2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
全17件 (17件中 1-17件目)
1
教主としての仏陀を仏宝、その御教えである法(ダンマ=真理)を法宝、その御教えを奉ずる集い、教団(サンガ=僧伽)を僧宝といい、この仏教の三つの宝が、三宝です。僧は一人ひとりの僧のことではなく、信仰を共にする集いが本来の意味でした。個人崇拝は、すべての人の心に仏性があるとして平等を旨とするお釈迦様の教えとは相容れません。「みずからの心をよりどころにし、法をたよりにして、修行に励みなさい」というのが、お釈迦様のご遺言ですからね。人を頼りにしても救われない。自分を救えるのは自分だけ。そう思って一所懸命に励めば、仏のご加護も得られると思いますよ。三宝に帰依するとは、この三宝をよりどころとして生きることを誓うこと。三帰依文は、宗派を問わず世界の仏教徒が誦(とな)えるものです。開経偈とお経の間に誦えるとよいでしょう。これで貴方も世界標準の仏教徒になれます。三帰依文(パーリ語)ブッダン・サラナン・ガッチャーミーダンマン・サラナン・ガッチャーミーサンガン・サラナン・ガッチャーミードゥティヤン・ピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミードゥティヤン・ピ・ダンマン・サラナン・ガッチャーミードゥティヤン・ピ・サンガン・サラナン・ガッチャーミータティヤン・ピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミータティヤン・ピ・ダンマン・サラナン・ガッチャーミータティヤン・ピ・サンガン・サラナン・ガッチャーミー仏に帰依したてまつる法に帰依したてまつる僧に帰依したてまつるふたたびまた仏に帰依したてまつるふたたびまた法に帰依したてまつるふたたびまた僧に帰依したてまつるみたびまた仏に帰依したてまつるみたびまた法に帰依したてまつるみたびまた僧に帰依したてまつる一方、漢文では意味内容を微妙に深めて行きます。詩人の八木幹夫氏の素晴らしい日本語訳をあわせて引用させていただきます。三帰依文が、篤い信仰心の発露であり、誓いの言葉であることが伝わってきます。南無帰依仏 ひたすらに、みほとけの真理(仏)を信じます南無帰依法 ひたすらに、みおしえ(法)を信じます南無帰依僧 ひたすらに、信仰のつどい(僧)を信じます帰依仏無上尊 この上なく尊いみほとけの真理をよりどころとします帰依法離塵尊 けがれのない尊いみおしえをよりどころとします帰依僧和合尊 ともに信仰に励むつどい(僧)をよりどころにします帰依仏竟 今たしかに わたくしはみほとけの真理(仏)を信じ、 よりどころとしました帰依法竟 今たしかに わたくしはみおしえ(法)を信じ、 よりどころとしました帰依僧竟 今たしかに わたくしは信仰のつどい(僧)を信じ、 よりどころとしました合掌 観学院称徳
2007年01月28日
コメント(3)
「声には人の体温があり、物語がある」従来のネット配信やダウンロードサービスとは一味違う、良質なネットラジオ番組や音声コンテンツを企画・制作・提供する会社、ラジオカフェの新事務所が新宿御苑の森を見渡せるところにオープン、昨日夕方から夜遅くまで、熱気漲る総決起集会が開かれました。思えば昨年の春頃、外苑前の蟹のお店、Bucchi1969さんの奢りで蟹を食べながらカフェ・ヒラカワ店主軽薄さんと拙僧の三人で、何やら人生最後のライフワーク・プロジェクトについて夢見たことから、ラジオカフェは始まりました。「好きこそものの上手なれ」、好き者三人の一念は夢の話を現実のプロジェクトにしてしまい、ついには年齢合計160歳を超える?シニア起業となったのでした。総決起集会は、弊社社長の開会の辞の後、ご意見番の哲学者・内田樹さん(神戸女学院大学教授)、『「ぼっちゃん」の時代』の作家・関川夏央さん、せつなさを語らせたら秀逸の女流講釈師・神田茜師匠と、弊社顧問をお願いした柳家小ゑん師匠と『花は志ん朝』の作家であり演芸研究家の大友浩さんのご挨拶から始まりました。小ゑん師匠は、おめでたい七福神の小咄でも盛り上げてくれました。そしてゲストは、三遊亭遊雀師匠と我が師・柳家喜多八師匠も多忙の中遅れて駆けつけてくれました。また、女流詩人の小池昌代さん。三味線演歌師にして彫刻家の上野茂都さん。当社も落語会などを開く武蔵小山に3月中旬オープンするライブハウス「アゲイン」席亭、石川さん。大阪からの情報発信をお願いしている編集プロダクション140Bの面々、ラジオ番組の制作会社メディアライツや番組アシスタントの美女たち、落語のCDレーベルワザオギ制作会社NASAの社長やプロデューサーなどの協力者たちが駆けつけてくれました。出資者でスポンサーのオリンパス株式会社の方々も駆けつけてくれました。小さな会社ながら、助っ人は百人力、いや千人万人力ですね。弊社スタッフはこの熱い声援に身の引き締まる思い、拙僧も決意を新たにした次第です。サービス・インはまだまだ先のことですが、準備状況を逐一ご紹介するために会社のサイトを立ち上げました。http://www.radio-cafe.co.jp/まだ空かすか状態ですが、無から有が生まれるという空即是色のサイトにしていきたいと思っていますので、応援してね。聖俗二足のわらじの拙僧ですが、聖俗一如、この道を菩薩道と心得て、世間に笑いと智慧の光を遍く行き渡らせることができますよう、日々精進するつもりです。すべてはこれから。。。 これからも、よろしくね! 合掌 観学院称徳*ラジオカフェでは同じ道を歩むことになった 人生の先輩お二方の「ラジオカフェ総決起集会」ブログ記事はこちら↓カフェ・ヒラカワ店主軽薄さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200701260000/Bucchi1969さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/bucchi1969/diary/200701270000/
2007年01月27日
コメント(0)
拙僧が持ち出しを厭わず執念?で続けている研究会の年に一度のオープンフォーラムをお陰様で例年通り開催できることになりました。要予約ですが、無料ですのでご興味のある方はお気軽にご参加ください。来る2月7日~9日、社団法人日本印刷技術協会主催のPAGE2007が池袋サンシャインシティ・コンベンションセンターで開催されます。今年もまたそのジョイントイベントとして、第104回スユアe-パブリシング研究会オープンフォーラムを開催します。本年は『デジタルコンテンツ・ビジネスの可能性について』をテーマに出版社や広告・印刷会社、制作プロダクションなどが、デジタルコンテンツビジネスに進出する事例を通して、そのシステムやビジネスモデルについて議論したいと思います。ご興味のある方はスケジュールに入れて頂き、予約のご一報をお願いします。当日会場でお会いできれば幸いです。既にご案内の方には重複配信ご容赦ください。また既に参加お申し込み済みの方は再度のご返事は不要です。_______________________PAGE2007ジョイントイベントスユアe-パブリシング研究会オープンフォーラム ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄開催日時:2月9日(金)午後1時30分より開催場所:池袋サンシャイン文化会館 7階テーマ:『デジタルコンテンツ・ビジネスの可能性について』(1)電子書籍市場とシャープの電子書籍への取り組みについて 講師:矢田泰規氏 シャープ株式会社オンリーワン商品企画推進本部 SST推進センター所長 (2)オンライン百科事典『ポプラディアネット』の開発と展開 講師:松原孝司氏 株式会社オルカビジョン 代表取締役(3)ブログ活用の広報メディア『タレポ』の開発と展開 ~若手女性タレントによる突撃取材の企業・商品レポート 講師:株式会社実現屋 タレポ担当ご案内 フリーマガジン『OHANA』編集発行人 池田勝利氏 都市環境緑化グリーンカーテン推進*発表者、内容とも都合により変更される場合があります。備考:要申込み、参加無料、満員の際は入場できない場合もあります。ご容赦ください。☆参加ご希望の方は、必ず下記参加申込書にご記入の上、お申し込み先:e-Mail: hiro.ito@epub-jp.net 宛でご送信ください。*参加申込書/ 1)スユアEP研究会第104回オープンフォーラムに参加します。 2)お名前 : 3)企業・団体名 : 4)所属・役職 : 5)TEL&FAX : 6)E-mail アドレス:スユアe-パブリシング研究会についてはhttp://epub-jp.net をご覧ください。
2007年01月24日
コメント(0)
日曜の夜は、池袋演芸場で落語会「さきがき」(第41回)を見ました。前座さんの後、トップバッターは、桂ひな太郎師匠の「代書屋」。もともとは昔の新作上方噺で、昭和の初め頃を時代背景にしています。桂春団治、桂米朝、桂枝雀など、東京では桂小南などでよく聴いてきました。ひな太郎さんの代書屋は、地名を東京に置き換えて、江戸弁で演じていました。 次は桂文楽師匠の「千早振る」。有名な和歌の意味を取り違えて笑いを誘うものです。多くの噺家さんが演じるポピュラーな噺ですが、師匠のものはちょっと新感覚な味を出しています。拙僧は文楽と言えば申し訳なくもどうしても先代を思い出すので、小益さんと呼んだ方が馴染み深い。名前は変わっても芸風はぶっきらぼうな昔のままですからね。噺の中にゴルフまで出てきて、師匠は相当なゴルフ好きと見ました。古今亭八朝さんは、お国訛りの噺でつなぎ、お仲入りの後は、またまた講談の神田ひまわりさん。最近この人にはよく当たるね。縁があるんだな。今回の演題は「笹野権三郎・海賊退治」。瀬戸内を九州に向かう船が海賊に襲われるが、乗り合わせた槍の権三こと笹野権三郎が攻め入る海賊をばったばったと切り倒すという痛快活劇です。槍の権三は、講談では有名なヒーローでたくさんの話が残されており、映画の黄金時代の東映時代劇でも活躍しています。講談本来の味、ひまわりさんの歯切れのいい口調が活きる話でした。さてお待ちかねのとりは我が師、柳家喜多八師匠が登場。時間が余ったとかで、長い話古典落語の名作「らくだ」を演じてくれました。馬、通称らくだと呼ばれた男、乱暴者で世間の鼻つまみが、フグに当たって死んだ。訪ねてきた兄貴分が、その弔いをあげてやろうと思うが金がない。通りかかった屑屋を使って、長屋の衆から香典を集めさせ、大家から酒と肴を出させて弔いをさせようとするのだが、日頃の行状が悪く店賃を三年間一度も払っていないからと断られる。らくだの兄貴分はらくだの屍骸を屑屋に背負わせて運び、大家の家の前でかんかん踊りを踊らせて脅かし、酒と肴をせしめることに成功。漬け物屋から棺桶代わりの菜漬けの樽を出させて、弔い酒を始める。酒を奨める兄ぃに商いに出ないと釜の蓋が開かないと渋っている屑屋だが、駆けつけ三杯と酒をあおるうちに酔いが回ってくる。と、いつの間にか屑屋と兄ぃの立場が逆転。気が大きくなった屑屋が主導権を取り始める。ヤクザもんと屑屋という二人の立場が逆転していく、ここら辺がこの噺の聞き所です。ドスの利いた喜多八師匠の声の役どころが前半と後半で逆転しているのです。「喜多八流らくだ」を確かに聴きました。有り難いことです。拙僧はこの噺が大好きでiPodには、八代目三笑亭可楽、笑福亭松鶴、立川志の輔、立川談志、桂南光を収めています。翌月曜日は、新宿fu-というお笑いのライブハウスで、若手の漫才ライブを聴きました。「青空笑店」と銘打ったライブの一回目。今回見に行ったのは60歳~80歳を越えるシニア新人のデビューもあり、その中の一人が拙僧のサラリーマン時代の上司だったという理由です。TVのワイドショーのカメラが3台も来ていてびっくりしました。セカンドライフをお笑い芸人としてアクティブに生きようとする人々を、団塊世代の大量退職時代のひとつのライフスタイルとして伝えようというのでしょうか? おじいさんもおばあさんもおじさんもおばさんも、とにかくみんな元気です。キャラクターがみんな際だっており、こういう性格が形成されてきた長~い年輪を感じます。拙僧の上司は、41歳年下の女性タレントを相方にして元気いっぱい演じて、笑いを取っていました。初舞台なので仕様がないと思いますが、肩の抜けた普段の彼の方がよほど面白いので、これからが楽しみなシニア新人ではありますね。さてさて年は若いが先輩の漫才師たちはどうかと言えば、これまたみんなキャラが立っていて大きな可能性を感じさせる人が何人かおりました。NHKの爆笑オンエアバトルなどTVに出ている人でも、日頃は芸のちょっと見しかできませんが、ライブでは力一杯若さをぶつけていて、「最近の若い奴らのお笑いなどどこが面白いのか分からない」と思っていた拙僧の考えが実は間違っていたことを思い知らされました。悔しいけど、面白いのです。しっかりした力を持っている三拍子、昔のコント・レオナルドを彷彿とさせるツーライス、イケメンと猿顔のコンビが面白い流れ星など、これからTVでも人気を取りそうなコンビが次々と登場して笑わせてくれました。声を大にして言わしていただければ、最近の若い人のお笑いが面白くないのではなく、最近のTVのお笑いが面白くないのですね。最近のお笑いブームでライブにたくさんの若者たちを集客できていることの意味がよく分かりました。食わず嫌いの人生では損ですよ。みなさん。落語や講談も楽しいですが、たまには街へ出てお笑いライブへ行こう!!! 若者に混じって、漫才やコントでも大いに笑おうではありませんか。昔のコント55号やコント赤信号、MANZAIブームから生まれたツービートなど大スターに負けない、エナジーを感じました。いやー疲れた、かも。でも笑って死ねたら本望だよねえ。色即是空、空即是色。。。?
2007年01月23日
コメント(1)
淀風庵さん、ご質問ありがとうございます。お返事が遅くなりご免なさい。たいへんいいご質問なので、皆さんにもご紹介させていただきます。>最近、紅白歌合戦の影響で「千の風になって」がヒットチャートのトップになったとか、 神戸でもこの曲がトランペットで奏でられたそうです。>「私のお墓の前で 泣かないでください> そこに私はいません 死んでなんかいません> 千の風に> 千の風になって> あの大きな空を> 吹きわたっています 」> このようなことは仏教的にいかがなんでしょうか、もしよろしければお教えください。> 風葬だと、この感じに近いものもありますが。-----感動的な歌詞ですね。素敵な歌で拙僧も好きですよ。まず、「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません。 死んでなんかいません」ですが、仏教的には実は大正解ですね。すべてのものには実体はない(諸法無我)とするお釈迦様の根本(原始)仏教では、屍や骨には私という実体もないと考えたのです。これはインド全体に普遍的な考え方だったようで、インド人は昔も今もお墓を作りません。どうするかと言えば、大河に流して自然に戻すのですね。今では火葬にしてその灰を流すのが一般的ですが、昔はそのまま水葬にすることも多かったようです。大自然から生まれてきたものを、また大自然に返すということ、その肉や灰を魚や微生物の餌にして布施するという考え方もできます。生前には最も大切だった自分の身体を捨てて生き物に与えることで、功徳を積む。あるいは生前生き物の命を奪って食べることで生かされてきた、その恩に報いるために今度は自身の身を捧げるという考え方でしょう。これが象徴的に現れているのが、チベット密教の風葬、または鳥葬でしょう。一般には奇習と思われているこの葬送方法も、この思想から考えれば納得できます。大河のないチベットでは、山に屍体を置き去りにして鳥や狼など動物の餌にするということなのです。その証拠に食べやすいように屍体を切り刻むのですから。何の実体もない魂の抜けた屍体に対して涙する、残った骨を墓に入れて拝む必要はないのです。例外的にお釈迦様など高僧の仏舎利を仏塔に納めて崇拝するということが行われただけです。これは仏像のない時代にその形見を仏陀に対する信仰の対象としたということで、一般人のお墓とは意味合いが違います。抜け殻でしかない亡骸に私という実体はないのです。では、その私の実体?とも言える魂=あるいは自己の意識はどうなるのか? インドの普遍的な輪廻(サンサーラ)思想では、魂は輪廻する、即ちまた生き返ると考えるのです。しかしお釈迦様はこの生死の輪廻を解脱され「二度と再び生を受けることはない」と宣言された。生死を離れるということ、それは死ぬこともなく、また生まれることもないということです。ここが大切です。お釈迦様は、輪廻を明確に否定したのです。しかし後世の仏弟子たちは、この根強い輪廻の思想から離れることはできなかったようです。インドにおける後期の仏教である密教では深くその思想が反映されており、特にチベット仏教では顕著です。チベットの『死者の書』では、死者が死んでから身体を離れた魂が生まれ変わるまでの道筋とそこで起こる現象を日を追って詳細に記述しています。功徳を積み、人に生まれ変わるか、動物や虫けらに生まれ変わるか、仏陀(解脱者)となって仏の世界に入って行くかは、人それぞれで因果のなせるわざなのです。まさに風にのって天に昇った魂は、大宇宙の普遍的な真理、大自然のもとに帰って一体となり、また億千万の風となって、大空を漂っているのかもしれません。一方、日本では、前述のように輪廻思想を包含した仏教が、中国仏教の祖霊信仰に影響を受けた上で伝わり、さらに我が国独自の霊魂を神と同一視する思想が重なって、独特な死生観として人々の心の底に沈んでいます。祖先のお墓を大切に守り子孫の繁栄を祈るという、血族の繋がりを重視する考え方が一般化したのです。その上にまた明治以降一般化したキリスト教の死生観もこれに加わり、世界でも珍しい超宗教多神教的な宗教観を、老若男女が共有しているのです。この歌詞はまさにこの日本人一般に共有されたユニークな宗教観の上に成立するものであり、だからこそ人々の感動を呼ぶものになったと言えるでしょう。>「私のお墓の前で 泣かないでください> そこに私はいません 死んでなんかいません> 千の風に> 千の風になって> あの大きな空を> 吹きわたっています 」 阪神・淡路大震災の犠牲者のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。合掌九拝 観学院称徳ご参考に; 『三万年の死の教え~チベット『死者の書』の世界』中沢新一著 角川文庫刊『原典訳チベットの死者の書』川崎信定訳 ちくま学芸文庫刊 映画『千の風になって』ホームページhttp://www.sennokaze.jp/
2007年01月20日
コメント(3)
昨夜は赤坂プリンスホテルで開かれたパルシステム生協連合会の、賀詞交歓会に行ってきました。商品評価委員などを仰せつかっているためですが、生来の非社交的性格のため昨年までは欠席していたのです。しかし今回はそのアトラクションとして「雪村いづみミニコンサート」の出演をご紹介していたため、雪村さんにお礼のご挨拶をさせていただこうと参加したのでした。巨大な会場には千人を超える生協やグループ会社、生産者や消費者団体、協力会社などの人々で溢れておりました。若森理事長のご挨拶の後、お正月らしい樽酒の鏡開きが盛大に行われ、お酒に目がない拙僧は、大いに嗜んだというわけです。パルシステムは生協の中でも個人宅配をいち早く進め、最新のシステムで小売り流通に革命をもたらし、業界全体の沈滞をしりめに大きく成長している生活協同組合の連合会です。このため来賓挨拶では、自民党の中川幹事長や民主党の羽田最高顧問と菅副代表はじめ多くの政治家も、参院選の前哨戦ともいえる舌戦を聴かせてくれて、面白かったです。そして、真っ赤なドレスで登場した雪村さんは今年で70歳ということですが、現役バリバリ。大ヒット曲「青いカナリア」と、元祖三人娘で私的にも仲が良かった美空ひばりさん、江利チエミのヒット曲や思い出話は、中年以上の観客の大拍手を浴びました。昨年は、映画『そうかもしれない』に出演。認知症に冒されていく老婦人を体当たりで演じ絶賛されています。化石のような老私小説家を好演した上方落語の重鎮桂春団治師匠との老夫婦ぶりは、微笑みと涙とを同時にするという複雑な感動を観客に巻き起こしました。ミニコンサートの後、拙僧は密かに退出、『そうかもしれない』の映画監督と、実現屋櫻井社長と赤坂の街へ、さらに飲み直しながら映画談義に花が咲きました。その話の中で監督が初の映画主演に引っ張り出した春団治師匠だけでなく、東京でも我が師匠喜多八さんの師匠である柳家小三治さんなど東京の落語家さんとも親しく、映画の友情出演などをしてもらっていることが発覚。酔っぱらいながらもビジネスモードに戻った拙僧は、新事業の協力者になってもらおうと目論んだのでありました。とにかく感謝、感謝、感謝の夜でありました。
2007年01月19日
コメント(0)
多くの人が亡くなったり、家を失ったりした阪神・淡路大震災から、早くも12年が過ぎたと、ニュースで追悼式の様子が放送されていました。いつ再来してもおかしくないと考えられている関東大震災や東海大地震を、もうひとつリアルな危機感をもって感じられない拙僧のような凡人にとって、当時の炎上する神戸の街の映像は今なお新鮮な記憶として甦るものです。特に拙僧は、この1月17日を忘れることはできないのです。当時拙僧はサラリーマンで、ある印刷会社のデジタルメディア部長をしていました。1月17日朝、たしかそれは月曜日、拙僧は新幹線で神戸に行くために家から直行した東京駅にいました。神戸にあるソフトハウスとあるシステム開発に関する打合せをするために出張のはずでした。もちろん新幹線はストップ。情報が錯綜する中、「神戸で大地震のため運休、復旧は未定」という掲示板の書き殴りの文字に、私の頭はパニックというか、むしろ茫然としていました。先方との昼からの会議に間に合わない。その前の社内打合せにも間に合わない。どうしよう、という気持ちです。当時はまだ携帯電話をもっておらず、公衆電話も長蛇の列だったので、とりあえず会社に帰って先方と連絡を取り合おうと思いました。帰って来ると、みんな会議室でテレビを見ています。そして亡者でも見るような顔で拙僧を迎えます。「あれ、伊藤さん、向こうへ行っていたんじゃなかったの?」と、誰かが言いました。そう、先週末の時点では、先方との打合せは朝一ということで、拙僧は前の日に神戸に入り、ビジネスホテルに泊まるはずだったのです。その後、先方の都合で会議が午後一に変わったとの連絡が残業していた拙僧の下に届き、当日朝のひかりで神戸に行くことになったのです。テレビはどのチャンネルも炎上する神戸の街を実況放送しています。「本社へ電話したの?」と拙僧が言うと、誰かが「関西との電話はぜんぜん通じない」と答えました。大阪本社とも、神戸のソフトハウスとも全く連絡がとれないうちに時間は過ぎ、拙僧は神戸行きを諦めました。テレビのニュースは刻々と広がる甚大な被害の状況を伝えています。だんだん拙僧が行くはずだった長田区辺りが最も被害が大きいことが分かってきました。拙僧も先方の会社の近く、長田区のビジネスホテルに泊まっているはずだったのです。ほんの少し、状況が変わっていたら。。。 拙僧も神戸で震災に遭遇していたかもしれない。