新電人房 別室『十畳』

11月2日

2004年11月2日(親父殿死去)
 午前05時20分
   普段、こんな時間に起きる事などないのに、目が覚めた。
   いつもと違う事があると妙にドキドキするものだ。
 午前06時30分
   義姉より電話。親父殿の具合がよろしくないらしい。
   兎に角、医者からの連絡を待つ様に言われた。
   昨日より本番対応の為、仕事に行く準備を始める。
 午前07時00分
   仕事には行くが、医者から連絡があるまでは事務所に居る事を決意。
   同僚にその旨を伝えて、事務所に向かう。
 午前07時30分
   塚口駅到着直前に長兄より電話。
   医者より、すぐに集まって欲しいと連絡が入ったとの事。
   このまま大阪に向かうのがいいのか、引き帰した方がよいのか考える。
   宝塚まで引き帰す事を決意。
   途中で再び長兄より連絡があり、義姉と一緒に車で移動する事にした。
 午前08時05分
   義姉と甥と合流。
 午前08時12分
   車中で、「間に合ってくれ」とただ祈るだけ。
   この時間に親父殿は出発していたが、私にはその事を知る術がなかった。
   ただ、車の時計で『8:12』を見たことだけを憶えている。
 午前08時45分
   兵庫中央病院に到着。
   病室に入った瞬間、母親の顔を見て、親父殿が出発していた事を知った。
   その後、長兄、次兄に電話で連絡。
 午前09時09分
   会社、友人、得意先に連絡を開始。
   一頻り連絡を終えると、病院の敷地内で呆けていた。
   その後、次兄が到着。
 午前10時20分
   長兄が到着。すぐに親父殿の遺体を実家に移動させた。

 午後00時(少し前)
   実家に到着。皆が、「お帰り」と声をかけた。

これより先は、時間を覚えていない。
その後、葬儀屋が来て、葬儀の打合せを行い、気が付いたら2時を過ぎていた。
長兄からの依頼で、市役所に親父殿の印鑑証明を取りに行き戻って来たら、親戚が数人来てくれていた。
その後、続々と親戚が来てくれて、三重県から来てくれた親戚は、そのまま実家に宿泊する事になった。
三重、名古屋から来た親戚は全部で13人(内子供3人)。
泊まれる限界を超えているという事で、子供は私の家に泊まってもらう事にした。

少しの間だけ、次兄と二人で話した。
「まさか、こんなに早いとは思ってなかった」
「まだ、実感がわかんから、涙も出ん」
「俺は冷たい人間かも知れんなぁ~」
そんな事を言っていたと思う。

その日の夜、私は親父殿の線香番。
実は線香番は、何故か私がする事になっている。
母方の祖母、母方の叔父、母方の従兄弟の時も私が線香番だった。


2004年11月3日(通夜)
この日も朝から親戚が集まる。
午前中は何をしていたのか、憶えていない。

午後から、『湯灌の儀』を行った。
これは棺に入ってもらう前に、お風呂に入ってもらう儀式である。
勿論、病院で綺麗に体を拭いてもらったのであるが、生前、「風呂に入りたい」と切望していた親父殿の為に、葬儀屋に依頼した。
母は、親父殿に「さっぱりしてよかったなぁ~」と何度も話しかけていた。
実際、親父殿はちょっとさっぱりした顔をしていたと思う。

『湯灌の儀』の後、棺が到着。
親父殿に棺に入って頂く。
ここだけの話、親父殿はかなり嫌がっていたと思う。
「何で儂をそんなもんに入れるんや!」
そんな声が聞こえて来る様だった。
親父殿は生前の身長は175センチくらいだったと思う。
葬儀屋は「死ぬ時に、力が入るので、少し背が伸びますよ」と、190センチの棺を準備。
しかし、ギリギリだった。
棺を運んで来た人が、「随分と背の高い方だったんですね」と驚いていた。

親父殿に葬儀屋の会館へ移ってもらった後、次兄が葬儀屋と何やら話しこんでいた。
後で話しを聞くと、次兄は身長が191センチあり、どれくらいの長さの棺が必要かという話をしていたらしい。
大体15センチをプラスして計算すると、210センチ。
まあ、棺はそのサイズで作ればよいらしいので、棺の心配はないらしい。
しかし、焼き場で200センチを超える棺が焼けるところが少ないらしい。
ちなみに兵庫県だと、ひよどり台に行かなければならないらしい。

会館に移った後、すぐに通夜の準備を始める。
事前に受付けていた花の順番決めを長兄と私で行う。
祭壇を挟んで右手が上座、左手が下座らしい。
長兄、次兄、私とも会社関係で花を出して頂いていたので、まずは会社関係を並べる。
続いて、親父殿の知人、友人。そして、身内の順番。
ある身内は、「花屋を儲けさすだけやなのに、花なんぞいらんやろ」とフルーツを出してくれた。
正直、私はこの身内に賛成である。
花一基が10,500円。一対で21,000円。馬鹿らしい。

