Potatos Diary

歩かせたい

歩かせてやりたい

 私が1歳になって歩き始めた頃、ビッコをひき、きちんと歩けないのに親は気づきました。
 原因は、左の股関節がはずれていて、はまる場所も浅く、僅かしかないため、でした。
 今では、赤ちゃんの3ヶ月検診があるため、早期発見、早期治療で、簡単に治るものです。

 でも、戦後すぐでしたから、乳幼児検診などなく、歩き始めて初めてビッコをひく事で、脱臼に気づくのが普通でした。
 股関節脱臼の治療は今よりずっと難しく、見つかった時は、すでに手遅れとされていました。

  私って運が悪いのだ、馬鹿な私はずっと思っていました。
 先天性股関節脱臼で生まれたのが運の悪い始まりだと。

 それを直すことにチャレンジしたために、10年以上の借金地獄の貧しい暮らしが続いたのですが、私は親に感謝するどころか、貧しい食べ物や衣服がつらく、普通の家の子の暮らしを羨ましく思っていました。
 貧しさゆえに、小学生の頃は意地悪や、いじめにも合いました。
 よそのうちのお父さんお母さんがとても優しく見えて、厳しい父母への反発もあり、可愛い子ではなかったように思います。
 7歳下の弟のお守りは思うように遊べなく、弟を可愛いというよりむしろ邪魔でした。

 弟と年齢が離れたのは、私の足の治療のせいで、母が栄養失調になったり、流産をしたためなのですが、そんなことは知らず、小学生の私は弟のオムツを洗いながら、何と運が悪いのかと嘆いていました。 
 大きくなったら、お金持ちになって、おいしいものを一杯食べ、新しくて綺麗な洋服を着て、お友達と楽しく過ごしたい。そう願いました。

 しかし、大学に行き、親元を離れた頃から、私は自分の馬鹿さ加減に気づき始めました。
 なんて、心の貧しい少女時代を過ごしてしまったのかしら。
 思えば、私ほど運が強く、親に愛された子はいないのでは?
 最初の脱臼を直す処置に失敗してしまった事は、「それぞれの愛し方」に書いてありますが、その後のリハビリに汽車で通院していた時、一人の人に出会ったことが、運の良さでは私の一生の中でベスト3に入るものです。

 もう2歳近くなっていた私をおぶって母は混みあう列車に乗っていました。
 降りる駅が近づいてきたので、出口近くへ移動した時、両股を大きく開いた赤ちゃんをおぶった人を、偶然母は見つけました。
 「あ、同じ子がいる」そう思って見ると、最初に試みた治療の処置の時、高いお金を出し、探し回って手に入れた石膏で作ったギプスとは違うものを付けています。

 違う治療法があるのか・・・?
 母は話し掛けました。どこでその治療をしているのかと。
 遠い北見まで行くその人は、小樽の病院で治療を受けている途中で、たまたま帰省するところだとの事。
 かかっている病院は股関節脱臼の専門で、治るという評判を聞きつけた患者が、北海道以外からも来ているそうです。
 母は、夢中でその話しを聞き、到着駅に着いても降りられず、一駅乗り越してしまいました。

 それから、あちこち調べて、遠い小樽の病院で治療してみようということになりました。。
 病院の先生は、「治療するには、1歳半と、年齢は行き過ぎているし、治療の失敗を1回したために更に難しいと思う。でも治る可能性はないとはいえない。それでもいいか。物資がなく、インフレで何もかも値上がりする今、経済的に最後まで出来なくなって止めていく人が多い。途中で止める位なら、お子さんの苦痛やお金の事を考えて、初めからやらないほうがいい」といったそうです。

 父と母は一も二もなく治療することに決めました。
 けれど、父も母も働いていてかなりの蓄えがあったのにもかかわらず、治療を始めてすぐに底をつきました。

 最初の入院費が1日5円だったのに、日に日に上がり、1日50円になりました。(薬も燃料も何もかも凄い勢いで値上がりするので病院の経費も上がる)貯金もなくなり、土地も山も売り払い、インフレで父の1ヶ月の給料は、たった3日分の病院代にしかなりませんでした。
 1年に渡る治療期間中、父は借金に借金を重ねました。
 私の治療には、小さな家なら5~6軒建つほどかかったようです。

 そして、入院費が払えないため、闇で子供服を作って売る店に母は住み込み、ミシンを踏み働きながら、通院治療をすることにしました。
 洋裁をやる母が、丁寧に縫うと、「つながってさえいればいい、どんなものでも飛ぶように売れるから、雑でいいから沢山縫ってくれ」と言われ、母は1日に20枚以上縫ったそうです。

 お店のおばあさんに私はとても可愛がられ、お菓子や食事をいつも食べさせて貰っていたそうです。
 ところが、小樽にいた間のたった一度だけ、母が私を連れて家に戻ってきた日、その一家は闇で手に入った牛肉を皆で食べ、食中毒を起こし、元気な若い人達は助かったのに、おばあさんが亡くなりました。
 その時、私がいたら、おばあさんの膝で沢山ご馳走になり、小さな私は多分、死んでいたでしょう。

 私には、思い返すと、運がよかった、と思える一生にかかわることがいくつもあり、「今度こそ駄目かも?」という災難も、それ以上の幸せを運んできてくれています。
 それは、身近な家族の事情を明らかにすることなので、ここには書けませんが、これからもこの強運が付いて回るだろうという、変な自信すら今はあります。
 だから、どんなに「大変だねぇ・・」と誰かに同情されるような時も、「きっとそのうち、またうまくいく」と密かに思い、あまり心配しない私です。

 私の一番の強い運は、この愛情深い父母のもとに生まれた事でしょう。






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