ビルが崩れる、その後の火災、通信や交通機関の全面ストップ。。。 たとえ生き残ったとしても、短期間であっても街中でボランティアの救援活動に駆り出されていたかもしれず、ひもじい思いや不自由な避難所暮らしをしていたかもしれません。運が悪ければ、死んでいたかもしれません。そう考えると、阪神・淡路大震災のニュースを聞く度に、妙にリアルに記憶が甦ってくるのです。幸い、打合せをするはずだった先方の会社の人々はみんな無事でした。会社の建物はぐちゃぐちゃになったそうですが、月曜日早朝ということでみんな郊外の自宅にいたとのことです。連絡がついたのは、一週間近くたってからのことでした。わずか12年前のこととはいえ、携帯電話もインターネットも誰もが使っているという状態ではなかったからです。阪神・淡路大震災で犠牲になった多くの人々のご冥福を祈って合掌 観学院称徳
2007年01月17日
コメント(4)
今年最初の鳥越落語会にお邪魔しました。第35回という歴史のある落語会で、下町のおじさん、おばさん達が多い、手作り感覚がおつな会なのです。よそ者にもやさしくわざわざ葉書でご案内までしてくれて、木戸銭なんと2000円。お得です。落語の方の我が師匠でもあらせられ学習院オチ研出身「清く、けだるく、美しく」をキャッチフレーズにする柳家喜多八殿下をメインに二席と、毎回パワーのあるゲストが出演します。今回は新作落語の三遊亭白鳥師匠。彼の若い女性ファンも詰めかけて、会場は補助席もなくなるほどの超満員でした。当然あっと驚く新作を期待していたのは拙僧だけではないはずです。前座さんの後、まずは喜多八師匠の「代わり目」。お酒の好きな師匠だけあって、酔っぱらいの亭主を気持ちよく演じていました。最近、軽い噺の品揃えを増やしている師匠ですが、これも当たりネタになりそうですね。次は白鳥師匠、黒い着物は白鳥ではなく黒鳥ですが、紋付きの紋は白鳥の白抜きですからね。何をやるのかと注目する客に向かって、今日は喜多八師匠のリクエストで何と「たちきり」をやるというのです。こんなおよそ自分に似合わない陰気な噺、東京では柳家さん喬師匠くらいしかやらないような噺をやりたくない。しかし黒門亭辺りの勉強会でネタに詰まってやってしまった情報が喜多八師匠の耳に入り、是非にと言われたのでしかたなく、しかもこれは上方噺だけど関西弁が喋れないので、自分の故郷である上越高田に場所を置き換えてやるというマクラですんなりと噺に入りました。実は拙僧はこの噺が大の苦手です。何故って日頃人前では硬派を装っているのに、この噺を聴くと必ず涙が溢れてきて、泣いてしまうからです。それをあの脳天気な新作でぶっ飛びまくる白鳥師匠がやるとは、どう考えても似合わない。上方の故桂文枝師匠の上品な大阪弁の「立ち切れ線香」はCDで今聴いても絶品ですし、昨年秋の紀伊国屋落語会で聴いたさん喬師匠のこれまた上品な江戸弁の「たちきり」も紀伊国屋ホール全体を感動の渦に巻き込んだ思い出すだに恐ろしい、凄い古典落語の大ネタなのです。それを白鳥が。。。どうなるのか。。。放蕩の若旦那が勘当される代わりに藏に押し込められるまで、親戚一同集まって議論されているお仕置きの方法を、丁稚のさだ吉に聞いて大騒ぎになるところまでは白鳥師匠らしい抱腹絶倒のパワー落語なのだが、百日後藏から出て来た若旦那が、芸者のお糸の家に飛んで行き、死んでいたことを知って悲しむ後半は本格派の古典落語で、思わず目頭が熱くなり危なく涙を流しそうになったのでした。う~うまい! 回想シーンで若旦那が雪の多い新潟から逃げようとお糸に言ったとき、彼女がつぶやく言葉「私は雪が好き。泥んこの路地でも雪が降れば真っ白になる。芸者の私も雪が降ればきれいになるかしら」が印象に残りました。「白鳥の上越高田版たちきれ」、ひょっとすると新古典の名作になるかもね。ここまで引き込まれたらトリは大変。最近軽い噺でお茶を濁すことが多かった喜多八師匠。さあ、どうする! 観客の熱い視線を浴びて、出た大ネタご存じ「居残り佐平次」。友だちと連れだって吉原の大見世で大騒ぎをしたあげく、友だちを先に帰して、一円も金がなくて払えないと居残りを決め込む、軽妙洒脱、豪快にして気の利いた佐平次を、見事に現出させた。確かにその場にいた百人近い聴衆は、佐平次という人物に時代を超えて出逢えたのです。ときどきサムライ口調が出るなど喜多八師匠らしい演出も効いていました。やあ~、古典落語って何回聴いても、上手の手にかかると面白いですねえ。師匠が好きな故志ん朝師匠の「居残り」を彷彿と思い出すような、師匠の代表作に育つ可能性を十二分に感じたのでした。いやー、とにかく本日は充実した大当たりの夜でした。幸せ幸せ、感謝感謝を実感した落語会でした。古典落語の創作者たちに感謝!合掌 観学院称徳
2007年01月16日
コメント(0)
猫って何故こんなに凛々しいの野生の美しさに知性の香りのベールをまとう視線の先には何が見えているんだろう無為自然、猫は人の理想を生きるのだろうか 博琳乎的
2007年01月16日
コメント(2)
江戸あるいは明治時代を背景とした落語や講談の古典を聴いていると、大商人と庶民との関わりを軸に展開する噺に出会います。先日秋葉寄席石丸亭で聴いた神田ひまわり師の『大岡政談五貫裁き』もそうでした。ひまわりさんは若手の女流講談師ですが、話芸のレコーディングエンジニアとして第一人者であり落語研究家の草柳さんが推薦するだけあって、歯切れもよく非常に上手いです。若い人にも常連にも聴かせるだけの力量の持ち主で、昨年秋に有望二つめの会で聴いてから二度目の機会に恵まれました。職もなくぶらぶらしていた八五郎が一念発起、担ぎの八百屋でもやろうと元手を大家さんに借りに来る。八の改心を心から喜んだ大家さんは、金を貸すのではなく町内に奉加帳を持って回れば元くらい集まる、自分も出すが最初が肝心だから金持ちのところに行くようにとアドバイスする。八は言葉通り町内一の金持ち質屋の徳力屋に行くがけんかをして額から血を流して帰ってくる。たったの一文しかくれなかったから投げ返したらキセルで殴られたという。貰えるものは何でも貰うが、出すものは息も出したくないというケチな徳力屋、何でそんなところに行ったという大家さんに、八は死んだ祖父さんが町役人をしていたとき、徳力屋の冥加金(税金)ごまかしが発覚、お取り潰しされそうになったのを取りなしたという恩があるから行ったのだという。一計を案じた大家さん、月番が大岡さまだと思い出し奉行所に訴え出るようにいう。お白砂での大岡裁き、判決は八の一方的負け、五貫(五千)文の罰金。但し職も金もない八のため、1日1文づつ、投げつけた徳力屋に返すこと。徳力屋は八の代わりに奉行所に罰金を持ってくることというものだった。喜んだ徳力屋、くさる八に、大家さんはしてやったり、毎日1文やるから心配するなと家に帰る。翌日早朝まだ暗いうちに八の家に来た大家さん「今から徳力屋に行って払ってこい」。「まだみんな寝てて悪いよ」と八、「御用を果たすのに遠慮はいらねえ」と大家さん。それから毎日八の夜討ち朝駆けが続く。徳力屋が店が開いてから持って来いと言うと、常周りの与力と岡っ引きが来て、「お裁きを何と心得る、神妙に果たせ」と窘められる。しかたなしに手代に奉行所に一文届けさせるのだが、受け取って貰えない。わけを訊くと、町役人3人同行の上、主人自らが届けろという。町役人同行には日当も弁当も必要、これが5千日も続いてはたまらないと頭を抱える主人。八の夜討ち朝駆けは続き、店中寝不足に悩まされる。八は無職なので昼は寝ているから平気のへいざだ。対して主人は毎日奉行所がよいで商売もできない、これでは身代が潰れると、番頭と相談、清水の舞台から飛び降りる気分で番頭に八あての10両を持たせ、これまでのことを詫び一括払いしてくれと頼ませる。八は大家の入れ知恵でこれを拒否、今度は主人自ら30両を持って詫びに来る。真の大岡裁き一件落着。八は充分すぎる開業資金を得たのであった。これに懲りた徳力屋、義理も人情もない、儲かるなら何をしてもいいという信条を改め、大店にふさわしい慈悲深い商売に心がけたことで、ますます繁盛、江戸でも指折りの大店になったという後日談付きでありました。あれあれ長くなってしまいましたが、今日のお奨め本は『宗教の経済思想』(保坂俊司著)です。明治以降我が国の近代化が成功したのは、江戸時代までには醸成されていた経済思想、特に神仏習合に儒教・道教も包含した日本的な宗教観に裏打ちされた経済倫理がうまく機能したためであるというのは、誰もが認識している定説です。江戸時代前期の禅者であり日本人の職業倫理形成に大きな役割を果たしたとされる鈴木正三の職業倫理思想は、自らの仕事に社会的な義務観以上の価値観を与え、人間形成の道と職業を通して世間に貢献していると考える勤労観であり、「勤勉、節約、簡素な生活をもって宗教的な義務である職業労働に励むべし」というピューリタン思想とも共通性をみることができるものです。正三は、農業や職人など生産に関わる職業以外の「商業をも悟りへ至る修行の場としての聖業と位置づけ、奨励した」のです。かつて西洋では弱肉強食の自由競争はなく「神の見えざる手」によって、あるべきようにおさまるという思想が支配的でした。我が国でも「誰が見ていなくても、お天道様が見ている」「神仏がご覧になっている」という倫理観が生きていました。人々がまじめにこの言葉を口にしなくなってから久しいですね。本書は、経済行為の背景にある宗教について明らかにするものです。世界の宗教と経済思想の関係をトレースして、経済倫理欠如から生じる不祥事続きの現代経済界の問題解決の参考にしてもらいたいというのが、著者の願いだということです。現代の考察についてはもうひとつの印象が否めませんが、現代人にも無意識に働いていると思われる経済倫理について、宗教との関わりの中で理解することができました。宗教的な感覚が欠如している、無宗教とも言われる我が国においても、けっして宗教が無関係ではあり得ない。自利利他の実践を尊ぶ経済にも適用される倫理観が、我々の心の底に生き続けていることも事実でしょうからね。 『宗教の経済思想』保坂俊司著 光文社新書目次第1章 キリスト教の経済思想ビル・ゲイツとバフェットの選択/資本主義の胎動/資本主義を支えるキリスト教的倫理/アメリカ型資本主義と宗教/21世紀の経済倫理の可能性第2章 イスラームの経済思想味の素事件とイスラーム/タウヒード(聖俗一元)の経済思想/イスラーム金融の考え方/イスラームにおける労働と蓄財第3章 仏教の経済思想仏教と経済の関わり/原始仏教と商人階級/大乗仏教の経済倫理/日本の仏業即世俗業/日本型資本主義と鈴木正三第4章 日本教の経済思想日本的勤労観の核/滅私奉公的勤労観の形成/日本独自の実践倫理以前に拙僧が師匠に「お陰様で生業が忙しく修行もあまりできません」と言い訳したとき、師匠が「一所懸命に仕事をして世間のお役に立つことが仏道修行と同じこと、菩薩業だよ。坊主の修行は、寺の跡取りがどんな馬鹿息子でも一人前にするための訓練なのだ」と、おっしゃられ慰めていただいたことを思い出しました。(ここで舌を出してしまった拙僧は神仏をも畏れぬ大虚け、何と罰当たりなんでしょうか!?)世法即仏法、世俗業即仏業、生行即菩薩道!合掌 勧学院称徳
2007年01月14日
コメント(0)
