溝口の旅宿で初めて遇った秋山との交際は全く絶えた。恰度、大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向って瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの「忘れえぬ人々」が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人」(引用者注、二人が逗留した宿の主人)であった。心が通い合ったかのように見えた秋山のことではなく、ほとんど言葉も交わさなかった宿の主人を「忘れえぬ人々」の列に加えた、というのがいわばこの短編の落ちである。独歩はなぜこういう展開を選んだのだろう。親兄弟や世話になった人達でもなく赤の他人でもない、その中間に位置する、友達、別れた恋人、旅の途中で心を通じ合った見知らぬ人などのことを描いてもよかったのではないか。それでは、あまりにありきたりで独歩の創作嗜好には合わなかったということなのだろうか。
「秋山」では無かった。
私はまず近代文学の起源を風景(客観)の側から考えたい。それはたんに外的な客観の問題ではない。たとえば,国木田独歩の『武蔵野』や『忘れえぬ人々』(明治31 年)においては,ありふれた風景が描かれている。ところが,日本の小説で風景としての風景が自覚的に描かれたのは。これらの作品がはじめてであった。しかも,『忘れえぬ人々』は,そのような「風景」がある内的な転倒によってしかありえなかったということを如実に示している。柄谷が注目するのは、「忘れえぬ人々」の中で描かれた忘れられない人たちがみな風景としての人間だ、という点である。写生のように描写される風景、その中に存在する人々、そんな人々を忘れられない主人公、ここが日本文学・文芸で従来使われていた叙景と異なる、つまり近代的な風景が<発見>されたのだ。さらに柄谷は続けて、主人公の孤独で内面的な状態と風景の発見が密接に結びついていることを指摘する。周囲の外的なものに無関心であるような内的人間こそがはじめて風景を見出す、と主張する。柄谷の論考はこうして「内面の発見」へと展開していく。
要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながらまた自己将来の大望に圧せられて自分で苦しんでいる不幸な男である。そこで僕は今夜のような晩に独り夜ふけて燈に向かっているとこの生の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催して来る。その時僕の主我の角(つの)がぼきり折れてしまって、なんだか人懐かしくなって来る。いろいろの古い事や友の上を考えだす。その時油然として僕の心に浮かんで来るのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡に立つこれらの人々である。われと他と何の相違があるか、みなこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来てわれ知らず涙が頬をつたうことがある。その時は実に我もなければ他もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る、僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど名利競争の俗念消えてすべての物に対する同情の念の深い時はない。僕はどうにかしてこの題目で僕の思う存分に書いて見たいと思うている。僕は天下必ず同感の士あることと信ずる。(青空文庫「忘れえぬ人々」より引用、段落替えは除いた)功名心にとらえられて藻掻き苦しんでいる大津には、自然との一体を理想としている自分がいる、それが時に顔を出すのだ、風景の中で自己を持たずに従容としている人々の映像として。似たようなことは誰にでもあるだろう、自分は何をこんなに無理をしているのだろう、気張らずに頑張らずに欲をかかずに苦しまずに、自然や群衆の中に埋没してしまえばどんなに楽だろうと感じる刹那が、そんな時思わず落涙するかもしれない。それが大津のこの夜の心境だと思う。忘れえぬ人々とは、執着する自我の消滅する瞬間への憧憬、と言えるのではないだろうか。