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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~
第九話 碧海の彼方(4)
【 第九話 碧海の彼方(4) 】
かくして、アンドレスがアリスメンディとの邂逅を果たしていた頃、トゥパク・アマルの陣営では、彼の手によって間断無い戦闘準備が推し進められていた。
民たちの前には姿を現していない彼も、ずいぶん前から、同盟者たちには己の所在を明かし、密接な連絡を取り続けてきた。
ペルー副王領及びラ・プラタ副王領の各地に無数に散らばる同盟者たち――多くは各地の有力な豪族たちである――からの使者や本人たち自身が、途絶えることなく入れ替わりトゥパク・アマルを訪れては、今後の反乱計画について打ち合わせていく。
そして、それら同盟者たちとの会合の合間を縫って、しばしばトゥパク・アマルは広大な本陣の敷地内の一角へと足を運んだ。
いよいよ英国艦隊の到来も差し迫った今でも、変わらぬ沈着さを失わぬその横顔――しかし、さすがに普段以上に研ぎ澄まされた鋭利さが宿っている。
力強い足取りながら敏捷に早足で進む彼の後を、常に護衛するビルカパサが影のようにつき従う。
やがて広大な敷地を有する野営場のはずれまでくると、早朝にもかかわらず、無数の兵たちが大掛かりな作業に没頭している姿が見えてきた。
明らかに何かを建造している様相なのだが、通常の工事現場や土木事業現場につきものの金属音――釘を打ち込み、鉋(かんな)で削る音など――は、殆ど聞こえてこない。
響き渡るのは、多数の男たちの逞しい掛け声と、何かをきつく縛り上げているような無数の鈍い音のみであった。
それらの様子を、トゥパク・アマルは鋭くも厳粛な眼差しで、遥々と隙無く見渡していく。
がっしりと引き締まった肩に、ゆるやかに巻きつけらた彼の黒マントが、風をはらんで後方へと大きく翻る。
長身の彼の視界は遥か遠くまで至るが、そのような彼の視界の及ぶ範囲さえも優に超える遠大なスペースの空き地で、無数のインカ兵たちが懸命に作業に勤(いそ)しんでいた。
交代制を敷きながら24時間体制で作業に当たる兵たち――その姿と作業の進捗状況を見渡しながら足早に進む彼の来訪に、兵たちがすかさず礼を払って道を開く。
同時に、現場監督と思われる筋骨逞しい男が走り来て、トゥパク・アマルに恭しく礼を払った。
「トゥパク・アマル様、ご覧の通り、作業は順調に進んでございます!!」
いっそう深く礼を払う兵にトゥパク・アマルも頷き返し、それから、再び、作業場全体に俊敏な視線を走らせる。
「ご苦労であった。
ある程度組み上がったものから、順次、下界に移送する。
金属物ではないとはいえ、それなりの重量があるものゆえ、このような山間で行なうよりも、仕上げは下界にて行う方が効率も良かろう。
下界の同盟者の陣営に、作業スペースを確保してある――移送ルートは、打ち合わせの通りだ」
「畏(かしこ)まりました!!」
「明日には新たな資材も届く。
厖大な量が必要なことゆえ、この陣営以外でも並行して作業を進めている。
時は迫っている。
難儀な作業であろうが、宜しく頼む」
「はっ!!
お任せくださいませ!!」
跪(ひざまず)いて地につくほど深く礼を払う兵に、今一度、頷き返すと、トゥパク・アマルは作業現場から踵を返した。
一方、再び、アンドレス陣営――。
かくして、アリスメンディの同行を受け入れたアンドレスだが、彼の軍団は、日毎に手薄になっていくスペイン軍の攻撃をかわしながら、現在のところは順調に行軍を進めていた。
迫り来る英国艦隊到来の時に備え、スペイン軍の主力部隊は、内陸部から沿岸部へと、その布陣の中心を移動していたのだった。
そして、アンドレス軍は、いよいよディエゴのあずかるインカ軍本隊――トゥパク・アマルがいるであろうインカ軍主力部隊――との合流を目前としていた。
アンドレスは、今や4万を超える自軍の兵たちを前にして、小高い丘陵上に立っている。
彼は、強い力を宿した面差しで、眼下に結集した兵たちを熱く見渡した。
遥々と無数の兵たちで埋め尽くされたその場所は、しかし、整然と隊列が成され、皆、毅然たる面持ちで丘上を見上げた姿勢で、見事なまでに静寂が保たれている。
アンドレスは、そのような兵たちに深く礼を払うと、決然と響く声で、力強く話しはじめる。
「皆、長く、険しいラ・プラタ副王領への遠征、本当にご苦労だった!!
そして、今、こうして、再び、俺たちはペルー副王領へと帰還を果たし、インカ軍本隊への合流を目前としている――!!
俺たちがインカ軍本隊を離れて遠征に出立してから、トゥパク・アマル様の率いていらしたインカ軍本隊でも様々なことがあったことは、聞き及んでいることと思う。
だけど、そうした厳しい状況下にあっても、俺たちがソラータやラ・パスでの戦いを乗り越えて、今、こうしてここにいるのは、ここに集う全員の力があったからに他ならない!!
皆、本当にありがとう!!」
山々にこだまする己の声に包まれながら、アンドレスは、今一度、眼下の兵たちに深く礼を払った。
強い恍惚を滲ませ、頬を紅潮させながら見上げている兵たちも、アンドレスの方へと深く礼を払う。
それから、アンドレスは、再び決然と兵たちに向くと、深く息を吸い込み、意を決したように話し出す。
「間もなく、俺たちは、インカ軍本隊へと合流する!!
その前に、皆に、大事な話を伝えておきたい――!!」
兵たちの間にも、恍惚と共に、強い緊張が走った。
あのこと…つまりは、英国艦隊到来の噂の件か――と、兵たちの間にも、にわかに動揺の空気が走る。
そうした兵たちの間から、やはり丘上を見上げていたコイユールは、これからアンドレスが語るであろう内容を察して、息を詰めていた。
祈るようにギュッと強く組まれた彼女の両手の指先が、微かに震えている。
そして、また、コイユールと同様、アンドレスの側近たち――ロレンソやベルムデスたち――、そして、アリスメンディも、それぞれの場所から、それぞれの鋭利な面差しで、状況の推移をうかがっていた。
アリスメンディの同行に関しては、彼を昔から知るベルムデスでさえも慎重な見方をしていたが、アンドレスの堅い決定が下りた後であり、ロレンソ同様、その動向を見守るしかなかった。
かくして、今、霊峰を越えて遥か高くまで昇った太陽は、真昼の陽光を彼らの元へ燦然と降り注ぐ。
アンドレスは、足元の己の影を、その鍛えられた長い足でぐっと踏み締めると、鋭い横顔を前方へと向けた。
「皆、良く気持ちを落ち着けて聞いてほしい!!
既に噂では聞き及んでいると思うが、此度の英国艦隊の到来は事実である…――!!
だが―――」
途端に兵たちの間から、ドッと大きなどよめきが湧き起こった。
と同時に、たちまちアンドレスの言葉は、喧騒の中に虚しくかき消されていく。
「やはり噂は本当だったのか!!」
「あの世界最強の英国艦隊が襲ってきたなんて!!」
衝撃と驚愕に顔を歪める者、憤然と激昂する者――強度の動揺を見せる兵たちを見下ろしながら、アンドレスは苦々しく唇を噛んだ。
彼は両手の拳を強く握り締める。
そして、腹部まで深々と息を吸い込むと、内臓まで飛び出すのではないかと思われるほどの渾身の力を込めて、兵たちに向かって大きく叫んだ。
「だけど、トゥパク・アマル様は――皇帝陛下は、牢を抜けてご無事でいらっしゃる!!」
―――――!!!
兵たちのどよめきが、その瞬間、ピタリと止んだ。
突如にして訪れた水を打ったような静けさ――……。
(え…――?!)
アンドレスは、あまりの張り叫びように血の滲んだ喉元を押さえながら、息を呑んだ。
あれほどの騒然たる状態の中で良くぞ彼の言葉を聞き取ったものだと、アンドレスの側近たちも、驚愕して目を見張る。
状況の推移を見ていたアリスメンディも、鋭利な目元を聳(そび)やかせた。
再び嘘のように静まり返った中、暫し呆然としていたアンドレスだったが、はたと我に返ると、己の方を一心に見上げている兵たちの方に急いで向き直った。
そして、呼吸を整えると、声音を統制して、噛み締めるように続けていく。
「皇帝陛下は、これからも我がインカ軍の総指揮を執っていかれる!!
英国艦隊が来ようが、何が来ようが、トゥパク・アマル様がおられるんだ!!
何を恐れることがあろうか!!」
おお…―――皇帝陛下が…!!――兵たちの間から、深い深い安堵と感嘆の声が漏れる。
兵たちは夢中で丘の傍まで走り寄ると、懸命にアンドレスを見上げた。
「アンドレス様、本当なのですか?!」
「トゥパク・アマル様は、今も、ご無事なのですか?!」
アンドレスは、深く、俊敏に、頷き返した。
「ああ!!
トゥパク・アマル様は、まぎれもなく、ご無事で、自由の身になっていらっしゃる!!
トゥパク・アマル様だけでなく、ミカエラ様も、皇子様たちも、牢を抜けてご無事だ!!」
「おお…――そのようなことが……!!」
筋骨逞しい体を震わせて男泣きに濡れている兵たちを眼前にして、アンドレスも激しく胸に迫り来る熱い思いに突き上げられ、目元に涙を滲ませた。
そして、いよいよトゥパク・アマルとの再会を目前にしている現実に、強度の歓喜と興奮を覚えて身震いする。
アンドレスは、ぐっと腕で涙を拭うと、今一度、兵たちを真っ直ぐ見つめた。
そして、決然と、鋭く、全身全霊を込めて言い放つ。
「我が軍は、まもなく、トゥパク・アマル様のおられるインカ軍本隊へと合流する!!
この先、どのような戦いが待っていようとも、俺たちはトゥパク・アマル様と最後まで戦い抜いて、必ずや、スペイン軍にも、英国艦隊にも、勝利する――!!」
「おお―――!!!」
蒼天の下、アンドレス軍の兵たちが上げる力強い雄叫びは、幾重にも連なる遥かなるアンデスの峰々にこだまし、どこまでも高らかに響き渡っていった。
かくして、数日後―――。
4万の軍勢を率いて急峻な山岳の道を帰還の行軍を続けてきたアンドレスは、ついに前方に巨大なインカ軍の大陣営を視界にとらえた。
かつてインカ軍が大いなる戦果を上げたサンガララに近い険しい山岳の崖上に、巨大な翼を広げたように堂々たる陣を展開する大軍団――!!
あまりの懐かしさと歓喜に、胸が震える……――!!
突き抜ける蒼天の下、清冽な雪を冠したアンデスの霊峰を守る堅固な砦のごとく、威風堂々たる気迫を放ちながら長大に展開するインカ軍本隊の大陣営。
トゥパク・アマルに委任され、今は副官ディエゴが率いるその大軍は、まさしく、皇帝お抱えの軍団に相応しき圧倒的な規模と武力を備えたインカ軍の中枢部隊である。
ラ・プラタ副王領へ遠征に発つまでは、アンドレス自身もその大軍に属し、いち連隊将として共に戦っていたのだ。
反乱初期は350人の兵を率いるのがやっとだった己が、今や4万の軍団を率いるまでに至ったのも、トゥパク・アマルの導きがあり、周囲のたゆまぬ援護があったからこそに他ならない。
アンドレスは愛馬の手綱を握り締めたまま、恍惚たる面差しで、吸い込まれるように前方に見入った。
それにしても――かつて己が属していたインカ軍本隊は、これほどに神々しく、堅固で、厳然たる威光を放つ軍団であったろうか…―――!!
