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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第七話 黄金の雷(9)
【 第七話 黄金の雷(9) 】
本陣を後にしたインカ軍の兵たちは幾つかのルートに分かれ、それぞれの隊長の指揮のもと、豪雨の中、山間部の悪路を進んでいた。
インカ軍本隊を率いるディエゴたちよりも一足早く本陣を逃れていたトゥパク・アマルの妻ミカエラ及び、彼らの息子たちの元に、間もなく、大軍を率いて退却してきたディエゴが追いついた。
トゥパク・アマルが囚われた今、敵の狙う次なる標的は、その妻ミカエラと、彼らの3人の息子たちであることは明白だった。
大柄なディエゴの、ただでさえ厳(いかめ)しいその顔面には、恐ろしいほどの険しさが宿っている。
今、撤退の悪路を進むミカエラとその息子たちの元に、ディエゴが足早に近づいていく。
トゥパク・アマルの精鋭の兵たちに堅く守られるようにしながら、さらにミカエラがしっかりと末子フェルナンドの手を取り、また、長男イポーリトが次男マリアノを庇護するようにして歩んでいる。
そんなミカエラも子どもたちも、全身、大雨に打たれ、その表情に苦渋の陰はありながらも、しかし、さすがにトゥパク・アマルの妻、そして、息子たちだけあって、取り乱すこともなく、毅然とした眼差しで前方を見据え、一歩一歩、着実に歩みを進めていく。
時々、深い水溜りに足をとられそうになる幼いフェルナンドをミカエラが支え、守護する兵たちも、そんなフェルナンドに優しく声をかけて励ます。
それぞれ、現在、長男イポーリトが12歳、次男マリアノが10歳、そして、末子フェルナンドが8歳である。
豪雨の中、健気に歩む、まだあどけなさの残る少年たちの姿に、ディエゴの胸中は激しく疼き、痛んだ。
彼は意を決した厳しい面持ちで、ミカエラの傍に歩み寄る。
そして、爆音さながらの雨音に掻き消されながらも、懸命に声を張り上げて呼びかけた。
「ミカエラ様!!」
豪雨に霞む中、黒い大きな影のような巨体が近づいてくる様子に、ミカエラは凛とした瞳を、まるで相手の正体を確かめるように鋭く細める。
「ディエゴ殿?」
「はい!!
ミカエラ様、大事なお話が!!」
あまりに激しい雨音が、ミカエラの声も、そして、太く、よく通るはずのディエゴの声さえも掻き消して、直近の距離でさえ、それらを聴き取ることは難儀であった。
ディエゴは、やむなしとばかり、ズイッとミカエラの耳元まで顔を寄せて、腹の底から声を出す。
「ミカエラ様とご子息様のお命、確実にお守りするために、ここは二手に分かれるのが得策かと存ずる!!」
ミカエラは、ハッとしてディエゴの顔を見返した。
彼女の類稀なる美貌の輪郭を無数の雨粒が伝い流れ、艶やかな黒髪も今はベッタリと頭から首、背にはりつき、すらりと伸びた彼女のしなやかな肢体を、いっそう際立たせて見せている。
普段は男性顔負けの冷静さと雄々しさを発揮するミカエラも、今は愛する息子たちの身の安全をひたすら願い祈るしかない一人の母としての眼差しそのままに、衝撃の目で、喰い入るようにディエゴを見つめている。
それから、懸命に感情を抑えた声で問う。
「また万一の時に備えて、と?」
ディエゴの面差しに、瞬間、ひどく苦しげな陰がよぎった。
しかし、この事態に至っては、綺麗ごとでは済まされぬ。
今、囚われたトゥパク・アマルに代わり、インカ軍の総指揮官たる彼には、インカ皇帝の血統を絶やさず守り抜く、厳然たる重責があった。
それは、ミカエラも、よく認識しているはずである。
ディエゴは、頷き返し、言う。
「このまま大軍と共にあられては、かえって目立って危険です。
今、こうして逃げていても、必ずや、途上で敵軍の襲撃に遭(あ)いましょう。
そうなれば、本当にお命をお守りしきれる保障がございません。
これより先、ミカエラ様とご子息様は、軍団を離れ、敵兵の目をかすめ、ラ・プラタ副王領のアンドレスの元へ、一旦、身を寄せられるのが得策かと存ずる。
むこうではアパサ殿も奮戦しており、まだインカ軍の勢いもあります」
挑むような眼で、まんじりともせず聴き入るミカエラの視界の中で、ディエゴは、もはや異議は挟ませぬとの気迫を放つ。
実際のところは、賢明なミカエラに、ディエゴの話が理解できぬはずはなかった。
しかしながら、あれほどに雄々しいはずの彼女の瞳も、今は、明らかに揺れている。
(息子たちを二手に分ける…――?
