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時を知る桜の智慧に仏あり博琳乎
2007年03月31日
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拙僧の子供の頃、歌にTVに映画にと大スターだった植木等さん(80歳)が27日に亡くなりました。長い間大いに楽しませていただき、元気ももらいました。ジャズもうまいコミックバンド、ハナ肇とクレージーキャッツでは、「スーダラ節」など数々のヒット曲を、昨年先に逝った元東京都知事青島幸男・作詞とのコンビで世に放ちました。「分かっちゃいるけど止められない」は人生の真理だ。拙僧ばかりでなく、当時スーダラ節を歌わなかった子供はいなかったと断言できるほどでした。「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・・」の「ニッポン無責任時代」などの映画シリーズにも主演し、その主題歌を大ヒットさせた。所ジョージとタモリとサンマと哀川 翔をたして4で割らないような、豪快な大スターだったのです。戦後のTV創世記、「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」のギャグで一世を風靡。無責任男のイメージで高度経済成長時代の元気と悲哀を代表するような俳優でした。晩年は渋い演技もされていました。当時の子供だけでなく大人達にも元気と笑いを振りまき、大きな影響を与えました。いまだに曲のいくつかは歌うことができそうです。多くの歌が映画やTVのシーンが瞼に浮かんできます。「ホダラカ行進曲」を「ホンダラカホイホイ」と歌いながら観音様の浄土、補陀洛山に行ったのでしょうね。明るさと元気の象徴、植木等さんに感謝です。ほんとにありがとうございました!合掌 観学院称徳
2007年03月28日
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「人が心に思うことを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。」(『仏教聖典 四十二章経』132頁9行より 仏教伝道協会刊)ふつう人の心は利己的なものです。自分の立場を明らかにし、自分を守ろうとします。それは生きていく上で大切な働きではあるのですが、気をつけていないと度が過ぎるようになります。他人のちょっとした言葉に、奢り昂ぶりや過剰な自己防衛作用によって敏感に反応するのです。心から発する心ない言葉。言ってしまってから後悔することがありますが、自分では気付かないこともあるようです。しかし風に向かって唾を吐けば自分が汚れるように、他人への思いやりのない利己的な言葉は自分自身を汚していきます。十善戒にも不悪口(ふあっく)とあります。「言葉を凶器として用い、人を傷つけることなかれ、言葉は本来ほとけなり。高き声にて罵ること、悪しき言葉を使うこと、悪しき話を広めること、みほとけの深く悲しまれる行いなり。」常に心したい言葉です。合掌 観学院称徳
2007年03月27日
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昨日はお江戸日本橋亭に第152回本牧落語五人会を聴きに行きました。今回は常連の吉窓さんがお休みと言うことで、前座さんを入れての五人会。入り口の受付に林家正雀さんが立っていたのに驚かされました。大好きな噺家さんの一人だというのに、とっさのことに言葉が出ずに残念無念。ご挨拶のひとつもできない。最近、自分の言動に柔軟性が欠けてきたような気がする。脳機能不全? 特に言語中枢がおかしい。目の前のことでも遠くの出来事のように感じてしまう。最近お騒がせのタミフルではないが、鼻炎用抗アレルギー剤のフマル酸何タラの副作用なのか、それとも・・・まあ楽しい落語会、大いに笑おうと思いました。が~、笑えない。前座さんのせいなのか、感覚がおかしいのか。と、次に先ほどの林家正雀師匠が登場。一昨年の落語協会主催の新作台本募集で入選した本田久作・作「あんまの夢」を聴かせてくれました。早口な師匠のセリフにようやく脳細胞が覚醒してきました。目の不自由なあんまがご贔屓の旦那に夢の話をするのですが、これが馬鹿にリアルに旦那の心に突き刺さるという噺です。新作なので詳しくは書けませんが、これは中々面白い。あんまが夢に出て来たという旦那の奥さんやお妾さんを演じて聞かせるという設定と、それを聞いている旦那がだんだん夢ながら焦って行く姿がどうにも可笑しい。芸達者で女役が上手な正雀師匠には良く似合う噺だと思いました。三人目は金原亭馬生師匠の「花見の仇討ち」。先代の馬生師匠が好きだった拙僧には、未だにしっくりこないのではありますが、実に丹念に、しかし軽やかにやってくれました。花見の座興に仇討ちを仕組んだ長屋の暇人たちが、仇役の浪人と仇討ちの巡礼の兄弟に化けて、飛鳥山の大きな桜の木の下で名のりをあげて斬り合いを始める。目論見通り見物人が十重二十重と集まり大成功と思いきや、稽古通りに行かない。止め役が途中で酒を飲んで寝込んでしまい一向に来ない。斬り合いに疲れてきてなれ合いになり、見物人からブーイングが起こったところに、本物の侍が助太刀に参加して仇も討つ側も共に逃げ回って大騒ぎという、実にどうも賑やかな噺です。終わりに大柄な馬生師匠が、ほろ酔いの花見踊りを踊ってくれる大サービス。先代は先代として今の馬生師匠も好きになりました。聞かず嫌いはいけませんね。もっとも拙僧が子供の頃、小益だった師匠はTVにもよく出てくる人気者で、その頃から面白かったのだと思い出しました。お仲入りの後は我らが柳家小ゑん師匠。そうとう昔のお嬢様方から何と「小ゑんちゃん!」と声がかかる。小ゑんさんはよく聞く拙僧ではありますが、小ゑんちゃんたあ初めて聞いた。客層がディープなシニアが多いせいか、いつもの開口一番、加齢臭云々を言わずに、まだ東京に焼け跡の空き地が残っていて子供の遊び場になっていたこと、缶蹴りや秘密のアジト小屋を作ったこと、よそのおじさんを勝手に犯人にして尾行する少年探偵団ごっこなど、子供の頃の遊びの話や、近所に売りに来た押し売りや行商の話などで盛り上がる。お客が付いてきたところで、「いかけ屋」に自然に入りました。創作落語の時のちょっと不自然な入り方とは違う古典落語風。マクラで小ゑん風味を出しつつ、ネタはきっちり。流石に素晴らしい。この噺は、上方噺で桂春団治代々の得意ネタですが、東京では亡くなった桂小南さんが関西弁でよくやっていました。子供たちの攻撃に晒されたうなぎ屋に「針はない」と執拗に繰り返し言わせるところは、ちょっと小南さんの影響があるような気がしました。トリは鈴々舎馬桜師匠の「寝床」。お坊さんのような頭の馬桜さん。そつなく面白い寝床をやってくれました。寝床はもともと上方のお店噺ですが、昔からすっかり江戸前の噺にもなって多くの噺家が演じています。明治時代の娘義太夫が大人気だった頃の噺など、マクラで義太夫がどういうものか、それを習う当時の粋な町人たちの姿を彷彿とさせて本題に入ります。義太夫にはまっている大店の主人(家主)が長屋の住人と店の奉公人にご馳走して義太夫を聞かせる会を開こうするが、「料理は美味いが、義太夫は拙い。それどころか命に関わる」と、みんな出席できない理由を作って来ない。人のいい神様みたいな旦那が義太夫となると悪魔になるという。番頭も仕事にかこつけて帰って来ない。奥さんまで子供を連れて里に帰ってしまう。怒った旦那は、そんな不人情な者たちにお店を貸してはおけないから出て行け、奉公人には暇を出すと言い出す。それでは困るとみんな渋々出て来て、旦那の義太夫が聞きたくて用を人に任せて出て来たと世辞を言う。気を良くした旦那は、それではたっぷり聞かせましょうとなる。皆まともに聞いたら大変と、耳栓をして酒を飲み神経を麻痺させてしまおうとするのだが・・・ 馬桜さんの寝床は旦那より長屋の住人の方により重心を置いていました。うまくて味のある吉窓師匠の噺を聴けなかったのはたいへん残念ですが、たっぷりと落語を満喫した土曜の午後、贅沢な時間を過ごすことができました。
2007年03月25日
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光の眩しい季節になってきました。風に誘われて山野を散策したくなります。山野を歩くと、葉を落とした梢の先に、芽を出した足下の雑草の中にも、仏の姿を見ることができます。仏様は、我々の宇宙に遍く存在するのです。素直な子供の心を取り戻すことが出来る人にはきっとたくさん現れて来て、あなたに微笑みかけることでしょう。その時はもう、あなたの心も仏となっているのです。「姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。さとりを見る者がまことに仏を見る。 世に優れた仏の姿を見て、仏を見たというならば、それは無知の眼の過ちである。仏のまことの相は、世の人には見ることもできない。どんなにすぐれた描写力によっても仏を知ることはできないし、どんな言葉によっても仏の相は言い尽くすことはできない。 まことの相とはいっても、実は相あるものは仏ではない。仏には相がない。しかも、また、思いのままにすばらしい相を示す。 だから、明らかに見て、しかもその相にとらわれないなら、この人は自在の力を得て仏を見たのである。」(『仏教聖典 華厳経 第五 如来光明覚品』25頁1行より 仏教伝道協会刊)あなたに仏の光が現れますように合掌 観学院称徳
2007年03月24日
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朝の陽に気持ちよく咲き桜花ふたつ三つ早咲き競う桜花誇らしく凛と咲きたる桜花博琳乎
2007年03月22日
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枯れ枝に春を告げる花を咲かせるサンシュユ(山茱萸)。別名ハルコガネバナ(春黄金花)とも呼ばれるミズキ科の花です。秋には珊瑚のような実をつけるためアキサンゴ(秋珊瑚)とも名付けられています。同じミズキ科のハナミズキの実と似ています。中国から薬用植物として渡来し、その実からの抽出液は冷え性や生理不順、不妊症、更年期障害、強壮などに効果があるとか。殺伐とした枯れ木にいち早く花を淡い色の花をつけて、人の心を和ませてくれます。梅も咲いたし、昨日は例年より早くソメイヨシノも咲きだしました。いよいよ春本番ですね。3月21日は、弘法大師空海さんの命日。本当は旧暦の承和2年3月21日(835年4月22日)に亡くなられました。しかし空海さんは今でも生きていると多くの人が信じています。お遍路さんは必ず同行二人、お大師様といつも一緒に歩いているのですから。南無大師遍照金剛合掌 観学院称徳
2007年03月21日
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経済界や政界にむき出しの欲望を晒して恥じることがなかったホリエモン。証券取引法違反の罪で東京地裁は、ライブドア前社長の堀江貴文被告に懲役2年6カ月の実刑判決を言い渡しました。彼が資本主義の行き着いた株式時価総額至上主義という大義の前に、法の一線を越えたと認定したのです。マスコミはこれを断罪と報道し、経済界も実刑判決に驚きの声を上げています。もっと悪質なカネボウや西武鉄道など最近の事件と比べてのことでしょう。しかし、海外での反響は逆で2年6カ月では軽すぎるというものでした。米国では、エンロンやワールドコムなど同様の経済事件でも懲役20年以上の判決が出ているとのこと。実業家としての再起は不可能な厳しいものです。民事でも猛烈な株主訴訟に晒されて個人財産もすべて失ってしまうという社会的な制裁も受けています。ルール違反に厳しい法治国家としては当然のことなのだということです。対して日本はまだ法治国家として甘いということでしょうか。我が国では建設業界を筆頭に多くの業界で談合体質が糾弾されているにもかかわらず、いまだに摘発が絶えません。地域や業界の共存共栄とか会社の存続、利益という大義の前には法律を破っても構わないという意識がどこかに残っているのではないでしょうか。それらは一部の利益共同体の大義に過ぎず、社会正義に反するのだという視点が軽視されているのだと思います。結局は自己の利益、欲望を会社、業界、地域、国や社会の利益のためだと勝手にすり替えているに過ぎないのです。本当は、自己の地位や報酬・財産、名声という我欲を求めてのことなのです。これはホリエモンも談合に荷担する人たちも同じです。ホリエモンが断罪されるとしたら、ホリエモンを持ち上げていたマスコミや財界、政界の面々も同罪ということになります。