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ここ数日ブログの更新を怠っています。その言い訳ということですが、耳鳴りに悩まされています。もともと左の耳にその気があるのですが、最近またまた酷くなってきました。キーンという高音がずっと続いています。耳もとでセミが鳴いているような感じです。朝晩は特に大きく鳴り響きますが、夜はこれにこのまま眠れないのではないかと思ったり、耳が聞こえなくなってこのキーンというノイズのみに支配されるのではないかという不安神経症状に襲われるわけです。もっともいつも知らないうちに眠ってしまっていて事なきを得ています。耳鼻科の先生は、聴力はさほど落ちていない。疲労やストレスとアレルギー性鼻炎によって耳と鼻をつないでいる管が詰まっているのではないか、と診断しつつも、病変によらず原因が分からないことも多いとのことです。薬は処方してもらっていますが、多少緩和されるくらいです。アレルギー性鼻炎はさておき、疲労やストレスが溜まるほど嫌なお仕事に追われているわけでもなく、気の流れでも乱れているのでしょうね。この夏休みもまたお遍路修行に出ようと思っていますが、果たして仏の声を聞くことはできるでしょうか。
2007年07月30日
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「無明に覆われた眼で見れば、世間は意味のない間違ったものとなるであろうが、 智慧をもって明らかにながめると、そのままがさとりの世界になる。 ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、 善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。 二つに分けるのは人のはからいである。 はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味を持つものとなる。」 (『仏教聖典』仏昇とう利天為母説法経より 仏教伝道協会刊)いい子・悪い子、りこう・馬鹿、金持ち・貧乏人、勝ち組・負け組、幸せ・不幸せ、正義・不正義、味方・敵、正邪、善悪、極楽・地獄、等々。。。人はとかく二つに分けたがる。その方が分かりやすいからです。決めつけ割り切れば説明も簡単、四の五の言わずに人にも伝えやすいからです。しかし、「ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、 善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。 二つに分けるのは人のはからいである。」現実は、いつでも対極にあるのではなく、その間に無数の可能性をもって存在しているのです。二つに分けるのは人の浅知恵によるものです。二進法コンピュータの思考法に慣らされてしまったのでしょうか。「はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味を持つものとなる。」このお釈迦様の智慧が素直に表現された意義を、意識の底に残しておきたいものです。二極に偏らない中道は、光を照らして見れば、さとりへと続く道なのです。それはそのまま、この世に争いのない、慈悲に溢れた、平和で清浄な浄土を創ることにもなるのです。生きとし生けるもの、ひとり一人の心の中に、平安と幸せが訪れますようにナムブッダ合掌 観学院称徳
2007年07月28日
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悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪をしらされるのをいやがる。善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。このように善人と悪人とは違っている。愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、すべての人に対して思いやりを持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。(『仏教聖典』パーリ語大蔵経増支部二ー四より 仏教伝道協会刊)善とはすべての人に思いやりを持つことであり、悪とは罪を知り、これを正そうとしないことです。人は自分が愛しいものです。ついつい自分には甘くなる。それが悪いことであると知ってはいても、止められなくなるものです。悪は悪を呼び、善は善を呼びます。悪に染まれば、その報いを必ず受けることになります。善悪を知り、常に感謝の気持ちを持って、これを表そうとすることが大切です。ナムブッダ合掌 観学院称徳
2007年07月24日
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先週の土日に講釈師、神田愛山先生の講談合宿に参加しました。合宿とはいえこちらは講談を聴いているだけ、温泉大好き人間の拙僧には鬼怒川温泉というのも魅力的でした。私以外では大の講談好きの人々で素人離れしたアマチュア講釈師もいました。愛山先生の模範演技は、創作ご当地講談 『上杉房能管領塚由来』。越後の国の守護上杉房能のお話。房能は将軍を補佐する関東管領上杉顕定の弟でありました。守護代長尾為景の反乱にあい自害(1507年8月7日)しました。これが戦国時代の始め、下克上の最初の犠牲者でありましたという、今、越後松之山温泉の小学校の脇に残っている管領塚由来の一席。あと一席は、新作歌謡?講談『修学旅行』。舟木一夫でヒットした懐メロ同名曲をモチーフにした心あたたまるお話でした。この他、アマチュア講釈師の方々への講談公開稽古を聴きました。レベルが高く上手いと思った拙僧ですが、愛山先生からの「登場人物により喋る早さを変えるとそれぞれの違いが際だつ」などといった的確なアドバイスを聞くとなるほどと思うことばかりでした。古典ばかりでなく、新作講談も楽しめて講談の多様さと芸の奥深さを実感させていただきました。