望まぬ刀の錆を増やすことになりましょう。

どうか司教陛下の高貴なるご賢察を賜りたく、伏してお願い申し上げます。

なお、繰り返し申し上げますが、わたしの意図は、単に強制配給(レパルト)、強制移住労働(ミタ)、その他すべての人民を脅かす悪税などの言語道断な習慣や悪政を破棄することにあることを保証いたします。

すべての事が終息した暁には、わたしはテーベの地(註:隠遁の地)へと引きこもり、神の御慈悲を請う所存であります。

陛下の重要なる御生命の長からんことを、わが最大の熱意をこめて、神に祈りつつ。

ホセ・ガブリエル・トゥパク・アマル』

戦時委員会の名士たちが固唾を呑んで見守る中、モスコーソは、読み進むうちに次第に司祭らしい落ち着いた眼差しを取り戻したその目で、じっとその書面を反芻し続けている。

トゥパク・アマルはその書状の中で、あれほど己を謀反人呼ばわりし、キリスト教からの破門の憂き目にさえ追いやったこのモスコーソ司祭に、至上の礼を払っていた。

あるいは、それもトゥパク・アマルの計略であったのかもしれぬが、しかし、そこには嫌味な色味は欠片も無く、真摯な誠意に溢れている。

その文面は、むしろ、トゥパク・アマルの真意を込めた、真実の言葉であったのではあるまいか。

彼はあくまでも、常に真正面から己を開き、毅然と、そして、堂々と真っ直ぐに、自らの方向性を指し示して見せたのだった。

確かに、その書状は、クスコのスペイン人に、暗黙に降伏を迫る内容ではあった。

しかしながら、トゥパク・アマルは、この一連の反乱によって暴政を正した後には隠遁することを、ここに、司祭の前できっぱりと誓言しており、この反乱が、決して、己をインカ皇帝に返り咲かせる為のものではないことを明確に謳っていた。

トゥパク・アマルの書状を手にしたまま、「うむ…。」と、さすがのモスコーソ司祭もそれらしい厳かな眼差しになり、暫し、考え深げな表情をする。

マルセラは跪いたまま、モスコーソの出方に、密かに身構えて待つ。

身を乗り出すようにしている戦時委員会の面々には目もくれず、モスコーソはマルセラに視線を向けた。

「おまえたちの長は、それなりに礼を知る人間のようじゃ。

しかしながら、所詮、我らは相容れぬ運命にある。

このクスコ市を明け渡すことなど、考えられぬこと。」

太く響くしわがれた声でそう言ってから、モスコーソは、再び、非常に険しい眼に戻ってマルセラを睥睨するようにして続けた。

「あの謀反人、トゥパク・アマルに伝えよ。

このクスコをむざむざと明け渡すことなど、できようはずがあるまいと!

このクスコを堅守するためには、もはや火をもってしてもやむを得ぬ。

それが嫌ならば、お前の方が降伏しろ、とな!!

お前の思いあがりは、必ず、目に物見る時がくるであろう、と!!」

稲妻の回廊 紅

次第に自ら興奮し、声を荒げて、ありありと憎悪の感情に顔を歪めはじめたモスコーソの形相に気圧されつつも、マルセラは「恐れながら…!」と、身を乗り出す。

「我らの総指揮官は、司祭様に害を加えることはもちろん、クスコの皆様の誰一人とて傷つけることなど、望んではおりません!

本当に、戦(いくさ)など…戦など、望んではいないのです!!

トゥパク・アマル様は…いえ、我らが総指揮官は…、ただひたすら、インカの地に生きる我々…民の負担を少なくすることを願っているだけなのでございます。

それ以上は何も…本当に、何一つ、望んではおりません!!

ですから、これ以上、この国に住まう誰一人の血も流さずに、この戦(いくさ)をおさめたいと…そのために、司祭様のご理解とお力添えが必要であると申しているだけなのでございます!

司祭様、何卒…どうか、総指揮官の言葉をお聞き届けくださいませ!!」

この時のマルセラの頭には、そして、心には、もはや己の身の保身など微塵もありはしなかった。

ただ、トゥパク・アマルの願うがごとく、このインカの都を血に染めたくない、誰一人の命も、たとえ敵の命であろうとも、奪うことも奪わせることもしたくない、と、そして、流血を見ずに、この事態をおさめたいと、ただもうそのことのみに己の全てを完全に投じていた。

しかし、モスコーソは、「それ以上言うな!!それ以上言うと、余の憤怒の火が、おまえをも焼き尽くすであろう!!」と、あの奇態な光をギラギラと放つ血走った眼になって、マルセラを厳しく制した。

「モスコーソ様!!