まったりチーズのような上海蟹を味わいながら、美味しい甕入り紹興酒を流し込む。至福の瞬間。新年会を二次会まで楽しんで帰宅。PCの電源を入れて、メールを見ると、びっくりメールが来ていました。私のサラリーマン時代の上司で副社長だった松田さんからのご無沙汰メールです。それだけでは驚かないのですが、読んでびっくり。いやー、スゴイ転身です。な、な、な、ななーんと、漫才コンビでプロデビューしたというのです。それも、それも孫のような22歳のギャルと年齢差41歳のこてこて大阪オヤジという、ありえな~い前代未聞世代超越の異種格闘技コンビなのですね。もっとも昔から仕事より人を笑わすジョークや小咄づくりに命を賭けるようなところがあった?ので、お笑いというと、ごもっともという感じではあります。実際、お笑いのプロである年下の相方への突っ込みという役割を演じながら、台本も彼が書いているとのこと。「今はお笑いブームと言われているけれど、われわれの世代にとって今のTVやラジオのお笑いでは、面白いとも思わない。オトナにも分かるお笑いを提供するんだ」とは電話の向こう側の彼の言葉、毎日が楽しくてしょうがないという感覚が伝わってくるものでした。とにもかくにも祝!デビュー、ご両人の前途を祝して乾杯!という気持ちです。 団塊の世代の大量退職時代、彼らのセカンドステージがどうなるのか、どうするのか、注目されるところですが、このような自己実現のしかたもあるのです。活き活きライフ、63歳お笑いタレントの旅立ちに心からの祝福を、ご興味のある方は是非ともライブの応援にお出かけください!松田さん、高らかなデビュー宣言にその心意気が溢れています。「お笑いです。実践です。舞台です。 初舞台です。挑戦です。漫才です。 ももちゃん22歳と組んで、二人合せて「松田桃太郎」です。 63歳のジジイの馬鹿さを笑っていただければうれしいです。」以下、メールから引用します***伊藤君、松田です。おめでとうございます。お笑いです。実践です。舞台です。初舞台です。挑戦です。漫才です。ももちゃん22歳と組んで、二人合せて「松田桃太郎」です。L-コード#34365をローソンのチケットATMに入力すれば前売り券、1100円です。63歳のジジイの馬鹿さを笑っていただければうれしいです。草々・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松田 征士 (まつだ まさし)昭和十八年(1943)12月3日生まれ。昭和十八年生まれの会=18会(いちはちかい)http://18kai.jugem.jp/ほぼ毎日更新しています。覗いてみてください。コメントを投稿ください。(株)東京文久堂・顧問一部一冊から貴方の本が出版できます。上の「18会」ブログから「ぷりパブ」をクリックしてください。シニア大楽・セミナー講師「笑いが呼ぶ健康」、「じょーくの世界」など。frontierworksライブ【青空笑店】2007年1月22日 開店!> フロンティアワークス ライブ『青空笑店』が、 2007年1月22日 新宿Fu-で開店します。>> 「常識を覆して、お笑いライブそのものの歴史が変わる!」かも知れない!!>> 青空笑店が扱うのは"笑品"です。>> 毎回、多彩で豊富な"笑品"をご用意してお待ちしておりますので>> 駄菓子屋さんに来るような感覚で遊びに来ちゃって下さい!>>> 2007年01月22日(月)> 新宿ミニホールFu-> 18:00 開場> 18:30 開店>>> ■チケット information■> 青空笑店 開店ライブ> 12月22日チケット販売開始>> 前売 \ 1100> 当日 \ 1300>> Lコード : 34365>> ローソンチケット> 0570-084-003 ( 要 Lコード)> 0570-000-407 (オペレーター)> *全国のローソン店内に設置してあるLoppiでも購入できます。>> 《目玉笑品》> 磁石(MC)> 流れ星> 三拍子> オキシジェン> どきどきキャンプ> ツーライス>> 《定番笑品》 > コレキヨ> もりももこ> じゃけん> クロマメ> こんたく。> ランボルニーギ
2007年01月13日
コメント(1)
新年早々、師匠から厳しいお言葉をいただく。十善戒を基本とせよ!なななんと、日頃の不行跡を見透かされているような。。。常に慈悲深くあるためには、十善戒を実践して生きなければならないのですね。分かっちゃいるけど。。。以下、2006年06月06日掲載記事からの引用です。戒めとは、集団や社会における守らねばならない規範、律(=法律)とは異なります。官憲や他人に監視され、守らされるというものではありません。自らが守ろう、守り通そうと誓って実践する生活目標です。だからこそ、大切なのです。お釈迦様の四つの戒(四重戒)一、不殺生 (むやみに生きものを殺してはならない) 原語ではアヒムサー=無障害、 他の生きものに対して無害であること。二、不偸盗 (ふちゅうとう:他人のものを盗んではならない)三、不邪淫 (よこしまな関係をもってはならない)四、不妄語 (嘘をついてはならない)ほんとは、これに不飲酒(お酒を飲んではいけない)があり、五戒となりますが、お酒が美味しく百薬の長とされた中国、日本では、飲み過ぎてはいけないとなって外れ、(拙僧は命拾い?)僧侶の十善戒では、この四つに以下の六つが加えられています。五、不綺語 (不毛な論争をしてはならない)六、不悪口 (悪口を言ってはならない)七、不両舌 (二枚舌を使ってはならない)八、不慳貪 (貪欲になってはならない)九、不瞋恚 (怒りや嫉みをもってはならない)十、不邪見 (間違った見解、世界観を持ってはならない)どれも簡単で分かりやすい戒めではありますが、生活の中で守り通すのはやはり難しく、これを守ることそのものが修行とされる由縁です。戒を守ることによって、自然と善い生活習慣が身に付き、心身が健康になり、人に慕われる徳が備わってくるということです。心身が健康であってこそ、正しい精神集中(瞑想、禅定)の修行ができます。心身が健康であれば、慈悲の心は自然と芽生えてくるのです。戒めを保ち心身が健やかでありますように!先達の仏弟子たちも言い残しています。「この世では、戒めをこそよく学ぶべきである。 戒めを実行するならば、あらゆる幸運をもたらすからである。 戒めを守る人は、自ら制するために、多くの友を得る。 しかるに戒めを犯す人は、悪事を行って、多くの友から疎んぜられる。 戒めは、もろもろの善いことがらの始まりであり、 根底であり、根源であり、あらゆる徳のうちの主要なものである。 それゆえに、戒めを浄くせよ。 戒めこそ、この世で最上のものである。また智慧ある人は最高である。 ~人間と神々とのあいだでは、戒めと智慧とを具えているならば、 勝利を得るのであるから。」 (『仏弟子の告白 テーラガーター』608,610,612,619 中村元訳 岩波文庫)ありがたい、ありがたい 合掌 観学院称徳