そして後は、講談や落語など話芸の話で盛り上がり、美味しいお酒を飲み交わしながらご馳走をいただき、温泉に浸かるという誠に結構な一日でありました。また、拙僧の最近の課題である話芸と朗読の違いについて愛山先生にお伺いしたところ、「講談や落語などの話芸は外に向かう、伝えることを前提とした芸であり、顔を上げて観客と向き合いながら話すが、朗読は内に向かう、モノローグのようなものであるという違いがあるのではないか」と、お答えいただきました。「文字を書いていくとき人は下向きになり、内向きにならざるを得ない。それを朗読するときもまた下向きになり文字を追いながら読んでいくので、心は内向きだ」。なるほど文学、特に小説には内向きなものが多いのは確かですね。中には童話のように読み聞かせることを前提とした文学もありますし、先日も書いたように詩歌の方は本来伝えるための文学だったので、「叫ぶ詩人の会」のように若者にも伝わりやすいのだと思います。一方では現代詩の一部のように朗読を前提としない、コミュニケーションを拒絶したような内向きなものがあるのかもしれないので、作品の質だけでなく外向き内向きという分かりやすい判断基準で朗読向きの作品かどうか選択できるのではないかと思いました。話芸って奥深いですね。でも素晴らしいですね。あ~極楽極楽! 合掌 観学院称徳
2007年07月23日
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それぞれの"お菊の皿" それは、今週火曜日の夕方。小雨降る中を拙僧は中野ゼロホールへの道を急いでいた。開演15分前に楽勝で着けるはずだった。少し時間がありそうだったので、ホール近くの蕎麦屋に寄って食べた。腹八分目、落語を聴く体勢を整え15分前ちょうど、ホール玄関に到着。あれ、どうしたの?。。。 玄関が真っ暗で鍵がかかっている。あれ、小ホールではなく、別の入り口だったのかな、と思った拙僧は、財布に入れておいた前売りのチケットを見た。えっ! が、が、が、が~ん!!! なんと永田町の国立演芸場ではないか!? 小雨の道を中野駅へと急ぎ、中央線で四谷駅に向かい、タクシーで国立演芸場に駆けつけた。所要時間30分、速いぞ。演芸場の舞台では、本日出演の柳亭市馬・三遊亭白鳥・柳家喬太郎の三人が今日の演題"お菊の皿"について話していたようだった。笑いの中に入れぬまま3人が引っ込んだ。今回の企画は、古典"お菊の皿"~それは「皿屋敷」とも呼ばれる~を出演者が三者各様に演ずるというものだった。この噺、もとは上方噺「お菊の幽霊」で播州姫路城下の噺を二代目桂三木助から名人六代目圓生に伝わっているもの。怪談噺とも滑稽噺ともなっていて、夏には欠かせないネタとなっている。東京では播州を番町に置き換えて、番町皿屋敷での出来事という設定。青山鉄山という主人が奉公していたお菊の美しさに惹かれて口説くが、亭主持ちのお菊に断られ、家宝の皿を1枚隠して、盗んだだろうと散々責めたあげく、斬り殺して井戸に捨てる。怨みを残して死んだお菊の幽霊が、鉄山を狂い死にさせた上、毎夜井戸から出てきて、1枚、2枚・・・と数える。9枚の声を聞くと死んでしまうのだという。5枚、6枚で逃げれば平気だと物見高い江戸っ子が見物に出かけるという噺です。歌舞伎では陰惨な怪談が、落語では面白い滑稽噺に変身しているのだが、この夜の"お菊の皿"は皿に、否、更に荒唐無稽、摩訶不思議、前代未聞、抱腹絶倒の噺になって甦ったのだった。全身から汗が噴き出している気持ち悪さの中、一番手の白鳥師匠がいつものように白鳥の紋付きで登場。白鳥らしい新作というか偽古典"お菊の皿"。この人は真冬でも汗を流して顔を真っ赤にして熱演する。この人に粋とか洗練とかという言葉は無縁なのだが、ぜんぜん恐くない現代風解釈のお菊さんに、会場は大笑い。続く市馬師匠は、メリハリの利いた正統派古典として語り出す。が、お菊の幽霊が人気者になり、愛想を振りまくに連れだんだんおかしくなり、ついには歌を歌い出す。懐メロから「千の風になって」まで、いい声で歌う。何のことはない、本人歌が好きなだけなのだが。。。 拙僧は、真面目にやれば中堅噺家の中で、実はこの人が一番上手いのではないかと思っている。往年の志ん朝のような豊かでありながら余裕のある芸と、何より爽やかさがあることは人気者の証明、イヤミがまったくないのだ。トリは当代第一の天才にして人気者の喬太郎師匠が登場。出てくるだけで面白い。いつものように古典と新作のテイストを行きつ戻りつしながら、観衆を笑いの渦に巻き込んでいく。上手すぎて、時にはイヤミな感じがするが、後を引く。くさやの干物や芋焼酎がクセがある分旨く感じられるのと同じなのだ。自殺志願者たちが団体で登場するところなど、本来のネタにはない展開を見せるのは流石である。芸はもちろん、ストーリーテーラーとしての喬太郎は後世にも残る名人の器だと思う。まだお聴きでない方には是非聴いて欲しい噺家である。いやー、落語ってほんとうに面白いですねえ。大日本落語ファン連盟、ヒロ伊藤でした。
2007年07月21日
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ヒネッケンさん、たいへん参考になりましたので、皆さんにも紹介させていただきます。>以前、河合隼雄が安部公房と、安部氏の「カンガルー・ノート」について対談しているのを読んだことがあります。「カンガルー・ノート」は、主人公が、足からかいわれ大根が生える奇病にかかり入院するが、ある日主人公を載せたまま、ベッドが勝手に外へと走り出すといった、いわば「荒唐無稽」な話です。安部氏は、創作の過程で、ベッドの車輪の径が小さすぎて道路をうまく走らないのではないか、と心配したと話しています。河合氏が「ベッドが走るというときに、他のことは全然気にならないんだけど、車だけ気になるとか、あるところだけがすごく気になるところがあるでしょう。」と応じると、「整合性に対する要求というのは、やっぱりその人の知識が原因ですから、感覚というより知識の問題になるんでしょうね。」と答えています。