それは、これほどの危険な状況の中、わたくしの手から、一方を離すということに他ならぬ…――!
わたくしと別行動をとることになる息子は、明日の命さえ知れぬ過酷な逃亡の渦中を、父のみならず、母からも引き離されて進むことになるのだ…。
そのようなこと…あまりに、むごい……!!)
だが、そう心の中で叫ぶ己の傍らで、冷静なもう一人の自分が、「ディエゴの言う通りではないのか?このまま一網打尽にされてよいのか?」と、己自身に囁(ささや)きかける。
ミカエラは雨水を含んだ震える長い睫毛(まつげ)を伏せるようにして、激しく唇を噛み締めた。
ミカエラは愛しい息子たちの姿に、さっと視線を走らせる。
そして、苦汁の眼差しでディエゴを見据えながら、搾り出すように問う。
「二手に分かれるとは、息子たちを別々に逃がす、という意味なのね?」
「その通りです」
幾筋もの雨粒が伝い流れるその厳(いか)つい顔面を、ディエゴは深く縦に動かし、頷いた。
息子たちを想うミカエラの心痛を十分すぎるほど察しているディエゴは、彼女の心をなぞり、鏡に映すように、最大限の沈着な声音をつくって言う。
「この先の道中には、全く何が起きるやも知れません。
共にあって、万一の場合に、一網打尽にされるようなことがあってはなりません。
それに、少人数に分散した方が、敵の目も欺きやすいというものです。
全ては、あなた様とご子息様たちのお命の安全を守るためなのです」
ディエゴは、ミカエラの心中を察しながらも、有無を言わさぬ断固たる面持ちで、同時に、あなた様ならわかるでありましょう、という深い信頼を込めた眼差しで、じっとミカエラの瞳を見つめた。
そして、さらに続ける。
「わたしがご同行して、アンドレスの元まで参れればよいのですが、トゥパク・アマル様を救出するために、再び軍を立て直し、急ぎ敵軍との対決に向かわねばなりません。
ミカエラ様とご子息様たちには、それぞれ精鋭の護衛をお供におつけいたします」
暫し無言のままではあったが、ミカエラには、ディエゴの言うことも良く理解できてはいた。
(しかし…――!!)
大きく揺れる瞳を隠すかのように伏し目がちになった彼女の瞼は、まだ小刻みに震え続けている。
そのような大人たち二人の様子を傍でじっとうかがっていた子どもたちの中から、次男のマリアノが意を決した目で、一歩、前に進み出た。
そして、嵐のような豪雨に打たれながらも、凛と顔を上げて、きっぱりと言う。
「母上!
僕が、分かれて参ります!!」
今のマリアノの表情は、到底、10歳には見えぬほどに険しく厳然としており、決して、その場の勢いや一時の衝動から発した言葉ではないことは、明らかだった。
その眼差しからは、悲壮なほどに、覚悟の色が見て取れる。
「マリアノ……!!」
恐らく、どの息子が名乗りを上げようともミカエラの反応は同様にそうであったろうけれども、今、自ら申し出たマリアノを見つめる彼女の目は、衝撃に打ちひしがれたように愕然と見開かれていく。
その瞬間は、言い出したディエゴさえも、ぐっと息を呑んで言葉を継げずにいた。
マリアノは、その年端に似合わぬトゥパク・アマルそっくりの切れ長の目元を決然と吊り上げて、険しいほどに凛々しく母とディエゴを見上げている。
しかし、長男のイポーリトが、すかさずマリアノを制した。
「年下のおまえを、一人、別行動になどできない!!
分かれるなら、僕が!!」
「兄上……!」
兄の挑むように真剣な眼差しと、その兄の常の性格から、イポーリトが本気で己の身を案じ、己の代わりを申し出ていることは、マリアノには痛いほど分かった。
マリアノは、そんな兄に、潤みかけた瞳で深く礼を払い、それでも決然と首を振った。
「いいえ、兄上は、どうか母上をお守りして!!」
マリアノの凛とした声が、雨音を凌駕し、響く。
思わず、ミカエラはマリアノの前に跪(ひざまず)き、ずぶ濡れになっている少年の漆黒の髪に手を添え、そのまま両手で少年の褐色の頬を包んだ。
その手の中に、冷え切った表面のその奥で、この瞬間も、しかと脈打っている我が子の肌の感触が伝わってくる。
「マリアノ…おまえたちの、誰一人とて、わたくしの元から離すことなどできようか…!!」
「母上……!」
涙を見せまいと俯(うつむ)きかけたマリアノの声が、詰まる。
それでも、彼は、再び、きっ、と、父トゥパク・アマルに生き写しの精悍な顔を上げ、まるで母を諭すがごとくに毅然と言う。
「フェルナンドはまだ小さくて、母上から離れることはできないでしょう。
それに、兄上は長男です。
父上の跡を継ぐ正統な皇位継承者として、兄上こそ、絶対に生き延びなければならないはず!!」
「マリアノ!!
わたくしにとって、おまえたち三人とも、全く変わらず、同じに大切なのです。
長男とか、次男とか、そんなこと……!」
ミカエラは、もうそれ以上言葉を続けられず、マリアノの体を強く抱き寄せた。
マリアノも、しっかりと母の体を抱き締めた。
二人に降り注ぐ豪雨も、今は、まるで、この母と子を大きな翼で守り、包み込んでいくかのようにさえ見える。
傍で二人の抱擁を見守るディエゴの目頭も、突き上げるように熱くなった。
幼い末子のフェルナンドなどは、もう完全にしゃくり上げて、長男イポーリトに縋(すが)るように身を寄せている。
イポーリトはフェルナンドの肩を優しく抱きながら、彼もまた、母ミカエラを青年に移し替えたがごとくのその美麗な顔に、隠すことなく滔々(とうとう)と涙を流し、震える唇を噛み締めている。
やがて、ディエゴが、己の情を振り切るようにして、ミカエラとマリアノの横に跪き、深く礼を払った。
そして、マリアノを抱き締めたまま放さぬミカエラに、雨音を振動させるほどの、太く、どっしりとした声で言う。
「ミカエラ様、ご案じ召されるな!
マリアノ様のご決意、決して無駄にはいたしません!!
さあ、お時間がありません。
マリアノ様は、別のルートで参りましょう。
なに、心配せずとも、必ず、また皆で相見(あいまみ)えましょう!
一時の辛抱です!!」
ディエゴは元気づけるようにそう言うと、大らかな笑顔をつくってみせた。
マリアノは涙の滲んだ目で、それでも少年らしい笑顔をつくり、自ら、ゆっくりと母から離れると、同様に泣き濡れている兄、そして、弟と強く抱擁し合った。
「兄上、母上とフェルナンドを頼みます。
フェルナンド、母上と兄上の言うことをよく聞くのだよ」
長男イポーリトは青年の風貌を宿しはじめたとは言え、12歳という、まだまだ少年のあどけなさを残したその瞳に、止まらぬ涙を溢れさせたまま、けれど、同時に強い光を宿して真っ直ぐに弟を見つめた。
そして、涙しながらも、包み込むような眼差しで言う。
「マリアノ、そなたは幼き頃から外見も中身も父上に一番似て、賢く勇気があり、真の強さを備えている。
必ずや、生き延びるのだよ!!」
「兄上……!!
兄上も、必ず…!!」
二人は、もうひとたび、しかと抱き合った。
そんな二人の間に入り込むようにして、まだ8歳の末子フェルナンドが、天使のような澄んだ瞳に涙をいっぱいに溜めて、「兄上、兄上…!!」と、幾度もマリアノを呼ぶ。
マリアノは、再び、フェルナンドを強く抱き締めた。
「フェルナンド。
そなたは、まだ、こんなに幼き身で、このような険しき運命の道を歩むことになろうとは…――」
マリアノは抱き締めた胸の中で震えるようにしている幼い弟に囁(ささや)きかけると、そっと相手の肩を支えて己の体から放し、涙にむせぶ弟の瞳に優しく微笑みかけた。
「フェルナンド…この後、どのようなことがそなたの身にあろうとも、いつでも、どこからでも、この兄が、そなたのことを想っていることを、決して忘れてはならないよ」
フェルナンドは、一度、大きくしゃくりあげると、深く、しかと頷き返した。
それから、ディエゴが再びマリアノの傍に寄ると、「では、マリアノ様。どうぞこちらへお越しください!」と、母や兄弟たちから彼を別の集団へといざなっていく。
ディエゴはミカエラの顔を真っ直ぐ見つめ、今一度、深く誠意を込めて言う。
「マリアノ様のこと、どうか、ご案じなさいますな!!」
ミカエラも、無数の雨水と共に幾筋もの涙が頬に伝うのを隠さぬまま、「頼みました!」と、決然とした声で応じた。
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
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