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4月15日倉吉シティーホテルでハープ演奏家川下笑里歌さんの演奏会があります。前回と同じように春日八郎さんのお弟子さん西村光司さんとの共演で楽しみ。http://plaza.rakuten.co.jp/erikaharp/
2012.02.24
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9日久しぶりに国道を走り「因幡の白兎」で有名な白兎海岸を通る。サーフィンを楽しむ海水浴客で賑わっていた。真冬になると2mを超える荒波になり今より賑わう。ウェットスーツに溜まる海水が温まるらしい。海水浴客は点で分からないかも。
2011.10.10
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12月25日26日鳥取市南若葉台鳥取畜産直売所で臼を使い餅つきをします。餅の種類はよもぎ餅と白餅です。出来立てを1個70円で直売します。予約受付中TEL・FAXとも0857-52-1133先着500名様にぜんざい無料です。
2010.12.08
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第31回鳥取県出版文化賞決まる。(1月13)------日本海新聞主催 鳥取県内で著作、印刷、出版された(官公庁出版物以外)単行本の中から選ばれる。------出版文化賞「梨の花は春の雪」松本薫著=地方で生きる応援歌=鳥取県西部を舞台にした市民シネマの原作として全国から応募のあった80点の中から選ばれた。原稿用紙40枚の応募作を長編小説化した。著者の松本薫さんは、米子市淀江町出身。2000年に「ブロックはうす」で早稲田文学新人賞を受賞している。東京でライターをしていた門脇響子は、娘の玲名と共に夫晃弘の出身地・米子市淀江町で暮らすことになる。淀江町では義父が脳梗塞の発作で倒れて入院していた。経営していた二十世紀梨の畑は後継者がおらず義父は、廃園を決断する。響子は、亡き義母の日記を読み義父母の梨作りに対する情熱と誇りを知り、梨畑を引き継ぐ決意をする。春になり雪のように白い梨の花が”幸せの雪”となって振りそそぐ中受粉作業をする響子や晃弘たち。「雪って降るだけじゃないのよ、咲く雪もあるのよ。私も初めて知ったんだけどね・・・。」響子は、新たな希望と夢を見いだす。過疎化、高齢化、地域の活性化など鳥取県の抱える問題を物語の中に取り入れ、その中かで生きる人々の姿を明るく平易なタッチで活写、一人の女性の行き方を描くだけではなく社会的な広がりを持つ作品に仕上げた。この小説を基に同名の映画は、市民シネマ「梨の花は春の雪」製作実行委員会(長谷川泰二運営委員長)の手で作製された。地元住民が、脚本、出演者、制作スタッフとして参加した。(日本海新聞)「梨の花は春の雪」公式サイトhttp://www.nashinohana-movie.com/楽天ブック梨の花は春の雪【あらためて鳥取を考える機会に 】 松本薫さん談初めて出した本がこうした賞を頂いたことに感謝しています。私自身の実家が梨農家で都会から戻ってきて味わった焦燥感をもとに書こうと思った作品です。鳥取県について改めて考える機会になったと同時に東京一極集中の出版界の状況に対し地方から発信できる事があると実感できました。原作が映画となり、さらに小説として再構成する中で多くの人からアドバイスや応援をしてもらったことに感謝しています。創作を通じて小説を書くことの楽しさを教えてもらった気がしています。
2008.01.18
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早いもので彼岸になりました。3連休をどの様に過ごしておられますか。夜0時前に大阪北部で地震が起きています。被害はありませんか。9月27日前後に地震が起きる可能性があります。昨夜はテレビで「火垂るの墓」(野坂昭如原作1988年新潮社)を見ていました。戦争中両親を失い兄と幼い妹が、生きていく話で栄養失調のため妹が亡くなるのは見るに耐えないです。誰も助けないのでしょうか。ところで私達の住む鳥取は、交通の便が悪く元々観光客は少ないのですが、年々観光客は、減る傾向にあります。県内唯一の国際線韓国アシアナ航空(ソウル~米子)も乗客が、急に減り休止を申し出たのですが、鳥取県知事が、直接ソウルに出向き補助金を出すと言うことで続行が決まりました。私が、全国を見ていると地域により人が集まる場所と去る場所があるように思いますがどうですか。人の集まる場所は、土の磁気とかエネルギーが、強いらしいです。例えば皇居=江戸城の磁気エネルギーは、かなり高いらしく東京に日本中だけではなく世界中の人や富が、集まるらしいです。大阪の土地にもかなり強いエネルギーがあると聞いています。それに比べて私の感じる範囲ですが鳥取の風土には、活気とかエネルギーがないです。観光客が、訪れてもう一度行きたいという様な魅力がないように感じます。どうすれば鳥取の土地が、強大なエネルギーを持つようになるでしょうか。楽天よーしさんが、紹介される「幸せの輪」などを畑に吊るすと土が強いエネルギーを持つようになるそうです。私が、いつもパイロゲンを紹介して宣伝するようで悪いのですが、これも宇宙エネルギーと関係があるようです。パイロゲン=パイ・ウォーターには、二価三価鉄塩が2×10マイナス12乗モル存在してその波動が宇宙エネルギーに共鳴し、生命に有効な放射線に変換すると言われ植物・人など生命を活性化かさせるようです。もし強大な宇宙エネルギーがあれば寂れていく鳥取を元気にして新しい時代を切り開くことも出来るんではないかと期待しています。肥料の菜の花種で作る油粕の値段が、春先に600円ほどでしたが最近1,000円になっています。バイオエネルギーに使われるようになり品不足らしいです。石油が、手に入らなくなる時に備えて車とかのエンジンも軽油エンジンに変えたいです。そうすれば天ぷら油などでも動くらしいです。百円市では、野菜不足ですが10月中ごろになれば洪水になります。各農家も冬に向けて大根・白菜などの種まきを終えたようです。20日ごろタマネギの種まきをしていると思います。10月中ごろにはエンドウ・ソラマメの種を植えて苗を作るようです。畑では西条柿を植えて3年目になりますが初めて2個実が、付いているようです。
2007.09.22
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国府町農協トマト部会で鳥取県中部の北栄町へ農業視察に行きました。ニミトマト農家とほうれん草農家を見学して、さすが鳥取県を代表する産地だけあり規模と農業技術に感心しました。 昼には近くの羽合(ハワイ)温泉の千年亭で風呂に入り松葉ガニの鍋と和牛の鍋を 食べ放題、飲み放題です。写真の皿を無限に注文できますが、やはり食べるのには限界がありますね。 松葉ガニは、5日に解禁になり6日に初競り今日7日に初売りという高価な初物です。私たち庶民は、松葉ガニは高いのでスーパーで北海道産の(同じ)ズワイガニを買います。やはり松葉ガニは、高価なだけに味覚と実入りのボリュームが違います。 帰りは同じ東郷湖のほとりにある燕趙園で休憩してコーヒーを飲みました。 店内には中国の物産がみやげ物として売ってあります。中国料理店もありここは予約制 だそうです。 久しぶりに農協の奢りで息抜きをしました。 下の写真が、小さいのはデジカメの電池がなくなり携帯のカメラで撮ったからです。
2006.11.07
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【美歎牧場の直売所と焼肉レストラン】 美歎牧場は、私の家から稲葉山に登り車で20分の所にある。その牧場にもバーべキュー場があり標高300mの高原から国府町の平野を見渡して焼肉を楽しむのも人気があり年中(冬以外は)満員です。 ここは鳥取市内と言っても街と田園の境目に当たる若葉台にある焼肉場と直売所です。ここの焼肉場には、トマト部会の心だけは青年達と農協のおごりで「焼肉食べ放題」に来ています。その直売所に百円市があり以前止めていたと思っていたのですが、特売日があるから野菜を出荷するように催促の手紙が来ていた。 それで今でも会員かどうか確認のためにここの百円市を訪問しました。野菜売り場は、店の外にもテントを張ってかなり広く取ってあります。国道が、すぐ側を走っているだけに客は多いようです。しばらく休んでいましたが、また出荷しようと思案中です。
2006.09.30
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私のHPの背景に使っている絵は江戸時代の円山応挙が兵庫県香住町(香住港)にある応挙寺の襖に描いたものです。 其の由来は、応挙寺(大乗寺)HPによると--------------------------円山応挙(1733-1795)は始め石田幽汀に学び、その後自然の写生に専念したり、西欧の遠近法等の手法を学び、彼独自の新しい画風としての写生画を完成しました。その写生画はあらゆる階層の人々に支持されて、ついに画壇の第一人者となり、円山派の祖として仰がれています。応挙が京都で苦学をしていたところ、当時大乗寺の住職であった密蔵上人が才能を見込んで学資を援助したことが縁で、客殿の建築のときに、恩返しとして一門の弟子と共に大乗寺の障壁画を描きました。http://www.daijyoji.or.jp/main/intro/2intro.html--------------------------- 丸山応挙の伝記は、---------------------------円山応挙は、1733年に丹波の小農の家に生まれた。跡継ぎでない小農の子の常として、彼も、11歳か12歳の頃に、四条新町東へ入る岩城と云える呉服屋の小厮となった。その後、四条柳馬場東へ入る中島勘兵衛と云える玩具物商家で人形の彩色などの仕事をしていた。刻苦勉励して画工となり、中島の世話で四条の道場に世帯を持ち、自分の絵を店頭にならべて売ったりしていた。ちょうど、そのような時期に、中島は、覗きからくり箱を取り扱うことになった。ところで、覗きからくり箱で絵を楽しむためには、眼鏡絵が必要であった。はじめは、覗きからくり箱と一緒に輸入した、オランダや中国で描かれた眼鏡絵(その多くは、風景画)を、使っていた。しかし、その数には限りがあった。また、顧客は、新しい風景画の眼鏡絵を欲していた。中島は、それに応じて、円山応挙に、眼鏡絵を描かせたのであった。円山応挙は、後世において、日本の写生画を完成させた絵師として、高く評価されているが、遠近法を駆使した眼鏡絵との出会いこそ、彼に写生の極意を会得させるきっかけになったのである。円山応挙は、眼鏡絵から多くのことを学び、室内図の範疇の浮絵を越えていった。彼は中国の風景の眼鏡絵を模写しただけでなく、彼独自の眼鏡絵として、京都の風景を描いた。そのうちの一つである『四条河原遊涼図』では、夏の夕方に、鴨川沿いを夕涼みにそぞろ歩きをしている人々の姿が、影絵のように描かれている。また、川の対岸の街には旗が掲げられている。その旗には、長崎麒麟太夫という女曲技団の団長の名前が書かれているが、その字は左右逆である。それは、レンンズで拡大してみてもはっきり写る、まさに細密描写の迫真的な眼鏡絵であるといえる。円山応挙が描いた眼鏡絵は、大変に人気があった。そこで、彼の本絵は、泥絵具を使ってた版画として、出版されることになった。それが、泥絵と呼ばれる物である。後には、覗きからくり箱とは独立して、一種の風景画として、泥絵は出版されるようになった。泥絵のほとんどは、無名な人々によって描かれたようで、浮世絵と違って、絵師の名前さえ記入されていない。「渡辺紳一郎コレクション・・・江戸の泥絵展」のカタログでは、上方泥絵の元祖の円山応挙が描いたものとして、第一番目の絵として、『四条河原遊涼図』を掲載していた。現在のところ、円山応挙が描いた眼鏡絵として認められたいるのは、約15点であり、そのうちの6点ほどが、肉筆画である。半紙位の大きさで掛け軸になっている『四条河原遊涼図』は、無署名ではあるが、その肉筆画のうちの1点である。中島は、高級な玩具を取り扱っていたので、御所、公卿や門跡寺院などにも出入りしていた。彼が扱う眼鏡絵を通して、円山応挙の名前は、上流階級の人々に、知れ渡ることになった。その結果、円山応挙は、まず、桜町院の宮嬪蓮池尼院公に仕えることになった。その後も、円満院の裕常門主や三井家をはじめとして、有力なスポンサーを持つことができた。彼らの注文に応じて、後世に残る名作を描き、それによって、写実主義の日本画を確立し、円山四条派の元祖の地位を確立したのである。まさに、眼鏡絵との出会いこそが、封建的身分制の中で、小農出身の彼の画才を、奇跡的に開花させたのである。
2005.09.11
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