Moyashi

Moyashi

チャーム



 さて、彼女はコーヒーメーカーのスイッチを入れて一頻り考えていた。
黄みに彩られたビル群を見下ろすにつけ、反射する太陽光の強さに比例して背景の濃淡が深淵を増すのが手に取るように分かる。時刻は大体5時過ぎといったところだろうか。右手首を持ち上げ正確な時間を確認しようとするが、腕時計を忘れてきたことに気づく。


忘れ去れた腕時計。机の引き出しに入ったまま、時を刻み続けるという作業は一体どれほどひっそりとしたものなのだろう。彼女はアルミ製のデスクに腰を下ろし、ぶつぶつと聞こえ始めたコーヒーメーカーの独り言に耳を傾けている。四角い引き出しを創造して意識をそこへ飛ばしてみる。そう、ちっちっちと硬いものをナイフで切り刻むような音を発しながら腕時計はそこで存在しているはずだ。どうして腕時計なんてものを忘れてしまったのだろう。私は時間を知りたいのだ。しかしながら彼女には腕時計を忘れた理由がわかっていた。朝の、あの忙しい時刻ににじり寄ってくるような表現をする占い番組のせいだと。特に占いを信じているわけでもないのだが、ついつい彼女は毎朝見てしまう。星座とか誕生日だとか血液型だとかそういった種類のものだ。そして今朝の彼女の運勢は抜群だった。まず星座占いでは全力投球すればいいことが起こるかもと言われ、誕生日占いでは運命の人に出会えるかもと示唆された。血液型占いにいたっては、完全無欠と太鼓判まで押される始末だ。そんなものを見ていたがために、出勤時間が迫ってきた彼女は持ち物を確認せずに出てきてしまったのだ。まったく、くだらない自分に腹が立つ。ましてや、じゃあ今日一日そのように提示された良いことというものは起こりえたのかというと全然~ないとしか言いようが無い。ブーツのつま先から枝毛の一本一本までありとあらゆる神経をすり減らし、ようやくさっき酷いとしか表現方法が見当たらない仕事に見切りがついたばかりなのだ。良くも悪くも(もちろん彼女にとっては後者であることはもちろんなのだが)平日でしかない一日だった。まだこれから、手付かずの仕事も山ほどある。あれほど時間を費やして見ていた、なんちゃら占いとは一体全体なんだったんだ。さらに付け加えて言えば、腕時計を忘れるという行為は結論として一時的にではあるが、彼女に不快な感情を抱かせてしまっている。私は単純に時間を知りたいだけなのだと彼女は繰り返し自分に言い聞かせていた。


コーヒーが出来上がり、薄い紙コップに注ぐ。口に含むと、ホコリが溜まった書斎のような匂いが鼻の奥いっぱいに広がる。彼女は紙コップの中心を見定めるように凝視して、一気に残りを飲み干した。


彼女は禁煙3日目にしてタバコが吸いたい気分に陥った。鼻から抜ける古臭い香りを何とかして薄めたいと思った。思いっきり肺にニコチンをぶち込みたい。彼女の中でぐるぐるとそんな考えが渦巻いては消えていた。


4日前の夜、小・中学校が同じであったTと呼ばれていた友人が死んだという連絡が電話の留守電に入っていた。録音されていた声の主は、時折休日がかぶったときにだけ彼女と遊びに出かけるYという女だ。Yも小・中と同じ学校で、死んだ友人とYは結構仲が良かった気がする(まぁでもそれは思い過ごしだったのかもしれないともっと後になって彼女は考えることとなる)。留守電には昨日、Tが死んだこと。死因は咽頭癌だったということ。葬式は身内だけですでに行ったということ、が淡々と録音されていた。彼女自身、Tとは学生時代、特別親しくはしていなかっただけにどうして私にこんな連絡をよこすのだろうと、一瞬不思議に思った。でも、まぁYは単なる説明責任で自分に連絡をしただけだろうと気にしないことにした。あるいはYは誰かに聞いて欲しかっただけなのかもしれない。そう考えると彼女は少しだけTに対して同情する気分になれた。でもどうして20代後半で咽頭癌で死ぬことになるんだろうか。彼女は誰かとそのことについて語り合ってみたいという気分になった。遺伝的な作用か、とか。あるいはタバコの吸いすぎか、とか。

タバコの吸いすぎ-彼女にも当てはまる項目だ。少なくとも彼女は一日に3箱吸う。そして最近、喉の辺りに巨大なナメクジが居座っているような感覚があることを思い出し、一通り愕然とした。禁煙してみようか。タバコを吸わないことぐらい簡単なことだ。年寄りにスタートレックの相関図を説明するよりかいくらか楽なことである。よし、たった今から禁煙を始めよう。彼女は半分吸って灰皿でもみ消そうとしたタバコをもういちど口へ運びながら決意した。


あれからおそらく3日と16時間が過ぎて、彼女はタバコが吸いたかった。喉の奥がカラカラに乾いているような気がしていた。なんだって禁煙なんか始めたりしたのだろうと後悔していた。なんだってYは私にTの死を知らせたりなんかしたのだろうと憤りを感じた。そしてどうしてTは死んでしまったりしたのだろうとTを責めた。彼女は行き場のない疑問に打ちひしがれていた。


元々、私は死ぬことなんてなんとも思っていなかったはずなのだ。もっと大胆に言ってしまえば、例えば馬鹿でかい外車に乗り回し、意味のない寝室をいくつも所有し、屋根裏に住む虫のような格好の客人を集めたパーティーを毎晩繰り返す人間と、アルミ缶を集めてカップ酒を飲み干し寝ているだけの路上の人間との大きな違いなんてこれっぽっちも存在していないんじゃないかと考えている。そしてもちろんそこには死という概念も並列して存在している。あるいは自殺もだ。将来の自分のあり方というところでは、どの一線でも一緒なのだ。世間一般で言う地位的評価が、どう違うのかが私には理解できなかった。だからこそ、私は死ぬことを考えた時期もあった。でも私は死ななかった。本当にどうでもよかったのだ。あるいは私は周りの人間に憂慮していただけなのかもしれない。結局のところ悲しむのは周りの人間ばかりなのだ。だからこそ、私は大きな声で言いたかった。どれも同じなんだよ、と。でもそうしなかった。そうするべきではないことぐらいわかっていたつもりだ。そして私は強く内面化するようになった。それら無意味な感情を内面化するしか方法はなかった。


いつの間に私は死ぬことが怖いと感じ始めたのだろうか。彼女は窓から見下ろす雑然とした正方形の数々を目を閉じてもう一度再生してみた。陽の力はもう弱い。だから町並みの印象はつられて弱くなる。でも問題はもっと根本的なものなのかもしれない。もっと静かに大きく居座っているもので私なんかにはどうにもならないことなのかもしれない。彼女は目を開け、空の紙コップを握りつぶすと右手首を見た。そこにはやはり腕時計はなかった。
「君には、なんていうかな。その――チャームがないんだよね


コーヒーメーカーが置いてあったリフレッシュルームから上の階のデスクに続く長い階段の途中で彼女は彼の言葉をふと思い出した。
ああ。と彼女は思った。なんとなく今、彼の言葉が分かった気がした。
彼女は薄暗い踊り場で立ち止まり、しゃがみこんだ。
分かった気がしたのに。
彼女はそう呟いて右手首を確認した。
彼女は今、何時かを確認したかっただけなのだ。


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