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ママちゃんさんからのご質問へのお答えです。コメントの文字制限に引っかかったので、日記に掲載させていただきます。他の方にもご参考になれば幸いです。ママちゃんさん>その立場からお釈迦様の言葉を思うとき、やっぱり男性だなって思います。そうですね。伝説では光り輝くような美男子だったとか。。。やはり男性の立場で話していると思われる言葉が原始仏典にも度々登場します。ゴータマ・ブッダは、肉体を持つ生ける仏なのでしかたないですね。>輪廻の中で、男性が女性に生まれ変わることはあるのでしょうか?あるでしょうね。霊魂となって肉体を離れた時点で性別はなくなりますから、次の肉体へ転生する時に新たな性別が決まるのでしょう。輪廻はインドでは伝統的な思想であり、インドの後期密教を引き継いだチベット仏教などでは、ダライラマは観音菩薩の生まれ変わりとされています。高僧だけでなく、生きとし生けるものは皆、転生します。したがって虫も殺さない理由は、あなたのご先祖かも知れないからなどと言うのです。しかし実は、お釈迦様は輪廻に懐疑的です。方便として話にはよく出てきますが、バラモンとの議論においては、悟りには何の役にも立たぬ議論だとして沈黙を保っています。私は明らかに否定していると思います。生まれ変わって善い人になろう、幸せになろう!ではなく、「今この現世において悩み苦しみを滅し尽くして、涅槃(幸せ)の境地に行きなさい」と教えているように思うのです。>輪廻はどういう法則でなりたっているのでしょうか?>お釈迦様がその法則をはっきりと言い残してくれていたら、今の世はもっともっと良い世の中になっていたのではないでしょうか。長くなりますが、一言で言えば、縁起の法則の上に、仏教では十二支縁起として説かれています。「ダライラマの仏教入門~心は死を超えて存続する」(光文社知恵の森文庫)には、それらが実に明解に分かりやすく説かれています。残念ながら我が国の学者や坊さんの書いた本では、分かりにくいです。ダライ・ラマの仏教入門>男性ばかりがお釈迦様の言葉をつないできたことが、女性を学問から、社会から遠ざけてきた歴史が今のひどい世の中を作ったように思います。その通りかもしれません。でも現代では瀬戸内寂聴さんのような方もおられますから、今後は期待できますよ。>人の前に、自然があります。>自然全体が母そのものであり、すべての善悪のバランスを示してくれていると感じています。>もし輪廻が本当であれば、この世で償い残した罪は確実に来世に持ち越されるのではと思います。仏教が輪廻からの解脱を目指すものであることを前提としながら、輪廻の思想から抜け出せなかったのは、弱肉強食・非道無道の世の中で、現世での行いが来世に影響するということで最低限の倫理観を保とうとした結果だと思います。>ただどんな母も生まれる子供が不幸になることを望んで産むことはないように、生まれ変わった時には必ず本人の努力に報いるように、前世の罪を償えるように、同じ間違いを繰り返さずに成長できるように心を配るのではないでしょうか?観音様は、女性のようなお姿をされています。それも母親のような温かい面差しです。ような、ということは、ほんとうは男性なんです。般若心経を舎利子(シャーリプトラ)に説いている観自在菩薩は、観音菩薩の別名で、同一の菩薩さまなのです。サンスクリット語では、どちらもアヴァローキテシュバラ、「見る」という意味と「自在」という意味の合成語で、漢訳の際に、観世音、観音、観自在などとなりました。では何故観音様が女性的なのかと言えば、観音菩薩は、仏の慈悲の象徴だからです。お釈迦様はこの慈悲を教えるとき、いつも「あたかも母親が幼子を慈しみ哀れむように」と繰り返されています。仏の慈悲は、母親が我が子に注ぐ愛そのものだということもできるでしょう。>人から見たら馬鹿な考え方かもしれませんが、それが事実であったらいいなって思っています。-----馬鹿な考えではありません。それが事実であるかどうかでなく、そう信じることが大切なのだと、拙僧は思います。 あなたの未来が幸せでありますように!合掌 観学院称徳
2006年01月31日
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「すべての人々には、清浄の本心がある。 それが外の因縁によって起こる迷いの塵のために覆われている。 しかし、あくまでも迷いの心は従であって主ではない。 月は、しばらく雲に覆われても、雲に汚されることもなく、 また動かされることもない。 だから、人は浮動する塵のような迷いの心を、自分の本性と思ってはならない。 また、人は、動かず、汚されない悟りの本心に目覚めて、 真実の自己に帰らなければならない。浮動する迷いの心にとらわれ、 さかさまの見方に追われているので、人は迷いの巷をさまようのである。 人の心の迷いや汚れは、欲とその変化する外界の縁に触れて起こるものである。 この縁の来ること去ることに関係なく、永久に動かず滅びない心、 これが人の心の本体であって、また主でもある。」 (『仏教聖典』68頁9行より 仏教伝道協会刊)すべての人が持っているという清浄の本心。色々な条件や状況が来ること去ることに関係なく、永久に動かず滅びない心。これが人の心の本体であって、また主でもあるという心。これこそ「仏性」であると、仏典はいいます。観仏、念仏とは、本来は瞑想してこの内なる仏性を観想することなのです。それは、闇黒の天空に一人凛として輝く満月のように透明に輝いて生きる力を私たちにもたらしてくれる、仏の慈悲そのものだと言うこともできましょう。あなたの心の迷いや汚れが晴れますように!合掌 観学院称徳
2006年01月31日
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「もともと、すべての人々が、始めも知れない昔から、煩悩の行為に縛られて、 迷いを重ねているのは、二つのもとを知らないからである。 一つには生死のもとである迷いの心を、自己の本性と思っていること。 二つには、さとりの本性である清浄な心が、迷いの心の裏側に隠されたまま 自己の上に備わっていることを知らないことである。」 (『仏教聖典』67頁9行より 仏教伝道協会刊)私たちは、自我の確立が、子供から大人になるのに、そして大人として一人前であるために必要なことであると教えられてきました。そしてこの自我とは、自分を他と区別する心の働きであるとも教えられました。しかしその心が迷いを生み、苦しみを作り出していることは容易に理解できます。自己の本性、真の本体であると思っている自我のもとである心が、人生のすべての迷いを生んでいる。これではどうしようもない。自己を消滅させるしか救われないのか?否、さとりの本性である清浄な心が、迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上に備わっているのです。そのことを知らないことが、迷いを永遠に続くものであるかのように勘違いさせるもとなのです。迷いの心の裏には、さとりに到る浄らかな心があるのだ。迷いがあるから、さとりもあるのだ。本日のお釈迦様の教えです。あなたの迷いが晴れますように!合掌 観学院称徳
2006年01月30日
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関口知宏という俳優がいます。インディーズのミュージシャンでもあるらしい。昨年NHKで放送された「列島縦断~鉄道乗りつくしの旅」の旅人である。素朴な青年である。ナビゲーター役の彼と、地域で生きる鉄道と利用する人々、沿線の人々との暖かい交流が不思議な魅力を醸し出していました。列島縦断 鉄道乗りつくしの旅~ JR20000km 全線走破~http://www.nhk.or.jp/tabi/同じくNHKで放送されたシベリア抑留のドキュメンタリードラマで、抑留された下級将校の軍人を演じていて、これまた地味だが心に残る演技でした。ところが昨日テレビを見ていて、彼が関口宏さんの息子だと分かりました。関口宏といえば今はバラエティやクイズ番組などを取り仕切る司会役としてテレビでよく見る顔ですが、元々は俳優、大昔映画のサラリーマン役などで軽妙な演技を見せていた人です。息子とは、正反対のキャラクターです。関口宏さんといえば、名優佐野修二の息子で、奥さんは西田佐知子さんではないか。西田は、名曲「アカシアの雨がやむとき」をけだるいハスキーな声で歌っていた昔の大歌手です。ということは、お祖父さんとお父さんの俳優の血を受け継ぎ、歌手であるお母さんの血も受け継いでいるということです。芸能の才能が遺伝的に受け継がれるとは思いませんが、後天的に家庭環境では受け継がれるのではないかと思います。関口知宏さんは、笑顔が素敵だったお祖父さんやお父さんそのままに、暖かい環境で育ったと想像するのが容易い心の温かさをもった俳優です。その心の温かさを象徴させるような彼の言葉がテレビ番組では、どこかの新聞の引用で紹介され、思わず目が潤みました。曰く「列島縦断で出逢った81歳のおばあちゃんの言葉が心に残っています。 『ずっと貧乏でよかった。ひとさまの親切が分かるから。。。』と。」金持ちは勝ち組、貧乏は負け組と言われている世の中で、負けるが勝ちを地でいく、こんな人生もあるのだと思いました。このおばあちゃんの言葉は、けっして負け惜しみではありません。長い人生を経た末の、心からの実感なのです。ホリエモンに象徴される拝金主義、お金がすべての価値を超越すると思われた世の中で、こんな言葉を発するおばあちゃんがいます。それを感動的に受け止める青年がいます。日本もまだまだ捨てたもんじゃあ、ありませんね。心の鏡を澄み渡らせて、人の美しい言葉をいつでも感じられるように心の余裕を持ちたいものです。関口知宏さんの今後が楽しみですね。人の心の温かさを素直に感じられますように!合掌 観学院称徳
2006年01月29日