それは、陣営というより、むしろ、要塞都市と呼ぶに相応しき規模と覇光を放っていた。
まだ何も分からず無我夢中で一軍を率いていた反乱初期の自分…あの頃の己には見えていなかったもの、感じ取ることのできなかったものも、今は、見え、感じ取れるようになったのか?
それとも、過酷で波乱に満ちた幾多の障壁や戦闘を経て、インカ軍本隊自体が、さらに進化を重ねてきたのだろうか?!
―――アンドレスは息をすることすら忘れて、前方を見据えたまま、深い感動に打ち震えていた。
だが、強い感動を噛み締めていたのは、決して、アンドレスだけではなかった。
それは、彼と共に遠征に出ていたアンドレス軍の全ての兵たちにとっても、感極まる瞬間であったのだ。
そして、また、多くの護衛兵に守られながら、アンドレスの隣で凛然と馬に跨る皇子マリアノも、圧倒的な迫力で眼前に展開する大陣営のさまに、完全に釘付けられている。
「父上……!」
マリアノの唇が、微かに動いた。
アンドレスは、ハッとして、マリアノの横顔を振り向く。
マリアノも我に返って、アンドレスを振り向いた。
皇子の漆黒の瞳が大きく歓喜に揺れながら、アンドレスをじっと見つめる。
「アンドレス…!
父上は、あそこに……?!」
アンドレスは、優しくも力強く少年に微笑んだ。
「はい!
マリアノ様!!」
マリアノは抑えられぬ喜びの笑顔を輝かせる。
「母上も?!
兄上たちも?!」
「はい!!
マリアノ様!!
今は、あの軍団は、表向きはトゥパク・アマル様の副官ディエゴ殿があずかっておられます。
ですが、トゥパク・アマル様もお母上たちも、きっと、あの陣営に!!」
皇子と共に瞳を輝かせ、巨大な陣営の方を振り仰ぐアンドレスの視界に、不意に、そちらの方角から砂塵を上げながら近づいて来る十数人の騎馬兵たちの姿が飛び込んだ。
「――!!」
アンドレスは瞬時に鋭利な面持ちに変わると、サーベルに手をかけ、皇子の前に身を呈して馬ごと踏み出した。
それと同時に、豪腕の護衛兵たちが敏捷に身を翻し、皇子とアンドレスを守るようにして、彼らの周りを堅く取り囲む。
だが、目を凝らしたアンドレスには、前方から迫り来る騎馬兵たちがインカ族の者たちであることをすぐに見て取った。
「待て、本隊のインカ兵たちかもしれない!!」
アンドレスの一声に、ザッと、護衛兵たちが身を引く。
その頃には、前方の騎馬兵たちの歓喜の表情が見えるまでに、互いは接近していた。
行軍の陣頭に立っていたアンドレスは、胸の高鳴りを覚えて、軍団の中から一歩前に踏み出した。
その間にも、勇ましい砂塵を上げながら、騎馬兵たちが、たちまち迫り来る。
見れば、いずれも、かつて共に戦った懐かしい顔ぶればかり――!!
「アンドレス様!!
お帰りなさいませ!!
見張り台からお姿と軍団をお見受けし、お迎えに参上いたしました!!」
「皆、無事で!!」
「はい!!
アンドレス様も!!」
互いに深い感動に突き上げられ、思わず身分の差など忘れて、騎馬のままに、頑強な肩を抱き締め合う。
それから、アンドレスは咄嗟に我に返ると、馬ごと大きく身を翻した。
そして、皇子の前に道を開く。
「マリアノ様!!