>>対談後の感想で、河合氏は、「ファンタジーは細部にわたる現実感覚で補強されていないと、単なる絵空事になってしまう。」とコメントしています。ここで思い出すのが、「千と千尋の神隠し」です。例えば、千尋とハクが空から落ちる場面で、千尋が過去を思い出して感激して泣くのですが、涙が目から出るやいなや、風圧で目から引っ張りだされるようにして上方に飛ばされる、その様子がとてもリアルでした。>>水戸黄門も所詮フィクションですが、やはりある程度ディテールがしっかりしていないと、「絵空事」になってしまう。家来が上司を捕縛することも、知識として持っているかいないかが、うそ臭いと思うか、思わないかの境目ということでしょうか。でも疑問は残ります。なぜ車輪の径は気になるのに、「ベッドが自走すること」は気にならないんでしょう。なぜ水戸黄門の勧善懲悪自体は気にならないのに、部下による上司捕縛は気になるのでしょうか。>ながくなってすみません。-----仏教の中にも「一即一切」という考え方があり、一々の小さなことの中に一切を知る真実、真理があるという見方があります。華厳経では、私たち一人ひとりの中に仏さまがいて、その他の生きとし生けるものの中にも仏様がいて、山川草木にも悉く仏さまがいて、石ころ一つ、塵の中にさえも仏さまがいて、この宇宙には仏さまが遍満しているのだという教えがあります。この仏さまは東大寺大仏殿にもいらっしゃる盧遮那仏で宇宙の万物を照らす仏さまであり、大日如来とも呼ばれていて、永遠の命を持つ大宇宙に普遍の真理、法則そのものなのです。真理は細部に宿り、真実は細部に現れる。茶道や華道、能、日本画、伝統工芸などの職人仕事、すべて日本文化は細部が命であり、だからこそ世界に冠たる技術力を持つことができたのです。フィクションである物語もまたディテールを疎かにしては、人を感動させることはできないのだと、あらためて思いました。ということは、水戸黄門の制作者たちには、プロ意識が足りないのでしょう。適当にお茶を濁すような仕事は、やはり芸術家や職人の仕事とは言えないのですからね。一即一切合掌 観学院称徳
2007年07月20日
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仕事関係のブックコンシェルジュ五十川藍子さんが、東京・武蔵小山で関西の講釈師「旭堂南海(きょくどうなんかい)」さんのイベントを開催するそうです。そのド迫力、ライブで体験できますよ。拙僧も、こちとら自腹じゃ!で参加する予定です。詳しくは、以下URLの五十川さんのブログでご覧ください。http://d.hatena.ne.jp/coccola/20070626まだ、講釈(講談)を聴いたことがない方、ぜひ一度体験してみてください。とにかくすごいからっ!、とのことです。【イベント概要】・日時:8月4日(土) 14:00~16:00(開場 13:00)・場所:「ライブハウスアゲイン」 東急目黒線、南北線/都営三田線直通・武蔵小山駅東口下車 30秒品川区小山3-27-3 ペットサウンズ・ビル B1F TEL/03-5879-2251アゲインhttp://www.cafe-again.co.jp/地図はここhttp://www.cafe-again.co.jp/access.html・参加費:4000円・人数:40人限定申し込みフォームはこちらhttp://www.semimaru.biz/apply.php?sid=397あなたのご参加、お待ちしています!!!!!!!!***とのことです。なお、旭堂南海師のお話しは、ラジオデイズのサイトからストリーミング配信でもお聴きいただけます。http://www.radiodays.jp/ja/program/2007/05/6.html以上、ヒロ伊藤の業務連絡でした。
2007年07月19日
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祝日の昨夜、久しぶりにTBSの『水戸黄門』を見ました。若返った内藤剛志の風車の弥七効果で視聴率が上がっているということで、期待しておりました。赤い風車が飛んで控えめな演技の内藤弥七は、それなりの存在感を示していました。さて、ここからが本題です。間違ってるぞ!水戸黄門。悪代官と悪商人が結託して、藩御用達の鑑札を人の良い商人から奪おうとするのを、間一髪、水戸黄門と助さん、角さん、相変わらずお若い由美かおるのお銀改めおえん姉さんが救うのです。さんざん悪代官やその家来たち、悪商人を懲らしめた後、葵の御紋の印籠が出て、へへーと悪人どもが恐れ入るのです。いつものように予定調和の勧善懲悪ストーリーは、マンネリを超えて普遍的であり、大好きな拙僧ではあります。しかも寄る年波で、それがどんなに分かり切った展開であっても涙なしには見られない。困ったものです。ただ、拙僧がええっと思ったのは、黄門様「追って、藩侯より厳しき沙汰があるものと心得よ!」と言った後の助さんのセリフです。恐れ入って土下座している悪人たちに向かって、助さん「この者どもを引っ立てい!」と、あろうことか、それまで黄門様ご一行を斬り殺そうとしていた悪代官の家来どもが自分の主人である悪代官と悪商人を引っ立てどこかへ行ってしまったのです。牢屋へぶち込むということでしょうが、これはどう考えてもおかしい、変だ、間違っているんじゃないのということです。このシナリオ作家も監督も、きっと若い人なのでしょう。あるいは歴史を学んだことのない人なのでしょうね。封建制社会というのは主従関係というある種の契約社会であって、この場合、悪い奴とはいえ自分の主人である代官を家来が引っ立てることなど有り得ないのです。勿論、これはフィクションでありどのように表現しようが制作者の勝手かもしれません。しかし時代劇には時代考証というものがあって最低限守らねばならないことはあると思います。黄門様が諸国を漫遊し悪を懲らしめ善を助けたというのは、江戸時代以来の講釈師が見てきたような嘘を言ったのではありますが、時代認識や当時の社会のあり方まで勝手に改竄してはならないのです。阿倍政権が沖縄戦における住民の集団自決に対する軍の関与を教科書審議会を通じて検閲で否定し、削除させたようなものです。我が国の近世における封建制度の特徴は、主従関係と藩内の完全自治にあります。完全な地方分権であり、江戸幕府はいわば連邦制の政府だったのです。天下の副将軍といえども他藩の領内における司法権はないのです。だいたい副将軍というのも正式な官職というより名誉職的なものです。だからこそ「追って、藩侯より厳しき沙汰があるものと心得よ!」となるのですが、さて、その悪人どもをどうするかが問題です。(1)悪人どもに自ら牢屋に入らせる(2)藩主か留守なら城代家老に連絡して、捕り方を差し向けてもらう(3)悪人が「もはやこれまで」と切腹する(4)悪人が「もはやこれまで」と黄門様に斬りかかり、返り討ちにされる(5)極めて希に悪人が改心して黄門様が許すと、まあ以前に拙僧がよく見ていた頃の水戸黄門ならばそうなったのでした。長寿の人気番組だからこそ、きちっと極めてもらわないと困るのです。勧善懲悪時代劇ファンの戯言でした。
2007年07月17日
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話芸と朗読の違いについての議論が心に残って離れない。7月初旬に開催されたブックフェアでの話しである。併催されているデジタルパブリッシングフェアに社外取締役をしている顧問先の会社が出展しているのと、ラジオデイズのためのデジタルコンテンツビジネスに関する情報収集を目的としてブックフェアに行った。金曜日の午後、東京ビックサイトは人で溢れていた。いつものことながら広大な会場に圧倒され、さてどこから回ろうかとたたずんでいたとき、声を掛けられた。東京電機大出版局の植村さんであった。なんと局長になったという。しかもeBookのフォーマット標準化の国際委員会の議長になってしまったということだった。彼は、もう20年以上も前から忘れた頃に再会して、その都度面白い情報をもらっているという私の情報源である。10年ほど前私が会社を辞めたとき、今は大阪市立大大学院の教授をしている友人と彼との推薦で出版学会に入れてもらった。デジタル出版部会に誘われ、よく出席していた。実は二次会の飲み会がインセンティブだった。月日は過ぎ去ってみんな偉くなる歳になり、自分だけ取り残されていく感慨にひたる。出家の身には世間の名利は関係ないのだが。。。 最近は年に1回くらいしか参加しない幽霊会員なので植村さんに声を掛けられ、展示会は後回しにしてお茶しましょうとなったのである。近況を話すうちに、私がコンサルとは別に音声コンテンツ制作とダウンロード配信のための会社をやっているという話から、議論が展開し始めた。「ビジネスとして考えると朗読ものが売れるかどうか心配している。落語や講談のような話芸には人に噺を伝える力があるけど、朗読にはそういう力が弱いみたいだ」と私。この日の前日、私はある有名女優の朗読の会を聴きに行っていた。たいへん上手いと思うのだが、一向にその内容が記憶に残らない。一言一言は確かに聞こえており、頭に入ってくるのだが、一向に定着しないのだ。これは、私がラジオデイズの企画に関わってから参考にしようと聴いた大手出版社やレコード会社などから発売されている多くの有名俳優による朗読CDの試聴後感と同じものであった。植村さんは「それは口承と、文字による文学の違いだ」と言う。落語、講談、浪曲や昔話は、そのルーツからして琵琶法師の平家物語のような口承であり口誦の芸だったというのである。口承というのは、口移しに伝える口伝ということであり、口誦というのは声を出して読むことである。なるほど、言われてみればその通りだ。落語や講談は今は速記本などで文字でも読めるが、演者が語るのを聴衆が聴くのが本来の形だ。対して朗読は文字として表現された文章を読み上げるというものだが、例外はある。詩は和歌が本来そうであるように声で読み上げて行くものである。歌を詠むとは、和歌を創ることであると同時に読み上げる、詠(うた)うことであった。近・現代詩でも北原白秋や萩原朔太郎などの自作朗読の録音盤が残っている。宮沢賢治や中原中也、今も元気な谷川俊太郎の詩を好む人が多いのも、読み上げて心地よいからである。それに対して、多くのすばらしい現代詩が極めて少数の読者しか得られないのは、それらの詩が朗読という本来機能を喪失しているからではないかと思う。詩より一段低く見られがちな歌詞が、音楽の力もあるとはいえ非常に多くの人の心を掴むことができるのも、文字で読むのではなく口誦が原則だからだろうと思う。文学が上等で、大衆文学や世俗的な口承、歌が下等であるなどという黴臭い教養主義には私はくみしない。口承・口誦のメリットは、音声として発せられるコンテント(内容)そのものに感情や万感の思いなどのコンテクスト(暗黙知)を込められること。それを補完する演者の表情やしぐさなどがあることである。しかしSPレコードの昔から現在のCDやダウンロードのデジタルコンテンツまで落語や講談、浪曲の録音が聞きやすいのは、音声そのものに充分な表現力と伝達力が備わっているということの証左である。植村さんの話を機縁として私は日頃ハッキリしない脳細胞が覚醒して来る爽快感を味わった。「人類の歴史からしても、文字発明以降の文学の歴史より、それ以前の口承文学の歴史の方がずっとずっと長いことは明らかであり、文字による文学が口承文学より上等だと思われるようになったのはさらに新しいことなのではないか」と、彼は言った。そういえば、仏教のお経も口承されていた経典が先にあり、文字化されたのはお釈迦様の入滅後2,3百年を経た後にパーリ語という当時の北インドの口語によるものであった。今でもスリランカやタイなど南伝の上座部仏教では、口承が重んじられているという。原始仏典には、お釈迦様の言葉が正しく伝えられないことに心配した弟子たちが、教えを文字にしたいと申し出たことが記されている。しかもバラモン出身の弟子たちはこれを神の言語であるサンスクリット(梵語)という文語で記すように薦めたという。しかしお釈迦様は、これを退けられたのである。文字に記されたものは真実を伝えがたいというのが、その理由であった。相手がいて相手に応じて教え導くのがお釈迦様の対機説法なのだから当然であろう。お釈迦様は最後まで口語で説法していたということである。その声を聴くだけで、多くの人が悟ることができたという。たとえ極悪非道の殺人鬼でも彼の声を聴いて懺悔し仏弟子になったのである。後に入滅後500年近く過ぎて(西暦紀元前後)から大乗仏典が創られたが、それらは初めからサンスクリット語で書かれることになった。お釈迦様は永遠のブッダとして神格化されたのである。同様なことはキリスト教にも当てはまる。新約聖書が編纂されたのは、直弟子の使徒たちが死に絶えた頃のことであるし、それはギリシア語で書かれ後にローマ帝国の公用語だったラテン語に翻訳されてカトリックの正典となったのだが、中世にはそれは神父のみが理解できるものとなっていた。人々は神父の口を通して神の言葉を聞いたのである。一般民衆が直接聖書を自分たちの言葉で読めるようになったのは、ルネサンス以降グーテンベルグの活版印刷による聖書の普及によるのである。文芸評論家であり思想家の亀井勝一郎は『大和古寺風物誌』中宮寺、微笑についての中で、「何事でも自由に表現できると思うのは、人間の儚い空想であろう。(中略) 表現の困惑について、芸の至難について、言葉のもどかしさについて、私は悲しいほど思い迷うのである。 何事でも自由に表現出来るか。たとえば信仰や恋愛のように、人間の最も微妙な心に属することを、我々は滞りなくあらわすことが出来るか。はっきり言ってしまうことが可能か。たとい言いきっても、なお万感の思いが残るのが信仰や恋愛の実相であろう。我々はここで表現の不自由を感ぜざるをえないのだ。人間の限界と云ってもいい。これを感じたところに、祈りの微妙な世界が始まる。人間の言説絶えたところに、神仏の世界がある。」亀井がここで言葉といい、表現といっているのは、彼が文筆を生業としていた以上、文字であり文章であることは明らかである。彼が悲しいほど思い迷うのは万感の思いを文字に託して表現することの難しさを言っているのだが、その他人の著作を自分のものとして表現しようという朗読というものの、気の遠くなるような困難さを感じざるを得ない。朗読は文字で書かれたものを読み上げるということ。口誦ということでは同じでもそれは文字からどのくらいの情報を読み取れるかという読解力と、どのくらい伝えられるかという表現力に個人差があり、それをまた聞き取るのにも個人差があるということなのだ。つまり、行間にあるコンテントの広がり~コンテクストが、伝わりにくいのだ。もともと相当なハンデを負っているのである。昨今の落語ブームにもかかわらず、それは多くの地域や世代の認知を得るには至っておらず、私は落語や講談などのコンテンツビジネスは充分にニッチであると思っている。しかし朗読は話芸以上にニッチな分野なのか。ビジネスとしての可能性は暗いのか?前述のeBook標準化の国際委員会で年に2回海外に行くことになったという植村さん、朗読のビジネス化に疑問符を感じている私に良いことを教えてくれた。米国ではオーディオブックの市場が1千億を超えているという。車社会で車での移動時間が長く、キャリアアップに熱心な人々は自己啓発や教養の充実に熱心だからということだ。これはラジオデイズ企画中から私も知っていた。Apple社のiTunes Music Storeのオーディオブックは結構売れているというのがブックフェアでの噂だったが、我が国のCDブックなど音声コンテンツの市場は10億円程度だと言われている。一方ヨーロッパでは、我が国の琵琶法師のような吟遊詩人の伝統があり、特に冬の長いロシアでは、娯楽の少なかった昔から家族団欒で朗読レコードを聴く習慣があって膨大なコンテンツが出回っているということだ。我が国にももともと長い歴史がある話芸や口承文学があったのだ。それは近代以降も絶えることなく、SPレコードやラジオの時代まで続いていたのである。寄席も数は減ったが存続していた。驚くべきことにもうすぐ52歳!?になってしまう私はTV時代の申し子だが、それでも子供の頃、落語や講談・浪曲は耳に馴染んでいたように思う。与太郎や清水の次郎長、吉良の仁吉を知らない友達は誰もいなかったのである。今思えば高度成長期、TVが巨大なマスメディアとなって視聴率至上主義に陥り、放送時間が女子供?(失礼)に媚びへつらう低俗な時間潰し番組に埋められるに及んで、それらはいつしかテレビから姿を消していた。話芸を知らない若い制作者に言わせれば、一人の演者しか出ない、それもいい歳したおっさんや爺さんばかりの地味な画面では持たないのだという。差別や公序良俗に反する言動、ストーリーが厳しくチェックされる放送コードが強化されるに及んで、我が国伝統の話芸が風前の灯火となってしまった。落語や漫才はまだましな方で、講談・浪曲は天然記念物トキのような絶滅危惧種になっている。復活できるかどうか、日本の文化の多様性と多重階層性を保つことができるかどうか今が正念場なのだ。あれ、朗読が飛んじゃったって? そうでしたね。朗読は今、まったくビジネスにはなっていない。しかし朗読教室や読み聞かせ運動など、その人口は20万人とも30万人とも推定されている。少なくとも朗読コンテンツを聴いてくれるかもしれないベースはありそうである。現在は、自分で朗読したいと思って習っている人が多いのかもしれない。あるいは聴覚障害者向けのボランティアの朗読者として活躍している方も多いのだろう。しかし落語や講談、浪曲では好きになればなるほど、プロの技を聴けば聴くほど恐れ入って自分でやろうなどとは思わなくなる。それほど芸の力は眩しく偉大なのである。朗読の場合は敷居が低い分だけ、誰でもできそうに思う。だからこそ、お金を払ってまで聴きたいということになりにくい。落語やかつての講談、浪曲がそうだったように、ここはやはり眩しいスターの存在・育成が不可欠ということか。当面は、質の良いコンテンツを制作して世に問うことしかないのだ。もちろん着々仕込み中ではあるのだが。。。ラジオデイズに、乞うご期待!音声コンテンツビジネスの憂鬱ヒロ伊藤でした。
2007年07月16日
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「妄想による諸々の行いによって、智慧の眼が清浄とならず、愚かにして無知なる見解を増やし、諸々の仏を拝見することができないでいる。 もし邪なる心と真実の法との両方を見て、真実と真実でないとを諦(あき)らかに了(さと)ったならば、清浄なる仏を拝見できるであろう。」 (『和訳 華厳経』 菩薩雲集妙勝殿上説偈品より 鎌田茂雄編著)禅宗では座禅をしますが、このもとは原始仏教から密教を通じて広く行なわれてきた観想です。瞑想と言ってもいいでしょう。座禅は心の中を空っぽにする無の境地を目指しますが、色々と妄想が湧いてきて中々難しいものです。そこで、人が死に屍が腐り朽ち果てていくのを思い浮かべて無常を知るもの、仏の象徴である月輪を思い浮かべるもの、万物のみなもとである梵字の「阿(あ)」字を思い浮かべるものなど、心中に何かある具体的なものを思い浮かべて観ることが観想です。その一つが観仏であり、仏の御姿を一心に思い浮かべることです。本来の念仏もまた仏を心に念じることで同じことなのです。心を落ち着けて座禅しながら、妄想による諸々の行いを滅して、智慧の眼を清浄なものとし、愚かにして無知なる見解を増やすことなく、諸々の仏を拝見することができるでしょう。ただ、妄想による諸々の行いを滅して無になることに執着してはなりません。振り払おうと藻掻けばもがくほど湧いてくるのが妄想です。お釈迦様がブッダと成られる時、瞑想の中で心中の悪魔たちや神々と対話したように、邪なる心と真実の法との両方を見て、真実と真実でないとを諦(あき)らかに了(さと)ったならば、清浄なる仏を拝見できるでしょう。観想の効果には即効性があります。心が落ち着き、反省できて、しかも自分は何か大きなものに守られているのだと信じることができるのです。イエス様も瞑想によって真理を悟り神の言葉として人々に語りました。宗教宗派を問わず、その功徳は実証されています。1日、いや1週間に1回でも15分でもいいから実行してみてください。安心は幸せを呼び寄せる力があるのですから。南無仏 合掌 観学院称徳
2007年07月15日
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さて、ラジオデイズ落語会も第3回目。金曜日夜のお楽しみ。今月は、ゆる~い話しぶりとその風貌から自由闊達な草書体のような抱腹絶倒の笑いを呼び起こす平成の名人!?瀧川鯉昇師匠と、一点一画を丹念に描く楷書のような渋みの利いた江戸前の語り口が魅力の入船亭扇辰師匠の古典落語対決。開口一番は、二ツ目立川志の吉。人気者立川志の輔一番弟子で落語界きってのイケメン。我が子をプールに連れて行ったマクラから自然に入ったネタはご存じ「桃太郎」。なかなか寝ようとしない子を寝かしつけようとお伽話を始めたオヤジに意味を問う子。無学な親をやり込める子の言い草が大人びていて、親子の関係が逆転する。お伽話をもとにした前座噺の定番も志の吉さんが演じると独特な面白さを醸し出します。 さて次は瀧川鯉昇師匠が登場。いつものようにゆるーい感じのマクラの後、ネタは「千早振る」。八五郎、娘に百人一首の業平の歌「千早振る 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くぐるとは」の意味を聞かれたと、ご隠居に教わりに来る。そのご隠居の歌の解説がぶっ飛んでいる。千早とは吉原の花魁でその千早に振られたのが竜田川という相撲取りだと言うのだ。迷解説はどんでん返しのクライマックスへとなだれこむ。無理な話を強引に運ぼうとするご隠居が面白く、師匠そのものがご隠居と化す。さして面白くない噺も師匠にかかれば爆笑噺に変身するから不思議です。続いて入船亭扇辰師匠が高座へ。ネタは「ねずみ」。渋いねえ。名人左甚五郎ものだ。客引きの子供に声を掛けられ潰れそうな旅籠ねずみ屋に泊まった甚五郎。主人の爺さんは、もとは向かいの立派な虎屋の主人だったが、腰が立たなくなって店を番頭に乗っ取られたことを知る。気の毒に思った甚五郎は、ねずみの置物を彫って置いていく。名人の彫ったねずみが動くというので評判になり大繁盛。これを妬む虎屋は虎の置物を彫らせて対抗しようとするが。。。江戸時代から明治にかけて庶民に名工と呼ばれた職人がいかに尊敬されていたかが分かる。実に粋でカッコイイのだ。講談・落語には多くの名人・名工の噺が残っています。ものづくり日本復活には、こういう噺を子供たちに聴かせればいいのですよ。プロジェクトXより人間の本質を突いてくるからね。お仲入りの後も、扇辰師匠で珍しい「茄子娘」をやってくれました。拙僧と違って五戒を保つ和尚さん、ある日綺麗な若い娘が部屋の片隅にいるのに気づく。聞くと茄子の娘だと言う。夢かうつつか。雷が鳴って娘は和尚の胸に飛び込む。翌朝目が覚めた和尚は、夢にもそのような妄想を抱くとは修行が足りんと、雲水となって修行の旅に出る。五年の月日がたち懐かしい寺に帰ってきた和尚の目に入ってきたものは小さな子供だった。。。バレ噺(エッチな噺)も扇辰師匠がやると下品にならない。最近少なくなった粋な噺家ですよ。トリは鯉昇師匠。ネタは、発端が「湯屋番」のようだったが、勘当された若旦那が暇つぶしに居候先の船宿の二階の窓から川面を行き交う船の数を数えて上り下りほぼ同数だったという話が出て来て「船徳」に決定。おかみさんにせっつかれた主人が、若旦那にそろそろ働いたらどうかと窘める。するてえと若旦那、船頭になると言い出す。いい加減な若旦那がいい加減に習ってにわか船頭となるが。。。こういう船頭の船に乗る客は災難。鯉昇師匠の演じる口だけ達者だがいい加減でナルシストで子供じみた若旦那は秀逸だ。立ったり座ったり船を漕いだりと高座の上の熱演に、観客はオチへ向かって怒濤のような大爆笑!いやー古典落語でも演者次第で新鮮な笑いに転換します。だから落語は、噺なんや。口に新しい話題と笑いが命。会場に目立った若者たちもみんな大笑い。聞かず嫌いは人生の大損でっせ! ほなな!(江戸前の落語で何故関西弁なのだろう?)