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事実は小説より奇なりと言いますが、世の中、いろいろなことが起こるものです。一夫多妻生活をしていたスキンヘッドの中年男が逮捕されました。一夫多妻という結婚形態は、現代の日本では禁止されているものの歴史的に見ても、世界的に見ても珍しいことではありません。日本での禁止も重婚=配偶者がいるのに二重に婚姻届をすること=であって実質的な一夫多妻までが罰則の対象にされているわけではないのです。したがってこの男の容疑も、逃げた女性への恐喝や監禁未遂などになるのでしょう。男自身は、テレビのインタービューで「秘密の呪文で急にもてるようになった。自分でも不思議で怖かった。」などと言っていたのは、ご存じのことと思います。石原都知事も記者会見で言っていたように、「そんな呪文があったら知りたいね」と、誰もが思うことです。傷だらけの人生を過ごしてきた拙僧だって、同じ穴のムジナです。でも、男の言葉にほんとの秘密が暴露されていたのだと、ワイドショーのニュースなどを見ていて感じました。曰く「怖い話をしていて、女性の不安が高まったところで、心に呪文を唱える」と。人は、誰でも心の中に言いしれぬ寂しさと、満たされなさを感じているものです。既に明治の文豪、夏目漱石の小説の主人公が心の内に抱き、苦しんでいた近代人の苦悩です。 人はほんとうの自分を見出し得ないので、自分を肯定することができないのです。その心の空虚さを埋めるために、何ものかとの繋がりを求めるのは当然の成り行きです。自分でも気がついていない、真面目に向き合っていない、この心の隙間に怖ろしい話で揺らぎを膨らませ、不安の頂点に達したとき、救いと安らぎの言葉で、一気に心の中に入り込むのです。ハッキリ、言います。ホリエモン問題でインチキを露呈した細木某のように人が潜在的に持っている不安を呼び覚ます、脅かしの言葉を強圧的に浴びせかけ、怯んだ隙間に救いと安らぎの言葉を注ぎ込む。これは、伝統的にインチキ占い師や、怪しいスピリチュアル・カウンセラー、カルト的宗教などで人の心につけ込むための手法なのです。救いを求める者にますます不安を煽るような脅かしの言葉を投げかけるようなほんとうの占い師、カウンセラーや宗教家は、けっしておりません。そのような場面に出会ったときは、迷わずこれはインチキだと心に思い知らせ、その場から離れましょう。彼らは「このままでは命がない。地獄に堕ちる。地獄の炎に焼かれる」などと、脅しの常套句を投げつけて来るでしょう。しかし、怯んではいけません。人間どうせ死ぬのです。このような言葉を吐く者に、救いの力はありません。二度とそのような者と会ってはなりません。これがマインドコントロールを防ぐ、最強の防護策です。人は、一人では生きられない。どこかに寂しさや悲しみを抱えて生きています。そういう人の心につけ込もうとしている悪意を持つ人がいるのだということも心しておくべきでしょう。精神的な病気ならば迷わず病院に行きなさい。病気とはいえないと思うなら、神仏に祈りなさい。あなたの心が本気ならば、一人で生きているのではないと感じることができるでしょう。人の長い歴史の中で、宗教が果たしてきた役割がそこにあります。あなたの心が健やかでありますように!合掌 観学院称徳
2006年01月28日
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仏弟子となってから、占いにはとんと関心が無くなったはずの拙僧ではありますが、今、占いの世界で話題になっているという「日本歴史占い」をやってみました。仏教の根本である「縁起」の理念からすれば、またお釈迦様の言葉からも運命は与えられるものではなく、自ら創っていくものです。ほんとは占いなどに囚われてはいけません。縁起は、単なる因果律ではなく、原因と結果の間に縁を置くところが特徴です。縁とは、~に依るということで、原因から結果を生む際に、諸々の条件が関わっていると考えるのです。単に原因から結果が生まれるとすると、宿命論を許してしまう可能性を残します。しかし間に縁を考えることによって、同じ原因からも条件さえ変えれば、異なる結果を得ることができることになります。善い言葉と善い行いと善い心を持つことによって人生をより善いものにできると、お釈迦様が教えたのも縁起からです。たとえ悪人であっても、阿弥陀仏の名を念仏すれば、地獄に堕ちることはなく、阿弥陀仏に救われて極楽浄土に往生できるという思想は、実は親鸞さんの発明ではなく、お釈迦様の言葉として原始仏典にも登場するものであり、それは縁起の思想を根拠としているのです。(注:お釈迦様の時代には阿弥陀仏はまだ登場せずただ仏=真理を悟った人、悟りの世界に住する人=という意味ですが)そういう拙僧が今回占いをやったのは、日本の歴史上の有名な人物像と占いを結びつけたところが、おもしろいと思ったからです。日本史上の各界の有名人物男女各12名をおいて、生年月日で誰に当たるかを占う。ということは、東洋占星術である四柱推命を簡略化した十二支占いに歴史上の男女の人物像を当てはめたものだと予測できます。宗教界からは、弘法大師空海さんが選ばれています。お釈迦様と空海さんの直弟子と勝手に思っている拙僧としては、是非とも空海さんに当たってほしいと思いました。そうなれば誰が何と言おうと、空海さんの生まれ変わりと言うことができますから。で、果たして何と出たか。。。?が、が、がちょーん。ガキ~ン! そんなアホな? な、何と、天下の大泥棒、石川五右衛門とな!?仏弟子となり菩薩行を誓いながら、日頃重ねたる悪行の数々、まさしく悪しき因縁を自らつくった結果なのか。。。拙僧は、如何なるものを盗んで、釜ゆでの刑に処せられる運命なのか???それは、あなたの心です。などと、きざなセリフが似合わないことぐらいは自覚しております。否、とんでもないインチキではないのか???と、思いつつも占いを読んでみると、これが結構おもしろい。以下に、引用させていただくしかありませぬ。歴史が教えるあなたの未来あなたは、安土桃山時代に生き、潔く散った極悪非道の盗賊石川五右衛門何をするのも独創的で個性的変わっているうえにマイペース。世の中の尺度なんて眼中になく、自分にとっての善し悪し、好き嫌いで生き抜くはぐれ者。五右衛門も並のワルじゃぁありません。強盗、殺人、おいはぎ等悪逆無道の果てに、時の権力者秀吉の命を狙って伏見城に忍び込み、あと一歩で御用に。しかも、「お前こそ天下を盗った大泥棒だ」と、啖呵を切りました。頑固で融通がききませんが、あなたの個性を磨くことでオンリーワンの存在になれます。頭脳・知性コピー不能な芸術的思考の持ち主。全部がオリジナリティーに溢れている。他の人が真似できない独創的な分野を切り開き、後にも先にも、その世界でオンリーワンの存在となる。センス何が嫌って、他人の物差しで計られたり、一般的な常識に合わせて生きること。はなから合わせる気もない。一途で一本木なところがある。「孤高の人」でも、それはそれで男の美学を感じている。感情他人に影響されず、頑固なまでに自分の中のルールとテンポを崩さない。ふだんは物事を冷静に観察してクールだが、いざという時、内なる闘志をメラメラと燃やす。外見・言葉あまりにも個性的なので、「変わっている」と思われがち。無口だし表現力も乏しいし、初対面の人は取っつきにくいかもしれないが、気持ちは真っ直ぐで純情で、裏表がない。行動群れるのが嫌いな一匹狼。たいていは一人、あるいは気心が知れた身内と一緒に過ごすことが多い。一旦、「コレだ!」と決めたら、回りの視線や評価など気にせず、トコトン突き詰めていく。以上、評価の程は、皆様におまかせします。オンリーワンなら良いってものでもありませんが、拙僧の自己評価では、当たってないのは「無口だし」くらいかと思います。ご興味のある方は、どうぞ占ってみてください。日本 歴史占い - 歴史が教えるあなたの未来 -http://uranai.artisthouse.co.jp/あなたの未来が明るく楽しいものでありますように!合掌 観学院称徳
2006年01月27日
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「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。 理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」 これが第一の破滅です。「悪い人々を愛し、善い人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。 これは破滅への門である。」これが第二の破滅です。「睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励することなく、怠りなまけ、 怒りっぽいので名だたる人がいる。これは破滅への門である。」 これが第三の破滅です。「みずからは豊かで暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない 人がいる。これは破滅への門である。」これが第四の破滅です。「バラモン(僧)または<道の人>または<もの乞う人>を、嘘をついて だますならば、これは破滅への門である。」これが第五の破滅です。「おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいものを 食べるならば、これは破滅への門である。」これが第六の破滅です。「血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己が親戚を 軽蔑する人がいる。これは破滅への門である。」これが第七の破滅です。「女(男)に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものを その度ごとに失う人がいる。これは破滅への門である。」これが第八の破滅です。「おのが妻(夫)に満足せず、キャバ嬢やホストと交わり、 他人の妻(夫)に交わる。これは破滅への門である。」これが第九の破滅です。「青春を過ぎた男が、盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、 彼女についての嫉妬から夜も寝られない。これは破滅への門である。」 これが第十の破滅です。」「酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、 これは破滅への門である。」これが第十一の破滅です。「王族の家に生まれた人が、財力が少ないのに欲望が大きくて、この世で 王位を得ようと欲するならば、これは破滅への門である。 世の中にはこのような破滅のあることを考察して、 賢者・すぐれた人は真理を見て、幸せな世界を体得する。」 (『ブッダのことば スッタニパータ』第一蛇の章 七、賤しい人より 中村元訳 岩波文庫)人間の文化・文明は、個人のもつ「知」が、その所属する組織や社会に共有されることで、他の個人との間に新たな「知」を生み出すという、スパイラルを巡りつつ進化・発展してきました。しかし、人間の心の中は、有限である個人の人生の中でしか発達せず、そうした心から生ずる言葉や行いもまた、ひとり一人の人生の中でしか発達しないようです。結果、2500年前のインドの状況と現代日本での状況との間に、人の業という面から見れば、さしたる違いが見出せないようです。そうだとすれば、心の問題に関していえば、お釈迦様の教えは現代でも通用するもの、十分に効果のある心の薬として、有効期限は切れていないのだろうと信じています。先日いただいた、ママちゃんさんからのコメントをご紹介します。「どれほど時間が経とうと、人間はいつも一から始めて、自分で体験した ぶんしか成長しないのかもしれませんね。ホリエモンも先人に学ぶこと なく、自分で体験するしかなかったのでしょうか。 でも精一杯自分で動いてエネルギーを使った分だけ、学びも大きくなる のかもしれませんね。 この世は常に等価交換が成立しているように感じます。 (2006年01月25日 10時17分11秒)」「この世は常に等価交換が成立している」。。。拙僧もそう信じたいと思います。世界に生きる人々の悩み苦しみが無くなりますように!合掌 観学院称徳