通夜が始まる1時間ほど前から、ご参列して下さる方々がお見えになった。
最初のうちは、私達兄弟も受付近くで、ご挨拶をしていたのですが、ご挨拶できたのでは全体の3割程度。
後は、式の途中で気付いたという情けなさです。
(自分では十分に気を付けていたつもりなんですが…)

普段から、私は兄弟で一番小さいと言っていたのですが、私の兄弟を知らない友人は、この日私の言っていた事を理解してもらった事でしょう。
会社でも、上司に、「お前はデカイと思ってたけど、お兄さんらは、輪かけてデカイな」と言われました。

通夜終了後、皆には食事をしてもらっている間、私は親父殿の側で、線香番。
その後、帰らなければならない従兄弟二人をJRの駅まで送って、香典のチェックなどをしていたら、すっかり日付が変わっていました。
食事をした後は、また、親父殿の線香番。

特に申し合わせをしたわけではないが、ホールには長兄、次兄もやって来た。
長兄が、「お前、父ちゃん死んだって実感あるか?」と聞くので、「まだ、病院に行ったら、寝てそうな気がする」と答えた。
そうして、兄弟で朝まで親父の事をしんみりと話すはずだったのですが…。

従兄弟うちでは一番年長者の姉さんが登場。
泥酔状態。
この人は義理事の時は、いつも寝ずに酒を飲んでいる。
延々と脈絡のない話をし続けて、結局兄弟でしんみりと話す事はできなかった。


2004年11月4日(告別式当日)
朝食を母親と済ませ、告別式の開始を待つ。
通夜同様、開始1時間前くらいから、ポツポツとお集まり頂いた。
通夜とは違い、平日の11時開始という事もあり、一般の方は通夜ほどではなかったが、それでも多くの方々にご参列頂いた。

式開始前に、「最後の献花の儀は一般の方にも参加して頂きますか?」と葬儀屋に尋ねられた時に、我々兄弟はお断りしました。
そして、献花の儀が始まった時、長兄が親父殿の懐に一万円札を入れた。
三途の川の渡し賃は、印刷された6文銭が既に懐に入れられていたが、兄からの気持ちだろう。
実は、私もコソっと入れるつもりだったのだが、兄が入れたので、差し控えた。
この時、本当に私は泣き崩れた。花を入れた後、その場から動けなかった。
花がどんどんと入れられ、最後に「ご兄弟で最後の花をお供え下さい」と、三人の前に花が運ばれて来た。
親父殿の胸の部分に、中央に長兄、親父殿の左胸に次兄、私が右胸に花を添えた。

この時、長兄が声を詰まらせながら、

ありがとうございました

と、大きな声で親父殿に告げた。
以前、どこかに書いたと思うが、私の長兄は本当に身内には、「ありがとう」と言わない人間である。
「サンキュ」、「悪かったの」と言うのが、長兄の感謝の言葉である。
長兄が「ありがとうございました」と言った瞬間、心の中でつっかえていた何かが取れた。
長兄の本音であろう。

次兄も泣いていた。
ただ黙って親父殿の手を握って泣いていた。

私も親父殿に「ありがとう」と言いたかった。
しかし、情けない事に、声にならなかった。
声になったのは、泣き声だけだったと思う。

出棺の時、長兄が位牌を、次兄が遺影を持って歩いた。
私は棺を霊柩車に運び込んだ。
最後の最後まで、手を離す事ができなかった。
霊柩車の扉が閉まるまで…。

宝塚の焼き場は、会館から車で20分程度である。
親父殿を運んで、点火するまでの事はあまり憶えていない。
職員が棺を運ぶ時、次兄がずっと棺に手を添えていた事だけを覚えている。
点火の瞬間、長兄が母の肩を抱いていた事だけを憶えている。

2時間後、骨だけになった親父殿を見た。
「立派な骨や」と次兄が呟いた。
長兄は、「骨も残らんかったらどうようか?思っとったけど…。頑丈な体やったんやな」と呟いた。
喉仏がしっかりと残っていた。
子供の頃、とても大きいと思っていた親父殿が小さな骨壷に収まった。

会場に戻り、初七日の法要を済ませ、実家に戻る。
母が親父殿に「お父さん、帰って来たで」と呟いた。

午後8時頃、帰宅。
娘も妻も疲れている様子だった。
私は、一息入れた後、近所の店へ。

カウンターに腰をかけて、店員にバーボンのロックとビールを注文。
実は、親父殿と二人だけで飲みに行った事がなかった。
だから、今日は私の馴染みの店にご招待。
何も言わないのに、店員はお絞りを2本準備してくれた。

親父殿、いままで本当にありがとう。


11月3日夜、親父と二人で


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: