応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)
まさに住するところなくして その心を生ずべし
(『金剛経』より)
何かにとらわれとどこおった状態で、仏の心を生むことはできない。何ものにもとらわれることなく、その心を生むようにしなさい。
何故なら、とらわれたままでは邪心が生じることはあっても、
けっして真心が生じることがないからです。
その修行・実践の一つであるお布施も同様です。
何ものかにとらわれた布施には、功徳を積む効果も、願いを叶える効果も期待できません。
本来の布施は、対価を求めてはならないのです。
何故なら布施は、価値の交換ではなく、
一方的な純粋贈与でなければならないという条件があるからです。
贈与と交換は、価値が人と人の間を移動するという意味では同じですが
決定的に違うものであるとは、誰にでも分かることだと思います。
お経を読んでもらう代わりに払うとか、戒名をもらったから払うとかというのは
意味的に言えば労働や知的作業に対する対価であって、お布施ではありません。
何かを望んだり、やってもらうためにお金を出すのであれば、それは布施という行にはならないのです。
愛する人にプレゼントをあげる場合も同じですよ。
これが純粋贈与であるためには見返りを求めてはいけません。
下心があってはいくら高価なものをあげても、ほんとうのプレゼントにはならないのです。
凡夫の極みを生きてきた拙僧のような者は、懺悔しなければなりませんね。
そう、何事かを願い、その願いが成就されるということを前提にお布施をしても
ほんとは意味がないのですよ。それは宝くじを買ったのと同じこと。
願いが叶えられる、叶えられないは別として、単なる価値交換にすぎないからです。
それではお寺も神社も成り立たない? 初詣のお賽銭を返せって?
現世利益のエセ宗教は別として、真の世界宗教といえるものは、
洋の東西、宗教宗派を問わず、
お布施や寄付が意味のある善なる行為とされるためには、
自分が汗して働いて得た清らかな富の一部を、感謝の気持ちを込めてお裾分けすることであり、
けっして見返りを求めてはならないということなのです。
キリスト教でも、下心のある偽善的行為は徳を積むことにならないのですよ。
法にかなって得た富を与えつつ、心清浄ならしめる。
厳しいって? そう、厳しいのです。 お布施は本来、修行なのですから。
合掌 観学院称徳
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