インカ軍本隊から、我が軍を迎えに来てくれた兵たちです!!」
アンドレスの言葉に、騎馬兵たちはハッと息を呑み、一斉にそちらを振り向いた。
アンドレス軍随一の逞しい馬に凛と跨り、絹のような黒髪を風になびかせ、トゥパク・アマル似の切れ長の目を煌かせている美しい少年――。
まだ10歳とは思えぬ大人びた高貴な風貌に、しかし、今は少年らしい闊達な笑顔をキラキラと輝かせて、騎馬兵たちを真っ直ぐ見つめている。
騎馬兵たちは礼を払うことさえ忘れて、マリアノの周囲に馬ごと駆け寄った。
「おおお!!
皇子様!!!」
「マリアノ様!!
お会いしとうございました!!」
騎馬兵たちは、その豪胆な風貌にもかかわらず、ドッと、目に涙を吹き出させる。
彼らがマリアノの最後の姿を見たのは、あの本陣戦での敗退の直後――降りしきる雨の中、敵の目をかすめるため、母ミカエラや兄弟たちから一人離れて別行動することを決意した、勇敢にも、あまりに健気な少年の姿だった。
あの時、雷雨に打たれながら母や兄弟たちと泣き別れ行く幼い皇子の姿は、もはや見るに耐えがたいものだった。
「うう…マリアノ様……!!」
ついに騎馬兵たちは、感極まって、太く逞しい腕で涙を隠しながらも、止められぬ嗚咽を漏らしはじめた。
「え…!
そ、そんな、皆、泣かないで……」
男泣きに濡れている兵たちの姿に、マリアノは瞳を揺らして頬を染めながら、すっかり戸惑って、オロオロとアンドレスに縋(すが)るような視線を向けてくる。
そんな皇子と兵たちの姿に、アンドレスは再び胸を熱くしながら、優しく目を細めた。
こうしてアンドレスたちの軍勢は、迎えの兵たちに先導されながら、ついにインカ軍本隊の大陣営へと到着した。
陣営入り口には、かつてアンドレスたちの出立を見送った兵たちが既に無数に集まっており、彼らは温かい歓声と共に受け入れられた。
帰還したアンドレス軍の兵たちと、迎え入れたインカ軍本隊の兵たちとの間で、熱い歓喜が交わされる。
アンドレスの周りにも、たちまち多数の兵たちが集まってきた。
「アンドレス様、お帰りなさいませ!!」
「アンドレス様、ソラータの水攻め、聞き及んでおりますぞ!!」
兵たちと次々と肩を抱き合いながら、アンドレスも力強い笑顔で応じる。
「ありがとう!!
皆こそ、よくぞ、この陣営を守ってくれた!!」
そして、ひとしきり再会の感動を噛み締めると、彼は視界の届く限り、ぐるりと視線を走らせた。
(トゥパク・アマル様は……!?)
だが、広大な陣営にひしめく歓喜に沸く無数の兵たちの中に、トゥパク・アマルの姿は見当たらない。
アンドレスは長身をさらに伸び上げて、いっそう遠くまで視線を馳せてみる。
と、傍にいたマリアノが、不意に、弾かれたように歓喜の叫びを上げた。
「母上!!」
「――!」
咄嗟にアンドレスが振り向いた先には、遠目からも目を奪われるほどに麗しい美貌と、スラリとした美しい肢体を備えた女性の姿があった。
それは、トゥパク・アマルの后妃であり、皇子の母でもある、ミカエラ・バスティーダス―――。
反乱初期から、インカ軍本隊の幹部として、夫トゥパク・アマルとインカ軍を強力にサポートしてきた、美しくも雄々しきインカ族の才媛である。
今は殆ど義勇兵と変わらぬほどのシンプルで色褪せた戦場用の衣服に身を包んでいるが、ブロンズ像のように艶やかな褐色の肌、そして、インカ族にしては、あまりに優美で研ぎ澄まされた美貌は、以前と少しも変わらず健在であった。
(ミカエラ様――!!)