2007年07月14日
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悪魔の領土は欲であり、闇であり、争いであり、剣であり、血であり、戦いである。そねみ、ねたみ、憎しみ、欺き、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。いまそこに、智慧が輝き、慈悲が潤い、信仰の根が張り、歓喜の花が開き、悪魔の領土は、一瞬にして仏の国となる。(『仏教聖典』『パーリ語大蔵経 相応部経典』より 仏教伝道協会刊)前述の聖典の言葉に触れるとき、この世はまさに悪魔に支配されているようなものだと思います。日々のニュースや身の回りの出来事は、悪魔という人の心の所業なのです。そう悪魔は人の心が創り出し、育てあげるものです。そして自分が創った悪魔に支配されてしまうのです。しかし安心してください。心が創り出したものは、心で変えることができるのです。「いまそこに、智慧が輝き、慈悲が潤い、信仰の根が張り、歓喜の花が開き、悪魔の領土は、一瞬にして仏の国となる。」あなたの心の中にある仏性を自覚しなさい。そして、ひとり一人の心に仏の光を照らしなさい。この世は一瞬にして仏の国、汚れなき浄土となるのです。合掌 観学院称徳
2007年07月11日
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「よいことをするためには、ためらってはならない。 善をなすのに躊躇(ちゅうちょ)していたら、 心は悪を楽しむことになる。」 (『原訳「法句経」ダンマパダ』第116偈 A・スマナサーラ訳)何故だか分からないけれど、若い頃には悪に憧れる。悪を楽しみと感じてしまう。それが悪いことと知りながら。。。一方、善いことは為しがたい。他人の目が気になり恥ずかしいから。。。人の心は、ひねくれ者。特に子供の心には、悪魔が取り憑きやすい。大人の世界を、大人の言動を、子供は鋭く観察して、悪の楽しみを覚えてしまう。明日の世界を心の荒廃から救うために、よいことをするためには、ためらってはならない。あるがままに慈しみ、憐れむ心を育てるために。合掌 観学院称徳
2007年07月10日
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第3回になるオリンパスシンクる寄席は2週連続の開催となり、林家しん平師匠と春風亭栄助さんが登場!しました。栄助さんは、アメリカ帰りの噺家で、英語落語も演じる国際派? その特異なキャラクターで人気があり、二ツ目とは思えぬ実力の持ち主です。最初のネタは「怪談はなしベタ」。学生時代に誰もが経験している合宿や林間学校、修学旅行などの夜、同部屋の友達と話した怪談話。話が上手い奴ばかりとは限らない。さんざんもったいをつけてつまらない話をする、怪談というテーマを忘れて勝手に話すなど、恐くもおもしろくもない話が続くのだが、そういう不器用な奴の話こそが栄助さんの力で笑いを呼ぶネタに変身するから不思議です。もうひとつは「エンタのジョー」。引退後のタレント転身を目論むあしたのジョーが最終戦に臨みます。セコンドの丹下段平との会話が、声優の藤岡重慶そっくり?で笑わせてくれます。会場全体がくりかえし技で強引に笑いに引き込まれ大爆笑。上方落語家のような力強さは、東京では貴重ですね。さて、しん平師匠のひとつ目は新作落語の十八番「仮面ライダーのゆうつ」。憂鬱ではなく「ゆうつ」です。かつて子供達のヒーローだった仮面ライダーも、今は並み居る後輩達に仕事を奪われ失業中。正義の味方という気持ちは昔と全く変わらないのだが、どうにも世の中と噛み合わない。敵のショッカーたちが皆更生しているのに、気持ちとは裏腹に最後は警官隊に取り囲まれていく。中高年に共通な憂鬱な気持ちを仮面ライダーという一時代のヒーローが代弁している。トリネタは「鬼の面」。上方噺を題材に、しん平師匠が古典落語のような珠玉の作品に育て上げた噺です。口減らしで子守奉公に出された少女、道具屋の店先で見つけた鼻の欠けたおかめの面を母親の顔にそっくりともらってくる。夜毎、引き出しに入れたおかめの面に辛いこと悲しいことを語りかけ涙を流している。ある日いたずら心を起こした番頭が鬼の面にすり替える。母親に何かあったに違いないと家に向かう少女の行くえには。。。「落語には少女を主人公にした噺がないのでやりたかった」と師匠、表現力の細やかさと弱い者に対する優しいまなざしが、この噺を聴き応えのある後味の良い作品にしているのだと思いました。若い頃、リーゼントの細身でブイブイ言わしていたしん平師匠もカッコよく歳をとり、いい感じの噺家になりました。いやほんまに落語って新作も古典も、おもしろいですね。 7月13日:ラジオデイズ落語会 (第3回)-お申込み開始!日 時:2007年7月13日(金) 出 演:瀧川鯉昇、入船亭扇辰、立川志の吉開 演:19:00 (開場:18:30) 木戸銭:2,500円 (税込) 場 所:Live Cafe Again(武蔵小山)ラジオデイズ落語会 (第3回)、ご予約はここをクリックし、お申込みフォームにて。残席わずかです。以上、業務連絡でした。
2007年07月08日
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長崎広島への米国の原爆投下を「しょうがない」と発言した久間防衛相が辞任しました。首相の更迭ではありません。首相は擁護したのです。いやはやお粗末な安倍首相とその内閣。野党ならずとも任命責任を問いたいのです。昨年10月発足以来3人目の閣僚交代(うちひとりは自殺)となりました。首相選任時の論功行賞内閣の膿が参院選を前にして一気に噴出した形です。昨日まで謝罪はしても辞任要求を「野党が勝手に言っていること、言わしておけばいい」と悪びれることなく語っていた久間大臣も、与党内からの突き上げや長崎市長直々の抗議にあって、あっけなく辞任に追い込まれた形です。カッコ悪い! 社会保険庁職員一同のボーナス一部返上同様、選挙対策ミエミエですね。安倍首相が何故久間大臣を守ろうとしたかと言えば、それは首相自身が「しょうがない」と思っているからに他なりません。その証拠に先日の民主党小澤代表との討論で、首相は久間発言を遺憾だとしながらも更迭の必要なしとした上で、小澤代表の米国に原爆投下について謝罪要求すべきとの発言に対し、米国の核の傘の下で守ってもらっている以上、それは有り得ないことと発言していました。小澤代表は「真の日米パートナーシップ実現のため言うべきことは言うべきだ。ドイツですら自国への無差別爆撃について米国の謝罪を取り付けている」と迫りましたが、国内にはネオナショナリストでタカ派首相も、米国にはまったくの弱腰。最近米国議会では韓国朝鮮ロビーの働きかけで、首相自身が再燃させた従軍慰安婦問題での非難決議が通っているにもかかわらずです。慰安婦問題も最悪だけど、非戦闘員を何十万人も惨殺し、生き残った人々にもいまだに苦しみを与えている広島長崎への原爆投下や日本全土の無差別爆撃もまた明らかな国際法違反であり、人道上けっして許されない行為です。そう言えば安倍首相は、沖縄戦における住民自決に対する軍の関与を証拠無しとして否定し削除命令を出した右傾化した教科書検定審議会の見解を支持しています。証拠無しどころか生き残りの語り部が多数訴え続けているにもかかわらずです。ハッキリ言って民主党小澤代表は嫌いです。しかし表面的にはリベラルさを装いながら根拠希薄な美しい国だの自主憲法制定だのと、ネオナショナリストを自認する安倍さんはもっと嫌いです。ほんとのナショナリストの面汚しでしかない。衆議院での圧倒多数をいいことに強行採決をくり返す。内弁慶にも限度がある。国民を馬鹿にするのもいい加減にしろと言いたいのです。来る参議院選において、有権者各位の賢明なる判断を期待するものです。
2007年07月03日
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心は画家のようなものであり、種々の五陰(ごおん)を描き、一切の世界の中にありとあらゆるものを造り出す。心のように仏も同じであり、仏のように衆生もまた同じである。心と仏と衆生との三に区別はない。諸々の仏はすべては心より生じたということを明らかに知っている。もしよくこのように解(さと)ったならば、この人は真の仏に見(まみ)えることができるであろう。 (『和訳 華厳経』 夜摩天宮菩薩説偈品より 鎌田茂雄 編著)あらゆる事象は心が感じ取り、自己の記憶にあるものをベースにして再構成し、造り出したものです。華厳経はこのような唯心論をとります。従って、仏というものもまた、心が造り出すのだと説いています。この立場に立てば、一切衆生悉有仏性ということは、誰でも心の中に仏を造り出すことができるということであり、山川草木悉皆仏性(あるいは成仏)ということは、大自然の山や川、一木一草に至るまで、心はあらゆる所に仏を見ることができるのだということになります。何と素晴らしい考え方でしょう。人は心の持ちようで仏にもなれば鬼畜にもなれる。この世を仏さまの溢れた仏国土、すばらしい浄土や天国にすることもできれば、邪見に囚われ悩み苦しみに苛まれる地獄にすることもできるのです。すべては心が造り出す。後は決心あるのみ。菩提心を起こして、この世を悩み苦しみのない理想の世界とすること。そのためにはまずできることから身近なところで、救いを求めている人に慈悲の光を照らしてあげなさい。あなたの周囲を浄土にできれば、あなたの悩み苦しみも消えているはずです。悩み苦しみもまた心が造り出すものだから。笑顔の溢れる世界には、福楽がついて来るでしょう。南無毘盧舎那仏合掌 観学院称徳
2007年07月01日
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