2006年01月26日
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「象を扱う術を学ぶには、信念と健康をもち、勤勉であって、 偽りがなく、その上に智慧がなければならない。 仏に従ってさとりを得るにも、やはりこの五つがなければならない。 この五つがあれば、男でも女でも、仏の教えを学ぶのに長い年月を要しない。 これは、人にはみな、さとるべき性質がそなわっているからである。」 (『仏教聖典 パーリ、律蔵大品一-五』66頁1行 仏教伝道協会刊)男でも女でも、仏の教えを学ぶのに長い年月を要しない。これは、人にはみな、さとるべき性質がそなわっているからである。さとるべき性質とは、仏性のことです。一切衆生悉有仏性、人には皆仏性があるでしたね。また、お釈迦様の言葉には、さすがにインドらしく象さんが出てきます。私のお守りの仏像~お釈迦様であり観音様でもあります~にも、象さんが付き従っています。(以下URLに写真があります)http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200509260001/象さんは、賢くて思いやりがあってよく働く、理想的な人のような家畜ですが、賢いだけに飼い馴らすのは大変です。その大変なことでも信念と健康をもち、勤勉であって、偽りがなく、その上に智慧さえあれば可能なので、同じようにすれば誰でも悟れるのだという教えです。しかし、どういうわけか、仏教にもキリスト教にも、共通して女性は悟れないという思想が根強く存在しています。何故かと言えば、女性は不浄であるとか、穢れているからとか言うのです。フェミニストが聞いたら猛烈抗議されそうなので、みんな黙っているのですが、現在でも根強くそう信じている宗教家は多いのです。勿論仏教にもキリスト教にも尼僧はおります。でも彼女たちは、女を捨てて男性にならないと悟れない(キリスト教では神のもとに行けない)ということになっているのです。キリスト教カトリックでは、前のローマ法王ヨハネパウロ2世が歴史上初めて、こうした考えが誤りであると認め、教会がずっとこの考えを採用していたことに対し許しを請いました。そもそもイエスに最初に従った教団の中には、母親のマリアと、娼婦出身?(これも女性蔑視に起因する後の創作)で実質上の妻といわれているマグダラのマリアがおりましたし、イエスの差別される者への愛の大きさを考えれば、女性差別を許すはずがないのです。仏教ではどうかというと、ローマ法王のような影響力のある高僧が、そのような宣言をしたという話は聞きません。カトリックや他国の仏教のように、男性にも妻帯を認めないというのであれば、みんな男になれというのも見方を変えた男女平等なのですが、わが日本仏教では、堂々と妻帯を認めておりますので、これでは不平等です。お釈迦様の最も嫌いな考え方になります。お釈迦様がまだ現世におられた頃、ご自分の育ての親である叔母さんとその従者(女官)たちを出家させていますので、原始仏教教団には、はじめのころから尼僧たちがおりました。お釈迦様は当初女性の身で出家は大変だからと、叔母さんを説得し思い留めようとしました。これは女性差別ではなく、当時の教団には立派な建物もなく、文字通り森に住んで托鉢と瞑想生活を続けていくわけですし、まして叔母さんは王族出身ですので、出家生活に耐えられないと気遣ってのことでした。結局は決心の固いことを知って、出家を許されました。この尼僧たちの言葉が『尼僧の告白~テーリーガーター』という南伝のお経として残されています。中村元博士の訳で岩波文庫にもなっています。修行をしていく中での悩みや苦しみ、喜びや楽しみなどが二千数百年の時を超えて、活き活きと描かれています。仏教に男尊女卑的な思想が持ち込まれたのは、どうも中国でのことのようです。中国は男系社会ですし、儒教的な倫理観からも、男尊女卑的な面を仏教に加えてしまいました。本来、日本は女系社会でした。卑弥呼や推古天皇など女帝も珍しくなく、平安朝文学で見るように妻問い婚がむしろ一般的でしたから、女性を差別する考えは強くなかったと思います。そのあたりは鎌倉幕府の頼朝夫人、北条政子さんの頃までは続いていたようです。中国から伝わった男系重視の儒教思想と中国化された仏教思想が、社会の下々にまで浸透するにつれて、男女不平等を社会システムに組み込んだということだと思います。現代は、どう考えても女性上位の時代です。これは日本の本来の伝統なのです。女性の皆さん、金や地位や名声に目が眩んだアホな男どもを放り出して安心安全の悟りの世界を目指しましょうね!!!合掌 観学院称徳ご参考:最近の読書傾向と前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の偉大さ発見 2005年04月22日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200504220001/「神の名において殺すな」 ローマ法王の遺言 2005年04月05日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200504050000/
2006年01月25日
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今から16、7年前、大ヒットした『人麻呂の暗号』という本をひょんなことから、最近、また拾い読み返しました。現在でも新鮮さは変わらずおもしろいです。万葉集第一の歌人、歌聖柿本人麻呂。その歌は実は、学生時代に習った漢字仮名交じりの現代日本語とは似ても似つかない、万葉仮名と呼ばれる漢字の羅列で記されています。仮名ですから表音文字なのかと言えば、必ずしもそうとも言えず、表意文字としても解釈しなければ、読むことができないのです。古来、その読み方を巡って多様な解釈と読み方がされてきたようです。問題は、その漢字の羅列である人麻呂の歌を、同じ漢字文化圏に属する韓国人や中国人ならどう読むか。そもそも千数百年の時代を超えて、現代語で読めるのか?実は、これが読めちゃう、しかも雄大で美しい叙景歌がおどろおどろしい亡霊の歌に変貌したりするのです。もう推理小説を読むよりおもしろいこと請け合いなのですぞ。本は残念ながら絶版のようで、楽天ブックスでは見つかりません。古本は、楽天フリマにありました。http://item.furima.rakuten.co.jp/item/50944664/売れた本なので、お近くの図書館にはあるかもしれませんよ。この本の魅力と、内容の一部は「カフェ・ヒラカワ」さんのブログで紹介されています。http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200601220000/そのページのblue hillsさんのコメントに返信のコメントを書いたのですがコメントの文字数は全角800字以下とのことで掲載できませんでした。やむなく、自分のブログに書くことにしました。blue hillsさん、気に障ったらご免なさい。blue hillsさん>全体の文意自体に反対するわけではありませんが、>> そこには、古代朝鮮語、古代中国語、古代日本語が>> 混交した形で記されていたのかも知れない。>について、『人麻呂の暗号』の如き書物を以てし>ては斯く述べることは不可能です。→確かにこの本では、古代朝鮮語ではなく、現代韓国語、せいぜい最近の『李朝語辞典』によって解釈していると記されています。また、万葉仮名として使われた漢字を、ただ表音文字としてのみ捉えずに、『設文解字』による字源や、こちらはホンモノの中国古典の用法などと合わせて解釈しています。>藤村氏や、同時期に流行った李寧煕、朴炳植両氏のように、古代朝鮮語で万葉集を解読できたかのように騙る書物は時々出現しますが、そもそも万葉集の如き多量のデータの載った言語資料は、同時期に朝鮮半島で話されていたコトバについては残されていません。換言すると、現在までの言語学の業績に基づけば、古代朝鮮語は上代日本語に比べて著しくその知られているところが少なく、上述の諸氏の手になる書物において「古代朝鮮語」と称されているものも、その過半が現代朝鮮語であるというのが実態です。→ご説の通りです。しかしこの本には確かに、現代朝鮮語で、歌については若干の朝鮮古語も交えて読解したと記されていますので、読者や評論家が、古代日本語に対応させて古代朝鮮語と勘違いした、それが一人歩きしたものと思います。>古代日本の形成に朝鮮半島及び中国大陸からの影響が大きく与っていることは今更ながら強調するまでもないことですが、そのことと万葉集が「古代朝鮮語」なるもので解読できることは、全く別の次元に属するものであると思います。-----→その通りかもしれません。むしろ着目すべきは、古代の日本人、韓国・朝鮮人、中国人が、漢字を共通文字として、頻繁なコミュニケーションしていたということです。人麻呂など歌人(=言葉を操ることを職務にしている人)はもちろん、政治家や官僚などのエリートたちは、渡来人も多い大和政権の中で、現代人が英語を解する程度には、当時の中国語や朝鮮語を理解していただろうということは言えるはずです。多くの渡来人たちはそれなりに勢力を誇っていましたし、遣隋使や遣唐使など政府間の正式な国交と、留学制度まであったのですから。そして、注目すべきは漢字の羅列である万葉の詩歌を、そのままで現代の中国人は中国語で読め、韓国人は韓国語でも意味が通る程度には、読めるという事実です。しかも日本語の現代語訳ともリンクしていて、歌に重層構造をもたせ、おもしろさ倍増で読めるのです。勿論、全部の万葉歌がそうなのではなく、ただ一人歌聖と呼ばれた人麻呂の歌が、そうなのですが。学問的な論文ではなく、推理小説のようなものですのでお気軽にどうぞ。この本にも書かれていますが「従来の古典研究者に、隣接の朝鮮語や中国語への配慮がなかったことの方がよほど不思議に思えてくる。ヨーロッパの古典研究ではごく当たり前に行われている多言語的解釈が、日本ではいまだ手つかずの状態なのである。(中略)従来の研究が、やまとことば成立期の言語の流動性を顧みなかったのは、私たちにはまったく腑に落ちないことである」と。日本文学だから、日本語や日本文化でのみ解釈すればよい、韓国・朝鮮語などで解釈できるというのは馬鹿げているというのは、まったく江戸末期から明治維新を経て今に続く、皇国史観に基づく偏見でしかないのだと思います。日本が正式に鎖国したのは、たかだか江戸時代になってからであり、古代においては、特に飛鳥、藤原、平城、平安時代の中頃まで、日本は常に激動する東アジアの一員であり続けたことを想起すべきなのです。拙僧は最近、鎌倉以前の仏教の勉強をしていますから、なおさらこの考えを強くしています。『人麻呂の暗号』の如き書と馬鹿にするのは簡単です。お読みになれば多少は評価すべきところもあるかもしれないのに。。。所詮は、素人の学生たちと多少偏向した教師がグループでまとめた研究発表のようなものです。しかし、この本の作者たちが持つに到った「?」を象牙の塔の方たちにぶつけてみたい気はします。何せ、本書がヒットしたとき、彼らはガキどものとるに足らない戯れ言とせせら笑っていたのですからね。
2006年01月24日
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「蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、 迷いを離れてさとりがあるのではなく、誤った見方や迷いから 仏の種が生まれる。 あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、価も知れないほどに すばらしい宝は得られないように、迷いの泥海の中に入らなければ、 さとりの宝を得ることはできない。 山のように大きな、我への執着を持つ者であって、 はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。」 (『仏教聖典』63頁5行より 仏教伝道協会刊)フーム。。。もしかするとホリエモンは、今後数週間の間に悟りを得るチャンスなのかも。身一つで入れられたという、外部と隔絶された三畳一間のシンプルな空間(独居房)は、瞑想には非常に都合が良さそうだ。拙僧より先に悟られちゃうのは、ちょっとシャクだが、インターネットやマスメディアに煩わされることなく、心に去来する憤りや怒り、あきらめや後悔と真正面から向き合うチャンスは、人生の中ですばらしく大切な時間となろう。罪を憎んで人を憎まず。ホリエモンにも悟りの光が現れますように!合掌 観学院称徳
2006年01月24日
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ホリエモンは、偉い人なのか?会社の経営者、社長や役員は、偉いのか?確かにトップマネジメントは、企業のリーダーであり、管理者であり監督者です。会社の理念を体現している顔でもあります。経営戦略や方針を決定します。最高の人事権や財務上の権限を持っています。会社の三要素である人、モノ、金を握り、さらに近年これに付加された重要な要素である情報が集中するセンターハブでもあるのです。当然会社というものは事業体ですから、事業を運営する従業員がおり、外部のパートナーがおり、大切な顧客もおり、株主もおりますので、トップマネジメントは、これらの人々やその会社にも責任を負っているのです。さらには上場会社であれば、市場に対しても、社会に対しても大きな責任を負っているのです。倫理観の欠如した、自らの金だけにしか価値を見出せない経営者を、社会や法の番人たる官憲が許しておけないのも、結果から見れば当然かもしれません。偉い人というと人格的な面を連想しますが、トップマネジメントが偉い人かどうかはともかくたいへん大きな責任を負っている人であることは確かなのですから。会社を組織面から見れば、ピラミッド型の組織をイメージします。旧来の経営者たちを笑い草にしていた、ライブドアも、まさに大ピラミッド組織を作り上げています。そこにはトップダウン型の階層構造が厳然として存在します。決定権はすべてトップである独裁体制であることは、特徴的です。彼らから見れば自分たち以外は単なる働き蜂。黙って死ぬまで働けばよいのです。自分たち経営幹部以外は、社員も世間もアホでしかないのでしょう。信頼し合う関係ではないのです。組織面から見れば、ライブドアはどの旧来の大会社とも変わりません。違うのは、従業員の面前にストックオプションなどの金をぶら下げて、滅私奉公を強いていたベンチャーにありがちなワークスタイルでしょう。ITバブルのただ中にあって、売れたビジネス書を今また読み返しています。「ノードストローム・ウェイ」という本です。徹底したお客様第一主義で、全米NO.1の顧客満足を誇るという、高級百貨店ノードストロームの独創的な経営手法を解明しているまじめな本です。その中に同社の組織図が紹介されています。特徴的なのは、ピラミッドには違いないその図の天地が逆転していることです。一番上には、顧客接点となる販売員がいます。その下の階層には、販売員をサポートする売場マネージャーがいます。さらにその下には、売場をサポートするストアマネージャー、バイヤーやマーチャンダイザー、チェーン店のエリアマネージャーやゼネラルマネージャーがいます。そして一番下に、役員がおり、最後に社長がいるのです。見事な逆ピラミッドは、「顧客第一主義」が単なるスローガンでないことを示しています。その証拠に、役員の主なる職場は、売場などの現場になるのだそうです。社長室や役員室にふんぞり返ってはいないのです。(たとえポーズとしても)なぜなら、トップマネジメントの役割は、中間の管理職や専門職、そして何よりも売場の販売員が働きやすく、お客様に喜んでもらえるためのサポート・サービスをするために、自分達の存在価値を見出しているからです。株価時価総額を上げることが、彼等の第一義的な使命とは考えていないからです。米国でも異質なこうした経営手法は、経営的には苦戦を強いられているようではありますがお客様に喜んでもらえるなら、それも経営者の役割だと腹をくくっているようです。ホリエモンのやり方を米国流だとか、グローバルスタンダードだとか言っていた某T大臣や学者、コンサルタント、アナリストたちがいましたが、ホリエモンのやり方がそうだと言うのなら、そんなものは彼の国では、ITバブル崩壊後のエンロンなどのマネー至上主義会社の破滅によって、とっくに過去の遺物になっていたのです。この頃発売された「ノードストローム・ウェイ新版」が当時ヒットしたのも、古いけれど真っ当な経営手法が見直されていたということですね。ソフトバンクの孫さんが株価時価総額経営を言わなくなって久しく、地道な実業に励んでいることを考えると、ソフトバンクのつられ下げは痛いなあ。あれ、本音が出ちゃった。。。合掌 ホリエモンの悪夢が早く醒めますように!ヒロ伊藤@スユアでした。
2006年01月23日
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1月20日掲載「言葉にご注意」に対していただいたコメントを読んでいて昔、落語で聴いた話を思い出しました。蝦夷地(北海道)に行って江戸に帰って来た人が、友達にその厳しい寒さを説明します。蝦夷地の厠(かわや)には、金槌が置いてある。何んでだろうと思っていたが、小便をしたら出したものが下に着くまでの間に凍ってしまうので、これを金槌でたたき落とすのだと分かる。次の小便が出る。出るとまた瞬時に凍るので、たたき落とす。出しては落とす出しては落とすの連続で、北海道の厠はひどくうるさく疲れる。寒いの寒くないのって、このくらい寒いのだと言う。猟師が鶴を狩るのに、鉄砲ではなく鎌を持って出かけるのでついて行くと、池に降り立った鶴がうっかりとうたた寝をしている間に、足もとの池が凍り付く。逃げるに逃げられない鶴を、猟師は鎌で鶴の足を刈って捕るのだと言う。さらにはあまりの寒さに口から発した言葉さえ、相手に届かないうちに口から発した途端に凍って氷の塊になる。話を聞くためには、この氷を鍋に入れてストーブの上に載せ溶けると言葉になって飛び出すのだと言うのである。これは結構便利なもので、伝言は氷の塊を運べば間違えることがない。ただ春になって暖かくなると、あちこちに落ちている言葉の氷が溶け出して賑やかを通り越して騒がしい状況となり、うるさくてしょうがないのが難なのだが。言葉には霊力があるというのが「言霊」の思想です。何故ならば、言葉にはそれを発した人の思い(念)が込められているからです。神仏への祈祷により加持を得た言葉の霊力はさらに強力になり、言葉の宛先の人に降りかかる。相手を呪い殺すことさえ可能だと考えられました。そして言葉は使い方を誤って滅多なことを言うと災いが降りかかると信じられていました。弘法大師空海さんが梵語による祈願文などのご真言を唱えることで、法然さんや親鸞さんが漢文の念仏を唱えれば、仏様に思いが伝わると考えたのも、また多くの人々が歴史を超えて、ご真言や念仏の効力を信じてきたのもこうした我が国に特に強かった言霊の思想が底流にあったからだと思われます。ご真言や念仏は、本来の意味では仏様を観想することが目的なのですが、我が国では、確かに言葉を発することそのものに重きが置かれたのです。言葉は発した瞬間に言霊となって、一人歩きを始める。よくよく気をつけて話さないと、こちらの思いが伝わらないだけでなく相手に誤解を与えたり、怒らせたり、怨みを抱かせたり、お互いに災いがある。悪い言葉や忌み言葉を発すると、発した本人に災いが起こる。こんな言霊の思想がマイナスに働いた結果が、日本人を公式の場で無口にし、議論下手にしたものと思われます。しかし、プラスのイメージを心に抱いて、それを口に出し続けることで運命を良い方向へ転換し、思い通りの幸せな人生をつくることもできるのです。もしも今、あなたが自分の人生が不幸だと思っているなら、思い通りにならないと思っているなら、あなたがいつも発している言葉を、チェックして見ましょう。「できない」「疲れた」「つまらない」「ダメだ」「あいつのせいだ、ちくしょう」「死にたい」。。。あなたの発する言葉がこうしたマイナスのイメージを持ったものでないか。「必ずできる」「元気だ」「おもしろい」「いいぞ」「あなたのお陰だ、ありがとう」「明日も頑張るぞ」「なんて幸せなんだ」。。。こうしたプラスのイメージを持った言葉を自分に発し、人に対する言葉は常に思いやりをもって発することで、あなたは言霊の力を得ることができ、あなた自身の力で運命を好転させることができるのです。あなたに幸せの風が訪れますように!合掌 観学院称徳
2006年01月22日
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しんしんと無音の世界 春の雪 そのまんまや博琳乎
2006年01月21日
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今年初めて、雪が積もっています。全国的に雪が多く、昨年末の四国遍路では車が山道の雪にはまったりして大変でした。雪国の方々の苦労に心を馳せて都心の雪を見ています。朝の雪 音を吸い込む 静けさや そのまんまや博琳乎
2006年01月21日
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すべて言葉には、時にかなった言葉とかなわない言葉、事実にかなった言葉とかなわない言葉、柔らかな言葉と粗い言葉、有益な言葉と有害な言葉、慈しみのある言葉と憎しみのある言葉の五対がある。このいずれの言葉によって話しかけられても、「わたしの心は変わらない。粗い言葉は私の口から漏れない。 同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、 怒りや憎しみの心を起こさないように。」と努めなければならない。 (『仏教聖典』125頁13行より 仏教伝道協会刊)タイミングがずれると間の抜けたことになるばかりか、大きな誤解を生むことがあります。事実にかなわない言葉は、嘘か勘違いかということで、これも誤解と反感を生みます。乱暴な言葉や有害な言葉も同様です。憎しみの言葉は、憎しみとなって帰ってきます。このいずれの言葉によって話しかけられても、「わたしの心は変わらない。粗い言葉は私の口から漏れない。 同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、 怒りや憎しみの心を起こさないように。」と努めなければならない。フーム、、、簡単なようでこれもなかなか難しいですね。歳をとって外見上では丸くなったようですが、時として心は千々に乱れてしまう。アホは死ななきゃ直らないのか。。。心の乱れ、汚れがなくなりますように!合掌 観学院称徳
2006年01月20日
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ついにというか早くもというのか、ホリエモン側近の元幹部が自殺したらしい。ライブドア証券の元副社長とのことだが、当然企業買収などライブドアグループの拡大路線の実働部隊だった人物だろう。そもそもこの時期の検察の強制捜査という事実は、我々に何を語ろうとしているのだろうか。企業の経営倫理などという精神論的な話をしようとは思わない。極めて世俗的にニュースの裏読みをしようと思う。検察の行動に隠れた意図は?ホリエモンは、球界再編近鉄問題やニッポン放送買収劇を通じて、旧世代との間に生じた溝を、反小泉・亀井包囲網の一環として衆院選の刺客となることによって、小泉・武部ラインの自民党と結び付いた。株主向けの同社資料には、武部幹事長と対談するホリエモンの記事が、写真付きで数ページに渡って掲載されている。幹事長自筆のホリエモンの似顔絵まで掲載したその記事の主旨は、ライブドアがもはや未来の日本を担う財界の旗印であると言わんばかりである。そうした自民党主流との接近、蜜月関係を演出することで、成果として日本経団連への加盟が認められるなど、財界とのパイプづくりも始めていた。まさにそうした絶頂にある今このとき、そう考えるとどうしてもポスト小泉に向けた政局との関連が見え隠れしているように思われる。自民党を永く支配していた現在の反主流派、前回の選挙で面目も議席も失った彼等のポスト小泉を睨んだ反撃が始まったのではないだろうか。亀井も旧竹下派の重鎮だった野中元幹事長もみんな検察・警察とは強いパイプを持つ人物たちである。前回の衆院選で、もはや引きおろすことが出来ないほど力を得て、小泉後までもその影響力を残そうとしている現主流派を追い落とすには、その偉大なるイエスマンを自認する幹事長を追い落とすのが手っ取り早い。その幹事長を追い落とすには、最近その人気を当てこんで蜜月関係にあるホリエモンを破滅の淵に追い落とすのが手っ取り早いわけである。旧世代を排除する先兵となった政界の小泉チルドレンと並んで、財界にも旋風を巻き起こそうとしていたホリエモンを、若者を取り込む人気取りに利用していた幹事長である。ライブドア強制捜査と、それによる同社の実質的崩壊は、幹事長を中心とした主流派を慌てさせるに十分すぎるほどの一撃を与えたわけだ。これで一気にポスト小泉が面白くなってきた。被害者は、ホリエモン同様、マネーゲームに踊った個人投資家たちだが、これも長~い人生で考えれば、いい教訓、授業料と考えれば安いもんだろう。人の死を前にして、仏弟子にあるまじき裏読みではある。しかし拙僧は、事件に関係した新人類たちに言いたい。会社のために自殺するような、そんな難波節的な古い価値観に何故急に立ち返らなければならないのか。ホリエモンのために死ぬなんて、もっとアホだ。非は非として認め、事実をありのままに開示して、もしも犯罪を犯したのであれば償えばよいではないか。みんなまだまだ若いのだから、リスタートはいつでもできるはずだ。たかだか10年で築いた今の地位や財産に固執するようでは、彼等が指弾してきた旧世代と何にも変わらないということになってしまうではないか。ホリエモンをはじめとする今後のライブドア幹部の対応、身の処し方を、日本国民の多くが見ているということだけは忘れないように。今までのある意味分かりやすいカッコよさが、見苦しさに変わるのだけは見たくない気がする。自ら命を絶った若い命のご冥福をお祈りします。合掌 観学院称徳
2006年01月19日
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「悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。 悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、 罪を知らされるのをいやがる。 善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、 悪を知らせてくれる人には感謝する。 このように、善人と悪人とは違っている。 愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。 一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、 直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、 すべての人に対して思いやりを持つことによって、 感謝の気持ちを表そうとする人である。」(『仏教聖典 パーリ、増支部二―4』135頁3行 仏教伝道協会刊)ホリエモンのライブドアが強制捜査を受けた。偽計取引や風説の流布など証券取引法違反容疑だという。ITバブル時のソフトバンク孫さんがそうだったように、株価時価総額の拡大を事業急拡大の原動力にしていただけに当然の帰結のように思われます。株価を上げる→株式交換による企業買収を有利に→事業拡大→株価が上がるこのスパイラルがホリエモンの成長原理なのですから、株価を上げるために何でもする、偽計取引や風説の流布など証券取引法違反を犯したとしても不自然ではありません。先日の株主総会で涙まで流して、自分のためではなく株主のために働いていると言っていたホリエモンですが、株価さえ上げれば脱法行為でもしてもいいという、倫理観のない経営責任が、今問われることになったということだと思います。儲かれば何をしてもいいのか?倫理観のない経営が成り立つのか?これは、ヒューザーなど耐震偽装問題の当事者となった経営者たちにも同じことが問われているのだと思えますね。あなたに慈悲の心が現れますように!合掌 観学院称徳
2006年01月18日
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「道を求めるものは、常に身と口と意(こころ)の三つの行いを 清めることを心がけなければならない。 身の行いを清めるとは、生きるものを殺さず、盗みをせず、 よこしまな愛欲を犯さないことである。 口の行いを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、 むだ口をたたかないことである。 意の行いを清めるとは、貪らず、瞋らず、よこしまな見方をしないことである。 心が濁れば行いが汚れ、行いが汚れると、苦しみを避けることができない。 だから、心を清め、行いを慎しむことが道の要である。」(『仏教聖典 パーリ、増支部三―117』123頁12行 仏教伝道協会刊)仏教徒、仏弟子の基本的な誓いを「十善戒」と言います。これはその元となった教えです。ごく分かりやすい生活上の行いを正すことによって、身と口と意(こころ)の三つの行いを清めることができます。清めることができれば、苦しみを避けることができるようになると言うのです。これが、仏道の、いや人生を善く生きるためのキーポイントです。簡単なことほど直していくのは難しいとも言えるのですが、毎日少しづつ、気をつけて行けばいいのです。一気に立派な人にはなれない 2005年05月10日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200505100000/日々の生活の中に道場がある! 2005年05月17日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200505170000/あなたの身と口と意の行いが清らかになりますように!合掌 観学院称徳
2006年01月17日
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釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います。」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか?」「世尊よ、また他の町へ移ります。」「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。 私はそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、 他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。 仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、 この世の八つのことによって動かされることがない。 こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう。」(『仏教聖典 パーリ、法句経註より』122ページ14行 仏教伝道協会刊)慈悲に溢れたお釈迦様の生きた言葉に触れたような気がしますね。今このとき、この場において置かれた状況から逃げてはいけない。逃げていてはいつも同じことになり、結局は逃げることができないからです。でもその対処法は、お釈迦様が仏弟子に与える修行でもあります。逃げるな。反論もするな。ただ自分の行くべき道を黙って歩めという、厳しいものです。もしも怨みやそしりに反駁すれば、もっと大きな怨みやそしりになって帰ってくる。ただただ善き教えを守り正しい生活を送り、言動と心を清浄に保てば良いと言うのです。そうすれば、いつかは分かってもらえる。いわれのない怒りやそしりは消えていくだろうと。現代に生きる私たちも、針のむしろのような場面に遭遇することがあります。自分に覚えがないことでそのような窮地に陥ると、自分に非がなくても逃げ出したくなりますね。でもこのときこそ、人として善く生きるための正念場なのだと自覚すべきなのです。がんばれ! 負けるな! 自分自身に負けるな!逃げなければ、状況は必ず好転するだろう!あなたへのお釈迦様からのメッセージです。合掌 観学院称徳
2006年01月16日
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「人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。 貪りを思えば貪りの心が起る。 瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。 愚かなことを思えば愚かな心が多くなる。 牛を飼う人は、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じ込める。 これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、または殺されたりすることを防ぐのである。 人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じ込め、 悪い思いを破り捨てなければならない。 貪りと瞋りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋らず、損なわない心を育てなければならない。 牛を飼う人は、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。 しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。 人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、 その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。」(『仏教聖典』122頁、パーリ、中部19雙考経より 仏教伝道協会刊)心はそれ自身、思うがままに振る舞うものです。心の主である自分自身でさえ、その勝手な振る舞いを押さえることができなくなることもあります。しかし、日々の訓練によって、コントロールすることは可能でもあるのです。乳児より幼児、幼児より小児、小児より少年、少年より青年、青年より壮年と、人は誰でも訓練によりある程度は心を育て、コントロールできるようになります。個人差はありますが、心を治めることは、その気になれば可能なのです。問題は平常心でいられる時でなく、異常な状況に置かれた時、心を平静に保つことができるかどうかです。これにはやはり、日常から自己の心の動きを見つめ、整え、正していくことが必要なのだと思います。それは瞑想によって可能です。お試しあれ。心の動き 2005年02月11日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200502110000/あなたの心が悩み苦しみから自由になれますように!合掌 観学院称徳
2006年01月15日
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Re:風に非ず、幡に非ず~仏教の根本(01/13) に対してまた示唆に富んだコメントをいただきましたので、ご紹介させていただき、拙僧の考えをお話ししたいと思います。ママちゃんさんのコメント>いつも心の収まりを助けていただいているものです。>で、今回ですが、どうにも収まらずコメントすることにしました。>風をたなびかせているのは、そんな問答をしている彼らの在り様に>怒る何者かなのではと思いました。>屁理屈よりも現実に生きること。>そのために汗を流せというものの怒りが風を起こしているように感じます。>無はつまりません。一人でも多くの人が楽しく生きられればと思います。>そのためには、そんな問答をしているよりも自分の体を動かして誰かを喜ばせてほしいような気がします。----->屁理屈よりも現実に生きること。その通りですね。お釈迦様の言葉はたいへん分かりやすいのに、後世の仏弟子たちが寄ってたかって分かりづらいものにしてしまったようです。お釈迦様は、現実に生きた仏様です。ひとり一人のために状況や相手のレベルに応じて分かりやすく説かれました。常に大きな愛(大慈悲)をもって利他の実践をされた方です。しかし特にお釈迦様入滅後、100年を過ぎる頃には、仏教教団が上座部(保守派)と大衆部(進歩派)に根本分裂し、その後200~300年の間に20程度の部派に分裂し、お釈迦様の教えを細かく解釈・研究し体系化して、互いに論争を繰り返しました。仏教の教義確立や哲学的論理的には、後世に対し大きな貢献をしたものの、ママちゃんさんの言われるように、苦悩する人々を救うという、宗教として大切な部分がなおざりになりました。勿論、人が何かを学んでいく過程においては、議論も必要です。仏教では、勉学と瞑想(座禅)を通して学んだことを確認し合う意味で、議論を重用視しています。我が国仏教だけが、和を以て尊しとなす国民性からか、一部の宗派を除くと議論を嫌う傾向があります。その分、自分勝手な解釈が進んで世界的にみれば異端の仏教になってしまったようです。さて、紀元前後、ちょうどキリストが現れたのと同じ頃に、他人を救う菩薩行(利他行)を重んじる大乗仏教の運動が、進歩派と信者たちを中心に起こりました。ママちゃんさんの疑問は、2000年以上も前から仏教教団に投げかけられていたのですね。>そのために汗を流せというものの怒りが風を起こしているように感じます。奈良時代の行基菩薩や平安時代の弘法大師空海さんをはじめとして、昔の坊さんは、宗教家であると同時に、公務員であって、教育や福祉、医療や建築・土木など幅広い分野の社会事業家としても大いに働きました。けっして勉強や自己研鑽の修行だけしていたわけではないのです。現代では、職業が専門化して坊主も宗教の中に埋没しています。しかし、社会との繋がり無くして、宗教が宗教としての機能を果たして行けるはずはないのです。現代の心が荒廃した殺伐とした時代を作ってしまった責任の一端は宗教家にもあるのだと思います。>無はつまりません。一人でも多くの人が楽しく生きられればと思います。これはママちゃんさんが「無」というものに、間違った概念を植え付けられているためだと思います。勿論それはあたなの責任ではなく、既に文化的な習俗と化した我が国の仏教的価値観が植え付けたものです。本来の「無」とは、何もない、虚無ということではなかったはずです。何ものにも囚われないという意味だと思うのです。心を無にするとは、心の中の囚われ(偏見とか執着)を払い去って、対象をそのまま、あるがままに観ることができるようにするということです。心を無にすることができたら、つまらないのではなく、実は楽しいのです。何故楽しいかと言えば、鏡の曇りをきれいに拭き取れば、爽やかな映像が映し出されるように、苦悩の中で生きるより、心の曇りを無にすれば、自由闊達、思い通りに生きられるからです。拙僧は修行が足りないので、いつも楽しく生きているわけではありませんが、それでも時々心の在り方を整えるのには役立てています。>そのためには、そんな問答をしているよりも自分の体を動かして誰かを喜ばせてほしいような気がします。修行僧や学僧は猶予が与えられるとして、少なくとも一人前の僧には、このママちゃんさんの言葉を廻向?しようと思います。当然、拙僧自身への自戒とも致します。厳しいご指摘、誠にありがとうございました。言葉より実践 「ブッダ心の言葉(41)」 2005年04月21日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200504210000/合掌 観学院称徳
2006年01月14日
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「風に非ず、幡に非ず。では、その答えは如何?」という昨日の問いに対して、うれしいことに、貴重なコメントが寄せられました。みなさんにも是非ともご紹介したいと思い、転載させていただきました。人それぞれに解釈のしかたが違っても当然だと思います。読者の方々から色々な見方を教えていだだけることは、ブログの大きなメリットですね。ほんとに勉強になりました。人はいい加減に歳をとると、人から学べなくなります。お釈迦様が「三宝(仏法僧)」の一つに「僧」を入れたのも頷けます。但し「僧」とは、坊主のことではなく僧伽(サンガ)のことで、仏法を学ぶ仏弟子の集団。真理を目指して仏教の教えを実践しようと思って集まるグループが大切な宝だという意味なのです。仏の道は色々あり、人生も色々だけど、お釈迦様も言われるように、「善き友と共にいることは楽しい。善き友と交われ」、その場がサンガなのです。ブログがバーチャルなサンガになるような気がします。では、昨日のお話しを再掲します。六祖はある時、法座を告げる寺の幡(はた)が風でバタバタ揺れなびき、それを見た二人の僧が、一人は「幡が動くのだ」と言い、他は「いや、風が動くのだ」と、お互い言い張って決着がつかないのを見て言った、「風が動くのでもなく、また幡が動くのでもない。あなた方の心が動くのです。」これを聞いて二人の僧はゾッとして鳥肌を立てた。無門は言う。「風が動くのでも、幡が動くのでもない。まして心が動くのでもない。」 では六祖の言い分はどこにあると見るべきか。(『無門関』29.非風非幡より 西村恵信訳 岩波文庫)無門禅師は、決着がついた問題に、さらに難しい問いを投げかけています。そしてこの後に、その問いには答えないで、六祖はやさしさ故に、とんでもない失敗を犯したと言っています。では、その答えは如何?これは仏教の根本にかかわる大問題かもしれません。ムムッ。。。と、ここまでが、昨日の復習です。実は、無門禅師の言葉は続いていて、「もしそこのところを見抜くことができて、六祖とピッタリであれば、 この坊さんたちが、鉄を買うつもりであったのに、 思いがけなくも金を手にしてしまったことが分かるであろう。 それにしても六祖は優しさが抑えきれないばかりに、 とんでもない失敗劇を演じてしまったものだ。」頌(じゅ)に曰く、風幡心動、一状に領過す。只だ、口を開くことを知って、話堕することを覚えず。現代語訳では、詩って言う。風幡心が大揺れで、みんな同んなじ罪状だ。六祖も釣られて口開き、思わず語るに落ちるとは。(『無門関』29.非風非幡より 西村恵信訳 岩波文庫)無門禅師は、禅宗の法統を継ぐ六祖が馬鹿だと言うのではなく、ホントは分かっているのに、優しさから口を滑らしたと言っているのです。二人の坊主は、その重要さが分からず鉄を買うつもりだったかもしれないが、実は「黄金」をつかめたはずなのだと。仏教の深いところに関わることなので、難しいことですが、5dolphinさん、タカユ・キングさん、zazen256さんからいただいたコメントをご紹介します。流石に禅は難解ですね 5dolphinさん 私が考えるに、無門禅師は、「無」と言いたかったのだと思います。 現象を言葉で表現できたからといって、その現象の真実を捉えたことにはならないからだと思われます。だから、強いていえば、無である。無があるから、有が生まれるんだ!と…。 六祖は、二人の僧への親切心から、模範解答を与えますが、かえって二人の僧への教育にならなかったわけです。 答えは、自らの体験のなかでみつけないと、ウソをつくことになる。たとえ、それが御釈迦さまの答えであったとしても、独力でない時点で、ウソになる。ウソは真実ではないわけです。 自分で問い、自分でみつける。それが生きる意味だと思うわけです。 (2006年01月12日 16時30分28秒)非常に難解です タカユ・キングさん そもそも禅問答って、屁理屈に聞こえてしかたないのですが…。(スイマセン…)私なりの見解を書いてみたいと思います。まず六祖が言った言葉は、そんな事で言い争うことはよくない(=心が動く)と言っているのだと思いました。しかし、それでは幡が動くのか風が動くのかの問答に対しての答えになっていないという事でしょうか?ケンカを止めなさいと言ったせいで、二人の僧が真理を追求している妨げをしてしまったことが、「とんでもない失敗」だと思いました。そして「風が動くのでも、幡が動くのでもない。まして心が動くのでもない。」が本当の問答の答えになるのだと思いますが、私にはその意味が理解できませんでした。うーん、難解です。(2006年01月12日 18時56分21秒)Re:風に非ず、幡に非ず~動くのはあなたの心(01/12) zazen256さん その答えは、観学院称徳さまが『お釈迦様こころの言葉』・「心の動きをコントロールする」の中で述べておられることを実践すれば瞬時に得られると思います。 つまり”一瞬でもよい瞑想することである。自分を離れ、他人を離れて、客観視すること”というお言葉です。 つまり自分が観じた通りの解釈をすれば、それが答えであると思います。 答えは自分の心の中にあるのではなく、その事象そのもののなかにある、と思うわけです。 だからこの場合、私の答えは「幡が動いている」というだけで正解であると思いますが、如何でしょうか。 そのように答えたあと、私は私の道を歩いて行きたいと思います。 今後とも、何卒よろしくお願いします。 (2006年01月13日 04時42分52秒)zazen256さん、拙僧の拙文まで引用してくださり、誠に恐縮です。頭で考えても体得していないと、いざというとき忘れてしまうという悪い見本ですね。ご指摘、ありがとうございました。では、拙僧の考え方はどうかというと、やはりこれは仏教の根本にある縁起とか、諸法無我、諸行無常のことを教えているような気がします。縁起とは因果律(原因と結果の法則)ですが、仏教の縁起は、原因と結果を繋ぐ「縁」をおきます。縁とは「~に依って」という原因から結果を招く理由ですね。諸法無我とは、「ものごとにはすべて実体がない」ということです。ものごとはすべて、縁によって成り立っているにすぎない現象であって、実体はないのだということです。風という実体も、幡という実体もない。何故ならそれは諸行無常、すべてのものごとは移り変わるものであって、常住不変の実体ではないからなのです。心にさえ実体はない。すべては「空」だ。禅で言えば「無」だと表現するのかもしれません。風という現象が起こって(縁)、幡が動くという現象が現れた(果)。風だけが動かしたのではなく、幡だけが動いたのでもない。また、それによって(縁)それを見ている心が動いたのであって、心だけが動いたのでもない。従って無門禅師は、ホントは「その心さえ無にせよ!と六祖は言いたかったのだ」と教えているような気がします。勿論、「無」とか「空」とかを悟れということは、「涅槃寂静」、仏教の目標とする境地を目指せということであって、これでめでたくお釈迦様の仏教の根本教義、三法印が揃ったことになり、まさに仏法の黄金を掴むチャンスだったのかもしれませんね。フーム。。。考え過ぎかなあ、あるいはまだまだかなあ。。。合掌。。。瞑想。。。観学院称徳
2006年01月13日
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六祖はある時、法座を告げる寺の幡(はた)が風でバタバタ揺れなびき、それを見た二人の僧が、一人は「幡が動くのだ」と言い、他は「いや、風が動くのだ」と、お互い言い張って決着がつかないのを見て言った、「風が動くのでもなく、また幡が動くのでもない。あなた方の心が動くのです。」これを聞いて二人の僧はゾッとして鳥肌を立てた。無門は言う。「風が動くのでも、幡が動くのでもない。まして心が動くのでもない。」 では六祖の言い分はどこにあると見るべきか。(『無門関』29.非風非幡より 西村恵信訳 岩波文庫)無門禅師は、決着がついた問題に、さらに難しい問いを投げかけています。そしてこの後に、その問いには答えないで、六祖はやさしさ故に、とんでもない失敗を犯したと言っています。では、その答えは如何?これは仏教の根本にかかわる大問題かもしれません。ムムッ。。。合掌 瞑想中。。。。観学院称徳
2006年01月12日
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「春に百花有り、秋に月有り、夏に涼風有り、冬に雪有り。 つまらぬ事を心に掛けねば、年中この世は極楽さ。」修行僧の趙州が、南泉和尚に尋ねました。「道とはどんなものですか?」「平常心こそが道である。」「やはり努力してそれに向かうべきでしょうか?」「いや、それに向かおうとすると逆に逸れてしまうものだ。」「しかし、何もしないでいて、 どうしてそれが道だと知ることができるのですか?」「道というものは、知るとか知らないとかいうレベルを超えたものだ。 知ったといってもいい加減なものだし、 知ることができないといってしまえば、何もないのと同じだ。 しかし、もし本当にこだわりなく生きることができたなら、 この大空のようにカラリとしたものだ。 それをどうしてああだこうだと詮索することがあろうか。」 この言葉が終わらぬうちに、趙州はいっぺんに悟った。(『無門関』19.平常是道より 西村恵信訳 岩波文庫)日常の生き方そのものが、そのまま仏の道につながっているのです。春夏秋冬あるがままの自然が、そのまま仏の心なのです。宗教とか教えとか、構えると逸れてしまう。知ろうとして知れるものではないし、知ることができないというものでもない。無用な詮索をせずに、平常心で生きることこそが道だというのですね。合掌 観学院称徳
2006年01月11日
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「大道無門、千差路有り。 此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。」「大道に入る門は無く、到るところが道なれば、 無門の関を透過して、後は天下の一人旅。」(『無門関』禅宗無門関(無門慧開の自序)の頌(じゅ)より 岩波文庫)『無門関』は、中国での禅宗の最盛期、宗時代の公案集です。南宋の無門慧開(1183~1260、日本では鎌倉時代初期)が、古今の禅問答から48種のエピソードを選んで解説されています。本日の言葉は、その自序文にあるものです。仏教の大いなる道に入るのに、門なんて無いぞ。千差万別到るところに道はあるのだ。仏の説く清浄な心さえ要とすれば、どっからでもすり抜けて入れるよ。後は、悟りを目指して、天下の一人旅だもんね!!!座禅と公案という問答によって悟りを得ようとする「看話(かんな)禅」=臨済宗系では著名な『無門関』は、編者無門慧開禅師のキャラクターからか非常に面白いので今後も折々に紹介したいと思っています。
2006年01月10日
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人は何故、 夕日の輝きにひきつけられるのか 人は何故、 夕日の輝きに魅せられるのか 人は何故、 夕日の輝きに懐かしさを覚えるのか 人は何故、 夕日の輝きにあたたかさを感じるのか 人は何故、 夕日の輝きに柔らかなものを感じるのか 人は何故、 夕日の輝きに心を動かされるのか 人は何故、 夕日の輝きに涙するのだろうか 人は何故、 阿弥陀の浄土を夕日の彼方に思い描いたのだろうか 人はなぜ。。。? 代々木公園の夕日合掌 観学院称徳
2006年01月09日
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生まれて初めて日本のインディーズCDを買いました。どこか懐かしさを感じるメロディ心の底から元気が湧き出してくるようなノリのいいリズムぼくの世代には井上陽水を思い出すような透き通ったのびのある歌声が心に沁みるくやしいほど歌が上手い奴だなあギターも気持ちよく歌っているキーボードもカッチョいいバックバンドと女性コーラスも心地よくみんな思い切り楽しんでいるライブでも聴きたいコラボレーションだね音楽の街、浜松からインディーズレーベルEvergreen Recordの第一弾CD“for Two Stars ”~Storyがリリースされた。夢のストーリーFeelin' Good Time海-with you-sayonarafor Two Stars!以上、5曲がひと続きのストーリーのように聴かせるCDアルバムだ。安心して聴けて、しかも爽やかに癒された。今や親しいブログ友達となった(ぼくが勝手にそう思っているのだが)Shigeru“Evergreen_63”“Kimo”Kimoto さんの初アルバム。インディーズ専門のネットショップからお取り寄せして聞いています。“Evergreen_63”さんは浜松をベースにライブ活動もしているシンガーソングライターだけど、本業は世界を駆けるバリバリのビジネスマンなのだ。危険な中東へもたびたび出張して、現地でのロマンチックで印象的な写真と詩をご自身のブログに公開しています。天は二物も三物も与えてしまうようですが、不満を持ってはいけないのだ。天を恨むな、親も恨むなよ。http://plaza.rakuten.co.jp/yellow88/CD発売http://plaza.rakuten.co.jp/yellow88/diary/200512200000/試聴版第一弾http://plaza.rakuten.co.jp/yellow88/diary/200512260000/1月15日より、全国のCDショップにて取り扱いが始まるそうです。■バンド名:Story■CDタイトル:for Two Stars■CD品番:EGR63-001 で店頭へお取り寄せできるらしい!CD発売おめでとう! “Evergreen_63”さんみなさん、応援してね!そして、みなさんの前途を祝して乾杯! ヒロりんでした。
2006年01月08日
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「道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って、 教えの光を身に加えなければならない。 どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。 身を健やかにし、一家を栄えさせ、人々を安らかにするには、 まず、心をととのえなければならない。 心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、 徳はおのずからその身にそなわる。 宝石は地から生まれ、徳は善から現れ、 智慧は静かな清い心から生まれる。 広野のように広い迷いの人生を進むには、 この智慧の光によって、進むべき道を照らし、 徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。 貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く 仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、 よい生活と幸福を得る人である。」 (『仏教聖典』121頁5行より 仏教伝道協会刊)「落ち着きのない生活=現代人の生活」になっているのではありませんか?心を整える暇もなく、その気すら起こらない。でも軋みは、身体やその発する言葉や病んだ心に、現れているのではありませんか?心が乱れていたり病んでいたら、身体を健やかに保つことはできず、家族や大切な人々との生活もうまくいかず、周りの多くの人々の心にも悪影響を及ぼして行くでしょう。「身を健やかにし、一家を栄えさせ、人々を安らかにするには、 まず、心をととのえなければならない。 心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、 徳はおのずからその身にそなわる。」心を整えるための最も良い方法は、瞑想です。難しく考える必要はありません。自分の心のために、1日に10分でも15分でも時間を割いてあげることです。そして落ち着いて、自分自身の心を見つめようとするのです。雑念がたくさん湧いてきますから、ひとつ一つ雑念を外して行くのです。自分自身の心の核心に迫る気持ちを強く持って。短い時間では、雑念が無くなることはありませんが、それでも瞑想を終わったとき、心の重荷が少し軽くなったような感じがしますよ。瞑想が心を変える 2005年11月30日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200511300000/あなたの身体と言葉と心が健やかでありますように!合掌 観学院称徳
2006年01月07日
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お遍路の写真を整理していて もう一つ光の写真を見付けました。 高台の寺から里を見下ろす大師像です。 ふつうお遍路の寺の弘法大師像は 巡礼者を出迎える場所にいらっしゃるのですが このお大師さんは、 溜池越しに人々の生活する様子を やさしく見守っているかのようでした。 傾きかけた日の光の中に浮かんでいるような 透き通っているような錯覚を感じましたが、 携帯のデジカメにも見ていたときと同じように 撮れていました。 南無大師遍照 合掌 観学院称徳
2006年01月06日
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「人々は欲の火の燃えるままに、華やかな名声を求める。 それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。 いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、 身は危うく、心は悔いにさいなまれるであろう。 名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃に塗られた蜜を なめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険を おかすこととなる。」 (『仏教聖典』119ページ8行より 仏教伝道協会刊)今も昔も、人間、長く生きてきてある程度の成功を収めると、最後には名声を求めるようになるらしい。拙僧は幸いにしてまだ発展途上なので、名声を得ても生活が成り立たないと困る身の上。名誉と財と色香を貪り求めても、三つとも得られるはずもないから安心だもんね。それにしても「子供が刃に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる」という比喩は、感覚的に恐ろしい。最近は、若いうちに自分は勝ち組だと誇る奴がいますが、人生は長いので気をつけた方がよろしいようで。。。合掌 観学院称徳
2006年01月05日
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昔、一世を風靡した赤塚不二夫の「天才バカボン」。実はこの「バカボン」。漢字で書くと「薄伽梵」または「婆伽梵」と書き、梵語のバガヴァーンの音写語ですが、ブッダと同じような意味で「悟った人」「教主」「世尊」を意味します。密教の経典では、ブッダではなく、バガボンが説いたことになっています。「大日経」では、薄伽梵。「金剛頂経」では、婆伽梵。「理趣経」でも、薄伽梵。但しこのお経の読み方は漢音となりファーキャーファンと読みます。どれも密教のお経なので、この場合の教主・世尊は大日如来ということになります。あのバカボンとその家族には、一言一言、不思議な魅力がありましたが、大日如来と言うことならば、頷けますね。天才バカボン オフィシャルサイトhttp://www.koredeiinoda.net/bakabon.html合掌 観学院称徳
2006年01月04日
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「菩薩(修行者)のなかですぐれた智慧のある者は、 生死の世界が尽きるまで、いつでも人々の利益のために働き、 しかも安らぎの世界に赴くことがない。 さとりの智と人々を救う手だてと智慧の完成をもって、 不思議な力添えをなして、あらゆる事物及びあらゆる生きものを、 残りなく清らかなものとする。 欲望などをもって世間の人々を整え、汚れを除き清めることができるのだから、 上は最高天から下は苦しみの世界に及ぶまで、すべての存在者を整えて さとりの世界へ導く。 赤い蓮華にはもともと色がついており、汚れに染まったものではないように、 人間の諸々の欲望の本性もその通りで汚れに染まったものではないから、 このままで多くの人々の役に立つ。 大いなる欲望によって清らかとなり、大安楽にして豊かに富み、 全世界において自由自在に活動し、人々のための利益を確実なものとするのである。」(『理趣経 百字の偈』「密教経典入門」松本照敬著 東京書籍より)欲望は、誰にもあるものです。生きている限り欲望が尽きることはありません。光のない夜にも真昼のような光が欲しい。鳥のように空を飛びたい。馬より早く走りたい。遠くの人とも話したい。沢山もうけて豊かな生活がしたい。幸せになりたい。。。しかし、このような利己的な欲望も、電球や飛行機や自動車、電話という道具を発明することによって文明を発展させ、人々の生活を豊かにしました。「自己の欲=少欲を、仏の慈悲のような利他の大欲に転換しなさい」というのが、宇宙永遠普遍の真理の法身である大日如来の教えです。「さとりによって真理の智慧を獲得した修行者は、自らは涅槃に赴かず、他者の利益のために活動し、苦しみ悩む人々の救済のために努力すべきです」と。人それぞれ、生きている限り、人のため社会のために与えられた役割があります。それは、職業であるかもしれないし、ボランティアであるかもしれない。家事や子育てかもしれない。どんな仕事であっても、人の行いはたとえ利己的な動機であったとしても、人のために社会のためになっているのです。幸せになりたいという一見利己的な欲望であっても、人は自分一人だけで幸せを感じることはできず、他人を幸せにして初めて幸せを感じることができるものなのです。要は、何ごとにも投げやりにせず、専心努力すること。ものごとを、とらわれなく、ありのままに観ること。慈悲の心=慈しみと憐れみの心=大きな愛の心を忘れないことです。あなたの新しい年が幸せ多き年となりますように!合掌 観学院称徳
2006年01月03日
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四国お遍路で出逢った命の木たち数百年を生き抜いたその魂の力が、人々を癒してくれる。 木霊 KODAMAhttp://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200507270000/http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200508190000/合掌 観学院称徳
2006年01月02日
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四国の霊峰石鎚山をご神体とする石鎚神社と四国最大全国区の信仰を集める金比羅宮です。写真のお宮への初詣でも御利益がありそうですね。
2006年01月01日
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幸多き新春を迎えられたこととお慶び申し上げます。皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り致します。昨年は佛弟子として、盛夏と年末に分けて四国八十八箇所霊場を巡拝致しまして、体と言葉と心の修行を通して、皆様のお役に立てるように努めたいと願っております。生業としては、主宰させていただいているe-パブリシング研究会が本年お陰様で百回目を迎えます。昨年同様ブロードバンド時代の次世代コミュニケーションとEコマースを中心に、顧客接点強化のマーケティング実現をテーマとしていきます。ブログやSNS等を活用したWEB次世代化を、コンテンツとナビゲーションの視点から実現します。またコラボレーションのインテリジェントハブとして皆様のビジネス発展のお役に立ちたいと思っております。一方ある生活共同組合連合会の商品評価委員を拝命致しまして安心安全+αの価値ある商品の在り方を追求していきたいと思います。旧年中のご愛顧に心からの御礼を申し上げるとともに、本年も変わりませずご指導ご鞭撻をいただきますようお願い申し上げます。平成十八年 元旦ヒロ伊藤(観学院称徳)、而してその実体は伊藤 博スユアe-パブリシング研究会/有限会社スユア 代表eマーケティング&コミュニケーション・コンサルタント、修行僧URL:http://epub-jp.net
2006年01月01日
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