confuoco Dalnara

名もなきアフリカの地で


その日々の中、人生の中で
子どもは時に大人の顔を見せ、母の娘、少女、父の娘、ユダヤ人学生でもある。
妻は母の顔と、女の顔、祖国にいる愛する母親の娘でもあり
夫は、妻に恋する男、天職を持つ男の顔、父の顔、自分の父を敬愛する息子でもある。
長い人生の中で選択に迷い、揺れながら
その過程でいろいろな顔をみせつつ
愛する人を愛して真摯に生きていく道のりを描いている、という印象。
いつか家庭を持ったらもっと深く理解できるようにも思う。
そして「よそ者」としてしか生きられなかった「流浪の民」
変わってしまったドイツの市民と戦争、Nazis...
歴史と人生について考えた。

シュテファニー・ツヴァイク(原作) の自伝的小説は2作書かれている。
ひとつがこの映画の原作’Nirgendwo in Afrika(Nowhere in Africa)’。
もうひとつはアフリカから敗戦後のドイツに帰国してからの
’Irgendwo in Deutschland(Somewhere in Germany)’
タイトルのつけかたが素敵だ。
合わせ鏡のように対になっていて
よそ者の辛さをどこか淡々と対象化している。

在日韓国人もよそ者で宙ぶらりんかも。
しかも華僑と違ってくにの言葉を話さないし、
韓国行ったら韓国語話せないということでダメ出しされたりする。
日本と韓国の間で葛藤を抱えながら生きている時もある。
NowhereとSomewhereの間を振り子のようにゆらゆらふらふらしている時もある、意識の上では。
生活の上では
例えば会社経営している友人は金融機関から借り入れするのがたいへんだから、という理由で
日本国籍に帰化した。
気持ちの上では揺れていても生活の基盤はどこかに据えなければならないのなら
そういった合理的な決断を下す場合もある、と思う。

お父さん役のメラーブ・ミニッゼってグルジア出身だって!
グルジアと言えば
パラジャーノフの映画で詩人が主人公の「ざくろの色」と「アシク・ケリブ」はどちらも美しかった。
「アシク・ケリブ」はシタールでアヴェ・マリアが演奏されていたのが胸に沁みた。
親交のあったタルコフスキーに捧げられた映画だ。

お母さん役のユリアーネ・ケーラーは「点子ちゃんとアントン」にも出演したという。
エーリヒ・ケストナーの本は好きだったのでいつかこの映画も見たい。

印象的だった言葉を映画からふたつ。
「人は違いにこそ価値がある」
「愛するふたりで問題なのは、どちらかが愛しすぎていること。
より深く愛している者のほうが弱い」
後者のはしみじみよくわかる。
相思相愛にみえてもバランスがとれているとは限らない。惚れているほうが弱いのは知っている。
「惚れた弱み」というか、ツテンシャン、心をかなり傾けていたり...。

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