どうか…――。」

「言うな!!」

鋭利な氷の刃で射すがごとくの冷たく厳しい口調で、モスコーソはマルセラの言葉を遮った。

そして、憤怒に燃える魔人のごとくの形相で、マルセラを睨みつけた。

思わず、マルセラは、手の中の石を握り締める。

汗がじっとりと滲んでいる。

既に凄まじい形相に成り代わっているモスコーソを前に、もはや何を言っても無駄であろうことをマルセラは悟った。

まるで己が硬い床の中にどこまでも吸い込まれていくような、激しい眩暈と無力感に襲われる。

口惜しい!!…――石を握り締めるマルセラの指が、悔恨とやるせなさで震える。

しかしながら、これ以上、ここに留まろうとも状況の変わらぬどころか、かえってモスコーソの激昂を刺激するばかりであろうことは明らかだった。

マルセラは血の滲むほどに唇を強く噛み締めながらも、深く礼を払い、その場を退くしかなかった。

一方、戦時委員会の面々は、「あのまま帰してもよろしいのですか?!」と、モスコーソに詰め寄る様子を見せたが、「余は司祭ぞ。あのような、か弱き者に手をくだせるか。」といったようなことを嘯(うそぶ)くと、「それより、いよいよ戦闘ぞ!!臨戦態勢を早急に整えよ!!」と、あの魔人のごとくの形相で言い放った。



ピチュ山の青空

クスコの城門の方から馬を駆り、再びその姿を見せたマルセラを、送り出したのと同じ場所で待ち続けていたロレンソの一行が、深い安堵の色で迎え入れる。

ロレンソの前まで駆けてくると、マルセラはゆっくりと馬を止めた。

既に、日は高く上り、トゥパク・アマルらの占拠したピチュ山の背景には、夏の晴天が蒼く輝いている。

その青空の下で、マルセラとロレンソは、暫し、言葉も無く互いを見つめた。

それから、「よく戻られた!!」と、ロレンソが深い安堵の声で言う。

マルセラは礼を払いながら頷き、だが、それから苦しげな表情に変わる。

「駄目だったわ…!」

愛馬の手綱を握る指を握り締めながら、マルセラは唇を噛んだまま、地面に視線を落とした。

思わず、ロレンソも、クスコの城門の方に鋭い視線を投げる。

瞬間、その鋭利な横顔に、非常に険しい表情が浮かんだ。

いよいよ血で血を洗う戦闘になる!!…――互いの脳裏の中を、今後の事態を予見するように、不穏な情景がよぎっていく。

しかし、ロレンソはその視線を戻し、ともかくも目前のマルセラを励ますように、落ち着いた声で言う。 

「そなたは身の危険も顧みず、立派に役目を果たされた。

トゥパク・アマル様のお考えを、直接、司祭殿にお伝えすることができたことは、それだけで十分に意義がありましょう。

トゥパク・アマル様のお心は司祭殿にも、必ずや伝わったに違いあるまい。」

そのロレンソの言葉に、微かな救いを見出すようにマルセラが顔を上げる。

そんなマルセラの方にロレンソは、「そなたは見事に任務を果たされた。誇りに思いなさい。」と笑顔で頷き、さらに、「そなたが無事に戻られて、本当に良かった!」と、心から安堵していることの伝わる深い真摯な声で、改めて言う。

マルセラは、「それは…かたじけなく思います。」と、微かに頬を染めながら、微妙に視線をそらして答える。

それから、マルセラは、はたと思い出したように、懐からインカローズの石を取り出した。

先ほど手の汗ですっかり汚してしまったことを思い出し、素早く、衣服の端で石を拭くと、まだ微かに頬を上気させたまま石を差し出した。

「これ…ありがとうございました。」

やはり微妙に視線を石に落としたまま、マルセラが言う。

そんなマルセラの様子をうかがうように、ロレンソも問う。

「どうでしたか。

その石、そなたを守護してくれましたか?」

マルセラは素直に頷いた。

確かに、あの場で、この薔薇色の石に力を与えられたと感じたからだった。

幻想世界(紅い薔薇)

そのマルセラの様子に、ロレンソは目を細め、「それでは、その石は、そのままそなたが持っているがよい。」と言う。

「え?!でも…!!」と、目を見開いているマルセラに笑顔を返して、ロレンソは己の兵たちに出立の合図を送る。

他方、マルセラは戸惑いの表情で、「ロレンソ殿!これは、戦場であなたを守護してくれていた大切な石でしょう!!」と、陽光を受けて美しく輝くその石を、懸命に彼の方に差し出している。

ロレンソは穏やかな眼差しで微笑んだ。

「さあ、戻りましょう。

急ぎ、トゥパク・アマル様にご報告せねばなるまい。」

「でも…!!」

ロレンソは既に愛馬の手綱を繰って踵を返しながら、まだ馬上で石を手に、揺れるような瞳を向けているマルセラをちらりと見た。

「そなたに、持っていてほしいのだ。」

それから、微かに彼も頬を染め、マルセラから視線を前方に移すと、掛け声と共に、兵たちの陣頭に立って馬を疾走しはじめた。

マルセラも、慌ててその後を追う。

こうして、ともかくも、一行はトゥパク・アマルの待つインカ軍の本営へと戻っていったのだった。



ピチュ山の新緑

一方、インカ軍本営の入り口よりも大分手前で、馬に跨ったアンドレスが全く落ち着かぬ様子で、何時間も前からマルセラたちの戻るのを待ち侘びていた。

クスコの方角からロレンソの兵たちに守られるようにしてこちらに馬を駆ってくるマルセラの姿を見て、アンドレスは深い安堵の溜息をついた。

そして、一行が戻ってくるのを待ちきれず、はじかれたように、そちらの方に馬を飛ばす。

「マルセラ!

よくぞ無事で戻られた!!」

瞳を輝かせて出迎えるアンドレスに、マルセラも思わずつられるように瞳を輝かせ、深く礼を払った。

「アンドレス様、ご心配おかけいたしました!」

アンドレスは深い安堵の揺れる眼差しで、改めてマルセラの無事な姿に幾度も嬉しそうに頷き、微笑み返す。

「よかった。

本当に、よかった!!

よく無事に戻ってくれたね、マルセラ!

本当によかった!!」

それから、彼はロレンソにも視線を向け、深く礼を込めた目で見つめた。

そして、感極まったような声で言う。

「ロレンソ、こうしてマルセラが俺たちの元に無傷で戻ってきてくれたのも、君がいてくれたおかげだよ。

何と礼を言っていいものか…!!」

「いや…。」と、ロレンソはアンドレスの視線を軽くいなして、「わたしは本当に何もしてはいない。すべて、マルセラ殿がお一人でなさったことなのだ。」と、誠意溢れる声で応える。

そんなロレンソに対してアンドレスは輝くような笑顔を返しながら、「そんなことはあるまい。きっと、マルセラにとっては、君の存在がどれほど心強かったか知れないよ。」と言って、「そうだろう?」という目でマルセラに視線を投げた。

マルセラはアンドレスの言葉通りに、少々はにかみながらも素直に頷いた。

しかし、思い出したように苦しげな表情に変わって、マルセラが言う。

「でも、司祭様のご返答は、全く私たちの願っていたものとは違いました。

それを…、私にはどうすることもできなかった。

それがとても、とても、口惜しい…!!」

唇をぎゅっと結んで視線を地面に落とすマルセラを勇気づけるように、アンドレスが言う。

「マルセラ、君は立派だった。

そんなふうに気を落とすことなんかないんだ。

さあ、顔を上げてくれ。

そもそも、あの司祭は、キリストの名を掲げた仮面をつけて民衆を騙し、本心は民のことなどまるで考えてなどいない…己の地位と名望と私利私欲を守ることに必死なんだ。

だから、これからも、どんな卑怯な手段を使おうとも、意地でも勝とうとするはずだ。

そうとも…どんなに民衆の命が失われようとも…!!

トゥパク・アマル様も、それを悟っているからこそ、あの司祭を、直接、敵に回す戦闘は避けたかったに違いあるまいよ。

だけど…いいかい、よく考えてみてごらん。

どう考えたって、そんなふうに権力の上に胡坐(あぐら)をかいて、自分を神のごとくに絶対だと思っているあのモスコーソ殿が…、しかも、酷く蔑んでいる『インディオ』の俺たちに侮辱されたと思い込んでいるあのモスコーソが…いや、モスコーソ殿が、むざむざ降伏するなどありえぬことだ。

だから、マルセラ、君が気を落とすことなんて少しもないんだよ。」

堰切ったように一気に言った後、その険しくなった瞳で遠くの敵を睨みつけるように、アンドレスは前方を見据えた。

アンドレスは憤怒の感情を滲ませた声で、さらに続ける。

「トゥパク・アマル様は、願わくば、俺たちインカの旧都を血には染めたくない…と、君に託したあの書状に、一縷(いちる)の望みを賭けたのだろう。

そして、あのモスコーソ殿のエゴのために、多くの民の命を犠牲になどしたくはないと…!

それに、これまでインカ軍に味方していた当地生まれのスペイン人も、モスコーソ殿がトゥパク・アマル様や俺たちを破門して以来、すっかりあの司祭に恐れをなしている。

だから、今、クスコでモスコーソ殿と戦うことになれば、俺たちインカ側から彼らの心がもっと離れてしまうと…そのことも、きっとご心配されたに違いあるまいよ。

だが、トゥパク・アマル様は、反乱を起こす前に、悪政の改善を訴えて、実際にあの司祭に会いに行っている。

もちろん、モスコーソ殿は、そんなトゥパク・アマル様の訴えなど、微塵も聞き届けはしなかったが…。

トゥパク・アマル様とて、あの司祭の難しさは、重々、承知しているはずだ。

だから、今回も、恐らく、結果がこうなることは予測していたに違いあるまいよ。

それでも、できることは全てなさろうというのが、昔からの、あのお方のなさり方なのだ。」

ロレンソはアンドレスの言葉にじっと耳を傾けながら、目を細めて深く頷く。

一方、マルセラは、アンドレスの言葉に、やっと光を与えられたような表情で顔を上げた。

そんなマルセラに頷き返すようにしながら、声の調子を和らげてアンドレスが続ける。

「それに、あのモスコーソ殿が、君をこうして全く無傷で戻してくれたとういこと、そのことが、俺には、むしろ、すごいことだと思えるよ!

きっと、トゥパク・アマル様のお心が、何か、必ず伝わった部分があったに違いないさ。

君だからこそ、それができたんだと思う。

マルセラ、そう思ったらいい。

君は立派に役目を果たしたのだ!!」

アンドレスにしみじみそう言われて、マルセラは「いえ、私はただ書状を渡しただけで…。」といったようなことを呟きながらも、思わず嬉しそうに顔をほころばせる。

アンドレスも優しい笑顔を返す。

その彼の視線に、マルセラは明らかに頬を染め、さっと視線をはずした。

一方、そんなマルセラの様子に、傍で見守っていたロレンソは複雑な目の色になる。

三羽の鳥

そのような若者三人ではあったが、ともかくも、「さあ、こちらへ!トゥパク・アマル様も、君の無事な姿とモスコーソ殿のお返事を、今か今かと待ち侘びているに違いあるまいよ。」とのアンドレスの言葉に促され、マルセラとロレンソも彼の後を追うようにしてトゥパク・アマルの天幕へと急いだ。



かくして、マルセラからの報告を受けたトゥパク・アマルは、モスコーソの返答はもちろん朗報ではなかったけれども、しかし、何よりも「マルセラ、よく無事で戻ってくれた。危険な大役、誠にご苦労であった。」と、深い安堵を滲ませた声でその労をねぎらった。

その真摯な目の色は、彼の言葉が決して口先だけのものではないことを物語っている。

マルセラも、そして、彼女の叔父であるビルカパサも、そのようなトゥパク・アマルの言葉に、深々と頭を下げた。

トゥパク・アマルの側近たちも、敬意を込めた温かい眼差しでその様子を見守っている。

その後も、トゥパク・アマルはその包み込むような眼差しで幾度か頷いた後、それから、己の褐色のしなやかな指先を軽く額に添え、遠くを見つめるような目に変わった。

側近たちの誰にも見えない彼のその瞳の奥底で、激しい悲壮な色が燃え上がる。

モスコーソ殿、そなたは、このインカの聖なる都を血の海と化すおつもりか…――!!

微かに震えるその瞼を、しかし、決して周りの者に悟られまいとするように、額に添えたその指で、漆黒の髪を静かにかき上げた。

蒼い柱

暫し流れる僅かな沈黙の間に、トゥパク・アマルは、己の感情を懸命に、且つ、素早く統制する。

そして、低く響く声で言った。

「やむを得まい。

これより、臨戦態勢に入る。

兵及び塹壕の状態を確認せよ。

且つ、大砲をクスコに面した斜面に配備せよ。」



◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ 第六話 牙城クスコ(3) をご覧ください。◆◇◆








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