2007年01月11日
コメント(1)
応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)まさに住するところなくして その心を生ずべし (『金剛経』より)何かにとらわれとどこおった状態で、仏の心を生むことはできない。何ものにもとらわれることなく、その心を生むようにしなさい。道を求める人は、何かにとらわれた状態で修行や実践をしても意味がない。何故なら、とらわれたままでは邪心が生じることはあっても、けっして真心が生じることがないからです。その修行・実践の一つであるお布施も同様です。何ものかにとらわれた布施には、功徳を積む効果も、願いを叶える効果も期待できません。本来の布施は、対価を求めてはならないのです。何故なら布施は、価値の交換ではなく、一方的な純粋贈与でなければならないという条件があるからです。贈与と交換は、価値が人と人の間を移動するという意味では同じですが決定的に違うものであるとは、誰にでも分かることだと思います。お経を読んでもらう代わりに払うとか、戒名をもらったから払うとかというのは意味的に言えば労働や知的作業に対する対価であって、お布施ではありません。何かを望んだり、やってもらうためにお金を出すのであれば、それは布施という行にはならないのです。愛する人にプレゼントをあげる場合も同じですよ。これが純粋贈与であるためには見返りを求めてはいけません。下心があってはいくら高価なものをあげても、ほんとうのプレゼントにはならないのです。凡夫の極みを生きてきた拙僧のような者は、懺悔しなければなりませんね。そう、何事かを願い、その願いが成就されるということを前提にお布施をしてもほんとは意味がないのですよ。それは宝くじを買ったのと同じこと。願いが叶えられる、叶えられないは別として、単なる価値交換にすぎないからです。それではお寺も神社も成り立たない? 初詣のお賽銭を返せって?現世利益のエセ宗教は別として、真の世界宗教といえるものは、洋の東西、宗教宗派を問わず、お布施や寄付が意味のある善なる行為とされるためには、自分が汗して働いて得た清らかな富の一部を、感謝の気持ちを込めてお裾分けすることであり、けっして見返りを求めてはならないということなのです。キリスト教でも、下心のある偽善的行為は徳を積むことにならないのですよ。法にかなって得た富を与えつつ、心清浄ならしめる。厳しいって? そう、厳しいのです。 お布施は本来、修行なのですから。合掌 観学院称徳
2007年01月09日
コメント(1)
笑、笑う、笑む人は、うれしいとき、おかしいとき、蕾がほころび花が咲くようにその気持ちが顔に出る 人は笑うことで嫌なことや苦しいこと、疲れや邪気を吹き飛ばし沈んだ気持ちをリセットする笑うことで免疫力を上げ、病を癒す 今年はラジオカフェという 新しい会社をベースに、笑いと話芸を究明したい
2007年01月07日
コメント(3)
今年初めての不思議な写真。1月4日、小金井公園でカイト(洋凧)の写真を撮っていたらお釈迦様が説法をしていた霊鷲山が現れました。科学的には解明できる偶然でありましょうがこの偶然の出逢いを縁あるものとして、今年も大切にしたいと思っています。合掌九拝観学院称徳
2007年01月06日
コメント(5)
仏とは、心が清らかなことであり、仏法とは、心の輝きであり、仏道とは、何にも遮られないで、《いのち》が透明に光ることだ。仏というは心清浄是なり。法というは心光明これなり。道というは処々無碍浄光是なり。 中国唐代末期の高僧 臨済義玄禅師(生年不詳~867年没)の言葉 出典:『前衛仏教論~〈いのち〉の宗教への復活』 町田宗鳳著 筑摩書房 ちくま新書 2004年12月「<いのち>が透明に光る」とは、何といい言葉だろう。悪口雑言の毒舌で有名だった中国禅臨済宗の祖が、思わず自然体で語った言葉のようですが、仏教が死者のための宗教ではなく、生きるための〈いのち〉の宗教であることを、やさしく、しかし明確に言い切っているところが清々しく、新米の仏弟子には力強い応援歌のように聞こえてしまう。今年も力まず自然体で頑張ろうね。 (2005年01月12日掲載記事の再掲) 合掌九拝 観学院称徳
2007年01月04日
コメント(0)
清々しくお正月を迎えられたことと御慶び申し上げます。「あらゆるものは、心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。 もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。 ~影がその体から離れることがないように。」 (『ダンマパダ 法句経』第2偈より)幸せはあなたの心から発して、あなたの行動によって、あなた自身がつくるものです。幸せは人と人との間に生じるものであり、あなたは、あなたの感じる幸せを人に振り向ける(回向する)ことによってより大きな幸せを実感することができるでしょう。本年を、そしてあなたの人生を幸多きものとするために!あなたが幸せでありますように!あなたの好きな人々が幸せでありますように!あなたの嫌いな人々も幸せでありますように!あなたを嫌っている人々も幸せでありますように!一切衆生が幸せでありますように!合掌 観学院称徳
2007年01月01日
コメント(3)
全17件 (17件中 1-17件目)
1