アンドレスが瞳を大きく見開いた時には、既にマリアノは弾丸のように走っていって、ミカエラの胸に飛び込んでいた。
「母上!!!」
「――マリアノ!!」
まだ10歳の身で、これまで、どれほど気丈に耐えてきたのだろうか、今、マリアノはすっかり幼い子どもに返ったように、周囲の目も完全に忘れて、母の腕の中で声を上げて泣きじゃくっている。
美麗でありながらも平素は戦士のごとく凛々しく鋭利な風貌のミカエラも、今は完全に母の顔に戻って、涙を流しながら愛しい我が子を胸に強く抱き締めている。
「マリアノ――良くぞ、無事に戻りました……!」
そうしている間にも、第一皇子イポーリトと第三皇子フェルナンドも素早く走り込んできて、抱き締めている母の腕の上から、さらにマリアノに抱きついた。
「マリアノ!!」
「兄上!!」
「兄上…――フェルナンド……!!」
しかと抱き合っている彼らの再会を見守りながら、もらい泣きをしている周囲のインカ兵たちに混ざって、アンドレスも再び涙を滲ませる。
(マリアノ様…本当に、本当に、良かった……!)
今、こうしてミカエラの元に皇子が無事に戻った姿を前にして、アンドレスは言葉に尽くせぬ大きな感動と深い安堵に包まれ、放心したように立ち尽くしていた。
肩から、すぅっと力が抜けていく感覚――……。
やがて、彼がハッと我に返った時には、ミカエラが、すぐ傍までやってきていた。
「――ミカエラ様…!!」
すかさず地に跪(ひざまず)くと、アンドレスは深く身を屈めて礼を払う。
「ミカエラ様、ただいま戻りました!!」
既に凛然とした風貌を取り戻したミカエラは、その美しい立ち姿のまま、足元に平伏しているアンドレスに頷き、はっきりとした艶やかな声で言う。
「良く戻りました、アンドレス。
ラ・プラタ副王領への遠征、戦果も上げたと聞き及んでいますよ」
「ありがたきお言葉――!!
ミカエラ様も、ご無事で何よりでございます!!」
いっそう深々と平伏するアンドレスの前に、不意に、ミカエラも跪いた。
アンドレスは、驚いて、ハッと顔を上げる。
今、同じ目線にあるミカエラの、息を呑むほどに端正な輪郭には、先刻の柔和で優しい母としての表情が再び宿っていた。
「アンドレス、そなたには、トゥパクやわたくしたちの捕縛の件で、ずいぶん心配をかけたことでしょうね。
そのような状況下で、マリアノを守り抜いてくれたこと、恩に着ます」
真心込めたミカエラの言葉に、アンドレスは、再び深い感動に突き上げられる。
「ミカエラ様……!」
アンドレスは瞳を揺らしながら、ブロンズの女神像のようなミカエラの面差しを見つめた。
そして、今一度、深く身を沈めて厚く礼を払う。
「いいえ、ミカエラ様…!
実のところは、マリアノ様の一番危険な時を救ってくれたのは、俺ではなく、ベルムデス殿なのです……!」
ミカエラは長い睫毛(まつげ)を伏せて、美しい口元に微笑を浮かべた。
「トゥパクも、そなたも、優れた家臣に恵まれている」
「はっ!!