それに乗せられて株を買った人々にも罪の一端はあるでしょう。何故なら、それもまた彼らの我欲に基づくものだからです。人々は欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えていくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身は危うく、心は悔いにさいなまれるであろう。名誉と財と色香を貪り求めることは、ちょうど、子供が刃に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすことになる。愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分のこころをほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。お釈迦様の言葉です。(『仏教聖典』仏教伝道教会刊より)愛欲とは、もろもろの欲を愛するという意味で、愛情を欲するという現代の意味とは異なります。たいまつをかかげて順風を行くときは怖いものがありません。災いは逃げて行くでしょう。しかしいったん逆風に変わったら、その火で自らの手や顔を焼くことになります。三毒に満ちている自分の心をほしいままにせず、欲のままに走らないようにするためには、時々心を落ち着けて自己を省みることです。瞑想して、高い視点から自己の心の有様を見つめることです。主観的に生きている心を、客観視することで自ずと道が見えてくるはずです。道は、答えは、あなたの心の中にあるのです。欲=悪だということはできません。良くも悪くも欲望が人間の歴史をつくり、文化や文明を発展させて来たのですから。欲望が幸福を実現する道ともなり得るのです。大乗仏教では菩薩は皆、衆生救済という大欲を抱いて、仏にならず現世において浄土(仏国土)建設に邁進します。煩悩即菩提。人が生きている限り欲が無くなることはなく、そこから生起してくる煩悩は、そのまま菩提(悟り)へ至る道となり、修行となるのです。時々は、主観的に生きている欲にまみれた心を客観視することで、善き方向へと軌道修正することを忘れずに。合掌 観学院称徳 写真は東寺の早咲きの桜です。
2007年03月18日
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zazen256さん、北海道が大好きな拙僧ですが、残念ながら北海道生まれではありません。ちびまる子ちゃんの作者さくらももこさんと同じ静岡県清水市(現在は静岡市)生まれの東京育ちです。母方の実家近くの産院で生まれました。夏休みや冬休みになると、まだ新幹線が無かった幼い頃は湘南電車で2時間以上もかかって遊びに行きました。その後父の車で行くようになりました。東名高速はその後開通したような気がします。隔世の観がありますね。母方の祖父は清水の次郎長が好きで、郷里の英雄のように言っていました。祖父の子供の頃には次郎長の子分だった人が近所に住んでいたようです。もっとも祖母は「あんなもんはタダの暴れん坊の博打打ちだ」と次郎長に会ったかような話しぶり。その頃は度々テレビドラマになっていたため拙僧も次郎長が好きになり、父は虎造の浪曲、次郎長伝を聴いていました。祖父は働き者で、全山が蜜柑色になる山や茶畑、田んぼをいくつも持っています。子だくさんで母方の兄弟は多く、それぞれ立派な家に住んでおりました。年上のいとこもたちが大歓迎してくれて、山を走り回って遊びました。叔父さんに密柑山にある小型の運送用モノレールに乗せてもらって蜜柑狩りに行くのが幼い日の拙僧にとって大冒険、何よりの大イベントでした。日本平が海に落ち込むところにある親戚の家の有名な石垣イチゴ狩りも、白いコンデンスミルクにつけた真っ赤なイチゴ色と甘酸っぱい味として記憶に残っています。大好きな清水ですが、蜜柑の木アレルギーでじんましんができるのが辛かった。思えばこの頃からアレルギー体質だったのかもしれません。祖母が庭に植えてあるアロエの葉をむいてじんましんに塗ると、冷たい感触が痒みを和らげてくれました。大きくなるに連れて蜜柑の木アレルギーは消えています。