ミカエラ様!!」
アンドレスは深く平伏しながらも、ミカエラの口からトゥパク・アマルの名が出たことを好機とばかり、意を決したように問いかける。
「あの…ミカエラ様――トゥパク・アマル様は、この陣営におられるのですか?」
ミカエラは、かつてと変わらぬ優美な仕草で頷いた。
「ええ。
トゥパクも、この陣営にいます」
「―――!!」
アンドレスの大きな瞳が、さらに大きく見開かれていく。
心臓の鼓動が、急速に加速していくのが分かる。
そんな彼の背後から、不意に、聞き覚えのある男性の太い声が響いた。
「アンドレス様――!!」
振り向いたアンドレスの目に、跪いたまま話していた己とミカエラの背後で、さらに深く身を沈めて跪き、あの懐かしい精悍な笑顔を見せているビルカパサの姿が飛び込んだ。
「ビルカパサ殿!!」
不安定な姿勢で無理に動こうとしたために、前のめりに転びかけたまま、それでも、アンドレスは興奮と歓喜の表情を輝かせずにはいられない。
ビルカパサも、深い感慨を噛み締めた眼差しで、アンドレスを見つめている。
「アンドレス様――よくぞ、お戻りになられました!!」
「ビルカパサ殿…!!」
アンドレスはビルカパサの傍まで駆け寄ると、ガッシと相手の逞しく強靭な肩を握り締めた。
「また、こうして会えるなんて…!!」
歓喜に震える指で強く己の肩を握り締めているアンドレスの方に目を細めながら、ビルカパサは鷲鼻の際立つ野性的な表情で、はにかんだ。
「アンドレス様、またお力が強くなられたのでは?
暫く見ないうちに、ますます逞しくなられたようにお見受けします」
「そ…そうだろうか…?」
思わず照れくさそうに頭をかいているアンドレスに、ビルカパサは、今一度、精悍な笑顔を見せると、改めて力強く礼を払った。
「アンドレス様、ラ・プラタ副王領からのご帰還、お待ちしておりましたぞ!!
それは、トゥパク・アマル様も同じお気持ちであられましょう!!」
その瞬間、相手の肩を掴むアンドレスの指先に、ぐっと激しく力がこもる。
彼はビルカパサの方へと、いっそう、にじり寄った。
「ビルカパサ殿…!!
トゥパク・アマル様は―――?!」
ビルカパサは決然と顔を上げると、アンドレスの瞳を真っ直ぐに見据える。
「ご案じなされますな!!
ミカエラ様の仰る通り、トゥパク・アマル様は、この陣営におられます!!」
「どこに?!
トゥパク・アマル様は、ここの、どこにいらっしゃるのです?!」
すっかり興奮して迫り来る勢いのアンドレスに、ビルカパサは、かつてと変わらぬ感情統制のいき届いた面差しで、俊敏に頷いた。
「アンドレス様のお気持ちは、よく分かっております。
大丈夫――慌てずとも、まもなく、お目通りがかないましょう。
英国艦隊の到来も迫り、この陣営には、今も続々と国中の同盟者たちが出入りしております。
トゥパク・アマル様はそちらの打ち合わせに追われており、ここへは出向けませんでした。
ですが、お気持ちでは、あなた様とご帰還された軍団の到着を喜んでお迎えになられておりましょう!!
さあ、早速にも、ご帰還のご挨拶に参りましょう!!」
次第に午後の陽も傾きかけ、広大な陣営には黄金色の西日が降り注ぎはじめる。
ビルカパサに先導されてトゥパク・アマルの天幕に向かいながら、アンドレスは、内心、驚きを禁じえなかった。
いや――英国艦隊の到来も迫った現状を思えば、これが当然なのだろうが、もはや、そこには戦闘の真最中にあるにも等しき、ものものしく厳戒な臨戦態勢が敷かれていた。
西日に反射する磨きぬかれた大小の武器類は完璧に手入れが為され、今にも火を噴き出しそうなほどである。
それぞれの任務に奔走する兵たちも、訓練にいそしむ兵たちも、もはや専門兵と義勇兵の見分けもつかぬほどに、非常に動きが機敏で切れも良い。
ぴんと張り詰めた陣営内に漲る空気は、次の瞬間に敵襲があろうとも、即座に迎撃に応じられるに相違ないと思われるほどに、隙無く、熱せられ、高まっていた。
ビルカパサの後を追い、早足で歩みながら、アンドレスは無意識に固唾を呑む。
暫くインカ軍本隊を離れているうちに、何か遅れをとってしまったような、この空気感を忘れてしまっていたような、そんな不意に心もとない心境にとらわれる。
あの深刻なソラータでの戦闘時でさえ、己の隊の中に、このような緊迫感を捻出できていたかと言えば甚(はなは)だ疑わしい…――。
アンドレスは将としての己の手腕の未熟さを噛み締めずにはいられず、いつしか下向きがちになっていた。
気配の沈んだ相手の様子に気付いて、ビルカパサが声をかけてくる。
「アンドレス様、どうかされましたか?」
「いえ…!」
アンドレスは、サッと頭を上げて、素早く想念を振り払った。
今は過ぎたことの感傷に浸っている場合ではない。
これからどうするかが重要なのだ――!!
彼は、前方に真っ直ぐ視線を向けた。
それから、ハッと大事なことを思い出したかのように、ビルカパサを振り向いた。
「そういえば、叔父上は?!
叔父上のお姿も見えませんが、トゥパク・アマル様と共に打ち合わせですか?」
ビルカパサは、力強い眼差しのままに、「いいえ」と首を振る。
「ディエゴ様は、トゥパク・アマル様がご不在の間、この本隊を総指揮しておられました。
ですが、今は、英国艦隊と沿岸線のスペイン軍の動きに備え、精鋭の分遣隊と共にアレキパ方面へ」
「そうでしたか…!」
アンドレスは納得して、深く頷いた。
そうしている間にも、前方に、トゥパク・アマルの居場所と思われる広大な天幕が見えてくる。
山の端に半身を隠した夕日に照らされた天幕周辺には、既に煌々たる幾多の松明が焚かれ、無数のものものしい護衛兵たちが隙無くひしめき、鋭い眼光を利かせている。
(トゥパク・アマル様は、あそこに――!!)
アンドレスは、にわかに強い緊張感の高まりを覚えつつ、恍惚に輝く横顔でそちらに釘付けられた。
ほどなく天幕の正面まで来ると、衛兵たちがアンドレスとビルカパサの前に、サッと道を開く。
衛兵たちは恭しく礼を払いながらも、帰還を果たしたアンドレスの姿に、「お帰りなさいませ!!」と言いたげな、逞しくも感慨に満ちた笑顔を送ってくる。
アンドレスも、再び胸を熱くしながら、笑顔で応じた。
天幕入り口付近まで来ると、ビルカパサは「暫し、お待ちを」とアンドレスに告げて、天幕の中に消えた。
自分の到来をトゥパク・アマルに伝えに行ったのだろうと思うと、いよいよアンドレスの心臓は早鐘のように打ち鳴りだす。
極度の興奮と緊張から、だんだんと目さえも回ってきたように思えて、慌てて己の額を押さえ込む。
その頃には既に日は暮れて、早くも突き刺すような冷気が降りてきていたが、彼の全身はカッカッと熱く火照ったままだった。
(お…おい!
アンドレス、落ち着け…!
しっかりしろ!!
あれほど待ち侘びていたトゥパク・アマル様との再会だっていうのに……!!)
何とか平静を取り戻そうと自分の頭や胸をしきりに叩いているアンドレスを、周囲で見守る衛兵たちが、不思議そうに目を丸めている。
そんな周囲の様子にも気付かずに、懸命にポカポカと自分を叩いたり、何度も深呼吸をしたりしているアンドレスの元に戻ってきたビルカパサが、思わず、プッと吹き出した。
「アンドレス様、そんなに緊張せずとも」
「――!」
頬を紅潮させて大きな瞳を潤ませ、ハッと己を見上げたアンドレスに、ビルカパサは精悍な笑顔で頷いた。
「トゥパク・アマル様は、アンドレス様が以前ご一緒にいらした頃と変わらぬトゥパク・アマル様ですよ。
さあ、今、ちょうど、同盟者の方々との打ち合わせも一区切りしたところです。
どうぞ天幕の中へお入りください!
トゥパク・アマル様がお待ちです!!」
◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ
第九話 碧海の彼方(5)
をご覧ください。◆◇◆
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