そのかわりに、やさしかった祖父が亡くなり、仲良かった叔父たちの間にお定まりの遺産争いが起き、骨肉の争いになりました。母や叔母たち女の兄弟は相続を放棄しましたが、叔父たちの争いは収まらず、残された祖母が何も言わず泣いていたのが、ふるさとに残る最後の思い出です。誰かが「子孫に美田を残さずとは本当だ。年寄りを悲しませて可哀想だ」と呟いたのが耳に残っています。その祖母もほどなく亡くなり、拙僧が清水に行くことはなくなりました。瞬く間に美しい田んぼが貸しアパートやマンションに変わり、遺物がたくさん出土して古墳であることが分かった茶畑の小山がすっかり宅地化されて行きました。どこまでも高い青空、爽やかな風、稲穂がなびく田んぼ、全山黄色く実った豊かな密柑山。。。今思えば諸行無常、子供心に感じてしまったのかもしれませんね。ふるさとは心の中、記憶の中にのみ。。。合掌 観学院称徳
2007年03月13日
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最近なにかと忙しい毎日で、1週間があっという間に過ぎ去って行きます。ブログの記事更新もできないうちに何日もたってしまっているのです。花粉症の薬の副作用で肩に浮腫ができていたのが破れ血だらけになり、薬を変えたところ、今度は効きが悪い上に気力減退、集中力欠如、猛烈な眠気という副作用が襲ってきています。そんなさ中、昨日気の重い仕事で京都に来ました。どうにか結論が出て、昨夜は仕事関係の方が出演する「京都に住まえば・・・」というトークショーを聴きました。京都生まれではない生粋の大阪人と北海道生まれの東京人が語り合う京都というイデアの世界、「観光と文化都市、千年の都、京都というイデアに生きているのが京都人だ」という対談者のひとり永江朗さんの言葉が、記憶に残っています。旅の朝はいつも清々しい気分で目覚めます。ホテルの部屋の窓からビルの間に北山方面の山が見えています。これからゆっくりと空海さんにご挨拶して東京に帰ろうと思います。
2007年03月10日
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近年、欧米諸国や我が国ではダイエットが盛んで、美人の定義もやせ形に偏っています。女性モデルやタレントさんたちの細いこと。あまりに不健康そうで若い女性への影響も大きいというので、欧米ではファッションショーに痩せすぎのモデルは出演できないことになったほどです。一方、仏様の故郷であるインドでは、伝統的に福与かな人がもてるのだそうです。仏像を見ていると、福与かな体型をしている仏様が多いのに気付きます。首には三本の襞のような皺まであります。たまたまそうなのではなく、多くの仏像がそのように造られています。そう、この首の三本の皺には意味があるのです。それは「三道」と呼ばれ、悟りに至る修行の三段階、「見」「修」「無学」を表したものだということなのです。如来とは、悟りに至った者という意味ですから、まさにこの首の三本皺は如来の証なのです。まず「見」とは、正見のこと。何ものにもとらわれることなく、ものごとのありのままの実相を正しく見ることです。裸の王様の透明の衣を偽物だと見抜いた子供の眼がこれに当たります。常識や経験などの知識やそこから生まれる先入観や偏見、私たちは常にこの邪見というフィルターを通してしか、ものごとが見られなくなっている。本質をありのままに見ることができなくなっているのです。これを打ち破りありのままに見られるようになるための修行の段階が「見」なのです。次が、「修」。「見」によって得た正しい見方によって修行することです。闇雲な修行が意味のないことは、お釈迦様が苦行を捨てて悟りを得たことでも分かります。意味が無いどころか、邪見による修行はむしろ危険なことがカルトを見れば理解していただけるはずです。そして最後の段階が「無学」。今では学が無いと読みますが、ここでは本来の意味であった学ぶべきことがもはや無くなった、つまり完全なる悟りに至ったという意味です。拙僧はと言えば、未だに最初の「見」段階を彷徨っています。 迷える衆生に悟りの光が現れますように!合掌 観学院称徳
2007年03月04日
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